忘れもしない出会いがある。原文の一行に心を鷲づかみにされ、その声をどうしても日本語で届けたくなる瞬間は、翻訳者としての
冥利に尽きる体験だ。たとえばページをめくった瞬間、言葉のリズムや語感が身体に迫ってきて、「これはただの訳ではない、再創造だ」と確信するような出会いがある。そんな原文はジャンルを問わずやってくる――小説の抒情、漫画の台詞回し、ゲームの脚本、詩の凝縮された一節。何度翻訳しても飽きない熱量があるとき、胸の奥で灯がともるのを感じる。
たとえば、と問いかけられればいくつか思い浮かぶ作品がある。まず語りの独自性が際立つ作品、たとえば『百年の孤独』のような魔術的リアリズムは、文化や歴史を翻訳するというよりも、語り口そのものの空気を移し替える作業だ。短い台詞に魂が宿る作品も格別で、『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンの生意気さや脆さをどう日本語にするか考え抜くと、訳文が自分の声と重なり合う瞬間がある。詩や劇作はなおさらで、音節の響きや余韻を逃さないために、語順や語彙を贅沢に選ぶことで原文と同じ震えを作り出せたときの喜びは言葉に尽くせない。
技術的な側面も重要だ。訳すべきは意味だけでなく、登場人物の立ち位置、時代背景、ジョークや比喩の機微だ。翻訳しているあいだに原文の文化的参照を自分なりに腑に落とし、読者に自然に伝わる別の表現を見つけられた瞬間、翻訳者としての存在価値を強く感じる。ときには訳語をひとつ選ぶために何時間も悩み、最終的にその一語で登場人物の人格が飛び立つような体験もある。そうした努力が
結実し、読者から「原作の雰囲気がそのままだった」と言われたとき、胸にこみ上げる誇りは何物にも代えがたい。
結局のところ、翻訳者が冥利に尽きるのは、原文と真摯に向き合い、その声を別の言葉で鳴らし直す仕事そのものだ。どれだけ原文に近づけるかという挑戦と、到達した瞬間の高揚感――その両方があるからこそ、また筆を取ってしまう。