ログイン結婚七周年目の記念日。SNSで話題の動画が目に飛び込んできた。 コンサート会場の客席で、男が片膝をつき、白いワンピースの女性にプロポーズする。 一目見た瞬間、全身の血が凍りついた。 男が着ている白いシャツは、今朝、私・水瀬雫(みなせ しずく)が夫である西園寺律(さいおんじ りつ)のためにアイロンをかけたものだ。 胸元には、私のイニシャルの刺繍が入っている。 三時間前、律は申し訳なさそうに私の額にキスをしたばかりだった。 「急に海外と会議することになっちゃって。 ごめん、雫、約束してたコンサート、行けなくなった」 なるほど、会議ではなく、他の女と一緒にコンサートに行ったのだ。 インターホンが鳴り、アシスタントが朝露に濡れた白い薔薇の花束を抱えて立っていた。 「社長はどうしても抜け出せないそうで、奥様へのお詫びの品です」 息が止まりそうだった。 私は白い薔薇が大嫌いだ。 「もし愛がなくなったら、別れの合図として白い薔薇を贈って」と冗談めかして言ったことさえある。 花束を受け取り、テーブルの上の無駄になったコンサートチケットと一緒にゴミ箱へ投げ捨てた。 スマホを取り出し、弁護士に離婚協議書の作成を依頼した。
もっと見る「そうよ、律、あの瞬間だ」私は自分の胸に手を当てた。「車の中にいるあなたを見て、私たちの間にあるのは車の窓ガラスじゃなくて、決して越えられない壁なんだって思い知らされた。私たちは住む世界が違う。結ばれる運命じゃなかったって、気づいたのよ。あなたは天上の雲、私は地べたの泥だ。雲は気まぐれに泥を憐れむことはあっても、泥が暗闇でもがく痛みなんて、永遠に理解できない」「違う!雫、聞いてくれ!」律は慌てて私の手を掴んだ。「あの時は……ただ、お前を手放したくなかったんだ!海外に行ったら、もっといい男に出会ってお前がいなくなるのが怖かった!あれは独占欲だ、愛だったんだ!」私は首を振り、彼の虚しい弁解を遮った。「律、相手の翼を折って籠に閉じ込めるのは、愛じゃないわ。あなたが私を口説き始めた時、校中の誰もが無理だと言ってくれたわ。西園寺家の御曹司が、ただの気まぐれで遊んでるだけだって。でも私は馬鹿みたいにあなたを信じてしまった。あなたがくれたほんの少しの温もりに、私は後先考えずに飛びついたの」涙が音もなく滑り落ち、頬を焼く。愛に飢えていた私にとって、律がくれたわずかな愛は、飛んで火に入る夏の虫になるには十分すぎた。けれど、先に近づいてきたのは彼だ。一生を誓ったのも彼だ。そして、先に背を向けたのも、彼だった。先に愛した彼が先に冷め、後から愛した私が深みに嵌まった。まるで、ようやく温まってきたスープを前に、相手に席を立たれたようなもの。残されたのは、冷めていく空席と、取り残された私だけ。私は立ち上がり、涙を拭った。「律、離婚協議書はもう弁護士に送ったわ。帰ってくれ。もう二度と現れないで。あなたとの最後の思い出まで、憎しみに変えさせないで」律はその場に座り込み、顔を覆って泣き崩れた。その絶望的な泣き声は、まるで世界が終わったかのようだ。だが今回ばかりは、どれほど彼が泣き叫ぼうと。彼を心から案じ、涙を拭ってくれたあの頃の雫は、もう二度と戻ってこない。離婚の手続きは滞りなく終わった。律は財産分与として、株や不動産、車など全ての資産を私名義に移した。彼が手元に残したのは、大学時代に買ったシンプルな指輪だけだった。去り際、彼は門の前で立ち止まり、私をじっと見つ
私が消えて最初の一週間。律はようやく彼女の存在の重要さに気づき始めた。深夜、疲れ果てて帰宅しても、迎えてくれるのは死のような静寂だけ。いつも彼のために点いていた暖かな明かりも、酔い覚ましの薬も、口数は少ないが常に彼を目で追っていた雫も、もういない。そんな時、彼は本能的に愛莉に癒やしを求めた。だが彼を待っていたのは、冷徹な拒絶だった。「何しに来たの?」かつての崇拝や恋心は消え失せ、そこには露骨な苛立ちしかなかった。「愛莉、姉さんの行方に心当たりはないか?何か思い出してくれないか?」律は掠れた声で、すがるように言った。愛莉は鼻で笑った。「知るわけないでしょ。あの陰気な女のことだから、どっかのドブ川で野垂れ死んでるんじゃない?」律は眉をひそめた。目の前の女が別人のように思えた。「愛莉、姉さんのことになんてことを言うんだ。俺は本気で心配してるんだぞ」愛莉は高らかに笑った。「律さん、笑わせないでよ。あの芝居はあの女へのあてつけでしょ?観客がいなくなったのに、誰に見せるつもり?」律は雷に打たれたように立ち尽くした。「芝居?あれが全部芝居だったのか?」「当たり前でしょ?」愛莉は軽蔑しきった目で彼を見下ろした。「本気で私があんたなんかに惚れてると思った?あんたが雫の大事な旦那じゃなかったら、見向きもしなかったわよ。あの馬鹿女がいなくなった今、あんたにはもう用はないの。二度と私の前に顔を見せないで!」寒風の中、律の全身の血が凍りついた。あの棘だらけの赤い薔薇のために、自分だけを見てくれていた妻を突き放し、温かい家庭を自らの手で壊したのだ。結局、自分は愛莉が雫を傷つけるための道具に過ぎなかった。一番滑稽なピエロは、自分自身だったのだ。……律は地面に跪き、膝が泥に埋もれていた。「雫、俺が馬鹿だった。最低だった。愛莉に騙されていたんだ。あの子が純粋で優しいと信じ込んでいた……一度だけチャンスをくれ。償わせてくれ、頼む!」彼の声はボロボロで、迷子の子供のように許しを乞うていた。私は彼を見下ろした。かつてあれほど誇り高かった男が、今は塵のように小さく見える。胸の中に、氷水を吸った綿を詰められたように重くて冷い。「償いだと?律、知っているの?あな
私は南国へ行き、海の見える小さな家を借りた。ここには白い薔薇はない。あるのは、潮風に揺れるハイビスカスだけだ。SIMカードを抜いて海に投げ捨て、過去との繋がりをすべて断ち切った。ここに来て三ヶ月。ネットニュースで律の記事を見かけた。【西園寺グループ社長、深夜の泥酔。離婚の危機か?】噂では、律は狂ったように私を探しているらしい。帝都中をひっくり返し、刑務所にいる実父まで締め上げたと聞いた。だが、私にはもう関係のないことだ。あの日までは。庭で日向ぼっこをしていると、門扉が激しい音を立てて蹴破られた。入り口には、充血した目と無精髭だらけの律が立っていた。彼は随分と痩せていた。かつてパリッとしていた白シャツは、皺だらけで見る影もない。私を見つけると、彼の瞳に光が戻った。「雫……!」震えながら近づこうとする彼を、私の冷たい視線が釘付けにした。「どうしてここが分かったの?」律の喉が震え、目元が赤くなる。「カードの履歴を辿ったんだ……雫、ただの一時的な癇癪だと思ってた。なのに、どうしてこんな長い間に……」私は薄く笑った。「律、知ってる?私はあなたのその自信満々なところが一番好きだったの。まるで世界そのものがあなたの足元にあるそうだ。ずっと自分に自信がなかった私が、あんなに眩しい彼に惹かれないわけがない。「でも今は、全てが自分の思い通りになると思っているその傲慢さが一番嫌い」律は私の前に崩れ落ち、手を握ろうとした。「雫、俺が悪かった。お前がいない毎日は地獄だ。お前なしじゃ生きていけない。愛莉とはもう関わっていない。お前が嫌がるなら、二度と会わない。だからもう一度チャンスをくれ、頼む!」目の前で泣き崩れる男を見ても、私の心は湖面のように静かだった。「律、問題はそこじゃない。重要なのは、私と彼女の二択を迫られた時、あなたは毎回、迷わず彼女を選んだってことだ。私の傷口がどこにあるか知っていながら、彼女のためにそこに塩を塗り込んだってことだよ」律は必死に首を振り、涙をこぼした。「違うんだ、雫。俺はただ……彼女がお前の妹だから、世話を焼いてやっただけで……」私は思わず吹き出し、同時に涙がこぼれた。「世話?身を削るようなあの偏愛を、世話って言うの?
母が飛び込んできて、問答無用で私に平手打ちを食らわせた。あまりの衝撃に耳鳴りがし、目眩がする。口の中が血の味で満たされた。母は鬼のような形相で、私を指差して罵った。「雫!この疫病神!自分の不注意を愛莉のせいにするなんて、死んじまえ!」私は熱を持つ頬を押さえ、震える声で言った。「死にかけたのは私よ。愛莉は無傷じゃない、目が見えないの?」「自業自得よ!」母は憎々しげに吐き捨てた。「日頃の行いが悪いからバチが当たったのよ!愛莉が無事だったのはただ運が良かっただけよ!これ以上愛莉をいじめるなら、今すぐあんたの酸素チューブを引っこ抜いてやるわ!」律が眉をひそめ、一歩前に出た。「義母さん、雫はまだ病気で……」「病気?どうせ同情を引くための仮病でしょ!」母は律の手を振り払った。「律くん、甘やかすのもいい加減にしなさい!こういう女は痛い目を見なきゃ分からないのよ!」律は沈黙し、私を一瞥してから顔を背けた。彼の後ろ姿を見て、心が粉々に砕け散り、二度と元には戻らない。ああ、そうか。私は永遠に、見捨てられる側の人間なのだ。私は唇を動かし、聞き取れないほどの小声で言った。「律、もう帰っていいよ、彼女たちも連れて行ってくれ……もう疲れたの……」律は私の言葉を聞いて、明らかに戸惑っていた。私がこれほどあっさりと愛莉を許し、静かになったことが意外だったのだろう。だが彼は深く考えず、私が気を引くために拗ねているだけだと思い込み、本当に愛莉と母を連れて病室を出て行った。私は自嘲気味に笑い、点滴の管を引き抜いた。手背から血が滴る。病衣のまま病院を抜け出し、沖縄行きのチケットを買った。発つ前に、母の元へ向かった。父はギャンブルで借金を重ね、挙句の果てに強盗未遂で捕まり、今は刑務所の中だ。母は今、星野家の豪邸で優雅に暮らしている。まさかそこに、律までいるとは思わなかった。律は愛莉の隣に座り、葡萄の皮を剥いてやっていた。その眼差しは、久しぶりに見る優しさで満ちていた。「雫?」私に気づいた母の顔から笑顔が消え、嫌悪の色が浮かぶ。「何しに来た?」愛莉も私に気づき、律の腕に馴れ馴れしくしがみついて挑発的な視線を送ってきた。「お姉ちゃん、律さんに会いに来