LOGIN二十二歳の春、朝倉朱音は恋人・晴紀との初めての誕生日デートをすっぽかされ、丁寧に包んだプレゼントはゴミ箱に捨てられた。さらに、令嬢に押し倒され、深くキスされている晴紀の姿まで見てしまう。 泣き崩れた朱音を救ったのは、中性的な美貌のイメージディレクター・天野黛(D)。Dに導かれ、朱音は七年後、美しく成熟したマーケティング部長となる。そして仕事相手として再会した晴紀は、苦しげに謝罪する。だが朱音は知っていた。彼が背負う家の事情を──そして自分が奪われたものの大きさを。七年越しの復讐がいま静かに始まる。けれどその計画は、憎しみだけでは終わらず、次第に別の感情へと形を変えていく──。
View More「──朱音、目、開けて」
鏡の中にいたのは──見知らぬ「綺麗な女」だった。
肌は淡く光り、瞳は深く、睫毛がきれいに影を落とす。
髪は滑るように揺れ、Dが選んだ深紅のワンピースは、光を吸ってわずかに艶が立ち上がる気品のある赤で、身体の線を静かに拾っていた。メイクも服も、どこも破綻がなくて、息をのむほど完成されていた。
(……誰……? 本当に、私?)
普段の私はノーメイクで、髪も後ろで適当にまとめるだけ。でも、三週間だけは違った。早起きしてスキンケアを変えて、間食をやめ、脚が震えるほどスクワットして……この日のために、別人のように変わった。
「努力の成果がきちんと出てるわよ」
背中越しにDの指先が髪を整える。ふわりと、いつものあの香り──Dの手にかからなければ絶対に出ない仕上がりの匂い。「朱音。これで落ちない男は、ゲイよ」
「……Dのことじゃん」
「私はゲイじゃなくてバイ」
言うと、Dはゆっくりと目を細めた。
長い指で前髪を払う仕草ひとつさえ洗練されていて、成熟した大人の余裕と、中性的な美貌の危うさが同居する横顔が、かすかに笑った。その笑みを追うように視線を落としたとき──鏡の中の自分と目が合った。
そこにいた私は、信じられないほど幸せそうに微笑んでいた。
(……喜んでくれるかな)
***
今日は、晴紀の誕生日。
そして——私たちが付き合って一年になる、大事な日。待ち合わせは、晴紀が予約したホテル・クラウンセレスティアのフレンチダイニング〈ラ・ルミエール・サンクチュアリ〉だった。
五万円の特別コース。
(でも……晴紀は、大丈夫って笑ってくれた)
(大事な日だからって)思い返すほどに、その言葉が胸の奥をそっと温めていく。
(……好きって言われて、手をつないで、キスまでして)
(──これって、次に進むってこと、なんだよね?) 期待と緊張がゆっくり混ざり合う。
晴紀と初めて会ったのは、被災地のボランティアだった。泊まり込みで炊き出しや片付けをする、けっこうハードなやつだ。
なのに彼は、自分の荷物もロクに用意しないまま現れて、配られたおにぎりを見て、開口一番こう言った。
「夕食、これだけなんだ?」
その瞬間、カチンときた。
「ここホテルじゃないんだけど。もてなされる側で来たわけ?」
思わず噛みついたら、彼はぽかんとしたあと、少しだけ笑った。
なぜかうれしそうだった。 それから、彼は気まずそうに頭をかき、周囲を気遣ってテキパキと動き出した。 初対面の人にすぐ手を貸せる優しさと、どこか放っておけない不器用さ。 そのアンバランスが、妙に目を引いた。それからなぜか、会えば口喧嘩ばかりして、なのに、彼はいつも私の班に紛れ込んでくる。
ある日、作業が終わった夕暮れ、彼は何でもない声で言った。「……朱音のそういうとこ、好きだよ」
驚いた瞬間、胸の奥がじわっと熱くなって手足の先までぽうっと温度が広がった。
頭の芯がふわふわした。そこから先は、よく覚えていない。気づいたら一緒にご飯を食べるようになって、気づいたら手をつないでいて、気づいたら、付き合っていた。
彼の誕生日に選んだのは、掌に収まる小さな革のメモ帳だった。明るい水色で、触れるとゆっくり沈んで戻る。彼の好きな色。
晴紀は昔から「メモ魔」だ。京都の老舗の和菓子屋の跡取りだという彼は、和菓子の形や味のアイデアを思いつくたび、くしゃくしゃの大学ノートに急いで書く。角が折れて、紙は波打って、それでも律儀に全部取っておく。
(こんなに大事なことを、こんな紙に……)
ずっと気になっていた。
中にそっと紙を挟む。
「どうか──自分の晴れを、誰かのために使える人でありますように」
言葉はそれだけ。
言わなくても、伝わると信じた。***
タクシーを降りた瞬間、ホテルのガラス壁に映った「美女」に息が止まった。
光を滑らせる髪、肌の艶、揺れるワンピースの線。 通りすがりのスーツの人が、ちらっと振り返る。(……今日の私は、ちゃんと綺麗だ)
胸の奥がじん、と熱くなる。
ホテル・クラウンセレスティアの自動扉が開いた瞬間、空気が低い温度で肌に触れる。
ロビーの女性たちの視線が、一瞬「有名人?」とでも言うように止まった。(晴紀、驚くかな)
レストラン受付で「清水晴紀・二名」と告げる。
スタッフが一瞬だけ眉を動かした。「……少々お待ちください。ええと──本日のご予約は……」
タブレットを確認して、ほんの一拍の沈黙。「席を、おつくりいたしますね」
「おつくりします」の言い方に、なにか小さな違和感が刺さった。
でも、深く考えず頷いた。(忙しいのかな。満席なのかも)
案内された席に腰を下ろしながら、思わずスマホを開く。
《着いたよ。もうすぐ?》
送信。未読。
(大丈夫、少し遅れてるだけ)
周囲では、ワインの香りと、カトラリーが触れ合う軽い音が溶けていく。
その音が、なんだかテーブルの上のひとりを強く照らし出す。五分後──《まだ?》
送信。未読。
(迷ってるのかな。ロビーで待ってる、とか)
そう思って背筋を伸ばすけれど、
さらに視線に気づいてしまう。最初にロビーでもらった「綺麗な人」という視線が、今は「ひとり?」と温度を変えていた。その瞬間から、時間だけが止まってしまったみたいに遅くなり、座っている場所のすべてが急に居心地悪く感じられた。
給仕がそっと近づく。
「お連れさまがお揃いになるまで、お飲み物だけでもご用意できます」「だ、大丈夫です」
自分の声の震えがわかる。
(二十分……まあ、あるよね)
二十五分。
三十分。スマホの画面は、ただ暗く光っているだけ。
(晴紀……どうしたの……?)
四十分。
五十分。テーブルクロスの赤が、だんだん重く感じる。
指先がひやりと冷たくなっていく。(何かトラブルがあったの? 大丈夫かな)
一時間。
ワクワクしていた胸の奥が、少しずつ、置き場所のない熱で満たされていく。ここにいること自体が、
だんだん苦しくなる。二時間の後、立ち上がりかけた瞬間──
「朱音?」
振り向くと、晴紀が立っていた。
普通の顔。
遅れた理由を言う気配もない。「……よかった。ずっと未読だったから……」
言いかけると、
「何やってんの、こんなところで」
(……え?)
声の温度が冷たい。
優しさも、謝罪もない。「え、だって……予約、晴紀が……」
「キャンセルしたよ。言ったと思ったけど」
「……言われてないよ。どうして……?」
問い返す私の声は、自分でも驚くほど小さかった。
なのに晴紀は、私の不安なんて見えていないみたいに、軽く笑って肩をすくめた。「覚えてないだけじゃない? 最近忙しいみたいだし」
(……え? 私が悪いの……?)
何かが、かすかに噛み合わない。
今までも、こんな温度差……あったっけ?「で? その袋、何?」
話題を、まるで最初から興味なんてなかったみたいに切り替える彼の声。
胸の奥に、生温い不安がじわりと広がる。(……なんで? 私、何か間違えた?)
震える手でプレゼントを差し出す。
包装紙もリボンも、時間をかけて選んで──自分で丁寧に包んだものだ。 「……誕生日、だから……」「へー」
晴紀は包装紙をその場で乱暴に引きちぎった。
ビリッ。「メモ帳? 子どもかよ。こういうの、重いんだよ。わかんない?」
そして──
ゴミ箱へ向けて。
ためらいも、振り返りもなく。ゴトン。
革表紙の鈍い音が底に落ちた。
(……こんなの、嘘だ)
私の指先には、破れた包装紙の端だけが残っていた。
泣いてなんかいない。けれど、胸の奥がじわりと熱くゆらぎ、まぶたの裏だけが、ひどく痛む。***
──この後の「わずかな違和感」に気づく余裕なんて、いまの朱音にはなかった。
ゴミ箱の影で、一度だけ立ち止まった晴紀の横顔にも。晴紀がボランティアに出発した日も、帰ってきた日も、いずみは何も言わなかった。 止めなかった。 ついて行こうともしなかった。 引き止める理由が、見つからなかったからだ。 代わりに立っていた言葉は、「どうせ、すぐ戻るやろ」という、根拠のない安心だった。 ただ—— 帰ってきた晴紀は、どこか違っていた。 疲れているはずなのに、目だけが妙に冴えている。 体は重そうなのに、声には前よりも張りがあった。 話す内容が、いずみの知らない名前ばかりになる。「朱音がな」「朱音、ほんまよう怒るわ」「でも、ああいうの、嫌いやない」 まるで、日常の続きを語るみたいに。 特別じゃない出来事として、その名前を挟み込む。 名前が出るたび、胸の奥が、少しずつ重くなる。(……なんで、そんな話し方するんやろ) 高校の頃も、大学に入ってからも。 晴紀は、いずみの前で、誰かの名前をこんなふうに繰り返したことはなかった。*** それでも、隣に来なくなったわけじゃない。 帰り道も、食堂も、座る位置も、変わらず一緒だった。 話しかければ返ってくる。避けられてもいない。 だから、まだだと思った。 流れは、続いている。私は、外されていない。 そう思わないと、足元が崩れそうだった。*** でも—— ある日、ぽつりと聞いた。「今度の休みも、行くん?」「うん。朱音も来る言うてた」 その名前を、あまりにも自然に言うから。 心臓が、一拍遅れた。(……あ) 気づいてしまった。 晴紀は、もう「戻る場所」として、ここに来ていない。 疲れたから戻るんじゃない。安心するためでもない。 何かを得に行っている。 いずみのいない場所で。 それでも、いずみは、それを恋だと思った。 だって、彼がいるときだけ、息ができたから。 胸が詰まらず、肩に力が入らず、自分が自分でいられた。 それが、いつからか——自分だけの特権じゃなくなっていたとしても。*** 大学四年の冬だった。 晴紀のお父さんが倒れて、ほどなく亡くなった。 葬儀は、静かだった。老舗らしく、淡々としていて、感情を外に出す人はいなかった。 晴紀も、泣かなかった。気丈に振る舞っていた。 でも、その背中だけが、急に大きくなったように見えた。 帰り際、ぽつりと笑って言った。「……店、ちょっと危ない
それからは、探すようになった。 朝、少し早く家を出る。 校門の前を見渡して、晴紀の姿を探す。 いなければ歩調を落とし、見つけたら同じ方向へ歩く。「……おはよう」「おう」 それだけ。 話さなくても、追い払われなければ十分だった。 放課後。 いずみは教室に残ったまま、鞄を閉じずに席に座っていた。 ――帰りの迎えは、断った。 ほんの一言で済むことなのに、電話を切るまで、指が少し震えた。 晴紀が立ち上がる。 いずみも、少し遅れて立つ。 何も言わずに、隣に並ぶ。 そのとき、晴紀は一度だけ、何か言いたそうな顔をした。 眉がわずかに動いて、口を開きかけて――やめる。「……帰るん?」 探るような声。「うん」 それだけ答える。 理由は聞かれない。 説明もしない。 並んだまま、廊下を歩いた。*** それが、毎日続いた。 教室で待って、立つタイミングを合わせて、当然のように隣に来る。 最初の頃は、晴紀は少しだけ距離を取って歩いた。 でも、何も言わない。 止めもしない。 しばらくして、 晴紀はもう、何も言わなくなった。 隣に来ても、振り向かない。 いるのが前提みたいに、そのまま歩く。 さらにしばらくしてから、ぽつりと声が落ちた。「今日、部活休みなん?」「うん」「そっか」 それだけ。 会話は短くて、意味もない。 でも、無言ではなくなった。 それからは、帰り道で、当たり前みたいにそんなやり取りが増えた。「小テスト、だるかったな」「ほんま」「英語、意味わからん」「わかる」 特別な話はしない。 でも、話す。 並ぶことも、話すことも、どちらも説明されないまま、日常になっていった。 その日、帰り道の途中で、急に雨が降った。 ぽつり、と大粒の雨が肩に落ちる。「……あ」 足を止めた瞬間、隣で布の擦れる音がした。 黒い傘が、静かに開く。「……入る?」 それだけ言って、晴紀は前を向いたまま、傘をほんの少しだけ傾けた。 ほんの数センチ。 でも、それで肩が濡れなくなる。「……ありがと」「ん」 それだけで終わった。 肩と肩が、ときどき触れる。 歩くたびに、布越しに体温が伝わってくる。 息を吸うと、ちゃんと、胸に空気が入った。(……ああ) そのとき、はっきり思った。 私は、この人の隣
「それ、うちでは普通やけど」 いずみは、ほんの首を傾けてそう言っただけだった。 通っていたのは、京都でも名の通った私立中学だった。 親の顔で入る子もいれば、 奨学金で必死に席を守っている子もいる。 同じ制服。 でも、世界は同じじゃない。 いずみは、それを知らなかった。 知らないまま、口にしてしまう側だった。「毎朝、迎え来はるし。 制服も、汚れたらすぐ替えが出てくるし」 教室の空気が、一瞬止まる。 言った本人は気づいていない。 自慢している意識がないからだ。「……へえ」 クラスの中心にいた女子が、笑った。 彼女は、特待に近い形で入ってきた子だった。 でも、その笑みは目まで届いていなかった。「神園さんってさ、 やっぱ世界ちゃうよね」 笑い声が起きる。 軽い。冗談みたいに。 いずみは、少しだけ困った顔をした。「え……? そんな大したことやないけど」 それが、決定打だった。(否定しながら、上にいる顔) そう受け取られたことに、いずみは気づかない。*** 変わったのは、その日からだ。 声をかけられることが減り、 輪の中から、自然と外される。 体育のあと、ロッカーを開けると、 体操服が床に落ちていて、少し濡れていた。「……あ、ごめん。踏んだかも」 謝りながら、誰も拾わない。「でも神園さんやし、 また新しいのあるんやろ?」 悪意は、笑顔に包まれていた。(……なんで?) 思い当たるのは、昨日の一言だけ。 でも―― 正論と金持ちは、いじめの最短ルートだった。*** 家に帰って、そのまま話した。 父は新聞から目を上げず、 兄は、紅茶を飲みながら言った。「どうしてほしい」 事務的な声だった。 心配でも、怒りでもない。「相手を潰してほしいのか」 いずみは、言葉に詰まる。「……そんなこと、思ってへん」 父が、静かに紙面をめくる音がした。「なら、いちいち言ってくるな」 兄は視線も向けずに続ける。「お前が浮いているだけや。 神園家の人間なら、それくらい分かるやろ」 正論だった。 どこにも、間違いはない。(……何かしてほしいわけじゃない) 胸の奥で、声にならない言葉が揺れた。(ただ、聞いてほしかった) それだけだった。 でも、そのそれだけが、 この家では一番、不要なも
「清晴堂の《希望の赤》、拝見しました。美しい……だけでは説明が足りませんね。 感情がある菓子と言うべきかしら」 モニターに映るのは、パリの朝の光を背にした三人の役員。 中央の女性──《メゾン・ド・ヴァロワ》投資部門の新規事業部長ミレイユ=ルノワールは、冷静そのものの眼差しだった。 フランス訛りの英語が静かに落ちる。 晴紀の肩が、わずかに強張った。「……ありがとうございます。まだ改良の余地はありますが、 必ず世界で売れる形に仕上げます」 言った瞬間、ミレイユの視線が動いた。 鋭い。だが、興味を隠しきれていない。「清水社長。あなたの会社の財務状態は厳しい。 一ヶ月後にはキャッシュが枯れると聞いています」 沈黙。 喉を鳴らしたのは晴紀ではなく、悠斗だった。「――事実です。 ですが、我々は撤退ではなく前進を選びます。 ヴァロワさんと共同ブランドをつくれるなら、再建計画は一気に軌道に乗る」 ミレイユは指先でレンズを押し上げ、軽く頷くと、ゆっくり私に視線を移す。「朝倉さん。 あなたの物語設計が、今回のバズを生んだと聞きました。 あなたの視点は、我々の市場で通用しますか?」 息が止まった。 だが、逃げるわけにはいかない。「……通用させます。 日本の職人技と、そこにある再起の物語は、世界共通の価値だと思っています。 その橋を渡すのが、私の仕事です」 数秒の静寂。 ミレイユの唇が、わずかに上がった。「いいでしょう。 ただし、ひとつ条件があります。 来週、パリで開催される《Salon de la Lumière》── 菓子の国際展示会で、あなたたちの《希望の赤》を生で見せてください」「……生で?」「ええ。 私たちは、数字より手を見る。 清晴堂の魂を、この目で確かめたい」 接続が切れた後もしばらく、空気は張りつめたままだった。 晴紀は深く息を吐き、震える拳をそっと机の上に置いた。「……行くしかない。 朱音、悠斗──パリで勝負だ」*** 部屋の照明は落とされ、間接灯だけが柔らかく滲んでいた。 扉を閉めると同時に、Dがこちらを向いた。「……決まったのね。パリ」 短いその一言で、すべてを把握しているのがわかった。 テーブルの上には、紙袋と資料がきちんと並べられていた。 帰る前に準備していたのだろう。几