『昨夜、夫を殺しました。なのに警察は「ご主人は河川敷で殺されました」と言った』―死体の消えた寝室と、十二分遅れた時計―

『昨夜、夫を殺しました。なのに警察は「ご主人は河川敷で殺されました」と言った』―死体の消えた寝室と、十二分遅れた時計―

last updateLast Updated : 2026-10-25
By:  常陸之介寛浩Ongoing
Language: Japanese
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真山詩織、二十九歳。四年間、冷徹な夫・貴之の支配に耐え続けた彼女は、ある夜ついに夫を毒殺する。呼吸が止まるのを確認し、遺体を寝室へ運び、翌朝に突然死を装って通報する――そのはずだった。だが朝七時、通報前に警察が訪ねてくる。「ご主人は昨夜、河川敷で刺されて死亡しました」。しかも二十歳の女子大生が犯行を自供していた。昨夜、自分が殺した男が、なぜ別の場所でも殺されているのか。恐る恐る寝室を確認すると、ベッドから夫の死体は消えていた。残されたのは、十二分遅れた壁時計だけ。自分の殺人を隠すため、詩織は“夫の死の真相”を追い始める。

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Chapter 1

第1話 殺したはずの夫

第1話 殺したはずの夫

 真山詩織は、昨夜、自分の夫を殺した。

 その事実だけは、朝になっても変わっていないはずだった。

 午前六時四十八分。

 リビングの壁時計を見上げた詩織は、十二分遅れている長針に気づき、眉を寄せた。

 実際の時刻は七時ちょうどだった。

 スマートフォンの表示と、炊飯器の時計がそう告げている。

 壁時計だけが遅れている。

 昨夜、夫の貴之が最後にその時計を見たときも、確かに十二分ずれていた。

「また時計が狂ってるじゃないか。お前はこういうところが本当に駄目なんだよ」

 そう言っていた。

 死ぬ三十分ほど前のことだ。

 詩織はダイニングテーブルの前に立ったまま、冷えた指先を握った。

 直す必要はない。

 どうせ今日、警察が来る。

 夫が死んでいると自分から通報すれば、この家は調べられることになる。壁時計が十二分遅れていることなど、誰も気に留めないかもしれないし、気に留めたところで何の意味もない。

 昨夜の計画に穴はない。

 少なくとも、詩織はそう思っていた。

 貴之は昨夜十一時すぎ、いつものように帰宅した。

 玄関に入るなり、廊下に置かれていた宅配便の箱を見て舌打ちした。

「何度言えば分かる? こういうものを目につくところに置くなって言ってるだろ」

「届いたばかりだったから」

「言い訳するなよ。俺が帰る前に片づける時間くらいあっただろ」

 声を荒らげるわけではない。

 貴之はいつも静かだった。

 怒鳴らないからこそ逃げ場がなかった。

 何かを注意するとき、彼は必ず理屈をつけた。詩織が悪い理由を一つずつ並べ、それに反論すると、さらに別の根拠を重ねた。

 最後には、詩織自身が自分の判断を疑うようになる。

 結婚して四年。

 友人との付き合いは減った。

 仕事も辞めた。

 服を買うにも、化粧品を買うにも、説明が必要になった。

「俺は管理してるだけだよ。君が無駄遣いしないように」

 貴之はそう言って笑った。

 詩織はずっと、その笑顔が嫌いだった。

 昨夜、彼女はいつもと同じように夕食を温め、食後にコーヒーを淹れた。

 貴之はソファに座り、ノートパソコンを膝に載せたまま飲んだ。

 苦いと言った。

 詩織は、新しい豆だからかもしれない、と答えた。

 それから十八分後。

 貴之は胸元を押さえた。

「……おい」

 最初は訴えるような声だった。

 次に、何かを疑う目をした。

 そして立ち上がろうとして、テーブルの角に手をつき、そのまま膝を折った。

 詩織は動かなかった。

 助けを求められても、救急車を呼ばなかった。

 床に倒れた夫の呼吸が浅くなり、やがて完全に止まるまで、壁時計の秒針だけが部屋に響いていた。

 午前零時十四分。

 スマートフォンの時計で確認した。

 壁時計は午前零時二分を指していた。

 十二分。

 その差を、なぜか鮮明に覚えている。

 詩織は予定どおり、貴之の遺体を寝室へ運んだ。

 容易ではなかった。

 成人男性の身体は、生きている人間が想像するよりずっと重い。

 脇の下に腕を入れ、廊下を少しずつ引きずった。途中で夫の踵が床に当たり、乾いた音を立てた。

 その音を聞いたときだけ、心臓が強く鳴った。

 あとは不思議なほど冷静だった。

 寝室のベッドに寝かせ、掛け布団を胸元までかけた。

 朝になれば、夫が起きてこないことに気づいた妻を演じる。

 呼びかける。

 肩を揺する。

 反応がない。

 救急に連絡する。

 持病こそなかったが、突然死など珍しいことではない。

 そこから先は運に任せる部分もある。

 だが、少なくとも詩織が昨夜、夫の死を望んでいたと証明する者はいない。

 誰にも話していない。

 検索履歴も残していない。

 準備には半年かけた。

 だから今朝、詩織が恐れていたのは警察ではなかった。

 自分の演技が不自然にならないか。

 それだけだった。

 インターホンが鳴った。

 午前七時ちょうど。

 詩織の背筋に、薄い氷を差し込まれたような感覚が走った。

 早すぎる。

 宅配便なら、こんな時間には来ない。

 近所の人間が訪ねてくる時間でもない。

 もう一度、チャイムが鳴った。

 詩織は動けなかった。

 寝室には夫の死体がある。

 まだ、自分はどこにも連絡していない。

 それなのに。

「真山さん」

 インターホン越しに男の声がした。

「警察です。少しお話を伺いたいのですが」

 喉が急に狭くなった。

 詩織は唾を飲み込んだ。

 どうして。

 まだ通報していない。

 貴之が死んだことを知っているのは、自分だけのはずだ。

 震えそうになる手を左手で押さえ、玄関へ向かった。

 ドアを開けると、五十代くらいの男が立っていた。紺色のスーツに、くたびれた黒い鞄。隣には若い刑事らしい男がいる。

「朝早く申し訳ありません。県警捜査一課の草壁と申します」

 男が警察手帳を見せた。

 詩織はそこに視線を落としながら、頭の中で一つの文章を繰り返した。

 知らない。

 私は何も知らない。

「主人が……何か?」

 自分の声は、思っていたより普通だった。

 草壁は一瞬だけ詩織を見た。

 目つきは鋭くない。

 むしろ眠そうにさえ見える。

 だが、その視線を受けた途端、詩織は自分の顔の筋肉すべてを観察されているような錯覚に陥った。

「真山貴之さんの奥様で間違いありませんね」

「はい」

「少々、確認したいことがあります」

「主人なら……」

 寝室にいます。

 そう言いかけて、止めた。

 草壁の口が動いた。

「ご主人が昨夜未明、遺体で発見されました」

 一秒。

 意味が理解できなかった。

 言葉は聞こえていた。

 だが、頭の中で形にならなかった。

「……何を」

 草壁は続けた。

「市内を流れる久住川の河川敷です。胸部に刺し傷がありました。発見された時点ですでに死亡していたとみられます」

 詩織の耳の奥で、小さな音が鳴った。

 高い、金属音のような耳鳴りだった。

 貴之は寝室にいる。

 昨夜、詩織が殺した。

 毒を飲ませた。

 呼吸が止まるところまで見た。

 自分の手で運んだ。

 布団をかけた。

 それがどうして、河川敷で胸を刺されている。

「人違いじゃ……ありませんか」

「所持品と身分証は本人のものでした。顔貌も確認しています。正式なご確認はお願いすることになると思いますが」

「でも」

 声がかすれた。

 草壁がわずかに首を傾けた。

「何か?」

「いえ……」

 寝室を見てはいけない。

 そう思った。

 今ここで振り返れば、不自然になる。

 詩織は玄関の床に視線を落とした。

 靴がある。

 貴之の革靴。

 昨夜履いて帰宅した黒い靴だった。

 きちんと玄関に揃っている。

 では、河川敷へ行った男は何を履いていた。

「もう一つ」

 草壁が言った。

「今朝五時すぎ、女性が警察署へ出頭しています」

 詩織は顔を上げた。

「女性?」

「如月玲奈。二十歳。大学生です」

 知らない名前だった。

 少なくとも、詩織には。

「彼女は、ご主人を刺したと供述しています」

 玄関の外を車が通った。

 タイヤが濡れた路面をこする音だけが、妙に大きく聞こえた。

「どういう……関係なんですか、その人は」

「それを今、確認しています」

 草壁は答えた。

「奥様は如月玲奈という名前に心当たりは?」

「ありません」

 即答した。

 嘘ではない。

 だからこそ、その言葉だけは淀みなく出た。

 草壁は数秒、黙っていた。

 その沈黙が長かった。

「ご主人は昨夜、何時ごろ帰宅されましたか」

 来た。

 詩織は息を吸った。

「十一時ごろです」

「その後、外出しましたか」

「いいえ」

「ずっとご自宅に?」

「はい」

「朝まで?」

 詩織の背中に冷たい汗が流れた。

「はい」

「間違いありませんか」

 壁時計の秒針が聞こえた。

 玄関からリビングは見えない。

 それなのに、十二分遅れた時計の針が頭の中に浮かんだ。

「間違い……ありません」

 草壁は頷いた。

「そうですか」

 ただそれだけだった。

 疑っているようにも、納得したようにも見えない。

「また詳しくお話を伺います。今日はご自宅を離れられる予定はありますか」

「ありません」

「では、後ほど改めて」

 刑事たちは帰った。

 ドアを閉め、鍵をかけた瞬間、詩織の膝から力が抜けた。

 壁に手をつく。

 呼吸が浅い。

 吸っているのに、肺に空気が入ってこない。

 あり得ない。

 何かの間違いだ。

 警察が身元を間違えた。

 あるいは、誰かが貴之の財布を持っていた。

 顔が似た別人だった。

 そう考えたところで、詩織は気づいた。

 草壁は言った。

 顔貌も確認しています、と。

 ならば。

 寝室にいるのは誰なのか。

 廊下の先に、閉じた扉がある。

 昨夜、自分が最後に閉めた扉だ。

 詩織は歩き出した。

 一歩。

 また一歩。

 床板が足の裏に冷たい。

 寝室の前まで来ると、心臓の音が急に大きくなった。

 ドアノブに触れる。

 冷たい。

 昨夜と同じ温度だった。

 詩織はゆっくり回した。

 扉が開く。

 カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。

 ベッドが見えた。

 掛け布団が乱れている。

 枕も少しずれている。

 だが。

 そこに人間はいなかった。

 詩織は瞬きをした。

 もう一度見る。

 何も変わらない。

 ベッドは空だった。

 昨夜、確かに横たえたはずの夫の死体が、跡形もなく消えている。

 詩織は寝室の入口に立ち尽くした。

 そのとき、背後のリビングから音がした。

 カチ。

 壁時計だった。

 秒針が一つ進んだだけの音。

 けれど詩織には、それが誰かが舌を鳴らした音のように聞こえた。

 午前七時十二分。

 壁時計は、ちょうど七時を指していた。

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第1話 殺したはずの夫
第1話 殺したはずの夫 真山詩織は、昨夜、自分の夫を殺した。 その事実だけは、朝になっても変わっていないはずだった。 午前六時四十八分。 リビングの壁時計を見上げた詩織は、十二分遅れている長針に気づき、眉を寄せた。 実際の時刻は七時ちょうどだった。 スマートフォンの表示と、炊飯器の時計がそう告げている。 壁時計だけが遅れている。 昨夜、夫の貴之が最後にその時計を見たときも、確かに十二分ずれていた。「また時計が狂ってるじゃないか。お前はこういうところが本当に駄目なんだよ」 そう言っていた。 死ぬ三十分ほど前のことだ。 詩織はダイニングテーブルの前に立ったまま、冷えた指先を握った。 直す必要はない。 どうせ今日、警察が来る。 夫が死んでいると自分から通報すれば、この家は調べられることになる。壁時計が十二分遅れていることなど、誰も気に留めないかもしれないし、気に留めたところで何の意味もない。 昨夜の計画に穴はない。 少なくとも、詩織はそう思っていた。 貴之は昨夜十一時すぎ、いつものように帰宅した。 玄関に入るなり、廊下に置かれていた宅配便の箱を見て舌打ちした。「何度言えば分かる? こういうものを目につくところに置くなって言ってるだろ」「届いたばかりだったから」「言い訳するなよ。俺が帰る前に片づける時間くらいあっただろ」 声を荒らげるわけではない。 貴之はいつも静かだった。 怒鳴らないからこそ逃げ場がなかった。 何かを注意するとき、彼は必ず理屈をつけた。詩織が悪い理由を一つずつ並べ、それに反論すると、さらに別の根拠を重ねた。 最後には、詩織自身が自分の判断を疑うようになる。 結婚して四年。 友人との付き合いは減った。 仕事も辞めた。 服を買うにも、化粧品を買うにも、説明が必要になった。「俺は管理してるだけだよ。君が無駄遣いしないように」 貴之はそう言って笑った。 詩織はずっと、その笑顔が嫌いだった。 昨夜、彼女はいつもと同じように夕食を温め、食後にコーヒーを淹れた。 貴之はソファに座り、ノートパソコンを膝に載せたまま飲んだ。 苦いと言った。 詩織は、新しい豆だからかもしれない、と答えた。 それから十八分後。 貴之は胸元を押さえた。「……おい」 最初は訴えるような声だった。 次に、何かを疑
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第6話 壁時計の中の目
木島の問いに、詩織はすぐには答えなかった。「昨夜、あの部屋で貴之に何を飲ませたんですか」 その言葉だけが、静かな喫茶店の中で妙に近く聞こえる。 ここで否定することは簡単だった。画像に写っているのはコーヒーカップと自分の手だけで、左手に何を持っているかまでは判別できない。木島が持っているものが一枚の静止画だけなら、それだけで殺人を証明できるはずもない。 問題は、一枚だけなのかどうかだった。「まず、その画像をどこで手に入れたのか説明してください」 詩織が言うと、木島はわずかに眉を上げた。「否定しないんですね」「何を持っていたかも分からない写真を見せられて、何を否定すればいいんですか」「そういう返し方をする人だとは思いませんでした」「私のことを知っているような言い方をするのはやめてください。主人から何を聞いていたとしても、それは主人が見せたかった私です」 木島は返事をせず、しばらく詩織を見ていた。 その沈黙が、貴之のものとは違うことに詩織は気づいた。貴之は沈黙によって相手を不安にさせ、先に余計なことを喋らせる男だった。木島はむしろ、自分が何を言えば損をするか計算しているように見えた。「分かりました。順番に話します」 木島はスマートフォンを伏せてテーブルへ置いた。「貴之と私は、仕事上、人に見られたくない資料を共有することがありました。顧客企業の内部情報や、契約前の調査資料です。普通のクラウドサービスには置きたくないものもあったので、私の会社で管理している暗号化サーバーに専用領域を作っていた」「そこへ、あの画像が?」「昨夜、午前零時二十一分から二十六分にかけて、貴之のアカウントから大量のファイルが同期されました」「大量って、どのくらいですか」「画像と短い動画を合わせて百件以上。ただし全部を見たわけじゃありません。今朝、貴之が死亡したと知ってから確認したら、その中に奥様の部屋らしい映像があった」「なぜ私の家だと分かったんです?」「家具の話は聞いていましたし、何より本人が映っていた」「主人が?」「何度か
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第7話 刑事に隠したこと
草壁の言葉を聞いた瞬間、詩織が最初に意識したのは、自分の顔だった。 驚いた顔をしなければならない。 そう考えた時点で、すでに自然な反応ではなかった。「刺し傷だけが……死因ではない?」 自分の声を耳で確認しながら、詩織はゆっくり問い返した。「まだ確定ではありません」 草壁は慎重に言葉を選んだ。「司法解剖は終わっていますが、薬毒物については詳しい検査が必要です。ただ、ご主人の死亡状況と遺体の所見に、刺創だけでは説明しにくい点がある。現段階で言えるのはそこまでです」「玲奈さんが言っている、吐き気や痙攣ですか」「それもあります」「では、ほかにも?」 草壁は答えなかった。 質問を重ねすぎたかもしれない。 夫を突然殺された妻なら、死因を知りたがるのは当然だ。けれど詩織の場合、知りたい理由が違う。 毒が検出されるのか。 どの程度残っているのか。 死亡時刻との関係を、警察はどこまで突き止められるのか。 昨夜まで半年かけて準備した殺人計画が、別の殺人事件と重なったことで、かえって細部まで調べられることになった。 皮肉というには笑えなかった。「ご主人には持病がありましたか」 草壁が尋ねた。「ありません」「普段、服用していた薬は?」「頭痛薬や胃薬をたまに飲む程度です。処方薬を常用してはいませんでした」「サプリメントは?」「いくつか飲んでいました。ビタミン剤だったと思います。ただ、私は中身まで確認していません」「睡眠薬や精神安定剤は?」「少なくとも、私は知りません」 嘘ではない。 そのことが、今はありがたかった。 草壁の隣では、若い刑事が分解された壁時計を写真に収めていた。黒い点に定規を添え、裏側の基板も角度を変えながら撮影している。 やがて刑事が言った。「草壁さん、これ、記録媒体も入ってます」「抜くなよ。そのまま鑑識に回そう」「はい」 詩織は
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第8話 玲奈が守っている人
木島から届いた最後の一文を、詩織はしばらく消せなかった。『そして彼女が守ろうとしているのは、自分ではありません』 書斎は静かだった。 机の上には貴之の黒い手帳が開かれ、その中央に「如月玲奈」の文字がある。数行下には「母」と書かれている。 詩織は画面へ指を置いた。『誰を守っているんですか』 送信してから一分ほど待った。 既読はついたが、返事は来ない。 さらに二分。 木島は、こちらが焦れて電話をかけてくるのを待っているのかもしれない。 そう思ったところで、着信音が鳴った。 木島だった。 詩織はすぐには出なかった。 三回鳴ったところで通話ボタンを押す。「もしもし」『手帳を見つけたんですね』 挨拶もなかった。「質問に答えてください。玲奈さんは誰を守っているんですか」『その前に、手帳をどこまで読みました?』「私のページも、あなたのページも」 電話の向こうで、木島が小さく息を吐いた。『読むなと言ったでしょう』「あなたに命令される理由はありません」『命令したつもりはありません。ただ、あの手帳に書かれた内容は、事実と貴之の解釈が混ざっている。読めば全部本当だと思ってしまう』「主人が私をどう扱っていたかについては、十分本当でした」 返事が途切れた。 詩織は黒い手帳へ目を落とした。『退職 完了』『交友 残二』『母への連絡 月一以下』『位置情報 継続』『映像 継続』 読み直すほど、そこにある冷たさが増していく。「あなたは、この手帳の存在を知っていたんですね」『知っていました。ただし中身を全部見たわけじゃない』「木島隆臣のページに『七年前』『事故』『原本は別』とあります。何のことですか」 また沈黙した。 今度は長かった。『電話では話したくない』「では警察で話してください」『それができるなら、とっくにしています』
last updateLast Updated : 2026-10-16
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第9話 死体は自分で歩いて出ていった
草壁から迎えを出すと言われてから、三十分も経たないうちに、朝とは別の覆面車がマンションの前へ到着した。 詩織は黒い手帳を机の引き出しへ戻し、スマートフォンだけをバッグに入れて家を出た。 木島とのやり取りを消すことはしなかった。 消せば安心できる気もしたが、今さら履歴を消したところで、通信会社の記録までなくなるわけではない。それに、木島が何を知っているのかという情報まで自分の手で失うのは怖かった。 車の後部座席から流れる街並みを眺めながら、詩織は昨夜の順序を何度も頭の中で組み直した。 午後十一時過ぎ、貴之が帰宅した。 コーヒーを飲ませた。 零時十四分ごろ、呼吸が止まったと思った。 寝室へ運んだ。 その後、自分は浴室へ入った。 零時十九分、貴之は木島へ連絡したという。 零時半前後、由香里が、木島に支えられて廊下を歩く貴之を見た。 午前一時前後、河川敷で玲奈が貴之を刺した。 今まで欠けていた部分は、ほとんど埋まり始めている。 だからこそ恐ろしかった。 埋まれば埋まるほど、その線の起点に自分がいることがはっきりしていく。     * 県警本部で通された部屋は、午前中とは違っていた。 窓がなく、長机と椅子が四脚あるだけの、小さな会議室だった。 取調室ではない。 そう自分に言い聞かせても、扉が閉まる音は重く感じられた。 草壁のほかに、朝から何度か見かけている若い刑事がいる。「何度もすみません」 草壁はそう言ってから、詩織の前へペットボトルの水を置いた。「今日は長くなるかもしれません。途中で休みたくなったら遠慮なく言ってください」「私、疑われているんですよね」 詩織が先に言うと、若い刑事の手が一瞬止まった。 草壁だけは表情を変えなかった。「何について、でしょう」「主人が倒れたのに、救急車を呼ばなかったことです」「それについて説明を聞きたいとは思っています」「それだけですか」「現時点で決めつけるつも
last updateLast Updated : 2026-10-17
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第10話 木島は、最初から知っていた
県警本部を出たとき、外はもう夕方に近づいていた。 空はまだ明るいのに、建物の影だけが先に夜の色へ沈み始めている。朝からほとんど何も食べていないことに気づいたが、空腹はなかった。胃の中には別のものが詰まっているようで、水を飲むことさえ億劫だった。 草壁が最後に言った言葉が、何度も頭の中へ戻ってくる。 木島は警察に「隠しカメラがあるとは知らなかった」と話した。 だが木島は、自分にその映像を見せた。 偶然ではない。 言い間違いでもない。 木島は意図して警察に嘘をついた。 その理由を知らなければならなかった。 詩織は駅へ向かいながらスマートフォンを取り出した。『警察で何を話しましたか』 木島へ送る。 既読になるまで三分ほどかかった。『話せることは話しました』 答えになっていない。『隠しカメラを知らなかったと言ったそうですね』 今度は既読がついても返事が来なかった。 詩織は歩みを止めた。 駅前の信号が青へ変わり、周囲の人々が一斉に横断歩道へ流れていく。その中で一人だけ立ち止まっていると、自分が世界から取り残されたような気分になった。 一分。 二分。 ようやく木島から着信が入った。「もしもし」『今どこです?』「それを聞いてどうするんですか」『会って話したほうがいい』「今日はもう会いません」 詩織は即答した。「電話で答えてください。どうして警察に嘘をついたんですか」『嘘というほど単純じゃない』「隠しカメラを知っていたのに、知らないと言った。それを普通は嘘と言います」 電話の向こうで、木島が短く息を吐いた。『奥様、今どこか店に入れますか。人通りの多いところでいい。立ったまま話す内容じゃない』「危険な話なんですか」『危険というより、長くなる』 詩織は駅ビルの二階にある小さな喫茶スペースへ入った。夕方前で客は少なく、買い物帰りらしい年配の女性が二人、離れた席で話してい
last updateLast Updated : 2026-10-18
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