All Chapters of 山で拾った男が冬を約束した: Chapter 1 - Chapter 10

19 Chapters

第1話 森から現れたもの

死ぬ前に、一度だけやってみたかった。それで本当に死にかけるなんて、思ってもいなかった。イヒョンは木の幹に背を預け、息を呑み込んだ。吸い込んだ空気が、胸の真ん中でつかえた。咳をこらえようと口を押さえても、湿った森に乾いた音が漏れた。さっきまで聞こえていた人の声は、消えていた。「ドユン……」返事はなかった。携帯の画面には、「圏外」の文字だけが浮かんでいた。一度だけ、山に登ってみたかった。秋が終わる前に。ほかの人と同じように自分の足で歩いて、木々の間から差し込む日を見たかった。たった、それだけだったのに。イヒョンは最後の錠剤を、水も飲まずに呑み込んだ。喉に引っかかり、しばらく咳が止まらなかった。涙がにじんだ。「道さえ、見つかれば」登山靴の中で、足首がずきずき痛んだ。来た道をたどり直すのは、何度目だろう。どちらを向いても、見覚えのない景色が続いていた。霧が低く流れた。そのときだった。がさり。イヒョンは止まった。右手の茂みからだった。風かと思ったが、頭上の葉は動いていない。がさり、がさり。何かが枝を押し分けていた。イヒョンはゆっくり後ずさった。足元で小石が転がった。音は一度やみ、次にはもっと近い場所で鳴った。ぽきり。太い枝が折れた。茂みが割れた。最初に見えたのは、斧だった。刃先の水滴が落ちた。続いて大きな手と太い腕、濡れた髪の下の黒い目が現れた。男は肩で枝を押しのけ、イヒョンを見下ろした。大きすぎた。息もできず、イヒョンは後ずさった。「そこ――」男が手を伸ばした。かかとの下にあるはずの地面が、なかった。視界がひっくり返った。肩が岩にぶつかり、体が一回転した。伸ばした手でつかんだ草は、根ごと抜けた。最後に聞こえたのは、悪態だった。それから、誰かが斜面を駆け下りてくる音。* * *ムジンは斧を放り出し、倒れた人のそばに膝をついた。「聞こえますか」返事はなかった。濡れた髪が頬に貼りついていた。顔を覆う髪を払おうとして、ムジンは手を止めた。泥のついた手のひらをズボンで拭い、それから、そっと額にかかる髪を上げた。小さな顔だった。うなじも、袖からのぞく手首も、ひどく細かった。息はあった。頭や手足を確かめていると、かすかなうめきが漏れた。「動かないで」まぶたが少し持ち上がった。「……人、だった」「
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第2話 女性用の服はありません

「女性用の服は、ありません」イヒョンはボタンにかけた手を止めた。目の前の男は、もう背を向けていた。うなじは日に焼けているのに、耳の先だけが赤かった。イヒョンは少し、その背中を見た。女性用の服?* * *目を覚ましたのは、明け方だった。知らない天井と、薪の匂い。寝台の横に男がいた。大きな体を狭い椅子に押し込むようにして、眠っていた。斜面から引き上げてくれた人だった。斧と、ひっくり返る森を思い出した。まだ、自分が男の手首を握っていた。離すと、男が目を開けた。「どこか、痛みますか」寝起きの声が、低くかすれていた。「足首が、少し……」男は脚を見て、水を差し出した。上体を起こすと、背に枕を入れてくれた。大きな手が近づき、イヒョンはびくりとした。男はすぐ引っ込めた。「驚いたよな」「さっきは、熊かと思いました」言ってから、イヒョンは口を閉じた。男が自分を見下ろした。「熊は、斧を持ちません」イヒョンの口から笑いが漏れた。笑って咳き込むと、男の表情がすぐに固くなった。「ゆっくり」コップを支える手は、驚くほど慎重だった。イヒョンは名を告げた。「イヒョンです」男の視線が、少し顔に留まった。「ムジン」「助けてくださって、ありがとうございます。ムジンさん」答える代わりに、ムジンはストーブへ薪を入れた。* * *明るくなっても、雨はやまなかった。道を見て戻ったムジンは、沢が増水していると話した。上の尾根に救助を求める印を残してあり、水が引くまで小屋にいなければならないという。今ごろドユンは、自分を探して山を歩き回っているだろう。申し訳なかった。それなのに、ここで朝食を食べることが、少しうれしかった。食卓には温かい粥、窓の外には森があった。ムジンは向かいに座らなかった。顔を上げるたび、別の仕事をしているふりをした。「怖いですか」「いや」「じゃあ、どうして避けるんですか」ムジンは持っていた器を置いた。「避けてません」また耳が赤くなった。イヒョンはそれ以上聞かなかった。濡れた服では不快だろうと、ムジンが体を洗う湯を用意した。部屋の隅の木の浴槽を拭き、古い布を掛けて仕切りにした。水を混ぜ、肘を入れて温度を確かめた。タオルを置き、移し、畳み直した。「熱すぎたら、言ってください」イヒョンが足を下ろした。痛
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第3話 扉一枚の距離

扉の外で、足音がやんだ。イヒョンは外したボタンを留め直した。さっきまで温かい湯がうれしかったのに、一人になると浴槽の縁が高く見えた。男だというのは、それほど驚くことだったのだろうか。仕切りの布を引いた。濡れた服を脱ぎ、タオルを肩に掛けて、無事な足から慎重に動かした。怪我をした足首に重みがかかり、痛みが走った。歯を食いしばった。けれど、出ていったムジンの顔が何度も浮かんだ。浴槽に手をついた。濡れた手のひらが滑った。どん。扉が開いた。「イヒョンさん」近づいた足音が、仕切りの前で止まった。「転びましたか」「いいえ。手桶が……」手桶は棚にあった。嘘を最後まで言えなかった。浴槽の角にぶつけた膝が痛んだ。ムジンは布を開けなかった。「入っても、いいですか」「少し待ってください」大きなタオルを体に巻いてから、答えた。ようやく布が脇へ動いた。床に座り込んだイヒョンを見て、ムジンが唇を強く結んだ。「まず、足を見ましょう」「一人でできると思ったんです」「呼んでと言ったでしょう」鋭い言い方だった。イヒョンが顔を伏せると、ムジンの手も止まった。雨音が二人の間を満たした。「……俺が、急いで出てしまいました」低く付け足した。「それは、すみません」浴槽の隣に小さな椅子を寄せ、濡れた床を拭いた。立てるよう、腕を差し出した。イヒョンはつかまった。自分の手では、半分も包めなかった。「僕が男だと、困りますか」腕の筋肉がこわばった。ムジンは椅子に座らせ、タオルを合わせ直した。指先が少し肩に触れた。「怪我をした人を、一人にするべきじゃなかった」質問とは、違う答えだった。イヒョンはそれ以上聞かなかった。自分に答えたくない人がいることくらい、わかっていた。家でも、都合の悪い問いには、いつも別の言葉が返った。ムジンは浴槽に低い台を入れた。怪我をした足を湯の外に置けるよう、位置を変え、安全に座るまで手を貸した。湯に体を沈めると、こわばった背中がほぐれた。ムジンは背を向けた。「終わったら、呼んでください。今度は」広い背中を見て、イヒョンが言った。「遠くへ、行かないでください」「扉の前にいます」今度は、扉が完全には閉じなかった。* * *一人になったムジンは、軒の柱に額をつけた。冷たい木が肌を押した。中で湯の動く音がした。聞くま
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第4話 苦いものを分け合う

「毒じゃないですよね?」濃い茶色の湯気が立っていた。匂いだけで舌が縮こまるようだった。ムジンが向かいに座った。「毒なら先に言うと思いますか」イヒョンは笑いかけて、咳き込んだ。ムジンは呼吸が落ち着くまで待った。湯浴みをしてから、咳が増えている。「いつも、こんなふうに?」「もう、しばらく前からです」「飲んでいる薬は」イヒョンは濡れた上着のポケットから空の薬瓶を出した。ムジンはラベルを読んだが、知らない薬だった。「ないと危ないんですか」「早く家に帰ったほうがいいのは、確かです」それ以上問い詰めないことが、かえって申し訳なかった。「これは、ここでお茶にして飲む葉です。病気が治るとは言えません」「どうして僕だけ飲むんですか」ムジンは立って空のカップを取り、同じポットから注いで先に飲んだ。眉ひとつ動かさなかった。イヒョンも一口飲んだ。たちまち顔が歪んだ。「本当に人が飲むものですか?」ムジンの口元が、ほんの少しだけ動いた。イヒョンはその顔を見つめた。ムジンはすぐにいつもの表情に戻ったが、遅かった。「今、笑いましたよね」「笑ってません」「嘘、下手ですね」ムジンは戸棚から小瓶を取り出した。蜂蜜だった。イヒョンのカップに少し落とし、かき混ぜる。「最初から入れてくださいよ」「先に飲んでみろと言ったでしょう」そこでようやく、イヒョンは声を上げて笑った。* * *午後になると、雨が一時弱まった。ムジンは救助を求める目印を確かめに行く支度をした。水と食べ物をイヒョンの手の届くところに置き、ストーブの前には薪を積んだ。「日が暮れる前に戻ります」「僕のために、また危ないところへ行くんじゃないですよね?」ムジンは戸の取っ手を握ったまま振り返った。「いつも通る道です」戸が閉まると、イヒョンはカップの底に残った葉を見た。裏側が銀色だった。そばには、ムジンが開いたままにした古いノートがあった。日付と天気、採取した場所の横に、葉の絵が描かれている。ページをめくることはしなかった。ただ、開かれたページの下のほうにある一文が目に入った。春の葉と秋の葉を混ぜないこと。その末尾には、別の筆跡で短く書き足されていた。忘れるな。イヒョンは手を引っ込めた。許しもなく、これ以上読む気にはなれなかった。* * *帰ってきたムジンの手の甲
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第5話 帰る場所

朝、目を覚ましたイヒョンは、まず自分の手を見た。誰にも触れていなかった。椅子にはムジンの上着だけが残っている。昨夜の記憶は夢のようにぼやけていた。それでも、額にはぬるくなった布が載っていた。戸が開いた。ムジンが入ってくると、イヒョンは何となく手を布団の中へ隠した。「具合はどうですか」「大丈夫です」「起きると、めまいは?」イヒョンはゆっくり上体を起こした。いつもより胸のつかえが軽い。深く息を吸っても、すぐには咳が出なかった。珍しくて、もう一度深呼吸してみた。ムジンはそれを見守ってから、食卓に器を置いた。「お粥じゃなくて、ご飯もありますか?」ムジンの眉が上がった。「ありますよ」「そっちが食べたいです」ムジンは何も言わず戸棚を開けた。今度は、笑いかけた口元を隠しきれなかった。* * *雨がやんだのは昼ごろだった。ムジンは地図を広げた。紙の端は擦り切れ、ところどころ鉛筆で線が書き足されていた。「この道は崩れています。こっちの橋は水の下です」太い指が沢に沿って動いた。イヒョンは自分の歩いた道を探した。ドユンとはぐれた場所は覚えていたが、その先の方角はわからない。「上のほうなら、電話はつながりますか」「前はつながりました。確かめてみます」ムジンはイヒョンのスマートフォンを受け取った。充電はあまり残っていない。電源を切った。「もしつながったら、ドユンに。最近の通話にあります」ムジンの手が止まった。「家族ですか」「友達です。一緒に来たんです」「……心配してるでしょうね」イヒョンはうなずいた。ムジンは靴紐を引いた。固く結んだ結び目を、もう一度引く。「一人で外に出ないでください」「軒下までにします」「足がまだ――」「寝てばかりいたら、先に背中が固まってしまいます」ムジンは敷居と庭を見比べた。結局、椅子を外へ運び、足を載せる木箱まで持ってきた。イヒョンは笑うのをこらえた。* * *尾根へ向かう道で、赤い紐が目に入った。ムジンは足を止めた。土に打ち込まれた杭の横に、見慣れない数字が記されていた。先月ソリンが話していた測量の印だった。あのときは、山の麓のことだと思っていた。銀色の葉が生える岩陰は、ここからそう遠くない。杭を引き抜きかけて、手を止めた。代わりに地図へ場所を書き込んだ。尾根では、一瞬だけ電波
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第6話 手を貸します

「僕にもやらせてください」ムジンは斧を置いた。イヒョンの目が斧に向かい、それからムジンの顔に戻った。「そっちじゃなくて。薬草です」四日目の朝になっても、沢の下の道は通れなかった。ムジンは毎朝尾根まで行っていたが、今日も救助隊には会えなかった。何もしない時間が長くなると、イヒョンはつい布団の端をいじってしまう。ムジンは籠を食卓に置いた。「破れた葉はこっち。黒くなったものは捨てて」「きれいな葉は?」「こっちです」籠が三つ、横に並んだ。イヒョンは最初の一枚をつまんだ。裏が銀色をした、あのお茶に入っていた葉だ。茎は紫がかっている。ムジンはよく似た別の葉を取り除いた。「これは混ぜちゃいけません」「そっくりなのに」「裏返せば違います」イヒョンは二枚を裏返して見比べた。そこでようやく違いがわかった。「人も、裏返せばわかるといいのに」ムジンが顔を上げた。「どうして」「見た目だけで、何度も間違えるから」言ってから、イヒョンは口を閉じた。ムジンも黙ったままだった。湯浴みをした日のことが、食卓を挟んで二人の間に戻ってきた。余計なことを言ったと思ったとき、ムジンが葉を一枚置いた。「あのときは、俺が間違えました」イヒョンはムジンを見た。ムジンは目をそらさなかった。「これからは、ちゃんと訊きます」イヒョンはうなずいた。少なくとも今度は、知らないふりをしなかった。* * *作業には思いのほか時間がかかった。ムジンは葉をもう一度確かめ、布の上に広げた。日陰と風通しが大切だと言って、棚の位置を変えた。イヒョンはノートに日付を書いた。「天気は晴れ?」「午後に霧が出たら、それも書いてください」「僕の名前も書いていいですか?」ムジンの手が止まった。「どうして」「僕もやったっていう印です」イヒョンは返事を待った。ムジンはしばらくノートを見てから、うなずいた。採取者、ムジン。選別、ムジン、イヒョン。自分の名前が、ムジンの名前の横に並んだ。イヒョンはペン先をもう一度、紙に押しつけた。* * *午後、ムジンは屋根の雨樋を直した。イヒョンは軒下で木片を受け取った。下りてきたムジンの手のひらには、とげが刺さっていた。本人は何でもないように抜こうとしたが、先がうまくつかめない。「手を貸してください」イヒョンが小さなピンセット
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第7話 冬を訊く人

「二十四歳です」ムジンは茶碗を置いた。「急に何ですか」「僕のこと、子どもみたいに扱うから」イヒョンは食卓の下で脚を伸ばした。腫れが引き、足首は昨日より動かしやすい。今朝は壁に手をついて、一人で数歩歩けた。「子どもにこんな苦い茶を飲ませますか」「ムジンさんは、いくつなんですか?」「二十八」「たった四つ上じゃないですか」ムジンの眉が動いた。イヒョンは笑ってカップを持ち上げた。蜂蜜が前より多めに入っていた。五日目だった。ノートにはイヒョンの名前が二日続けて書かれている。窓辺には彼が選んだ薬草が干され、椅子にはムジンの服が自分のもののように掛かっていた。少しの間借りている場所だと思おうとしても、自分の痕跡ばかり増えていく。* * *昼食後、ムジンは小屋の脇の空き地へイヒョンを連れていった。外の空気を吸うには十分だった。古い木のベンチに腰掛けると、膝の上に日差しが落ちた。イヒョンは目を細めた。「こんなに暖かいのに、夜は寒いんですね」「冬はもっと寒いです」「雪、たくさん降りますか」「戸が開かなくなることもあります」イヒョンは小屋を振り返った。屋根が白く覆われ、戸口に足跡が残るところを想像した。その中でムジンは一人で食事をするのだろう。ストーブに薪をくべ、窓についた霜を手で拭いて。「雪が降ると、ここはどうなるんですか?」ムジンは向かいの森を指さした。「あの枝が、みんな雪の重みで下がります。沢の音も小さくなる」「きれいでしょうね」「来て、見ればいいでしょう」イヒョンは答えなかった。ムジンがこちらを見た。イヒョンは日差しが眩しいふりをして笑った。冬という言葉は遠かった。たった数か月なのに、ここから家までの道よりずっと遠く感じる。膝の上で手を開き、また握った。「写真は撮らないんですか」「撮ってくれる人もいないし」「景色の写真です」ムジンは咳払いをした。イヒョンは今度こそ声を上げて笑った。「じゃあ、僕が撮ります。いつか」言ってから、指先が冷たくなった。いつか。思ったより簡単に口にできた。* * *戻る途中、イヒョンの足が石につまずいた。ムジンはすぐに腕をつかんだ。イヒョンが体勢を立て直しても、手を離さなかった。小屋まではもうすぐだった。イヒョンも、わざわざ手を振りほどかなかった。戸口に着くと、壁
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第8話 つながった

電話が鳴ったのは、六日目の朝だった。尾根の岩の上で、ムジンは足を止めた。昨日は一瞬で消えた電波が、今日は一目盛りだけ残っている。画面に、同じ名前が表示された。ソ・ドユン。電話に出た。「もしもし」息の上がった声がした。「イヒョンの電話ですか?」「そうです。今、一緒に――」「イヒョンは? イヒョンはどこですか?」ムジンは木々に隠れた小屋のほうを見た。「生きています。足首をけがして、俺のところにいます」電話の向こうで何かがぶつかる音がした。誰かを呼ぶ声が聞こえ、ドユンがもう一度訊いた。「意識はありますか。息は?」「話もするし、食事もしています。咳は出ますが」「先に場所を教えてください」ムジンは地図の座標を読んだ。一度、そしてもう一度。ドユンは数字を繰り返した。そのあと別の人が電話を代わり、ムジンの説明を聞いた。救助隊員だった。崩れた道と沢の様子を確認した。反対側から入る道を検討するので、電話をつないでおいてほしいという。「小屋では電波が入りません。ここまで上らないと」「では、正午に同じ場所で待っていてください」切れる直前、ドユンが再び電話を代わった。「イヒョンに伝えてください」声が少し震えた。「迎えに行くって」ムジンは返事をした。電話を切ってからも、しばらく手を下ろせなかった。* * *イヒョンは戸口の外に座って待っていた。「今日は早かったですね」ムジンはスマートフォンを差し出した。「つながりました」イヒョンの顔が明るくなった。「本当に?」ムジンはうなずき、ドユンと話せたこと、救助隊が場所を確認したことを伝えた。イヒョンは両手でスマートフォンを受け取った。何度も指でなぞった画面に、自分の顔がぼんやり映った。「よかった」息のような声だった。よかった。道が見つかり、イヒョンは薬を飲める。自分も、やるべきことを終えられる。「いつ来るんですか」「もう一度話してみないと。たぶん、明日には」明日。イヒョンの手が画面の上で止まった。小屋の中で、やかんが沸き始めた。イヒョンは火を弱めるムジンの背中を見た。うれしかったはずの知らせが、喉につかえた。* * *正午には、自分も電話で話したいとイヒョンが言った。尾根まで歩くことはできない。ムジンは少し考えて荷物を下ろし、イヒョンの前に背を向けた。
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第9話 もう一晩だけ

出発の支度は、思ったより早く終わった。イヒョンの持ち物は、濡れて乾いた服が一着、スマートフォン、空の薬瓶だけだった。ムジンが靴についた泥を払って戸口に置くと、片付けるものはなくなった。食卓には、まだカップが二つあった。イヒョンは一つを手に取り、洗った。もっと何かやることがあればよかったのに、カップはすぐきれいになった。「置いてください」ムジンが手を伸ばした。「これまでやってもらったら、僕のすることがなくなります」返事はなかった。イヒョンはカップを拭いて戸棚に戻した。手が止まる。もともとどこにしまってあったのか、知らなかった。自分が来てからは、いつも食卓の上にあった。ムジンが隣の棚を指さした。* * *夕食は少し残した。ムジンはイヒョンの額に目を向けた。「また具合が悪いんですか」「お腹がすいてなくて」信じていない顔だった。イヒョンがもう一度匙を持って一口食べると、ムジンは水を差し出した。黙って受け取った。最初は、その大きな体とこわばった顔が怖かった。今では水の入ったコップを食卓のどちら側に置くかもわかる。熱いものは右側には置かない。イヒョンの右肩が痛むと知ってから、ずっとそうだった。イヒョンは匙を置いた。「僕が明日帰ったら、何をするんですか」ムジンは薪の籠を見た。「いつもどおりです」「薬草を採って、木を切って?」「ええ」「ご飯は?」ムジンがこちらを見た。「食べますよ」そうだろう。イヒョンは笑いかけて、やめた。知りたいのは食事のことではない。ムジンも、それがわからない顔ではなかった。* * *ムジンは小さな布の袋を作った。乾かした葉を紙に包んで入れ、ノートから一枚破って採取の日付と場所を書いた。イヒョンが書き込んだページは破らなかった。「家に帰ったら、これを見せてください」「誰に?」「診てくれる人に。ここで何を飲んだか訊かれたら」イヒョンは袋を受け取った。ムジンは少しためらい、つけ加えた。「一人で飲み続けないで。ほかの薬もあるでしょうから」「ムジンさんが淹れてくれなきゃ、飲めませんよ」語尾が小さくなった。ムジンは紙を折るふりをした。もう折ってある紙だった。イヒョンは袋を自分の服の上に置いた。持って帰るものが一つ増えた。それがうれしくて、余計に寂しかった。* * *夜が更けても眠れ
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第10話 振り返る人

「イヒョン!」その名を呼ぶ声に、ムジンが先に手を離した。イヒョンが目を開ける。ムジンは寝台のそばに座っていて、手が触れていたところには温もりが残っていた。外で、何人もの足音がした。七日目の朝だった。ムジンが戸を開けると、救助隊員が身分を名乗って入ってきた。その後ろから、濡れた登山服姿の男が敷居をまたいだ。ドユンだった。イヒョンを見つけた途端、その顔が崩れた。「おまえ、本当に……」言い終えられず、寝台の前に膝をついた。手を伸ばしたものの、どこに触れればいいかわからないように止まった。イヒョンが先にその手を取った。「大丈夫だよ」ムジンは戸のそばへ退いた。もともと自分の場所ではなかったと思えば、楽になれるはずだった。ドユンはイヒョンの手を離さなかった。* * *医療スタッフが状態を確かめる間、ムジンは質問に答えた。見つけた場所。意識を失っていた時間。けがをした箇所。熱を出した夜。一つずつ、順を追って話した。イヒョンはその正確な記憶に驚いた。自分には、夜が長かったことしかわからなかった。ムジンは薬草の袋と記録を渡した。医療スタッフは成分を確認すると言って、別に保管した。隊員たちは移動する道を確かめた。部屋がたちまち狭くなった。寝台と食卓の間を何人も行き来する。ムジンはそのたびに身をよけた。イヒョンが彼を捜して顔を向けても、誰かの肩に遮られる。「ムジンさん」ようやく近づいてきた。イヒョンは着ている大きなシャツを見下ろした。「この服……」「着ていってください」「返さないと」「ほかにもあります」嘘だった。イヒョンは、ムジンが箱の前でいちばん小さい服を選んでいた姿を覚えている。この服は、どうでもいいものではなかった。折り返した袖に触れた。返すとは、もう言わなかった。約束を口実にしたくなかった。* * *外でドユンがムジンに頭を下げた。「本当にありがとうございました。どうお礼をしたらいいか」連絡先を訊かれ、ムジンはソリンの薬草店の名前と麓の住所を書いた。自分の電話は山ではほとんどつながらないと説明する。「何か必要なことがあれば、必ず言ってください」ムジンは小屋の中を見た。イヒョンが靴を履いている。隊員に体を支えられ、少し顔をしかめた。ムジンの足が勝手に動きかけて、止まった。もう、助けてくれる人がいる
last updateLast Updated : 2026-10-18
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