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雨しずくの調べ

雨しずくの調べ

By:  匿名Kumpleto
Language: Japanese
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夫の亡き親友の妻が、妊娠検査の写真をSNSに投稿した。 【あなたの精子のおかげで、私にも自分の赤ちゃんができました】 「父親」欄には、夫・綾野匠哉(あやのたくや)の名前がはっきりと記載されている。 私がコメントしたのは、ただの「?」マークだけだった。 すると、匠哉からすぐに電話がかかってきた。 「お前さ、人としての情がなさすぎだろ!彼女は夫を亡くして、ずっと一人で寂しく生きてきたんだ。ただ、子どもがいれば少しは心が和らぐって思っただけだよ。それの何が悪い? それに、真木悠真(まきゆうま)は俺の親友だったんだぞ。親友の妻を助けるのは、男として当然の義務だろ?それが義理ってもんだ、わかんねぇのかよ!」 それから間もなくして、夫の亡き親友の妻は、今度は高級マンションの写真をアップした。 【そばにいてくれてありがとう。あなたのおかげで、また家という温もりを思い出せました】 キッチンで忙しそうに立ち働く匠哉の後ろ姿が、写真の中でやけに鮮明だった。 そのとき、私は静かに思った。 ——この結婚も、もう終わりにしよう。

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Kabanata 1

第1話

夫の亡き親友の妻が、妊娠検査の写真をSNSに投稿した。

【あなたの精子のおかげで、私にも自分の赤ちゃんができました】

「父親」欄には、夫・綾野匠哉(あやのたくや)の名前がはっきりと記載されている。

私がコメントしたのは、ただの「?」マークだけだった。

すると、匠哉からすぐに電話がかかってきた。

「お前さ、人としての情がなさすぎだろ!彼女は夫を亡くして、ずっと一人で寂しく生きてきたんだ。ただ、子どもがいれば少しは心が和らぐって思っただけだよ。それの何が悪い?

それに、真木悠真(まきゆうま)は俺の親友だったんだぞ。親友の妻を助けるのは、男として当然の義務だろ?それが義理ってもんだ、わかんねぇのかよ!」

それから間もなくして、夫の亡き親友の妻は、今度は高級マンションの写真をアップした。

【そばにいてくれてありがとう。あなたのおかげで、また家という温もりを思い出せました】

キッチンで忙しそうに立ち働く匠哉の後ろ姿が、写真の中でやけに鮮明だった。

そのとき、私は静かに思った。

——この結婚も、もう終わりにしよう。

匠哉が帰宅したとき、私はちょうど明日予定している中絶手術の予約を終えたばかりだった。

彼と結婚して五年。ずっと子どもを授かれずにいた。

数日前、ようやく妊娠していることが分かった。もう二ヶ月目だった。

本当は、結婚記念日にサプライズとして伝えるつもりだった。

だけど——もう、その必要はなさそうだ。

匠哉は袋をテーブルに置き、私に抱きつこうと歩み寄ってきた。

「なあ、これ……お前の好きな鮭がゆ、わざわざ買ってきたんだ。ほら、温かいうちに食べて」

袋の中を覗くと、米粒はまばらで、鮭の身も見つけるのが難しいほどの貧相な代物だった。

きっと誰かの食べ残しでも押しつけられたのだろう。

私はその手からそっと身を引き、袋を少し遠ざけた。

「いらない。食欲ないから」

彼は私がいつものように照れているだけだと勘違いしたのか、勝手におかゆを器に移し、スプーンを口元に差し出してきた。

「もう、意地張らないでって。これ、昔から一番好きだったじゃん?」

冷めきったおかゆから立ち上る独特の臭みが鼻につき、私はたまらずトイレに駆け込んで吐きそうになった。

背中に伸びてきた彼の手を、私は思いきりはね除けた。目に涙を浮かべながら、睨むように彼を見上げた。

「触らないで!」

あまりの拒絶に苛立ったのか、匠哉の声が一気に荒くなる。

「お前さ、いったいどうしたいわけ?こっちは頭下げてまで機嫌取ってんのに、いつまでふてくされてんだよ!

俺はな、あの投稿に皮肉なんか言ったこと、まだ水に流してやってんのに!」

その堂々とした物言いに、まるで私が悪者であるかのような錯覚さえ覚えた。

私は信じられないという表情で彼を見つめた。唇が震え、声もかすれた。

「じゃあ何?他の女があなたの子どもを妊娠したことを、私が笑顔で祝福するのが『妻の器』ってこと?」

匠哉はうんざりしたようにネクタイを緩めた。

「悠真が死んでから、清佳は寂しかったんだよ。ただ子どもが欲しかっただけじゃないか。俺は悠真の親友なんだぞ?その奥さんの願いを叶えてやるのは、当然の責任だろ。

しかもな、俺と清佳が肉体関係持ったわけじゃない。ただ、精子を一つ提供しただけだ。それのどこが悪いってんだよ?

お前さ、まるで嫉妬に狂った女みたいだぞ!」

嫉妬に狂った女?

悠真が亡くなったばかりの頃、私だって香坂清佳(こうさかさやか)のことを不憫に思って、よく家に招いて一緒に食事をした。

電球が切れた、給湯器の調子が悪い、そんな些細なことでも、私たちは夫婦で彼女の家へ出向いて助けていた。

清佳が目を潤ませながら「悠真が生きてたら、こんな迷惑かけずに済んだのに」なんて言った時も、私は笑って「気にしないで、大したことじゃないから」と返した。

匠哉も真剣な顔で頷いていた。「何かあったら、何でも言ってくれ。俺は絶対に断らないから」と。

あの頃は——それを、親友への義理だと、私は信じて疑わなかった。

けれど、いつの間にか様子が変わっていた。

私の知らないうちに、匠哉は彼女の買い物袋を代わりに運び、靴箱を組み立て、火傷をした彼女に薬を届けに行っていた。

そんなこと、私には一度もしてくれたことがないのに。

少しでも不満を口にすれば、「親友の奥さんだから助けて当然だろ」と一蹴された。

まさか、子どもまで作るなんて。

その子が生まれて「パパ」「ママ」と彼と清佳を呼ぶ日が来たら、私はいったい何になるの?

私たちの未来の子どもは?家庭は?私の居場所は?

話し合おうと思っていた。けれど、電話越しのあの罵声を聞いた瞬間、その気持ちは跡形もなく消えていた。

そして今、目の前にいる彼の態度を見て確信した。

もう、何を言っても無駄だ。

匠哉は一気に言いたいことをまくし立て、最後に吐き捨てるように言った。

「少しは反省しろよ。いつまでもその了見の狭さ、いい加減にしてくれ!」

そのままドアを乱暴に閉めて、出て行った。

こんな夜に、行き先なんて一つしかない。

やっぱり——まもなくして清佳のSNSが更新された。

写真には、匠哉の手が彼女の丸みを帯びた腹に優しく添えられている。

【パパが今夜も会いに来てくれた。ここにしか、家の温もりはないんだって】

その投稿を見た私は、ふっと笑ってしまった。自分の愚かさに。

こんなにも腐りきった結婚生活に、なぜ今まで気づかなかったのかと。

「兄嫁」と呼んでいたはずの彼女のことを、匠哉が「清佳」と名前で呼びはじめたとき。

その瞬間に気づくべきだったのだ。

だったら、もう迷う必要なんてない。

損切りするなら、今だ。

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第1話
夫の亡き親友の妻が、妊娠検査の写真をSNSに投稿した。【あなたの精子のおかげで、私にも自分の赤ちゃんができました】「父親」欄には、夫・綾野匠哉(あやのたくや)の名前がはっきりと記載されている。私がコメントしたのは、ただの「?」マークだけだった。すると、匠哉からすぐに電話がかかってきた。「お前さ、人としての情がなさすぎだろ!彼女は夫を亡くして、ずっと一人で寂しく生きてきたんだ。ただ、子どもがいれば少しは心が和らぐって思っただけだよ。それの何が悪い?それに、真木悠真(まきゆうま)は俺の親友だったんだぞ。親友の妻を助けるのは、男として当然の義務だろ?それが義理ってもんだ、わかんねぇのかよ!」それから間もなくして、夫の亡き親友の妻は、今度は高級マンションの写真をアップした。【そばにいてくれてありがとう。あなたのおかげで、また家という温もりを思い出せました】キッチンで忙しそうに立ち働く匠哉の後ろ姿が、写真の中でやけに鮮明だった。そのとき、私は静かに思った。——この結婚も、もう終わりにしよう。匠哉が帰宅したとき、私はちょうど明日予定している中絶手術の予約を終えたばかりだった。彼と結婚して五年。ずっと子どもを授かれずにいた。数日前、ようやく妊娠していることが分かった。もう二ヶ月目だった。本当は、結婚記念日にサプライズとして伝えるつもりだった。だけど——もう、その必要はなさそうだ。匠哉は袋をテーブルに置き、私に抱きつこうと歩み寄ってきた。「なあ、これ……お前の好きな鮭がゆ、わざわざ買ってきたんだ。ほら、温かいうちに食べて」袋の中を覗くと、米粒はまばらで、鮭の身も見つけるのが難しいほどの貧相な代物だった。きっと誰かの食べ残しでも押しつけられたのだろう。私はその手からそっと身を引き、袋を少し遠ざけた。「いらない。食欲ないから」彼は私がいつものように照れているだけだと勘違いしたのか、勝手におかゆを器に移し、スプーンを口元に差し出してきた。「もう、意地張らないでって。これ、昔から一番好きだったじゃん?」冷めきったおかゆから立ち上る独特の臭みが鼻につき、私はたまらずトイレに駆け込んで吐きそうになった。背中に伸びてきた彼の手を、私は思いきりはね除けた。目に涙を浮かべながら、睨むように彼を見上
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第3話
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第4話
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第5話
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第6話
その言葉を聞いた途端、匠哉の顔が一気に動揺に染まった。目を見開き、声もわずかに震えていた。「聞月、離婚なんて言わないでくれ……本当に、お前が妊娠してたなんて知らなかったんだ。どうして教えてくれなかったの?」その問いかけが、むしろ可笑しく思えてくる。ほんの数日前のことすら、彼の中ではなかったことになっているのだろうか。あの日、病院で。私は彼に問いかけた。あれは最後のチャンスだった。私たちの関係に、ほんのわずかでも希望があるかを確認する——そんな最後の願いだった。でも、彼は何の迷いもなく背を向けた。迷わず、清佳を選んだのだ。「病院で……私、あなたと清佳が一緒に出て行こうとしたとき、あなたにひとつ質問をした。覚えてる?」匠哉の表情が一瞬ぼんやりとしたかと思うと、徐々に苦しげに歪みはじめた。そして、信じたくない現実に気づいたように震える声でつぶやいた。「まさか……あの日、お前が病院にいたのは手術のためだったのか?」私は静かに頷いた。「そうよ」匠哉の顔色はみるみるうちに青ざめていった。あの日の自分の返答が、どれほど取り返しのつかないものであったか——子どもを失うことになったのは、彼自身のせいだった。彼はなおも食い下がろうとする。「聞月、また子どもはできるよ。お前が元気になったら、もう一度……二人でやり直そう?」私は思わず彼を見つめた。そして、呆れたように、首を小さくかしげた。清佳との子どもがもうすぐ生まれようとしているこの時に、私と正妻としてやり直したいだなんて。「清佳のこと、あなたは本当にただの親友の嫁として見てたの?もう子どももいるのに。私と離婚して彼女と一緒になればいいでしょう?」匠哉は顔を左右に激しく振った。まるで否定すれば現実も変えられると信じているかのように。「違う!俺は最初から、清佳を親友の嫁としてしか見てないんだ!妊娠のことだって、ただ彼女の願いを叶えたくて……本当に、それだけなんだよ!」私はじっと彼の目を見た。その必死な顔が、かえって滑稽で、胸の奥が冷え切っていくのを感じた。「じゃあ、ただの親友の嫁相手に、どんな時間でも呼び出されたら駆けつけるの?ただの親友の嫁に、マンションを買ってあげるの?ただの親友の嫁に、子どもを授けられるの?
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第7話
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第8話
向かいの席で優雅にコーヒーを啜る清佳は、匠哉の前で見せる儚げな未亡人の顔とは、まるで別人だった。カップを置いた清佳が、軽く鼻で笑うようにして私を見た。「匠哉が愛してるのは私。いい加減、離婚してちょうだい?」ようやく本性を見せた彼女の態度にも、私は動じなかった。カップを手に取り、静かに一口、コーヒーを啜った。「離婚したくないって、誰が言ったの?しつこく離婚したくないって言ってるのは、匠哉のほうよ」その瞬間、清佳の顔に一瞬の動揺が走った。だがすぐに目を吊り上げ、睨むように言い返してきた。「そんなはずない!私は彼の子を妊娠してるのよ!?結婚しない理由なんてないわ!離婚に応じないのは、どうせあなたが未練がましくすがってるからでしょう!」そう言った彼女は、ふっと口元を歪めて笑った。「あんた、まだ知らないんだね。私のお腹の子、人工授精なんかじゃないの。私と匠哉、もうとっくにそういう関係だったのよ」その言葉に、私は一瞬だけ、体が固まった。匠哉は、心だけじゃなかった。身体までも——すでに彼女に渡していた。それなのに、私の前では「お前だけだ」とうそぶいていた。あの顔で、あの声で、私を裏切りながらも誠実な夫を演じていた。心の底から、吐き気がした。私は無言で立ち上がると、目の前のコーヒーを手に取り、清佳に向かって一気にぶちまけた。「妊婦じゃなかったら、今頃どうなってたか分かってるよね」そう冷たく言い残し、バッグを持ってカフェを後にした。背後からは、清佳の取り乱した悲鳴が微かに聞こえた。カフェを出た私は、まっすぐ弁護士のもとへ向かった。バッグの中には、録音機が入っている。予感があった。彼女がわざわざ私に会いに来る理由は、善意なんかじゃないと。録音は、完璧だった。加えて、妊娠検査票にははっきりと【父親:綾野匠哉】と記されている。これだけの証拠が揃っていれば、匠哉が有責配偶者と認定されて、離婚は十分に認められるはず。そして、裁判所はその場で浮気の事実を認定。裁判所の判決が確定して、晴れて正式に離婚が成立した。判決が下った日の帰り道——匠哉は赤く腫れた目で、私の前に立ちはだかった。「聞月、そこまで俺を憎んでるのか?一度も、許す気はないのか……?」私は無言
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第9話
離婚の際、匠哉はよほど後ろめたい思いがあったのだろう。彼は私に多額の財産を分与してきた。私は、それをすべて受け取った。その金額は、私がこれから何年も衣食に困らず、自由に生きていけるほどのものだった。だから私は、世界一周の旅に出た。訪れる国ごとに、私は両親にその地のポストカードを送り、旅先で感じたことをブログに記録していった。そうしているうちに、私のブログは多くの読者を集めるようになっていた。一人旅を決意した私の勇気を、フォロワーたちは口々に称えてくれた。旅を通して私は、自然の美しさに触れ、自分自身の心と向き合い、ようやく私だけの人生の地図を描き始めることができた。かつての五年間の結婚生活なんて、もう前世の記憶のようだった。世界をひと巡りして久しぶりに帰省したある日、親の口から、またしても匠哉の名が出てきた。離婚後、清佳は大きなお腹を抱えてすぐに正妻の座におさまったらしい。だが、匠哉は彼女を愛してはいなかった。ただの同情だったと言い張り、何度も結婚を拒んでいたという。清佳は決して純粋な未亡人などではなかった。最初からすべては計算済みで、匠哉に近づいたのも綾野家という「玉の輿」に乗るためだった。やっとのことで私を排除し、妊娠まで果たした今、彼女がそのチャンスを手放すわけがない。清佳は「結婚しなければ子どもを堕ろす」と脅し、孫を待ちわびていた義母はすぐに動いた。「この子は綾野家の孫よ!」——そう言って、匠哉を無理やり清佳と結婚させた。しかし——その後の生活は、決して幸せなものではなかった。清佳には、いわゆる厄介な親族が大勢いた。裕福な男と結婚したと知るやいなや、ぞろぞろと綾野家に押しかけ、居座るようになった。頭を抱えた匠哉は、ついには別の家に身を移して、清佳たちから距離を置くようになった。もともと清佳は正当な形で匠哉の妻になったわけではなかったからだろう、常にどこか不安げだった。匠哉が家に帰らないと、会社まで押しかけてきては強引に連れ帰ろうとした。最初は我慢していた匠哉も、やがて嫌気が差し、仕事終わりに外で会食を入れて家に帰らない日が増えていった。だが——清佳は、そんな場にも平気で割り込んできた。何度も大事な商談をぶち壊しかけた。匠哉がまた家に戻らなかったある晩、清
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