奇矯な人物を生き生きと描くには、まず普通の“日常”の裂け目に目を向けるといいと感じている。表に出る
奇行だけで判断せず、むしろ反復される小さな振る舞い、ため息のタイミング、言葉の選び方を丹念に拾うと、その人固有の論理や恐れが見えてくる。
私は記録を集めるとき、声の録音や手紙、古い日記、第三者の観察メモを同列に扱う。どれも偏りがあるが、その偏りを比較することで真実味が出る。意図的な誇張と無意識のクセを分け、なぜその人がその振る舞いを選ぶのかという動機に寄り添う作業が大事だ。
背景調査も怠らない。幼少期の出来事や社会的立場、経済的事情、流行していた言語表現、特定の医療的事情がどう影響しているかをつなげると、奇矯さが単なる奇天烈さではなく、説得力ある人格の一部として立ち上がる。最終的には読者がその人物の不合理さを理解できる形に落とし込むのが目標だ。