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受け取り方は媒体ごとに違って当然だと考えている。最近改めて見返したのは『デビルマン』系の作品群で、原作の持つ衝撃と、現代のアニメが示す結末の解釈はかなり異なる。アニメ化は演出やカット割りで感情を直線的に伝える一方、原作が持つ余白や読者の想像に委ねる部分を削ることで、結末の意味が変容することがある。
自分は感情的な反応と理性的な解釈を分けて考えるようにしている。まずは素直にその作品の結末で自分がどう感じたかを書き留め、それから原作と比較してみる。どの要素が削られ、どの要素が強調されたのか、制作時期や監督の意図、尺の制約という外的要因を想像すると見えてくるものがある。ときにはアニメの方が現代的な寓意を付け加えている場合もあり、そうした再解釈を悪いものとは思わない。
観客として大切なのは、結末を一面的に決めつけない姿勢だ。原作とアニメ、両方の結末が互いに補完し合うことも多いから、両方に触れて違いを楽しむことで理解が深まる。
結末の意味は観客がどう問いを立てるかで変わると思う。個人的には『STEINS;GATE』のような媒体を跨いだ作品が示す教訓がわかりやすい。原作(ゲーム)はプレイヤーの選択が複数の結末を生む構造で、そこから浮かび上がるテーマは“選択と責任”の重さだ。一方でアニメは一本の筋に収束させるため、同じテーマをより集約して示す。
自分はその違いをプレイ感覚と鑑賞感覚の違いとして受け止めている。能動的に選べる媒体は結末を“体験”させ、受動的な媒体は結末を“提示”する。だから結末の意味を理解する際は、まずその作品がどの問いを観客に投げているのかを見極めるといい。どの選択肢が提示されていて、何が最終的に肯定されているのかを比較すると、結末の解釈がすっきりしてくる。自分はいつもその見方で落ち着くようになった。
結末の差異に触れるたび、目の前で物語が生き返るように感じる。自分は二十代のころから漫画とアニメを行き来してきたので、『鋼の錬金術師』のような例が頭に残っている。原作が連載中にアニメ化されると、制作側は先の展開を知らないまま独自の結末を作らざるを得ないことが多い。だから視聴者は、アニメ版の終わり方を「失敗」や「改悪」と単純に切り捨てないほうがいい。制作当時の制約、スタッフの解釈、放送スケジュールや視聴者層などが反映されていると考えると、その結末も別の物語として味わえる。
実際に自分が大切にしているのは、テーマの取り扱い方だ。原作が提示している問いと、アニメがそこからどう派生しているかを比べると、作り手がどの要素に重きを置いたかが見えてくる。キャラクターの決断やその後の余韻、象徴的なカットや音楽の使い方──そうした細部は、同じ結末でも意味を大きく変える。
結局のところ、両者は別の言語で同じ詩を詠うようなものだ。どちらが“正しい”かではなく、どちらの詩が自分の感情や問いに答えてくれるかを考えれば、違いは楽しみに変わる。そういう見方をすると、結末の意味が豊かになるのをいつも実感する。