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月の下で、すれ違うふたり

月の下で、すれ違うふたり

By:  佚名Completed
Language: Japanese
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「一回百万円。俺が飽きたら出ていけ」 神谷蓮(かみや れん)は厚い札束を神谷美咲(かみや みさき)(旧姓:藤谷)の顔に叩きつけた。 美咲は黙ってかがみ、床に散らばった札を一枚ずつ拾った。 蓮は突然、狼のような勢いで飛びかかり、彼女の喉をつかんだ。 「美咲、お前はどこまで堕ちれば気が済む。金のためなら何だってやるんだな。 そんな見栄と金に取りつかれた女は、十八の頃に消えてればよかった」 蓮にとって、美咲はこの世でいちばん卑しい女だった。 金のために彼を捨て、金のために戻ってきた女。 蓮は知らない。七年前、美咲が自分の命を代わりに差し出したことを。 そのとき負った傷は深く、ずっと死と隣り合わせだった。 蓮が冷酷に踏みにじる日々の中で、美咲は静かに、自分の残された日数を数えていた。

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Chapter 1

第1話

「一回百万円。俺が飽きたら出ていけ」

神谷蓮(かみや れん)は厚い札束を神谷美咲(かみや みさき)(旧姓:藤谷)の顔に叩きつけた。

美咲は黙ってかがみ、床に散らばった札を一枚ずつ拾った。

蓮は突然、狼のような勢いで飛びかかり、彼女の喉をつかんだ。

「美咲、お前はどこまで堕ちれば気が済む。金のためなら何だってやるんだな。

そんな見栄と金に取りつかれた女は、十八の頃に消えてればよかった」

蓮にとって、美咲はこの世でいちばん卑しい女だった。

金のために彼を捨て、金のために戻ってきた女。

蓮は知らない。七年前、美咲が自分の命を代わりに差し出したことを。

そのとき負った傷は深く、ずっと死と隣り合わせだった。

蓮が冷酷に踏みにじる日々の中で、美咲は静かに、自分の残された日数を数えていた。

……

「藤谷さん、本当に死後の臓器提供にサインしますか?」

診断書を握る美咲は、決意したようにうなずいた。

「お願いします」

診断書にははっきりと記されていた。脳内の血腫が視神経を圧迫しており、まもなく脳幹まで及べば助からない――

余命は一か月。

病院を出た瞬間、美咲のスマホが震えた。

藤谷澪(ふじたに みお)からだった。

【お姉ちゃん、蓮さんのスラックス汚しちゃって。予備をオフィスに届けて〜】

語尾には、わざとらしく照れた顔文字が添えられていた。

こんなメッセージは何度も受け取っている。

美咲は無表情のままスマホをしまった。

二歩ほど進んだところで、今度は蓮から電話が来た。

「何してる。澪からのメッセージ見ただろ」

「見たわ」

「家からスラックスを持ってきて。すぐに」

蓮は一方的にそう言い、冷たく電話を切った。

半時間後、美咲は神谷グループ本社に着いた。

社長室には蓮の姿はなく、ソファには脱ぎ捨てられた灰色のスラックス。

白い跡が斑点のように浮き、部屋には淫らな匂いがこもっている。

美咲の胸は強く殴られたように痛む。身体をこわばらせたまま、汚れたスラックスをつかんで袋に入れた。

そのとき扉が開き、澪がゆったりと入ってきた。唇には自信たっぷりの笑みが浮かんでいる。

「お姉ちゃん、遅すぎ。蓮さんの会議、潰れるとこだったんだから。

でも、幸いにも蓮さんの予備のスラックスがあった……お姉ちゃん、その予備のスラックスがどこから来たか知ってる?」

澪は美咲の耳元に近づき、甘く囁いた。

「数日前、お姉ちゃんの誕生日の夜に、蓮さんがうちに泊まったときのもの」

美咲の顔色が瞬時に青ざめる。

澪はさらに嬉しそうに続けた。

「ちゃんとクリーニング出したのにね、さっき蓮さんが言ってたの。チャックに、あの夜の私の口紅が少し残ってたって……

クリーニング屋が雑だって怒ってたよ。どう思う?お姉ちゃん」

美咲の胸がきゅっと締め付けられた。

「……もういいでしょ。終わったなら帰るわ」

彼女が歩き始めた瞬間、澪は入口の方をちらりと見た。

そこには蓮が立っていた。会議を終えて戻ってきたのだ。

澪は焦って追いすがり、大げさに叫んだ。

「お姉ちゃん、ごめんなさい!怒ってもいいけど、蓮さんを責めないで……

きゃあっ!」

悲鳴が響いたその瞬間、美咲は何が起きたのか理解できなかった。気づけば、澪の身体が壁に叩きつけられていた。

ちょうどその場面を目にした蓮が、怒りに我を失って飛び込んできた。そして澪を勢いよく抱き寄せた。

「美咲、また何をした!」
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25 Chapters
第1話
「一回百万円。俺が飽きたら出ていけ」神谷蓮(かみや れん)は厚い札束を神谷美咲(かみや みさき)(旧姓:藤谷)の顔に叩きつけた。美咲は黙ってかがみ、床に散らばった札を一枚ずつ拾った。蓮は突然、狼のような勢いで飛びかかり、彼女の喉をつかんだ。「美咲、お前はどこまで堕ちれば気が済む。金のためなら何だってやるんだな。そんな見栄と金に取りつかれた女は、十八の頃に消えてればよかった」蓮にとって、美咲はこの世でいちばん卑しい女だった。金のために彼を捨て、金のために戻ってきた女。蓮は知らない。七年前、美咲が自分の命を代わりに差し出したことを。そのとき負った傷は深く、ずっと死と隣り合わせだった。蓮が冷酷に踏みにじる日々の中で、美咲は静かに、自分の残された日数を数えていた。……「藤谷さん、本当に死後の臓器提供にサインしますか?」診断書を握る美咲は、決意したようにうなずいた。「お願いします」診断書にははっきりと記されていた。脳内の血腫が視神経を圧迫しており、まもなく脳幹まで及べば助からない――余命は一か月。病院を出た瞬間、美咲のスマホが震えた。藤谷澪(ふじたに みお)からだった。【お姉ちゃん、蓮さんのスラックス汚しちゃって。予備をオフィスに届けて〜】語尾には、わざとらしく照れた顔文字が添えられていた。こんなメッセージは何度も受け取っている。美咲は無表情のままスマホをしまった。二歩ほど進んだところで、今度は蓮から電話が来た。「何してる。澪からのメッセージ見ただろ」「見たわ」「家からスラックスを持ってきて。すぐに」蓮は一方的にそう言い、冷たく電話を切った。半時間後、美咲は神谷グループ本社に着いた。社長室には蓮の姿はなく、ソファには脱ぎ捨てられた灰色のスラックス。白い跡が斑点のように浮き、部屋には淫らな匂いがこもっている。美咲の胸は強く殴られたように痛む。身体をこわばらせたまま、汚れたスラックスをつかんで袋に入れた。そのとき扉が開き、澪がゆったりと入ってきた。唇には自信たっぷりの笑みが浮かんでいる。「お姉ちゃん、遅すぎ。蓮さんの会議、潰れるとこだったんだから。でも、幸いにも蓮さんの予備のスラックスがあった……お姉ちゃん、その予備のスラックスがどこから来たか知
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第2話
美咲は、蓮の焦りと気遣いをちゃんと見ている。喉まで出かかった言い訳は、もう口にする意味をなくしていた。彼女は何も言わず背を向けた。そのまま出ていこうとしたとき、蓮の前を通り過ぎざまに、手首をつかまれた。「謝れ、美咲。澪に謝れ」「嫌よ。あれをやったのは私じゃない……」言い終える前に、頬に焼けつくような平手打ちが飛び、美咲は信じられない思いで頬を押さえた。「蓮、なんで叩くの」「俺はお前の夫だ、美咲。夫として命令してる。今すぐ澪に謝れ」美咲は目の前の男を見つめた。心はもう痛みを通り越して、何も感じない。ただ、ふっと笑った。「わかった。謝るよ。悪いのは私。澪にひどいことをしたのは、私でいい」蓮を見上げる声は、どこまでも空っぽだった。蓮はなぜか、心臓をぎゅっとつかまれたように息が止まった。「蓮、これで満足?……もう、行っていい?」美咲は彼の脇をすり抜け、ドアノブに手をかけた。その背中が扉の向こうに消えかけたとき、蓮は腕の中の澪をぱっと放し、美咲を追った。「蓮さん、どこ行くの!?」澪は焦ってその場で叫んだが、誰も答えない。ドアがバタンと閉まり、澪は悔しそうに足を踏み鳴らした。廊下に出た途端、美咲は後ろから腕を引かれ、よろめいて蓮の胸に倒れ込みそうになる。「離して」美咲は彼を突き放した。蓮はその拒絶を見て、目の色をさらに冷たくした。「美咲、いい加減にしろ」「蓮、もう私を放して。あなたと澪の邪魔はしないから」その一言に、蓮の表情がすっと陰る。目の奥に、誰にも読めない色がよぎった。「美咲、それが……お前の言いたいことか?」「そうよ」美咲は爪が食い込むほど掌を握りしめながら、無理やり声を落ち着かせた。「蓮、お願い……もうお互い傷つけ合うのはやめよう。一か月でいいから、私に一か月だけ……」「美咲、お前にそんなことを言う資格があるのか」蓮は奥歯が砕けそうなほど噛みしめ、目の奥にひび割れたような激情がにじんだ。「七年前、俺がお前に一か月だけ待ってくれと泣きついたとき、お前は、待ってくれたか?」美咲は言葉を失い、蓮の声とともに、意識が一気に七年前へ引き戻される。あの頃、彼と美咲は誰もがうらやむ恋人同士だった。蓮は貧しくても、美咲を宝物のように大事にした。自分がどれだけ苦労
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第3話
激しい痛みが身体を襲い、美咲は意識を現在に引き戻した。彼を押しのけて立ち上がり、その場を出ようとする。「もう帰る」蓮はその冷たい反応を見て、顔をさらに暗くした。「美咲、そんなに俺の顔を見るのが嫌か。帰りたいなら帰ればいい。ただし、その前に一つやってもらうことがある」「何」美咲の額には大粒の汗がにじむ。痛みのせいで声まで震える。だが怒りに燃える男は、それにまったく気づかない。冷たく口の端を吊り上げて言った。「澪がな、俺への記念日のプレゼントにランジェリーを買いたいって言ってる。さっきまで俺に付き合って疲れてるから、休ませてやりたい。だから、お前が買ってこい。よく覚えておけ。澪が気に入るまで何度でもだ。気に入るまで延々と買ってこい」美咲は全身に走る激しい痛みに耐えながら、唇を噛みしめ、血がにじみそうになる。「もし、行かなかったら?」「お前は行く」蓮は美咲に目もくれず、カードを一枚取り出して、そのまま彼女の顔に投げつける。「一回で200万円、二回で400万円。美咲、お前は金が大好きだろ。金のためなら体だって平気で売る女だ。よく考えろ。身体売って稼ぐより、ずっと楽だろ」蓮の言うとおりだった。結婚してからの三年間、彼が彼女に触れるたび、事が終わるといつも百万円が投げつけられた。それは、美咲を抱くための「代金」だと蓮は言った。夫婦であるはずなのに、彼は彼女に値段をつけていた。そして今まではいつも、美咲は蓮の目の前でかがみ、床に散らばった札を一枚ずつ拾ってきた。高額な輸入薬が必要だから。美咲は、生きたかった。いつか医学の奇跡が起きて、医者が「すっかり治りましたよ」と告げてくれる日を、ずっと夢見ていた。そのときこそ、あの誤解を全部、自分の言葉で説明できると思っていた。けれど診断書は、すでに彼女に死刑を言い渡していた。美咲に残された時間は、一か月だけ。今回は、今までとは違った。美咲はゆっくり首を振った。「もうお金はいらない」蓮は訝しげな視線で美咲を見つめ、それからふいに目を細めて笑った。「どうした。やっと金より大事なものができたか?そんなに澪が憎いのか?まあ、実の妹だもんな」おかしな話だった。結婚して三年、美咲が彼に逆らったのは初めてなのに、蓮は不思議と腹が立たなかった。む
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第4話
「……痛い」美咲は布団の中で身体を丸くしていた。じっとり汗が浮かび、胸の奥で熱が渦を巻く。現実と夢が混じり合い、どちらにも引き裂かれているような感覚。――七年前の「あの日」がまた始まる。廃工場で、蓮は縄で縛られていた。目隠しをされ、屋上へ引きずられる。ビルの端で、誰かに突き落とされそうになっている。美咲は、咄嗟に大きな音を立てた。犯人の気を、自分へ引き寄せるためだった。――次に覚えているのは、蓮が警察に救い出されていた場面。自分が呼んだ警察だった。その報いが美咲に降りかかる。彼女だけが、屋上から突き落とされた。命はなんとか助かった。でも、もう元の身体には戻れなかった。脳に残った血腫は消えず、この数年は薬に頼りながら、なんとか生きてきた。耳元で、冷たい声が落ちる。「美咲、今度はどんな芝居だ?」ゆっくりと目を開ける。ぼんやり霞む視界の先で、蓮がこちらを見ていた。その顔を見ただけで、なぜか安堵してしまった。思わず、微笑みがこぼれる。「蓮……よかった……生きてて……」蓮の表情が、一瞬だけ止まった。美咲がこの人の前で素直に笑ったのは、いったいいつぶりだったか。胸の奥が、熱いものでぎゅっと掴まれる。気づけば、蓮が身をかがめて口づけてきた。本当はただ触れるだけのつもりだった。でも、美咲が拒まなかったから、堪えていた理性があっけなく消えた。気づいたときには、手が服のすそへと滑り込んでいる。その瞬間、美咲は現実へ一気に引き戻された。「やめて……」力いっぱい、蓮を突き飛ばす。蓮はバランスを崩し、ベッドの端に座り込む。その顔に、陰が落ちる。「美咲……」ちょうどそのとき、蓮のスマホが鳴る。ディスプレイに、澪の名前。電話越しから、泣きじゃくる声が響いてくる。「蓮さん……今日、来てくれないの……?外、雷が鳴ってて……怖い……」窓の外で稲妻が走った。そのすぐあと、雷の音が部屋を揺らす。美咲は小さく震え、耳をふさいで布団にもぐり込む。――雷が怖い。幼い頃、雷の鳴るなか家へ帰ると、両親は中毒で息絶えていた。あの日から、姉妹は児童福祉施設に送られることになった。雷の音がするたび、必ずあの記憶が蘇る。蓮は、そのことを知っているはずだった。ふたりがまだ恋人だった頃。雷が鳴る夜は、蓮がどこ
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第5話
数日後の夜空に花火が上がる。まるで、誰かの幸せを祝福しているみたいだった。神谷グループのビルには、巨大なLEDスクリーンで【R&M、一生を共に】の文字が輝いている。このビルは、街でいちばん目立つランドマークだ。あの言葉は、誰の目にも入る。美咲のもとに、大学時代の友人からメッセージが届いた。【美咲、神谷さんの公開プロポーズ見たよ!話題になってるよ。あんなに大勢の前で「一生を共に」なんて……本当に愛されてるんだね】【美咲がうらやましいな。あんなイケメンでお金持ちの旦那さん、最高のサプライズじゃん】美咲は、うまく笑えなかった。スクリーンの「M」が自分じゃないことを知っているから。今日は蓮と澪の記念日。蓮は堂々と澪へ愛を示し、彼女のご機嫌をとっている。スマホを置こうとしたそのとき、新しいメッセージが届く。送り主は蓮。【この住所に来て。あの赤いドレスを着てきて】蓮はよく美咲を社交の場に同伴させて、「理想の夫」を演じていた。だから、こうして誘いが来ても、美咲はもう驚かなかった。ただ、今日が蓮と澪の記念日なのに、なぜ澪のそばにいないのかだけが引っかかった。疑問を抱えながらも、指示通りに赤いドレスを身にまとい、指定された会場へ向かう。到着してすぐ、胸の奥がざわついた。今夜の会場には、見覚えのある顔がいくつもあった。さっき美咲にお祝いのメッセージを送ってきた大学時代の友人まで、そこにいた。「見て、主役が来たよ!」誰かが声をあげ、一斉に視線が美咲に集まる。美咲は戸惑い、立ち尽くす。「蓮は?一緒じゃないの?」「今日は一緒じゃないの?さっき、スクリーンで愛の告白してたのに……」そのとき、会場の入口がざわついた。美咲もみんなの視線を追って振り返る。入ってきたのは、蓮と澪だった。二人は親しげに腕を組み、まるで本当の夫婦みたいだった。澪は蓮の耳元に顔を寄せて、そっと何かをささやいている。蓮の視線が美咲を射抜く。そして彼女のドレスを見た瞬間、顔色がみるみる険しくなった。――美咲の着ているドレスは、澪と全く同じ。蓮は澪の手を引き、美咲の目の前に立った。「お姉ちゃん、なんで来たの?今日は蓮さんと私の記念日だよ、あんたには関係ないでしょ。来るだけでも図々しいのに、わざわざ私と同じドレス着て
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第6話
美咲の心が、ざっくりと切り裂かれたような痛みに襲われる。必死に腕を振りほどこうとするけれど、どうにもならない。諦めて顔を上げると、蓮と目が合う。その目は、どこまでも冷たい水のようだった。「何を言わせたいの?蓮。謝罪?いいよ、謝る。澪にごめんなさいって。それとも、祝福して欲しいの?いいよ。あなたと澪が、一生幸せでありますように。もしかして、もう一発ビンタしないと気が済まない?好きにして。叩きたいなら早くして。私、もう帰りたいから」美咲はそう言って顔を仰向け、目を閉じた。まるで本当に、平手打ちをじっと待っているみたいだった。蓮は呆然としたまま、しばらく何も言えない。会場全体が、息をひそめたように静まりかえる。そのとき、突然ひとりの女性が群衆をかき分けて前に出てきて、美咲の前に立ちはだかった。蓮に向かって指を突きつけ、怒鳴りつける。「蓮、あなた、それでも男なの?女に手を上げるなんて!あんたが何も持ってなかったとき、美咲がどれだけ支えたか分かってる?あの頃は、ハイスペックな男たちが何人も美咲を追いかけてたのに!浮気だけならまだしも、堂々と愛人連れて奥さんを踏みにじるなんて、男の恥よ!」美咲は思わず目を開けて、その女性を見た。それは大学時代、いちばん仲が良かった友人・西崎佳織(にしざき かおり)だった。義理堅くて、短気な性格は変わらない。美咲は、ただならぬ雰囲気をすぐに察した。案の定、蓮の表情はますます険しくなる。あんな顔を見るのは初めてだ。彼が何も言わないうちに、澪が泣き声を上げる。「誰が愛人だって!?」佳織は怯まずに言い返す。「澪、あんたのお姉ちゃんは奨学金を自分のために使わず、全部あんたの学費に回してたのよ。あんたが大学に行けたのは、美咲のおかげでしょ?その恩をどう返したの?自分のお姉ちゃんの旦那さんを奪って、平気な顔してるをしてるわけ?」「ふざけたこと言わないで!もう一言でも変なこと言ったら、どうなっても知らないから!」佳織はまだ何か言いかけたが、美咲が慌てて彼女を引っ張って後ろに隠す。「もういいの、佳織……」美咲は、蓮がかつて自分の敵を刑務所送りにしたところを見ている。彼の冷酷さは、誰よりも知っている。もし本気になれば、佳織だって無事じゃすまない。「蓮さん、見てよ、あ
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第7話
「蓮、あなたたちが私をどう罰しても構わない。でも、佳織には手を出さないと約束して」澪は目を輝かせて聞き返す。「本当に、何でもいいの?」「ええ」「じゃあ、いま着てるそのドレス、ここで脱いで」その言葉に、会場中が一斉に息を呑む。今夜のパーティーは大規模で、千人を超える招待客が集まっていた。その前で服を脱げだなんて――蓮の目に一瞬だけ迷いが浮かぶが、何も言わず、美咲をじっと見ている。蓮は、美咲が口を開くのを待っている。ひと言でも頼られれば、ほんの一瞬でも助けを求める目を向ければ、その時は必ず庇ってやるつもりなのだ。美咲は顔を伏せ、しばらく黙ったあと、静かに「いいよ」とだけ言った。ゆっくり手を後ろに回し、ドレスのファスナーを下ろし始める。男性客たちは慌てて目をそらす。いくら蓮に放っておかれているとはいえ、美咲は蓮の妻だ。勝手に見ていい相手じゃない。蓮は、美咲がゆっくりとドレスを脱いでいくのを、ただ黙って見つめていた。中には薄い黒のインナーだけで、身体の線をほとんど隠せていなかった。その姿を見た瞬間、蓮の拳が静かに強く握られる。目の奥に、抑えきれない怒気がひそんでいた。美咲は、みんなの前で辱めを受けることを選んでまで、自分に助けを求めようとはしなかった。「もういい……やめろ。これ以上は脱がなくていい、分かったか?」美咲はその声を聞いても、手を止めない。ついにドレスを脱ぎ、床に落とすと、澪をまっすぐ見つめて言う。「これで満足?」澪は唖然としたまま、声も出ない。美咲は背を向けて会場を出ていく。最後まで一度も蓮を見なかった。すれ違う女性たちが、さまざまな視線を投げかける。「信じられない、あの人、本当にドレス脱いだよ。だから蓮さんにも捨てられるんだよ」「それだけじゃないよ。昔、櫻木悠真(さくらぎ ゆうま)と寝たことまであるって」「蓮さんに刑務所送りにされたあの櫻木悠真?……どうして蓮さんがあんな女を妻にしたのか、理解できない」外に出ると、冷たい空気が一気に押し寄せてくる。美咲はふらりと歩き出す。そのとき、鼻血がすっと流れるのを感じる。手で拭ってみるが、視界がかすみ、そのまま倒れ込む。美咲が目を覚ましたとき、そこは病院のベッドだった。向かいのソファには澪が座り
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第8話
美咲は信じられない思いで澪を見つめる。「澪……」「うるさい、まだ全部言ってないよ」澪はにこにこと、まるで他人事のように語りはじめる。「児童福祉施設に送られたとき、本当に嬉しかった。やっと、偏った両親から解放されたから。でも、いいことなんてなかった。ひどい場所から、また別の泥沼に落ちただけ。十二歳のとき、私は施設の警備員に襲われたんだよ」澪は、悔しさで奥歯を噛みしめている。美咲は息が詰まりそうになりながら、やっとの思いで口を開く。「そんなことがあったの、どうして私に言ってくれなかったの……力になれたのに!」「あんたに?助けてもらう?」澪は、信じられないほど可笑しい話を聞いたみたいに、腰が折れるほど笑い転げている。「あんたは知らないでしょうけど、私の不幸は全部あんたのせいなんだよ!警備員に襲われたときだって、『妹は姉には敵わない』って言われたんだから。『姉の方を手に入れるのは難しい』って……」美咲は言葉を失う。驚きと動揺で、受け入れることができない。まさか妹が、こんなにも自分を憎んでいたなんて。しかも、ずっと前から――「男なんて、ろくなものじゃないとずっと思ってた。でも蓮さんに出会ってから、初めて本物の男を知ったの。蓮さんはイケメンで、責任感もあるし、きっと大物になるって分かってた。でも、どうしてそんな彼があんたの恋人だったの?」澪の声には、隠そうともしない嫉妬がにじんでいる。美咲は、今まででいちばん妹を遠く感じて、何も言えない。澪は不敵に口元をゆがめる。「蓮さんのまわりにはこれまで何人も女がいたけど、一年以上そばにいられたのは私だけ。なんでだか分かる?だって、私が蓮さんにこう言ったの。『七年前、警察に通報して蓮を助けたのは私だよ』って」美咲は驚きで息をのむ。七年前、蓮を救ったのは――「もちろん本当はお姉ちゃんだって知ってるよ。私の姉ちゃん」澪は誇らしげに笑う。「でも、蓮さんがその話を信じると思う?お姉ちゃんがあのとき大けがをして、蓮の足手まといになりたくなくて身を引いた……そんな話、蓮さんが信じると思う?櫻木悠真と何もなかったって、清らかな関係だって、蓮さんが本気で信じると思う?絶対にありえないよ」澪のその自信満々な表情は、美咲にとってまるで死刑宣告
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第9話
「どうしたんだ?」「蓮さん……」澪はすぐに蓮のもとへ走り寄り、泣きそうな顔で彼の胸に飛び込む。「私、お姉ちゃんにお粥を食べさせてあげようとしたのに、お姉ちゃんが急に怒ってお椀をひっくり返しちゃったの。見て、私の手、こんなに赤くなっちゃった……」蓮は澪の手をひと目見て、すぐに顔をしかめる。「美咲、お前はまた何をやってるんだ?澪に当たるなんて、どうかしてるぞ。美咲、お前が意識を失っていた間、澪がどれだけ心配してたと思う?澪はずっとお前のことを心配していた。それなのに、お前は妹を傷つけて……お前は本当に姉なのか?」心の痛みは限界を超えて、もう何も感じない。美咲は何も言わず、焼けつくような痛みに耐えながら、ゆっくりと立ち上がり、バスルームへと向かう。蓮は美咲の冷たい背中を見つめている。「美咲、お前……」「蓮」美咲は足を止め、蓮には見えない位置で目を赤くしながら、それでも静かに言葉を返す。「私が一番会いたくないのはあなたなの。お願いだから、ここから出ていって」背後で、怒りに任せてドアを叩きつける音が響く。美咲は振り返り、蓮が去っていった方向を見つめる。結局、涙がこぼれてしまった。――美咲は病院に一週間ほど入院し、ようやく退院の日を迎える。退院前に、主治医の曽根(そね)先生を訪ねた。曽根先生は少し同情するような目で美咲を見つめる。「美咲さん、あの臓器提供の同意書ですが、もし気が変わったら、いつでも取り消せますよ」美咲はただ静かに首を振る。「先生、ひとつお願いがあるんです」「何でしょう?」「私が心臓を提供すること、誰にも知られないようにしてもらえますか?」曽根先生は少し困ったような顔をしながら答える。「それは……絶対に隠し通せるとは言い切れませんが、できる限り努力します」「ありがとうございます、先生」病院を出た美咲は、街の道をゆっくり歩く。街角にあるウェディングドレスショップのガラスに、自分のやつれた顔が映っている。ふと思い浮かぶのは、何年も前、蓮と一緒にこの店の前を通った日のこと。当時、店の中に並ぶ美しいウェディングドレスは、二人にとって手の届かない贅沢品だった。でも、蓮は世界で一番自分を愛してくれた。「いつかお金ができたら、一番盛大な結婚式をして
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第10話
曽根先生は、しぶしぶうなずくしかなかった。美咲の主治医として七年、彼女の性格はよく分かっている。輸血室で、美咲は、自分の腕から抜かれていく暗い赤色の血を、ただじっと見つめている。何度も目まいが襲うが、心だけは不思議と静かだった。「美咲さん、少しでも気分が悪くなったらすぐ言ってください。あなたの体は本当に無理がきかないんですから……」「曽根先生、私はまだ大丈夫です。続けてください」やがて蓮に必要な量の血がそろうと、美咲は「これで終わりにしてください」と言って立ち上がる。だが、足元がふらつき、今にも倒れそうになる。曽根先生は怒りと心配の入り混じった顔で言う。「美咲さん、あなたは自分の体をなんだと思っているんですか……」「曽根先生、どうか蓮のもとへ急いでください、お願いします」美咲は曽根先生が自分の血を急救室に運んでいくのを見届けて、ようやくほっと息をつく。もう限界で、壁にもたれて座り込もうとした瞬間、そのまま意識を失って倒れてしまう。意識が途切れる直前、澪が病院に駆けつけてくるのが見えた気がした。美咲は、今度こそこのまま死ぬのかと思ったが、目を開けると病室のベッドの上だった。すぐに看護師を呼び止めて尋ねる。「蓮は、蓮はどうなったんですか?」「神谷さんですか?手術は無事に終わりましたよ。昨日にはもう目を覚まして、今は隣の病室で休んでいます」その言葉に、美咲はやっと肩の力が抜ける。若い看護師がしみじみと言う。「本当に運が良かったんですよ。血液庫の血が足りなかったところで、ちょうど献血してくれる人が現れて……どなたか分かりませんけどね」若いナースにそう聞かれても、美咲は何も答えない。美咲が献血したことを知っている人はごくわずかだ。本来、彼女の体は献血できる状態ではなく、曽根先生に迷惑がかかるのを恐れて、みんなで秘密にしているのだった。そのとき病室のドアが開き、美咲が顔を上げると、蓮が入口に立っている。彼の顔色はひどく悪い。「美咲、少し来てくれ」「どうしたの?体調が悪いの?」「俺じゃない。澪だ」澪?どうして?蓮は不安そうな顔で、苛立ちも隠さず説明する。「澪が俺を助けるために、無理してたくさん血を抜いたせいで、今は体がもたなくなってる。美咲、お前たちは実の姉妹で血液
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