LOGIN夫の亡き親友の妻が、妊娠検査の写真をSNSに投稿した。 【あなたの精子のおかげで、私にも自分の赤ちゃんができました】 「父親」欄には、夫・綾野匠哉(あやのたくや)の名前がはっきりと記載されている。 私がコメントしたのは、ただの「?」マークだけだった。 すると、匠哉からすぐに電話がかかってきた。 「お前さ、人としての情がなさすぎだろ!彼女は夫を亡くして、ずっと一人で寂しく生きてきたんだ。ただ、子どもがいれば少しは心が和らぐって思っただけだよ。それの何が悪い? それに、真木悠真(まきゆうま)は俺の親友だったんだぞ。親友の妻を助けるのは、男として当然の義務だろ?それが義理ってもんだ、わかんねぇのかよ!」 それから間もなくして、夫の亡き親友の妻は、今度は高級マンションの写真をアップした。 【そばにいてくれてありがとう。あなたのおかげで、また家という温もりを思い出せました】 キッチンで忙しそうに立ち働く匠哉の後ろ姿が、写真の中でやけに鮮明だった。 そのとき、私は静かに思った。 ——この結婚も、もう終わりにしよう。
View More離婚の際、匠哉はよほど後ろめたい思いがあったのだろう。彼は私に多額の財産を分与してきた。私は、それをすべて受け取った。その金額は、私がこれから何年も衣食に困らず、自由に生きていけるほどのものだった。だから私は、世界一周の旅に出た。訪れる国ごとに、私は両親にその地のポストカードを送り、旅先で感じたことをブログに記録していった。そうしているうちに、私のブログは多くの読者を集めるようになっていた。一人旅を決意した私の勇気を、フォロワーたちは口々に称えてくれた。旅を通して私は、自然の美しさに触れ、自分自身の心と向き合い、ようやく私だけの人生の地図を描き始めることができた。かつての五年間の結婚生活なんて、もう前世の記憶のようだった。世界をひと巡りして久しぶりに帰省したある日、親の口から、またしても匠哉の名が出てきた。離婚後、清佳は大きなお腹を抱えてすぐに正妻の座におさまったらしい。だが、匠哉は彼女を愛してはいなかった。ただの同情だったと言い張り、何度も結婚を拒んでいたという。清佳は決して純粋な未亡人などではなかった。最初からすべては計算済みで、匠哉に近づいたのも綾野家という「玉の輿」に乗るためだった。やっとのことで私を排除し、妊娠まで果たした今、彼女がそのチャンスを手放すわけがない。清佳は「結婚しなければ子どもを堕ろす」と脅し、孫を待ちわびていた義母はすぐに動いた。「この子は綾野家の孫よ!」——そう言って、匠哉を無理やり清佳と結婚させた。しかし——その後の生活は、決して幸せなものではなかった。清佳には、いわゆる厄介な親族が大勢いた。裕福な男と結婚したと知るやいなや、ぞろぞろと綾野家に押しかけ、居座るようになった。頭を抱えた匠哉は、ついには別の家に身を移して、清佳たちから距離を置くようになった。もともと清佳は正当な形で匠哉の妻になったわけではなかったからだろう、常にどこか不安げだった。匠哉が家に帰らないと、会社まで押しかけてきては強引に連れ帰ろうとした。最初は我慢していた匠哉も、やがて嫌気が差し、仕事終わりに外で会食を入れて家に帰らない日が増えていった。だが——清佳は、そんな場にも平気で割り込んできた。何度も大事な商談をぶち壊しかけた。匠哉がまた家に戻らなかったある晩、清
向かいの席で優雅にコーヒーを啜る清佳は、匠哉の前で見せる儚げな未亡人の顔とは、まるで別人だった。カップを置いた清佳が、軽く鼻で笑うようにして私を見た。「匠哉が愛してるのは私。いい加減、離婚してちょうだい?」ようやく本性を見せた彼女の態度にも、私は動じなかった。カップを手に取り、静かに一口、コーヒーを啜った。「離婚したくないって、誰が言ったの?しつこく離婚したくないって言ってるのは、匠哉のほうよ」その瞬間、清佳の顔に一瞬の動揺が走った。だがすぐに目を吊り上げ、睨むように言い返してきた。「そんなはずない!私は彼の子を妊娠してるのよ!?結婚しない理由なんてないわ!離婚に応じないのは、どうせあなたが未練がましくすがってるからでしょう!」そう言った彼女は、ふっと口元を歪めて笑った。「あんた、まだ知らないんだね。私のお腹の子、人工授精なんかじゃないの。私と匠哉、もうとっくにそういう関係だったのよ」その言葉に、私は一瞬だけ、体が固まった。匠哉は、心だけじゃなかった。身体までも——すでに彼女に渡していた。それなのに、私の前では「お前だけだ」とうそぶいていた。あの顔で、あの声で、私を裏切りながらも誠実な夫を演じていた。心の底から、吐き気がした。私は無言で立ち上がると、目の前のコーヒーを手に取り、清佳に向かって一気にぶちまけた。「妊婦じゃなかったら、今頃どうなってたか分かってるよね」そう冷たく言い残し、バッグを持ってカフェを後にした。背後からは、清佳の取り乱した悲鳴が微かに聞こえた。カフェを出た私は、まっすぐ弁護士のもとへ向かった。バッグの中には、録音機が入っている。予感があった。彼女がわざわざ私に会いに来る理由は、善意なんかじゃないと。録音は、完璧だった。加えて、妊娠検査票にははっきりと【父親:綾野匠哉】と記されている。これだけの証拠が揃っていれば、匠哉が有責配偶者と認定されて、離婚は十分に認められるはず。そして、裁判所はその場で浮気の事実を認定。裁判所の判決が確定して、晴れて正式に離婚が成立した。判決が下った日の帰り道——匠哉は赤く腫れた目で、私の前に立ちはだかった。「聞月、そこまで俺を憎んでるのか?一度も、許す気はないのか……?」私は無言
匠哉は、かつての面影を失っていた。無精髭は伸び放題で、目の下には濃いクマが浮かび、顔色はやつれていた。私の姿を見つけるなり、ぱっと顔を明るくして駆け寄ってきた。「聞月!体調、どう?もう大丈夫なのか?」私は一歩距離を取って、淡々と頷いた。「ええ。もうだいぶ良くなったから。それじゃあ」そう言って背を向けようとすると、彼が慌てて手を伸ばして行く手を遮った。おそるおそる、ひとつの小箱を差し出してくる。中を開けると——そこには、一対の指輪が入っていた。「聞月、婚約指輪、やっと出来上がったんだ。二人でデザインした、あのときのままのやつ」——あの指輪。結婚当初、私たちは一緒に図案を考えて、世界にひとつだけの結婚指輪を作った。どんなときでも外さない、と誓い合った大切な証。でも、ある日ふと気づいた。匠哉の左手薬指から、その指輪が消えていた。問い詰めたとき、彼はこう言った。「清佳がね、指輪を見るたびに悠真のことを思い出してつらそうにするんだ。だから、ちょっと外してるだけ」私は、その言葉にひどく傷ついた。助けるっていうのは、そこまでして尽くすことなのか?なぜ、そこまで彼女の感情を優先するのか?当然、大喧嘩になった。匠哉は、私に「思いやりがない」「共感力が足りない」と言い放ち、しばらく口をきかなくなった。夫を亡くした人に対して、いつまでも責めるのもどうかと思って、結局、私のほうが折れて謝ったことで、ようやく冷戦は終わった。それから彼は指輪をはめ直そうとしたが——すでに、どこかに失くしてしまっていた。ただ、当時のデザイン図が手元に残っていたおかげで、ちょうど私の指輪も少し傷んでいたので、それにかこつけて新しく一対をオーダーしていた。。でも、指輪が届くより早く、私たちの関係は崩れてしまった。私は無意識に、自分の左手の薬指を撫でた。指輪があった場所には、わずかな跡だけが残っている。私の指輪は、いつの間にかどこかに消えていた。捨てたのか、落としたのか、もう覚えていない。「いらないわ。いくら同じ形でも、私たちの関係はもう元に戻らないの」そう言った瞬間、それまで耐えていた匠哉の感情が堰を切ったようにあふれ出した。「どうしてだよ、聞月!少しは俺の立場もわかってくれよ!お前が妊娠
その言葉を聞いた途端、匠哉の顔が一気に動揺に染まった。目を見開き、声もわずかに震えていた。「聞月、離婚なんて言わないでくれ……本当に、お前が妊娠してたなんて知らなかったんだ。どうして教えてくれなかったの?」その問いかけが、むしろ可笑しく思えてくる。ほんの数日前のことすら、彼の中ではなかったことになっているのだろうか。あの日、病院で。私は彼に問いかけた。あれは最後のチャンスだった。私たちの関係に、ほんのわずかでも希望があるかを確認する——そんな最後の願いだった。でも、彼は何の迷いもなく背を向けた。迷わず、清佳を選んだのだ。「病院で……私、あなたと清佳が一緒に出て行こうとしたとき、あなたにひとつ質問をした。覚えてる?」匠哉の表情が一瞬ぼんやりとしたかと思うと、徐々に苦しげに歪みはじめた。そして、信じたくない現実に気づいたように震える声でつぶやいた。「まさか……あの日、お前が病院にいたのは手術のためだったのか?」私は静かに頷いた。「そうよ」匠哉の顔色はみるみるうちに青ざめていった。あの日の自分の返答が、どれほど取り返しのつかないものであったか——子どもを失うことになったのは、彼自身のせいだった。彼はなおも食い下がろうとする。「聞月、また子どもはできるよ。お前が元気になったら、もう一度……二人でやり直そう?」私は思わず彼を見つめた。そして、呆れたように、首を小さくかしげた。清佳との子どもがもうすぐ生まれようとしているこの時に、私と正妻としてやり直したいだなんて。「清佳のこと、あなたは本当にただの親友の嫁として見てたの?もう子どももいるのに。私と離婚して彼女と一緒になればいいでしょう?」匠哉は顔を左右に激しく振った。まるで否定すれば現実も変えられると信じているかのように。「違う!俺は最初から、清佳を親友の嫁としてしか見てないんだ!妊娠のことだって、ただ彼女の願いを叶えたくて……本当に、それだけなんだよ!」私はじっと彼の目を見た。その必死な顔が、かえって滑稽で、胸の奥が冷え切っていくのを感じた。「じゃあ、ただの親友の嫁相手に、どんな時間でも呼び出されたら駆けつけるの?ただの親友の嫁に、マンションを買ってあげるの?ただの親友の嫁に、子どもを授けられるの?