Chapter: 第三十七話 千巡 ひと月の喪に伏せた後、永憐は宋武帝の遺言通り世間に皇弟であることを公表し、|永豪帝《ヨンゴウテイ》として宋長安の後継者となった。 |賢耀《シェンヤオ》は少しずつ心を取り戻し、永憐と一緒に政への参加に勤しんだ。 橙仙南の後宮が滅んだ後も橙南の町はそのまま残し、宋長安の配下の元、風宇は深豊の側近として仕えることになった。 宋長安と橙仙南と青鸞州の三国を統合し、長安州という国に生まれ変わらせると、永憐は名医三家に俸禄をし、医術の繁栄にも力を注いだ。 その影響なのか、|秀沁《シウチン》は潔く蘭瑛から身を引き、永憐に対して無礼を働くことはなくなった。 更に永憐はその他にも貧富の差を埋める為、出自に関わらず様々な人材を確保し、様々な自国の農産物を各国に流出するなど、全ての民の仕事と生活を安定させた。 蘭瑛はというと本格的な悪阻が始まり、梅林の監視の元藍殿で休んでいた。「蘭瑛、具合はどう? 檸檬持ってきたけど食べる?」「食べますぅ、……うぅ」「あらあら……」 梅林は吐き戻している蘭瑛の背中を摩り、孫が見れるなら何でもすると、嫌な顔一つせず献身的に支えた。「こればっかりはね、仕方ないのよね〜蘭瑛」「すみません……。双子だからかな、悪阻も二倍なのは……」 蘭瑛は双子を懐妊した。 出産は初夏頃を予定しているが、蘭瑛のお腹はもうぽっこり出ている。悪阻は辛いが、お腹を触る度二つの命が宿っていると思うと、この上ない愛おしさを感じる。具合の良い時は梅林と散歩をしたり、具合の悪い時は水飴をひたすら舐め続けるなどして、この神秘的な瞬間を噛み締めるように日々を過ごした。 悪阻が落ち着き始めた春。 蘭瑛は永憐を連れて六華鳳宗を訪ねていた。 鳳凰が植えたとされる、百本の桜並木が今年も見頃を迎えており、どうしても永憐に見せたかったからだ。「綺麗でしょ、永憐様」「あぁ。凄い綺麗だ」 蘭瑛は足を止め、桜の木を見上げる。 昨年は一人でここに立っていたのに、今年は最愛の人とここに立っている。来年は二人増えて四人でここを訪れるだろう。 人生は本当に何が起こるか分からない。 だからこそ、良いことも悪いことも巡り巡って、各々の人生を彩っていくのかもしれない。 蘭瑛は隣にいる永憐の顔を見上げる。 例え過ちがあったとしてもそれを上回る愛と赦しがあれば、罪は少しずつ消えて
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Chapter: 第三十六話 朱源陽決戦 〜流涕〜 蘭瑛は蒼穹を垂らした永冠を光らせ、玄天遊鬼の元へ歩いて行く。玄天遊鬼は、蘭瑛の姿を捉えると何故か一歩後ずさった。 「お、お前は一体誰だ?」 「あなたが一番心から信頼していた六華鳳凰の末裔、|華蘭瑛《ホアランイン》だ」 どうやら蘭瑛の姿が六華鳳凰の姿に似ていると思ったのだろう。玄天遊鬼は慌てた様子で足元に落ちていた剣を足で蹴り上げ、剣を構えた。蘭瑛は構わず続ける。 「玄天遊鬼……。いや、本名は|天佑《テンヨウ》。娘の名前は|花舞《ファウー》。いつまで恨み続ける気ですか? 仕方ない出来事だったはずなのに」「黙れ!! 鳳凰は、私の娘を見捨てたんだ!! 別の子どもたちは皆、赤疫から助かったのに鳳凰は花舞だけ何もしなかった」「違う! あなたの力を信じていたからよ。あなたなら助けられると思ったから」 当時、玄天遊鬼は優秀な医家として六華鳳宗に所属し、六華鳳凰の弟子として働きながら、幼い娘を男手一つで育てていた。 そんなある日、当時は赤疫と呼ばれた今の赤潰疫のような流行病が蔓延し、幼い子どもたちの尊い命が奪われていく事件が勃発した。 鳳凰たちは、手当てをしに各地を巡回していたが、その最中に玄天遊鬼の一人娘・花舞もこの病に感染してしまう。 重症だった花舞を玄天遊鬼が必死に看病するも、一向に回復の兆しが見えず、玄天遊鬼は藁にもすがる思いで鳳凰に六華術の触診を願い出た。しかし、鳳凰は弟子の子どもを優先する訳にはいかず、玄天遊鬼の実力を熟知していたこともあり、あと三日待って欲しいと伝えた。だが、花舞の容体は見る見るうちに急変し、鳳凰が尋ねた時には息を引き取っていた。その事が引き金となり、玄天遊鬼は六華鳳宗を離反し、私怨を抱いたまま赤潰疫をばら撒く鬼と化した。「鳳凰先生の手記には、あなたに対する罪悪感と、自責の念が書かれていた。あなたに絶大な信頼を置いていたことも」「黙れ! 黙れ! 黙れ! 何が信頼だ! 何事も尽力してきた弟子の願いすら、あの男は聞き入れなかった。あの男が娘を殺したんだ!!」 玄天遊鬼は苛立つ気持ちを抑えられないまま、蘭瑛に向かって術滅印を放った。 しかし、蘭瑛は正還法を放出している為、何の被害も被らない。「くそっ! この六華鳳宗め!」 玄天遊鬼は「くたばれ!」と罵り、剣先を向けて蘭瑛に飛びかかった。 すると蘭瑛は掌から眩惑法
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Chapter: 第三十五話 朱源陽決戦 〜眩夢〜「やはり、お前だったか」 「口の利き方には気をつけろ、若僧が」 化けの皮が剥けた|玄天遊鬼《ゲンテンユウキ》は、更に邪悪な雰囲気を纏い始める。空は淀み、周辺が急に薄暗くなった。 永憐が睨みを効かし、口火を切る。「ずっと、端栄に化けて行動していたのか?」 「そうだ。|端栄《タンロン》という男が、その剣を持っていた男の封印を解き、私の所へ来た。統治を乱す者を全員消して欲しいと。だから四国の古い長たちを全員殺した。お前の存在を探る為、姿を変えて宋長安にも何度か行ったんだが、誰かを殺したくて躍起になっている妃達の姿が滑稽だったよ」 「|天京《テンキョウ》と名乗っていたのもお前か?」「天京? あぁ〜。そんなような名前を名乗ってたな。もう忘れちまったが。さぁ、戯言はここまでだ。準備はいいか?」 玄天遊鬼は汚い歯を見せながら、剣先を永憐に向けて永憐に飛び掛かった。永憐も十分に溜め込んだ剣気を放出するかの如く、果敢に攻める。二つの剣先が交わると、端栄の時とは違う光芒が轟音と共に鳴り響いた。 目が眩む程の激しい交戦が続き、誰もが息を呑んでいると、光芒が突如止む。「さすが剣豪の息子だ。しっかり血は通っているのだな」「当たり前だ」 永憐と距離を取った玄天遊鬼は、永憐の周りを囲うように黒い靄を放った。 「しばし、夢を見るがいい」 永憐は靄の隙間から見えた霞んだ玄天遊鬼の目を睨みつけながら、靄に呑み込まれていった。 ここは誰かの夢か? 永憐の目の前が暗闇から明けていくと、祝言を終えたあとに住む予定だった家の前で、一人の女が立っているのが目に入った。「|永郎《ヨンロウ》? 、お帰りなさい」「|美雨《メイユイ》……」 記憶に残っている美雨の姿がそのまま反映されているようだ。 美雨が永憐の手を取り、家の奥へ連れて行こうとする。「永郎、早く中に入ろうよ。ずっと待ってたんだから」「……」「ねぇ、どうしたの? 何でこっちに来てくれないの? 家の中に入ったら、ずっと一緒にいられるよ」「……中へは入れない」 永憐の言葉を聞いた美雨は永憐の手を離し、無の表情を見せた。「私をまた一人にさせるの? この家で私はずっとあなたの帰りを待ってるのに、あなたはどうして帰ってこないの? どうして、ねぇ、どうしてなの?!」「……美雨。お前はもう死んでいる。そ
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Chapter: 第三十四話 朱源陽決戦 〜成就〜 永冠は剣光を放ち、|端栄《タンロン》の剣とぶつかる! キンキンと剣先が擦れ、激しい光芒が交わると他の者たちも一斉に食ってかかった。 |永憐《ヨンリェン》は端栄の動きを瞬時に把握し、袍を靡かせ絶妙な足運びで攻撃を躱す。 さすが、帝の側近同士である。 互いに一歩も譲歩しないといった様子だ。「|王《ワン》国師は更に腕を上げられましたね。昔の手合わせとは全然違う」「私もそう感じる。まるで別人だ」 永憐は剣先を打つように離し、端栄から一旦距離を置く。 すると端栄の隙を狙ったのか、突然横から|龍凰《ロンファン》が端栄の足元に氷術を打った。 端栄の足元が瞬く間に凍り、端栄は身動きが取れなくなったのだが、持っていた剣に灼熱の火を放出すると足元の氷に突き刺した。「こんなもので私を捕まえられると思うな」 端栄はそう言いながら、突然姿を消した。 永憐は永冠を構えながら探知術で気配を探知するが、妙な術を放出しているのか上手く把握できない。 すると、永憐の側近である|宇辰《ウーチェン》が僅かな動きを把握して叫んだ!「龍凰皇弟! 危ない!」 姿を現した端栄の剣を庇うかのように、宇辰は龍凰の正面に飛び込む。 行動は吉とはならず、端栄の剣は宇辰の腹を通過し、宇辰は口から大量の血を吐いた。「宇辰!!」 永憐は憤慨しながら端栄に襲い掛かり、端栄の頭を永冠の柄で叩き打った。脳震盪を起こした端栄はその場に崩れ落ち、目を白目にして口から泡を吹き出した。永憐はすぐに宇辰の元に駆け寄り、腹の傷を抑える。倒れ込んだ龍凰もすぐに起き上がり、眉を下げながら駆け寄った。「大丈夫か宇辰!! おい!! しっかりするんだ!!」「宇辰殿、申し訳ない……」「お二人とも……。私のことは……、どうぞ……、お構いなく……」 息を切らしながら宇辰はいつものように微笑んだ。「ほっとけないだろう! 術で出血を止められるか?」 永憐は意識が朦朧とし始めている宇辰を揺さぶりながら、必死に呼び掛けた。 すると、二度と聞くことのないはずの女の声が背後から聞こえてくる。まるで救世主が現れたかのように。「ここは私たちが何とかするので、永憐様は早く敵のところへ」 永憐が声のする方へ振り向くと、蘭瑛と遠志が毅然と立っていた。遠志が目尻に皺を寄せて小さく頷き、永憐の安堵を誘う。「どうしてここに
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Chapter: 第四章 終焉 第三十三話 朱源陽決戦 〜炎水〜 空には分厚い雪雲が連なり、細雪が降り注ぐ。 |宋武帝《そんぶてい》を筆頭に|永憐《ヨンリェン》たちは物々しい朱源陽に到着した。 到着するのを見計らっていたかのように、門の前では早々に|橙剛俊《トウガンジュン》率いる元橙仙南の者たちが、意識を一瞬で失くさせる|風煙死《ふうえんし》を仕掛けてくる。「おい! この野郎! つい最近まで一緒にやってたっつーのに誰に向けて飛ばしてやがる! 殺すぞ!」 開口一番に怒号を飛ばしたのは|深豊《シェンフォン》だった。深豊に勝てない元橙仙南の者たちは一斉に逃げようとするが、深豊は一人残らず斬っていった。「俺と一緒に来てりゃ、こんな事にならなかったのにな」 深豊はそう言いながら剣を一振りし、垂れ落ちてくる血を払った。隣にいた永憐は探知術を使い、この広大な朱源陽の敷地内にいるであろう|朱陽帝《しゅうようてい》の位置を特定する。「宋武帝! あちらです」 永憐がそう言うと宋武帝が先頭に立ち、一行はまた煙を巻いて馬を走らせた。 すると、前方の上空から先の尖った何かが猛烈な光を放って大量に飛んでくる。 それが何なのか、真っ先に気づいた深豊が後ろから叫んだ!「橙仙南の攻撃の一種、砂鉄風だ! 先が尖っている! 当たれば出血、目に入れば失明だ! 皆、気をつけろ! ったく、禁じ手である砂鉄風を使いやがって! このクソ野郎ども!」 深豊の怒号を聞いた一行は、馬の手綱を引き一旦止まる。 永憐が守護術を上空全体を覆うとしたが間に合わず、宋武帝が代わりに雷術の電光石火を放ち、砂鉄風を全て吸い上げ轟音と共に跡形もなく砕いた。「さすが、宋武帝!」「ありがとうございます」「礼には及ばぬ」 永憐以外、宋武帝の真の威力を見たのは初めてだった。 さすが、雷術の本尊と呼ばれた長である。 後ろでその様子を体感した|賢耀《シェンヤオ》は、自分の父の威力と偉大さに感銘を受けた。「何をぼーっとしている! 先へ急ぐぞ!」 一行はまた更に先へ進み、ありとあらゆる攻撃を躱しながら、ようやく朱陽帝の本殿の前に到着した。 そこには獰猛な雰囲気を纏った強靭な男たちがずらりと立っており、視線を上に向けた上座には|朱陽帝《しゅうびてい》こと|温朱《オンシュウ》と、橙仙南の裏切り者|橙剛俊《トウガンジュン》が悠然と立っていた。 隣には護衛の|端栄《タンロン
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Chapter: 第三十二話 雪影それは剣門山の山に差し掛かったところで起きた。 前方から二人の高身長な男女が歩いてくるのが見え、蘭瑛は目を見開き思わず立ち止まった。 目に飛び込んできたのは、今蘭瑛が一番見たくない|永憐《ヨンリェン》と|儷杏《リーシー》の姿だった。見てはいけないものを見てしまったかのように、沸き立つ恐怖のような動悸が蘭瑛を襲う。 永憐も前から来る蘭瑛の姿を捉えたのか、その場で立ち止まり、茫然とする。見つめ合う二人の間には氷瀑が幾重にも連なり、決してそちらにはいけまいと言わんばかりの雨氷が吹き荒れているようだ。 茫然と突っ立っている永憐に気づいた秀沁は、憐れむような目を向けて拱手した。 「これは、これは、|王《ワン》国師殿。こんな所でまたお目にかかれるとは。仙女をお連れになるなんて、珍しいですね」 永憐は目を逸らすだけで何も言わない。 代わりに儷杏が答える。 「あら、どなたかと思ったら蘭瑛先生じゃないですか。宋長安では、|私の《・・》永憐がお世話になりました。お二人はどういうご関係なのですか? 随分と仲睦まじく見えますけど。もしかして祝言を控えてらっしゃるとか?」 「ははっ。そのようなご報告ができるといいのですが」 蘭瑛は自慢げに話す秀沁を一瞥した。 永憐は氷のような冷えた目で秀沁を見たあと、「お幸せに。では」と言って消え去るように歩いていった。 (「お幸せに。では」) 否定すれば、こんな一方的に突き放されるような言葉を言われずに済んだだろうか。やっと生傷が塞ぎかけてきたというのに、またその生傷に尖った刃を入れられたみたいだ。 蘭瑛は俯き、目を瞑って「待って〜」と言う儷杏が永憐を追いかける声を受け止めた。 「蘭瑛、ほらな。あいつは……」 「何で勝手なことを言うのよ!! 私がいつ、秀沁兄さんと結婚するって言った?! 勝手にべらべらと私の気も知らずに!! いい加減にしてよ!!」 蘭瑛は涙目になって秀沁に捲し立てた。 「……ごめん。でも、そうでもしないと俺だって……」 「俺だって何よ?!」 「……もたないよ」 蘭瑛の頬に一粒の大きな涙が伝う。 嗚咽が込み上げ、濡れた頬を手で拭いながら「帰る」と言った。秀沁は慌てて蘭瑛の腕を掴んで止める。 「一人でどうやって帰るんだよ?」 「離して! 私はどうにで
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Chapter: 第二十七話 月華床に落ちた萎れた水仙の花に気づかず、|墨余穏《モーユーウェン》はそれを踏み付けて、|師玉寧《シーギョクニン》のいる荒れた寝台へ向かった。 「|賢寧《シェンニン》兄、俺だよ」 |墨余穏《モーユーウェン》は愛猫を愛でるかのような表情を見せて、優しく問いかけた。 以前のように何気なく|師玉寧《シーギョクニン》の肩に触れようと手を伸ばすが、煩わしいハエでも払いのけるかのように、力強く|師玉寧《シーギョクニン》に阻止される。 「誰だ! 貴様は! 知らない者が私に勝手に触れようとするな! 穢らわしい!」 |知らない者《・・・・・》と言われた|墨余穏《モーユーウェン》は「ごめん……」と言って、僅かに震える手を引っ込めた。 |墨余穏《モーユーウェン》は小さく息を吐き、気を取り直してもう一度、|師玉寧《シーギョクニン》に話しかける。 「知らないだなんて酷いなぁ〜。|賢寧《シェンニン》兄とずっと一緒にいた|墨逸《モーイー》だよ。本当に俺のこと忘れちゃったの?」 「知らないと言ったら知らない。用がなければ早く出て行ってくれ!」 どうやら、本当に|師玉寧《シーギョクニン》は記憶を失くしてしまっているようだ。|一恩《イーエン》曰く、特定の人物だけの記憶を失くしている訳ではなく、自分が何者かであることも忘れてしまっているらしい。 |墨余穏《モーユーウェン》は窓を開け、日差しの光で輝きを放っている埃たちを外へ追いやった。 「分かった、分かった! 俺は出て行くから、その代わりこの部屋を綺麗にさせてよ。ほら、見てよ! 凄い埃。こんな所にずっと居たらその傷も治んないよ。手当てもし直したいし、あなたは少しそこのカウチに横になって休んでもらってていいから、ね? |一恩《イーエン》」 「は、はい! 私たちが全てお綺麗にしますので、お気になさらずどうぞこちらでお休みに……」 |一恩《イーエン》は鼻を啜りながら、カウチを案内するように両手を向ける。 すると、|師玉寧《シーギョクニン》は黙ったまま、腹の痛みを抑えながら寝台から足を出した。 「手を貸そうか?」と|墨余穏《モーユーウェン》は尋ねるも、|師玉寧《シーギョクニン》は「触れるな」の一点張りだった。|墨余穏《モーユーウェン》は|一恩《イーエン》に掃除道具や処置に必要なもの、身体を拭く湯などいくつか持
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Chapter: 第二十六話 水仙の花 |崑崙山《こんろんざん》を覆った不吉な暗雲は冷たい大雨を降らせ、雷鳴を轟かせながら|墨余穏《モーユーウェン》と|黄轅《コウエン》を襲った。 「はっくしゅん!」 これで何度目のくしゃみだろうか。垂れてくる鼻水を啜りながら|墨余穏《モーユーウェン》は今も修行を続けていた。 |黄轅《コウエン》に邪念を捨てろと言われていたが、|墨余穏《モーユーウェン》は靄のかかった違和感をどうしても拭い切れず、|黄轅《コウエン》に打ち明けた。 「先生、|師玉寧《シーギョクニン》に何かあったかもしれない……」 「|寒仙雪門《かんせんせつもん》の宗主にか?」 |墨余穏《モーユーウェン》は頷きながら、崑崙山へ入山する前に、|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》から呑服符を貰ったこと、その呪符が反応しているかもしれないと告げる。 「ほう。道玄天尊の同化呑術か」 「同化呑術?」 |墨余穏《モーユーウェン》は初めて聞いたといった様子で、首を傾げた。|黄轅《コウエン》は中へ入ろうと墨余穏を自宅に招く。水分を十分に吸い取ってくれそうな分厚い布切れを墨余穏にも渡し、顔を拭きながら続けた。 「そうだ。離れそうになる者たちを一時的に繋ぎ止めておく事ができる特殊な呪符だ。でも、珍しいな。普通は夫婦とかそういった類の人らに使うはずなんだが。お前たち、そんな懇ろな関係なのか?」 |墨余穏《モーユーウェン》はそっと俯き、「なれるならそうなりたいよ、俺は……」と呟きながら分厚い布切れを頭から被った。 「そうか」と、|黄轅《コウエン》はそれ以上突き止めることはせず、突然|雲師《うんし》らしさを発揮した。 黄轅は雨を降らせている暗雲に向かって|刀印《とういん》を結ぶと、目を瞑って何かを唱え始める。 天台山周辺に張り巡らせている神呪から、何か情報を得ているようだ。|墨余穏《モーユーウェン》は|黄轅《コウエン》の様子を静かに見守っていると、|黄轅《コウエン》の口から衝撃的な言葉が漏れた。 「寒仙雪門に旗が立っている。何か危機的な状況かもしれん」 各門派には、旗が用意されているのだが滅多に立ち上がることはない。立ち上がる時は、宗主が身罷られたか閉関など門派全員が喪に伏せる時ぐらいだ。 |黄轅《コウエン》の言葉を聞いた|墨余穏《モーユーウェン》は、猛烈な恐怖と焦りが鳥肌がとともに浮
Terakhir Diperbarui: 2026-01-26
Chapter: 第二十五話 師玉寧 |師玉寧《シーギョクニン》はあれから、一人大きな溜め息を吐きながら、一葉茶を淹れていた。 ぼんやりとしているせいか、普段よりも濃く淹れてしまい、珍しく咳き込む。 |寒仙雪門《かんせんせつもん》では、連日雪が降り注いでいた。 解けては消えていく雪の結晶が、まるで|師玉寧《シーギョクニン》が抱く|墨余穏《モーユーウェン》への恋慕のように、ひらひらと舞い落ちていく。 せっかく愛する者が甦ったというのに、心を壊してでも逢うことを切望していたというのに、どうして姿が実在するとこんなにも遠くに感じてしまうのだろうか。 今世は絶対に側に置いておくと決めていたのに、指先にも触れられず、流れていく水の如く想いも上手く掬えない。 |師玉寧《シーギョクニン》は、|墨余穏《モーユーウェン》がよく横になっていたカウチで横たわり、ひと眠りする。 朧げな夢はいつも、|墨余穏《モーユーウェン》が死んだあの日を映す。 自分の胸にはいつも、冷たくなった|墨余穏《モーユーウェン》がいる。ただ眠っているだけに見える顔にどれだけ声を掛けても、どれだけ叫び続けても、透き通った頬に涙が滑り落ちていくだけで、|墨余穏《モーユーウェン》は一切反応してくれない。「行かないでくれ……。私を独りにしないでくれ……」 生きている時には言えなかった言葉を、声を震わせながら|師玉寧《シーギョクニン》はただひたすら伝え続けた。 父上に促され、|墨余穏《モーユーウェン》の死体から離れると、|師玉寧《シーギョクニン》はその場で意気消沈し、人目を気にせず座り込んだ。 白い布に包まれて運ばれていく|墨余穏《モーユーウェン》の死体を見つめながら、誰も手を差し伸べられないほど慟哭した。 目が覚めると、瞼の縁から一粒の涙がカウチに落ちる。 布地にじんわりと染みていく水滴を|師玉寧《シーギョクニン》はぼんやりと眺め、指先でそれをなぞった。 |墨余穏《あいつ》の居場所は分かっている。迎えに行くべきだろうか。「言い過ぎた」と素直に謝れば、またここに戻ってきてくれるだろうか。 |師玉寧《シーギョクニン》は起き上がりながら、らしくない突発的な衝動に駆られた。 立ち上がったと同時に、招いていない何者かが寒仙雪門の門を潜った気がした。|師玉寧《シーギョクニン》は文机の引き出しに仕舞ってあった呪符を取り出し、そっと
Terakhir Diperbarui: 2026-01-19
Chapter: 第二十四話 崑崙山 それから|墨余穏《モーユーウェン》は、全てを失ったかのような複雑な感情を抱いたまま、|崑崙山《こんろんざん》へ向かった。『一人になりたい』という言葉は、|師玉寧《シーギョクニン》にとっては、拒絶とも取れる言葉なのだろう。 どうして相談もせず口走ってしまったのだろうかと、|墨余穏《モーユーウェン》は自分の放ってしまった言葉に、酷く後悔した。 ただ、やはり|師玉寧《シーギョクニン》は|香翠天尊《シィアンツイてんずん》に想いを寄せているのだと、|墨余穏《モーユーウェン》は確信する。あの目の憂い、落胆するような仕草は、香翠天尊に何かしらの情があるからに違いない。 最愛の人が疑われるのは、|師玉寧《シーギョクニン》にとって心底心外だっただろう。 だが、|墨余穏《モーユーウェン》はどうしてもそれを拭い去ることができなかった。 金龍台門へ行く前、天台山で|香翠天尊《シィアンツイてんずん》に襟元を整えてもらった時、何か特殊な力を感じた。 僅かだが、|天晋《ティェンシン》からも香翠天尊と同じ温度みたいなものを感じたのだった。 |師玉寧《シーギョクニン》にこの僅かな変化を伝えられたら良かったのかもしれないが、もう後の祭りだ。 |墨余穏《モーユーウェン》はひとしきり後悔した後、峻険な崑崙山の中腹まで|乗蹻術《じゃきょうじゅつ》を使って飛び立った。 前世の記憶を辿り、林の中をひたすら歩いていく。 すると、確かに記憶に残っていた家屋が木々の隙間から薄らと見え始めた。 (あそこだ! ) |墨余穏《モーユーウェン》は木々を掻き分けて颯爽と向かう。 家屋の敷地に到着すると、何か擦れる音が庭先から聞こえてきた。その音の方に向かって歩いていくと、中年の男が石に座って剣を磨いているではないか。 |墨余穏《モーユーウェン》は口元を緩ませ、名前を呼ぶ。「|黄轅《コウエン》先生!」 すると、中年の男は驚いた様子で|墨余穏《モーユーウェン》の方に振り向いた。 目を細め、まじまじと|墨余穏《モーユーウェン》を眺めると、研いでいた剣を放っぽり出してこちらに向かって来る。 「|豪剛《ハオガン》の|墨逸《モーイー》か?! おっと、たまげた! 本当に墨逸じゃないか〜!!」 |黄轅《コウエン》は目尻を垂れ下げた満面の笑みを浮かべて、|墨余穏《モーユーウェン》を抱き寄せた。
Terakhir Diperbarui: 2026-01-05
Chapter: 第二十三話 岐路 おぼつかない足取りで|墨余穏《モーユーウェン》は、|葉風安《イェフォンアン》の元へ向かう。 葉風安の冷たくなった血塗れの頭部を拾うと、墨余穏はその場で崩れ落ち、葉風安を抱きしめながら深い愁いに沈む。その姿を見ていた|師玉寧《シーギョクニン》も目潤わせ、天を仰いで長嘆した。 憂愁に閉ざされた緑琉門は深い悲しみに包まれる。 一つの門派がこのような形で閉門するなど、誰が想像していただろうか……。未だこの現実を受け止めきれない門弟たちは、いよいよ、本格的に天台山は統治を保てなくなってきたかもしれないと、落胆の声を上げた。 その中、毅然と振る舞う数名の門弟たちの手によって三人の遺体は、|葉誉《イェユー》が信仰していた道観に綺麗にまとめられた。 天台山で供養してもらう為、残っていた一部の魂魄を霊符に納め、皆で黙祷する。 しばらくして厳かな風が吹き抜けると、|葉誉《イェユー》の側近だったという一人の男が、その霊符を|師玉寧《シーギョクニン》に渡した。「|師《シー》門主……。これから我々門派は、衰運の一途をたどるでしょう。どうか私たち緑琉門のこの無念、あなた様の手で晴らしていただきたい……。天台山の安寧を祈ります」 側近に倣い、そこにいた全ての緑琉門の門弟たちが|師玉寧《シーギョクニン》に深く頭を下げた。 |師玉寧《シーギョクニン》も受け取った霊符を白い布で包むと、緑琉門の門弟たちに深く頭を下げた。 |墨余穏《モーユーウェン》は、床に落ちていた一枚の鮮やかな翠緑の羽を見つけ、そっと拾い上げる。両面をひらひらと眺めながら、|葉風安《イェフォンアン》の面影を記憶から呼び覚まし、瞼の裏に葉風安を映す。 |墨余穏《モーユーウェン》はひとしきり|葉風安《イェフォンアン》を感じた後、彼の形見としてそれを胸元に仕舞った。 それから|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》は緑琉門を後にし、|乗蹻術《じゃきょうじゅつ》を使って天台山へ向かった。 二人の間に会話はなく、相変わらず重い空気だけが流れている。 道中、墨余穏はある事を思い出し、ふと口を開いた。 「そういえば、|一恩《イーエン》たちはどうしたんだ? 先に緑琉門に向かっていたはずじゃ?」 |師玉寧《シーギョクニン》は少し間を空けて答える。「急遽、天台山へ行かせた」「天台山? 何
Terakhir Diperbarui: 2025-12-29
Chapter: 第二十二話 暗恋 腹部を刺された|葉風安《イェフォンアン》はその瞬間、ずっと待ち侘びていた|墨余穏《モーユーウェン》の姿を捉えた。 記憶の中に沈めていた思い出が走馬灯のように駆け巡り、|墨余穏《モーユーウェン》が見せる絶望的な眼差しを見る。 天流会で助けてくれたあの日から、|葉風安《イェフォンアン》は|墨余穏《モーユーウェン》に想いを寄せていた。 |師玉寧《シーギョクニン》とは違う端麗な面持ちと、風が吹き抜けるような爽やかな笑みに何度も心を奪われ、脆い心に自ら心地よい風を吹かせた。墨余穏だけは常に特別であり、気まぐれな彼がいつ来ても良いようにと、緑琉門の厳重な門符を解き、私室も開放した。 数え切れない程の時間を共にし、ようやく心づもりができたと思った矢先だった。小夜嵐が軒を鳴らすように|青鳴天《チンミンティェン》との戦いで、|墨余穏《モーユーウェン》が死んだという知らせが届いた。 この時、葉風安は絶望を超えた喪失感に襲われ、この世に風が存在していることすら忘れてしまう程途方に暮れた。 |葉風安《イェフォンアン》はどうにかして、|墨余穏《モーユーウェン》の魂魄を呼び戻せないかと|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の元へ悲願しに行ったが、どうしてか魂魄は見つからず、手掛かりが掴めないまま十年が過ぎてしまった。 その間に、自分と同じ気持ちでいた人が別にいたことを風の噂で聞き、それがまた敵わない相手だと知った|葉風安《イェフォンアン》は、悲恋を抱いた。 目の前にいる二人の関係性を崩す訳にはいかないと、|葉風安《イェフォンアン》は一人、自分の心に木枯らしを吹かせ、二人の幸せを願った。 「|風立《フォンリー》!!」 |墨余穏《モーユーウェン》の叫ぶ声が鳴り響く。 |葉風安《イェフォンアン》は墨余穏の声に応えるように、ほんの僅かに口元を緩ませると、口から物凄い勢いで鮮血を吐き出し、意識を失くした。 側にいた|呂熙《リューシー》が更に追い討ちをかけるかのように、鉤爪で固定していた葉風安の首を切断した。 目の前の惨劇に驚愕した|墨余穏《モーユーウェン》は、思わず叫ぶ! かつてないほどの殺気を込めて胸元から呪符を取り出し、|墨余穏《モーユーウェン》は|呂熙《リューシー》の元に飛び掛かった。強力な神呪で呂熙の身動きを封じた後、次に墨余穏は動きを変え、|青鳴天《チンミ
Terakhir Diperbarui: 2025-12-22