医者に「もう手の施しようがない」と宣告されたのは、ほんの数日前のことだった。 肺がんが全身に転移し、余命はわずか三日。 その言葉を聞いた瞬間、私はすべてを受け入れた。 何もできない。けれど、何かを残したい。 だから、自ら進んで臓器提供の同意書にサインした。 たとえ命が尽きても、私の体の一部が誰かの命を救えるのなら、それだけで十分だと思った。 病を告げられた時、私は家族に正直に打ち明けた。 でも、医者である姉は私がただの被害妄想に囚われているだけだと一蹴した。 「それは精神の問題で、癌なんかじゃない」と。 両親はすべてを姉に任せ、治療の方針も判断も、彼女の言うとおりに進められた。 その結果、私は確実に死に向かっていった。 そして、私が本当に死んでしまったそのとき、ようやく、両親も婚約者も、私の亡骸の前で泣き崩れた。
View More健太は墓地をあとにし、車を走らせて紗季を監禁している地下室へと向かった。地下室に入った瞬間、湿った空気と鼻を突くような血の匂いが彼を迎えた。隅の暗がりで、紗季はぼろ布のような服を身にまとい、髪は乱れ、身体を小さく丸めていた。手足は無残にも折られ、傷口からは血が滲み、見るも無惨な姿だった。この間、健太の命令で、部下たちはわずかな食事と水だけを与え、生かさず殺さずの状態を続けていた。足音に気づいた紗季が顔を上げた。健太の姿を確認した瞬間、怯えが彼女の瞳に浮かんだ。しかしすぐに、その顔を歪ませて、彼の足元に縋りついた。「健太……お願い、私が悪かったの……!もう二度と裏切らないから……お願い、助けて……」健太は彼女を冷ややかに見下ろした。その目には、もはや感情など微塵も残っていなかった。「鞭を持ってこい」命じられた部下がすぐに、塩水に浸した鞭を手渡した。健太はそれを受け取り、まるで物体を見るような無機質な目で紗季を見下ろす。「紗季、あなたは覚えてるか?美月に何をしたか……」その声は氷のように冷たく、低く、地獄から響くようだった。「あなたが彼女に与えた痛み……今度はあなたが味わう番だ」そう言い放つと同時に、健太は鞭を振り上げ、全力で彼女の背に叩きつけた。「ぎゃああああ!」紗季の絶叫が地下室に響いた。だが健太は構わず、何度も何度も鞭を振るい続けた。その一撃一撃に、怒りと憎しみが込められていた。ほどなくして、紗季は気を失った。「起こせ」健太の命令に従い、部下が電撃器を取り出して紗季に電流を流した。彼女の身体が跳ね、苦しみながら意識を取り戻す。そして次の瞬間、健太の氷のような瞳と目が合い、紗季の心にかつてない恐怖が襲った。「健太……お願い……もう、やめて……」その哀願も健太の心には一片の響きも残さなかった。この地獄のような拷問は、半月もの間続いた。紗季の体中の傷は一向に癒えることなく、そのたびに痛みにのたうち、夜も眠れぬほど苦しみ続けた。だが、健太にとっては、それでもまだ足りなかった。美月が受けた痛みを思えば、こんな苦しみでは到底足りない。そしてついに、限界を迎えた紗季が絶叫する。「健太!あなた、何様のつもりよ!美月のこと、そんなに愛してたって思っ
健太は美月が亡くなる前に何があったのか、そのすべてを調べ始めた。病院で美月の治療に関わった医師たちをひとりずつ洗い出し、ようやく真実に辿り着いた。紗季は治療などしていなかった。彼女がやっていたのは美月に対する、残酷な虐待だった。健太は診察室の監視カメラの映像を手に入れた。そこに映っていたのは、椅子に縛り付けられた美月と、興奮した表情で電撃器を振りかざす紗季の姿。美月は苦しみ、泣き叫び、何度も身体をのけぞらせていた。だが紗季はそんな美月を見て、さらに笑みを深めた。彼女は注射器を取り出し、何かの薬液を美月の腕に注入した。薬が入った瞬間、美月の苦しみはさらに激しくなった。それでも紗季は狂ったように笑い続けていた。映像を見つめる健太の拳は、震え、血がにじむほどに握りしめられていた。胸が潰れるほど苦しかった。美月はこんなにも長い間、誰にも気づかれずに、ひとりでこんな地獄を耐えていたのか。健太はその映像と資料を持ち、中村家の両親を訪れた。モニターに映る、悪魔のような紗季の姿を見て、二人の老人は言葉を失い、震えながらその場に立ち尽くした。「うそだ……あの紗季が……こんな……こんなの……信じられない!」自分たちが二十年以上、愛してきた娘は、実は本物の娘を地獄に突き落とす化け物だったのだ。「……紗季……なんで……なんでこんなことを……美月……母さんが……母さんが悪かったよ……」母は顔を覆って泣き崩れ、父は震える声で健太に尋ねた。「健太……これから……紗季をどうするつもりだ?」健太は二人を一瞥した。その目は冷たく、感情の一切を切り捨てたようだった。「償わせます。紗季が美月にしたことを千倍、いや万倍にして返させます!もう……あなたたちが口を挟む権利はない」二人の老人は何も言い返せなかった。健太は美月の葬儀の準備を始めた。最高級の棺、刺繍の入った精緻な寿衣、そして美しいダイヤのティアラ。美月はこの世界で最も大切な宝物だった。葬儀当日。空はどんよりと曇り、小雨が静かに降っていた。真っ白な棺がゆっくりと墓地へと運ばれていく。母は父の腕にすがりつき、泣き叫びながら今にも気を失いそうだった。「美月、美月……ごめんね、ごめんね!」どれだけ叫んでも、美月の耳にはもう届かな
紗季は数秒間呆然としたままだった。だが状況を理解した途端、その瞳の奥にほんの一瞬、嬉しそうな光がきらめいた。しかし次の瞬間には、まるで世界の終わりを迎えたかのように顔を覆い、涙声を装った。「え?美月が……死んだ?うそ……そんなはずない……」口元を押さえ、潤んだ瞳で悲しみを演じる彼女。だが健太の目はその演技の下に隠された、抑えきれない喜びの笑みを見逃さなかった。彼の心がずしりと沈む。「まだ、そんな芝居を続けるつもりか!」怒気を含んだ声と共に、健太の手が彼女の喉元を掴んだ。その手は容赦なく力を込めていき、壁に押しつけた。紗季は苦しげにあえぎ、顔がみるみるうちに真っ赤に染まる。恐怖の色が瞳に浮かんだが、それでもなお、しらを切る。「健太……な、なにを言ってるのか……分からな……」だが健太の手はさらに強く締まる。喉が潰れそうなほど掴まれ、紗季の身体は激しく痙攣し始めた。そして寸前で、彼は手を放した。紗季は床に崩れ落ち、咳き込みながら必死に空気を吸い込む。肩を震わせ、恐怖と憎しみが入り混じった目で健太を睨みつけた。「どうして……?」健太の声は低く、しかし胸の奥から沸き上がる怒りがこもっていた。「どうして、美月にあんなことをした?彼女はあなたの妹なんだぞ!」紗季はしばらく咳き込みながら、ぼろぼろの姿で床にうずくまっていた。しかし、次の瞬間、彼女は突然顔を上げ、狂気をはらんだ笑みを浮かべた。「どうして?決まってるじゃない……嫌いだったからよ!なんで?私よりずっと恵まれてたからよ!彼女には大事にしてくれる両親もいて、しかもあなたという婚約者までいるのよ!私は?何もない。何ひとつ持ってなかった……だから、全部奪ってやるって決めたの。あの子のすべてを壊して、自分のものにするって!」その声は鋭く、耳を裂くように甲高かった。健太は黙って彼女を見下ろしていた。その目には、もう一片の情もなかった。「手足を折って、地下に閉じ込めろ」「了解しました」背後に控えていた部下たちが一斉に動き出し、紗季の両腕を掴んだ。ようやく事態を察した紗季は、今さらのように必死にもがき始める。「やめてっ!健太、お願い、許して……!私はあなたが好きだったの……だから、だから美月を……全部、あなたのため
部屋の中で、私は静かに床に横たわっていた。顔は血の気が引いたように真っ白で、唇の端に滲んだ赤だけが唯一の色味だった。床には血が広がり、部屋中が鉄のような匂いで満たされている。「美月!」健太は信じられないといった表情で目を見開き、その場に崩れ落ちるように膝をついた。震える手で、そっと私の鼻先に手を当てる。けれど、そこには、もう温もりも呼吸もなかった。「そんな……嘘だろ……」顔が真っ白になった健太は、突然狂ったように私を抱き上げて立ち上がった。「美月、美月、やめてくれ……こんな冗談、やめてくれよ……お願いだから目を開けて、今すぐ病院に行こう、まだ間に合うはずだ!」階下では、物音を聞いた両親が駆けつけ、目の前の光景に言葉を失った。「美月?美月どうしたの?」健太は血に染まった私の手を強く握りしめたまま、まるで温もりを取り戻そうとするように走り続けた。「美月……お願いだから目を開けて……僕が悪かった、あんなふうに閉じ込めるべきじゃなかった。でも、こんなやり方で僕を罰するなんて、あまりにも残酷すぎるよ……目を開けてくれよ……昨日、あなたは聞いたよね。もし死んだら、私のこと思い出してくれる?って……僕は……ずっと思い出すよ、ずっと忘れられない……あなたがいなきゃ、僕はもう……」その声は震え、深い後悔と絶望がにじんでいた。だが返ってくるのは、静寂だけだった。病院に到着したとき、医者が私の身体を確認し、静かに首を振った。「もうダメです。呼吸も、脈も、止まっています」「ありえない!」健太が怒鳴った。「彼女は精神的に不安定なだけだったんだ!どうして……どうして死ぬなんて!」医者は不思議そうに彼を見て、手元のカルテを差し出した。「何をおっしゃってるんですか?この患者さんは、末期の肺がんです。余命は数日と記録されていましたよ」「な、なに?」健太の全身が震え、カルテを奪い取るように見た。そこにははっきりと、「肺がん末期」という文字が記されていた。「私の娘が!」母はその場で悲鳴をあげ、目の前が真っ暗になったようにそのまま倒れ込んだ。健太は震える手でカルテを受け取り、信じられないというように私を見つめた。「美月……まさか……」母が目を覚ましたころには、私はすでに白い布をかけられ、
再び目を覚ましたとき、私は病室のベッドに横たわっていた。扉の外から、紗季の声が聞こえてくる。「健太、ごめんなさい……私も分からないの。美月が急に倒れたのは、たぶん薬のアレルギー反応かも……」健太の声は少し冷たかった。「薬のアレルギー?紗季、どうして美月にそんな勝手な薬を使ったんだ?」「もともと体が弱い子なのに……」紗季は泣きそうな声で言い訳を続けた。「そんなつもりじゃなかったの、健太……ほんとに。私だって、美月に元気になってもらって、最高の状態で結婚式に出てもらいたかっただけなの……」健太はため息をついた。「今度から気をつけてくれ。美月は病気で体力も落ちてるんだ。無理はさせちゃダメだよ」それだけ?たったそれだけで、彼は紗季を許したの?別の医者に診てもらおうとは思わないの?たったそれだけで済ませるの?もしちゃんと検査してくれたら、私が本当に末期の肺がんなのが分かるはずなのに。胸の奥がぎゅっと締めつけられた。私はそっと目を閉じ、頬を伝う涙を止められなかった。でも、たとえ気づいたとしてももう遅い。私は死ぬ運命から逃げられないんだから。しばらくして、扉が開いた。健太がそっと入ってきて、私が目を覚ましたのを見て、彼は心配そうに私を見つめた。「美月、目が覚めたんだね。気分はどう?」私は首を振ってから尋ねた。「先生は私の容態なんて言ってた?」一瞬、彼の目が揺れた。でもすぐに、無理やり笑顔を作って答えた。「大丈夫。精神的なストレスで一時的に意識を失っただけだって。ちゃんと治療を続ければ問題ないってさ」そう。やっぱり、私が紗季を責めないようにって……そのために、平気で嘘をつけるんだね。私が黙っていると、健太は話題を変えようとした。「もうすぐ僕たちの結婚式だよね。さっき式場から連絡があって、ウェディングドレスが仕上がったって。試着に行こうよ」私はそっとうなずいた。健太と手を取り合ってバージンロードを歩くことはできないかもしれないけれど、せめてドレス姿を写真に残せたら、それだけでも十分だと思った。鼻の奥がつんとして、思わず口を開いた。「健太……私が死んだら、悲しんでくれる?」彼の表情が一変し、私の手を強く握った。「美月、そんなこと言わないで。あなたは
どれほど時間が経ったのか分からないが、ようやく電流が止まった。私は全身汗まみれで、大きく息を吐きながら、まるで水の中から引き上げられたかのようにぐったりとしていた。紗季は私の口に詰めていたガーゼを乱暴に引き抜き、汚らわしそうに床に放った。「なんで……紗季……」私は荒い息の合間に、かすれた声で問いかけた。「私は何を間違えたの?どうしてそんなに私を憎むの?」彼女は私を見下ろしながら、冷たく吐き捨てた。「美月……どうして両親があなたを探し出したのか、本当に理解できない。あなたなんか、とっくにいなくなってたのに!一度捨てられたものは、二度と戻るべきじゃないのよ。この世界に余計な人間なんて必要ない!」そう言い捨てると、彼女はドアを乱暴に閉めて出ていった。その言葉が何度も何度も頭の中を反響する。余計な人間。消えるべき存在。でも私は……私は両親の本当の娘なのに……誘拐されたのは私のせいなの?やっと戻ってきた自分の家なのに、帰ることさえ許されないの?意識が遠のき、私はそのまま気を失った。どれくらい経っただろうか。外から紗季の声が聞こえてきた。「健太、ねえ……今夜、私と一緒にいてくれない?」ガラス越しに、紗季が健太の首に手を回す姿が見えた。その仕草はどう見てもただの友達ではなかった。けれど、健太はすぐに彼女の手を振り払った。「紗季、僕は前にも言ったはずだ。僕が愛してるのは美月だけだ!僕の心の中には美月しかいない。僕たちはもうすぐ結婚するんだ。頼むから、これ以上距離を詰めないでくれ」彼はそう言い残すと、振り返ることもなくその場を去っていった。私は呆然と立ち尽くした。本当に、健太の心には私だけがいるの?でも、もしそうなら、どうして私の言葉は、彼の心に届かないの?あれほど信じていると言ってくれたのに、どうして紗季の「治療」ばかりを信じて、私の苦しみを見ようとしないの?もし、彼がいつか気づいたら、この「治療」が、私の命を早く終わらせるものだったとしたら、彼は後悔してくれるのかな……胸が切り裂かれるように痛い。私は静かにドアを閉め、自分の部屋へ戻った。ベッドの下から、隠していた診断書を取り出す。肺がん・末期。その文字が目に突き刺さるようだった。医者は言った。
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