LOGIN真山詩織、二十九歳。四年間、冷徹な夫・貴之の支配に耐え続けた彼女は、ある夜ついに夫を毒殺する。呼吸が止まるのを確認し、遺体を寝室へ運び、翌朝に突然死を装って通報する――そのはずだった。だが朝七時、通報前に警察が訪ねてくる。「ご主人は昨夜、河川敷で刺されて死亡しました」。しかも二十歳の女子大生が犯行を自供していた。昨夜、自分が殺した男が、なぜ別の場所でも殺されているのか。恐る恐る寝室を確認すると、ベッドから夫の死体は消えていた。残されたのは、十二分遅れた壁時計だけ。自分の殺人を隠すため、詩織は“夫の死の真相”を追い始める。
View More第1話 殺したはずの夫
真山詩織は、昨夜、自分の夫を殺した。
その事実だけは、朝になっても変わっていないはずだった。
午前六時四十八分。
リビングの壁時計を見上げた詩織は、十二分遅れている長針に気づき、眉を寄せた。
実際の時刻は七時ちょうどだった。
スマートフォンの表示と、炊飯器の時計がそう告げている。
壁時計だけが遅れている。
昨夜、夫の貴之が最後にその時計を見たときも、確かに十二分ずれていた。
「また時計が狂ってるじゃないか。お前はこういうところが本当に駄目なんだよ」
そう言っていた。
死ぬ三十分ほど前のことだ。
詩織はダイニングテーブルの前に立ったまま、冷えた指先を握った。
直す必要はない。
どうせ今日、警察が来る。
夫が死んでいると自分から通報すれば、この家は調べられることになる。壁時計が十二分遅れていることなど、誰も気に留めないかもしれないし、気に留めたところで何の意味もない。
昨夜の計画に穴はない。
少なくとも、詩織はそう思っていた。
貴之は昨夜十一時すぎ、いつものように帰宅した。
玄関に入るなり、廊下に置かれていた宅配便の箱を見て舌打ちした。
「何度言えば分かる? こういうものを目につくところに置くなって言ってるだろ」
「届いたばかりだったから」
「言い訳するなよ。俺が帰る前に片づける時間くらいあっただろ」
声を荒らげるわけではない。
貴之はいつも静かだった。
怒鳴らないからこそ逃げ場がなかった。
何かを注意するとき、彼は必ず理屈をつけた。詩織が悪い理由を一つずつ並べ、それに反論すると、さらに別の根拠を重ねた。
最後には、詩織自身が自分の判断を疑うようになる。
結婚して四年。
友人との付き合いは減った。
仕事も辞めた。
服を買うにも、化粧品を買うにも、説明が必要になった。
「俺は管理してるだけだよ。君が無駄遣いしないように」
貴之はそう言って笑った。
詩織はずっと、その笑顔が嫌いだった。
昨夜、彼女はいつもと同じように夕食を温め、食後にコーヒーを淹れた。
貴之はソファに座り、ノートパソコンを膝に載せたまま飲んだ。
苦いと言った。
詩織は、新しい豆だからかもしれない、と答えた。
それから十八分後。
貴之は胸元を押さえた。
「……おい」
最初は訴えるような声だった。
次に、何かを疑う目をした。
そして立ち上がろうとして、テーブルの角に手をつき、そのまま膝を折った。
詩織は動かなかった。
助けを求められても、救急車を呼ばなかった。
床に倒れた夫の呼吸が浅くなり、やがて完全に止まるまで、壁時計の秒針だけが部屋に響いていた。
午前零時十四分。
スマートフォンの時計で確認した。
壁時計は午前零時二分を指していた。
十二分。
その差を、なぜか鮮明に覚えている。
詩織は予定どおり、貴之の遺体を寝室へ運んだ。
容易ではなかった。
成人男性の身体は、生きている人間が想像するよりずっと重い。
脇の下に腕を入れ、廊下を少しずつ引きずった。途中で夫の踵が床に当たり、乾いた音を立てた。
その音を聞いたときだけ、心臓が強く鳴った。
あとは不思議なほど冷静だった。
寝室のベッドに寝かせ、掛け布団を胸元までかけた。
朝になれば、夫が起きてこないことに気づいた妻を演じる。
呼びかける。
肩を揺する。
反応がない。
救急に連絡する。
持病こそなかったが、突然死など珍しいことではない。
そこから先は運に任せる部分もある。
だが、少なくとも詩織が昨夜、夫の死を望んでいたと証明する者はいない。
誰にも話していない。
検索履歴も残していない。
準備には半年かけた。
だから今朝、詩織が恐れていたのは警察ではなかった。
自分の演技が不自然にならないか。
それだけだった。
インターホンが鳴った。
午前七時ちょうど。
詩織の背筋に、薄い氷を差し込まれたような感覚が走った。
早すぎる。
宅配便なら、こんな時間には来ない。
近所の人間が訪ねてくる時間でもない。
もう一度、チャイムが鳴った。
詩織は動けなかった。
寝室には夫の死体がある。
まだ、自分はどこにも連絡していない。
それなのに。
「真山さん」
インターホン越しに男の声がした。
「警察です。少しお話を伺いたいのですが」
喉が急に狭くなった。
詩織は唾を飲み込んだ。
どうして。
まだ通報していない。
貴之が死んだことを知っているのは、自分だけのはずだ。
震えそうになる手を左手で押さえ、玄関へ向かった。
ドアを開けると、五十代くらいの男が立っていた。紺色のスーツに、くたびれた黒い鞄。隣には若い刑事らしい男がいる。
「朝早く申し訳ありません。県警捜査一課の草壁と申します」
男が警察手帳を見せた。
詩織はそこに視線を落としながら、頭の中で一つの文章を繰り返した。
知らない。
私は何も知らない。
「主人が……何か?」
自分の声は、思っていたより普通だった。
草壁は一瞬だけ詩織を見た。
目つきは鋭くない。
むしろ眠そうにさえ見える。
だが、その視線を受けた途端、詩織は自分の顔の筋肉すべてを観察されているような錯覚に陥った。
「真山貴之さんの奥様で間違いありませんね」
「はい」
「少々、確認したいことがあります」
「主人なら……」
寝室にいます。
そう言いかけて、止めた。
草壁の口が動いた。
「ご主人が昨夜未明、遺体で発見されました」
一秒。
意味が理解できなかった。
言葉は聞こえていた。
だが、頭の中で形にならなかった。
「……何を」
草壁は続けた。
「市内を流れる久住川の河川敷です。胸部に刺し傷がありました。発見された時点ですでに死亡していたとみられます」
詩織の耳の奥で、小さな音が鳴った。
高い、金属音のような耳鳴りだった。
貴之は寝室にいる。
昨夜、詩織が殺した。
毒を飲ませた。
呼吸が止まるところまで見た。
自分の手で運んだ。
布団をかけた。
それがどうして、河川敷で胸を刺されている。
「人違いじゃ……ありませんか」
「所持品と身分証は本人のものでした。顔貌も確認しています。正式なご確認はお願いすることになると思いますが」
「でも」
声がかすれた。
草壁がわずかに首を傾けた。
「何か?」
「いえ……」
寝室を見てはいけない。
そう思った。
今ここで振り返れば、不自然になる。
詩織は玄関の床に視線を落とした。
靴がある。
貴之の革靴。
昨夜履いて帰宅した黒い靴だった。
きちんと玄関に揃っている。
では、河川敷へ行った男は何を履いていた。
「もう一つ」
草壁が言った。
「今朝五時すぎ、女性が警察署へ出頭しています」
詩織は顔を上げた。
「女性?」
「如月玲奈。二十歳。大学生です」
知らない名前だった。
少なくとも、詩織には。
「彼女は、ご主人を刺したと供述しています」
玄関の外を車が通った。
タイヤが濡れた路面をこする音だけが、妙に大きく聞こえた。
「どういう……関係なんですか、その人は」
「それを今、確認しています」
草壁は答えた。
「奥様は如月玲奈という名前に心当たりは?」
「ありません」
即答した。
嘘ではない。
だからこそ、その言葉だけは淀みなく出た。
草壁は数秒、黙っていた。
その沈黙が長かった。
「ご主人は昨夜、何時ごろ帰宅されましたか」
来た。
詩織は息を吸った。
「十一時ごろです」
「その後、外出しましたか」
「いいえ」
「ずっとご自宅に?」
「はい」
「朝まで?」
詩織の背中に冷たい汗が流れた。
「はい」
「間違いありませんか」
壁時計の秒針が聞こえた。
玄関からリビングは見えない。
それなのに、十二分遅れた時計の針が頭の中に浮かんだ。
「間違い……ありません」
草壁は頷いた。
「そうですか」
ただそれだけだった。
疑っているようにも、納得したようにも見えない。
「また詳しくお話を伺います。今日はご自宅を離れられる予定はありますか」
「ありません」
「では、後ほど改めて」
刑事たちは帰った。
ドアを閉め、鍵をかけた瞬間、詩織の膝から力が抜けた。
壁に手をつく。
呼吸が浅い。
吸っているのに、肺に空気が入ってこない。
あり得ない。
何かの間違いだ。
警察が身元を間違えた。
あるいは、誰かが貴之の財布を持っていた。
顔が似た別人だった。
そう考えたところで、詩織は気づいた。
草壁は言った。
顔貌も確認しています、と。
ならば。
寝室にいるのは誰なのか。
廊下の先に、閉じた扉がある。
昨夜、自分が最後に閉めた扉だ。
詩織は歩き出した。
一歩。
また一歩。
床板が足の裏に冷たい。
寝室の前まで来ると、心臓の音が急に大きくなった。
ドアノブに触れる。
冷たい。
昨夜と同じ温度だった。
詩織はゆっくり回した。
扉が開く。
カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。
ベッドが見えた。
掛け布団が乱れている。
枕も少しずれている。
だが。
そこに人間はいなかった。
詩織は瞬きをした。
もう一度見る。
何も変わらない。
ベッドは空だった。
昨夜、確かに横たえたはずの夫の死体が、跡形もなく消えている。
詩織は寝室の入口に立ち尽くした。
そのとき、背後のリビングから音がした。
カチ。
壁時計だった。
秒針が一つ進んだだけの音。
けれど詩織には、それが誰かが舌を鳴らした音のように聞こえた。
午前七時十二分。
壁時計は、ちょうど七時を指していた。
杉浦が読み上げた言葉は、詩織の頭の中で、しばらく文章にならなかった。『今夜が終われば、俺を殺した人間は三人になる』 三人。 数なら簡単だった。 一人目は自分。 二人目は玲奈。 では三人目は誰なのか。 けれど、貴之の言葉をそのまま数式のように当てはめていいのか、詩織にはもう分からなかった。あの男は言葉を事実の説明に使うより、相手を自分の望む方向へ動かすために使う人間だった。「その録音、続きはないんですか」 詩織が尋ねると、杉浦はスマートフォンを確認した。「現場で聞けたのはそこまでです。今、データをこちらへ送ってもらっています」「木島さんは話せる状態なんですよね」「搬送時は意識があったそうです。ただ、出血と睡眠不足、それに酒も入っているらしくて、病院ではまず処置を優先しています」「左腕の傷は自分で?」「それもまだ確定してません」 何を聞いても「まだ分からない」が返ってくる。 昨日までなら、その曖昧さに苛立っていたかもしれない。 今は少し違った。 分からないものを、急いで分かったことにするほうが怖い。 貴之と暮らしていた四年間、詩織は何度もそうさせられてきた。『君が気にしすぎなんだよ』『普通はそんなことで怒らない』『俺は君のためを思ってる』 説明されるうちに、自分の感じ方のほうが間違っていると思わされた。 今度は逆に、自分が都合のいい説明へ逃げ込もうとしている。 木島が三人目なら楽だ。 夫の計画の中心に木島がいて、最後に何かをしたことにできれば、自分の罪が少し薄くなるような錯覚を持てる。 だが、薄くはならない。 詩織はそれを、もう知っていた。 * 午後十時を過ぎたころ、草壁が戻ってきた。 さきほどよりも疲れた顔だったが、手には小型の端末とイヤホン、それから印刷された記録があった。「木島さんのボイスレコーダー、昨夜のデータを一部確認できました」 詩織は椅子に座り直す。
匿名の相手から送られてきた最後の文章を、草壁はしばらく見つめていた。『玲奈を呼び、木島を呼び、美和子さんも来るよう仕向けたのは、そのあとです』 そのあと。 詩織が貴之のコーヒーに毒を入れ、貴之がそれを飲んだあと。 もし本当なら、昨夜の河川敷で起きた出来事の意味が根本から変わる。 玲奈と木島と美和子が、たまたま同じ夜に貴之と会ったのではない。自分が死ぬかもしれないと悟った貴之自身が、残された時間を使って一か所へ人間を集めたことになる。「信じるんですか」 詩織が尋ねると、草壁は首を横に振った。「信じません」「ずいぶん即答ですね」「匿名の人間が送ってきた説明を、そのまま事実にしたら捜査になりません。ただ――」 草壁はスマートフォンを机へ戻した。「確かめられる部分はあります」「主人の通話やメッセージ?」「ええ。ご主人のスマートフォンは遺体のそばから見つかっています。端末自体はロックされていますが、通信記録と一部のクラウドデータは照会を進めています」 杉浦が時計を確認した。「デジタルの担当、さっき復元できそうだって言ってましたよね」「聞いてみてくれ」 杉浦が部屋を出ていく。 詩織は椅子へ深く座り直した。 疲れている。 身体はそれを訴えているのに、頭だけが眠ることを拒んでいた。「草壁さん」「何でしょう」「もし本当に、主人が全部分かっていたとしたら……私が半年前から何を考えていたのかまで」「はい」「どうして何もしなかったんでしょう」「先ほども言いましたが、それは本人にしか分かりません」「でも刑事なら、何か考えるでしょう」 草壁は少し困った顔をした。「私の推測を聞いて、それを事実みたいに扱わないと約束できますか」「努力します」「また努力ですか」「できない約束はしません」 草壁は小さく息を吐いた。「では、ただの仮説として聞いてください。ご
匿名の相手から届いた最後の文章を、詩織は何度読み返しても、別の意味にはできなかった。『昨夜のコーヒーに何を入れたのか、警察に話してください』 知られている。 少なくとも相手は、そう確信している。 推測だけならまだ逃げ道はある。夫が自宅でコーヒーを飲み、その後に薬物中毒を起こしたと知れば、妻を疑う人間はいてもおかしくない。 だが、この人物は貴之の最期を見ていた。 河川敷の写真を持っている。 木島が黒いケースを持ち去ったことも知っている。 そして、警察より先に死因が薬物へ傾いていることまで把握していた。「返信しましょう」 草壁が言った。 詩織は顔を上げた。「何と?」「証拠があるのか聞きます」「私が?」「ええ。ただし、文面は一緒に考えます」 杉浦が椅子を少し寄せた。「相手が真山さんに自白させたいなら、ただの思い込みで送っているのか、それとも具体的なものを持っているのかで違いますから」 詩織は自分のスマートフォンへ手を伸ばした。 指先が画面へ触れる。『私がコーヒーに何か入れたという証拠があるんですか』 打ち込んだあと、送信する前に草壁へ見せた。「いいでしょう」 送る。 既読はつかなかった。 一分。 二分。 会議室の時計だけが進んでいく。 壁掛け時計ではない。 普通のデジタル時計だった。 正確な時刻が表示されている。 それだけのことなのに、今の詩織には不思議な安心感があった。 十二分ずれていない。 誰かが意味を持たせていない。 ただ時間を示している。「来ませんね」 杉浦が言った。「考えてるのかもしれません」「それとも、こちらに警察がいることを分かっているか」 草壁の言葉に、詩織は眉を寄せた。「どうやって?」「分かりません。だから可能性として言っただけです」「もし警察の動きまで
木島隆臣の車が見つかったという報告から、一時間もしないうちに、詩織は再び県警本部の小さな会議室に座っていた。 三〇四号室で見つかった資料、美帆が持ち出したUSBメモリ、匿名の人物から送られてきた画像と音声。今日一日だけで増えた情報は多すぎて、どれか一つを理解しようとすると、別の事実がその意味を変えてしまう。 草壁は戻ってこない。 木島の車が見つかった久住川へ向かったらしい。 詩織の前には、若い刑事が一人残っていた。朝から何度も顔を合わせている男で、ようやく胸元の名札を見て名字が「杉浦」だと知った。「何か飲みますか」「大丈夫です」「今日、そればかりですね」「そうでした?」「少なくとも僕が聞いたのは三回目です」 杉浦は苦笑した。「水くらい飲んでください。倒れられると草壁さんに怒られるんで」「私の心配ではないんですね」「もちろん心配もしてます。ただ、警察官が『あなたが心配です』って言うと、急に嘘っぽく聞こえるでしょう」 少しだけ可笑しかった。 詩織は渡されたペットボトルを受け取った。 こんな状況でも、喉を通った水は普通に冷たい。 人の夫が死んでも、殺人事件が起きても、冷蔵庫で冷やされた水の味まで変わるわけではない。 その当たり前さが、ときどき残酷に思える。 机の上に置かれたスマートフォンは、警察の許可なしには触らないよう言われていた。 匿名の相手からは、あれ以降連絡がない。 木島隆臣。 最後に貴之が呼んだ名前。『木島に全部仕組まれた』 それが事実なのか、貴之自身の思い込みなのかは分からない。 ただ、木島が嘘をついていたことだけは、もうほぼ間違いない。 駅の北側で貴之を降ろしたあと、そのまま帰ったわけではなかった。 河川敷の映像に映った男が木島なら、彼は玲奈と美和子が去ったあと、もう一度貴之の前へ現れている。 黒いケースを持ち去った。 そして今、本人が消えている。「杉浦さん」「はい」「木島さ