LOGIN新浜市の上流社会の頂点に立つ天野家の夫人である天野紬(あまの つむぎ、旧姓は綾瀬、あやせ)は、その夫・天野成哉(あまの せいや)との関係は、礼儀正しく整っているにもかかわらず、どこか他人行儀で、温度のないものだった。 結婚して三年。紬は海原と新浜の間を絶えず行き来し、いつかは夫と子供の心に寄り添える日が来ると、ひたむきに願い続けてきた。 しかし待ち受けていた現実は、成哉が別の女性をかいがいしく世話する姿だった。 夫が息子の手を引き、その女性のために祈りを捧げ、自分との約束をすっかり忘れてしまう光景を、紬はただ呆然と見つめるしかなかった。 やがて紬は、すべてを諦めた。きっぱりと離婚を切り出し、家庭を捨てた。 高級ドレスを纏い、しなやかで気品ある立ち居振る舞いで、海原市の富豪たちのサロンを悠然と歩む彼女は、まるで別人のように輝いていた。 ほどなくして、海原市の名門の御曹司までもが紬の魅力に心を奪われ、彼のプロポーズの報せは瞬く間に海原のメディアを埋め尽くした。 そのときだった。後悔に苛まれたのは、他ならぬ成哉だった。 その夜、成哉は紬を壁際へと追い詰め、目を赤くしながら低く言い放った。 「紬、俺たちはまだ離婚していない。他の男と結婚するなんて……俺が許したとでも思っているのか?」
View More紬の視線が、成哉の冷えきった横顔をふわりと掠めた。「私が何でここにいると思う?」そう言い残し、紬は電話を切った。成哉の表情は険しい。「病気なら、どうして言わなかった?」紬が点滴スタンドを必死に持ち上げようとする様子を見るや、成哉は思わず手を伸ばし、支えようとした。だが紬はすっと身をかわし、自ら針を抜いた。「お気遣いは無用。自分のことは自分でできるから。病気なら、自分で医者にかかる」以前、紬がインフルエンザで全身の節々が軋むほど苦しみ、ベッドから一歩も動けなかったあの日。耐え切れずに成哉へメッセージを送ったとき、彼は何と言っただろう。「病気なら病院へ行け。俺に言ってどうする。医者でもないし、治せるわけでもない」成哉も、ぼんやりとその会話を思い出したようだった。だが、紬がここまで深く傷ついているとは思いもしなかったらしい。成哉の眼差しに、複雑な色が差した。「紬……俺に怒っているのか?」ちょうどその時、ドアの外の気配に気づいた二人の子どもが勢いよく飛び出してきた。病衣姿の紬を見た瞬間、ふたりは目を見開いた。「ママ、病気なの?」悠真は久々に会う母の姿に喜びながらも、驚愕が勝り、駆け寄ってその手を強く握った。いつも自分を叱るママは嫌だった。けれど、病気になるママはもっと嫌だった。芽依はその場に立ち尽くし、震える声でつぶやいた。「ママ……どうして病院にいるの……?もしかして、さっき私がママを呪った言葉が……本当に……?」幼い瞳が涙で揺れ、怯えの色が浮かぶ。その言葉を聞いた紬の胸に、ひどく冷たいものが走った。自分が命を懸けて産んだ子どもが、陰で自分の病気を願っていた。紬の声は静かで、しかし凍りつくほど冷たかった。「芽依、悠真……ママが一体何をしたの?どうしてそんなにママを嫌うの?憎むほどに」子どもたちは途端に泣きそうな顔になった。「悠真くん、芽依ちゃん……誰かに何か言われたの?」その時、病室から慌ただしい女性の声が響いた。望美がよろよろとベッドを降り、慌てて姿を現したが、「衰弱」した身体は廊下に出た途端、崩れ落ちそうになった。「望美さん!」芽依と悠真が叫び、真っ先に駆け寄る。一番近くにいた成哉がすぐさま望美を抱き留めた。「まだ病み上がりなんだ。ベッドで大人しくしてて
紬は看護師を呼んで点滴を換えてもらったが、その子は意識が朦朧とする中で人違いし、紬を掴んで「ママ」と呼んだ。「ありがとう、唯ちゃん」紬は少女が好意で差し出したティッシュを受け取り、ここ数日で初めて心からの笑顔を見せた。神谷唯(かみや ゆい)は、ぱっと小さな手で口元を覆った。「わあ、きれいなお姉ちゃんが笑ったら、まるで女神様みたい。絶対、たくさん笑ったほうがいいよ」紬は子どもの純粋な称賛に、さらにやわらかく微笑んだ。「残念だけど……パパにはもうママがいるんだ」唯は小さく頭を揺らし、ため息をついた。ふと何かを思いついたように、両目をきらきらさせる。「じゃあ、きれいなお姉ちゃん、私の叔父さんと結婚してよ!叔父さん、まだ奥さんいないの」紬は思わず目尻を下げ、小さな櫛で唯の髪を梳いてやった。「唯ちゃん、お姉ちゃんはもう結婚してるんだよ」唯はショックを受けたように顔を曇らせた。「え?きれいなお姉ちゃん、結婚してるの?そっか……こんなにきれいなんだもん、旦那さんがいて当然だよね。でも、なんでお見舞いに来てくれないの?ママが病気になった時は、パパ、一晩中寝ないでそばにいたよ」今回、唯が急に帰国して環境が合わず体調を崩して入院した時、両親はすぐに戻れず、叔父に世話を任せていた。ところが唯の父親は当てにならず、叔父が出張中であることすら把握していなかったらしい。昨夜は唯の祖父が食事を届け、付き添いのヘルパーを手配してくれたものの、すぐに家の植物の世話をしに帰ってしまった。紬の笑顔がゆっくりと薄れていく。頭の奥で、先ほどの娘の言葉が蘇った。昨夜、成哉は一晩中望美に付き添っていたはずだ。唯一の着信も、おそらく責め立てるためのものだったのだろう。唯はぱちぱちと大きな瞳を瞬かせ、紬に髪を撫でられながら大人しくしていた。――きれいなお姉ちゃん、また悲しくなっちゃったみたい。旦那さんのせいかな?……VIP病室では、芽依と悠真が朝早くから望美の見舞いに来ていた。昨夜は遅すぎたため、成哉は子どもたちを連れてこられなかったのだ。二人とも望美のことが心配で、一晩中ビデオ通話をかけ続けていたらしい。「ママってば本当にひどいよ。電話したのに自分の間違いを認めないんだもん!許可もなくママの服を着た望美さん
海原の雨は一晩中降り続き、手術室の灯りは点いては消え、また点いた。夜が明ける頃、紬は重たいまぶたをようやく持ち上げたが、全身を焼くような痛みはまだ収まっていなかった。「天野さん、ウイルス感染ですね。幸い、運ばれてくるのが早かったので何とか助かりましたが、もう少し遅れて肺炎を起こしていたら命の危険がありました。昨日、ご主人に連絡を試みたんですが、何度かけても繋がらなくて……最後は携帯の充電が切れちゃったんです。早めにご連絡してあげてくださいね。ご家族、きっと心配してますよ」薬を替えに来た若い看護師が、耳元で小言をこぼしながら、充電の終わったスマホを紬に手渡した。紬はその言葉にも微動だにしなかったが、胸の奥には苦いものが溜まっていく。口元を無理に引き上げて微笑む。「ええ、ありがとう」あの四人家族は、今も仲睦まじく暮らしている。紬の電話に出る暇など、あるはずがない。紬はスマホの電源を入れた。画面が明るくなり、成哉からの不在着信が瞬時に目に飛び込んでくる。紬は一瞬固まった。その刹那、芽依のために設定していた専用の着信音が病室に響いた。芽依に何かあったのでは――そう思うと胸がざわつき、紬は慌てて電話を取った。「もしもし、芽依ちゃん?どうしたの……」「ママ」その冷たい一語が、紬の声を容赦なく遮った。「ママのせいで、望美さんが死にかけたってわかってるの!?」紬は呆然とした。「……芽依ちゃん、何を言ってるの?」芽依の声は怒りに震え、さらに鋭さを増した。「お医者さんが言ってた!望美さんはママの服を着たせいで、ヨモギのアレルギーが出たんだって!パパが徹夜で看病して、やっと助かったんだよ!ママがパジャマにヨモギを焚きしめたりしなければ、望美さんは危険な目に遭わなかった!この人殺し!どうして病院に運ばれたのがママじゃないの!?」その言葉は、紬の胸の奥を錆びた刃物でゆっくり切り裂くようだった。ヨモギの香りがする服……芽依も悠真も体が弱かった幼い頃、漢方で体を整えていた。ヨモギの香りだけは、あの子たちが唯一受けつける薬草だった。だから紬は、何年も自分の服にヨモギを焚きしめ続けてきた。薬も度を過ぎれば毒となる。紬も初めてその服を着た時、体にかゆみを伴う赤い発疹が出たことがあった。それでも子ども
紬は全身から一気に血の気が引いていった。冷えきった指先で震えながら娘へ電話をかける。ただ一つ、何が起きているのか、それだけを確かめたかった。電話先では、芽依がぬいぐるみを抱え、望美に寄り添って写真を撮っていた。着信画面に表示された名前を見ると、芽依は小さく眉をつり上げ、瞳に不機嫌な影を落とす。着信音はしつこいほど鳴り続けたが、望美が柔らかい声で言った。「芽依ちゃん、ママから電話よ。出なくていいの」芽依はぷいと首を振る。「ママって超うざいんだもん。出たらまた根掘り葉掘り聞かれるし、絶対イヤ」そう言って、鳴り止まない電話を容赦なく切った。そして振り返りざま、悠真に文句を言う。「お兄ちゃん、だからママを着信拒否のままにしとけばよかったのに。ほら見て、ちょっと外しただけでガンガンかけてくるじゃん。お兄ちゃんは何ビビってんの?」「ビビってなんかないよ!ただ、ママが言い忘れたことでもあるかと思っただけだし。それに、拒否外したのは芽依ちゃんだよ」強がった声とは裏腹に、悠真の表情には妙な苛立ちが浮かんでいる。――まったく、ママは少し時間を置いてからかけてくればいいのに。これじゃ僕の立つ瀬がないじゃないか。芽依は唇を尖らせ、突き放すように言った。「ママが言い忘れるわけないじゃん。一回話し出したら止まらないんだから、うるさいって」新浜にいた頃、紬は毎日決まった時間に二度電話をしてきた。朝食時に一度、夕食時に一度。細かな衣食住に至るまで、まるで息をするようにあれこれ口を出してきたのだ。最初はママと離れたばかりで心細く、二人も決まった時間に電話を待っていた。だが、成長するにつれて自分たちの世界ができ、望美がそばにいてくれるようになると、次第に電話が重荷になっていく。一日二回が一回になり、通話時間は十分にも満たなくなった。そしてここ二日間、芽依はついに直接着信拒否にしていた。紬の手の中で、スマホの画面はゆっくりと暗転していく。それと同じように、胸の奥に灯っていた微かな光も、音もなく消えていった。自分は、いったい何を期待していたのだろう。突如、紬は激しく咳き込み、鮮血を点々と吐き出した。運転手は顔を青ざめ、アクセルを踏み込み、最寄りの病院へ急行する。一方その頃、新居では――望美との撮影を





