Semua Bab 社長、見合い相手は私ではありませんが: Bab 21 - Bab 30

34 Bab

21話. 守りたい席

小さな会議室の前で、千尋は自分の名前を聞いた。「白石主任の件は、もう話さないでください。未確認の話で、社員を困らせるのはやめましょう」雅彦の声だった。向かいに、別の部署の係長が二人立っていた。千尋が足を止めると、一人が先に気づき、ぎこちなく笑った。「いらしたんですね。特別な話をしていたわけでは、ないんですが」千尋は抱えていたタブレットを、胸の前から下ろした。「何か、ありましたか」雅彦が柔らかく口を挟んだ。「星友側は、親戚の会社だそうですね。実務で意見を言うのは、気まずいのでは、という話でした。心配することではないと、私が言いました」もう一人の係長が頷いた。「業者が、白石主任のことを少し話していました。最近、上の関心をかなり集めている、と。私たちも、いい意味だと思っていたんですよ」千尋は一瞬、タブレットを重く感じた。いい意味だ、という言葉の後ろに何があったか、最後まで問い詰めたくはなかった。だからといって、知らないふりで通り過ぎれば、次には、その意味が、少し大きくなりそうだった。「業者と親戚であることは、課長に報告しています。今回の案内案は、私たちの課で検討しました。資料が必要なら、共有できる範囲でお送りします」答え終えると、相手は慌てて手を振った。「いえ。そういうものを要求したわけでは、ありません」雅彦はもう一度笑い、会話を終わらせた。二人の係長がエレベーターへ向かうと、彼は千尋の隣で、歩調を合わせた。「嫌な気分になったでしょうね」「私のいないところで、業務について推測されるのは、少し困ります」「だから、止めました。あまり、気にしないでください」千尋は礼を言った。雅彦が実際に、話を止めてくれたことも、事実だった。けれど、止めなかったらどんな会話が続いたかより、千尋へ話す間、何を省いたのかが気になった。「次の中間点検では、課長が説明してはどうでしょう?」やはり、同じ方向だった。千尋が答えるより先に、雅彦が付け加えた。「白石主任の役割を、奪おうという話ではありません。結果表の名前は残して、質問は上司が受けるんです。こういうときは、実務担当者を守らなければ」「私の作業内容への質問なら、私が答えるほうが早いです」「早ければ、いつもいいわけではありません。相手が、別のことを聞いたら?」その言葉に、千尋は背中が壁に付くような気
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22話. 同じ基準で

五月になると、オフィスの窓辺の鉢植えに、新しい葉が開いた。千尋は水をやる前に、土に触れた。結衣が朝、すでにやったらしい。同じことを二度しないよう、小さなメモを貼って、席に戻った。大野へ送る面談の依頼を、三度書き直した。頼みたいのは、特別な機会ではなかった。むしろ、特別に見えないよう、今ある基準を、明確にしてほしいという話だった。午後、大野は会議室の片側の椅子を示した。「評価の方法を、確認したいんだって?」「はい。今回の案内案で、私の担当部分と、課で行った部分を、分けて記録したいです。星友側と関係があるという話も、回っているので」「分担表は、もうあるよね」「報告のたびに、同じ基準で残したいんです。うまくいった点だけでなく、失敗した点も」大野はペンを回してから、置いた。「誰かに、直接、優遇を受けたと言われた?」「直接、そこまでは言われていません。上の関心を集めているとは、聞きました。親戚の会社と働くことが、成果に影響するような言い方だったので」千尋はそこまで話した。夫の名前を明かさないことが、嘘のように感じる瞬間もあった。けれど、会社が定めた必須の関係申告は済ませている。誰かの私生活まで、毎回公開しなければ、評価される資格がないわけではなかった。「私が、どんな名前で呼ばれるか、すべて止めることはできませんよね。その代わり、確認できることは、残したいんです」大野は千尋が持ってきた、一枚の表を読んだ。担当業務、確認者、適用範囲、確認された結果。最後の欄に、未解決の問題が書かれていた。「これは、あなたの分だけにすると、かえって変だね。今回の改善業務で、課の共通の形式にしよう」千尋は顔を上げた。「大丈夫でしょうか」「私は、もともと評価をする人だから。資料の形式がそろえば、楽になるよ」大野は直す場所に、印を付けた。「結果の横へ、基準日を入れて。適用して三日の枠と、二週間の枠を、同じ数字で比較しては駄目。確認者は、実際に見た人だけを書いてね」「はい」「その代わり、記録を作るために、お客様に使う時間を減らさないで。自分の仕事を証明するために、仕事ができなくなったら、困るから」千尋は笑って、ペンを取った。その言葉まで、聞きたかった気がした。無条件に正しいと言ってくれる味方より、同じ基準で、間違いも見てくれる上司が必要だった。会議室を出ると、
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23話. また、家で

「今日は、設置という言葉は禁止です」結衣がグラスを上げて言った。懇親会の場所は、会社から二ブロック離れた焼肉屋だった。案内画面の最初の適用を終え、課の全員が集まった。大野は遅くまで引き延ばさないことを条件に予約し、高橋は新入社員時代の飲み会の話を始めて、すぐに止められた。「係長、その話を聞くと、ますます早く帰りたくなります」颯太の言葉に、高橋は笑って、トングを渡した。「じゃあ、田中君が焼いて。僕は、過去の人として引っ込むよ」千尋は焦げた肉を一切れ、自分の皿へ載せようとして、大野に見つかった。「それを、どうしてあなたが食べるの。切ればいいでしょう」「癖なんです」「いい癖では、ないね。はさみを貸して」大野は焦げた部分を切って捨て、残る肉を千尋の皿に置いた。その小さな行動が、妙に長く目に残った。先に取ったからといって、悪い部分まで食べる必要は、なかった。ビールを一杯飲んだ千尋は、水へ切り替えた。結衣も酒の代わりに、氷水をもう一杯注いだ。颯太は、肉が焼けたか見分けようと、真剣な顔だった。「主任、結婚すると、仕事を終えて家に帰る気持ちは、変わりますか」彼が尋ねた。千尋はサンチュを折る手を止めた。「うーん……明かりが、点いていることがあるよ」「おお。それ、すごく新婚っぽいですね」「私が先に帰ったら、私が点けるんだけど」結衣が笑い、肘で千尋をつついた。「この人は、ロマンチックなことまで交代勤務なんだね」千尋は笑った。前は家に人がいると、自分の仕事が増えると思っていた。最近は、携帯電話へ『何時頃に帰りますか』と届くと、その日の終わりが、少し変わった。ちょうどそのとき、バッグの携帯電話が震えた。画面の名前を確認し、千尋は横を向いた。通話が難しいほど、うるさい店ではなかった。むしろ、それで気をつける必要があった。「はい」蓮の声が聞こえた。「食事中ですか」「はい。ただいま、終わるところです」隣で結衣がグラスを持った。千尋はわざと、テーブルの端へ、もう少し体を向けた。「近くの予定が、終わりました。よければ、迎えに行けます」「今すぐは、難しいです。片付けて移動すると、十五分ほどかかると思います」話してから、硬すぎると思った。電話の向こうでも、蓮が少し黙った。「誰か、聞いているんですか」「はい」「それなら、場所はメッセージで送ってく
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24話. 先に入れた約束

蓮がロビーを横切ってきたとき、千尋は結衣、颯太と、自動販売機の前にいた。颯太は間違えて買った飲み物を持ち、最初から欲しかったものだと、言い張っていた。「僕は、トマトが好きです」「さっき、トマトは食べるけれど、ジュースは飲まないって言ったよね」結衣の指摘に、颯太はボトルを見下ろした。「今日から、変わるかもしれませんから」千尋は笑いを噴き出した。颯太のジュースを受け取り、自分で飲むことにして、代わりに持っていた水を渡した。ほんの些細な交換だった。横から近づく人を見つけたのは、そのあとだった。「社長」三人の背筋が、同時に伸びた。蓮は挨拶を受け、少し足を緩めた。「食事は、済みましたか」「はい」千尋が先に答えた。颯太はボトルの蓋に触れて、手を離した。さっきまで気楽だった空気が、おとなしく整った。蓮はそれ以上聞かず、エレベーターへ向かった。結衣が小さく囁いた。「今、お腹がすいた。緊張して、お昼が全部消化されたのかな」千尋は手のジュースを見下ろした。自分は確かに、家であの男と、おやつを分け合う間柄だった。それでも、彼の視線が触れると、まだ靴をそろえて立ってしまう。五月の最終週だった。社内では半袖の人が増え、午後、冷房が強まるたびに、千尋は薄いカーディガンを羽織った。設置前の案内案は、最初の適用範囲を越え、次の枠を検討する段階に入っていた。颯太は、文字を大きくするとデザインが崩れると思っていた頃を、もう忘れたようだった。午後、千尋は来週の個人的な予定を、カレンダーに入れた。母の診察への付き添いと、結衣との夕食の約束があった。課の業務日程に合わせ、半休も早めに申請した。蓮からメッセージが来たのは、その直後だった。[金曜日の夜、一緒に食事をしたいです。]千尋は空いている金曜日の欄を見て、答えた。[急に、どうしたんですか。][先に、お伝えするほうがいいと思いまして。]読むと、先ほどロビーで会った彼の表情が浮かんだ。何かを尋ねようとして、やめた顔。千尋はわざと、ゆっくり返事を書いた。[私の予定も、予約していただかないと。金曜日は、まだ空いています。]すぐに返事が来た。[その時間を、私にいただけますか。]千尋は携帯電話を伏せた。思ったより、まっすぐな文章が来た。隣で結衣が、モニターを見ながら尋ねた。「白石主任、どうして急に、姿勢がよくな
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25話. 初めて、名前を呼ぶ

カレーは、少し遅れて出来上がった。千尋は鍋底を木べらでこそげ、火を止めた。蓮が丁寧すぎるほど切った玉ねぎは、跡形もなく煮崩れ、大きさの違うじゃがいもは、無事、火が通った。千尋は小皿へ、一口分を取った。「熱いですよ」蓮は先に言ったが、千尋はもう、口に入れていた。慌てて息を吸うと、彼が水を差し出した。千尋は二口飲み、親指を立てた。「おいしいです」「温度のために、正確な判断が難しいのではありませんか」「そこまで、やけどはしていません」蓮も味を見た。千尋は彼の顔を見てから、意識して目を離した。おいしくなければ、言うだろう。好みが違うなら、次に変えればいい。今日の夕食を成功させなければ、この家にいられなくなるわけでもない。その事実が、不思議と気楽だった。食卓にはカレーと冷水、半分残ったたくあんの袋だけが並んだ。蓮はTシャツの袖を一度まくった。いつもより軽い服装で、食器を取る動作まで、違って見えた。「金曜日は、いつも、こんなに早く帰れますか」「いつもは、難しいです」「そうですよね。私にも、そういうときがあります」「でも、約束があれば、先に合わせてみます」千尋は頷いた。できない約束をしない人と、ご飯を食べていた。「今日は、待っていて、どうでしたか」彼女が尋ねた。蓮はスプーンを置いた。「玉ねぎを切っていたので、退屈する暇はありませんでした」「始めるのが、早すぎました」「早く、用意しておきたかったんです」千尋は半分空いた皿を見た。どうやら、彼が用意したかったのは、カレーだけではないらしかった。夕食のあとは、並んで食器を洗った。蓮が洗い、千尋が水気を拭いて、棚へ入れた。一つのコップを同時につかみ、二人とも離さなかった。蓮は遅れて手を引き、千尋は先につかんだコップを、ゆっくり持ち上げた。「私が、しまいます」声が少し小さくなった。蓮の手が離れても、手の甲に触れた温かさは、すぐには消えなかった。片付けのあと、千尋はベランダのドアを少し開けた。夜気に、初夏の匂いが交じっていた。洗ったスリッパが、また床へきちんと並び、室内灯の映るガラスに、二人が一緒に現れた。蓮がソファに座ると、千尋は向かいではなく、隣を選んだ。手のひら一つ分ほど、離れた席だった。彼は一瞬、千尋を見たが、距離を縮めなかった。テーブルに、それぞれの本が置かれていた。蓮が本を取ろ
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26話. 出張名簿の二人

「神戸の現場点検は、白石主任に行ってもらいます」大野は会議室の画面に選定表を映した。応募した三人の名前の横に、担当履歴と現場質問票の評価が並んでいた。千尋はペンを握る手に力を込めた。「顧客の問い合わせを設置の動線に当てはめた点数が、いちばん高かった。高橋係長が全体の取りまとめ、白石主任は顧客との接点の確認。異論は?」颯太が手を挙げた。「異論ではなく、お願いです。現場のおやつの写真を、お願いします」「田中君は、おやつの写真の代わりに、回収が遅れた案件を分類して送ってね」小さな笑いの中で、千尋は選定表をもう一度見た。自分の名前の下にある根拠が、うれしかった。誰かの妻だから、できた空席ではなかった。「質問票のうち、設置作業員の方への質問は、先に送ります。現場で初めて読んだら、負担になりそうなので」「いいですね。高橋係長は、協力会社の日程を確認して」会議が終わると、結衣が千尋の肘をつついた。「新婚なのに出張なんて、旦那さん、寂しがりそう」「仕事だからね」「うん。堂々としてる。昨日、携帯を見て笑っていたのは、誰だっけ」千尋はノートパソコンを抱え、先に立った。昨日、蓮から来たのは、ただ『家に桃があるよ』というメッセージだった。そのあとの『千尋の分は残してある』で笑ったことまで、説明する必要はない。机へ戻ると、現場の日程共有メールが届いた。代表取締役社長と協力会社の懇談会が、二日目の午前に入っていた。千尋の指が、一瞬止まった。神戸という地名が、急に、仕事だけのものではなくなった。* * *キャリーケースを開けてシャツを畳んでいると、ドアが二度鳴った。「どうぞ」蓮はドアを開け、立ち止まった。ベッドの端に、薄い夏用のパジャマと書類バッグ、充電器が、きれいに並んでいた。千尋はつい、書類バッグをいちばん上へ移した。「俺も、神戸に行く」「メールを見ました。社長の予定は、ずいぶんあとに出ましたね」「協力会社が会議の日を変えた。千尋の出張名簿が出る前に、決まっていたんだ」「どうして、そんなに詳しく説明するんですか」蓮はドア枠から手を離した。「疑われるかと思って」千尋はシャツで顔を隠して笑った。初めてキスをしてからの数日、彼は意外なところで慎重になった。エレベーターの前で目が合っても、自分から近づかず、家で名前を呼ぶときは、千尋が答えるまで待っ
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27話. 予約名は、夫

店はホテルから、歩いて十分のところにあった。ガラスのドアを押すと、焼き魚の匂いと涼しい風が、一度に流れてきた。蓮は窓際で立ち、椅子を引こうとして、すでに座った千尋を見て止まった。「今日も、遅れましたか」「三分早いよ」「では、とてもよくできたということで」彼は笑い、向かいに座った。ジャケットは隣の椅子に畳まれ、シャツの袖はまくられていた。昼の社長より、数歳分、気楽に見えた。千尋はメニューを受け取り、最初のページから、ゆっくり読んだ。「食べたいものを、選んで」「そう言われると、本当に上手に選びますよ」「期待してる」千尋は旬の魚のグリルと、魚介のパスタを一つずつ選び、最後に、レモンのデザートを加えた。値段のところで指が止まらない夕食は、まだ少ない。いい気分を、わざわざ隠したくはなかった。「写真を撮ってもいいですか。母に、送りたくて」「俺も、入るように?」彼が少し身を乗り出した。千尋は笑って、携帯電話の角度を変えた。「手だけです。母は、娘婿にご飯を食べさせていないんじゃないかと、心配するので」「そんなに、気の毒に見える?」「母には、世の中の人が皆、食事を抜く人に見えるんです」最初の皿が来ると、蓮はおとなしく、テーブルに手を置いた。整いすぎた姿勢が、かえっておかしかった。千尋は写真を撮り、母に送った。すぐ『娘婿にも、たくさん食べるように言ってね』と返事が来た。最後には、千尋へ、こまめに水を飲むよう、付け加えてあった。「誰の心配が、先だった?」「蓮さんです」「順位は、悪くないね」千尋は彼のグラスへ水を注いだ。同じ家で毎日顔を合わせても、旅先の店で向かい合うと、新しく出会う人のようだった。焼き魚を切る手がゆったりし、話すたび、自分だけを見ていた。「今日、現場では、どうして何も言わなかったんですか」「何を?」千尋は絆創膏を貼った手の甲を見せた。「これです」「仕事中に、俺のせいで説明が止まったら、嫌だと思って」「よく、我慢しましたね」「今は、見てもいい?」千尋が手を出した。蓮はテーブルの下へ隠さず、軽くその手を支えた。絆創膏の端を指で押さえ、浮いたところを貼り付けた。「ひどく、しみなかった?」「擦っただけです。店で手を検査する、新婚夫婦になりましたね」「新婚夫婦なのは、確かだよね」その言葉が、やけにはっきり聞こえた。法的
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28話. 今日は、ここにいます

シャワーから出た千尋は、バッグから充電器を出した。家で借りた、蓮のものだった。ベッドの端に座り、携帯電話をつないで、また外した。廊下は静かで、窓の外から、車の通る音が低く上がってきた。彼女は通話ボタンを押した。「まだ、起きていますか」「電話を待つって、言ったよね」受話口の向こうで、紙が擦れた。千尋は時計を見た。ひどく遅いわけではないが、明日に備えて休む時間だった。「まだ、仕事ですか」「明日の資料を、まとめてた。今、終わった」千尋はつま先で、スリッパを押した。言いたいことがあるのに、最初の言葉が出なかった。蓮は先に沈黙を埋めず、待ってくれた。「充電器を、返しに行ってもいいですか」少しの間、何も聞こえなかった。「今、返さなくてもいいよ」千尋は唇を噛んだ。「わかっています」「でも、千尋が来たいなら、来て」ようやく、肩が緩んだ。蓮は部屋番号を伝え、千尋はもう一度確認した。通話を終えると、パジャマではなく、柔らかいワンピースに着替えた。髪を乾かしてバッグを持ち、浴室に置いた歯ブラシを、長く見た。千尋は歯ブラシを、小さなポーチに入れた。恥ずかしくて、笑いがこぼれた。蓮はドアを開けても、すぐには中へ引かなかった。千尋が入れるよう、横へ寄った。明るい部屋に、ソファと低いテーブル、閉じたノートパソコンがあった。大きな窓の向こうの海には、明かりが少しだけ浮かんでいた。「まずは、返却から」千尋が充電器を差し出すと、彼は受け取った。「きっちりしてるね」「人の物を、長く借りるのは嫌なので」「明日からは、一つずつ増やそうか」言葉の端にある意味を感じ、千尋はソファの横へバッグを置いた。家で互いの部屋を行き来し、毎回探した充電器だった。ごく普通の物なのに、今は、別の暮らしを約束するように聞こえた。彼は水を注ぎ、人差し指に巻いたティッシュを外した。小さな傷が見えた。「手は、どうしたんですか」「資料の封筒を開けたときに」千尋はバッグを探った。昼、センター担当者からもらった絆創膏が、二枚残っていた。一枚は魚、もう一枚は、小さな波の絵だった。「会社の社長も、紙で切るんですね」「特別に免除は、されなかったよ」千尋は笑い、魚の絆創膏を選んだ。蓮はテーブルへ手を出した。傷を拭いて貼る間、彼の視線が指先ではなく、自分の顔に留まるのを感じた。「動かないで
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29話. 朝は、白石主任

七時二十分、千尋は自分の客室から、出張用のバッグを持って出た。鏡を三度見たが、人に気づかれるほど、変わったところはなかった。エレベーターで高橋と会った。紙コップを二つ持っていた。「朝食は?」「まだです」「これ、豆乳のシリアルドリンク。朝食を取る時間は、なさそうだから」千尋は礼を言い、コップを受け取った。表情がおかしくないか、様子をうかがったが、高橋は携帯電話の設置写真だけを見ていた。「昨日、作業員の方が送ってくれたんだけど、見て。この家は、接続部分がまったく見えない」仕事の話になると、千尋の肩は自然に、いつもの位置に戻った。コップをバッグのサイドポケットへ入れ、写真を拡大した。「写真で判断できない家は、電話相談へ進む経路が必要ですね。写真を上げないと、次の画面へ行けない仕様は、外しましょう」「それだと、電話が増えるよ」「訪問のキャンセルが減るか、あわせて見る必要があります」ホテルを出るとき、携帯電話が震えた。蓮だった。『ちゃんと、下へ行けた?』千尋は高橋が車を探す間、答えた。『はい。高橋係長と移動します。』送ると、会社のメッセージと変わらなかった。もう一行書こうとしたところで、高橋がドアを開けた。千尋は携帯電話をしまい、乗った。センターの小さな会議室には、昨日会った作業員二人と、問い合わせ担当者が待っていた。千尋は新しい案内用紙を配った。一人の作業員が首をかしげた。「見込み費用と書いたら、また、正確にはいくらか、と聞かれそうですが」「正確な費用がわからない場合は、理由を書きました。追加の確認に同意するか、キャンセルするかも、先に選べるようにします」問い合わせ担当者が、実際の問い合わせを一件読んだ。レンタル料だけを見て申し込み、設置費用を理由にキャンセルした顧客だった。千尋は、その顧客が新画面を見ると仮定し、最初からボタンを押した。途中で手が止まった。案内を読んでも、キャンセルのボタンではなく、次へ、というボタンしかなかった。「言葉
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30話. 魚は、知っている

「社長の手に、魚がいる」月曜日の朝、颯太の声に、皆が顔を上げた。千尋はアイスコーヒーを口へ運んだまま止まった。社内のニュース欄に、神戸の協力会社を訪問した写真が載っていた。最初は、蓮がセンターの代表と握手する写真だった。写真の下のコメントは、業務の成果より先に、絆創膏へ反応した。『かわいいものがお好きなんですね』『ご自分で選んだのかな』。颯太は画面を拡大し、笑った。「これ、僕が持っているのと同じです。うちの姪が、いつも貼ってるもの」結衣が体を向けた。「千尋も、それを貼っていたよね。出張から帰った日」千尋はコーヒーを置いた。ストローの先で、氷がからりと鳴った。「センターでもらったの」「あそこは、絆創膏まで宣伝用に配ってた?」「違うよ。救急箱にあったもの。作業員の方の子供が好きなので、買っておいたんだって」事実だった。ただ、蓮の指へ誰が貼ったかは、その事実に含めなかった。結衣は頬杖をつき、社長の写真をまた見た。「よかった。社長が魚柄を指定して選んだなら、今日の会議は、集中できないところだった」通りかかった高橋が、画面を見て笑った。「センターの救急箱は、充実してたね。僕も、波を貼ったよ」手首の内側を見せた。絆創膏はもう取っていたが、長方形の跡が薄く残っていた。千尋は危うく、安堵のため息を、声にしそうになった。颯太が、社長の写真の横に高橋の手を並べた。「おそろいですね。今回の出張の福利厚生は、絆創膏でしたか」「福利厚生はなくて、作業台の角は鋭かったよ」大野がコーヒーを持ち、会議室から出た。「絆創膏の品評会が終わったら、写真の後ろのバナーも見て。文言が、まだ前のものだよね」写真の奥には、『簡単設置』という文言があった。千尋はすぐ、広報担当者へメッセージを送った。写真自体が悪いわけではない。けれど、新しい案内を適用しに行った現場で、従来の曖昧な文言が、いちばん大きく見えた。「修正した案内ページのリンクを、写真の説明に付けるそうです。現場のバナ
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