愛した極道に売られた夜、小指を失った のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 3

3 チャプター

第1話 こんな女、しらない

タオルが三度目に顔へ押しつけられる前に、涼はどうにか半息を吸い込んだ。氷水が浴びせられ、鼻から喉へと流れ込む。彼女は心臓の鼓動を数え始めた。父に教わった方法だ。耐えられなくなったら数を数えろ。痛みを数字に変えるんだ、と。十九回目を数えたところで、タオルが引きはがされた。椅子ごと身体を半ば持ち上げられ、そのままコンクリートの床に叩きつけられた。彼女は肩に顔を押しつけるようにして咳き込み、血の筋が混じった水を吐き出した。手首には結束バンドが食い込んでいる。もう三日目だ。締めつけられた箇所の感覚は、とっくになくなっていた。「咳は済んだか?」向かいの男は、客にお茶が冷めていないか尋ねるような、丁寧な口調で聞いた。鷹野は折り畳み椅子に腰掛け、白いシャツの袖を肘までまくり、青磁の茶碗を手にしていた。蒼誠会本家の若頭であり、東京の裏社会で二番目の地位にいる男だ。彼がわざわざこの地下室まで足を運んだのは、彼女にたった一つ、問いただすためだった。「篠宮巡査部長」鷹野は茶の表面に息を吹きかけた。「もう一度聞く。お前の連絡担当は誰だ?」涼は顔を上げた。彼女の名は篠宮涼、二十五歳。警視庁組織犯罪対策部所属、コードネームはM-07。この界隈では、十か月ものあいだ「ミオ」と名乗っていた。数日前まで、連中も彼女をミオと呼んでいた。正体が露見したその時から、鷹野だけは呼び方を変えた。彼はすでに、彼女が警察官だと知っている。今この質問をしているのは、彼女の背後にいる人間を一人残らず吐かせるためだ。「何度も言ったでしょう」自分の声とは思えないほど、喉はかすれていた。「私は田中花子です」鷹野は、なかなか面白い冗談を聞いたとでもいうように、薄く笑った。そして隣へ指先を向ける。部屋の隅から老人が現れた。六十代半ば、骨と皮ばかりに痩せ、白い手袋をはめている。三十年にわたり鷹野の運転手を務めてきた男だ。この三日間、一言も口を利いていない。老人はバケツを持ち上げた。中の氷がガラガラと音を立てる。彼は再びタオルを水に浸した。涼はバケツを見つめ、呼吸をゆっくり整えた。話すわけにはいかない。口を開けば、連絡担当官も、同僚たちも、札幌の高校に通う少女の父親も、誰一人として生きてはいられない。二晩は耐え抜いた。三晩目だって乗り切れる。あと少し、耐えれば――廊下から革靴の足音が聞こえてきた。
last update最終更新日 : 2026-11-02
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第2話 雨の夜に

十か月前、2025年4月。歌舞伎町には、雨が降っていた。涼はホストクラブ「ルージュ」の看板の下に立ち、ガムを噛みながら、ピンクのジャケットの襟を立てた。スマホのメモをもう一度確認する。三番テーブル、沙織、売掛三十八万円。売掛とは、いわゆるツケのことだ。ホストクラブでシャンパンを入れた女が支払えなければ、ひとまず店が立て替える。その後、組の人間が取り立てに来る。回収できなければ、その借金は別の形に変わる。たとえば、風俗店で働くための契約書に。これが彼女にとって初めての仕事だった。今夜の彼女はミオ、二十二歳。群馬出身、大学中退。池袋で八か月ほどキャバクラ勤めをしていた。金に目がなく、命が惜しくて、口だけは達者。蒼誠会のフロント企業「ナイトリンク」では、計算のできる集金役の手が足りなかった。マネージャーのゆみ姐が、昨日ちょうど彼女を雇ったところだ。本名は篠宮涼、二十五歳。警視庁組織犯罪対策部の巡査部長で、コードネームはM-07。三週間前、連絡担当官の高瀬が一枚の写真を彼女の前に差し出した。写っていたのは、白いシャツを着た中年の男だった。「鷹野。蒼誠会本家の若頭だ。この界隈の店の半分は、毎月こいつに上納金を納めている。裏金はすべてこいつの手を通り、もう一冊の帳簿に記録される」高瀬は言った。「潜り込んで、その裏帳簿を見つけろ。それ以外のことには一切かかわるな」涼は、今回の潜入を志願した理由がほかにもあることを、彼には話さなかった。だが、高瀬はおそらく察していた。彼女はガムを吐き捨て、ドアを押し開けた。むっとする熱気が押し寄せた。香水と酒と煙草の匂いが混ざり合い、店内のスピーカーからは十年前のラブソングが流れている。彼女が入口で立ち止まったのは、ほんの一秒にも満たない。正面の出入口、カウンター奥の厨房口、右手の非常階段、トイレの小窓。出口は四つ。逃走経路を頭に描いてから、ようやく店内へ足を踏み入れた。そして、カウンターの一番奥にいる男に気づいた。黒いシャツ。壁にもたれ、目の前にはほとんど口をつけていないビールが一杯。三十代前半、肩幅が広く、脚が長い。襟元のボタンを二つ外し、髪は無造作に乱れていた。店で一番高いホストでさえ、隣に立てば作り物めいて見える。男の顔には気だるげな笑みが浮かんでいた。まるで、この店も、この街も、今夜の雨さえも、すべて自分に借金
last update最終更新日 : 2026-11-02
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第3話 こいつは俺の女

「瓶の栓を抜くくらい、いいでしょ?」涼は言った。 蓮は一瞬きょとんとし、それから吹き出した。彼女の手を離し、両手を軽く上げる。「わかった。俺の見立て違いだったな」 涼は手を袖の中に引っ込めた。心拍は不自然なほど落ち着いている。訓練の成果だ。だが、掌にはすでに汗がにじんでいた。 彼が見誤ったとは思えない。この動きを一目で見抜ける人間は、同業者か、潜入捜査官を見つけることに長けた人間くらいだ。 肩に手が置かれた。 「新人か?」 脂ぎった声。酒臭い息。視界の端に太い金のネックレスと、リストバンドを巻いた手が映る。男はそのまま彼女の隣に腰を下ろした。体重をカウンターに預ける。「ナイトリンクから沙織の取り立てに来たのはお前か? 俺は猿渡だ。ルージュの売掛はずっと俺が回収してる。俺のシマで仕事を横取りするなら、筋ってもんを通すんだ。わかってるよな?」 「猿渡さん」蓮の口調が、急に丁寧になった。「この子、今日が初出勤なんですよ」 「お前は引っ込んでろ」猿渡は蓮を見ようともせず、酒臭い息を涼の顔に吹きかけた。「筋ってのはな、最初の一週間の稼ぎの三割を俺に納めることだ」 涼は動かなかった。頭の中で男の情報を整理する。三十五歳前後。右手に拳ダコ。左膝に古傷。重心は右寄り。酒が回っている。三手あれば倒せる。だが、ミオはそんなことができる女じゃない。 「お兄さん、私、まだ一円も回収できてないんだけど」 「なら、先に借りを作っとけよ」猿渡の手が彼女の腰へと滑る。「俺に付き合え。利息は俺が自分で取り立ててやる」 涼はカウンターの下で、指を一本ずつ握り込んだ。初出勤の小娘が関節技を使えるはずはない。だが、ただ耐えればいいわけでもない。こういう場所では、一度なめられたら、その後は毎日つけ込まれる。
last update最終更新日 : 2026-11-03
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