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律令制が日本に定着した背景には、当時の国際情勢が深く関わっている。7世紀の東アジアは唐という強大な中央集権国家が成立し、その影響力を周辺国に及ぼしていた。日本もまた、朝鮮半島での影響力維持や国内統治の効率化を図るため、唐の制度を積極的に取り入れた。
特に天智天皇の時代から本格化した改革は、壬申の乱を経て天武天皇・持統天皇によって継承され、701年の大宝律令完成へとつながる。この制度は、土地の公有化(班田収授法)や税体系の整備、官僚機構の確立など、国家の根幹を変えるものだった。ただし、日本の風土に合わせて調整された部分も多く、完全な模倣ではなかった。
飛鳥時代から奈良時代にかけて、日本が律令制を導入したのは単なる模倣以上の意味があった。当時の支配層は、豪族連合から脱却し、統一的な国家運営システムを必要としていた。朝鮮半島での白村江の戦いでの敗北が、中央集権化の必要性を痛感させたとも言える。
導入時期としては、645年の大化の改新が最初の転換点だが、実際に体系化されたのは約50年後。藤原不比等らが中心となって編纂した大宝律令が、実質的な始まりと言えるだろう。この制度によって、戸籍の作成や租庸調の税制が整備され、後の平安時代まで続く統治の基盤が築かれた。
日本の律令制導入は、中国からの文化的輸入という側面と、国内政治の必然性が重なった現象だ。7世紀後半から8世紀初頭にかけて、唐との交流が盛んになる中で、先進的な統治システムに注目が集まった。特に注目すべきは、官僚登用試験である科挙を除いて、ほぼ全ての制度が移植された点。
時期を特定すると、701年の大宝律令公布が画期だが、その前段階として天武朝の飛鳥淨御原令が重要な役割を果たした。土地制度や行政区分が整備され、後の奈良時代の繁栄を支える法的枠組みがここで確立されている。