紙袋の底が抜けたのは、駅前の信号を渡り終えたときだった。 濡れた歩道に、エプロンと着替えが落ちた。丸い缶が転がり、街路樹の根元にぶつかって止まる。 朝倉紬は、しばらくそれを見ていた。 青信号の音が終わる。背後で車が動き始める。 拾わなければ、と思うのに、膝を曲げるだけの力が出なかった。 缶の蓋が少し開いている。 初めて給料をもらった日に買った、クッキーの型が入っていた。花と星と、小さな鳥。いつか自分の店で使いたくて、働く場所が変わっても持ち歩いてきたものだった。 紬はようやくしゃがみ、缶を拾った。 中に雨水が入っていた。「……よかった」 型は、全部ある。 そうつぶやいてから、自分がおかしくなったような気がした。 仕事も、住む場所もなくなった。 それなのに、こんなものが残っていることに安堵している。 エプロンについた砂を払い、破れた袋を抱え直した。片手では持てず、胸に押しつける。冷たい水がコートの内側まで染み込んだ。 今朝までは、帰る部屋があった。 小さな菓子店の二階。古い建物で、冬は窓際がひどく冷えたけれど、階下で焼き上がる生地の匂いが好きだった。 店主が入院し、店を閉じることになったのは先月だ。建物も手放すと聞いていた。 今日が退去の日だということも、わかっていた。 次の仕事が見つかると思っていた。住み込みの求人に、ひとつくらいは採用されるだろうと。 甘かったのだと思う。 携帯電話が震えた。 紬は軒先に寄り、濡れた指で画面を開いた。『ごめんね。やっぱり今夜は難しそう』 泊めてもらう相談をしていた知人からだった。 少しだけ画面を見つめてから、返信を打った。『大丈夫です。急にお願いしてごめんなさい』 送って、電源を落とした。 充電は、あとわずかしかなかった。 財布の中身は三千四百二十円。 明日、面接先へ行く交通費を残さなければならない。 紬は顔を上げた。 通りの向こうに、ホテルの明かりが見えた。玄関前には屋根があり、端のほうなら雨を避けられそうだった。 少しだけ。 袋を持ち直す間だけ、借りよう。 そう自分に言い聞かせ、足を向けた。 *** 玄関から離れた柱の陰は、雨がほとんど当たらなかった。 紬は荷物を足元に置き、かじかんだ手を握った。 ガラスの向こうで、花が飾られている。 磨かれ
آخر تحديث : 2026-10-28 اقرأ المزيد