All Chapters of 『昨夜、夫を殺しました。なのに警察は「ご主人は河川敷で殺されました」と言った』―死体の消えた寝室と、十二分遅れた時計―: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話 殺したはずの夫

第1話 殺したはずの夫 真山詩織は、昨夜、自分の夫を殺した。 その事実だけは、朝になっても変わっていないはずだった。 午前六時四十八分。 リビングの壁時計を見上げた詩織は、十二分遅れている長針に気づき、眉を寄せた。 実際の時刻は七時ちょうどだった。 スマートフォンの表示と、炊飯器の時計がそう告げている。 壁時計だけが遅れている。 昨夜、夫の貴之が最後にその時計を見たときも、確かに十二分ずれていた。「また時計が狂ってるじゃないか。お前はこういうところが本当に駄目なんだよ」 そう言っていた。 死ぬ三十分ほど前のことだ。 詩織はダイニングテーブルの前に立ったまま、冷えた指先を握った。 直す必要はない。 どうせ今日、警察が来る。 夫が死んでいると自分から通報すれば、この家は調べられることになる。壁時計が十二分遅れていることなど、誰も気に留めないかもしれないし、気に留めたところで何の意味もない。 昨夜の計画に穴はない。 少なくとも、詩織はそう思っていた。 貴之は昨夜十一時すぎ、いつものように帰宅した。 玄関に入るなり、廊下に置かれていた宅配便の箱を見て舌打ちした。「何度言えば分かる? こういうものを目につくところに置くなって言ってるだろ」「届いたばかりだったから」「言い訳するなよ。俺が帰る前に片づける時間くらいあっただろ」 声を荒らげるわけではない。 貴之はいつも静かだった。 怒鳴らないからこそ逃げ場がなかった。 何かを注意するとき、彼は必ず理屈をつけた。詩織が悪い理由を一つずつ並べ、それに反論すると、さらに別の根拠を重ねた。 最後には、詩織自身が自分の判断を疑うようになる。 結婚して四年。 友人との付き合いは減った。 仕事も辞めた。 服を買うにも、化粧品を買うにも、説明が必要になった。「俺は管理してるだけだよ。君が無駄遣いしないように」 貴之はそう言って笑った。 詩織はずっと、その笑顔が嫌いだった。 昨夜、彼女はいつもと同じように夕食を温め、食後にコーヒーを淹れた。 貴之はソファに座り、ノートパソコンを膝に載せたまま飲んだ。 苦いと言った。 詩織は、新しい豆だからかもしれない、と答えた。 それから十八分後。 貴之は胸元を押さえた。「……おい」 最初は訴えるような声だった。 次に、何かを疑
last updateLast Updated : 2026-10-03
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第2話 死体が消えた朝

第2話 死体が消えた朝 真山詩織は、空になったベッドの前で、自分が昨夜何をしたのかを最初から思い返した。 記憶を疑わなければならないほど酒を飲んではいない。睡眠薬も使っていない。貴之が帰宅した時刻も、コーヒーを出したときの表情も、床へ崩れ落ちた際にテーブルの脚へ肩をぶつけた鈍い音も覚えている。 そして何より、彼をここまで運んだときの重さを、両腕がまだ覚えていた。 寝室の床に膝をつきかけた詩織は、ベッドの端へ手を置いて身体を支えた。シーツには人が横たわっていた跡が残っている。右側だけが深く沈み、掛け布団は足元へ寄せられていた。 昨夜、自分はこんな乱し方をしていない。 貴之を仰向けに寝かせ、胸元まで布団をかけた。朝になって夫の異変に気づいた妻を演じるつもりだったから、寝具にもできるだけ触れないようにしていた。 それなのに枕は斜めになり、掛け布団の片側が床へ垂れている。 誰かが動いた跡だった。 詩織は唇を閉じたまま、鼻からゆっくり息を吸った。寝室には昨夜と同じ柔軟剤の匂いが残っている。腐臭など当然ない。死んでから数時間しか経っていなかったのだから、それ自体は不思議ではなかった。 だが、人間そのものがいない。 窓へ近づいた。鍵はかかっていた。ベランダへ出る掃き出し窓にも異常はない。ここはマンションの七階で、外から人間が侵入して死体だけを運び出すなど考えにくかった。 玄関から運び出されたのなら。 詩織は寝室を出た。 廊下を戻りながら、昨夜の自分の動きを頭の中でなぞる。貴之を寝室へ運んだあと、リビングへ戻り、床を拭いた。コーヒーカップを洗い、食器棚へ戻した。それから着替えて、午前二時過ぎまでソファで横になっていた。 眠れたという感覚はなかった。 それでも一時間か二時間ほど、意識が途切れていた可能性はある。 もし、その間に誰かが入ったのなら。 そこまで考え、詩織は自分で否定した。 玄関の鍵は内側からかかっていた。 チェーンまではかけていなかったが、貴之以外の合鍵を持っている人間はいない。少なくとも詩織の知る限りでは。 知る限り。 その言葉が妙に引っかかった。 結婚して四年になるのに、貴之について自分がどれほど知っていたのか、急に自信がなくなった。 仕事の話を尋ねれば「君に説明しても分からない」と言われた。交友関係について聞けば「夫
last updateLast Updated : 2026-10-03
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第3話 十二分後の目撃者

第3話 十二分後の目撃者 詩織は、玄関の向こうに立つ女をすぐには家へ入れなかった。 インターホンの画面越しでは、女の表情は細部まで読み取れない。けれど、こちらを騙そうとしている人間の落ち着きとは違う種類の怯えがあるように見えた。何度も背後を振り返り、エレベーターホールのほうを気にしている。「お名前を聞いてもいいですか」 詩織が尋ねると、女は一瞬ためらってから答えた。『七〇三号室の柚木です。柚木由香里。たぶん、何度かエレベーターで一緒になったことがあります』 七〇三号室。 詩織たちの部屋は七〇六号室だった。 名前に覚えはなかったが、顔にはわずかな見覚えがある。ゴミ出しの時間に廊下ですれ違ったことがあったような気がした。「警察には、そのことを話しましたか」 由香里の表情が硬くなった。『まだです』「どうしてですか」『だから、それを説明したくて来たんです。ここで話すのは……ちょっと』 詩織は返事をしなかった。 夫が死んだ朝に、見知らぬ隣人を自宅へ入れる。 普通なら避けるべきだ。 だが普通ではないことが、昨夜から何度も起きている。 寝室に置いたはずの夫が消え、四キロ離れた河川敷で刺されて見つかり、二十歳の女子大生が自首し、そのうえ今度は、夫が深夜に知らない男と一緒に家を出たという目撃者まで現れた。 詩織は玄関の鍵を一つだけ外し、ドアを細く開けた。「すみません。少しだけ待ってください」「ええ、もちろん」 由香里は無理に入ろうとはしなかった。 その反応を確かめてから、詩織はチェーンも外した。 由香里は室内へ入り、玄関で靴を脱いだところで足を止めた。下駄箱のほうを見たように思えたが、すぐに目を伏せる。「朝から本当にすみません。こんな日に来るなんて非常識だって分かってるんですけど、私も何をどうしたらいいのか分からなくて」「警察が来たことは知っているんですか」「見えました。廊下から」 詩織は由香里をリビングへ通した。 ダイニングテーブルの上には、外したままの壁時計が置いてある。 由香里はそれを見ると、少し不思議そうな顔をした。「時計、壊れたんですか」「少し遅れていて」「そうなんですね」 それだけだった。 十二分。 その数字を、詩織は口にしなかった。 由香里にはソファを勧め、自分は向かいの椅子へ座った。コーヒーを
last updateLast Updated : 2026-10-03
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第4話 玲奈、午前零時十二分

第4話 玲奈、午前零時十二分 紙片に書かれた「玲奈 00:12」という文字を見つめながら、詩織は、その名前を今朝初めて聞いたという自分の認識が崩れていくのを感じていた。 正確には、詩織自身は初めて聞いた。だが貴之は知っていた。それも、わざわざ時刻と並べて書き残す程度には、昨夜会う予定のある相手として。 如月玲奈。 二十歳の女子大生。 今朝五時すぎに警察署へ出頭し、河川敷で貴之を刺したと供述している女。 その玲奈の名前の横に、午前零時十二分。 詩織が貴之の呼吸が止まったと思ったのは午前零時十四分だった。 わずか二分前である。 紙を持つ指先が冷えていく。 貴之は零時十二分に玲奈と何をする予定だったのか。電話なのか、待ち合わせなのか。それとも、その時刻そのものに別の意味があるのか。 さらに、その一行下には、『予定変更なら十二分ずらす』 とある。 壁時計の遅れと、数字まで一致していた。 偶然と考えるには出来すぎている。 詩織は紙片をダイニングテーブルへ置き、スマートフォンで表と裏を撮影した。証拠を隠すつもりなら、こんなものは処分するべきなのかもしれない。けれど捨てた瞬間、自分は二度とその内容が偶然だったのか確かめられなくなる。 それに、警察が家を調べれば、遅かれ早かれ見つかる可能性がある。 問題は、いつ見つかるかだった。 今すぐ渡せば、当然こう聞かれる。 なぜ夫の私物を調べたのか。 なぜ玲奈の名前を見て驚いたのか。 なぜ零時十二分という時刻を気にするのか。 その質問のどこかで、昨夜の自分へつながる。 詩織は紙片を元の集合写真に挟み、寝室の引き出しへ戻した。位置も、向きも、できる限り元どおりにする。 その動作を終えたあとで、自嘲したくなった。 もう貴之は帰ってこない。 引き出しを勝手に開けたと責める人間もいない。 それでも詩織の指は、写真の角を以前あったと思われる位置へきちんと揃えていた。 四年という時間は、夫が死んだからといって一晩では消えないらしい。 午前九時四十分。 身支度を整えた詩織は家を出た。 エレベーターへ向かう途中、七〇三号室の前を通ったが、柚木由香里の気配はなかった。 警察へ行けば、由香里の証言について話すべきなのか。 詩織はまだ決められなかった。 由香里自身が警察に話すと言っている。なら
last updateLast Updated : 2026-10-12
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第5話 死んだはずの夫を連れ出した男

第5話 死んだはずの夫を連れ出した男 木島から届いた三通目のメッセージを、詩織は県警本部の玄関前で何度読み返したか分からなかった。『昨夜、ご主人が死んでいなかった理由を説明できます』 意味を取り違える余地はほとんどなかった。 貴之が昨夜、自宅で一度倒れたことを、木島は知っている。 それだけではない。「死んでいなかった」という言い方は、誰かが貴之を死んだと思ったことまで前提にしている。 その誰かは、自分しかいない。 詩織はすぐには返信しなかった。警察署の敷地内で、警察に隠したい相手と連絡を取るという行為そのものが、誰かに見られているような錯覚を生んだ。 だが、無視するという選択肢もなかった。 木島が何を知っているのか分からないまま草壁に先を越されれば、詩織は自分の犯罪について説明する機会さえ失う。『どこで話しますか』 それだけを送った。 返事は一分もしないうちに来た。『駅東口のホテル一階にある喫茶店。十一時半。人目のある場所のほうが、奥様も安心でしょう』 文章は丁寧だった。 その丁寧さが、かえって気味が悪い。 さらに木島は、『一人で来てください。ただし、危険なことをするつもりはありません』 と続けた。 危険なことをする人間ほど、そのような前置きをするのではないかと思ったが、詩織はそれを書き返さなかった。     * 指定されたホテルは県警本部から電車で二駅だった。 十一時二十七分、詩織が一階の喫茶店へ入ると、木島はすでに一番奥の席に座っていた。 写真で見たより痩せている。 三十九歳と聞けば納得できる年齢だが、目の下には浅い隈があり、髪にも少し白いものが混じっていた。濃紺のジャケットに灰色のシャツという服装はきちんとしているのに、襟元だけがわずかに乱れている。 由香里が指した男と同じだった。 木島は詩織を見つけると立ち上がった。「真山さんで
last updateLast Updated : 2026-10-13
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第6話 壁時計の中の目

木島の問いに、詩織はすぐには答えなかった。「昨夜、あの部屋で貴之に何を飲ませたんですか」 その言葉だけが、静かな喫茶店の中で妙に近く聞こえる。 ここで否定することは簡単だった。画像に写っているのはコーヒーカップと自分の手だけで、左手に何を持っているかまでは判別できない。木島が持っているものが一枚の静止画だけなら、それだけで殺人を証明できるはずもない。 問題は、一枚だけなのかどうかだった。「まず、その画像をどこで手に入れたのか説明してください」 詩織が言うと、木島はわずかに眉を上げた。「否定しないんですね」「何を持っていたかも分からない写真を見せられて、何を否定すればいいんですか」「そういう返し方をする人だとは思いませんでした」「私のことを知っているような言い方をするのはやめてください。主人から何を聞いていたとしても、それは主人が見せたかった私です」 木島は返事をせず、しばらく詩織を見ていた。 その沈黙が、貴之のものとは違うことに詩織は気づいた。貴之は沈黙によって相手を不安にさせ、先に余計なことを喋らせる男だった。木島はむしろ、自分が何を言えば損をするか計算しているように見えた。「分かりました。順番に話します」 木島はスマートフォンを伏せてテーブルへ置いた。「貴之と私は、仕事上、人に見られたくない資料を共有することがありました。顧客企業の内部情報や、契約前の調査資料です。普通のクラウドサービスには置きたくないものもあったので、私の会社で管理している暗号化サーバーに専用領域を作っていた」「そこへ、あの画像が?」「昨夜、午前零時二十一分から二十六分にかけて、貴之のアカウントから大量のファイルが同期されました」「大量って、どのくらいですか」「画像と短い動画を合わせて百件以上。ただし全部を見たわけじゃありません。今朝、貴之が死亡したと知ってから確認したら、その中に奥様の部屋らしい映像があった」「なぜ私の家だと分かったんです?」「家具の話は聞いていましたし、何より本人が映っていた」「主人が?」「何度か
last updateLast Updated : 2026-10-14
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第7話 刑事に隠したこと

草壁の言葉を聞いた瞬間、詩織が最初に意識したのは、自分の顔だった。 驚いた顔をしなければならない。 そう考えた時点で、すでに自然な反応ではなかった。「刺し傷だけが……死因ではない?」 自分の声を耳で確認しながら、詩織はゆっくり問い返した。「まだ確定ではありません」 草壁は慎重に言葉を選んだ。「司法解剖は終わっていますが、薬毒物については詳しい検査が必要です。ただ、ご主人の死亡状況と遺体の所見に、刺創だけでは説明しにくい点がある。現段階で言えるのはそこまでです」「玲奈さんが言っている、吐き気や痙攣ですか」「それもあります」「では、ほかにも?」 草壁は答えなかった。 質問を重ねすぎたかもしれない。 夫を突然殺された妻なら、死因を知りたがるのは当然だ。けれど詩織の場合、知りたい理由が違う。 毒が検出されるのか。 どの程度残っているのか。 死亡時刻との関係を、警察はどこまで突き止められるのか。 昨夜まで半年かけて準備した殺人計画が、別の殺人事件と重なったことで、かえって細部まで調べられることになった。 皮肉というには笑えなかった。「ご主人には持病がありましたか」 草壁が尋ねた。「ありません」「普段、服用していた薬は?」「頭痛薬や胃薬をたまに飲む程度です。処方薬を常用してはいませんでした」「サプリメントは?」「いくつか飲んでいました。ビタミン剤だったと思います。ただ、私は中身まで確認していません」「睡眠薬や精神安定剤は?」「少なくとも、私は知りません」 嘘ではない。 そのことが、今はありがたかった。 草壁の隣では、若い刑事が分解された壁時計を写真に収めていた。黒い点に定規を添え、裏側の基板も角度を変えながら撮影している。 やがて刑事が言った。「草壁さん、これ、記録媒体も入ってます」「抜くなよ。そのまま鑑識に回そう」「はい」 詩織は
last updateLast Updated : 2026-10-15
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第8話 玲奈が守っている人

木島から届いた最後の一文を、詩織はしばらく消せなかった。『そして彼女が守ろうとしているのは、自分ではありません』 書斎は静かだった。 机の上には貴之の黒い手帳が開かれ、その中央に「如月玲奈」の文字がある。数行下には「母」と書かれている。 詩織は画面へ指を置いた。『誰を守っているんですか』 送信してから一分ほど待った。 既読はついたが、返事は来ない。 さらに二分。 木島は、こちらが焦れて電話をかけてくるのを待っているのかもしれない。 そう思ったところで、着信音が鳴った。 木島だった。 詩織はすぐには出なかった。 三回鳴ったところで通話ボタンを押す。「もしもし」『手帳を見つけたんですね』 挨拶もなかった。「質問に答えてください。玲奈さんは誰を守っているんですか」『その前に、手帳をどこまで読みました?』「私のページも、あなたのページも」 電話の向こうで、木島が小さく息を吐いた。『読むなと言ったでしょう』「あなたに命令される理由はありません」『命令したつもりはありません。ただ、あの手帳に書かれた内容は、事実と貴之の解釈が混ざっている。読めば全部本当だと思ってしまう』「主人が私をどう扱っていたかについては、十分本当でした」 返事が途切れた。 詩織は黒い手帳へ目を落とした。『退職 完了』『交友 残二』『母への連絡 月一以下』『位置情報 継続』『映像 継続』 読み直すほど、そこにある冷たさが増していく。「あなたは、この手帳の存在を知っていたんですね」『知っていました。ただし中身を全部見たわけじゃない』「木島隆臣のページに『七年前』『事故』『原本は別』とあります。何のことですか」 また沈黙した。 今度は長かった。『電話では話したくない』「では警察で話してください」『それができるなら、とっくにしています』
last updateLast Updated : 2026-10-16
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第9話 死体は自分で歩いて出ていった

草壁から迎えを出すと言われてから、三十分も経たないうちに、朝とは別の覆面車がマンションの前へ到着した。 詩織は黒い手帳を机の引き出しへ戻し、スマートフォンだけをバッグに入れて家を出た。 木島とのやり取りを消すことはしなかった。 消せば安心できる気もしたが、今さら履歴を消したところで、通信会社の記録までなくなるわけではない。それに、木島が何を知っているのかという情報まで自分の手で失うのは怖かった。 車の後部座席から流れる街並みを眺めながら、詩織は昨夜の順序を何度も頭の中で組み直した。 午後十一時過ぎ、貴之が帰宅した。 コーヒーを飲ませた。 零時十四分ごろ、呼吸が止まったと思った。 寝室へ運んだ。 その後、自分は浴室へ入った。 零時十九分、貴之は木島へ連絡したという。 零時半前後、由香里が、木島に支えられて廊下を歩く貴之を見た。 午前一時前後、河川敷で玲奈が貴之を刺した。 今まで欠けていた部分は、ほとんど埋まり始めている。 だからこそ恐ろしかった。 埋まれば埋まるほど、その線の起点に自分がいることがはっきりしていく。     * 県警本部で通された部屋は、午前中とは違っていた。 窓がなく、長机と椅子が四脚あるだけの、小さな会議室だった。 取調室ではない。 そう自分に言い聞かせても、扉が閉まる音は重く感じられた。 草壁のほかに、朝から何度か見かけている若い刑事がいる。「何度もすみません」 草壁はそう言ってから、詩織の前へペットボトルの水を置いた。「今日は長くなるかもしれません。途中で休みたくなったら遠慮なく言ってください」「私、疑われているんですよね」 詩織が先に言うと、若い刑事の手が一瞬止まった。 草壁だけは表情を変えなかった。「何について、でしょう」「主人が倒れたのに、救急車を呼ばなかったことです」「それについて説明を聞きたいとは思っています」「それだけですか」「現時点で決めつけるつも
last updateLast Updated : 2026-10-17
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第10話 木島は、最初から知っていた

県警本部を出たとき、外はもう夕方に近づいていた。 空はまだ明るいのに、建物の影だけが先に夜の色へ沈み始めている。朝からほとんど何も食べていないことに気づいたが、空腹はなかった。胃の中には別のものが詰まっているようで、水を飲むことさえ億劫だった。 草壁が最後に言った言葉が、何度も頭の中へ戻ってくる。 木島は警察に「隠しカメラがあるとは知らなかった」と話した。 だが木島は、自分にその映像を見せた。 偶然ではない。 言い間違いでもない。 木島は意図して警察に嘘をついた。 その理由を知らなければならなかった。 詩織は駅へ向かいながらスマートフォンを取り出した。『警察で何を話しましたか』 木島へ送る。 既読になるまで三分ほどかかった。『話せることは話しました』 答えになっていない。『隠しカメラを知らなかったと言ったそうですね』 今度は既読がついても返事が来なかった。 詩織は歩みを止めた。 駅前の信号が青へ変わり、周囲の人々が一斉に横断歩道へ流れていく。その中で一人だけ立ち止まっていると、自分が世界から取り残されたような気分になった。 一分。 二分。 ようやく木島から着信が入った。「もしもし」『今どこです?』「それを聞いてどうするんですか」『会って話したほうがいい』「今日はもう会いません」 詩織は即答した。「電話で答えてください。どうして警察に嘘をついたんですか」『嘘というほど単純じゃない』「隠しカメラを知っていたのに、知らないと言った。それを普通は嘘と言います」 電話の向こうで、木島が短く息を吐いた。『奥様、今どこか店に入れますか。人通りの多いところでいい。立ったまま話す内容じゃない』「危険な話なんですか」『危険というより、長くなる』 詩織は駅ビルの二階にある小さな喫茶スペースへ入った。夕方前で客は少なく、買い物帰りらしい年配の女性が二人、離れた席で話してい
last updateLast Updated : 2026-10-18
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