第一話 砂糖とミルク、ひとつずつ不動産会社に勤めていて、住む部屋がない。笑い話にするには、少し切実すぎる。昼休み、社食の隅でスマホを開くと、不動産サイトのお気に入りがまたひとつ灰色になっていた。成約済み。昨夜、内見の予約を入れようか迷っているうちに、誰かが決めてしまったらしい。「紗月、顔が死んでる」向かいに茉莉がトレーを置いた。今日の日替わりは鯖の味噌煮で、彼女はそれには目もくれず、私の画面を覗きこむ。「まだ決まらないの?」「決まらない」「期限、いつだっけ」「四月三十日」あと三週間と少し。口に出すと、思っていたより短い。今の部屋は中野の、築四十二年のマンションだ。駅から七分、家賃八万二千円。日当たりは悪いけれど、入社した年からずっと住んでいる。一月の終わりに管理会社から封書が届いて、建て替えが決まったと知らされた。立ち退き料は出るし、手続きにも問題はない。仕事柄、通知書を三回読み返して、穴がないことまで確かめてしまった。穴がないのが、いちばん困る。「同じくらいの条件なら、あるでしょ」「あった。先月までは」春の引っ越しシーズンに、同じ家賃で同じ広さを探すのがどれだけ無謀か、この一ヶ月で嫌というほど学んだ。少しでも条件がいい部屋は、内見の前に埋まる。埋まらない部屋には、埋まらない理由がある。北向きの一階、線路沿い、ユニットバスで十一万。「いっそ実家から通えば?」「静岡から浜松町まで?」「新幹線通勤の人、いるらしいよ」「定期代、会社が出してくれると思う?」茉莉は鯖をほぐしながら、出さないね、と笑った。総務部の彼女にそう言われると、本当に出ない気がしてくる。*午後は、来週締結予定の賃貸借契約書のチェックでつぶれた。法務部の私の席からは、フロアの反対側にある営業部の島がよく見える。見たくなくても見える。久世怜司は、今日も人に囲まれていた。電話を肩に挟んだまま後輩の資料に付箋を貼り、通りかかった部長に軽く頭を下げ、受話器を置くと同時に誰かの冗談に笑う。笑うと、目尻が少し下がる。そういう顔を、私は遠くからしか見たことがない。同期入社で、七年目。研修のグループも同じだった。なのに、まともに話した記憶がほとんどない。彼が法務に回してくる書類にだけ、赤字の質問がびっしり付いてくる。「第九条の『相当期間』は何日を想定していますか」「
最終更新日 : 2026-10-27 続きを読む