All Chapters of 病弱な従妹に思いやりがない」? 婚約者様、それが私に何の関係が?: Chapter 1 - Chapter 10

16 Chapters

1 これは一体何度目だろう?

「ごめん! エミリーが今日は熱を出したから……」 何度目だろう。 その一文を目にした瞬間、私は手の中の便箋から、そっと視線を外した。  ほんの少し前まで、私は鏡の前に立っていた。  午後の外出に合わせて選んだ淡い青灰色のドレスの裾を、最後にひと撫でして、手袋の片方だけをはめ終えたところだった。  帽子には白い小花の飾りを控えめにつけてもらっている。  鏡台の前には真珠の耳飾りが二つ、行儀よく並べられたままだった。  本来なら、もう間もなく婚約者が迎えに来るはずだった。  リチャード・グランヴィル。  私――イブリン・アシュフォードの婚約者であり、家同士の約束のもとに結ばれた相手だ。  幼い頃からの付き合いではないけれど、正式に婚約が整ってからは、互いの家を行き来する機会も増え、劇場や茶会へも何度か連れ立って出かけてきた。  少なくとも、そういう形の穏やかな未来を、私は思い描いていた。  けれど今、私の手の中にあるのは、その約束をまたひっくり返す短い手紙だった。  便箋には続けて、急いで書きつけたような文字が並んでいる。『様子が落ち着くまで、今日はそばにいてやりたい。埋め合わせは必ずする』 その最後まで読んでから、私はようやく小さく息をついた。  騒がしい落胆ではない。  慣れてしまった失望が、静かに肩へ降りてくるような、そんなため息だった。「お嬢様……」 控えめな声で呼びかけたのは侍女のメアリだった。彼女は扉のそばで、気づかわしげにこちらを見ている。「今日は、いかがなさいますか」 どうするも何もない。  そう思いながらも、私はすぐには答えなかった。  さっきまでの自分の姿が、妙に細かく頭に浮かぶ。  鏡の前で髪の流れを整えたこと。メアリが裾を直してくれたこと。紅茶に合わせて出すはずだった焼き菓子を、料理人が朝から用意していたこと。  そんな、ほんのささやかな支度の一つひとつが、いま急に宙ぶらりんになってしまったようで、何とも言えない。  約束を取りやめる手紙を受け取るたび、私はいつも同じことを思う。  外出そのものが駄目になったことより、そのために整えていた時間ごと、ぽっかり形を失ってしまうことのほうが、ずっとむなしいのだと。「……予定は取りやめね」 そう言って、私は手
last updateLast Updated : 2026-10-21
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2 温かい母の言葉

 私は机の上に置いた手紙を、あらためて見下ろした。「埋め合わせは必ずする、ね……」 口に出してみると、その文句の軽さがいっそう際立つ。 リチャードはきっと、嘘をついているつもりはないのだろう。 本気でそう思って書いているのだと思う。思うからこそ、かえって始末が悪い。「また、お断りでしたか」 不意にかけられた声に振り向くと、母が扉のところに立っていた。 いつからそこにいたのだろう。 私が返事をするより先に、母は室内へ入り、鏡の前に置かれた帽子や、手袋、そして机の上の開いた手紙をひと目見て、おおよその事情を察したらしかった。「ええ」 私はそう答えた。「エミリー様が、今日は熱を出したそうで」 母は眉をわずかに寄せた。 露骨に顔をしかめるほどではない。けれど、その沈黙には、聞き飽きたという気配が確かにあった。「……そう」 短い相づちのあと、母は私のそばへ歩み寄る。 そのまま鏡台の前に立つ私を見て、片方だけはめた手袋に目を留めた。「出かける支度は、ほとんど済んでいたのね」「はい。ちょうどこれから耳飾りをつけようと思っていたところでした」 そう言って、私は真珠の粒をひとつ摘まみ上げた。 指先で光が転がる。白く、丸く、きれいだった。 きれいなものほど、こういう時には少しだけ腹が立つ。「リチャード様から、お詫びは?」「ええ、一応は。埋め合わせをすると」 母はそこで、ほんの小さく息をついた。 それは呆れにも似ていたし、怒りにも似ていた。けれどどちらでもなく、もっと長い時間を経たあとの疲れのようにも思えた。「イブリン」「何でしょう、お母様」「あなたは、あの方に対して、ずいぶん我慢強くしてきたわね」 私は少しだけ目を伏せた。 我慢強く。 その言葉はたぶん正しい。正しいけれど、褒め言葉のようには聞こえなかった。「婚約というものは、多少の行き違いがあっても、すぐ顔に出すものではありませんもの」「そうね。けれど、いつでも黙って受け入れることが、美徳とは限らないわ」 母の声は静かだった。 静かなのに、その言葉は思いのほか真っすぐこちらへ届いた。 私は思わず、手にした耳飾りをまた鏡台へ戻した。 かすかな音がして、白い粒がもう一つの隣へ収まる。「私、別に、怒っているわけではないのです」 口に出してみて、自
last updateLast Updated : 2026-10-21
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3 婚約者リチャードの来訪

 お母様が部屋を出てからも、私はしばらく鏡の前に立ったままだった。  帽子の飾りを外して、真珠の耳飾りを小箱へ戻して、片方だけはめていた手袋も脱ぐ。  そうやって支度をほどいていくうちに、さっきまで胸の内にあったはずの外出の楽しみが、指のあいだからこぼれていくみたいだった。  こういう時に嫌なのは、約束そのものが駄目になったことだけじゃない。  そのために整えていた時間まで、一緒にしぼんでしまうことだ。  鏡の中の私は、少し前までの私とほとんど同じ顔をしていた。  髪も乱れていないし、頬の色だってまだ残っている。  なのに、ついさっきまでの気分だけが、すっかりどこかへ消えていた。  机の上には、リチャードからの手紙が置いてある。『ごめん! エミリーが今日は熱を出したから……』 最初の一文だけでも、もう十分だった。続きを読み返す気には、どうにもなれない。  私は便箋に手を伸ばしかけて、やめた。  読み返したところで文面が変わるわけでもないし、私の気持ちが軽くなるわけでもない。  その時、扉が控えめに叩かれた。「お嬢様」 メアリの声だった。「どうぞ」 入ってきたメアリは、いつもよりわずかに言いにくそうな顔をしていた。  こういう時の彼女は、こちらが何を聞かされるのか、自分でも分かっている顔をする。「……リチャード様が、お見えです」 「今?」 思わず聞き返してしまった。「はい。どうしても直接お話ししたいと」 私は一瞬、何も言えなかった。  来られないと手紙を寄越しておいて、その日のうちに訪ねてくる。  丁寧と言えば丁寧なのだろう。  けれど、その丁寧さが少しもこちらの心に沿っていないから、かえってたちが悪い。  たぶん彼の中では、きちんと説明しに来た、自分は誠実だ、くらいのつもりなのだろう。  そう思うと、腹立たしいというより、妙に白けた。「どちらに?」 「応接間にお通ししております。奥様が」 お母様らしい、と思った。  逃げるな、でも曖昧に丸めるな、ということなのだろう。「……分かったわ。すぐに行きます」 メアリが一礼して下がる。  扉が閉まってから、私はもう一度鏡を見た。  泣いたあとのような顔ではない。怒って真っ赤になっているわけでもない。  た
last updateLast Updated : 2026-10-21
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4 「わかってくれると思っていた」

「急に来てしまってすまない、イブリン」 「ええ、本当に急ですこと」 自分でも驚くほど、声は穏やかだった。  リチャードは一瞬だけ言葉を詰まらせたものの、すぐに座るよう勧めてきた。  私も向かいへ腰を下ろす。紅茶はすでに運ばれていて、湯気が細く立っていた。  それが、かえって妙におかしかった。  約束を壊しに来た人と向かい合って、行儀よくお茶を前にしているのだから。「どうしても手紙だけでは済ませたくなくて」 「そうでしたの」 「きちんと説明したかったんだ」 きちんと。  その言葉を聞いた時、私はふと、ほんの少し前の自分を思い出した。  帽子を整えて、耳飾りを出して、今日の午後のために支度をしていた私。  あの時間に対して、彼はどれだけ“きちんと”向き合ったのだろう。  そう思ったけれど、口には出さなかった。「エミリーのことなんだ」 「お手紙で伺いましたわ。お熱が出たと」 「ああ。ただ、熱そのものはそれほどでもないらしい。医師も、休めば落ち着くだろうと言っていた」 ならばなおさら、と思った。  けれど私は黙っていた。  リチャードは私の沈黙を、話の続きをうながすものと受け取ったらしい。「でも、ひどく心細がっていてね。私が帰ろうとすると、不安そうな顔をするんだ。あの子は昔からそういうところがあって……」 私はカップに手を伸ばした。  指先に触れた磁器はほどよく温かい。なのに、その温かさがこちらへ移ってくる感じはしなかった。「そうでしたの」 「うん。だから、今日はどうしてもそばにいてやらないとと思って」 「でも、こちらへは来られたのですね」 私がそう言うと、リチャードは少しだけ目を見開いた。「それは……君に何も言わずに済ませるのは良くないと思ったからだ」 「なるほど」 なるほど、と返しながら、私は少しだけ笑いたくなった。  おかしさからではない。あまりにも彼らしい理屈だったからだ。  エミリーのそばを離れられないほど案じている。  でも、その足で私のところへは来る。その矛盾を、彼は矛盾と感じていないらしい。「イブリン、そんな顔をしないでくれ」 「どんな顔でしょう」 「責めているみたいだ」 私はカップを戻した。  責めている?  そう感じる程度に
last updateLast Updated : 2026-10-21
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5 「私に何の関係がございますの?」

「どんな人だと思っていらしたのです?」 私が尋ねると、リチャードは少しためらってから言った。「優しくて、思慮深くて、事情を汲んでくれる人だと」 私は思わず、かすかに笑ってしまった。「それは、あなたにとって都合のよい人、ということではなくて?」 「イブリン」 「病弱な従妹に思いやりがない、とおっしゃりたいのでしょうけれど」 そこまで言ってから、私ははっきりと言った。「リチャード、いえ婚約者様、それ、私に何の関係がございますの?」 空気が止まった気がした。  窓の外で木々が揺れている音が、急に遠く聞こえる。  リチャードは、私の言葉をすぐには飲み込めなかったらしい。間の抜けた顔で、まばたきをする。「……従妹だぞ?」 「ええ。あなたの、ですわね」 「家族みたいなものだ」 「でしたらなおのこと、あなた方の側で何とかすべきことですわ。私との約束を何度も壊して当然の理由にはなりません」 ようやく彼の顔色が変わった。  責められているのだと、そこで初めて本格的に理解したのだろう。「……冷たいな」 その一言で、私は本当に呆れてしまった。  冷たい。  何度も待たされて、譲らされて、それでも表立って責めずにきた婚約者に向かって、まず出てくるのがその言葉なのか。「約束を違えた相手に向かって、それをおっしゃるのですね」 「君は大げさだ」 「大げさ?」 自分で繰り返してみると、その言葉はあまりにも軽かった。  私は立ち上がった。  このまま座っていると、もう少し見苦しいことを口にしてしまいそうだったからだ。  泣きはしない。でも、腹の底に溜まっていたものまで、そのまま全部ぶつけてしまう気がした。「本日は、もうお帰りくださいませ」 「イブリン、待ってくれ。私はただ、分かってほしかっただけなんだ」 「ええ。分かりましたわ」 私は自分でも驚くほどきれいな声で言った。「私との約束は、あなたにとって、その程度なのだと」 「そうじゃない!」 「では、どう違うのです」 リチャードは口を開いたまま、しばらく何も言えなかった。  その時だった。「それは、ぜひ私どもも伺いたいところだな」 応接間の扉が開いて、低い声がした。  振り向くと、そこにはハロルド兄様が立っていた。  その後ろにはジョン兄様もいる。  二人とも、いつか
last updateLast Updated : 2026-10-21
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6 ようやく言えた

 自室へ戻ってからも、私はしばらく落ち着かなかった。  鏡の前の椅子に腰を下ろしてみても、何かを読む気にはなれないし、刺繍籠に手を伸ばす気にもなれない。  ただ、さっき応接間で口にした言葉だけが、耳の奥に残っていた。 ――婚約者様、それ、私に何の関係がございますの? 言ってしまった、と思う反面、ようやく言えた、という気持ちもあった。  あれを口にしたからといって、急に何かが軽くなるわけではない。  それでも、ずっと胸の内に溜めていたものに、やっと形がついたのは確かだった。  扉の外で、足音が止まる。「イブリン、入るわよ」 キャサリン姉様の声だった。「どうぞ」 入ってきた姉様は、私の顔を見るなり、まず大げさに慰めるようなことを言わなかった。それがありがたかった。  いま優しくされすぎたら、かえっていたたまれなくなっていたと思う。「リチャード様はお帰りになったわ」 「そう」 「ハロルドとジョンが、きっちりお見送りしたから安心なさい」 その“きっちり”に、私は少しだけ口元をゆるめた。  姉様もそれを見て、ようやくほっとしたように息をついた。「お父様とお母様が、下へいらっしゃいって。私もいるから」 私は立ち上がりながら、無意識にスカートの皺を撫でた。気持ちを整えるための癖みたいなものだと、自分でも分かっている。「……ずいぶん大ごとになってしまったわね」 「なって当然よ」 姉様はあっさり言った。「あなた、今まで黙りすぎていたのよ」 その言い方はきつくなかったけれど、私には返す言葉がなかった。  家のため。婚約者の身内の事情。穏やかに済ませるため。そんなもっともらしい理由を自分で並べて、黙ることに慣れていたのは確かだからだ。 姉様と並んで階段を下りる。  夕方の屋敷は、昼間の明るさがすっかり薄れていて、廊下の端に置かれたランプの火がやわらかく揺れていた。  その灯りを見ていると、不思議と少しだけ気持ちが静まる。  小さな居間へ入ると、お父様とお母様が先に座っていた。  ハロルド兄様は暖炉のそばに立ち、ジョン兄様は窓辺に寄りかかるようにしている。みんなの視線がいっせいに私へ向いた。  責める顔ではなかった。  気づかなくて悪かった、とでも言いたげな、静かな顔だった。「おいで、イブリン」 お父様に促されて、私はお
last updateLast Updated : 2026-10-21
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7 もう考えなくていい

「それに」と姉様は続けた。「本当に大事に思っている婚約者なら、何度も同じ目に遭わせた時点で、もう少し必死に埋めようとするものよ。今日のリチャード様には、それが見えなかったわ」 私は目を伏せた。 見えなかった。 その一言が、ひどく胸にしみた。 なぜなら、私自身うっすら感じていたことを、姉様がきっぱり言ってくれたからだ。 リチャードは私を失望させていることには気づいていても、それを本気で取り返さなければならないほど大きなことだとは、思っていなかった。「応接間での話を聞く限りだが」 ハロルド兄様が口を開く。「あいつは、自分が“事情を説明すれば済む側”にいると思っていたな」 私は顔を上げた。 その言い方が、あまりにも正確だったからだ。「はい……そうだと思います」 「しかも、お前なら分かってくれる、と」 「ええ」 答えた途端、情けなさがこみあげそうになった。 分かってくれる。聞き分けがいい。落ち着いている。そういう言葉で、どれだけ都合よくこちらを扱ってきたのだろう。 お母様が私を見つめる。「イブリン。ひとつだけ聞くわ。あなたはこの婚約を、まだ続けたい?」 部屋の空気が、ぴたりと止まった気がした。 私はすぐには答えられなかった。 考えるふりをして時間を稼いだのではない。ただ、その問いを正面から向けられるのが初めてだったから、胸の内のものが一気に動いたのだ。 私は続けたいのだろうか? 家同士のこと。体面。これから先の話。そんなものが頭をかすめたあとで、それでも最後に残ったのは、今日の応接間でのリチャードの顔だった。 困ったような顔。責められているのが不本意そうな顔。 そして、私に向かって、冷たいだの大げさだのと言った口元。
last updateLast Updated : 2026-10-22
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8 なぜ、あんなふうに言われたのか?

(リチャード視点) イブリンの家を出たあとも、僕はどうにも釈然としなかった。 馬車に乗り込んでからも、さっきの応接間の空気が肌にまとわりついている気がする。 ハロルドの冷えた声も、ジョンのあからさまに不愉快そうな顔も、まだ目の前にあるみたいだった。 けれど、いちばん耳に残っているのは、やっぱりイブリンの言葉だった。 ――婚約者様、それ、私に何の関係がございますの? あんな言い方をするとは思わなかった。 イブリンはもっと穏やかな人だったはずだ。 落ち着いていて、分別があって、こちらの事情をくんでくれる。少なくとも僕は、ずっとそう思っていた。 だから今日だって、ちゃんと顔を出して説明すれば分かってくれるはずだと考えていた。 手紙だけでは足りないと思った。 それなりに悪いことをした自覚はある。約束を取りやめたのは事実だし、イブリンががっかりするだろうことくらいは分かっていた。 だからこそ、きちんと話しておきたかったのに。 なのに、どうしてああなったのだろう。 僕は窓の外を見た。流れていく街並みは、夕暮れの色に沈みかけている。 エミリーが熱を出したのは本当だ。 朝から顔色が悪くて、身体もだるいと言っていたし、昼前には目に涙まで浮かべていた。 医師はたいしたことはないと言ったけれど、本人があんなふうに不安そうにしていたら、放っておけるはずがない。 しかも、僕が出かける支度をしていた時、エミリーは細い声で言ったのだ。「……行ってしまうの? 今日は、そばにいてくださらないの?」 あんなふうに頼られて、背を向けられる男がいるだろうか? 幼い頃から、エミリーはそうだった。 体が丈夫ではなく、ちょっとしたことで気持ちまで沈んでしまう。 周りが平気で済ませることでも、あの子には重たくのしかか
last updateLast Updated : 2026-10-22
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9 従妹の事情、婚約の事情

その夜は、話がそこで終わりにはならなかった。 お父様が「婚約は解消する」と口にしてくださったあと、私はそれでようやく一区切りついた気持ちになっていたのだけれど、皆の顔つきを見ているうちに、どうもそうではないらしいと分かった。 終わりではなく、ここからきちんと片をつける段に入った、ということなのだろう。 暖炉の火が穏やかに燃えている。 その明るさに照らされて、お父様は組んだ指先を見下ろしたまま、少し考えるように黙っていた。「イブリン」 「はい」 「お前には、今まで詳しく話してこなかったことがある」 その言い方に、私は少しだけ背筋を伸ばした。家の話だ、とすぐに分かったからだ。「エミリー嬢のことだ」 やはり、と思った。 私が目を上げると、お母様が静かに頷く。「全部とは言わないけれど、事情は存じていたわ。あなたに余計な先入観を持たせたくなくて、あまり口にしなかったの」 「事情、ですか」 ハロルド兄様が、暖炉のそばで腕を組み直した。「あの従妹の令嬢が今リチャードの家にいるのは、単に身体が弱いから面倒を見てもらっている、というだけじゃない」 その声音には、もう隠す気のない苛立ちが混じっていた。 私は何も言わず、その先を待った。「エミリー嬢の実家では、持て余していたんだ」 お父様の声は平板だった。平板だからこそ、かえって耳に残った。「聞いた話では、どうも気まぐれが激しく、周囲を振り回すわりに、本人は少しも悪いと思っていない。おまけに、兄君の縁談に差し障るということらしい」 私は思わず瞬きをした。 兄の縁談に。 それはつまり、家の内側だけで収まる困り事ではなく、外へ見せられない厄介さになっていたということだ。「そんな……」 口をついて出た私の声は
last updateLast Updated : 2026-10-23
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10 向こうから望んだご縁でしたのに

先に息をついたのはキャサリン姉様だった。「そこまで露骨に考えていたかは分からないけれど、少なくとも“我慢してくれる娘さん”だとは見ていたでしょうね」 私はうつむいた。 責められた気はしない。でも、その見方を否定しきれない自分が少しだけ苦かった。 たしかに私は、ずいぶん長いあいだ我慢していたのだ。 言えば角が立つ。黙れば済む。 そうやって、毎回ひとりで気持ちを収めてきた。 けれど、それが相手にとって「この娘は飲み込む」と映っていたなら、やりきれない。「イブリン」 お母様が穏やかな声で呼んだ。「今、そう思うのは自然なことよ。でも、あなたが我慢したこと自体が悪かったわけではないの。悪いのは、その我慢に甘えて、当然みたいに振る舞った側です」 私は頷いた。 目の奥が少し熱くなったけれど、泣くほどではなかった。ただ、固く結ばれていたものが少しほどけた時のような、じんわりした感じがあった。 ハロルド兄様が、ようやく腕を解く。「それに、今日のあいつを見ていてはっきりしたよ」 兄様の声は低い。「事情があるから仕方ない、で全部済むと思っている。妹の予定を潰し続けたことも、その場で詫びれば帳消しになる程度にしか考えていない」 私は顔を上げかけて、すぐに視線を落とした。 兄様の言っていることは、その通りだったからだ。 今日のリチャードには、追いつめられた人の切実さがなかった。 困った顔はしていたけれど、それは私を傷つけたことへの困り方ではなく、自分が責められて居心地が悪い、という類のものに見えた。 ジョン兄様が言う。「しかも、イブリンの前で“冷たい”だろ。よくもまあ言えたよね」 「ええ、本当に」 キャサリン姉様が、にっこりもせずに同意した。 姉様がああいう顔で静かに怒
last updateLast Updated : 2026-10-23
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