女を追いかけるべきか、三〇四号室へ向かうべきか。 詩織は数秒迷い、前者を選んだ。「待ってください」 女は足を止めなかった。 マンションの前の細い道を駅とは反対側へ歩いていく。走って逃げるわけではないが、話を続ける意思もないらしい。「あなたが昨夜、河川敷にいたんですか」 詩織が声を強めると、女はようやく振り返った。「大きな声を出さないでください」「だったら答えてください」「答えたら、警察に話しますか」「内容によります」 女は鼻で小さく笑った。「そういうところ、本当に奥さんなんですね」「どういう意味ですか」「あの人も、何を聞いても『内容による』って言う人だったから」 夫と似ていると言われたことが、思った以上に腹立たしかった。「主人と一緒にしないでください」「ごめんなさい」 女は今度は素直に謝った。 紙袋を抱えたまま、周囲を見回す。住宅街の夕方で、犬を散歩させている老人と、自転車で帰ってくる高校生が遠くにいるだけだった。「ここだと目立つので、少し移動しませんか」「逃げませんか」「逃げたいなら、とっくに走ってます」 もっともだった。 二人はマンションから百メートルほど離れた小さな公園へ移動した。遊具は滑り台と古い鉄棒だけで、ベンチには誰もいない。 女は座らず、木製の柵に寄りかかった。「佐伯美帆です。三十二歳」「主人とは?」「三年前に知り合いました。仕事です。私がいた会社へ、真山さんがコンサルタントとして入ってきた」 貴之が外で使っていた穏やかな顔が浮かんだ。 人当たりがよく、話を聞くのが上手で、相手が困っていると「大丈夫ですよ」と低い声で言う。 詩織も最初は、その顔を好きになった。「それから?」「会社で不正がありました。私は直接やったわけじゃない。でも、気づいていたのに黙っていた。上司に頼まれて、数字を直したこともあります」「主人はそれを知った?」「ええ」
Last Updated : 2026-10-19 Read more