LOGIN新浜市の上流社会の頂点に立つ天野家の夫人である天野紬(あまの つむぎ、旧姓は綾瀬、あやせ)は、その夫・天野成哉(あまの せいや)との関係は、礼儀正しく整っているにもかかわらず、どこか他人行儀で、温度のないものだった。 結婚して三年。紬は海原と新浜の間を絶えず行き来し、いつかは夫と子供の心に寄り添える日が来ると、ひたむきに願い続けてきた。 しかし待ち受けていた現実は、成哉が別の女性をかいがいしく世話する姿だった。 夫が息子の手を引き、その女性のために祈りを捧げ、自分との約束をすっかり忘れてしまう光景を、紬はただ呆然と見つめるしかなかった。 やがて紬は、すべてを諦めた。きっぱりと離婚を切り出し、家庭を捨てた。 高級ドレスを纏い、しなやかで気品ある立ち居振る舞いで、海原市の富豪たちのサロンを悠然と歩む彼女は、まるで別人のように輝いていた。 ほどなくして、海原市の名門の御曹司までもが紬の魅力に心を奪われ、彼のプロポーズの報せは瞬く間に海原のメディアを埋め尽くした。 そのときだった。後悔に苛まれたのは、他ならぬ成哉だった。 その夜、成哉は紬を壁際へと追い詰め、目を赤くしながら低く言い放った。 「紬、俺たちはまだ離婚していない。他の男と結婚するなんて……俺が許したとでも思っているのか?」
View More「きれいなおばさん、おかえりなさい!」唯はひまわりのような満面の笑みで紬を出迎えた。その姿を見るだけで、紬の心はふっと軽くなる。「ただいま。今日はいい子にしてた?悠真にいじめられなかった?」唯は「ひひっ」と笑い、不自然に視線をキッチンの方へ泳がせた。紬は、胸の奥に嫌な予感が走るのを感じた。「……あの子、今度は唯ちゃんの家のキッチンをめちゃくちゃにしたんじゃ?」「それだけじゃないよ」唯はいたずらっぽく首を振る。怪訝に思いながら足早にキッチンへ向かった紬は、その光景を目にして、「それだけじゃない」という言葉の意味を思い知らされた。そこには、大小二つの背中が並び、いっちょまえに鍋を振って料理をしている姿があった。理玖と悠真だ。紬は、あいた口が塞がらなかった。悠真はともかく、まさか理玖まで加わっているとは。どこからか微かに焦げた匂いが漂っているが、その発生源はすぐには分からない。「あなたたち……」二人は入り口の気配に気づいた。悠真が声を張り上げる。「ママ、入ってきちゃダメ!油っぽい煙は肌に悪いんだから!そこで座って待ってて!」「そうだ。俺が見ている。問題なく仕上がるさ」理玖はエプロンを腰に巻き、すでに黒ずみ始めたほうれん草を、涼しい顔で炒め続けていた。紬は疑いの眼差しを向けずにはいられなかった。やがて料理が食卓に並ぶと、唯は「おやつを食べすぎてお腹いっぱい」と適当な言い訳を残し、脱兎のごとく逃げ出した。「見る目がないな」大小の二人が、同時に吐き捨てる。その直後、互いに不快そうな視線を交わした。「ママ、早く食べてみて!これは僕が作った人参と牛肉の炒め物だよ!今回はちゃんと火が通ってるから!」「ふん。牛肉を下茹でするのか、強火で炒めるのかも分かっていないくせに、よく勧められるものだ」「おじさんだって人のこと言えないだろ!ママがトマトと卵のスープを作るとき、氷砂糖なんて入れないよ!」「砂糖は隠し味だ。子供には分からんだろうな」言い争いは次第にエスカレートし、収拾がつかなくなっていく。そこへ、こっそり戻ってきた唯が、自分のお腹をさすりながら紬の手を引いた。「きれいなおねえちゃん、早く逃げよう。あの人たちのご飯、犬だって食べたら来世は遠慮したくなるレベルだよ」
紬は少し意外に思った。まさか次の瞬間、蘭が残りのデザインまですべて買い占めてしまうとは予想していなかったからだ。「紬さん、私を満足させるようなウェディングドレスを仕立ててくださること、期待していますわ」蘭は何か言いかけて言葉を飲み込み、どこか複雑な眼差しを向けた。紬は静かに頷く。「ご安心ください。ご要望があれば、いつでもオンラインで打ち合わせできます」結局、蘭はある住所を告げ、すべての商品をそこへ配送するよう指示した。帰り際、紬は蘭の送迎の申し出を丁寧に断る。「ふふ、自意識過剰ですわね。ただのついでですのに。乗りたくないなら、お好きになさって」蘭はそう言い残して車に乗り込み、長い脚を優雅に滑り込ませると、真紅のスーパーカーは一瞬で走り去っていった。紬はそっと安堵の息をついた。今日一日、蘭と行動を共にする間、紬は終始どこか落ち着かない感覚に囚われていた。まるで自分の一挙手一投足を観察されているかのような――そんな奇妙な気配。だが、それは考えすぎかもしれない。蘭が視線を向けていたのは礼儀の一環に過ぎなかったのかもしれないし、あるいは単に服を見ていただけなのだろう。仕事帰り、紬はカーディーラーへと立ち寄った。先日の事故で、あの車は完全に廃車になってしまった。思い返すほどに、惜しさが胸に募る。初めての大きな仕事で得たボーナスで購入した一台――長い間、彼女の傍らに寄り添ってくれた相棒だった。店内では、営業スタッフが丁寧に対応してくれた。紬はすぐに一台のSUVに目を留める。色もサイズも、フォルムも申し分ない。納車手続きを待つ合間、ふと視界に見覚えのある影が映り込んだ。剛が、一人の美女を腕に抱いている。だが、それはレイではなかった。「剛さまぁ、私が欲しかったあのベンツ、もう届いてるんですって。買ってくださいますよねぇ?どうしてもあのモデルがいいんですものぉ」耳にまとわりつくような甘ったるい声。剛は満面の笑みを浮かべた。「いいよ。君の言う通りにしよう」その時、彼の視線がふと前方へ向いた。ボックス席に座る紬が、瞬きもせず自分を見つめている。全身に電流が走ったかのように、彼はびくりと身を震わせた。「……何を見てるんだよ」「目は私についているものだもの。何を見ようと、私の勝手でしょう?」紬は意
「これだけですか?」蘭は頬杖をつき、紬へと視線を流した。「まだ、本物のSmileに謝っていないでしょう?」麻衣は奥歯を噛み締めた。頭では分かっている。それでも、心は頑なに拒んでいた。だが、蘭の放つ圧倒的な威圧感の前に抗う術はなく、ついには紬へと頭を下げるしかなかった。「……申し訳ございません」吐き捨てるように言い残すと、彼女はふてくされた足取りで会議室を後にした。直輝は頭を抱えた。「失礼いたしました、藤岡様。お見苦しいところをお見せしてしまって」「ええ、本当に滑稽でしたわ」蘭の声音は軽く、彼の存在など微塵も意に介していないかのようだった。直輝はぐっと言葉を飲み込んだ。退室の際、蘭が紬に対して親しげな態度を見せているのを目にした瞬間、彼の瞳の奥にどす黒い光がよぎる。会議室には、再び静寂が落ちた。「藤岡様、私のためにお声を上げてくださり、ありがとうございます」「あなたのためではありません。私のウェディングドレスのためですわ」蘭の態度は、再び氷のように冷ややかなものへと戻っていた。紬は唇を軽く噛み、黙してそれを受け止めた。「さて、本日はここまでにいたしましょう。私の要求は多くありませんけれど――もしあなたが、あの女のように他人の作品で帳尻を合わせるような真似をしたなら、この会社が明日も営業を続けられる保証はできませんわ」蘭は立ち上がり、室内を一瞥した。その眼差しには、どこか露骨な嫌悪が滲んでいる。紬はきっぱりと言い切った。「ご安心ください。そのようなことは、私に限って決して起こり得ません」同時に、紬の胸には純粋な驚きが広がっていた。この令嬢は、ひと目で麻衣のデザイン案の欠点を見抜いたというのか――いったい、何者なのだろう。「そういえば、あなたの会社の傘下に『烏羽』という店があるそうね。そこにはあなたがデザインした服が置いてあるとか?」「はい、その通りです」「ぜひ案内していただきましょう。お付き合いください」拒絶の余地を与えぬ口調でそう告げると、蘭は先にオフィスを後にした。「島崎社長、社員を一人お借りして遊びに行ってまいりますね」直輝は相変わらず営業用の笑みを崩さない。「藤岡様、ご冗談を。社員たちは勤務時間中ですので、本人の合意を得る必要が――」「あら?それで、あなたの意向はどう
蘭は一瞬呆気に取られたが、先ほどのようにそのまま立ち去ることはなかった。「つまり、今私が見たデザイン画は、あなた自身が描いたものだとおっしゃるの?」「そうです!その図面も彼女が作ったんです!」麻衣が思わず声を張り上げた。紬がこの場を収めに来た以上、この案件を逃したくないはずだ――彼女なら否定しないだろう。そう踏んでの発言だった。紬は冷ややかな視線を麻衣に向ける。「いいえ。私はそんなもの、一度も描いたことはありません」その一言で、麻衣の顔色は瞬時に土気色へと変わった。蘭は眉をわずかに上げ、鼻で笑う。「悪いけれど、私の時間は貴重なのです。あなた方の醜い身内揉めに付き合っている暇はありませんわ」そう言い残し、蘭は踵を返そうとした。だが紬は追いすがらない。代わりに、おもむろに図面を手に取り、静かに言い放つ。「ですが……それを、あなたのお好みのデザインに書き換えることはできます」「紬さん、自信があるのは結構ですけれど」蘭は足を止め、嘲るように微笑んだ。振り返ると、紬はすでにペンを手にし、迷いなく図案の上へと線を走らせていた。重たくもたついた印象だったロングトレーンのウェディングドレスは、容赦なくカットされ、ふくらはぎ丈へと変わる。それでいて、華やかさは一分たりとも損なわれていない。紬が修正を重ねるごとに、蘭の表情から嘲笑が消え、やがて真剣な眼差しへと変わっていった。その発想は大胆で革新的、次々と提示される改良は、いずれも予想を裏切るものばかりだった。この場でなければ、思わず拍手を送っていたに違いない。やがて紬は描き終えたデザイン画を差し出す。蘭は興味深げにそれを受け取り、しばらく見つめたのち、口を開いた。「いいでしょう。あなたとなら提携を続けても構いません。ただし――あなた個人とだけ、ですわ。私のドレスに、得体の知れない人間を介入させないでいただきたい。それに、私が求めているのは完全な新作。この図面とは何の関係もないものです」そう言って、蘭は図面を机に置き、指先で無造作に軽く叩いた。麻衣は顔を真っ赤にし、屈辱に震えていた。助けを求めるように直輝を見る。直輝は小さく溜息をつき、表情を引き締めた。「藤岡様、麻衣はまだ新人です。図面にも改善の余地はございますが……
ドア一枚を隔てた向こう側で、子供を叱咤し教育する賑やかな声が、ぴたりと遮断された。紬はようやく息をつき、スマホを手に取る。いくつか仕事を片付けていると、新しい友だち追加申請が届いていることに気づいた。アイコンは、足の短いマンチカンの子猫。紬にはその写真に見覚えがあり、ツイッターを開いてレイのプロフィールを確認した。やはり、以前レイがアップしていた飼い猫だった。――きっと、デザイン顧問の件ね……申請を承認すると、間を置かずに可愛らしい挨拶のスタンプが送られてきた。【レイさんですか?】【さすが紬さん、よくわかりましたね】続けて、お腹を見せて転がる子猫の画像が送ら
最近、浩之が唯を連れて出かける姿を見かけないと思っていた。唯の両親は海外にいるはずだ。そうなると、彼女が身を寄せる先は、自然と理玖のもとしかないのだろう。唯は頬袋をぱんぱんに膨らませ、もごもごと口を動かしながら言った。「そーだよ!おじさん、ここ数日、私を会社に連れてって強制出勤させてるんだもん。超つまんない!あ、でも今日ね、女の社員の人が泣きながら『営業部にだけは送らないで』って、おじさんにすがってたよ。おじさん、一瞥もくれずに『病気なら精神病院へ行け』って言ってた。超ウケるよね!」紬は内心で舌を巻いた。――身代わりさんの線の引き方は、相変わらず徹底しているわね。会社で
芽依は望美の胸に顔を埋め、しゃくり上げながら泣き続けた。望美の言葉の一つ一つが、彼女の心に深く刺さる。――やっぱり、望美さんだけが私のことを分かってくれるんだ。先生の言った毒母の話なんて嘘よ。パパまでママと同じくらい嫌いになっちゃいそう……ううっ……成哉は、娘の悲痛な様子を目にして、それ以上厳しく追及する気になれなかった。「……君は、あの子を甘やかしすぎだ」望美は唇を噛み、小さく笑みを漏らした。「ええ、私のせいね。でも成哉、芽依ちゃんの今の状態は心配だわ。しばらく私の家に連れて行ってもいいかしら?ちょうど今の撮影も終盤で、前ほど忙しくなくなるの。私がそばにいれば、あ
紬は、成哉と望美が重ねている手を、静かに見つめていた。双子を産んだばかりの頃、産後ケアセンターで静養していた日のことが脳裏に蘇る。あるセレブ風の女が突然現れ、何の証拠もないまま「この部屋は私が先に予約していた」と言い張った。十二月の極寒の中、紬は赤ん坊を抱いたまま、スタッフに部屋から追い出された。その女は権力を盾に、紬を廊下に閉じ込め、立ち去ることすら許さなかった。成哉がようやく現れたのは、五時間も経ってからだ。その時、彼は二人の我が子を淡々と一瞥しただけで、紬にこう告げた。「騒ぎを起こすな」結局、別の高級センターに移された、それだけだった。彼女はずっと、成