高齢者専用の集合住宅「あおい荘」。 管理人の新藤直希は、ある日家の前で倒れている家出少女、風見あおいと出会う。 あおい荘と同じ名前を持つ天然少女に不思議な縁を感じた直希は、あおい荘で一緒に働くことを提案する。 幼馴染の看護師・東海林つぐみ、入居者の孫・小山菜乃花、シングルマザーの不知火明日香。 直希に想いを寄せる彼女たちを巻き込んで、老人ホームで繰り広げられる恋愛劇場にようこそ。
View More「……」
目の前に倒れている少女がいたら、どうするのが正解なのだろうか。
世知辛い世の中、一つの決断がその後の人生を狂わせることもある。
声をかけていいものか。不審者呼ばわりされないか。 痴漢扱いされるのだろうか。 世の男たちはきっと、戸惑い悩むことだろう。しかし彼、新藤直希〈しんどう・なおき〉は違った。
迷うことなく声をかけた。「どうしました? 大丈夫ですか」
直希の声に少女は反応しない。苦しそうに、小刻みに息をしているだけだった。
* * *
今日は7月20日。
天気予報では、猛暑日だと言っていた。
「熱中症……?」
直希が少女の肩に手をやり、再び声をかける。
「大丈夫ですか?」
肩を揺さぶられ、ようやく少女が目を開けた。
そして視界に入った見知らぬ男の手を握ると、息絶え絶えにこう言った。「お水……お水をください……それからあと……何か食べる物を……」
「お水と食べ物……分かりました。とにかく中に」
少女が差し出された手を弱々しく握り、立ち上がろうとする。
しかし力が入らず、そのまま直希の胸に倒れ込んでしまった。「……ちょっと我慢してくださいね」
直希はそう言うと、彼女を抱きかかえて立ち上がった。
「あ……」
少女の胸が締め付けられる。
(これ……これって、お姫様抱っこ……)
直希が立ち上がると、少女は直希の肩に手を回し、そのまましがみついた。
「大丈夫ですか? 中に入りますよ」
太陽を背に語り掛ける直希に、少女は思わず、
「王子様です……」
そうつぶやいた。
* * *
靴を脱ぎ捨てた直希は、まっすぐ食堂へと向かった。
中にはテーブルが5卓あり、奥がカウンターになっている。 テーブル席に少女を座らせると、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、コップに注いだ。「とりあえずこれ、飲んで下さい。あ、でも落ち着いて、ゆっくり飲んで下さいね」
しかし少女はコップを受け取ると、あっと言う間に飲み干した。
「ごほっ、ごほっ」
「そうなるから言ったんですが……慌てなくてもまだありますから。ゆっくり飲んでくださいね」
そう言ってペットボトルをテーブルに置くと、少女はペットボトルを両手でつかみ、そのまま口にした。
「聞いてない……まあ、その様子なら大丈夫ですね」
直希が苦笑し、カウンターから皿を持ってきた。
「昼の残りだから、こんな物しかないんですけど」
海苔が巻かれた小さめのおにぎりが8つ。そして卵焼きと焼きたらこ。
「よかったら食べてください」
そう言って笑う直希は、天使にしか見えなかった。
「い……いただきますです!」
言うか言わないか、少女は両手でおにぎりをつかむと、夢中で口の中に放り込んだ。
「あ、いや……そんなに慌てて食べると、喉が詰まって……」
「はい……むぐむぐ……ありがとう……ございますです……」
「ははっ……」
麦茶の入ったコップを置くと正面に座り、直希は改めて少女を見つめた。
次々とおにぎりを平らげていく少女。余程空腹だったのか、自分の目にどう映るかなんてお構いなしで、口に放り込んでいく。
髪はストレートで少し明るめの茶色。小さい顔立ちに大きな瞳が印象的だ。
ほっそりとした体形だが、服の上からでもよく分かる立派な胸。 白を基調としたワンピースは気品があり、つばの大きな白い帽子を見ても、避暑の為に別荘に赴くお嬢様のようにも見えた。食べ方を除けば。
時折おにぎりを喉に詰まらせると、麦茶で一気に流し込む。そうこうしている内に、皿の上にあったおにぎりを全て平らげてしまった。
「嘘だろ……小さめに握ってたとは言え、三合近くあったんだぞ……」
何もなくなった皿を見てつぶやく直希をよそに、少女は残った麦茶を飲み干しひと息ついた。
「おいしかったですー」
「あ、あははははっ……満足していただけて何よりです」
「あ! そうでした! あのその、この度は見ず知らずの私の為に、こんなに親切にしていただいて……ありがとうございますです!」
「いいですよ。残りもんでしたし」
「これが残り物……あのその、ここは天国でしょうか」
「天国って、そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃないです! ここは涼しくて、飲み物だってありますです。それにおいしいおにぎりまで……炎天下の外が地獄なら、ここは天国です!」
「あ、あはははっ……ま、まあ元気になったようでよかったです、その……」
「あ、ごめんなさいです。命の恩人を前にして私、名前も名乗らずに。私、風見あおいと申しますです」
「風見……あおいさん、ですか。俺は新藤直希です」
「新藤直希さん……そのお優しい雰囲気にぴったりのお名前です」
そう言って、あおいと名乗った少女が頬を染めた。
「それでその、風見さんはどうしてあんな所で」
「はい、実はその……私、お腹が空いてまして」
「いや、それは知ってます。と言うか、今のを見てその説明はいらないですから」
「はい……ごめんなさいです。あの、私……」
「どうした直希。お客さんか」
声に振り向くと、そこに直希の祖父母、栄太郎と文江が立っていた。
「ああ、じいちゃんばあちゃん」
「だからナオちゃん、そうやって私たちをコンビみたいに呼ばないの」
そう言って文江が笑う。
「この人、風見さんって言うんだけど、家の前で倒れてたんだ」
「倒れてたって……ちょっとあなた、大丈夫なの?」
文江があおいの隣に座り、心配そうに見つめる。
「は、はいです、大丈夫です。新藤さんに助けていただきましたので」
二人が直希を見ると、直希が小さくうなずいた。
「まあその、何て言うか風見さん、お腹が空いてたみたいなんだ。それと軽い熱中症で」
「でももう大丈夫です。新藤さんにお飲み物とご飯、いただきましたので」
「そうなのかい? あんまり具合が悪いようなら、病院に行った方が」
「びょ、病院はいいです」
「ん?」
「あ……その、実は私……」
三人が顔を見合わせる。
あおいは観念して小さく息を吐くと、少しうなだれて口を開いた。「実は私、家出してきたんです」
クリスマスの飾り付けの準備をしながら、つぐみは先日のミーティングを思い出していた。 節子や山下の一件を通じて、つぐみはあおいと菜乃花の成長を強く感じていた。二人共、何度も何度も心が折れそうになったことだろう。彼女たちを励ましていた自分でさえ、袋小路に迷い込んだような気になり、挫けそうになった。だが彼女たちは、そんな自分の言葉に奮起し、立ち上がってきた。 介護に正解はない。 なぜなのか。対象となる相手によって、対応が違うからだ。 介護職の対象は、あくまでも人間。機械が相手なら、マニュアルを作りそれに沿って作業すればいい。だが人となると、そうはいかない。 この人が成功したからといって、別の人にも通用するとは限らない。そういう意味では自分もまた、あおいたちと同じく、試行錯誤を繰り返すしかなかったのだ。違う点があるとすれば、彼女たちよりも経験が長く、それなりに対応策を心得ているということぐらいだった。 それでも自分も人間、心が折れそうになる時もある。 しかしそういう時、つぐみの前には必ず直希がいた。 直希も自分と同じ、無力な人間だ。だが直希はそんな中でも、いつも希望を捨てず、自分の理想に向かって走り続けている。 手が届かないところにまで、直希が行ってしまわないように。そう思い、つぐみは歯を食いしばって直希の後を追い続けた。 ――直希がいたからこそ、今の自分もあるんだ。 そう思った時、再びつぐみの脳裏に、あおいを愛おしそうに見つめ、抱きしめている直希の姿が蘇った。「はぁ……」 大きなため息をつき、つぐみが手を止めた。 あおいは本当に強くなった。元々楽天的で明るく、物事を諦めない芯の強い子だと思っていた。 しかし彼女は、絶望的な状況からも逃げることなく、そして節子の信頼を勝ち取った。 今回の件は、あおいの尽力がなければ、とてもじゃないが解決出来たとは思えなかった。 その原動力は何なのか。 そこまで考えて、つぐみは自虐的な笑みを浮かべた。 決まってい
「その為に、あおい荘のような施設が必要なの。一昔前なら、自分の親を施設に預けるなんて、とんだ親不孝者だ、なんて言う人も多かった。でもこれだけ高齢化が進んで、認知症の患者が増えた今となっては、それを受け入れる社会にも限界が来てしまったの。核家族化も晩婚化も進んでいる。個人で背負うには、あまりにも負担が大きすぎるの」「それは分かりますです。ここに来た頃の節子さんを安藤さんが見るなんて、とても出来るとは思えませんです」「節子さんだけじゃないわよ。例えば、寝たきりになった人のお世話だってそう」「身体介護……ですか」「ええ。私たちは仕事で、決められた時間にだけ従事してたらいい。特養(特別養護老人ホーム)に行けばよく分かると思うけど、ああいった施設では、二時間から三時間おきに、オムツの交換があるの。あと、体位変換もね」「……」「家で家族の人が、自分の生活も維持しながら出来ると思う? それも一日二日じゃない、ずっとよ」「確かに……大変ですね」「勿論夜も。二時間おきに目を覚まして、オムツの交換をするの。食事の介助もしなくてはいけない」「……」「その繰り返しが延々と続く生活。家族の疲労とストレスは分かるわよね」「……はい」「だから私たちがいるの。そういう方たちのお世話をさせていただくことで、家族さんの負担を減らすことが出来る。そして家族さんたちは自分の生活を少しずつ立て直して、心と体に余裕を取り戻していける」「それが今の安藤さんなんだよ。あおいちゃん、菜乃花ちゃん」「あ……」「心に余裕が生まれると、笑顔も増える。今の安藤さんを見てると、分かるでしょ」「はい。よく分かりますです」「そして今、あれほど負担に思っていた母親に会いに来ることが、安藤さんの中で楽しみになっている。ある意味安藤さんと節子さんにとっての、新しい親子関
この日のスタッフ会議の議題は、あおい荘で初めてのクリスマスをどう迎えるかだった。 子供の頃は、こういった季節季節での行事を楽しみにしていた物だった。保育園や幼稚園でも、先生たちが行事の意義を教えてくれて、その話に魅了され、各々が心の中で物語に思いを馳せてもいた。 しかし年齢を重ねていく中で、日々の慌ただしい生活の影に隠れていき、気が付くと「もうそんな時期なんだ」と思い出す程度になっていく。 直希は季節の移り変わりや、古くから伝わる風習や伝統を大切にしたいと考えていた。それはどの施設でも同じで、季節ごとに飾り付けや催し物を利用者と共に行うことで、コミュニケーションも深まり、変化の少ない生活の中に刺激を与えることが出来るからだった。 * * *「サンタ役は当然、直希よね」「いやいやつぐみ、当然って何だよ」「あら、サンタは男でしょ。それとも何? 直希は私たちにサンタの衣装を着せて、それをいやらしい目で楽しみたいのかしら」「……あおいちゃんや菜乃花ちゃんもいるんだし、冤罪を吹っ掛けるのはやめてくれ」「ふふっ。それでみなさんへのプレゼントは……このリストね」「あ、はい。私とあおいさんで、みなさんが喜んでくれるんじゃないかと思う物を書き出してみました」「山下さんには映画のDVD、まあ順当よね。それから小山さんには……あら、菜乃花手編みのマフラーなの? いいわね、これ」「は、はい……部屋では編めないので、学校で少しずつ編んでるんです。 おばあちゃん、ここに来て本当に元気になりました。直希さんやつぐみさんには、本当に感謝しかありません。足の方も、毎日リハビリを頑張ってくれてますので、少しずつですけど、歩けるようにもなってきました。だから、その……このマフラーをつけて、外を一緒にお散歩出来たらいいなって思って。あと手袋と毛糸の帽子、これはあおい荘からのプレゼントとしてあげたいと思ってます」
直希が安藤を連れていった後、食堂であおいと二人きりになった節子は、落ち着かない様子であおいを見ていた。 あおいは椅子やテーブルを元に戻した後、お茶を二人分持って、節子の隣に座った。「節子さん、お茶を持ってきましたです。一緒に飲みませんか」 そう言って笑顔を向けるあおいに、節子は力なくうなずき、湯飲みを口にした。「どう……ですか……私、お茶も習ってましたが、ここに来るまで急須でお茶を淹れたことがなくて。ですから最初の頃はみなさん、私がお茶当番の時には、顔を強張らせながら飲んでましたです」 その言葉に、節子が微笑んだ。「私はどうも、茶葉を入れすぎていたみたいで……それでつぐみさんに、それはもう厳しく鍛えられましたです。おかげで今では、みなさんが変な顔をしながら飲むこともなくなったのですが」「……おいしいよ」 節子がそう呟く。「節子さん、何か言いましたですか」「……おいしい、おいしいよ」「本当ですか! やりましたです! 私、節子さんにおいしいお茶を飲んで頂けましたです!」 あおいがそう言って、嬉しそうに節子を抱き締めた。 突然の抱擁に驚いた節子だったが、やがて微笑み、あおいの頭を撫でた。「……節子さん?」「あんたは本当、おかしな子だよ」「そう……でしょうか……」「おかしいさね……でも……いい娘さんだよ」 その言葉に、あおいの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。「……どうしたんさね……ほっぺ、痛いんかね……傷、痛いんかね……」「違っ…&
「落ち着かれましたか?」 花壇の前で、直希が穏やかにそう言った。「私……とんでもないことを……」 安藤はまだ、体の震えが収まらずにいた。 発症してからこれまでの、辛かった日々。やるせない気持ちと、それでも母を信じ、元の優しい母に戻ってくれることを願い、仕事もやめて献身的に付き添ってきた日々。 しかしそれは安藤にとって、言葉では言い尽くせないほどの大きな荷物だった。 母を信じたい、しかし今、自分の目の前にいるこの人は、本当に母なのだろうか。威嚇し、暴れ、異食を繰り返すこの人は、一体誰なのだろうか。そんなことを何度も考え、苦しんだ。 ――この人さえいなくなれば、私はこの苦しみから解放される。 そんな思いが脳裏をよぎり、そしてその度に自分を穢れた人間のように感じた。 安藤のストレスは、一人の人間が背負える許容量を超えていた。 それが今日、元気を取り戻しつつある母に出会い、微かな希望を見い出したような気持ちになった。あおい荘に連れてきてよかった、心からそう思った。 それなのに。 母の元気の代償として、スタッフたちは疲労困憊していた。面会の時、あれだけ元気いっぱいに自分を励ましてくれた直希の顔色は、別人のようだった。そしてあおいの傷。 あの瞬間、安藤の中に張りつめていた糸が、音を立てて切れた。 母への憎しみの感情。もう嫌だ、もう限界だ。こんな人、私の母なんかじゃない。どうして私がこんな人の為に、ここまで苦しまなくてはならないんだ。 こんなに尽くしてくれるスタッフが、どうしてこんな目に合わなくてはいけないのか。 そんな思いが渦巻き、気が付けば母を殴ろうとしていた。 そして。 振り下ろしたその先にいたのは、あおいだった。 * * *「……あおいちゃんのことは、あまり気にしないでください。彼女なりの行動だ
二日後。 節子の娘、安藤美智恵が訪れてきた。 直希にしがみついている節子に苦笑しながら、安藤は直希に頭を下げた。「直希さん、長い間来れなくて本当に申し訳ありませんでした。お陰様で、何とか再就職することが出来ました。少しずつですが仕事にも慣れて来まして、生活の方も落ち着いてきました。それもこれも、あおい荘のみなさんのおかげです」「こんにちは、安藤さん。落ち着かれたようでよかったです」「母は相変わらずみたいですね」「ええ、いつもこんなご様子で。でも、随分元気になられましたよ。ほら節子さん、安藤さんが来てくれましたよ。顔、ちゃんと見てあげてください」「……」 直希の言葉に、節子が顔を上げる。「え、嘘……本当に……」 安藤が思わずそう、声を上げた。 入院、グループホームでの生活を経て、節子の顔色は日に日に悪くなっていった。そして何より、食事拒否の傾向が強く現れ、体重は見る見る内に落ちていった。やせ細り、鋭い目も落ち込み、命の危険すら感じるまでなった。その上精神安定剤の過度の服用で顔が浮腫〈むく〉み、発症前とは別人のような形相になっていた。 しかし今、久しぶりに見る母の顔は、発症前と見比べても遜色のないほど健康的に見えた。「ここではしっかり三食、食べてくれてますからね。それに少しずつですが、睡眠時間も増えています。機嫌のいい時には、ラジオ体操もしてくれるようになったんですよ」「ラジオ体操まで……直希さん、一体どんな魔法を」「ははっ、魔法なんて使ってませんよ。俺たちはいつも通り、ここでの生活を続けているだけで」「じゃあ、薬がいい方向に」「いえ、安定剤は使ってませんよ」「え……薬、飲んでないんですか」「ええ。これは東海林先生とも相談の上、こちらで決めさせていただきました。今は節子さん、血圧の薬以外は飲んでませんよ」
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