LOGIN新浜市の上流社会の頂点に立つ天野家の夫人である天野紬(あまの つむぎ、旧姓は綾瀬、あやせ)は、その夫・天野成哉(あまの せいや)との関係は、礼儀正しく整っているにもかかわらず、どこか他人行儀で、温度のないものだった。 結婚して三年。紬は海原と新浜の間を絶えず行き来し、いつかは夫と子供の心に寄り添える日が来ると、ひたむきに願い続けてきた。 しかし待ち受けていた現実は、成哉が別の女性をかいがいしく世話する姿だった。 夫が息子の手を引き、その女性のために祈りを捧げ、自分との約束をすっかり忘れてしまう光景を、紬はただ呆然と見つめるしかなかった。 やがて紬は、すべてを諦めた。きっぱりと離婚を切り出し、家庭を捨てた。 高級ドレスを纏い、しなやかで気品ある立ち居振る舞いで、海原市の富豪たちのサロンを悠然と歩む彼女は、まるで別人のように輝いていた。 ほどなくして、海原市の名門の御曹司までもが紬の魅力に心を奪われ、彼のプロポーズの報せは瞬く間に海原のメディアを埋め尽くした。 そのときだった。後悔に苛まれたのは、他ならぬ成哉だった。 その夜、成哉は紬を壁際へと追い詰め、目を赤くしながら低く言い放った。 「紬、俺たちはまだ離婚していない。他の男と結婚するなんて……俺が許したとでも思っているのか?」
View More望美は心から成哉を愛していた。何年もの間、ずっと抱き続けてきた夢が、本当に叶おうとしている。この瞬間、望美はかえって現実味を感じられずにいた。一方、白いウェディングドレスに身を包んだ望美が、一歩ずつ自分のもとへ歩いてくるのを見つめながら、成哉はぼんやりとしていた。この瞬間になっても、心の底から嬉しいとは思えない。それはいったい、なぜなのだろう。記憶の中では、自分が愛していたのは、ずっとあの「望美」だったはずなのに。今、その記憶の中の「望美」が純白のウェディングドレスを身にまとい、もうすぐ自分だけのものになる。それなのに、どうして想像していたほど嬉しくないのだろう。成哉は胸元を押さえ、困惑したような表情を浮かべていた。だが、会場にいる人々は、そんな成哉の様子を見て、嬉しさのあまり呆然としているのだと思った。何しろ、人気女優と大企業の社長の恋物語には、以前から誰もが夢中になっていたのだ。「まさか、天野グループの社長ともなると、自分が心から愛する人と結婚するだけで、あまりの嬉しさに反応できなくなるんだな」「成哉さんのあの呆然とした表情を見てたら、本当に尊すぎる!」「二人とも顔立ちが、本当にお似合い!」「こんな夢みたいな恋、いつになったら私のところにもやってくるのかな!」周囲のざわめきが、かすかに望美の耳へ届いてくる。すると、望美の唇に浮かぶ笑みは、次第に大きくなっていった。成哉がその場で呆然としているのを見て、望美もまた、彼が嬉しさのあまり我を忘れているのだと思った。それに、今は紬が邪魔をしに来ることもない。式を無事に終えたら、すぐに人を連れて紬の醜い本性を暴いてやればいい。そのときには、紬はすべてを失い、世間からも見放される。そう思うと、望美は思わず笑い声を上げそうになった。だが、次の瞬間。その笑顔が、ぴたりと凍りついた。視界の端に、紬と理玖の二人が人混みの中に現れたのが見えたのだ。それに気づいた望美は、慌てて振り向いた。すると、意味ありげに細められた紬の三日月のような瞳と、まともに目が合った。紬は眉をわずかに寄せると、さらには手を上げて、望美に軽く挨拶までしてみせた。そして、唇だけを動かして伝える。――驚いた?望美は美しい瞳を大きく見開き、足元が
望美のほうがよほど憎むべき存在ではあるが、天野家の面目を守るためにも、凛花はこのことを隠し通さなければならない。理玖が一瞥すると、文人が凛花の背後から現れ、その行く手を塞いだ。前も後ろも塞がれ、凛花にはもう退く場所がない。手の中のスマホを強く握りしめる。「あなたたち、何をするつもり?」紬はにこりと笑い、人差し指を立てて声を落とすよう合図した。「ここは話をする場所じゃないよ。別のところへ行こう」凛花は横目で後ろを見た。文人がすぐ背後で見張っている。今の自分は、まるでまな板の上の鯉だ。ただ相手のなすがままになるしかない。凛花はとうとう頷き、紬たちとともに化粧室から離れていった。それに、今も中から聞こえてくる声を聞いているだけで、吐き気がするほど気分が悪くなる。確かに、こんな場所で話をするものではなかった。十分に離れたところまで来ると、凛花の瞳に冷たい光が集まった。「あんた、いったい何が目的なの?勘違いしないで。神谷さんがいるからって、何をしても許されると思わないことね」凛花は紬の隣に立つ理玖へ視線を向けた。内心は不安でたまらなかったが、それでも背筋を伸ばして言葉を続ける。理玖はその言葉を聞いても、何も言わなかった。ただ、さりげなく紬の一歩前へ出る。庇う意思は、あまりにもはっきりしていた。紬は眉を軽く上げた。「私が欲しいものは簡単だよ。あなたが持っている動画」「無理よ!この動画は、あなたに渡すわけにはいかない」凛花は考えるまでもなく言い切った。その反応を見ても、紬は少しも驚かなかった。スマホを取り出し、長い指で何度か画面を滑らせる。それから、画面を凛花に向けた。そこには、凛花が望美と治の密会を盗撮している一部始終が、はっきりと映っていた。さらに動画を拡大すると、望美と治が不貞行為に及んでいる場面まで鮮明に映し出されている。凛花は手のひらを強く握りしめ、理解できないというように紬を見つめた。「いったい何をするつもり?」紬は小さく笑い、ゆっくりとスマホを引っ込めた。「凛花さんのスマホに入ってる、もっと鮮明な動画を私に送って。私たちは協力する立場でしょ。敵同士になる必要なんてないよ。それに、望美みたいな女が自分の従弟とこんなことまでできるんだよ
「違うわ。あんたも見たでしょう。今日のこの場に、あんたが現れるのはふさわしくないわ」望美は表面上、治をあしらおうとした。しかし、治はそんな言葉に耳を貸そうともしなかった。その視線は望美の白い首筋に釘付けになり、暗い瞳の奥には抑えきれない情欲が渦巻いていた。治は手を伸ばして白く柔らかな首筋を撫で、指先で肌の上をゆっくりと、少しずつ滑らせていく。望美は抵抗できなかった。この男に逆らえばどんな目に遭うか、痛いほど分かっていたからだ。思わず息を呑むその瞳の奥には、治に対する恐怖が潜んでいる。「主導権が、お前にあるとでも思っているのか?」治の声は極限まで掠れていた。その言葉を聞いて、望美は瞬時に抵抗を諦めた。瞳から光が消え、絶望の色に染まる。治の言う通りだった。自分は元々、この男に操られるだけの存在なのだ。主導権など、最初からあるはずもなかった。望美は下唇を強く噛みしめ、拒絶の言葉を飲み込んだ。――いいわ、少し我慢するだけ。無事に結婚さえできれば、後で必ずこの男から逃れる機会を見つけられる。完全に抵抗を諦めた望美の赤い唇から、承諾の言葉が漏れる。「優しくして。あまり大きな音を立てないでね」紬の相手をさせる人間を探すため、メイクアップアーティストたちを追い払っていなければ、控え室でこんなことを受け入れるはずなどなかった。治は喉の奥で低く笑うと、望美の白い首筋を優しく摩った。「どうした、嫌なのか?お前の結婚式で、新郎の従弟とヤるなんて、すごく刺激的だと思わないか?」治は望美の耳元に顔を寄せ、吐息混じりに囁く。二人の体は隙間なく密着していた。望美の心は本来、拒絶で満たされていた。しかし治にそう言われると、心の奥底でわずかに情欲が刺激されるのを感じる。「メイク室の中へ行って」望美はただそれだけを口にした。「ふん」治の陰鬱な顔に、ようやく微かな笑みが浮かんだ。身を屈め、望美の赤い唇に口づけを落とす。「素直な子は好きだ」そう言い終わるや否や、望美は小さな悲鳴を上げた。治に横抱きにされたのだ。治は長い脚を踏み出し、メイク室へと向かう。やがて、中からは想像を掻き立てるようなあられもない声が漏れ聞こえてきた。凛花が片隅から姿を現した。その顔は怒りで青ざめている
悠真は芽依がそこまで言い張るのを見て、これ以上何も言えなくなった。心の中で、自分を奮い立たせる。――僕はお兄ちゃんだ。ちゃんと芽依を守らなきゃ!芽依だって怖がってないんだ。僕がビビってるわけにはいかない。大丈夫。ただのベランダだ。一歩踏み出せば、届く。そう自分に言い聞かせてから、悠真はベランダを見た。すると、さっきまでほど怖くは感じなくなっていた。小さな拳をぎゅっと握りしめ、芽依に続いてベランダへと足を踏み出す。実際に渡ってみると、思っていたほど怖くはなかった。芽依は兄の表情が和らいだのを見て、思わず顎を上げ、誇らしげに言った。「ほら、そんなに怖くないって言ったでしょ。すぐにこの部屋から逃げ出せたら、ママに会えるよ!」「うん!」悠真は力いっぱい頷いた。胸の内は喜びでいっぱいだった。前を進んで道を切り開いていく妹を見ていると、悠真は少し申し訳ない気持ちになった。悠真は頭をかく。「芽依ちゃん、やっぱり僕が前に行くよ。もう怖くないから。僕に任せて」芽依は悠真の目をじっと観察した。本当にもう怖がっていないのだと分かると、ようやく安心した。「じゃあ、お願い。お兄ちゃんが前ね」芽依はずっと後ろから、悠真を一生懸命励まし続けた。二人はそのままベランダを伝って隣へ渡り、そこから梯子を使って下へと降りていった。その梯子は、以前望美が人を遣ってここに置かせたものだった。チンピラたちが連れ去られたあと、誰も彼も梯子のことをすっかり忘れていたのだ。無事に小さな部屋から抜け出すと、二人の顔には興奮が満ちていた。「やった!逃げ出せた!」芽依は嬉しそうに悠真に抱きついた。一方、悠真は胸を大きく上下させていた。まさか、本当にやり遂げられるとは思わなかった。あのベランダも梯子も、想像していたほど怖いものではなかった。悠真は芽依の瞳に浮かぶ興奮と喜びを見つめる。すると、自分の胸の中にも自然と嬉しさが込み上げてきた。そして、芽依の小さな手を取る。「行こう。ママを探そう!」「うん!」芽依は力いっぱい頷いた。――一方その頃、凛花は治の後をついて歩いていた。ところが、治がまるで勝手知ったる場所のように、迷うことなく舞台裏へ向かっていることに気づいた。凛花の
reviewsMore