Todos los capítulos de 生きたまま葬られた私の、最後ののぞみ: Capítulo 11 - Capítulo 20

22 Capítulos

第11話

新居のドアは、母が合鍵を使って開けた。部屋の明かりは消えたままで、未那は戻っていなかった。リビングにあった【処分するもの】と書かれた段ボールはすでに空になり、きれいに折り畳まれて壁際に立てかけられている。母はそれをちらりと見て一瞬足を止めたが、そのままゲストルームへと向かった。ベッドの脇に、未那のスーツケースが立ててあった。ファスナーは半分開いたままだった。母はしゃがみ込み、中身をひとつずつ床へ取り出していった。服、化粧品、何枚かのレシート。診断書もなければ、薬の瓶ひとつ出てこない。スーツケースの底にある隠しポケットに触れたところで、母の手が止まった。ポケットのファスナーは糸で縫いつけられていて、縫い目は不自然に粗く、歪んでいた。母は爪を立て、必死に糸をほどいた。中から、白い薬の箱が転がり落ちた。箱には薬局のラベルが貼られ、私の名前が印字されている。その横には、森下先生の手書きのメモが貼られていた。【予備。すぐ手の届くところに置いておくこと】母は箱を開けた。錠剤のシートが未開封のまま入っており、1錠も減っていなかった。母は床に膝をつき、錠剤を1錠ずつ数え始めた。私は母の背後に漂いながら、その様子を見ていた。祖母の家にいた数日間、私もこうして1錠ずつ数えていたのだ。ただ私の場合は、数えるたびに残りが減っていった。母が最後まで数え終えても、薬の数は減っていなかった。「捨ててなかった……」誰かを起こしてしまうのを恐れるかのように、母の声はひどくかすれていた。「希美の目の前で、捨てたって言ったのに……」あの日、私が空っぽになった引き出しを前にして絶望したとき、この薬は隣の部屋にあったのだ。私から10メートルも離れていない場所に。そのとき母はリビングにいて、家政婦と一緒に私の服を無造作に段ボールへ詰め込んでいた。久弥と兄が駆けつけたとき、母はまだ床に膝をつき、薬の箱を強く握りしめていた。箱を見た久弥は、戸口で凍りついた。彼が思い出したのは、未那のことではなかった。あの日、空の引き出しの前に立った私が、もう4日も薬を飲んでいないと告げたこと。あのとき自分が何と答えたか。今はそのひと言さえ、思い出したくなかった。兄が歩み寄り、ポケットから開封された形跡すらな
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第12話

未那は後ろ手にドアを閉めると、もう久弥にすがりつくことはなく、ソファのほうへ歩いて腰を下ろし、風で乱れた髪を直した。「見つかっちゃった?」母は薬の箱を掲げた。手がわなわなと震えている。「……っ、どうして?」未那は箱を見て、ふっと鼻で笑った。「あの人に死んでほしかったからよ」まるで今日何を食べたかでも話すような、平然とした口ぶりだった。「ううん、それだけでもないか。最初はね、ちょっと嫌な思いをさせたかっただけなのよ。でもみんなが何でもかんでも言うこと聞いてくれるから、だったらいっそ最後までやり通しちゃおうって」母が掴みかかろうとするのを、兄が慌てて引き留めた。未那は母を見つめ、ゆっくりと続けた。「病気は仮病。薬を大量に飲んだのも芝居。お葬式をやってって言ったのも私だし、薬を隠したのも私。知りたいことは、全部教えてあげるわ。5年前、久弥にお姉ちゃんを口説かせたのは私なのよ。自分が養女で、お姉ちゃんが実の娘だってことくらい、とっくに知ってた。いつかみんながそれを思い出したら、この家に私の居場所はなくなるじゃない。だから、お姉ちゃんのそばに誰か置いておく必要があったの。私がいつでも自分のもとに呼び寄せられる男をね」彼女は久弥のほうを向いた。「ほらね、私が電話1本かけたら、あなたはあの人に贈るはずだったネックレスを持って飛んできてくれた」久弥の顔から、さっと血の気が引いた。未那は今度は兄を見た。「訃報を出したのはお兄ちゃん。死因を打ち込んだのもお兄ちゃん。処方箋を取り上げて、薬を受け取ったのもお兄ちゃんでしょ」次に母を見る。「死因をうつ病にしようって決めたのはお母さん。病院で、知らない人だって言ったのもお母さん」最後に、戸口に立つ父を見た。「お父さんは?いつも、家族のためだって言うだけだったよね。最初から最後まで、私は誰にも無理強いなんてしてないのよ。何回か泣いて、生きていたくないって何回か言っただけ。あとは全部、みんなが自分で勝手にうなずいたことじゃない」部屋の中で、口をきく者はひとりもいなかった。彼女の言葉には、ひとつとして間違いがなかった。それこそが、彼らには何よりも耐えがたいことだった。私はリビングの真ん中を漂いながら、この家族をただ見ていた
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第13話

未那が立ち往生したのは、空港だった。深夜1時。国際線の航空券を購入しようと、カウンターでクレジットカードを1枚ずつ差し出した。1枚目、決済できず。2枚目、利用停止。3枚目は先月母が持たせてくれたばかりの家族カードだったが、これもすでに利用停止の手続きが済んでいた。係員が顔を上げた。「お客様、ほかにお支払い方法はございますか?」後ろに並ぶ人たちが、小声で不満を漏らしはじめた。未那はカードを握りしめたまま長いこと立ち尽くし、やがてスーツケースを引きずって列を離れた。口座の残高を確認すると、数千円しか残っていなかった。この数年、海外での生活費は、ずっと小湊家が負担していたのだ。沙耶に電話をかけたが、2回呼び出したところで切られた。何度かけ直しても、つながらなかった。SNSを開くと、タイムラインの上のほうに遠縁の叔母の投稿が表示された。写真には、あの会葬御礼の挨拶状が写っている。裏の2行の文字まで、はっきりと読めた。添えられた言葉は、ひと言だけだった。【私たちは、あの日あの墓地にいました】その下には、何十件ものコメントがついていた。【あの子、追い詰められて死んだんだ】【あの養女、見たことある。お母さんに買ってもらったバッグ、毎日SNSで自慢してた】【小湊さんちのお葬式、私も行ったよ。もらい泣きまでしたのに。胸糞悪すぎる】未那はコメントを1件ずつスクロールしていき、最後まで読み終えるころには、スマホを握る指先は冷え切ったように真っ白になっていた。かつての友人たちは、一夜にして、誰ひとり返信をよこさなくなった。彼女は空港のベンチで、夜が明けるまでじっと座っていた。私はその向かいを漂いながら、身を縮め、スマホを握って震える彼女を見ていた。今度の震えだけは、本物だった。けれど、もうそれを信じる人間はどこにもいなかった。夜が明けると、彼女はタクシーで新居へ向かった。玄関の鍵は、すでに交換されていた。インターホンを押しても、誰も出てこない。彼女はドアを叩きはじめた。最初は軽く、次第に強く。「久弥、中にいるのはわかってるのよ。もう行くところがないの!前に言ってくれたじゃない。私がいつ帰ってきても、あなたは絶対にいてくれるって」ドアの向こうからは、物音ひと
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第14話

そのジュエリーショップは、ショッピングモールの3階にあった。久弥の姿に気づいた店員が、笑顔で出迎えた。「坂梨様、ネックレスの着け心地はいかがですか?」久弥はジュエリーショップの紙袋をカウンターに置いた。「このネックレスの注文履歴を見せてもらえますか」店員が記録を呼び出し、タブレットの画面を久弥に向けた。注文日は、私の誕生日の3週間前だった。備考欄には、彼自身が指定した内容が記されていた。【留め具に刻印:Nozomi。誕生日までにお届け】久弥は、その【Nozomi】の文字を見つめた。その文字を見つめているうちに、久弥は思い出した。あの日、一緒に店を訪れたのは私だったのだ。私はカウンターの前でネックレスを長いこと眺めていた。最後にそれを指さし、小さな声で言った。「これ、きれい。でも、ちょっと高いね」彼は言った。「誕生日に贈るよ」帰り道、私はずっと胸を弾ませていた。帰宅すると、壁掛けカレンダーの自分の誕生日に赤い丸をつけた。店員が画面を少し下へスクロールした。「その後お電話で、刻印を消して、そのまま持ち帰りたいとのご連絡をいただきまして」注文を変更したのは、未那から「もう生きていたくない」と電話があった日だった。「刻印はもう入っておりましたので、こちらで研磨して消すしかなくて」店員がネックレスを裏返した。留め具にある浅い研磨の跡は、文字が削り取られた痕跡だった。久弥は指の腹でその跡をなぞりながら、長いこと動かなかった。店員は少しためらってから、続けた。「そのあと、奥様が一度ご来店されました」久弥は弾かれたように顔を上げた。「ネックレスは届いたかとお尋ねでしたので、もう坂梨様がお持ち帰りになりました、とお伝えしたんです。奥様は一瞬驚いたご様子でしたが、それならよかった、と。ありがとうございましたって、お礼まで言ってくださって。私はてっきり、坂梨様がサプライズを用意なさっているのだと思っていました」カウンターについた久弥の手は強く握りしめられ、指の関節が白くなっていった。私は、とっくに知っていたのだ。あの夜、帰ってきた彼が「在庫がなかった」と言ったとき、私はうつむいてご飯を食べ、嘘を追及しなかった。つらくなかったわけではない。ただ、彼には彼の事情
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第15話

千尋は段ボール箱をひとつ抱えてやって来た。小湊家の玄関には上がらず、庭に立ったままだった。隣には森下先生がいた。両親と兄が出てきて、最後に久弥が駆けつけた。千尋は彼らを見つめた。目はまだ腫れていたが、まなざしは冷ややかだった。「希美のデスクの私物、会社から片づけるように頼まれました。電話で、そちらで処分してくださいっておっしゃいましたよね」千尋が兄を見ると、兄は気まずそうに目をそらした。「だから、私が引き取りました。これは、森下先生にしかお渡ししません」千尋は段ボールを開けた。中身はわずかだった。マグカップが1つ、畳んだカーディガン、食べかけのクッキーの箱。それから、茶封筒がひとつ。封筒は膨らんでいて、表には私の字でこう書かれていた。【お母さんの誕生日】母は息を呑み、肩を震わせた。千尋が封筒を開けると、中には紙幣と硬貨が入っていた。新しい紙幣も古い紙幣もあり、千円札や100円玉まで混じっていた。封筒にはメモ用紙が1枚挟まっていて、日付と金額が1行ずつ記されていた。毎月1回、少しずつ貯めていたようだった。最後の行には、こう書いてあった。【あと1万6千円。来月で足りる】「お母さんが一度、食事のときに腰が痛いって言ってたそうですね。長く座ってると立ち上がれないって」千尋は言った。「希美は、そのことを1年間ずっと覚えていたんです。マッサージチェアを贈ろうと決めていて、お母さんの誕生日にサプライズで贈るつもりだったんですよ」母は震える手を伸ばし、封筒に触れようとした。千尋は拒絶するように、さっと手元へ引いた。「これは希美が、お母さんに贈るはずだったものです。でも、渡せないままになったのなら、それはまだ彼女のものです」森下先生は、メモに並んだ金額を長いこと見つめてから、静かに口を開いた。「去年、彼女からカウンセリングをしばらく休みたいと言われました。理由を尋ねると、費用が高いからと。少しずつ貯金して、やりたいことがあるんだ、と。止めはしたんです。でも、今は調子がいいから大丈夫、耐えられるって笑っていました」庭が、水を打ったように静まり返った。立ち尽くす母の腰が、崩れ落ちるように曲がっていった。本当に、もう2度と伸ばせなくなったかのように。私は母のそばを
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第16話

森下先生が祖母の家を訪ねたのは、翌日の午後だった。母もついてきたが、戸口に立ったまま、敷居をまたげずにいた。久弥も一緒に来ていたが、庭に立ったまま、家の中には入ろうとしなかった。先生は祖母の古い救急箱を机の上に運び、中に入っていた薬の容器やガーゼ、あの線だらけの連絡先リストをひとつずつ取り出していった。箱の底には板が1枚敷かれていて、隅のほうが不自然に浮いていた。板をめくると、その下に1冊のノートが挟まっていた。4冊目だった。表紙は新しい。前の3冊は、あの偽の葬儀で棺に納められ、焼かれてしまった。これは、私が祖母の家に移ってから書いたものだ。先生は1ページ目を開いた。【今日、おばあちゃんの家に越してきた。電気はつく。まだ住める】2ページ目。【今日はバスに2時間乗って病院へ行った。処方箋をもらえた。そのあと、お兄ちゃんに処方箋を奪われた。大丈夫、明日また考えよう】3ページ目。【今日は薬がなかったけど、ちゃんと起きた。床を拭いた。おばあちゃんの家を、汚しちゃいけない】4ページ目。【今日、お母さんの好きなあのお店の前を通った。栗まんじゅう、ひとつ買いたかった。お兄ちゃんにもらったお金には手をつけられないし、自分の持ち合わせだけでは足りなかった。また今度にしよう】戸枠をつかむ母の手に、ぐっと力がこもった。5ページ目は、葬儀の日だった。【今日、自分のお葬式に行った。千尋が来てくれたのに、そばに行けなかった。お兄ちゃんが読んだ弔辞は、ひと言も覚えていない】次が、最後のページだった。そのページにはびっしりと文字が書き込まれ、1行ずつ線で消されていた。筆圧で深く刻まれた線で、ところどころ紙が破れていた。先生はノートを窓辺へ持っていき、窓から差し込む光に透かして、ようやく下の文字を読み取った。【お母さん、覚えてる?私が小さいころ……】線で消されていた。【お父さん、お願いだから……】線で消されていた。【お兄ちゃん、薬……】線で消されていた。【久弥、あのとき言いかけたこと……】それも、線で消されていた。ページ全体で、最後の1行だけが消されずに残っていた。【もう、誰のことも責めない。ただ、すごく疲れちゃった】母はもう立っていられず、戸枠にす
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第17話

クローゼットのうち、私が使っていた半分のスペースは、彼が記憶しているよりもずっと、がらんとしていた。葬儀の前に母が服を段ボールに詰め、棺に納めるもの以外、その大半を捨ててしまったからだ。残された数着は、未那のワンピースに場所を奪われ、いちばん奥の隅へ追いやられていた。久弥は未那の服を1着ずつ取り出し、床へ次々と放り出した。クローゼットのいちばん奥に、紙の箱がひとつ置かれていた。青いリボンが結ばれ、その下にカードが1枚挟まっている。【3回目の結婚記念日、おめでとう】私たちの結婚記念日は、来月に迫っていた。久弥がリボンをほどくと、箱の中には黒い長傘が1本入っていた。柄には、小さな文字が刻まれている。【これからは雨の日も、外で待たなくていいよ】傘の下には、手紙が1通挟まっていた。封はされていなかった。便箋を取り出す彼の手は、小刻みに震えていた。【久弥へこの手紙を書いている今、あなたは書斎で未那とビデオ通話をしている。私は邪魔しなかったわ。本当は、ずっと気づいていたことがある。あなたが初めて、私の笑顔が綺麗だと言ってくれたとき、あなたが見つめていたのは、私の目じゃなかった。マンションのエントランスであなたが待っていてくれたあの日は、未那の誕生日でした。覚えていたけど、その先は考えないようにしていた。結婚してからも、私を見ているあなたが、ときどき上の空になることがあった。上の空のとき、誰のことを考えているのか、私にはわかっていた。出ていこうと思ったこともある。でも、私が熱を出したときには、あなたは夜中に起きてお粥を作ってくれたし、薬を飲んで吐いてしまったときには、背中を優しく叩きながら、ゆっくりでいいよと言ってくれた。そういうとき、あなたが見ていたのは私だった。だから、このまま一緒に生きていこうと思った。いつか、あなたが私だけを見てくれる日が来るかもしれないから。この傘を、あなたに贈るわ。これからは雨の日、一緒にさして歩こうね。希美】久弥は便箋を胸に押し当て、クローゼットにもたれかかるようにして、床へ崩れ落ちた。結婚1年目の冬のことを思い出した。夜中に私が熱を出すと、彼は起きてお粥を作ってくれた。途中で鍋に触れて熱がり、思わず悪態をついた彼を見て、ベッドの私は声
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第18話

警察が未那を見つけ出したのは、街外れのビジネスホテルだった。彼女は手元に残った最後の数千円で部屋をとり、2日間そこにこもっていた。ドアを開けた彼女はあの日と同じ服のままで、頬の平手打ちの痕は消えていたが、目の下には濃いくまができていた。警察官の姿を認めるなり、彼女は一瞬硬直した。それから後ずさりし、頭を抱えて部屋の隅に縮こまった。「来ないで……お姉ちゃんがまた来たの……私を連れていこうとしてる……!」先頭の警察官は冷静に彼女の様子を見ていた。「小湊未那さん。坂梨希美さんの件で、お話を伺いたいことがあります。署までご同行願えますか」未那の震えがいっそうひどくなった。「私は病気なの……双極性障害なのよ……こんな真似が許されると思ってるの……?」女性警察官が歩み寄り、立ち上がるよう促した。今度は、彼女を庇って抱きしめてくれる人間はもう誰もいなかった。森下先生と千尋は警察に事情を説明し、詳しい調査を求めていた。スーツケースの底に縫い込まれていた薬の箱は、母が自らの手で警察に提出した。あのメッセージ画面のスクリーンショットは、兄が撮ったものだった。スマホを差し出すとき、未那との関係を警察官に問われた。兄は長いこと沈黙してから答えた。「妹です……少なくとも、今までは」久弥も警察へ足を運んだ。杏奈の連絡先を渡し、あの日新居で起きたことを最初から最後まで証言した。空っぽの引き出しの前に立った私が、もう4日も薬を飲んでいないと訴えたところで、彼は長いこと言葉に詰まった。そのときどうしたのか、と警察官に尋ねられた。彼は深くうつむき、あの日自分が口にした冷酷な言葉を、一字一句違えずに繰り返した。調書を取っていた若い刑事が、顔を上げて彼を見た。その目からは何の感情も読み取れなかったが、久弥はいっそう深くうなだれるしかなかった。事情聴取の間、未那は必死に病人を演じ続けていた。泣きわめいたかと思えば急に笑い出し、かと思えば、耳元で誰かがささやいていると訴えた。警察は必要に応じて専門医の診察を受けさせることにした。医師は時間をかけて彼女に話を聞き、最後に所見をまとめた。【意識は清明。受け答えに大きな乱れは見られない。今回の診察では、双極性障害の診断を裏づける所見は確認できない】医師
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第19話

森下先生は、母の願いを聞き入れなかった。ただこう告げた。「明日の朝7時、病院の前で待っていてください」母は約束よりずいぶん早く着いた。まだ空が白み始めたばかりの時刻だった。やって来た森下先生は病院には入らず、母を連れて、道路を挟んだ向かい側のバス停へ向かった。「彼女は通院のたびに、このバスに乗っていました。まずはこのバスに乗ってみましょう。そうすれば、彼女が毎回どんな道のりを通って、ここまで来ていたのかわかりますから」バスが到着し、ふたりは乗り込んだ。バスに1時間あまり揺られ、さらに乗り換えて40分。そうしてようやく、小湊家の最寄りの停留所に着くのだ。母は窓の外を眺めながら、次第に無口になっていった。「こんなに遠いなんて……家の近くにも病院はあったのに、どうしてこんな遠くまで?」森下先生は窓の外を見たまま淡々と答えた。「家の近くの病院だと、知り合いに会うかもしれないからと。小湊家の娘が精神科に通っていると知られたら、世間体が悪いからって」膝の上に置かれた母の手が、ぎゅっと白くなるほど握りしめられた。私はふたりの後ろの空いた席に座っていた。このバスに、私は8年乗った。停留所の名前は、すべてそらで言えた。最初の1年は、よく車内で泣いた。運転手が心配して振り返るほどに。そのうち泣かなくなった。車内でひと眠りすれば、ちょうど目が覚めるころに着くことを覚えたからだ。小湊家の近くの停留所に着いたときには、もう2時間が経っていた。森下先生はバスを降りると、今度は母を連れて反対側のバスに乗り、病院へ引き返した。「通院のたびに、この往復です。4時間。1回の通院で、ほぼ丸1日がつぶれる。それでも次の日は、いつもどおり出勤していました」窓際の席に座った母は、ほどなくして腰をさすりはじめた。往復を終えるころには、腰が痛んでまっすぐに伸ばせなくなっていた。森下先生は母をちらりと見たが、何も言わなかった。森下先生が何を考えているのか、私にはわかった。あのマッサージチェアは、このためのものだったのだ。病院に戻ったのは、昼になってからだった。森下先生は母を3階へ連れていき、精神科の待合室まで来ると、壁際の長椅子を指さした。「高熱を出したとき、彼女が眠ってしまったのは、ここです」
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第20話

二度目の訃報も、兄が書いた。偽の訃報を出したときは、亡くなった経緯について書くところで手を止めただけで、あっさりと打ち込んでいた。今度は、パソコンの前に一晩中座り、書いては消すことを繰り返し、最後に2行だけを残した。【坂梨希美は、葬儀の翌日未明に永眠いたしました。先日の訃報は事実ではありません】訃報を出して丸1日が経過しても、電話は数本しかかかってこず、どれも事情を不審がる内容だった。お別れの会の会場は、前回と同じく、市の東部にある斎場の小ホールだった。係の人は彼らの顔を覚えていた。二度目の訃報に目を通したが、何も言わなかった。祭壇に飾る遺影は、別の写真にしなければならなかった。母は家中のアルバムをひっくり返して、初めて気づいた。大人になってからの私がひとりで写っている写真は、1枚もなかったのだ。家族写真の私はいつも端に立っていて、肩が半分しか写っていないものさえ何枚かあった。結局使われたのは、社員証用の顔写真だった。兄が私の勤務先の人事担当者からもらったものだ。写真の私は笑っておらず、目の下には濃いくまがあった。うつ病の診断を受けて4年目に撮ったものだった。偽の葬儀の際、ホールは参列者で埋まっていた。今回足を運んでくれたのは、遠縁の年配の親戚が2人だけで、10分もしないうちにそれぞれ家族から連絡を受け、慌ただしく帰っていった。遠縁の叔母は、親戚のグループチャットにひと言だけ書き込んだ。【今回の葬儀には、私たちは参列しません】誰も、それに返事をしなかった。兄は千尋に電話をかけた。千尋は電話越しに兄の話を最後まで聞き、しばらく黙り込んだ。「お葬式なら、もう挙げたじゃないですか。あの日、私は行きました。泣きもしました。二度目は、もう行きません」電話が切れた。兄はホールの入り口に長いこと立ち尽くしていた。係の人がやって来て、祭壇にお供えするものはありますかと尋ねた。母は首を横に振った。「ありません。娘の私物は、前の葬儀のときにほとんど整理してしまったので」言い終えて、母自身が凍りついた。前回、母は私の服や本、大切なノートを、次々と自らの手で整理したのだ。今度は、祭壇に供える私のものを何かひとつ探そうとしても、何ひとつ見つからなかった。父がポケットから
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