Chapter: 36話アパートに着いた真子は、階段の前で足を止めると、ため息をついた。 決意を新たに社長室を出たはずなのに、時間が経つにつれて気分はどんどん沈んでいった。 どうやって身を守りつつ、司の交渉がうまくいくように立ち振る舞おうか。 そのことばかり考えていたせいで、正直、今日の仕事をどうやって終わらせたのかも覚えていない。 (こういうところがまだまだなんだよね…) はあ。 真子がもう一度ため息を吐いた、その時だった。 「そこ、退いてもらいたんすけど」 低く心地よいが、どこか掠れたようなその声に、真子は「あっ」と言うと、慌てて道を譲った。 「すみません」 真子は謝りながら相手に振り返る。 「あっ…」 例のオネエ…いや、高校生だった。 相変わらず、彼の目は長い前髪に隠れていてよく見えない。 しかも今日の彼は黒いマスクをしていて、長い前髪と相まって、顔の大半が隠れていた。 彼は、真子が道を譲ると「っす」と、例の挨拶をして、階段を上がっていく。 そこで、真子が「あのっ!」と声をかけると、彼は階段の途中でゆっくりと振り返った。 「…はい?」 どこか迷惑そうな彼の返事に、真子は少し怯んでしまう。 だが、 ちゃんと謝らないと! そう思った真子は、彼に向かって頭を下げると、 「この間はすみませんでした」 真子の唐突な謝罪に、高校生はしばらくの間黙っていたが、 「何のことっすか?」 さっさと立ち去りたいーー そんな高校生の思いを察した真子は、 「この間、廊下で庇ってもらった後のことなんですけど。あの時、あなたの唇のピアスを見て、咄嗟に目を逸らしてしまったことを謝りたくて。大変失礼な態度だったと反省しています。すみませんでした」 早口にそう謝罪すると、真子は勢いよく頭を下げた。 数秒後、真子は今度は勢いよく頭を上げて、 「あ、っと。すみません、以上です。あの…おやすみなさい?」 いやいや、おやすみなさいって…まだ夕方の6時なんですけど… 高校生に、やっと謝ることができたのはよかった。 ただ、その後の言葉を何も考えていなかった真子は、自分で自分が言った言葉の可笑しさに気付くと、気まずさのあまり目を泳がせる。 「ぷっ」 真子が驚いて顔を上げると、階段の上で高校生が
Last Updated: 2026-09-19
Chapter: 35話逃げ道は与えた。 それなのに、何でお前はーー 震える声で「やります」と答えた真子に、司の胸が締め付けられる。 痛い、苦しい。 真子がここに来る前に、散々心を殺そうとしたのに、また、うまくいかなかった… ダメなんだ。 真子を選んじゃダメなんだ。 司は額に手を当てると、真子から見えないようにその目を隠した。 隠された瞳が、悲痛に揺れる。 その間、呼吸を整えていた真子は、最後にふうっと息を吐き出すと、 「話は以上でしょうか、門脇社長」 覚悟を決めたような真子の声に、司は思わず顔を上げた。 「本当に、それでいいのか?」 つい、思ったことが、そのまま口をついて出た。 司のその言葉に、真子が反応する。 前にも、こんなふうに彼に問われたことがあった。 それは司が真子の妊娠を知ったときだった。 「その子らはお前の子であって、俺の子ではない。育てるのは勝手だが、俺の目の届かないところでやれ」 真子は俯いていた顔を上げて、一言、 「もちろんです」 そう言ってから、 「産むことを許してくださりありがとうございます。決して、門脇社長にも、門脇社長のご家族の皆さまにも、ご迷惑をおかけするようなことはいたしませんので」 「ーーーー」 真子から目を逸らし黙りこくる司に、真子は深々と頭を下げた。 司はその姿を目にし、たまらず、その場から立ち去ろうと踵を返す。 だが、ふいに立ち止まると、 「本当に、それでいいのか?」 真子はゆっくりと頭を上げ、 「もちろんです」 司の背中に向かってもう一度、そう答えた。 真子の答えを耳にして、司はそれ以上何も言うことなく、早足にその場から去っていったーー 以前の記憶を思い出して、真子は苦笑すると、 「他に、何か方法があるんですか?」 もちろんです、とは言わず、そう尋ねてみる。 瞬間、司の顔に苦しさと悲しさが混ざったような表情が浮かんだ。 それを自覚した司は、慌てて顔を下に向けると、 「話はもう済んだっ!さっさと出ていけっ!」 そう言って、顔を下に向けたまま、社長室のドアを指差した。 司に何かを期待したわけじゃない。ただ、前とは違う言葉を言いたかっただけーー 真子は司に向かって「失礼しました」とお辞儀をすると、し
Last Updated: 2026-09-16
Chapter: 34話真子はギラついたおじさんが苦手…嫌いだった。 その元凶となったのが、他でもない葉山幸助(はやま こうすけ)だった。 あからさまな視線は、毎度ねちっこく身体に絡みつくようで、とにもかくにも気色悪い。 千田も似たような部類だが、まだ触ってこないだけマシだった。 だが、葉山は違う。 あの男は、お金と権力に物を言わせてやりたい放題だったのだ。 あの頃のことを思い出した真子は、ゆっくりと目の前の司に目をやった。 あの時、息を荒げて迫ってくる葉山から救い出してくれたのが司だった。 けどーー そんなあなたが今回は、葉山に私を差し出すんですね? 皮肉めいた笑みを浮かべて見つめてくる真子に、司は眉間にしわを寄せた。 「何がそんなに面白いんだ?」 真子は首を振ると、 「何でもありません」 「じゃあなぜ笑っている?」 真子は顔を上げると、真っ直ぐに司を見つめた。 「どんな罰だろうと甘んじて受けると言ったのは私です。だからもちろん、受け入れます。ただ…」 真子はギュッと唇を噛み締めて、溢れそうになる涙を必死にこらえる。 真子のその姿に、司はグッと奥歯を噛み締めた。 彼は真子から目を逸らさずに、 「…やめるか?」 真子は驚いたように司を見つめ、それから、静かに首を横に振った。 司は目を細めると、 「イヤイヤやられたんじゃこっちも迷惑だ。やめたいのなら、はっきりとそう言え!」 いつもなら、司が接待のお供に連れて行くのは彩花だった。 だが、今回はその彩花が渋ったのだった。 「彩花、門脇家の嫁になるなら、接待も大事な仕事の一つなんだ。頼むよ、俺と一緒に行ってくれ」 だが、彩花は目を潤ませて、 「葉山さんだけは嫌!あの人の視線、思い出しただけでもゾッとする」 「彩花…」 眉を下げる司を、彩花は責めるように見つめ、 「好きな女が他の男にイヤらしい目で見られても、司はそれでも平気なのっ?」 「君には指一本触れさせない。約束する」 彩花は、自分で自分の肩を抱くと、 「…私の代わりに、真子ちゃんを行かせてよ」 司は目を見開いた。 「な、に?」 彩花はキッと目を上げると、 「真子ちゃんに行かせればいいじゃない!真子ちゃんは葉山さんのお気に入りなんだもの!葉山
Last Updated: 2026-09-16
Chapter: 33話「だとしても、こんな所で話すつもりはない」 司は身体を起こすと、ツカツカと社長室へと向かって行った。 真子は、ふう、と息を吐いて、彼の後に付いていく。 司は社長室のドアを開けると、 「入れ」 そう真子に命じた。 真子が入ろうとすると、 「それは置いていけ!」 真子は手の中の掃除用具を見つめると、社長室のドアとは反対側の床の上に、それらをきれいに置いた。 「ふっ」 真子は驚いたように目を見開くと、すぐさま勢いよく振り返った。 すると、無表情に自分を見下ろしている司と目が合う。 「何だ?」 司が目を細めた。 真子は司から視線を逸らすと 「何でもありません」 そう言って、立ち上がった。 気のせいかーー 真子が社長室の前まで歩み寄ると、司は、入れ、というようにあごで促す。 真子は「失礼します」と、司の脇をすり抜け社長室へ入っていった。 司はその場で一度視線を落とした。 だが、すぐに視線を戻すと、ドアを閉めながら中へと入る。 真子は部屋の中央に立ったまま、床を見つめていた。 そんな真子を一瞥すると、司はゆっくりと社長机の前まで歩いていった。 彼は椅子にドサリと腰掛けると、はあ、と疲れたようにため息をつく。 真子はただ、静かに司の言葉を待っていた。 だがーー (え?何で何も言わないの?) 真子が視線を上げて司を見ると、彼は机に頬杖をついて、自分の指の爪を眺めていた。 真子の口があんぐりと開く。 しばらく司を眺めてみたが、彼は何がそんなに興味深いのか、爪から目を離さない。 真子はゆっくりと口を閉じた。 前世で麗子が倒れるなんてことは、真子が知る限りではなかった。 だから、ここまで疲れている司を見るのは久しぶりだった。 以前にもこんな姿を見たことがあったなあ、と真子はぼんやりと思い出していた。 確かあの時が、彼に心底嫌われた瞬間だったっけな…生まれ変わってからのイレギュラーな出来事の多さに、正直、どう対処すればいいのか何もわかっていない。 だから、そう。 なるようにしかならないということだ。 真子は、ふう、と小さく息をはくと、 「門脇社長、お話というのは一体何のことでしょうか?」 司はちらりと真子を見上げたが、フイッと視
Last Updated: 2026-09-14
Chapter: 32話司の会社に着いた真子は、裏口にある外注用の駐車場に車を停めると、シートベルトを外した。 ここに来る前、真子は千田に対してはっきりと断ってやったのだが、その時の千田の憤慨した顔を思い出した真子は思わず笑ってしまう。 「まるで茹で上がったタコみたいだったなあ」 真子はクスクスと笑うと、掃除用具を手に、車から降りた。 掃除用具はいつも通り重いはずなのに、心はなんだか軽かった。 司の会社は、地上28階、地下3階の高層ビルで、真子の担当エリアは1階から20階。 21階からは重役たちのフロアとなっているため、真子が立ち入ることはない。 また、各階を隅々までではなく、あくまで共用部分である廊下やトイレ、階段の掃除とあって、慣れてしまえば思ったより苦ではなかった。 真子はいつも通り、20階まで上がろうと階段へ向かう。 すると、 「ちょっとよろしいでしょうか?」 と、裏口の受付担当の男性に呼び止められた。 「はい、何でしょうか?」 「門脇より、社長室へ来てほしいとの伝言を預かっております。何やら、あなたに話があるそうで…」 真子は一瞬固まった後、 「門脇社長、今日はいらっしゃるんですか?」 真子のその質問に、男性は少し訝しむように、 「ええ、はい…門脇は今日は出勤しておりますが?」 真子は慌てて手を振って、 「変なことを聞いてしまい申し訳ありません。えっと、では、すぐ門脇社長の元へ向かわせていただきます。失礼します」 危ない、危ない。 部外者である自分が、司が母親の看病のために最近会社に来ていなかったことを知っているなんて、どう考えてもおかしい。 けど。 「今日は」ってことは、悠介くんの言った通り、麗子さんのことで会社を空けてたってことだよねーー 変に勘付かれる前に、一刻も早くこの場から離れようと、真子は早足に階段へと向かった。 「あ!ちょっと!」 再び男性から呼び止められた真子は、緊張した様子で振り返った。 「階段ではなく、社長室直通のエレベーターを使用するようにとのことでしたよ!」 真子は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔になった。 「私が使っていいんですか?」 男性は苦笑すると、 「門脇より、そのように言付かっております」 真子はしばらく呆然としていたが、
Last Updated: 2026-09-14
Chapter: 31話確かに行くべきではない。 門脇会長からは、とことん嫌われている。 けれどーー 麗子さんには恩がある。 彼女の家庭を壊してしまったという、罪悪感もあるーー だが、小森はどうやら、それすら読んでいたらしい。 続けて小森からメッセージが届く。 『真子ちゃんの気持ちはわかるよ。会長に恩義を感じているんだよね?』 『けど、今は時期が悪いかな。会長、高梨さんのお見舞いに病院来てたみたいなんだけど、そこで倒れたらしいんだ』 『だから処置が早かったんだけどね。その点は良かった。ただ、高梨さんの入院の理由を会長は知っていることになる』 真子はそこでうつむいた。 『それに何より、会長が倒れたことで司くんがまいってる』 真子の胸が、鷲掴みされたように痛んだ。 前にも一度、司のその姿を見たことがあったからだ。 あんなに大きな逞しい背中が、あの日だけは、あまりに脆く、弱々しく見えた。 「お前になんて、出逢わなければよかった…」 絞り出すような声で、司からそう言われたことを思い出す。 ピコン メッセージの受信音に、真子は再びスマホに目をやった。 『司くんにも会長にも、高梨さんが付いてるよ』 真子は、フッと笑った。 部外者の出る幕はなし。了解です。 真子がメッセージを打つ。 『止めてくれてありがとう、悠介くん。危うく場違いなことをするところだった』 すぐさま小森から、 『そんなつもりで言ったんじゃないよ。だから、自分を責めないで』 小森の思いやりに、真子は、ふっと笑った。 『それに、僕にお礼もいらないよ。僕はただ、真子ちゃんの傷ついた姿を自分が見たくないってだけだから』 『そろそろ着くから、またね』 真子が『うん、ありがとう。商談、がんばってね』と送ると、小森からガッツポーズをした白猫のスタンプが送られてきたのだった。 ーーーーーーーーーーーーーーー 次の日。 真子は予定通り仕事に復帰した。 いつも通りに仕事道具を車に詰め込んでいた時、真子の会社の社長である千田(せんだ)が話しかけてきた。 「清川さん、身体はもう大丈夫?」 真子は千田に頭を下げて、 「はい、もう大丈夫です。一週間も休みをいただいてしまって申し訳ありませんでした」 千田は、いやいや、と
Last Updated: 2026-09-12
Chapter: 144話とある日曜日。 海老原市の別荘にある自室で、弥一は一人ベッドに横になっていた。 あの日ー 最後にかすみと別れたあの日から既に2ヶ月が経過したが、あれから何度かすみに連絡してみても返事は一度もなかった。 巴とジョンも、あの日を境に仕事が忙しくなったのか、結局何の説明もないままに二人は海外へと飛び立った。今はどうやらE国に行っているらしいことを後々咲希から聞いた。 弥一は力なく寝返りを打つと仰向けになった。 真っ暗な部屋にも何時間といれば目が慣れてくる。 天井の壁の模様を眺めながら、弥一は力なくため息を吐いた。 ありがたいことに、平日は仕事で忙しく、余計なことを考える暇がない。 だがその代償として、休日になると襲ってくるありとあらゆる思考の波に、ベッドから起き上がることさえ難しい。 家族だったり、三雲や愛蘭や加島、冬馬までもが心配して連絡を寄越してくるが、むしろその気遣いが今の弥一には苦痛でしかなかった。 あの日以降、櫂斗という人物を個人的に調べている。 才覚溢れる敏腕CEOだが、使えないとわかったら部下だろうが取引先だろうが、問答無用で切るような利己的で冷酷非道な人間であることがわかった。 でも、どうやらそれだけではないようでー 店主不在のかすみの店は、オープンすることすらできないままかと思いきや、当初の予定通りに次の日にオープンしたし、なんなら初日から繁盛していた。 弥一が見に行った時には、少なくとも三人の人間が働いているようで、店は大変な賑わいを見せていた。 さらには、かすみの意見を第一に考えているかのように、営業時間もメニューも彼女が言っていた通りのものだった。 まるで、いつか彼女が戻ってきた時に難なく仕事を引き継げるようにしているかのようであった。 では、ここまでのことを、一体誰が事前に手配していたというのか。 あの男がかすみを恐怖で縛りつけているのは間違いない。 だが、それと同時に、あの男がかすみを特別に思っていることも間違いないー 今の弥一にとって一縷の望みは、かすみの店がかすみの理念に沿って経営している以上、いずれ彼女は戻ってくるだろうということだった。 ただ、それがいつになるのかがわからない。 何ヶ月後か、あるいは何年か後か。 ときに、時間の流れは人の思い
Last Updated: 2026-08-27
Chapter: 143話かすみが二人のために用意してくれたのはネギと玉子のシンプルなうどんだった。 だが、共にテーブルを囲むかすみの前には何も置かれていない。 櫂斗はちらりとかすみに目をやったが、結局は何も言わずに席に着いた。 「いただきます。」と手を合わせる羽柴に対し、櫂斗は無言で食べ始める。 そして一言、 「味が薄い。」 羽柴の手から箸が滑り落ちた。 「大丈夫ですか、羽柴さん⁉︎別のお箸を持ってきましょうか?」 立ち上がったかすみに羽柴は慌てて、 「テーブルの上に落ちただけですから大丈夫です。」 羽柴はかすみにはニコニコと笑って、箸が落ちた箇所を布巾で拭いた。 拭きながら、目線は隣りに座る櫂斗を凝視する。 文句を付けておきながら、食べる手を一切休めない櫂斗に、羽柴は目を細めた。 「これ以上俺を見るつもりなら、今すぐこの箸をお前の目に突き立ててやるぞ。」 羽柴はムッとしたような顔つにきなって、 「こちらこそ。思ってもないような失礼なことを言うだけの口なら、いっそのこと一思いに縫って差し上げましょうか?」 互いに睨み合う男二人に、かすみは困った顔で、 「お二人とも。うどん、伸びますよ?」 羽柴は「すみません。」と、席に座り直し、再度手を合わせてからうどんをすすった。 昆布の旨みが存分に引き出された優しい味付けの出汁に、ふんわりとした溶き卵とネギが絡みついたうどんはたまらなく美味しかった。 箸が止まらない羽柴は、そのまま汁まで残すことなく一気に食べ切った。 ふう、と羽柴は息を吐くと、 「久々にかすみ様の料理が食べられました。感無量です。ごちそうさまでした。」 手を合わせる羽柴に、かすみは、 「そんな大層なものは作っておりませんが、お口に合ったのなら幸いでー」 かすみの前に、ずいっと器が差し出された。 かすみが目線を上げると、無表情の櫂斗が空になった器を手に、それをかすみへと差し出している。 「ーおかわり、ですか?」 「それ以外に何がある?」 かすみは器を受け取ると、立ち上がりながら、 「少し味を濃くしますね。」 「余計なことはするな。」 かすみは眉根を少し寄せて、 「薄かったのですよね?」 櫂斗はふんぞり返るようにして腕を組むと、 「こんな夜中に味の濃
Last Updated: 2026-08-26
Chapter: 142話荷物を運び終え一息ついている櫂斗に、羽柴が声を掛ける。 「櫂斗様、悠長にしていられる時間はありません。あっちの件もそうですが、何よりも先ず優先すべきことはかすみ様とのことです。小5男子みたいな態度をとっている場合じゃありませんよ。もっと大人の男性らしく振る舞わないと!」 「小5男子みたいな態度とは何だ?」 羽柴はため息を吐くと、 「好きな子に対して意地悪な態度を取ることです。」 絶句している櫂斗に、羽柴はさらに言葉を続けて、 「意識するあまりそうなってしまうのだとは思いますが…いいですか、櫂斗様?そんな態度じゃ伝わるものも伝わりませんよ?」 羽柴はさらに櫂斗に詰め寄ると、 「何度も言いますが我々には時間があまりありません。間違いないために、後悔しないために、素直になることが一番なんです。いいですか、素直ですよ!」 「気色悪い顔を近づけるなっ。」 櫂斗は不愉快そうに眉間を寄せると、羽柴から距離を取った。 「お前こそ、いい加減俺がかすみを好きだと決めつけてくるのはやめろ。そんな幻想は二度と抱くな。わかったか?」 「フラワースタンドのメッセージにあんなことを書いて?」 櫂斗は羽柴から視線を逸らすと、 「羽柴、お前はジョークってものを知らないのか?それに、だ。よく考えてみろ。あいつはこの俺に相応しいと思うか?いいとこ俺専用の家政婦ってくらいだろ。あんな芋娘、俺の伴侶になど到底値しないー」 どこか遠くを見るような目の櫂斗に、羽柴は再度ため息を吐いた。 (だったら俺専用とか言うなよな) 「いいですよ。認めたくないのなら、認めなくても構いません。ただ、私が主のためにできる限りやるまでです。」 「余計なことはするな。」 「いいえ、します。何せ、我が主は小学5年生ですからね。手が掛かるのは当然です。」 「誰が小学生5年生だ?」 睨みつける櫂斗に、羽柴は真剣な表情で、 「櫂斗様が心配するのも無理はありません。あなたはかすみ様が再び母親の毒牙にかかることを恐れているのでしょう?」 櫂斗はぴくりと眉を動かした後、目を細めた。 「櫂斗様は、かすみ様との思い出作りに来日されたつもりなのかもしれませんが、私はそれだけで終わるつもりはありません。お二人の未来のためにも、今度こそ茉莉(まつり)をブタ箱
Last Updated: 2026-08-25
Chapter: 141話そんな祖母のお葬式の場ですぐさま始まったのが、親戚たちによる遺産相続争いだった。 祖父母は家をはじめとするすべてをかすみへと遺すと言ってくれていたが、肝心の遺言書が見つからなかった。 そんな中、ギャンブル好きで知られる祖父の弟夫婦が、生前兄は遺産は全て自分とその家族にやると言われていたと言い始め、彼らが連れてきた弁護士がその証言を裏付ける書類を提示して皆に見せた。 かすみはせめてこの家だけでも自分に譲って欲しいと頼み込んだが、一切聞く耳を持ってもらえなかった。 そして祖母のお葬式後、かすみはあっという間に家を追い出され、この家もギャンブルで作った借金返済のためにすぐさま競売にかけられてしまったのだったーー そして、時を経たずしてどこぞのお金持ちがこの家を買い取ったと聞いたが、まさかそれが櫂斗だったとはー 「そんなことをしてお金をみせつけたら、その後も何かにつけてタカりにきたんじゃありませんか?」 どこか蔑んだような言い方をするかすみに、櫂斗は手の中の置物をそっと元の位置に戻すと、 「黙らせた、と言ったろう?ゴミクズみたいな人間の扱いなら慣れている。2億払って、それで奴らとはおしまいだ。」 かすみは櫂斗を真っ直ぐに見上げると、 「ありがとうございます、櫂斗さん。本当に・・・ありがとうございます。」 祖父母の靴を抱きしめ、かすみは櫂斗に深々と頭を下げた。 櫂斗はかすみを見下ろして、 「礼なら羽柴に言え。俺だったらこんな気味悪い家、例えタダでも買わなかっただろうからな。」 そこへ、荷物を手に抱えた羽柴が現れ、大きなため息を吐いた。 振り返る櫂斗に、羽柴は視線で訴える。 櫂斗は眉間にしわを寄せ、チッと舌打ちをすると、 「俺に報いたいのなら、キッチリとこの分の対価を払うことだな。何、時間はたっぷりある。これからゆっくりと返していってもらうさ。」 どこがたっぷりだ、限られた時間しかないというのにーー 羽柴は切羽詰まったような顔をした。 薄ら笑いを浮かべる櫂斗に、かすみの顔からスッと温度が消えると、 「もちろんです。」 櫂斗は鼻で笑って、 「家中の明かりをつけろ。それが終わったら冷蔵庫にあるもので何か夜食でも作っておけ。」 そう命令すると、荷物を運びにさっさと戻って行ってしまう。
Last Updated: 2026-08-23
Chapter: 140話「え?」 車から降りたかすみは、目の前の日本家屋に目を丸くした。 あれから何度かサービスエリアに寄ったのだが、その名前に、時折目にする看板の文字に、おそらく東北に向かっているのだろうということは見当がついていた。 しかしー 立派な日本家屋を前に立ち尽くしているかすみの姿を、櫂斗はしばらくの間黙ってみつめていたのだったが、ふいに、 「おい。」 と、声をかける。 かすみは肩をビクリとさせると、ためらいがちに振り返った。 「なぜ、ここに?」 かすみの質問に、櫂斗は顎を少し上げてかすみを見下ろすと、 「しばらくはここに身を置く。さっさと荷物を移動させろ。」 そこへ、すかさず羽柴が、 「かすみ様、荷物は私が責任を持ってお運びいたします。なので、先に行って家の明かりをつけてきてもらえませんか?鍵は開けておきましたので。」 かすみの戸惑った目に、羽柴は優しく笑って、頷いてみせた。 かすみは再度日本家屋に振り返ると、ゆっくりとそこへ向かって歩き出すり 門を跨ぎ、吸い込まれるようにして歩き出したかすみに、櫂斗は荷物を下ろす手を止めると、「後はやっておけ。」と羽柴に言い残してかすみの後を追う。 かすみは家屋の引き戸に手をかけたものの、開けられないでいた。 その間に櫂斗はかすみに追いついたが、1メートルほど後ろでその足を止める。 背後の櫂斗に気づかないかすみは、そこで目を閉じると大きく深呼吸をした。 そして意を決したように目を開けると、一気に引き戸を引く。 かすみがここを訪れるのは実に8年ぶりだった。 暗くて良くは見えなかったものの、不思議なことに古びた空気の匂いはしなかった。 そして、例え暗くてもかすみの身体がこの家の間取りを未だにちゃんと覚えていた。 彼女は玄関で靴を脱ぐと、数メートル先の壁まで歩いていき、そこにある三つのスイッチの中の真ん中を押した。 すると、パッと辺りが明るくなる。 明かりに照らされ露わとなった玄関に、かすみは息を呑んだ。 ピカピカに磨き上げられた床に敷かれた玄関先の敷物は、真新しいものの、かすみが祖父母と暮らしていた時と全く同じ柄のものだった。 玄関先の靴箱の上には、祖母が集めていた可愛らしいカエルの置物たち(カエルと帰るを掛けて、大事な人たちが無事に帰
Last Updated: 2026-08-23
Chapter: 139話空港を出たかすみたちは、再度羽柴の運転する車で移動していた。ただ、今度の車はアルファードだったために、軽自動車の時のような圧迫感は皆無だった。櫂斗は上質な皮のシートで難なく脚を組んでは、流れる外の景色を眺めていた。時折、窓ガラスに反射したかすみを盗み見ては、彼女の様子を見張る。羽柴も時折、バックミラーで二人の様子を気に掛けては、「喉は渇いていませんか?お腹はどうです?」「お手洗いは大丈夫ですか?次のサービスエリアでトイレ休憩にしましょうか?」と、声を掛けた。だが、かすみは、こんな姿で外なんて歩けない、という思いから、トイレに行く必要がないよう羽柴が差し出した水を受け取らなかった。櫂斗も櫂斗で、「俺はいい。」と断る。そんなわけで、車は一度も休憩を挟むことなく、ひたすら高速道路を走るのだった。とはいえ、空港を出てそろそろ5時間。かすみの我慢も限界に達していた。ただでさえ緊張するような場面に5時間。かすみの口の中はもはや唾液すらまともに出ていなかった。だが、それよりも深刻なことがあった。1時間ほど前からトイレに行きたくてたまらないのである。かすみはちらりと横にいる櫂斗を盗み見た。自分と同じ状況のはずのに、隣の彼はいつも通り、余裕綽々とした様子であった。トイレに行きたい。けど、こんな格好で出歩きたくない。そんな思いの狭間に揺れるかすみは、困ったように眉根を寄せている。するとー「羽柴、次のサービスエリアでおろせ。タバコが吸いたい。」主の注文に、羽柴はすぐさま、「承知いたしました。」と答えた。幸いなことに、次のサービスエリアはここから2キロほど先の距離であったため、数分走っただけで着くことができた。羽柴が車を停めると、櫂斗は流れるような動作で車から降りた。と、すぐさまかすみ側のドアが開けられ、そこから姿を現した櫂斗が一言、「降りろ。」と、かすみに命令する。かすみが戸惑ったように目を泳がせたので、櫂斗はその目を細めると、「俺にペットボトルか、何かちょうどいい容器でも持って来させる気か?」最初は櫂斗の言葉の意味がわからなかったかすみだったが、すぐさま意味が理解できたのか、次にその顔を赤くした。そんなかすみに櫂斗は、「さっさと降りてトイレに行ってこい。」かすみは唇を引き結ぶと、そろりそろりと車から降り、少し前屈みになってト
Last Updated: 2026-08-22