Masuk新浜市の上流社会の頂点に立つ天野家の夫人である天野紬(あまの つむぎ、旧姓は綾瀬、あやせ)は、その夫・天野成哉(あまの せいや)との関係は、礼儀正しく整っているにもかかわらず、どこか他人行儀で、温度のないものだった。 結婚して三年。紬は海原と新浜の間を絶えず行き来し、いつかは夫と子供の心に寄り添える日が来ると、ひたむきに願い続けてきた。 しかし待ち受けていた現実は、成哉が別の女性をかいがいしく世話する姿だった。 夫が息子の手を引き、その女性のために祈りを捧げ、自分との約束をすっかり忘れてしまう光景を、紬はただ呆然と見つめるしかなかった。 やがて紬は、すべてを諦めた。きっぱりと離婚を切り出し、家庭を捨てた。 高級ドレスを纏い、しなやかで気品ある立ち居振る舞いで、海原市の富豪たちのサロンを悠然と歩む彼女は、まるで別人のように輝いていた。 ほどなくして、海原市の名門の御曹司までもが紬の魅力に心を奪われ、彼のプロポーズの報せは瞬く間に海原のメディアを埋め尽くした。 そのときだった。後悔に苛まれたのは、他ならぬ成哉だった。 その夜、成哉は紬を壁際へと追い詰め、目を赤くしながら低く言い放った。 「紬、俺たちはまだ離婚していない。他の男と結婚するなんて……俺が許したとでも思っているのか?」
Lihat lebih banyak成哉は生真面目な顔つきで言った。「望美は冷え性でね。夜になると手のひらがひどく冷たくなるんだ。手袋を忘れたみたいだから、俺が手を引いていただけです」理玖は冷ややかに、鼻で小さく笑った。足元から頭の先へと値踏みするように這い上がるその視線に、隣に立つ望美の背筋へぞくりとした悪寒が走る。――まさか、神谷理玖だったなんて。病院で見かけた、あの男だ。神谷家の人間が、どうして紬の間男などになり得るの?望美は動揺を押し隠し、口角を上げて柔らかく微笑んだ。「ええ、神谷さん、どうか誤解なさらないでくださいね。成哉は私を気遣ってくれただけで、皆さんが想像しているような関係ではありませんの。さきほど入り口で紬さんの後ろ姿を見かけて、何かトラブルに巻き込まれたのではないかと思い、慌てて駆けつけただけなんです」そう言いながら、彼女は成哉の腕を軽く揺らす。「ね、成哉?」成哉は淡々と「ああ」と頷いた。紬は、この二人の白々しい芝居をこれ以上見続ける気にはなれなかった。「そうだわ、紬さん。レイさんのためにデザインしたお洋服、本当に素敵ね。とても羨ましいわ」望美は羨望のまなざしを向けながら、次第に声を落としていく。その落差が、かえって痛々しい寂しさを漂わせていた。成哉は彼女の変化に気づき、冷笑を浮かべた。「あんな三流のデザインを羨ましがる必要なんてない。渚が頼りないなら、もっと腕のいいデザイナーに替えてやってもいい」望美は首を横に振り、甘えるような声音で言った。「嫌よ。私、紬ちゃんのスタイルが本当に好きなの。ぜひ私の専属デザイナーになってほしいわ。いいよね、紬さん?」つぶらな瞳は期待に満ちている。注意深く観察しなければ、本気で彼女の作品を気に入っているように見えただろう。だが実際には、その一言一言の奥に、計算と悪意が巧妙に潜んでいた。紬は淡々と口を開いた。「私など、とても務まりませんわ」成哉がその分をわきまえた態度に満足しかけた、その瞬間、紬の言葉は静かに続いた。「私は『人間』のためにしかデザインをいたしませんの。それ以外の生き物については、まだ手を出しておりませんので」遠回しに人間扱いされていないと示唆され、望美の目頭がその場で熱を帯びた。「紬、望美がチャンスを与えてくれているんだ。光栄に思え!
理玖は紬の足をハイヒールからそっと解放した。紬は、彼が自分の靴を少しずつ慎重に引き抜いていく様子を、呆然としたまま見守っていた。季節はすでに晩春。気温も目に見えて上がり始めている。マンションへ続く道沿いに植えられた桜が、風に誘われるように枝先からひとひら、またひとひらと舞い落ちていた。理由もないのに、紬の頬がじわりと熱を帯びていく。彼女の位置からは、理玖の真剣な横顔がよく見えた。研ぎ澄まされた骨格の美しさは、どの角度から眺めても非の打ち所がない。パキッ――ようやくヒールが隙間から抜け出した。理玖は寄せていた眉を緩めると、そのまま自然な手つきで彼女に靴を履かせ、言い聞かせるように告げた。「よし。次はもう少しゆっくり歩け。そんなに急ぐ必要はない」紬は返事をするのを忘れ、一拍遅れてようやく口を開く。「……ええ、わかりました」理玖の肩から手を離した瞬間、無意識に指を丸めた。そのとき掌に残る体温に気づき、はっと息を呑む。「紬!?」夜の静寂を切り裂くように、怒りと衝撃を孕んだ声が彼女の名を呼んだ。紬の肩がびくりと震える。振り返ると、血の気を失った顔の成哉と、その傍らで心配そうな表情を装いながら、実際にはほくそ笑みを浮かべている望美が立っていた。紬の視線は、二人の固く結ばれた手へと吸い寄せられる。次の瞬間、まるで裏切られた夫のような口調で、成哉の詰問が飛んだ。「こんな時間に、なぜこの男と一緒にいるんだ?今、何をしていたんだ!?」彼は望美をマンションまで送り届けた帰り、遠くに紬によく似た後ろ姿を見つけたのだ。だがその足元では、顔の見えない男が屈み込んでいた。状況は分からない。それでも、どう見ても親密で曖昧な空気が漂っている。成哉の表情は、見る見るうちに硬直していった。隣で望美がわざとらしく声を上げたことが、さらに追い打ちをかける。「あれ、紬さんじゃない?どうしてこんなところに……こんな夜更けに、その男性はどなた?」その一言が、成哉の胸へ冷たい重石のように落ちた。彼は紬を愛してはいない。だが、それは彼女に裏切られても構わないという意味ではない。最近の離婚騒動も、記憶喪失のふりも――すべて、この男が原因だったのか。怒りが一気に噴き上がり、成哉は二人が立ち去
本来、「制御不能」に陥っていたはずの黒いワゴン車は、形勢が不利と見るや否や、突如として正常な走行へと戻り、そのままUターンして逃走した。理玖は深追いすることなく、冷静に電話をかける。「環状七号線、杉関302 る・65-61」紬がようやく事態を理解できたのは、それからしばらく経ってからだった。――今のは……計画的な殺人未遂だったの?似たような出来事が、成哉と結婚して間もない頃にもあった。新婚当時、二人は新浜に住んでいた。ある日、紬はふと思い立ち、会社まで成哉を迎えに行こうとした。ガレージには、成哉が普段使用しているベントレーが一台停まっているだけだった。事件は、その会社の近くで起きた。あの時の事故は凄惨だった。紬は三か月にも及ぶ入院生活を余儀なくされた。だが、成哉が見舞いに訪れたのは、事故の翌日ただ一度きりだった。「大人しく治療に専念しろ。これからは天野家の妻として家でじっとしていろ。無暗に出歩くな。お前がこんな馬鹿な真似をしなければ、あんな災難には遭わなかったはずだ」当時の紬には、事故の真相を知る術などなかった。成哉の言葉を疑いもせず受け止め、深い自責の念に苛まれていた。――また彼に迷惑をかけてしまった。その思いだけが、頭の中を埋め尽くしていた。真実を偶然知ったのは、ずっと後になってからだった。あの事故は、成哉を標的とした計画的犯行だったのだ。ただ偶然、あの日に限って紬が成哉の車を運転していただけだった。そして同じ日、成哉は新浜へ到着する望美を空港まで迎えに行くことに忙しくしていた。だからこそ彼は「取り違え」による災難を免れ、事故直後も現場へ姿を見せなかったのである。封じ込めていた記憶の殻が、音を立てて砕け散る。不意に、紬は呆然としたまま凍りついた。理玖は腕の中の彼女を支え起こし、怪我がないかを確かめる。だが、どこか遠くを見つめているような様子が気にかかり、声をかけた。「どうした。腰が抜けたか?」紬ははっと我に返る。「い……いいえ」街灯の下に停まった車内には、メーターの刻む微かな音だけが響いていた。戸惑うように長い睫毛を揺らしたその瞬間、底知れぬ淵のような瞳と真正面から視線がぶつかる。理玖は眉をひそめた。明らかに信じていない表情だった。
冷静に、とにかく冷静にならなくては。今ここで取り乱したりすれば、それこそあの女の思う壺だわ。……授賞式の幕が閉じ、舞台裏の静まり返った場所で、レイは長い間、紬を抱きしめていた。紬は慈しむように、そっと彼女の背を叩く。肩に感じていた微かな湿り気が引き、レイが静かに唇を戦かせた。「参ったわ、紬。あなたに負ったこの借りは、一生かかっても返せそうにないわ」紬が思わず目を見開くと、レイは悪戯っぽく微笑んで言葉を添えた。「……恩義の話よ」今回の授賞式が始まる前から、不穏な火種はいくつも燻っていた。そして案の定、結果はレイの予想していた通りの筋書きとなった。けれど、その過程で絶望に沈むことはなかった。一人の、得も言われぬほど興味深い女性と巡り会えたから。自身には何ら利のないことだというのに、紬は最後まで傍に残り、助けの手を差し伸べる道を選び取ったのだ。芸能界という名声と利益が渦巻く場にあって、損得勘定で動くのは至極当然の理。ましてや紬は成哉の妻だ。静観するという選択肢も十分にあったはずだろう。その曇りのない純粋な善意に触れたのは、いつ以来のことだろうか。「ありがとう、紬」レイの声には、偽りのない真実が宿っていた。紬からは彼女の表情を窺い知ることはできなかったが、授賞式の件でまだ心が沈んでいるのだと察し、そっと言葉をかけた。「『花が咲けば、風は自ずから吹く』と言うわ。もし今夜の結果が初めから仕組まれたものだったのなら、無理に手中に収めたところで、そこに価値などないもの」レイは目を細め、どこか遠くを見るように微笑んだ。「……ええ、よく分かっているわ」控え室の扉が鋭く叩かれた。アシスタントが恐縮した様子で扉を開け、声を潜める。「レイさん……西園寺様がお見えです」その言葉が終わるか早いか、剛が傲然と足を踏み入れてきた。彼は陰鬱な眼差しで、寄り添い合う二人の女を射抜くように睨みつける。「レイ、話をしよう」レイは振り返り、口元に一閃の皮肉を滲ませた。「……随分とお早いお出ましね」それから紬に向き直り、優しく諭すように言い含めた。「紬、優一に送らせるから、あなたは先に帰りなさい。私は、この方と少し話をつけなきゃならないの」疎外感に苛まれた剛は、レイの言葉を内心で反芻していた。
Ulasan-ulasan