Masuk二十二歳の春、朝倉朱音は恋人・晴紀との初めての誕生日デートをすっぽかされ、丁寧に包んだプレゼントはゴミ箱に捨てられた。さらに、令嬢に押し倒され、深くキスされている晴紀の姿まで見てしまう。 泣き崩れた朱音を救ったのは、中性的な美貌のイメージディレクター・天野黛(D)。Dに導かれ、朱音は七年後、美しく成熟したマーケティング部長となる。そして仕事相手として再会した晴紀は、苦しげに謝罪する。だが朱音は知っていた。彼が背負う家の事情を──そして自分が奪われたものの大きさを。七年越しの復讐がいま静かに始まる。けれどその計画は、憎しみだけでは終わらず、次第に別の感情へと形を変えていく──。
Lihat lebih banyak「それ、うちでは普通やけど」 いずみは、ほんの首を傾けてそう言っただけだった。 通っていたのは、京都でも名の通った私立中学だった。 親の顔で入る子もいれば、 奨学金で必死に席を守っている子もいる。 同じ制服。 でも、世界は同じじゃない。 いずみは、それを知らなかった。 知らないまま、口にしてしまう側だった。「毎朝、迎え来はるし。 制服も、汚れたらすぐ替えが出てくるし」 教室の空気が、一瞬止まる。 言った本人は気づいていない。 自慢している意識がないからだ。「……へえ」 クラスの中心にいた女子が、笑った。 彼女は、特待に近い形で入ってきた子だった。 でも、その笑みは目まで届いていなかった。「神園さんってさ、 やっぱ世界ちゃうよね」 笑い声が起きる。 軽い。冗談みたいに。 いずみは、少しだけ困った顔をした。「え……? そんな大したことやないけど」 それが、決定打だった。(否定しながら、上にいる顔) そう受け取られたことに、いずみは気づかない。*** 変わったのは、その日からだ。 声をかけられることが減り、 輪の中から、自然と外される。 体育のあと、ロッカーを開けると、 体操服が床に落ちていて、少し濡れていた。「……あ、ごめん。踏んだかも」 謝りながら、誰も拾わない。「でも神園さんやし、 また新しいのあるんやろ?」 悪意は、笑顔に包まれていた。(……なんで?) 思い当たるのは、昨日の一言だけ。 でも―― 正論と金持ちは、いじめの最短ルートだった。*** 家に帰って、そのまま話した。 父は新聞から目を上げず、 兄は、紅茶を飲みながら言った。「どうしてほしい」 事務的な声だった。 心配でも、怒りでもない。「相手を潰してほしいのか」 いずみは、言葉に詰まる。「……そんなこと、思ってへん」 父が、静かに紙面をめくる音がした。「なら、いちいち言ってくるな」 兄は視線も向けずに続ける。「お前が浮いているだけや。 神園家の人間なら、それくらい分かるやろ」 正論だった。 どこにも、間違いはない。(……何かしてほしいわけじゃない) 胸の奥で、声にならない言葉が揺れた。(ただ、聞いてほしかった) それだけだった。 でも、そのそれだけが、 この家では一番、不要なも
「清晴堂の《希望の赤》、拝見しました。美しい……だけでは説明が足りませんね。 感情がある菓子と言うべきかしら」 モニターに映るのは、パリの朝の光を背にした三人の役員。 中央の女性──《メゾン・ド・ヴァロワ》投資部門の新規事業部長ミレイユ=ルノワールは、冷静そのものの眼差しだった。 フランス訛りの英語が静かに落ちる。 晴紀の肩が、わずかに強張った。「……ありがとうございます。まだ改良の余地はありますが、 必ず世界で売れる形に仕上げます」 言った瞬間、ミレイユの視線が動いた。 鋭い。だが、興味を隠しきれていない。「清水社長。あなたの会社の財務状態は厳しい。 一ヶ月後にはキャッシュが枯れると聞いています」 沈黙。 喉を鳴らしたのは晴紀ではなく、悠斗だった。「――事実です。 ですが、我々は撤退ではなく前進を選びます。 ヴァロワさんと共同ブランドをつくれるなら、再建計画は一気に軌道に乗る」 ミレイユは指先でレンズを押し上げ、軽く頷くと、ゆっくり私に視線を移す。「朝倉さん。 あなたの物語設計が、今回のバズを生んだと聞きました。 あなたの視点は、我々の市場で通用しますか?」 息が止まった。 だが、逃げるわけにはいかない。「……通用させます。 日本の職人技と、そこにある再起の物語は、世界共通の価値だと思っています。 その橋を渡すのが、私の仕事です」 数秒の静寂。 ミレイユの唇が、わずかに上がった。「いいでしょう。 ただし、ひとつ条件があります。 来週、パリで開催される《Salon de la Lumière》── 菓子の国際展示会で、あなたたちの《希望の赤》を生で見せてください」「……生で?」「ええ。 私たちは、数字より手を見る。 清晴堂の魂を、この目で確かめたい」 接続が切れた後もしばらく、空気は張りつめたままだった。 晴紀は深く息を吐き、震える拳をそっと机の上に置いた。「……行くしかない。 朱音、悠斗──パリで勝負だ」*** 部屋の照明は落とされ、間接灯だけが柔らかく滲んでいた。 扉を閉めると同時に、Dがこちらを向いた。「……決まったのね。パリ」 短いその一言で、すべてを把握しているのがわかった。 テーブルの上には、紙袋と資料がきちんと並べられていた。 帰る前に準備していたのだろう。几
若手職人が、失敗した夜も、沈んだ赤の断面も、再挑戦も、 成功の瞬間まで——時系列で淡々と投稿していた。 ただの記録のはずだった。 だけどそれは、様子の違う広がり方をしていた。 「……え、何これ、再生回数、昨日の十倍……?」 若手のスマホ画面に、数字がみるみる跳ね上がる。 手元しか映っていない。 顔も、設備も、レシピも写していない。 それなのに──。 「戦ってる手だ、これ」 「こんな和菓子見たことない」 「紅葉が揺れるってどういう制作工程?」 「清晴堂って倒産危機のとこだよね?応援したい」 「お茶のお菓子は清晴堂でした。こんな挑戦してるなんて、もう一度食べたい」 (火が付いた。……仕掛けてもいないたった一枚で) いや、違う。 火薬は、ずっと積み上げていた。 春・夏の導線、職人の挑戦のストーリー、複数媒体での発信。 でも、それだけで炎にはならなかった。 作っていない共感──あの、生の一枚が、火をつけた。 (……これは、来る) 背骨の奥がぞくりと震えた。 数字の動き方だけでわかる。これは、大きく跳ねる波だ。 (やっと……積み上げてきたものが、形になって返ってきた) 息を吸う。ゆっくりと。 (来るなら、掴む) (清晴堂ごと、次の場所まで——行く) *** 数時間後──予想は現実に変わった。 私は京都から東京へ戻る新幹線の中で、 止まらない通知をぼんやりと眺めていた。 そのとき、スマホが震えた。 画面に《鬼塚》の文字。 「……面白くなってきたな」 電話越しの声が、わずかに弾んでいた。 (さすが……こういう芽を一番早く嗅ぎ分ける人だ) 「朝倉さん、君、このバズ…… 日本より海外の反応が強いぞ」 「海外……?」 「英語圏とフランス圏の立ち上がりが妙に早い。 手元で見てみろ。たぶん、コメント欄が変わってる」 言われて、私はスマホを開いた。 数秒遅れて、英語とフランス語のコメントが一気に流れ込んでくる。 “Where can I buy this? This is insane craftsmanship.” (どこで買えるの? この技術、やばい) “Où puis-je acheter ça ? La lumière dans ce suc
夜明け前の工房。 機械は止まり、冷えきった静けさが満ちていた。 後藤親方は沈んだ琥珀糖を手に乗せたまま、 佐古の作業台をじっと見ていた。「……佐古。ちょっとええか」 呼ばれた声は低かったが、刺さった。 佐古は胸の奥に嫌な感覚が広がるのを感じた。「今日の試作……工程、完璧やったな?」「……はい」「温度、糖度、撹拌、時間。 全部ログと一致しとる。 そら沈むはずない」 親方は琥珀糖を光に透かし、 沈んだ層の表面を親指でかすかに触れた。「せやのに沈んだ理由……」 一拍置かれる。「佐古、お前……今日ずっと、手ぇ震えとったな」 佐古は息を呑んだ。 言葉が続く。 刺すんじゃなく、積み重ねるように。「配管の温度、上がりが遅かった場所…… あれ、佐古の担当やったやろ」 佐古の喉がきゅっと鳴った。「聞かせてくれや。 わしの知らん何かがあるんか?」 怒鳴り声ではなかった。 ただ、まっすぐだった。 耐えられなかった。 佐古は唇を噛みしめ、目を伏せた。「……わしや」 声はかすれていた。「……温度を、わざと遅らせたんや」 一瞬、空気が止まる。 後藤の目が鋭くなり、声が低く深く響いた。「なんでそんなことしたんや」「それは……」 佐古の喉の奥で言葉が砕けた。「……朱音はんが清晴堂を壊す、 そう聞かされたんや」 息がふるえた。「守らなあかん思て……信じてしもうた」「誰に」「それは、言ったらあかんと……」 その先は震えに溶けた。 親方の目が細められた。 張りつめた工房の空気が、 ぐらりと揺れるほどの怒りが見えた。 しかし次の瞬間、 その怒気は深く沈んでいった。 後藤は長く息を吐き、 沈んだ琥珀糖をそっと置いた。「佐古」 呼び方が柔らかくなる。「ほんまに朱音はんが清晴堂を壊す人や思たんか?」 佐古は唇を震わせた。「最初は……いずみさんを追い出して、清晴堂の資金まで奪う人や思た。 せやけど……あんなに一生懸命、工房のために走って……」 佐古は拳を握った。 爪が掌に食い込む。「ほななんで止めへんかった」「……怖かってん。 変わることが、壊すことに見えて…… 朱音はんの挑戦が正しいんか、わからんくて……」 後藤は目を閉じた。 一瞬だけ深い怒りが揺れ、すぐに沈んだ。「間違いは許す