Chapter: 036 暴かれた黒歴史「おかえり、寒かっただろ。早く入ってあったまれよ」 そう言って海の方を向き、大地が固まった。「どう……したんだ、海……」 ふわふわで長かった髪がばっさり切られ、ストレートになっていた。 そして色が、明るい茶褐色から黒に変わっていた。「何か……あったのか……」「何かって、何が?」「い……いやいや、聞いてるのは俺だ。大丈夫なのか」 こんなにうろたえてる大地を見るのは初めてだ。また新しい大地を知れた、そう思い微笑む。「まあ、ね……気分転換って言うか」「それにしては思いきりが良すぎるだろ。よく分からんが、あそこまで伸ばすのは大変だっただろ? 毎日手入れしてたし、あのふわふわな髪は女子の憧れじゃないのか」「確かに惜しいと思ったよ。でもほら、仕事中、髪が結構邪魔だなって思ってたし」 そう言われ、確かに海は仕事中、いつも髪を束ねていたなと思った。「あと、その……自分に対するけじめって言うか」 頬を赤らめうつむく。そんな海に動揺し、大地が慌てて視線を外した。「とにかくその……なんだ、早く中に入れよ。そんなところに突っ立ってたら風邪ひくぞ」「うん……そうだね」 海にとってこの行動は、今言った通り、自身に対するけじめでもあった。 裕司〈ゆうじ〉はいつも、自分の髪を褒めてくれた。 綺麗ですね、そう言って撫でられるのが嬉しかった。 その髪を切ることで、裕司と過ごした日々を、自身の想いを。 過去の思い出へと変える。 髪を切られる時、感情が溢れて止まらなかった。 涙ぐみ、肩が震えた。 そんな彼女を気遣い、美容師が手を止めたほどだった。 そして生まれ変わ
Last Updated: 2025-05-03
Chapter: 035 別れ「裕司〈ゆうじ〉……今なんて」 ――僕はあなたに、生きて幸せになってほしい―― 呆然と裕司を見上げる。 自分にとって唯一の希望。その裕司から、残酷に突き放された気がした。「……私はあなたといたいの! 毎日あなたに触れて、あなたの声を聞いて。でも、あなたはもういなくて…… だったら私が行くしかないじゃない! ねえ裕司、なんでそんなこと言うの? どうして私に、今すぐ来いって言ってくれないの?」 ――海さんは今、生きています。それは僕が、最後の瞬間まで望んでいたことなんです――「どういうこと? どっかの映画みたいに、私が死にたいと思ってるこの日は、あなたが生きたいと思った一日なんだって言いたいの?」 ――僕は運命を受け入れました。勿論、叶うものなら生きていたかった。でもそれが無理なことは分かってました。 僕の願いはただひとつ、海さんの幸せなんです。海さんが生きて、今いる世界で笑ってることなんです――「酷いよ裕司……あなたがいないのに笑えだなんて……」 涙が止まらなかった。「私に残された、たったひとつの願い……あなたの元に行くことすら、私には許されないの?」 ――海さんは生きてる、生きてるんです。命ある限り、その世界で幸せを求めるべきなんです――「無理だよそんな……だって裕司、いないじゃない……」 ――こんなにもあなたに愛されて、僕は幸せです――「だったら!」 ――でも……僕は死者です。この世界に存在しない者です。その願い、叶えてはいけないんです――「……」 ――死者はどこまでいっても死者です。あなたを愛することも、抱きしめることも出来ません。あなたの中に生きている僕は、過去の残
Last Updated: 2025-05-02
Chapter: 034 裕司 次の休日。 海は裕司〈ゆうじ〉の墓に来ていた。 大地は何も聞いてこなかった。ただ何となく、察しているように思えた。 相変わらずだな、大地。 そういうところに惹かれたんだろうな、そう思った。 * * * その日は朝から、冷たい雨が降っていた。 腰を下ろし、じっと墓を見つめる。 雨が傘を叩く音が心地よかった。「久しぶり、裕司……中々来れなくてごめんね。最近バタバタしてて……あなたのこと、忘れてた訳じゃないの。あなたの一部はここにある訳だし……って、言い訳だよね」 そう言って胸のペンダントを握り締める。その中には墓の中同様、裕司の一部が納められている。「私、どうしたらいいのかな。こんなこと、裕司に聞くのはおかしいって分かってる。でも……裕司の本当が知りたくて……」 何度も何度も問いかける。しかし答えが返ってくることはなかった。「まあ、そうだよね……」 苦笑し、立ち上がる。 そして墓をそっと撫で、「また来るね」 そう言ってその場を後にした。 * * *「……」 帰り道。海はあの駅に立ち寄った。 かつて人生を終わらせようとした場所。 大地と出会った場所に。 駅員にバレないよう、リュックから帽子を取り出し、深くかぶる。 懐かしいな、このベンチ。そう思い、そっと撫でる。 ここに座って、電車に飛び込む勇気を育てて。 そしてようやく覚悟が決まり、いざ飛び込もうとしたら。 大地が飛び込もうとしてた。 思い返し、苦笑する。 何度か列車が通過していった。ほんと、物凄いスピードだ。 あれに飛び
Last Updated: 2025-05-01
Chapter: 033 裏切り「で、あいつのどこを好きになったの?」 いきなりの剛速球に、海が困惑した。 * * * 休憩時間。 運動場のベンチに並んで座り、青空〈そら〉が煙草に火をつけた。「青空〈そら〉さん、直球すぎます……」「あはははっ、ごめんごめん。大地に言わせれば私、アイドリングを知らない女らしいから」「何ですかその例え、ふふっ」「でも休憩時間も短いし、前置きはいいでしょ。それでどうなの、ほんとのところは」「私は……」 空を見上げ、海が目を細める。 昼下がりの住宅街は静かで、心が洗われるような気がした。 今なら素直に話せるかも、そう思った。「大地のどこが好きとか、そういうのはないんです。何て言ったらいいのかな、さっきの青空〈そら〉さんの言葉じゃないですけど、大地といると肩肘張らず、そのままの自分でいられるって思ってたんです」「それ、いいことだと思うよ。結婚してからの必須条件だから」「そうなんですか?」「うん、そう。私も浩正〈ひろまさ〉くんと住むようになって思ったんだけどさ、言ってみれば私たち、他人な訳じゃない? だからその人が何を感じ、何を思ってるか分からないから、いつも気になってしまうんだ。そしてそれが積み重なっていく内に、いつの間にかストレスになってしまう」「浩正さんともそうだったんですか?」「そうなると思ってた。だから最初の内はかなり気を使ってた。でもそんな時、浩正くんが言ったんだ。『そういうの、疲れませんか』って」「……」「その言葉を聞いてね、思ったの。勿論、最低限の礼儀はいるよ? でもね、必要以上に気遣うことは、言ってみれば相手を鎖で縛ることになるんだ。 そしてこうも思った。考えてみれば私、大地に対してはそんなことなかったなって」「それってどういう」「あいつは弟、家族だ。家族ってのは、そう
Last Updated: 2025-04-30
Chapter: 032 意識 朝目覚めて。 目の前に大地の背中があり、安堵した。 微笑み顔を埋める。 そして思った。思い返した。 昨日大地に言ったことを。「私はそんな大地のこと、好きだよ」「大丈夫、今のは友達としての好きだから」「今はまだ、ね……」 自分の言葉に赤面し、動揺した。 なんで私、あんなこと言っちゃったの? 大地と出会って1か月。色んなことがあった。 知らなかった世界に触れた。 そして。大地や青空〈そら〉さんの過去を聞いて。 いかに自分が恵まれていたか、幸せだったのかを知った。 甘えていたのかを知った。 両親との別れは辛かった。 裕司〈ゆうじ〉との別れに絶望した。 でも。それでも。 あの人たちとの思い出に、私の心は温かくなった。 しかし。大地はどうだろう。 過去を思い出すたび、身が引き裂かれるような思いをしてるに違いない。 それでも彼は笑顔を絶やさず、人々の為になろうと生きている。 そんな強さに憧れた。 だけど。 今自分の中にある感情は、ただの憧れとは思えなかった。 そして、その感情に覚えがあることに気付いた。 その感情。それは。 裕司に向けたものと似ていた。「……」 そんなことある? 私にとって、愛する人は裕司だけだ。 彼に会いたい、その一心で命を断つ決意もした。 その私が、裕司以外の男に心を寄せている? そんな馬鹿なこと、ある訳がない。 それは裏切りだ、不義だ。許されるものじゃない。そう思い、打ち消そうとした。 しかしその時、大地の言葉が脳裏を巡った。「生きるにしろ死ぬにしろ、それは海が決めることだ。俺はただ、その選択を尊重するだけだ」「死ぬまでここにいればいいよ」 大地らしい、デリカシーの欠片もない言葉。でも温かい
Last Updated: 2025-04-29
Chapter: 031 信じるという鎖「素敵……」 海が目を輝かせた。「素敵かどうかは知らないけど、そうして青空姉〈そらねえ〉は無事、社会復帰を果たした」「大地はいつからとまりぎに?」「俺はかなり後になってからだ。まあそれまでも、ちょくちょくヘルプで入ってたけどな」「そうなんだ……そして青空〈そら〉さんは、浩正〈ひろまさ〉さんに告白されて」「いや、告白は青空姉〈そらねえ〉からだ」「そうなの?」「ああ。それも電光石火だったぞ。いつしたと思う?」「いつって、それはやっぱり相手のことを知ってからになるから……半年後ぐらい?」「出会ったその日だ」「ええええっ?」「あの日、家に浩正さんを連れてきて。仕事の話を色々聞かされて、青空姉〈そらねえ〉は益々やる気になってた。まあ、その前にもう決めてたみたいなんだけどな。それで一緒に酒飲んでる時に、俺の目の前で告白しやがった」「……ほんと青空〈そら〉さん、アグレッシブだね」「いやいや、そんないいものじゃないから。弟の目の前で告白する女なんて、聞いたことないぞ」「それで浩正さん、オッケーしたの?」「ああ。それにもびっくりしたけどな」「何と言うかほんと、面白い人たちね」「変わり者ってだけだよ」 そう言って苦笑し、新しいビールを冷蔵庫から取り出した。「それで半年後、青空姉〈そらねえ〉は浩正さんの家に転がり込んでいった」「同棲ってこと?」「ああ。それまで何度も泊まりに行ってたからな、時間の問題だと思ってたよ」「そうなんだ」「もう大地は大丈夫、そう言って笑いながら出て行きやがった」 そう言って笑う大地を見て、こんな笑顔も見せるんだ、そう海が思った。 そして同時に。 胸が高鳴るのを感じた。「青空姉〈そらねえ
Last Updated: 2025-04-28
Chapter: 第8章 初めてのデート 6/7 インターホンがなった。「……」 パソコンの電源を入れたばかりの沙耶〈さや〉がモニターを覗くと、悠人〈ゆうと〉の姿が見えた。 笑みを漏らした沙耶が玄関に走り、ドアを開ける。 パンッ! パパンッ! 沙耶の頭上に、クラッカーの音が鳴り響く。見ると悠人に小鳥〈ことり〉、そして弥生〈やよい〉がそこにいた。 三人とも、クラッカーを手に笑顔だ。「サーヤ、引越し・アルバイト決定、おめでとう!」 小鳥の掛け声と同時に、もう一度クラッカーが鳴った。 * * *「ななな、なんだこの騒ぎは」 気が動転した沙耶が、声にならない声を出す。「お前の歓迎会だよ」 悠人が笑顔で沙耶の頭を撫でる。「歓迎会……」「そうです、クイーン・ロリータ。我々庶民は、こういった出会いを大切にしているのです。私も不本意ではありますが、今日は一時休戦ということで、お祝いに馳せ参じました」「に、肉襦袢〈にくじゅばん〉まで……そうか、お前たち……私の引越しを祝ってくれるというのか……」「もう晩飯は食ってしまったから、まぁティーパーティーってとこだな」「サーヤ、中に入ってもいい? ちょっと寒いかも」「あ、ああ、すまない。私としたことが、客人を立たせたままにしてしまった。さあ、入ってくれ」「おじゃましまーす!」 三人がわいわいと中に入る。「怪奇絶壁幼女、じゃなかった北條沙耶殿。キッチン借りますよ」「う、うむ、好きに使ってくれミートボール……ではなく川嶋弥生」「二人が名前で呼び合うの、なんか新鮮だね」「まあ、今日は休戦だからな」 小鳥と弥生が、キ
Last Updated: 2025-05-03
Chapter: 第8章 初めてのデート 5/7 駅につくと、雨はやんでいた。陽が落ちて、少し肌寒く感じられる。「ちょっと寄り道していいか?」「どこに?」「そこ」 悠人〈ゆうと〉が指差したのは、マンションのそばを流れる川の堤防だった。 * * * 堤防に二人が腰掛ける。小鳥〈ことり〉は寒いのか、少し震えていた。悠人が手渡した缶コーヒーを飲むと、「あったかい」 そう言って笑った。 悠人がジャンパーを脱ぎ、小鳥の肩にかける。「ありがとう。でも、悠兄〈ゆうにい〉ちゃんは寒くない?」「俺は真冬生まれだからな、寒いのには強いんだ」「そうなんだ。小鳥も冬生まれなのに、なんで寒いの苦手なのかな」「女の子だからしょうがないよ。冷え性とか、女の子の方が圧倒的に多いだろ?」 小鳥が残りのコーヒーを一気に飲み、ほっと息を吐いた。「お、星発見」 悠人がそう言って指を伸ばす。その先には宵の明星、金星が光っていた。「ほんとだ。空、晴れたんだね」「あの星だけは、ここでも見えるんだよな」「金星も見えなくなったらおしまいだよ。なんたってマイナス五等星、一等星の170倍も明るいんだから」「さすが星ヲタ」「今日のプラネタリウム、楽しかったー」「そう言ってもらえると、連れて行ったかいがあるよ」「ほんとに楽しかったんだもん」「はははっ。そんなに喜んでもらえたら、また連れて行くしかないじゃないか」「また行きたい! それから出来たら、悠兄ちゃんとほんとの星も見たい!」「望遠鏡持ってか?」「うん!」「じゃあ車を借りて、一度遠出するか」「楽しみにしてるね」 * * * 話が弾む中、悠人が小鳥に何か言おうとしたその時、スマホがなった。「遊兎〈ゆうと〉…&helli
Last Updated: 2025-05-02
Chapter: 第8章 初めてのデート 4/7 地下から上がると、そこは既に本通りだった。 悠人〈ゆうと〉の知る、日本橋最短ルート。少し歩くと、すぐにフィギュアの店やDVDショップが目に入った。 生粋の電気店やアダルト専門DVD店なども立ち並ぶが、悠人と小鳥〈ことり〉の目には入らなかった。見えているのはアニメショップ、それだけだった。 まずは腹ごしらえにいつもの店と、悠人が入ったのは牛丼屋だった。 時間短縮と経費削減にはここが一番。そう言った悠人に小鳥も同意だった。早々に食べ終わると、いよいよショップ巡りが始まった。 入口いっぱいに陳列された食玩の店に入ると、そこはうなぎの寝床のように真っ直ぐ縦長になっていた。その店の中には入口同様、所狭しと食玩が並べられている。 数百はある食玩に圧倒されながらも、小鳥はお目当てのものがないかと目を輝かせながら物色を続けた。 大型店舗では雑誌や漫画、ポスターやキャラクターグッズに興奮し、中々出ようとはしなかった。こういった店に初めて入った小鳥にとって、ここは宝の山に他ならなかった。 裏通りに入っても、小鳥の興奮は収まらない。 入っては物色を続ける中、とあるフィギュア専門店をロックオン、中に入ろうとした。その小鳥の腕をつかみ、悠人が首を振る。「ここはやめておこう」「どうして? フィギュアのお店だよね。ちょっと覗いてくるね」 そう言って、小鳥が一人で入っていく。悠人は苦笑し、店の前で煙草を吸いだした。 そしてしばらくすると、小鳥が血相を変えて店から出てきた。「おかえり」「な、な、何? このお店」「だから言っただろ。ここは男の夢と欲望のつまった店なんだ」「でもあのフィギュア、胸も、それからその……全部見えてて、な、なんか……」 見る見る内に、小鳥の顔が赤くなっていく。悠人は笑いながら、「喉、渇いただろ。なんか飲むか」 そう言って歩き出した。 自動販売
Last Updated: 2025-05-01
Chapter: 第8章 初めてのデート 3/7「……」 目を覚ました悠人〈ゆうと〉が、またしても違和感を感じた。 違和感の原因である何かが、体にまとわりついてくる。「うぎゃあああああああっ!」 沙耶〈さや〉だった。「ななな、なんでお前がいるんだ!」「どうしたの!」 悠人の叫びに、小鳥〈ことり〉が部屋に駆け込んできた。「……サーヤ……?」「ん……ふにゅ……」「こ、小鳥……助けて……」「……」 まどろみの中、またしても沙耶の顔が近付いてくる。小さな口を開け、悠人の首筋を頬張る。「はむっ……」「ダメええええええっ!」 叫ぶと同時に、小鳥が沙耶の体を引き離す。そしてすかさず、自分の両足を悠人の首に巻きつけた。 関節技、「首四の字固め」の完成。「ぐががが……」 悠人が悶絶しながらタップする。「朝からサーヤに抱きつかれて、しかもいやらしそうに喜んで……この、このっ! 私というものがありながら!」「ギブ……ギブだ小鳥……」 小鳥が足をほどくと、悠人が首を押さえて咳き込んだ。「……お、お前……朝の目覚めにこれはきついぞ」「だよねー。悠兄〈ゆうにい〉ちゃんは、サーヤのキスの方がいいんだもんねー」「当たり前のように冤罪を吹っ掛けるな」「ふっ……」 沙耶の肩が震える。「ふふふっ」「サーヤ?」「いやすまない。面白い
Last Updated: 2025-04-30
Chapter: 第8章 初めてのデート 2/7 陽が落ちてきた頃。 この日の締めとして、二人は観覧車に乗った。 ゆっくりと夜景が動いていく。狭い空間で優しいBGMが流れる中、小百合〈さゆり〉が口を開いた。「悠人〈ゆうと〉。今日までよく頑張ったね」「それはこっちのセリフだ。小百合、ありがとな」「悠人なら大丈夫。絶対合格するよ」「だといいんだけど……ははっ」「またぁ。すぐそうやって不安そうな顔をする」「いや……楽しかったから忘れてたけど、俺って明日、受験なんだよな」「もぉー、今からそんな弱気でどうすんのよ」「だな。今更じたばたしても仕方ないよな」「絶対大丈夫だから。自信持ってよね」「でも……今日で終わりなんだな、こんな時間も」「あ……」 悠人の言葉に、小百合がはっとした。 そうだ。合格にしても不合格にしても、悠人の家で一緒に過ごした生活は、今日で終わりなんだ。 そう思うと急に、小百合の中に寂しさが込み上げてきた。「そう、だよね……こうして悠人といるのも、今日が最後なんだよね……」 小百合の様子に悠人は、しまった、今する話題じゃなかった、そう猛烈に後悔した。 小百合はうつむきながら、懸命に笑みを浮かべようとする。「ダメダメ、今日はリフレッシュの一日なんだから。しめっぽくするのはやめよう!」「……すまん、悪かった」「いいっていいって。この話はこれで終わり。それより悠人、隣に行ってもいい? 渡したいものがあるの」「あ、ああ、いいよ」 悠人の隣に座ると、小百合はバッグからラッピングされた包みを出した。「今日まで小百合先生によくついてきました。これはそのご褒美です。ちょっと早いけどバレンタインチョコ、受け取ってください」
Last Updated: 2025-04-29
Chapter: 第8章 初めてのデート 1/7「……小百合〈さゆり〉?」 声に振り向くと、公園のベンチに座る悠人〈ゆうと〉がいた。「なんか、久しぶりだね」 小百合がそう言って、悠人の隣に座る。「だな。高校までは毎日一緒だったから、俺も久しぶりな気がするよ」「一週間も経ってないのにね」 小百合が小さく笑う。「大学はどうだ?」「うん、それなりに楽しいよ。友達ともよく遊びに行くし、サークルのみんなも優しいし」「そっか。まぁ楽しくやってるならいいさ」「悠人は?」「俺か? 俺はいつも通りだよ」「どうせ一人で講義受けて、終わったらまっすぐ帰ってるんでしょ。一人で」「今の大学には、お節介な保護者もいないしな」「悠人くん。それはもしかして、私のことを言ってるのかね」 拳を握り、小百合がにっこり笑う。「はははっ」「ふふっ」 * * *「でもほんと、久しぶりだよな。こんな感じで喋るのも」「別々の大学で生活サイクルも変わって、行き違いばっかだからね」「最初の頃はお前も、夜になったら俺の部屋に来てたんだけどな」「それってちょっと、いやらしくない?」「全然。子供の時は風呂も一緒だったんだ。今更だろ」「それはそうだけど」「そんなこと言ったらお前、去年の今頃、毎晩俺の家に泊まってたじゃないか」「あれはだって……悠人の家庭教師してたからじゃない」「そうなんだけどな。その節は本当、お世話になりました」 悠人が大袈裟に頭を下げる。「いえいえとんでもない。出来の悪い生徒だったけど、なんとか合格させることも出来たし、先生としては満足でしたよ」「お前とは頭の出来が違いすぎるからな。お前は推薦、俺はランクをひとつ下げてもぎりぎりだったからな」「でもあの
Last Updated: 2025-04-28
Chapter: 第2章 動きだす世界 5/5「それで、柚希〈ゆずき〉はどう? 試験の準備はばっちり?」「うん、何とか……」 小倉家でいつものように夕食、入浴を済ませた柚希が、早苗〈さなえ〉の部屋でそう答えた。 いつもなら居間にカルピスがあるのだが、今日はメモが一枚置いてあった。「カルピスは預かった。部屋まで来るのだ 早苗」 柚希は早苗の部屋が苦手だった。 同世代の女子の部屋。そう考えるだけで逃げたくなった。 それに早苗は、部屋ではいつもティーシャツに短パン姿で、目のやり場に困るのだった。 都会の間取りに比べれば開放感があるのだが、それでも二人きりで密室にいることに変わりはない。 だから柚希は、余程のことがない限り早苗の部屋には近付こうとしなかった。「何とかって柚希、ほんとに大丈夫? 確かにうちは田舎の高校だけど、そこそこレベル高いよ? 何なら勉強、見てあげようか?」「ありがとう。でも……今回は一人で頑張ってみるよ。こっちに来てから初めての試験だし」「そっか。ちょっと心配だけど、柚希がそう言うんだったらいいか。もし補習や追試になったら、その時しっかり見てあげよう」「ありがとう、早苗ちゃん」 来週に迫った中間試験。 柚希にとっては一年ぶりの定期試験だった。 早苗自身も勉強しなくてはならないのに、自分のことを気遣ってくれる、そんな早苗の気持ちが嬉しかった。「でも……久しぶりに入ったけど、いつ見てもすごいね」 そう言って、柚希が部屋を見回した。 壁には今、日本でブームとなっているハリソン・フォードの映画「レイダース/失われた聖櫃〈アーク〉」と、シルベスター・スタローンの「ランボー」のポスターが貼られていた。 机の上にはつい最近、全米で話題になった「E.T.」の人形が置かれている。 本棚には映画のパンフレットがぎっしりと詰まっていて、空い
Last Updated: 2025-05-03
Chapter: 第2章 動きだす世界 4/5 撮影は、想像していた以上に紅音〈あかね〉との距離を近くしていった。 柚希〈ゆずき〉もファインダー越しだと、自分でも不思議なくらい積極的に話しかけることが出来た。 気がつくと、二人は自然に会話出来るようになっていた。 幼い頃に亡くした母をほとんど覚えていないことや、愛犬のコウがシュナウザーという種類で、紅音が13歳の時に家に来たこと、自分に色がない分、濃い色が好きで、身につける物も自然と原色系になってしまうことなど、紅音は自分のことを興奮気味に話し続けた。 病気のおかげで学校にも行けず、他人と距離を置く生活をずっと続けてきた。 近所の住人や父の患者たちとの接触はあるものの、挨拶もままならなかった。 他人と離れすぎてしまった生き方に悩むこともあったが、挑戦する勇気も出なかった。 そんな自分が今、昨日会ったばかりの人とこんなに自然に話せている。 そのことが嬉しくて仕方なかった。 紅音は柚希との出会いに感謝し、喜びを感じていた。 柚希も紅音の話を聞きながら、もっと彼女のことを知りたい、そう思った。 そして、そんな風に感じられる人に出会えたことが、何より嬉しかった。 * * * 腕時計のアラームが鳴った。 その音に二人がはっとすると、いつの間にか空は茜色に染まっていた。「いけない。いつの間にか、もうこんな時間に」「す、すいません僕、時間も考えずに話しこんじゃって」「私の方こそ、楽しすぎて、つい……」 そう言ってお互い見つめ合い、笑った。「楽しかったです、紅音さん」「私こそ、ありがとうございました」「あ、それから……晴美〈はるみ〉さんにもお礼、言ってもらっていいですか。サンドイッチ、ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」「晴美さん、きっと喜びます」「それから、お父さんにも伝えてもらえますか。近い内に、診察に伺いますって」
Last Updated: 2025-05-02
Chapter: 第2章 動きだす世界 3/5 放課後。 ホームルームが終わると同時に、柚希〈ゆずき〉は教室を後にした。 小走りに小川に向かう。 時々後ろを振り返り、山崎たちがついてきていないか確認しながら、柚希は先を急いだ。 * * * 小川に着き時計を見ると、約束の時間までまだ30分ほどあった。 柚希は木の傍に鞄を置き、一眼レフのカメラを取り出した。 標準レンズを取り付けると、フイルムを入れてファインダー越しに辺りを見渡す。 昨日感じた通り、ここは撮影ポイントとしてかなりいい。 早速柚希はシャッターを切った。 気分が乗らない時や、被写体に魅力を感じない時には味わえない、いいリズムでシャッターを切っていく。 柚希にとって、至福の時間だった。 あっと言う間にフイルムを使い切り、二本目のフイルムを入れている時、土手の向こうから犬の鳴く声が聞こえた。 振り返るとそこに、真紅のワンピースに身を包み、黒い日傘を差した紅音〈あかね〉とコウの姿があった。「こんにちは」 昨日と同じ、風にかき消されそうなか細い声。 その声を聞くと、柚希の鼓動は高鳴った。「こ、こんにちは、紅音さん」 柚希の言葉に、紅音は嬉しそうに笑顔を向けた。 コウが柚希の元に走り飛びつく。「あはははっ。コウ、一日ぶり」 コウとじゃれあう柚希に微笑みながら、紅音は土手をゆっくりと下りてきた。「ここ、いいですか?」「は、はい……」 紅音が側に来ると、柚希の胸が熱くなった。 紅音は肩から提げていたバスケットを下ろすと、照れくさそうにうつむく柚希の隣に座った。「怪我の具合、どうですか?」「あ、はい、大丈夫です。本当にありがとうございました」「柚希さんのお役に立てたのなら……よかったです」「本当、
Last Updated: 2025-05-01
Chapter: 第2章 動きだす世界 2/5「ゆーずきー、一緒に食べよー」 昼休み。 弁当箱を手にした早苗〈さなえ〉が、そう言って柚希〈ゆずき〉の肩を叩く。「うん、小倉さん」「さ・な・え。そんなに私を名前で呼ぶの、嫌?」「いや、そうじゃなくて……学校では名前で呼ぶの、勘弁してよ」「なーに言ってるんだか。私の名前なんだからいいじゃない。別に違う名前で呼べって言ってる訳でもないんだからさ」「いや、だから……ほら、みんな見てるから」「はいはい分かりました。藤崎君、一緒にお弁当食べませんか」「だから……怒らないでって」「ふふっ。ほら、柚希もお弁当出して」 クラスメイトの視線を気にもせず、早苗が柚希の前に座る。「はいお茶」「ありがと」 柚希が入れたお茶を受け取り、早苗が飲もうとすると、かけていた眼鏡がくもった。「ありゃりゃ、またやっちゃった。家ではかけてないから、つい忘れちゃうんだよね」 そう言って、早苗は舌を出して笑った。 * * * 早苗の視力は、眼鏡をかけるほど悪くない。 家にいる時は眼鏡なしで、特に支障もない。 しかし早苗は学校に行く時、必ず眼鏡をしていた。 そのことを柚希が聞いた時、早苗はモードチェンジなんだと答えた。 家ではリラックスモード、学校では委員長モード。 その切り替えにはこれが一番なんだと。 自分自身の気持ちを切り替える為に、高校に入った時に編み出した方法なんだと言っていた。 いつも柚希と登校する時、彼の前で眼鏡を取り出し、「装着!」 そう言って眼鏡をかける。 それは彼女の生真面目な性格から来ているものなんだ、そう柚希は理解していた。 * * * 机に並べられたふたつの弁当箱。
Last Updated: 2025-04-30
Chapter: 第2章 動きだす世界 1/5「紅音〈あかね〉。今朝は随分楽しそうだね」 朝食を食べながら、桐島医院院長、桐島明雄〈きりしま・あきお〉が笑顔を向ける。「はい、お父様。今朝はとても気分がよくて」「何か、いいことでもあったのかな」「はい、実は……」 紅音は紅茶をひと口飲み、少し緊張気味に続けた。「お友達が出来ました」「友達……」「はい。昨日コウと散歩している時、知り合った方なんです。何でもその方、つい最近こちらに越してきたばかりらしくて。 色々お話させてもらっている内に、友達になりませんか、そうおっしゃってくれたんです」「そうか、友達が……よかったじゃないか」「は……はい!」 父の反応に、紅音が安堵の表情を浮かべた。「お嬢様、よほど嬉しかったみたいです。それにその方のこと、かなりお気に召されたご様子で」 明雄のカップにコーヒーを注ぎながら、桐島家で給仕をしている山代晴美〈やましろ・はるみ〉が微笑む。「お嬢様のスケッチブックに、その方のデッサンがありました」「え……え? 晴美さん、見たんですか?」 動揺する紅音に、晴美が満足そうな笑みを浮かべる。「はい。お嬢様のベッドを整えている時に」「え? え? 嘘、嘘」 紅音が顔を真っ赤にしてうつむく。 その反応、仕草を待っていたかのように、晴美は紅音の傍まで小走りに行くと、そのまま後ろから抱きしめた。「きゃっ! は、晴美さん?」「むふふふっ。これで今日も一日、しっかりお嬢様にご奉仕することが出来ます。あ、でもお嬢様、誤解なさらないでくださいませ。私、お嬢様の部屋を物色してた訳ではございませんので。ベッドを整えに入った時に『たまたま』スケッチブックが開かれてあったものですから」「はっはっは。それで晴美くん、紅音の友達というの
Last Updated: 2025-04-29
Chapter: 第1章 邂逅 5/5 湯船につかりながら、柚希〈ゆずき〉は紅音〈あかね〉のことを考えていた。 ここに越してから、柚希は基本、食事と風呂を小倉家で済ませている。 初めの頃は、自分の家があり生活があるからと拒んでいたのだが、早苗〈さなえ〉の勢いに流される回数が徐々に増えていき、いつの間にかこれが日常になっていた。「綺麗な人、だったな……紅音さん……」 小さく笑う紅音を思い出すと、自然と口元が緩んだ。 * * * 柚希はこれまで、身近な女性を意識したことがなかった。 清楚で無垢、そして自分を包み込んでくれる存在。それが柚希の求める女性像だった。 それは幼い頃に事故で亡くした、大好きだった母親への想いに重ねられているとも言えた。 どこにいても浮いた存在で、常にいじめの対象だった彼に興味を持つ女性もいなかったが、彼自身、劣等感を持つこともなかった。 彼の理想の女性像を、同世代に求めることが出来ないと分かっていたからだ。 しかし紅音は、その理想を求めるに足る初めての女性だった。 勿論彼女のことを、まだ何も知らない。 しかし彼女の姿を思い描き、仕草を思い返すと、彼の胸は高鳴った。 湯船から出た柚希は、椅子に座り体を洗い出した。 毎日のように受ける暴力で、体のあちこちは傷ついていた。 いつもは痛くならないように、慎重に慎重に洗っていた。 しかし今日、本当に久しぶりに。痛みを気にせず洗うことが出来た。 それが嬉しかった。 その時、突然ドアが開いた。「柚希―、湯加減どう?」 短パンにティーシャツ姿の早苗だった。「うわっ!」 柚希は反射的に湯船に飛び込んだ。「早苗ちゃん、いつも言ってるだろ。いきなりドアを開けないでって」「あははははっ、別にいいじゃない。私にとっては柚希も昇〈のぼる〉も、可愛い可愛い弟なんだからさ。これぐらいで騒がないの」「い
Last Updated: 2025-04-28