あの日、あなたが選ばなかった私へ

あの日、あなたが選ばなかった私へ

last updateLast Updated : 2026-10-28
By:  伊桜らなUpdated just now
Language: Japanese
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「ここにいていい」 すべてを失った朝倉紬に、そう言って手を差し伸べてくれたのは、ホテル会社を経営する久世怜司だった。 温かな食事。眠れない夜に寄り添ってくれる気配。何もできない日にも変わらず向けられる優しさ。 彼と暮らし、恋人になった紬は、生まれて初めて、誰かの役に立たなくても愛される幸福を知る。 けれど、怜司のかつての恋人が帰国したことで、二人の日々は少しずつ変わっていく。 そして、紬が新しい命を授かった矢先、事故が起きて……。

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Chapter 1

第1話 雨の底

 紙袋の底が抜けたのは、駅前の信号を渡り終えたときだった。

 濡れた歩道に、エプロンと着替えが落ちた。丸い缶が転がり、街路樹の根元にぶつかって止まる。

 朝倉紬は、しばらくそれを見ていた。

 青信号の音が終わる。背後で車が動き始める。

 拾わなければ、と思うのに、膝を曲げるだけの力が出なかった。

 缶の蓋が少し開いている。

 初めて給料をもらった日に買った、クッキーの型が入っていた。花と星と、小さな鳥。いつか自分の店で使いたくて、働く場所が変わっても持ち歩いてきたものだった。

 紬はようやくしゃがみ、缶を拾った。

 中に雨水が入っていた。

「……よかった」

 型は、全部ある。

 そうつぶやいてから、自分がおかしくなったような気がした。

 仕事も、住む場所もなくなった。

 それなのに、こんなものが残っていることに安堵している。

 エプロンについた砂を払い、破れた袋を抱え直した。片手では持てず、胸に押しつける。冷たい水がコートの内側まで染み込んだ。

 今朝までは、帰る部屋があった。

 小さな菓子店の二階。古い建物で、冬は窓際がひどく冷えたけれど、階下で焼き上がる生地の匂いが好きだった。

 店主が入院し、店を閉じることになったのは先月だ。建物も手放すと聞いていた。

 今日が退去の日だということも、わかっていた。

 次の仕事が見つかると思っていた。住み込みの求人に、ひとつくらいは採用されるだろうと。

 甘かったのだと思う。

 携帯電話が震えた。

 紬は軒先に寄り、濡れた指で画面を開いた。

『ごめんね。やっぱり今夜は難しそう』

 泊めてもらう相談をしていた知人からだった。

 少しだけ画面を見つめてから、返信を打った。

『大丈夫です。急にお願いしてごめんなさい』

 送って、電源を落とした。

 充電は、あとわずかしかなかった。

 財布の中身は三千四百二十円。

 明日、面接先へ行く交通費を残さなければならない。

 紬は顔を上げた。

 通りの向こうに、ホテルの明かりが見えた。玄関前には屋根があり、端のほうなら雨を避けられそうだった。

 少しだけ。

 袋を持ち直す間だけ、借りよう。

 そう自分に言い聞かせ、足を向けた。

   ***

 玄関から離れた柱の陰は、雨がほとんど当たらなかった。

 紬は荷物を足元に置き、かじかんだ手を握った。

 ガラスの向こうで、花が飾られている。

 磨かれた床。柔らかそうな椅子。白いカップを運ぶ人。

 中へ入れば、温かいのだろう。

 けれど、靴の中まで濡れた自分が歩けば、あの床を汚してしまう。

 紬は柱に背を預けた。

 朝から何を食べただろう。

 店の片づけの途中で、残っていたビスケットを二枚。それから、何も食べていない。

 思い出した途端、胃のあたりが鈍く痛んだ。

 膝を曲げ、その場にしゃがむ。

 一度座ってしまうと、立ち上がることがひどく面倒になった。

 雨粒が、屋根の縁から絶え間なく落ちている。

 あれが少し弱まったら動こう。

 駅へ戻って、始発までいられる場所を探そう。

「――大丈夫ですか」

 声がして、紬は顔を上げた。

 黒い傘を持った男性が立っていた。

 濃い色のスーツに、灰色のネクタイ。三十代くらいだろうか。ホテルから出てきたらしく、肩にも靴にも雨の跡がなかった。

 紬は慌てて荷物に手を伸ばした。

「すみません。すぐ、どきます」

 立ち上がろうとして、視界が暗くなる。

 柱についた手が滑った。

 倒れる前に、腕を支えられた。

「そのままで」

「大丈夫です。少し、立ちくらみがしただけなので」

 男性は何も言わなかった。

 紬の顔を見て、それから、足元の破れた紙袋へ視線を落とした。

 恥ずかしかった。

 拾ったエプロンは汚れたままで、缶からは水が漏れている。取り繕おうにも、隠せるものが何もない。

「本当に、すぐ行きますから」

「どちらへ?」

 穏やかな問いだった。

 それなのに、紬は答えられなかった。

 駅へ、と言えばよかった。

 知り合いの家へでも、帰るところがあるとでも。

 口を開いたまま黙っていると、男性は支えていた手の力を少し緩めた。紬が一人で立てるのを確かめてから、手を離す。

「私は、このホテルの者です」

 そう言って、胸元から名刺入れを取り出した。

 一枚差し出されたが、紬は濡れた手を見下ろした。男性は気づいたのか、名刺を自分の指で持ったまま、読める向きにしてくれた。

 久世ホテルズ。

 久世怜司。

 名前の上にある肩書きを見て、紬はさらに身を縮めた。

「温かいものを用意させます。中で少し休みませんか」

「いえ、私、お金が」

「注文していただくつもりではありません」

「でも……」

 知らない人についていってはいけない。

 迷惑をかけてはいけない。

 何かを受け取ったら、その分を返さなければならない。

 頭の中に、いくつもの言葉が浮かんだ。

 怜司は返事を急かさず、玄関のほうを振り返った。視線に気づいた従業員が、扉の内側から近づいてくる。

「タオルをお願いできますか。それと、荷物を入れる袋を」

「かしこまりました」

 女性従業員は紬を見ても、驚いた顔をしなかった。ただ、すぐに戻ります、と微笑んだ。

 その普通の応対に、張り詰めていたものが少し緩んだ。

「……床が、濡れてしまいます」

 ようやく言えたのは、それだけだった。

 怜司は紬の足元を見た。

「拭けば大丈夫です」

 当然のことのような口調だった。

 紬は唇を結んだ。

 泣くほどの言葉ではない。

 そう思ったのに、うまく息が吸えなかった。

 怜司は落ちていた紙袋を拾い、底を支えて持った。

「こちらへ。歩けますか」

 紬は小さくうなずいた。

 自動扉が開く。

 温かな空気が頬に触れた瞬間、冷えきっていた指先が、痛いほどに震え始めた。

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第1話 雨の底
 紙袋の底が抜けたのは、駅前の信号を渡り終えたときだった。 濡れた歩道に、エプロンと着替えが落ちた。丸い缶が転がり、街路樹の根元にぶつかって止まる。 朝倉紬は、しばらくそれを見ていた。 青信号の音が終わる。背後で車が動き始める。 拾わなければ、と思うのに、膝を曲げるだけの力が出なかった。 缶の蓋が少し開いている。 初めて給料をもらった日に買った、クッキーの型が入っていた。花と星と、小さな鳥。いつか自分の店で使いたくて、働く場所が変わっても持ち歩いてきたものだった。 紬はようやくしゃがみ、缶を拾った。 中に雨水が入っていた。「……よかった」 型は、全部ある。 そうつぶやいてから、自分がおかしくなったような気がした。 仕事も、住む場所もなくなった。 それなのに、こんなものが残っていることに安堵している。 エプロンについた砂を払い、破れた袋を抱え直した。片手では持てず、胸に押しつける。冷たい水がコートの内側まで染み込んだ。 今朝までは、帰る部屋があった。 小さな菓子店の二階。古い建物で、冬は窓際がひどく冷えたけれど、階下で焼き上がる生地の匂いが好きだった。 店主が入院し、店を閉じることになったのは先月だ。建物も手放すと聞いていた。 今日が退去の日だということも、わかっていた。 次の仕事が見つかると思っていた。住み込みの求人に、ひとつくらいは採用されるだろうと。 甘かったのだと思う。 携帯電話が震えた。 紬は軒先に寄り、濡れた指で画面を開いた。『ごめんね。やっぱり今夜は難しそう』 泊めてもらう相談をしていた知人からだった。 少しだけ画面を見つめてから、返信を打った。『大丈夫です。急にお願いしてごめんなさい』 送って、電源を落とした。 充電は、あとわずかしかなかった。 財布の中身は三千四百二十円。 明日、面接先へ行く交通費を残さなければならない。 紬は顔を上げた。 通りの向こうに、ホテルの明かりが見えた。玄関前には屋根があり、端のほうなら雨を避けられそうだった。 少しだけ。 袋を持ち直す間だけ、借りよう。 そう自分に言い聞かせ、足を向けた。   *** 玄関から離れた柱の陰は、雨がほとんど当たらなかった。 紬は荷物を足元に置き、かじかんだ手を握った。 ガラスの向こうで、花が飾られている。 磨かれ
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第2話 温かいものを
差し出されたタオルを、紬は両手で受け取った。「どうぞ。お荷物は、こちらに」先ほどの女性従業員が、大きな紙袋を広げてくれた。厚手の、持ち手に紐のついたものだった。怜司が破れた袋をその中へ移そうとして、ふと手を止める。「触っても構いませんか」紬は顔を上げた。勝手に中を見ず、返事を待っている。「……はい。すみません」濡れた着替えとエプロンが移される。最後に丸い缶を持ち上げた怜司が、傾けないよう両手で支えた。「これは、そのままで?」「はい。中に、型が入っていて」「お菓子の?」紬がうなずくと、怜司は缶を袋のいちばん上に置いた。女性従業員に案内されたのは、ロビーの奥にある小さなラウンジだった。入口から直接見えない、壁際の席。怜司は紬が座るのを待ち、向かいの椅子を引いた。濡れたコートを脱ぐと、寒さが増した。肩に力が入る。「こちらも、お使いください」女性従業員が膝掛けを持って戻ってきた。紬は受け取ろうとして、自分の袖口から雫が落ちるのを見た。椅子の端にも、濃い染みができ始めている。「あの、やっぱり、立っていたほうが」「替えのカバーがありますから」女性は静かに答えた。「髪も、拭いてくださいね」責める様子が少しもないことが、かえって落ち着かなかった。紬はタオルを髪に押し当てた。柔軟剤ではない、清潔な布の匂いがする。「何か、食べられそうですか」怜司に聞かれ、反射的に首を振りかけた。そのとき、胃が小さく鳴った。聞こえたかもしれない。紬はタオルを握り締めた。「……少しなら」「苦手なものや、食べられないものは」「ありません」怜司は近くにいたスタッフに、スープとパンを頼んだ。それから水の入ったグラスを紬の前へ寄せる。「急がなくて大丈夫です」何を、と聞き返しそうになった。食べることなのか、話すことなのか。怜司は携帯電話を取り出したが、画面を一度見ただけで伏せた。紬の事情を尋ねることもなく、水を一口飲む。沈黙に耐えられなくなったのは、紬のほうだった。「あの。お仕事中だったんじゃ」「今日は、もう終わりです」「でも、帰るところでしたよね」「ええ」引き留めている。紬が膝掛けを外しかけると、怜司の視線が動いた。「まだ、食事が来ていません」「こんなにしていただく理由が、ないので」言ってから、きつい言い方になった
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第3話 明日の行き先
目を覚ました瞬間、遅刻したと思った。紬は上体を起こし、見知らぬ部屋に息を止めた。白い寝具。厚いカーテン。枕元の小さな時計。午前六時十二分。階下からミキサーの音が聞こえない。焼き始めた生地の匂いもしない。代わりに、かすかな空調の音がしていた。昨夜のことを、少しずつ思い出す。雨。破れた紙袋。温かいスープ。久世怜司という人。紬は布団の端を握った。本当に、泊めてもらってしまった。部屋へ案内してくれた女性従業員は、浴室の使い方を説明し、濡れた服を乾かすための道具まで用意してくれた。ベッドに入る前は落ち着かなかったのに、横になると、次に気づいたのが今だった。枕元に置いた携帯電話を手に取る。借りた充電器のおかげで、電源は戻っていた。面接は十時半。まだ間に合う。紬はベッドを下り、浴室に掛けておいたブラウスを確かめた。袖口に少し湿り気が残っているが、着られないほどではない。服を整え、洗面台の前で髪を結ぶ。鏡に映る顔は、昨夜より血色がよかった。眠っただけで、こんなに違う。そのことが、少し怖かった。もう一晩、と頼みたくなる前に出なければ。便箋は、机の引き出しにあった。『昨夜は大変お世話になりました。食事も、お部屋も、ありがとうございました』そこまで書いて、手が止まる。代金は必ず返します、と続けようとして、ペン先を浮かせた。いくらなのかも知らない。いつ返せるのかも、今は約束できない。紬は代わりに、自分の名前と携帯電話の番号を書いた。便箋を折り、借りたタオルの隣に置く。紙袋を持ち上げる前に、丸い缶の蓋を開けた。昨夜、洗って水気を拭き取った型が並んでいる。鳥の型を指でつまみ、角度を変えて見る。錆びてはいなかった。蓋を閉じ、荷物をまとめた。忘れ物がないか、部屋を一周する。最後に、乱れた布団をできる限り整えた。扉が閉まる音は、思ったより静かだった。フロントへ鍵を返すと、従業員が画面を確認した。「朝食のご用意がございますが」「いえ、もう出ますので」「さようでございますか。少々お待ちいただけますか」紬は紙袋の持ち手を握り直した。何か、不備があったのだろうか。部屋に残した手紙は、見つけてもらえるだろうか。考えていると、背後から声がした。「おはようございます」振り返る。怜司が、ロビーの奥から歩いてきた。昨夜とは違
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