LOGIN「一回百万円。俺が飽きたら出ていけ」 神谷蓮(かみや れん)は厚い札束を神谷美咲(かみや みさき)(旧姓:藤谷)の顔に叩きつけた。 美咲は黙ってかがみ、床に散らばった札を一枚ずつ拾った。 蓮は突然、狼のような勢いで飛びかかり、彼女の喉をつかんだ。 「美咲、お前はどこまで堕ちれば気が済む。金のためなら何だってやるんだな。 そんな見栄と金に取りつかれた女は、十八の頃に消えてればよかった」 蓮にとって、美咲はこの世でいちばん卑しい女だった。 金のために彼を捨て、金のために戻ってきた女。 蓮は知らない。七年前、美咲が自分の命を代わりに差し出したことを。 そのとき負った傷は深く、ずっと死と隣り合わせだった。 蓮が冷酷に踏みにじる日々の中で、美咲は静かに、自分の残された日数を数えていた。
View More蓮は、こんなにも「生きたい」と強く思ったことはなかった。本当は、ずっと――この先も、ただ美咲を見ていたかった。彼女の姿を心に焼き付けて、来世でも、再来世でも、必ず思い出せるように。空から、いつの間にか細い雨が降りはじめ、世界をしっとりと包んでいく。冷たい風が頬に触れる。美咲は自分のコートを脱いで蓮にかけ、必死にその体温を守ろうとする。でも、彼の体は少しずつ冷たくなっていった。蓮の意識は遠く、薄れていく。――寒い……ぼんやりと、遠い冬の記憶がよみがえる。あの年、奮発して買った高価なマフラーを美咲に巻いてあげたとき、彼女は泣いていた。「いつか、もっと素敵なものを贈るよ。一生、お前を大切にする」そう約束した。彼女は蓮にしがみつき、「私は一生、あなただけを愛して、あなただけのものだよ」と言ってくれた。美咲は約束を破らなかった。彼女は本当に、蓮だけを愛し抜き、他の誰も選ばなかった。――なのに、彼は途中で間違えた道を選び、彼女を手放してしまった。この凍える夜、美咲がもう一度そばに戻ってきて、「愛してる」と伝えてくれた。それだけで十分だった。これ以上、何もいらない。人生に、もう悔いはなかった。蓮の唇には、静かな微笑みが浮かぶ。彼は、美咲にひとつだけ秘密を抱えていた。彼女が亡くなった夜、不思議な夢を見たのだ。夢の中、白髪の老人が現れて、蓮にこう尋ねる。「お前は、美咲に幸せでいてほしいか?彼女が生き続けることを望むか?」あの時、まだ何も知らなかったのに、蓮は即答した。「もちろん。彼女が幸せでいられるなら、何だってする」「もし、お前の命と引き換えだとしてもか?」蓮は耳を疑うほどの話だと思いながらも、それでも迷いなく答えた。「構わない。美咲が生きてくれるなら、俺は何もいらない」老人はにっこりと笑い、去っていった。――いま思えば、すべてはそのときから決まっていたのかもしれない。欲張りすぎた。美咲の幸せを願いながら、ずっとそばにいようとした。でも、この世界はそこまで都合よくできていない。過ちを犯した人間は、必ずどこかでそのツケを払わなければならない。それでも、こうして美咲と再びめぐり逢えたのだから、蓮は自分の人生に悔いはないと思えた。――あの夜の雨は、朝まで降り続いた。
「蓮……」美咲は冷たく言葉を遮った。蓮は素直に口をつぐみ、ただ黙って彼女を見つめている。その目には、抑えきれないほどの想いが溢れていた。どうせ優しい言葉なんて返ってこないと分かっているのに、それでも蓮は、美咲が話す姿を貪るように見てしまう。美咲は大きく息を吸い、できるだけ平静にふるまおうとした。「これが最後。ちゃんと聞いて、私は一度しか言わないから。今後はもう繰り返さない。私たちは、どっちにも非があった。間違った選択もたくさんした。でも、今さらあの時のことを責めたって何にもならない。現実を受け入れて。私たちは、人生のいくつもの分かれ道で、何度もすれ違って、そのたびに遠ざかった。もう、戻れないの。蓮、もう『まだ愛してるか』なんて聞かないで。そんなの意味がない。愛してるかどうかに関係なく、私はもう二度とあなたと一緒にはならない」ずっと言いたかったことを一気に吐き出した。怒らせるつもりもあったが、蓮はただ、悲しそうに微笑んだ。「じゃあ……それでも、まだ俺を愛してる?」「……」ほんとうに、しつこい人だ。意味がないと言ったのに、それでもなお、彼は答えを求める。「やっぱり、お前は俺を愛してる……ごめん、美咲」あまりにも静かな口調で、でも不思議なくらい自信に満ちていた。美咲は反論もできず、話題を変えた。「もう、やめて……美咲はもういない。昔のことも全部、あの時一緒に終わった。それぞれの人生をちゃんと生きることが、せめてもの礼儀だと思う」その瞳には、もう一切の迷いがなかった。蓮も、それを悟った。しばらく何も言えず、彼の目の奥は痛々しいほど壊れていく。重たい静寂を破ったのは、悠真の声だった。「望月さん、もう行くぞ」美咲は振り返る。「……はい」「さよなら、蓮。もう探さないで……私たちは、ここで終わりにしよう」背を向けて歩き出す彼女は、ひときわ冷たく、そして強く見えた。「美咲!」蓮が突然叫んで駆け寄る。美咲は思わず突き放そうとした。「蓮、やめて。もう関わらないで……」「美咲、危ない!」次の瞬間――蓮の手がふっと離れた。そのまま、彼の身体が弾かれたように吹き飛んだ。あれほど大きな、百八十センチを超える体が、数メートル先まで投げ出されていく。そして、
翌朝、美咲が出社すると、受付から大きな花束を渡された。両腕でようやく抱えられるほどのサイズだ。「誰から?彼氏さん?」受付のお姉さんがニコニコ覗き込む。美咲は首を振る。「違います。心当たりもないです」そのまま奥へ歩いていく途中、悠真のオフィスの前を通りかかる。扉は半分開いていて、悠真は花束に気づいた。一瞬だけ視線が止まり、すぐに何事もなかったように戻る。……蓮は、美咲が花を受け取ったことに気をよくしたらしい。それから三か月、彼は「サプライズ」と称して毎日のように彼女に何かを送ってきた。もちろん、それは蓮の独りよがりで、美咲にとってはただの「驚き」でしかない。その三か月の間、蓮は九十九回、彼女を食事に誘った。ほぼ毎日一回のハイペース。しかし当然ながら、すべて断られた。そして百回目の誘いは、メッセージからだった。【あの二億円、返済した後も高利貸しから何か言われてる?家族は無事か?】蓮が送金した分のうち、美咲が受け取ったのは「二億円だけ」。残りはすべて突き返した。そして彼女は言ったとおり、分割で三度、二億円の返済を進めていた。「その二億円のおかげ」で初めて、美咲は蓮に返信する。【もう来ません。おかげで助かりました。ありがとうございます】送信した瞬間、蓮から電話がかかってくる。少し迷ってから、美咲は応答した。「美咲……今夜、飯に行かないか?今日は、お前の誕生日だ」誕生日――自分でさえ忘れていたのに、蓮が覚えているなんて。胸の奥がわずかに揺れたが、すぐに静かになる。いまの自分は望月陽菜だ。美咲の誕生日を祝う理由なんて、どこにもない。「結構です。仕事がありますので……失礼します」「待って……」やっぱり――と思った。口では「もう嫌だ」と言いながら、「待って」と言えば、彼女はちゃんと止まってくれる。電話の向こうで、蓮が低く笑った。「パニンシュラホテルに席を取ってある。お前が来ても、俺は十二時まで待つ」「だから行きません……」言い終える前に、彼は電話を切った。美咲はしばらく呆然と座り込む。ちょうどそのとき、声をかけられた。「望月さん、今夜、クライアント先に同行してくれ。パニンシュラホテルだ」悠真だった。――またパニンシュラホテル。偶然にしては出来すぎている
美咲は、じりじりと後退し、背中が壁にぶつかった。もう逃げ場はなかった。「……お金が必要なんだな?」「えっと……ごめんなさい。でも、その……貸してくれたことにしてもらえませんか?ちゃんと返しますから」「いくらでも出すよ。ただ、一つだけ答えてほしいことがある」「……なんですか」「金庫の暗証番号、どうして分かった?」美咲は一瞬絶句し、何十秒も言葉が出ない。そして苦し紛れの嘘をついた。「適当に……当てずっぽうです」「へえ、偶然で俺の誕生日を当てるなんて、すごいな」「……本当に、ただの偶然です」そのとき、蓮が急に手を上げた。美咲は反射的に身をすくめて目を閉じたが、彼はただ空中で彼女の胸元を指差した。「ここ、心臓……移植してるんだろ?」美咲は目を開け、落ち着いたふりで答えた。「ええ。心臓病だったんです」「この心臓、誰からもらったか知ってるか?」「知りません。病院はそういう情報を絶対に明かさないので」「本当に知らないのか?じゃあ、教えてやるよ。お前の胸の中には、俺がこの世で一番愛した女の心臓が入ってる。その女の名前は、美咲っていうんだ」その名を聞いた瞬間、思わず美咲のまつげがわずかに震える。だが、すぐに平静な顔へ戻した。「……そうなんですか。それは偶然ですね」「ただの偶然か?」「……ええ」「美咲!」蓮はもう堪えきれず、彼女の顔を両手で包み込んでキスをした。あまりにも唐突なキスだった。美咲は息を奪われ、どうすることもできずに押し倒されるように唇を塞がれた。必死でもがき、力の限り彼を突き放す。ようやく距離を作ると、そのままベッドの端に崩れ落ちるように座り込んだ。「違います!私は望月陽菜……」「美咲。見た目が変わったからって、俺を騙せると思ったのか?お前の顔の動きも、仕草も……あんなもの、変わるはずがない。他の人を見間違えることはあっても、お前だけは絶対に見間違えない」蓮の声は震えていた。失ったものが戻ってきた――その圧倒的な喜びに包まれ、自分でも信じられない気持ちだった。こんなことが、この世で本当に起きるのか。蓮は昔、霊や奇跡なんて信じていなかった。だが今は違う。信じるどころか、確信していた。彼はゆっくりと美咲の前にしゃがみ込み、壊れ物に触れるような目で、そ
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