39歳独身悠人の家に突然、幼馴染小百合の娘、18歳になった小鳥がやってきた。 5歳の時に悠人とした、悠人のお嫁さんになると言う約束をかなえるために…
View More「悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、泣いてるの?」
夕焼けに赤く染まった公園。
ベンチに座り、肩を震わせている男に少女が囁く。
「悠兄ちゃん寂しいの? だったら小鳥〈ことり〉が、悠兄ちゃんのお嫁さんになってあげる」
そう言って、少女が男の頭をそっと抱きしめた。
* * *3月3日。
終業のベルがなり、作業を終えた彼、工藤悠人〈くどう・ゆうと〉が事務所に戻ってきた。
「お疲れ様でした、悠人さん」
悠人が戻ってくるのを待ち構えていた、事務員の白河菜々美〈しらかわ・ななみ〉が悠人にお茶を差し出す。
「ありがとう、菜々美ちゃん」
悠人が笑顔で応え、湯飲みに口をつける。
その横顔を見つめながら、菜々美が深夜アニメ『学園剣士隊』について話し出した。感想がしっかり伝わるよう、一気にまくしたてる。「やっぱり悠人さんの言ってた通り、生徒会が絡んでるみたいでしたよね。最後のシルエット、あれって生徒会長ですよね」
悠人に心を寄せる菜々美にとって、悠人と話せる昼休み、そして終業後の僅かな時間は貴重だった。
工場主任で、作業が終わってから書類整理の仕事が残っていると分かってはいるが、限られた時間、少しでも悠人と話したいとの思いに負け、こうして話し込んでしまうのだった。 机上の納品書に判を押しながら、悠人もそんな菜々美の話に、いつも笑顔でうなずいていた。アニメの話がひと段落ついた所で、菜々美が映画の話を切り出してきた。
「実家からまた送ってきたんですよ、優待券」
「ほんと、よく送ってきてくれるよね、菜々美ちゃんのお母さん」
「民宿組合からよくもらうんですよね。で、よかったらなんですけど……悠人さん、また一緒に行ってもらえませんか」
「そうだね……次の連休あたりになら」
「あ、ありがとうございます!」
菜々美が嬉しそうに笑った。
* * *コンビニに入った悠人は、ハンバーグ弁当と味噌汁、コーラをカゴに入れてレジに向かった。
家のすぐ近くにあるこのコンビニの店長、山本とはここに越してきた頃からの付き合いだった。「奥さんが留守だと大変だね。弥生〈やよい〉ちゃんは今、東京だったよね」
「ええ、池袋の方に行ってるそうです。あさってには帰ってきますけど、また遠征話で盛り上がりそうです……って、だから嫁さんじゃないですから」
「あはははっ。早く結婚しちゃいなよ、あんたたち」
「こんな40前のおっさんなんて、20歳の弥生ちゃんにはかわいそうでしょ。人生倍も違うんですよ」
「あらそう? でも弥生ちゃんの方はまんざらでもないんじゃない?」
「勘弁してよ、おばちゃん……」
* * *悠人は部屋の7階まで、健康の為にいつも階段を使っていた。このマンションに越してきて10年、毎日続けているおかげで、階段を上る足取りは40前とは思えないほど軽やかだった。
隣の弥生ちゃんは東京遠征、しばらく家も静かだな……そう思いながら7階に近付いた時、悠人は人の気配を感じた。「……?」
過疎マンションのこの階には、悠人と弥生しか住んでいない。
気のせいか? そう思いながら廊下を歩いていくと、悠人の部屋の前で座っている少女の姿が目に入った。「え……」
いかんいかん、アニメの見過ぎで妄想がここまで来たか。
一度足を止めた悠人は、ひと呼吸入れて再び玄関に目をやった。幻覚ではない。確かにそこに少女がいた。
ショートカットの黒髪、赤のダウンジャケットに薄紅色の手編みマフラー。そして黒のリュックを背負ったその少女の横顔には、どこか懐かしい面影を感じた。
「……小鳥?」
悠人がそうつぶやいた。その声に振り向いた少女は、悠人の姿に大きな瞳を輝かせた。
「悠兄ちゃん!」
そう叫ぶやいなや、立ち上がった少女は悠人に飛びついてきた。
「え? え?」
いきなり抱きつかれた悠人が、思わず声を漏らす。しかし混乱する頭の中で今、少女が言った言葉がこだましていた。
――悠兄ちゃん――
俺をそう呼ぶ人間はこの世でただ一人。やっぱりこいつは小鳥だ。
「悠兄ちゃん! 久しぶり!」
過疎化しているマンションに、少女の声はよく響いた。なんてテンションだ、この娘は……そう思いながら悠人は、少女の両肩をつかんで離し、
「なんで小鳥がここにいる」
そう言った。しかし少女はそれに答えず、キラキラ光る瞳で悠人の顔を見て、再び抱きつき頬ずりしてきた。
「やっと会えた! 小鳥、ずっと会いたかったんだから!」
「会いたかったってお前、学校は」
「小鳥はめでたく高校卒業。昨日卒業式だったんだよ。それでね、どうしても卒業旅行がしたくって、お母さんに無理言ったの」
「卒業旅行……と言うことは小鳥、大学は?」
悠人の問いに、小鳥が照れくさそうにVサインをした。
「無事合格、4月から花の女子大生です」
その言葉に、悠人が安堵の表情を浮かべた。
「そうか、合格したのか、よかった……よく頑張ったな、小鳥」
悠人が小鳥の頭を撫でる。その仕草に、小鳥が顔を真っ赤にして微笑んだ。
「にしても早いな。最後に会ったのは5歳だから、あれからもう13年も経つのか」
「お母さんも賛成してくれたんだ、卒業旅行。小鳥、嬉しくて興奮しっぱなしだったんだ」
3月とはいえまだまだ寒い。それにいくら過疎マンションでも、玄関先での会話はマナー違反だ。とにかくここではと、悠人が小鳥を家に入れた。
「悠兄ちゃんのお家、なんか緊張しちゃうね。おじゃましまーす」
靴を脱いだ小鳥が、そう言って部屋に入ろうとした。その小鳥の腕を悠人がつかむ。
「この部屋に入るからには、お前にもルールを守ってもらうぞ」
悠人はそう言って小鳥を洗面所に連れていき、うがいと手洗いをさせた。
「風邪、まだ流行ってるからな」
「悠兄ちゃん、お父さんみたい」
台所の先に和室があり、悠人は小鳥と入っていった。
「その辺に適当に座っていいよ。ところで小百合〈さゆり〉……母さんは元気にしてるのか?」
「うん、元気元気すこぶる元気。母さんも今旅行中なんだよ。女一人旅」
「そうか、元気ならまあいいや。で小鳥、その卒業旅行っていつから行くんだ? 友達と海外にでも行くのか?」
「違うよ。小鳥の旅行、もう始まってるよ」
「え?」
「小鳥の卒業旅行はここ。悠兄ちゃんのお家」
「……は?」
「そして今から、悠兄ちゃんに重大発表があります」
「ちょっと待て、ここが旅行ってなんの」
「はいこれ」
聞く耳持たない小鳥が、一枚のDVDを悠人に突き出した。
この勢い、母親と全く同じだ。そう思いながら受け取った悠人は、デッキにDVDを入れた。「……」
なぜかハリウッド映画会社のオープニングが流れ、その後画面にアニメ「魔法天使〈マジック・エンジェル〉イヴ」のフィギュアが映し出された。
そして聞こえる懐かしい声。小百合だった。「悠人―、ひっさしぶりー! 元気してるー? 悠人の永遠のアイドル、水瀬小百合〈みなせ・さゆり〉ちゃんでーす!」
相変わらずの元気な声。悠人の顔がほころんだ。
画面はイヴのフィギュアから動かない。時折画面の端に、白い指が意地悪そうに入ってくる。「とまあ、出だしの挨拶はこれぐらいにして……ゴホンッ。悠人は今、小百合の顔を見たいと思ってるよね? でもでも悠人と離れてはや10年、流石の小百合も非情な時の流れには勝てず……まぁ美貌は健在なんだけどね。小鳥と相談してね、悠人の大切な初恋の夢を壊さない為、今回は声だけのメッセージにしました」
確かにそうだ。しばらく会ってないから忘れていたが、俺と小百合は同い年なんだ。
小百合ももう、そんな年か……感慨深げに悠人がうなずいた。「今悠人の隣にいる小鳥は、艱難辛苦を乗り越えて、念願叶って見事希望の大学に合格しました。悠人も気になってたと思うけど、小鳥の受験の邪魔しないって約束で、この一年連絡禁止にしてたから、きっとやきもきしてたでしょうね。でも悠人、あんたの協力もあって、小鳥は無事合格出来ました。ありがとね。
その小鳥に私、ひとつだけ何でも望みを叶えてあげるって言ったの。そして小鳥が出した望みがこれ。悠人、よーく聞くのよ。『私、悠兄ちゃんのお嫁さんになりたい』って」
「…………は?」
「悠人。あんた私たちが引越しする時、小鳥と約束したらしいじゃない。小鳥が大きくなったら結婚してあげるって。小鳥はね、ずっとその約束を忘れずに頑張ってきたんだよ」
「ちょっと待て、あれは小鳥が5歳の時の話だぞ」
「だから私は母として。可愛い娘の一途な想いに報いてあげたくて、今回の旅行に賛成しました。私もちょうど、温泉旅で女を磨きなおしたいって思ってたところだったし。今から私は陸奥〈みちのく〉一人旅、小鳥は浪速〈なにわ〉一人旅」
「なんだそれは。うまいこと言ってるつもりか」
「だけどもちろん、悠人もいきなり小鳥と結婚って言われても、はいそうですかとはならないよね。悠人は今でも小百合一筋、分かってるよ。小鳥から愛を告白されても戸惑うでしょう。だから悠人、小鳥にはひとつだけ条件をつけました。
今日から3ヶ月の期限付きです。それまでに悠人の心をつかめたならOK、もし3ヶ月経っても悠人の心が動かなかったら、その時は諦めて帰ってきなさい、そう言ってます。だから悠人、しばらく小鳥の面倒みてやってね。そして悠人の意思で、小鳥を選ぶかどうか、決めてあげてほしいの。一人の女の子として」「あ、あのなあ……」
「でも悠人、根性いれて小鳥と過ごしなさいよ。恋する女は強いからね。あ、それと小鳥、小鳥も頑張るんだよ。悠人は母さん一筋だけど、母さんの遺伝子を持ったあなたならだいじょーぶ。年の差なんて関係ない、恋する女は誰にも負けないからね。じゃあそういうことで悠人、小鳥、頑張ってねー」
好き勝手言うだけ言って、DVDは終わった。
「どうした?」 立ち止まった小鳥〈ことり〉を振り返り、悠人〈ゆうと〉が声をかける。 小鳥は腕に強くしがみつき、悠人を見上げた。「小鳥?」「悠兄〈ゆうにい〉ちゃん……」 悠人を見るその瞳は、憂いに満ちていた。「お母さんへの気持ちは分かった。やっぱりお母さんは、悠兄ちゃんの中で大きな大きな存在なんだって……それで、あの……悠兄ちゃん、小鳥は……」「……」「小鳥はどうなのかな……まだ私は……幼馴染、水瀬小百合〈みなせ・さゆり〉の一人娘、5歳の女の子なのかな……」「……」「悠兄ちゃんが私を大切に思ってくれていること、すっごく嬉しい。でもそれって、悠兄ちゃんにとって、私がいつまでも『可愛い小鳥ちゃん』だからなんだって……そう思ったらね、胸が苦しくなる時があるんだ……」「小鳥……」 甘い吐息が悠人を誘う。小鳥が頬を紅潮させ、潤んだ瞳で悠人を見つめる。「悠兄ちゃん……私は……水瀬小鳥はもう大人だよ……水瀬小鳥は工藤悠人さんのことを、心から……愛して……」 悠人の胸の鼓動が、不自然に高鳴っていく。「悠兄ちゃん……」 小鳥が胸に顔を埋める。 その時悠人の中に、小百合の娘の小鳥ではなく、一人の女性、水瀬小鳥に抱きつかれているという意識が生まれた。 そのことに困惑し、動揺した。「小鳥……」「悠兄ちゃん…&hellip
「……」 悠人〈ゆうと〉がゆっくりと目を開ける。 視界の先には、見慣れない天井があった。「そうか……旅館だったな……」 時計を見ると、夜中の2時を少しまわっていた。 窓の外に視線を移すと、深い闇が広がっていた。 過疎マンションの夜も静かだが、旅行先での夜の静けさは、また格別なものだった。「ちょっと出るか」 ジャケットをはおり、悠人は廊下に出た。 隣の部屋は静まり返っている。彼女たちもお休みのようだ。 ロビーの下駄を履いて外に出ると、ひんやりとした風が気持ちよかった。 温泉街の少し外れに位置するこの旅館、辺りには特に何もない。静寂と闇が広がっていた。「こういうの、いいよな……」 自然と顔がほころんだ。カラカラと下駄の音がこだまする中、販売機を見つけて缶コーヒーを買ったその時、背後に人の気配を感じた。「……」 振り返るとそこに、浴衣姿の小鳥〈ことり〉が立っていた。「小鳥か……おどかすなよ」「やっぱり悠兄〈ゆうにい〉ちゃんだった。目が覚めて寝付けそうになかったから、ずっと外を見てたんだ。そうしたら人が見えて、悠兄ちゃんに見えたから追っかけてきたの」「それはいいけど小鳥、その格好、寒くないのか?」「あ、あははははっ……慌ててたから、このまんまだった」「風邪ひくぞ。これ着とけ」「でも、そうしたら悠兄ちゃんが」「いいから。こういう時は黙って着てろ。女の子の礼儀だよ」「ありがと、えへへっ」 小鳥が嬉しそうに袖を通す。「あったかい……悠兄ちゃんの匂いがするよ」「こっ恥ずかしいこと言うんじゃないよ。ほら、小鳥も飲むか」 そう言
小百合〈さゆり〉が去った後。 公園のベンチで一人、悠人〈ゆうと〉は泣いた。 小百合の儚さに触れ、それでも自分の人生を歩もうとしている強さに触れて。これ以上何も言えない自分の弱さに涙した。 また俺は、目の前の幸せを失ってしまった。何が、何がいけなかったんだ……そんな思いがぐるぐると回り、涙が溢れて止まらなかった。「悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、泣いてるの?」 顔を上げると、目の前に小鳥〈ことり〉が立っていた。 夕焼けに包まれた公園に、小鳥の影が長く長く伸びていた。 悠人が慌てて涙を拭う。「どうした小鳥。一人で来たのか?」「うん。お母さんが、公園は一人でもいいって」「そうだったな。でも車には気をつけるんだぞ。それから、知らない人とは話しちゃ駄目だからな」「うん。先生もそう言ってた」「いい子だな、小鳥は」 微笑み頭を撫でると、小鳥が嬉しそうに笑った。「悠兄ちゃん。もうすぐ小鳥ね、おばあちゃんとお母さんと引越しするの。悠兄ちゃんも来るの?」「……」 その言葉にまた、涙が溢れてきた。「おばあちゃんの家に行くんだって。おばあちゃんの家、いっぱい山があって川があって、お風呂も大きいんだって。小鳥、楽しみなんだ」「そうか、楽しそうだな……よかったな、小鳥」 そう言って、もう一度頭を撫でる。「でもごめんな。悠兄ちゃん、小鳥と一緒に行けないんだ」「だから泣いてるの?」「そうかも……な……」「もう、悠兄ちゃんと会えないの?」「……」 その言葉に、悠人が耐え切れず嗚咽した。「悠兄ちゃん、大丈夫?」「……あ、ああ、大丈夫だよ。小鳥、あ
「なんで、なんでこんなことに……」 公園のベンチで、悠人〈ゆうと〉が肩を落とした。「……」 小百合〈さゆり〉の頬を涙が伝っていた。 * * * 二年後。 小鳥〈ことり〉は5歳になっていた。 あの運動会の時、体調がすぐれないと言っていた小百合の父が肺癌で倒れ、闘病生活の末にこの世を去って間もない、ある日のことだった。 小百合の家は社宅で、近いうちに引っ越さなければならなかった。悩んだ末に小百合が出した結論は、母と小鳥と三人で、母の実家のある奈良に引っ越すというものだった。 悠人は目の前が真っ暗になった。 まただ。また運命は、俺から幸せを奪おうとする。 しかし悠人は、もう後悔したくなかった。臆病な気持ちに負けたくなかった。 何より目の前で泣いている小百合、そして小鳥を失いたくなかった。「小百合。俺と結婚してくれ」 不思議なほど穏やかに、その言葉が出ていた。 これまでずっと、口にすることが出来なかった言葉。再会してからのこの三年、その言葉を胸にしまいこんでいた。今ここで、このタイミングで言うことが卑怯だと分かっていた。それでも悠人は、その言葉を口にした。「俺はこの三年……いや、お前と離れてからずっと、この言葉をお前に伝えたかった。 俺はお前のことが好きだ。この世界の誰よりも好きだ。 小百合、俺の嫁になってくれ。そして小鳥の……小鳥の父親にならせてくれ」「……」 止め処なく流れる涙を拭い悠人を見上げると、悠人も泣いていた。「ずっと、ずっとこの言葉、伝えたかった……小百合、愛してる。俺の残りの人生、全部お前と小鳥に捧げる」「悠人……」 小
昼。 レジャーシートの上、三人で弁当を囲んだ。「こんなところで弁当食べるなんて、何年ぶりだろうな」「小学校以来かな」「たまにはいいもんだな。ほら小鳥〈ことり〉、ご飯粒ついてるぞ」 そう言って、小鳥の頬についたご飯粒をつまんで口に入れる。「悠人〈ゆうと〉もほら、こっち向いて」「え?」 悠人の頬についたご飯粒を取り、小百合〈さゆり〉が食べる。「悠人も子供だね、相変わらず」「ははっ」「ほら悠人、しっかり食べてよ。昼から保護者の100メートル走なんだから、元気つけとかないと」「ああ。小鳥、悠兄〈ゆうにい〉ちゃん頑張るからな」「がぁーんばー」「でも小百合、おじさんの具合どうなんだ? あんなに初孫の運動会楽しみにしてたのに、朝になって調子が悪いって」「うん、たいしたことはないって言ってたけど。ちょっと心配」「後でお見舞いに行っていいかな」「きっと喜ぶよ。また将棋でもしてあげてよ」「またカモにされるのか……」 * * * 昼食が済み、保護者参加の100メートル走が始まった。「悠人―っ、がんばれーっ!」「ゆーいーちゃーん!」 小百合と小鳥が手を振る。小百合が作ったはちまきをした悠人が、二人に手を振って応える。「小鳥―、見とけよー。悠兄ちゃん、一等取るからなー」「いちについて、よーい」 パンッ!「うおおおおおおっ!」 * * *「悠人、重くない?」「え? あ、ああ大丈夫だ。それより、ててっ……」「大丈夫? 膝、まだ痛いでしょ」「まあな。でも痛いのは膝じゃなくて」「心?」「その通りで&h
「小鳥〈ことり〉―っ、がんばれーっ!」「ちょっと悠人〈ゆうと〉、声大きいって。恥ずかしいよ」「何言ってるんだ小百合〈さゆり〉、お前もしっかり声を出せ。いいか、こう言うのは親の気合いが大事なんだぞ」「もぉ……」 真っ青な秋晴れの空。 この日は保育園の運動会。悠人は小百合と共にやってきたのだった。 * * * あの夕暮れの公園で、小百合と再会した日。 小百合の話は、悠人の人生を一変させた。 柴田和樹〈しばた・かずき〉と付き合い、半年後に妊娠した小百合は、和樹の卒業に合わせて大学を中退し結婚、新しい生活をスタートさせた。 会社経営の父を持つ和樹との結婚は、経済的にも恵まれており、周りから見ても絵に描いたような幸せなものだった。 しかし新生活が始まってすぐ、和樹の様子がおかしくなった。 和樹は浮気をしていた。 そのことに小百合が気付き、口論となった。小百合が感情をあらわにし、泣きながら和樹に叫んだその時、陣痛が始まった。 救急車で運ばれ、痛みに耐えていたその時。小百合の脳裏に悠人の顔が浮かんだ。 いつも自分を大切にしてくれた悠人。優しかった悠人。悠人のことを思うと、涙が止まらなかった。 そして、和樹の子供を産もうとしているこの瞬間に、悠人のことを考えている自分もまた、和樹と同じなのではないか。そんな罪悪感を感じた。 小百合は頭を振り、今この世界に生まれようとしている我が子のことだけを考えた。 生まれてきた小鳥を抱いた小百合は、指を一本一本数えた。そして元気な声で泣く我が子を抱きしめ、共に泣いた。 子供が生まれたことで、夫婦関係は持ち直した。和樹は小百合に頭を下げ、二度とその女性とは会わない、そう約束した。 小百合はその言葉を信じ、そしてまた自分も、和樹と小鳥の為に頑張っていこう、悠人のことは忘れよう、そう改めて誓ったのだった。 しかしその二年後、和樹は小百合に離婚届けを突きつけてきた。
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