昭和58年。 藤崎柚希(ふじさき・ゆずき)は、いじめに悩まされる日々の中、高校二年の春に田舎の高校に転校、新生活を始めた。 父の大学時代の親友、小倉の隣の家で一人暮らしを始めた柚希に、娘の早苗(さなえ)は少しずつ惹かれていく。 ある日柚希は、銀髪で色白の美少女、桐島紅音(きりしま・あかね)と出会う。 紅音には左手で触れた物の生命力を吸い取り、右手で触れた物の傷を癒す能力があった。その能力で柚希の傷を治した彼女に、柚希は不思議な魅力を感じていく。 ホラー要素を含んだ恋愛小説です。
Lihat lebih banyak優しい日差しが映り込み、川面が輝いていた。
昭和58年5月。 奈良県北部に位置する、この街に越して一ヶ月。 この小川にまで足を運んだのは初めてだった。腰を下ろし木にもたれかかると、柚希〈ゆずき〉は少し顔をしかめた。
まだ痛む。殴られた頬が、そして蹴られた脇腹も、時間と共にずきずきとしてきた。 頭もまだ朦朧としている。制服の詰襟を外し、ベルトを緩めると呼吸が少し楽になった。 両手の親指と人差し指を使ってフレームを作り、小川や土手を眺める。 今度の休み、ここで写真を撮ろうか。 今しがた起こり、そしてまた、明日もあさっても続くであろう現実から目を背けるように、柚希は木にもたれたまま、フレーム越しに辺りを見渡した。その時、柚希が気配を感じた。
今日はまだ許してくれないのか……あと何回殴られるんだ……勢いよく彼に近付いてくる足音に、柚希は目をつむり、諦めきった表情を浮かべた。
その時だった。
まだ少し血がにじんでいる彼の頬を、何者かが舐めてきた。「うわっ!」
予想外のことに、柚希が驚いて声を上げた。
振り向くと目の前に、太い眉を持った犬の顔があった。
「え……犬……?」
息を荒げて柚希を見つめるその犬に、思わず柚希が微笑む。
そして次の瞬間、その犬に舐められた頬の傷に痛みが走り、顔をしかめた。しかし犬はおかまいなく柚希の上に乗り、再び顔を舐めだした。
「え? え? ちょ……ちょっと、やめろ、やめろってお前……ははっ、あははははははっ」
尻尾を振りながら顔を舐めてくるその犬に、いつしか柚希は声を上げて笑っていた。
散々殴られた後なので、犬を払いのける気力も残っていない。 柚希は笑いながら、しばらく犬にされるがままになった。 しかし不思議と、さっきまでの重い気持ちが軽くなっていくような気がした。 「コウ? どこに行ったの?」土手の向こうから、女の声がした。
風の音にかき消されてしまいそうな、か細い声だった。「……コウ! 何をしてるの、早く離れて! すいません、大丈夫ですか」
コウと呼ばれるその犬を見つけた声の主が、慌てた口調でそう言った。
その声にコウは反応し、柚希から離れると声の主の元に走っていった。 「ごめんなさい、大丈夫ですか」「あ、はい、大丈夫です」
そう言って起き上がろうとする柚希の目に、黒い日傘をさした女の姿が映った。
太陽を背にしているので、よく顔が見えない。
女が、手袋をした小さな手を差し出してきた。
柚希がその手を握ると、手袋ごしではあるが、やわらかい感触と体温が伝わってきた。 柚希は赤面しながらその手に引き寄せられ、ゆっくりと起き上がった。女は日傘をたたみ、小さなポーチからハンカチを取り出した。
「ごめんなさい、その……大丈夫でしたか?」
ハンカチを柚希の顔に近付け、女が申し訳なさそうにそう言った。
そして次の瞬間、柚希の顔のあざを見て、「……もしかしてこの傷……ご、ごめんなさい、大丈夫ですか」
動揺を隠し切れない様子で、柚希に向かって頭を下げた。
「あ、いえ……大丈夫ですよ。これはこの子につけられた傷じゃないですから。そうだよね、コウ」
柚希がそう言うと、コウが一声鳴いた。
その柚希の言葉に安心したのか、女は小さく息を吐き、柚希の傍らに座った。「でもその、あの……やっぱりごめんなさい。いつもはちゃんとつないでるんですけど、今日はあんまり天気がよくて……コウも少し走りたいようでしたし、周りに人もいなさそうだったんで、つい……」
「本当に大丈夫ですから、そんなに謝らないでください。それに僕も……少し気分が沈んでたんですけど、コウのおかげで元気出ましたから」
柚希の笑顔に、その女もつられて小さく笑った。
「でも、どうされたんですか、この傷……痛いですよね、きっと」
女がそう言いながら、ハンカチを柚希の頬にそっと当てた。
慎重に慎重にハンカチを押し当てると、白いハンカチに血がついた。 彼女のその仕草に柚希は、再び赤面してうつむいた。「ごめんなさい、痛かったですか」
「い、いえ……」
柚希が恐る恐る、その女に視線を移す。
腰の辺りまである長い髪が風になびく。
その髪の色に、柚希は息を呑んだ。――銀色の美しい髪。
憂いを帯びた大きな瞳は、美しい赤。赤い瞳の人なんて、初めてだった。
薄く小さな唇は、桜の花びらのような淡いピンク。 肌は透き通るように白い。 こんな片田舎の街に不似合いな、真紅のワンピース。 そして黒いブーツに黒い日傘を持ったその姿に、まるで人形みたいな人だ、そう思った。 高貴な雰囲気が漂う容姿に、柚希の視線は釘付けになった。 「あ……あの、その……」柚希の視線に戸惑うように、女は視線を落とした。
その声に我に帰った柚希は、慌てて視線を外した。「あ、す、すいません……その、あの……あんまり綺麗なので、つい……」
柚希が無意識の内に、そう口にしていた。
そしてすぐ、後悔と羞恥の念に襲われ、顔が真っ赤になった。「え……え?」
次に女の顔が赤くなった。
両手を口に当て、どう反応したらいいのか分からない様子で、声にならない声を漏らす。「あ、いえその……す、すいません」
「わ、わた、私……」
「違うんです……あ、いや違わない、綺麗というのは本当です。じゃなしに、違うって言うのはそうじゃなくて」
「え? え?」
言葉にすればするほど、彼女の顔が赤くなっていく。
弁明しようとすればするほど、新たな墓穴を掘っていく。 静かな小川のほとりで、二人はそんなやりとりを続けた。リビングで三人が、柚希〈ゆずき〉を挟んで座っていた。 柚希のその、何とも言えない微妙な表情は、晴美〈はるみ〉にとってかなりのご馳走だった。「柚希さん。両手に花とは、正にこのことですね。むふふふっ」「ちょ……両手に花って、そんな」「あら失礼。修羅場の間違いでしたか」「晴美さんっ」「むふふふっ。柚希さんは本当、いじりがいのあるお方ですね」「……おいしい! これ、晴美さんが淹れたんですか?」 紅茶をひと口飲んだ早苗〈さなえ〉が、驚きの表情を浮かべた。「お気に召されて何よりです」「晴美さんは家事の天才なんです。お料理の腕もすごいんですよ」「お嬢様、そんなにハードルを上げないでくださいませ。お嬢様にそんな風に言われたら、今夜の夕食、気合を入れずにはいられなくなります」「夕食、晴美さんが作るんですか」「はい。私たちの食事は、いつも晴美さんが作ってくださってるんです。早苗さんも是非、楽しみにしていてくださいね」「晴美さんの料理……こんなお屋敷でいつも作ってる料理……気になる、うん、気になる」 早苗の中の、料理研究部部長としての血が騒ぐ。 今この場からいなくなるということは、柚希と紅音〈あかね〉を残していくということだ。 それは今日、ここに来た本来の目的から大きく外れることになる。 しかし早苗の中で、例えそうであっても、晴美の料理の腕を見極めたいといった思いが強くなっていた。 紅茶をひと口飲んだだけで、この人が只者でないことは分かった。 ならば悩んでいる時ではない。 私が今成すべきこと。それは晴美と共に、キッチンに立つことだ。「は、晴美さん」「はい?」「よければその、私もキッチンに立たせてもらえませんか」「キッチンに……でございますか」
「特に異常はなかったよ。問題ないね」 土曜の昼。 桐島医院の診察室で、柚希〈ゆずき〉と早苗〈さなえ〉が検査の結果を聞いていた。「見たところ、傷の治りも順調の様だ。まだどこか痛むところはあるかね?」「大丈夫です。食欲も戻りましたし」「それはよかった。今夜も晴美〈はるみ〉くんが、腕によりをかけるらしいからね。しっかり食べていってくれたまえ」「はい、ありがとうございます」「よかったね柚希。先生、色々とありがとうございました。これからも不肖の弟のこと、どうかよろしくお願いします」「はっはっはっ、柚希くんは早苗くんの弟になったのか。そりゃぞんざいには出来ないね」「はい」 早苗が笑顔で答えた。「じゃあ、そろそろ家に行くとしようか」 * * *「何これ、すごい……」 屋敷の中に入り、早苗がそうつぶやいた。 柚希から聞いていたが、ここまでとは思わなかった。「いつもすごいお屋敷だと思ってたけど、中に入ると本当、別世界に来たって感じがするよ」「僕も最初に来た時、びっくりしたんだ」「柚希さん!」 柚希が声の方向に目をやると、真紅のドレスを身に纏った紅音〈あかね〉が立っていた。 よかった。紅音さん、元気そうだ。 柚希が安堵の表情を浮かべた。 紅音は柚希と目が合うと、両手を口元にやり、瞳を潤ませた。「お久し……ぶりです……」 そして柚希の元に駆け寄ると、そのまま柚希に抱きついた。「ずっとお会いしたかったです、柚希さん……」「紅音……さん……」 紅音が柚希を抱擁する。 その甘く優しい感触に、柚希の手も、無意識に紅音を抱きしめようとした。
「あ……」 早苗〈さなえ〉の記憶が呼び覚まされる。 あの時の女の子……確かにあの子、桐島先生のところの……名前、名前は確か……「その人、紅音〈あかね〉さんって言うんだ」 そうだ、紅音ちゃんだ。 でも私、あの時しかあの子と……学校でも会ったことがないし、今まで忘れていた……「紅音さんは体が弱くて、学校に通ってないんだ。外出するのも一日一回、犬の散歩をする時だけで。 彼女とは三ヶ月ぐらい前に、その……僕が最近よく行く川で出会ったんだけど……話してる内に、次の日もまた会いませんかってことになって……それから会うようになっていって……」 しどろもどろになりながら話を続ける柚希から、早苗は紅音に対する想いを感じた。 そして、胸が痛んだ。「この前山崎くんたちに殴られた時、紅音さんが僕を見つけてくれたんだ。でも紅音さん、ショックで気を失ってしまって」 柚希が紅音の核心に触れないよう、気をつけながら話を進める。「たまたま紅音さんと一緒にいた、給仕の晴美〈はるみ〉さんが僕を車で送ってくれたんだ。だから先生がここに来てくれたのは、その……そう言うことで……」「……最近柚希の様子が変だと思ってたけど……そういうことだったんだ」「……ごめん。隠すつもりはなかったんだけど」「あははははっ、まあ確かに言いにくいよね。でも驚いたな。同じ街に住んでるのに紅音さんのこと、全然覚えてなかったよ」「まあ、一日一回しか外出しないし」「で、紅音さんの具合はどうなの?」「あ、うん。先生が言ってたけ
柚希〈ゆずき〉の部屋で一緒に食事をしている間、早苗〈さなえ〉の頭に数々の疑念が渦巻いていた。 昨日、柚希に対する自分の気持ちを知った。 この想い、いつか柚希に伝えたい。そう思った。 そしてその想いは同時に、柚希のことをもっと深く知りたい、そういう欲求を生み出すことになってしまった。 しかしそれを要求すれば、柚希の心を遠ざけてしまうことになるかもしれない。 そのジレンマが早苗を苦しめていた。 どうして呼んでもいないのに、桐島先生は来たのか。 それにあの空気……二人の間に、医者と患者の関係を越えた何かを感じてしまった。 言葉を交わさずとも通じあえる関係。そんな風にも思えた。 それはいつ、どうして生まれたのか。「ごちそうさまでした」「え?」「おいしかったよ、早苗ちゃん」「あ……う、うん。お粗末さまでした。その調子なら、今夜ぐらいからしっかりした料理、食べられそうだね」「うん。僕もそろそろ、固形物が食べたいかな」「分かった。じゃあ夕ご飯、楽しみにしといてね」「ありがとう。ところで早苗ちゃん、まだ全然食べてないけど。食欲ないの?」「あ、あはははっ……ちょっとまあ、さっきのことが気になってね」「さっきのこと?」「……うん……」 そう言って早苗が箸を置き、うつむいた。「あの……さ、柚希……昨日も言ったけどね、私の知らないところで柚希が苦しんでるのを知って、私……哀しいんだ…… 私、柚希のことをもっと知りたいと思ってる。柚希の好きなこと、嫌いなこと。夢中になれること……でもさ、そうやっていちいち干渉するのって、ちょっと
「話はこれで全てだ。私が見てきたことは、全て包み隠さず伝えられたと思う。 勿論、今すぐ信じてくれとは言わない。こんな話、私が君の立場なら、とても受け入れられるとは思えないからね。ただ、出来れば今私が話したこと、口外して欲しくないと思ってる。紅音〈あかね〉にもね」 その言葉に柚希〈ゆずき〉がはっとした。 そうだ。今先生から聞いたことを誰かに話したら、どうなってしまうのだろうか。 一笑されて終わるのかもしれない。しかし今の話の中には、紅音さんが実の母を殺めたことも含まれている。 ひょっとしたら先生たちは、この街では生きていけなくなるかも知れない。 そしてもし僕が、このことを紅音さんに話したら。 紅音さんの記憶が呼び覚まされ、最悪の場合、罪の呵責で自我が崩壊するかもしれない。 そんな危険な話を、赤の他人である僕を信じて話してくれたんだ。 この話をするまでに、先生の中でどれだけの葛藤があっただろう。 そう思うと、放たれた一言一句に刻まれた覚悟に、柚希は身震いがした。「雨がやんだようだね。じゃあ、私はそろそろお暇させてもらうよ。長々と話してすまなかった」 そう言って明雄〈あきお〉は、穏やかな笑みを柚希に向け、立ち上がった。 * * *「怪我の具合は心配いらないよ。まずはゆっくり休みたまえ」 そう言って明雄が玄関の扉に手をかけた時、柚希が口を開いた。「先生、その……今日はありがとうございました。それから今日のこと、誰にも話しません」 その言葉に明雄が振り返り、微笑んだ。「ありがとう、柚希くん」「それと……僕、メデューサの話とか、正直まだ頭が混乱していて……ただ、もし先生に許してもらえるのなら、僕はこれからも、紅音さんの友達でいたいです」「……」「紅音さんに不思議な能力がある、そのことは理解してます。でも、
――メデューサ。 ギリシャ・ローマ神話に登場する魔物で、ゴーゴン三姉妹の一人である。 女神だった彼女はある時、神々の王であるゼウスの娘、アテナの怒りを買い、その姿を魔物に貶められた。 その時彼女は髪を毒蛇に変えられ、見るもおぞましい姿になってしまった。 メデューサが魔物といわれる所以はその容姿にもあったが、その顔を見た者が、恐怖で石に変えられてしまう能力の為でもあった。 魔物と化した彼女は暴虐の限りを尽くすが、英雄ペルセウスによって首をはねられ、その生涯を終えている。 * * *「……」「勿論、推測の域を出ていない話だ。何の確証もない。しかし紅音〈あかね〉のあの能力は、科学や医学ではとても説明出来ない。 人智を超えた力。私がそこに辿り着いてしまったのも、必然なのかもしれない。 そして、人の傷を癒す能力。両手を介し、生命エネルギーを循環させるあの現象。それもメデューサの伝説の中に、似た記述があった。 ペルセウスによってはねられた首から流れる血には、不思議な力が宿っていた。左側から流れる血は猛毒で、そして右側から流れる血は、死者をも蘇生させる力があったそうだ」「猛毒と薬……」「紅音の左手は、触れたものの生命力を吸い取っていく。そして右手には、どんな傷でも癒す力がある。それはまるで、メデューサの力その物じゃないか」「でも……そんな話……」 雨はやんでいた。 雲の隙間から見える陽の光が、部屋に差し込まれていた。「……どこの親が、自分の娘がおぞましい魔物だと思うだろう。私も、私の仮説が誤っていることを証明したい。そう望み、願っている…… 私に出来ることは、紅音の症状を抑えることだけだ。だが、その為に私は紅音から、普通の子供たちが当たり前に享受している幸せを奪ってしまった。そしてあろうことか、私は医
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