Chapter: 第56話 白無垢の女の過去 むっとするような湿気が鼻腔を塞いだ。次いで木々の匂いが押し寄せ、風が髪を巻き上げていく。目の前では白い着物を着た髪の長い女が複数の男に羽交い締めにされていた。(えっ?) 何が起こったのか、思考が全く追い付かない。病室にいたはずなのに、周りの景色は全然違うものに変わっていた。場所どころか時間もわからなかった。 また、悲鳴が上がる。女が出した悲鳴であることは間違いなかった。「おい! 早く黙らせろや!」「わかってるって、どこに……あったった、これこれ」 女を囲む一人の男が汚い袋から取り出したのは白い布のようなものだった。それを助けを求め続ける女の口へ噛ませると髪の後ろで縛り、声を上げなくさせる。「ほら! 急いで戻るぞ! 暴れんな、オラ!」 頭に笠を被った男が容赦なく女の腹を殴った。鈍い音がして女は地面へと倒れた。さらに他の男たちが頭や肩、横腹に蹴りを入れる。その度に苦痛の声が女の口から漏れるが、暴行は止むことなく女が動かなくなるまで続いた。 笠の男が女の髪に唾を吐きかける。「ったく、素直についてくれば痛い思いをしなくてすんだのに」「そうそう。どうせこの後、散々痛い思いをするんだから抵抗するだけ無駄だって」「慣れたら、そのうち自分から求めるようになったりしてな!」「馬鹿なこと言ってねぇで。ほら、今度こそ行くぞ!」 振り返った男の目が美月と合う。飢えた野獣のような目だったが、男は美月に気が付くことなく女を抱えてどこかへ去っていった。 美月は一連の事態を見過ごすことしかできず、突っ立ていた。しかし、体は縮まり込み寒くもない
Last Updated: 2026-03-20
Chapter: 第55話 兄、弓弦の容態 膝に頭を乗せた乃愛が栗色の大きな瞳で真っ直ぐに美月の瞳を見ていた。柔らかな手が美月の頬に伸び、まるで泣いている子どもをあやすように撫でる。「大丈夫。みーちゃんだったら大丈夫。だけど、一人ぼっちになったらダメだよ」「……乃愛」 名前を呼ぶと、乃愛は微笑んだ。美月は「うん」と声を出して頷くと、乃愛の手を取り、強く握り締めた。「すみません、古塚弓弦さんのご家族ですか?」 ショートヘアの看護師が申し訳なさそうに割り込み、笑顔で声を掛けてきた。「はい、そうです」「よかった。あの、ご本人の意識はまだ戻っていないのですが、弓弦さんの容態が安定したので、病室へ来てください」「わかりました」「2人きりの方がいいと思うから、僕は如月さんとここで待ってるよ。戻ってきたら、この後のことを考えよう」 二俣に頭を下げると、美月は早足で看護師の後についていく。 * 病棟の窓から夕陽が射し込んでいた。美月は忙しく動き回る看護師や談笑を交わす入院患者を避けながら弓弦の病室へと向かった。 隣を歩く看護師が場を和ませようといろんな質問を投げかけてくるが、どれも頭には入ってこず曖昧な返事に終始する。 鼓動が早くなり、手が汗にまみれて緊張しているのを感じる。意識がないとはいえ、今のこの状態で兄に会えば自分はどう思うのか、それが気がかりだった。「こちらです」 病室のドアプレートには、「古塚弓弦」と兄の名前が書かれた紙が挟まれていた。何度も見てきた名前のはずなのに、初めて見るような気がした。
Last Updated: 2026-03-20
Chapter: 第54話 味のしないサンドイッチ 「白無垢の女は実在する!?」「恋唄試してみる。」「呪いの証言」──まだ半日しか経っていないというのにSNSは白無垢関連の話題で沸騰していた。 今まではまだ個人的な呟きで済んでいたものが、動画コンテンツを生業としているインフルエンサーの中にも浸透してきている。無邪気な好奇心と無責任な興味とが混ざり合い白無垢の女の呪いを拡散させていた。 近くの病院へ運ばれて応急処置を受けた後、美月は病院の待合室でずっとスマホを見ていた。膝の上では乃愛が横になり、すやすやと寝息を立てて眠っていた。 兄の弓弦を助け出した後のことは慌ただし過ぎてよく覚えていなかった。 救急隊員や消防隊員、警察官には二俣が教師として応対してくれたようで、美月は弓弦とともに救急車に乗り込み、酸素マスクをつけられ処置される様子をぼんやりと眺めていた。 入口の自動ドアが開き、ばたばた走る足音が聞こえて美月はスマホの画面を閉じた。「いや〜お待たせ、お待たせ!」 片手に袋をぶら下げた二俣が美月の隣へと腰掛ける。椅子が大きく揺れて乃愛が目を覚ました。「事情聴取がやっと終わったんだ。とりあえず、お腹空いただろうと思っていろいろと買ってきた。古塚さんは何がいい? 好きなの取っていいよ」「……すみません」 美月は袋の中から卵サンドを取ると、丁寧に包装を開けて小さな口で一口食べた。(……味があまりしない) 当然か、と自分でも思う。食欲もわかないし味わって食べている場合でもない。兄の命は救えたが、母親は行方がわからなくなり、なにより問題は何も終わっていない。 二俣が乃愛にもサンドイッチを渡そうとしていたが、乃愛は何も言わずに横を向くとまた目を閉じた。
Last Updated: 2026-03-19
Chapter: 第53話 祠の中には 廊下を進んだ真っ直ぐ奥に階段があった。仕切られた壁や天井、部屋の周囲は激しく燃え上がっているが、下に続く階段の辺りは無事だった。 美月は速度を落とすことなく階段まで辿り着くと、覚悟を決めて暗闇の中へ降りていった。足音が硬質に変わる。硬い石を歩いているような感触だった。 下まで一気に降りたところでスマホのライトで周りを照らす。 急に呼吸が苦しくなり、咳き込んでしまった。見えるのは煙ばかりだが、灯りが照らす先に人一人が移動できそうな細い通路があるのが見えた。 美月は腰を屈めてなるべく低い体勢でその先へと移動する。下の方にはまだ煙が溜まっていないのか呼吸が少しは楽になった。やがて突き当たりが見えてくると、ライトの光が右側にある木製の格子を露《あらわ》にした。 手で煙を払いながら格子の方へと進む。格子の入口となる戸はなぜか開いていた。煙の中で青白い光を照らし出すスマホを左右に翳せば、うつ伏せに倒れている人影が見えた。「兄さん!」 人影へ近付き肩を揺すった。ライトで横顔を照らすと煤や汚れがべったりと顔についてはいるが間違いなく兄──弓弦の顔だった。 美月は口元に手を当てた。微かではあるもののまだ呼吸があった。(まだ助かる! でも……) ここまで来て自分の浅はかさを後悔していた。感情のままに飛び込んでいったが、一人では自分よりも大きい兄の体を運ぶことはできない。 美月は兄の側で座り込むと、何かないかとスマホのライトで祖父が祠と呼んだ格子の中を探った。 床は石を並べた上に薄い木の板が敷かれているだけだった。天井も木の板がはめ込まれていて、石造の部屋の中にもう一つ木製の部屋が作られているような異様な造りをしていた。そして壁は──
Last Updated: 2026-03-19
Chapter: 第52話 一つの可能性 美月は立ち上がっていた。祖父の話の中から一つの可能性を見出して。「おじいちゃん、今言ってたよね。地下にある祠もきっとダメだろうって」 鮮やかに記憶が蘇る。あの日、母に連れられてこの屋敷へ来たあの日。 美月は兄とともに屋敷の中を探索していた。臆病だった美月は兄の背中で服を引っ張ったまま後ろについていくだけだったが、地下へ続く階段を見た記憶がある。 祖父がやってきてその先を行くのは止められたが、階段のその先は入ればきっと一歩先も見えないくらいに真っ暗だった。「確かにそう言った。祠はもうダメだ」「でも、見たわけじゃない。あれが祠だって知らなかったけど、階段ははるか下まで続いていた。もしかしたらまだ火が回っていないかもしれない」「……この火で助かるわけがなかろう。それにもし生きているというのなら、なぜ家から出てこない」(そんなのわからない。だけど、まだ絶対にそうだと言い切れるわけじゃない)「私、行くよ。兄さんを助けに行く」 決意を固め、中へ入ろうとする美月の腕を二俣が止めた。「ダメだ! 古塚さん! 今、消防は呼んだからここに来るまで中へ入っては──」「先生。この呪いは大切な人を想う心から生まれた。先生にとって大切なものは何? 私にはわからない。私は今まで誰も好きになったことがないから」 美月は真っ直ぐに二俣の目を見つめた。腕を掴んでいた手が緩む。「でも、私は今、兄さんを助けに行かないときっと後悔する。咎人とかどうとか頭が混乱してわからないけど、今は兄さんを助ける。それだけ」 手を振りほどくと祖父の横を通り美月は音を立て
Last Updated: 2026-03-18
Chapter: 第51話 失敗した儀式(18の男子……?) 美月は顔を上げた。 燃え上がる屋根が剥がれ一部が落下していく。その前にたたずむ自身の祖父は、当然とばかりに言った。「そう。お前の兄の弓弦は、儀式のために呼んだ」「……儀式って、その儀式って……何?」 ろくな考えが頭に上らない。あの女と添い遂げさせるなんて向かう先は絶望──いや、地獄としか。「婚姻だよ。白無垢の女だ。結婚を望んでいるに決まっている。だから、弓弦にはハレの紋付袴を着せて女が現れる常闇の祠に入ってもらった。魂が暗闇に沈み、女を受け入れるまで」 死後婚──二俣の言っていた儀式を思い出す。それは、つまりそういうことなのではないか。兄を殺すことなのではないか。「なんで……なんで兄さんが?」「だから言っただろう? 我々が咎人だからだ。長きに渡ってこの地に住まう我々の祖先は、子宝に恵まれなかった。村に一人も女がいなかったからの。だから攫ってきたのだ。おいそれと近付くことのできない山を越えた遠くの村から。そして、その女と村の男どもが交わり、子をなした。やがて年を取り、子を産めなくなった女は用済みとなり、住まいにしていた地下牢に閉じ込めて生涯を終えた。その恨み苦しみ、そして年を経てもなお想い続けた願いゆえに白無垢の女となり、呪《のろ》いを残した。女が死んだ後、我々は子を授からなくなった。子種が途絶えたのだ。だから我々は自身を罪を犯した者として咎人と呼び、女が死んだ地下牢を祠として祀り、白無垢の女が現れるのをひたすら止める役割を担ってきたのだ」 言葉が出なかった。代わりに二俣が老人に聞いた。「咎人とは、つまり罪を犯した人間という意味ですね。……じゃあ……白無垢の女は……古塚さんやお兄さんの存在は……?」「ああ。白無垢の女は我
Last Updated: 2026-03-18
Chapter: 第24話 ごきげんよう、罪の重さは自己申告でお願いしますわ! 乱暴に音を立ててカップを置いたお父様。わたくしはそのことを予想しておりました。 罪の味は、耐え切れないほどに苦い。特に頑なに罪を認めようとしない方には、わたくしのコーヒーはただの泥水と一緒。 ですから。 「お父様。こちらの砂糖をお試しください」 わたくしは小瓶の中から黒砂糖を一つつまむと、お父様へ。お父様は一度逡巡しましたが、わたくしの手のひらから黒砂糖をつかむとコールタールのような真っ黒なコーヒーの中へ。 スプーンでかき混ぜると、香りがほんの少し変わります。苦い罪の味がすぐに受け入れられないのであれば、口あたりを変えればいいのです。 お父様は改めてコーヒーを飲みました。目が少し開き、カップを置くと、味を確かめるようにもう一口。 わたくしはその行動に、微かな、でも確かな希望を見ました。お父様は罪を味わおうとしているのです。 カップを置いたお父様は、目を閉じると腕を組みます。 しばし沈黙が続きました。コーヒーの香りと静かな談笑が続く店内で、わたくしたちだけが時が止まったようでした。 口を開いたのは、ハンカチで涙を拭ったお母様。 「あなた、諦めてください。もう、意地を張るのはやめて。リディアの想いがあなたにも伝わったはずです」 強い口調でした。わたくしの記憶がある中で一番強い口調。 いつも付き従うだけだったお母様に意見を言われ、お父様は腕組みを解きます。そして、居心地悪そうにわたくしに視線を向けました。 瞳の中が揺れます。お父様に真正面から見つめられることは、本当に久しぶりのことでした。 「……私は、私のやり方で貴族の責務を果たした。一つの失敗が次の失敗を生み、やがてそれは領地全体の混乱として広がっていく。……だから私は、お前を──赦すことができなかった」 そう言うと、お父様はカップに手を伸ばしコーヒーカップを手にしました。 「私がやったことは間違いとは思わない。──だが、もしかしたら他のやり方があったのかもしれぬ。……リディア、ともかくこのコーヒーは……悪くない」 お父様は顔を背けたまま、コーヒーを飲むと席を立ちました。 「今日は帰ろう。……ところで、クラリス!」 突然、お父様はクラリスの名前を呼びました。そばにいたクラリスは変な声を出すと、驚いたのか両肩を
Last Updated: 2025-10-06
Chapter: 第23話 白無垢のミオリナ・カフェと、贖罪のフォルテ・ルシアン お母様にお出ししたのは、「白無垢のミオリナ・カフェ」。 最も口当たりが柔らかなミオリナ・ブレンドにミルクをたっぷり入れて、花蜜を加えた一杯。ミルクの白さに隠れていますが、しっかりとコクのあるコーヒーが存在している。赦しへの希望と優しさを伝えるコーヒーですわ。「お父様にはこちらを」 お父様には、アルヴィカ・ルシアンの深煎りにさらに炭を混ぜた強い苦味のあるコーヒーを。 さらに今回、わたくしは初めて直接コーヒー豆に火を当てる「直火焙煎」を行いました。いつものアルヴィカよりもさらに苦味とコクが一段階強くなっています。 その名も「贖罪のフォルテ・ルシアン」。「これが、リディアのコーヒー……普通のカフェとは随分と違うのね」 遠慮がちに口を開いたのはお母様でした。お父様の前で見せるトゲトゲしさは今はなく、穏やかな表情。「ええ。当店ではお客様の罪に応じて豆も味も変わります。わたくしがお二人の罪に一番合うコーヒーを淹れました」「……罪に合うコーヒー」「やめろ」 お母様がカップに手をつけようとしたところで、お父様の硬い声が響き、空気が張り詰めました。「コーヒーで罪が測れるわけもない。茶番だ、帰るぞ」 立ち上がろうとしたお父様に、レオナール様がお声を掛けます。「また逃げるのですか? 娘がこうして向き合っているのに──あなたは逃げるのですか。グレイス候」 レオナール様の言葉の中には、見えない怒りが滲んでいます。わたくしのためを思ってくださる熱が感じられます。&nb
Last Updated: 2025-10-03
Chapter: 第22話 特別な一杯を 「断罪カフェ」が断罪から免れ、教会から正式に認められて一月──カフェは前以上のにぎわいを見せていました。 遠方からのお客様も多数訪れるようになり、中にはこっそりお忍びでやってくる貴族の方々も……。「お待たせしました。アルヴィカ・ルシアンの深煎りです」「ありがとう。リディア」 コーヒーを提供したのはまさかのセドリック様。セドリック様はコーヒーカップを受け取ると、まじまじとわたくしの顔を見つめました。「……すまなかったリディア。私はどうかしていたんだ。このカフェで立派に働く君の姿を見て、そして王子が懇意にしていることも知って、私は──」 セドリック様の噂は、聞いています。わたくしを追放したきっかけをつくったエリス様も、今となってはカフェの常連客のお一人。 口を開けば、セドリック様も含めた愚痴ばかり言っていますから。 あの一件以降セドリック様の性格の悪さが露呈し、周囲からは避けられ婚約も進まないこと、もちろんエリス様も愛想を尽かして婚約を破棄したこと、悪い噂ばかり聞いています。 私は内心「ざまぁ」の気分を楽しんでいるのですが、こう何度も通われるのはさすがに迷惑ですわ。 しおらしい態度を装っているセドリック様の本心もお見通しなのですから。「どうだろう、リディア。もう一度──婚約者というわけにはいかない、一人の友人として付き合うというのは……?」 わたくしはいつかのように差し出された手を拒否し、そのままコーヒーカップを押し当てました。「わたくしを二度も断罪しようとしたこと、忘れたとは言わせませんわよ? 今、こうして、お客様と
Last Updated: 2025-10-02
Chapter: 第21話 どうか、赦しの一杯を「お父様。あなたがわたくしを断罪しようとし、わたくしの店を嫌った理由は明白ですわ。家の名誉。己の体面。そして、追放したはずのわたくしが賞賛されていること。それが、赦せなかったのでしょう?」「……リディア……!」 大司教様は、深く長く息を吐きました。「残念ながら、断罪するべきものが誰なのか、もはや明白ですね──」「お待ちください、大司教様。わたくしは父を断罪したくはないのです」「リディア!」 わたくしはレオナール様に微笑みかけました。大丈夫です、と伝えるために。「もし、今この場で父を断罪すれば、わたくしは自ら断罪カフェを否定することになります」「うぅむ……」 わたくしの言葉に、大司教様が立ち上がります。眼鏡を外し、しばしの沈黙の後、思慮深げに口を開きました。「なるほど……ならば、リディア様。私にも一杯、あなたのコーヒーをいただけますか?」 目を見開いたわたくしは、思わず姿勢を正し──悪役令嬢ではなくカフェの店主として頭を下げました。「承知しました。心を込めてお淹れいたしますわ。しばし、お待ちください」 そして、わたくしはクラリスの名を呼ぶと、ドレスの裾を持って背筋を正したまま、扉へ向かいました。 扉の前ではセドリック様が、情けない困惑顔で立ちすくんでいます。「…
Last Updated: 2025-10-01
Chapter: 第20話 今、断罪のとき ざわつく教会。ことの重大さに気づいたお父様が一歩前に出て、無理に笑みを張りつけて言いました。「……ま、待ってくれ。これは誤解だ」「グレイス様。誤解ではありません。……大司教様。使用人を代表して私が証言をしても?」 眼鏡を上げると、大司教様は微笑みを浮かべてうなずきました。しかし、阻止するようにお父様は声を荒げました。「やめろ! めったなことを言うな! お前たち、いつクビにしてもいいんだぞ!!」 脅し。とても卑怯な、貴族とは思えないやり方。お父様はそうやっていつも支配してきました。わたくしも含めてみんなを。 しかし、今度ばかりはそうはいきませんでした。わたくしたちがいるのは、教会。つまびらかに罪を明らかにする場所。 つまり、お父様の権威はここではなくなるのです。「……クビにしていただいて構いません。私たちはグレイス様と司教様が、リディアお嬢様の断罪カフェを潰そうと密かにやり取りしているのを聞いていました。私一人ではなく、私たちリディア様の使用人全員が、その証人です」「ち、違う! お前たちは誤解をしているのだ!」 情けない父の姿に、わたくしは哀しくなりました。あんなに大きかったはずなのに、今はとても小さく見えます。 なおも無理な弁解を続けようとするお父様の姿を見て、レオナール様は呆れたようにため息を吐きました。「私の従者に調べてもらった。この一月の間に、グレイス侯とベスティアン司教は何度も不自然な面会を重ねている。それに、あなたはここへ来る際に嬉々としていた。娘の──リディアが再び断罪の憂き目にあうやもしれないというのに……」
Last Updated: 2025-09-30
Chapter: 第19話 悪役令嬢のように、気高く「その通りですわね」 いら立つ司教様とは反対に、わたくしはゆっくりと口元に微笑みを浮かべました。物語の悪役令嬢が、そうするように。「ですが、断罪カフェの話を持ち込んだのは司教様ではありませんね?」「な、なにを言う!」「ふふっ。焦りがわかりやすく顔色に出ていますわよ。──断罪カフェが神を騙る。それが事実なら大問題でしょう。しかし、それが事実ではないとしたら? 誰かが仕組んだ罠だとしたら?」「誰かが仕組んだ? 罠? そんな絵空事、どこに証拠が──」「まだ気づかれないのですか? 今、ここに集まったのはグレイス家の使用人の方達ですわ」「「なっ……!?」」 司教様とセドリック様は仲良く一緒に驚きの声を上げました。「……グレイス家、つまりはグレイス伯爵の使用人ということですな?」 大司教様が立ち上がり、みなさまに視線を向けます。「大司教! 信じてはなりません! 私が──」「ベスティアン司教。これだけ多くの民が押し寄せているのです。話をうかがわなければ、それこそ神に背くことになる──私はそう思いますが」 落ち着いた大司教様の言葉にベスティアン司教様は何も言い返すことができずに、その場に座りました。一方、セドリック様はお顔を真っ青にされています。「あ、ああそうだ。申し訳ない、危急の用事を思い出しました。私はこれで失礼します」 震えた声でぼそぼそととってつけた嘘を述べると、セドリック様は慌てて教会の外へ出ていこうとしました。「おや、
Last Updated: 2025-09-29
Chapter: 第28話 契約の光 夜半。王宮が眠りについたころ、私はローブを羽織り、音を殺して城を抜け出した。 街へ出ると冷たい夜気が肌を刺す。人気がないから石畳を踏む足音さえ、やけに大きく感じる。 向かう先は、住宅区の入口にある教会。かつて私が育った孤児院でもある。 教会は夜でも城下町に住む民のために入口の扉は開いている。中へ入ると、礼拝堂や2階につながる扉はカギが掛けられていたが、懺悔室には煌々と明かりが灯されていた。 懐かしい匂いがした。古びた木の匂いだ。王宮での生活にももう慣れたが、ここへ来るとやっぱり肩の力が抜ける。 私は懺悔室の扉を押し、静かに中へ入った。ランプと一人用の木椅子、そして格子状の窓しかない狭い部屋。 使い古された椅子に腰を下ろし、私は目を閉じた。 フリーダの言うことが本当なら、ここで神と取引ができる。教会は神と通ずる場所だからだ。 私はかつて神父様から習ったように、両手を固く組むと目を閉じた。「こんな時間に、どうしたのですか?」 格子の向こうの扉が開き、穏やかな声が降ってくる。「……神父様」 そこには、私を育ててくれたクレメンス神父の気配があった。直接見ることはできないが、声の調子はいささかも変わっていない。「久しぶりですね、ティナ。念願かなって秘書官になったとか。この間のフォヴォラの襲撃事件。あなたの指示で誰も死者が出なかったと聞いていますよ」「……いえ。私は別に。それに、肝心の咎人は捕まえることが叶いませんでした」「そうですか。……咎人、神の反逆者たちですね」 私は唇を噛む。「ええ……」「ティナ。何か、抱えているのでしょう。わざわざ人目を忍ん
Last Updated: 2026-03-19
Chapter: 第27話 神の祝福は得られなかった 部屋が夕闇に包まれる。王子の命令通りベッドで横になっていた私は、控えめなノックの音に体を起こした。「入るわよ」 返事を待たずに扉が開き、赤い瞳が覗く。フリーダだ。「起きてるみたいね」「……ああ、まだ寝る時間でもない。王子の特訓は?」 私は体を起こしたまま、視線を落とした。胸の奥に残るざわつきはまだ消えていない。 フリーダはベッドの脇まで歩いてくると、椅子を引き寄せてどかりと腰を下ろした。「中止よ。王子ったら、優秀な秘書官が気絶しただけで全然集中できなくてダメ」「なっ……すまない。私のせいだな」 手を握り締める。完全に空回りだ。王子まで心配させて。「いいわよ。今日は魔法の発動ができただけでも上出来。……で? 調子は?」 頭を横に振ると、視線を上げる。「問題ない。少し気を失っただけだ」「そういうのを問題ありって言うのよ」 呆れたように肩をすくめるフリーダは、そのままじっと私を見つめる。 「ティナ。あんたの力の話。方法を一つ思いついたわ。誰でもできることじゃないけど、試してみる価値はある」「! 教えてくれ! 王子を守るためならなんでもする!」 毛布を払おうとした私を止めると、フリーダは息を吐いた。「落ち着きなさい。その前に確認することがあるわ」 フリーダが真剣なまなざしで私の瞳をのぞく。「なんであんた、紋章も魔法も使えないの?」 心臓が跳ねた。「そ、それは……」「剣の腕はすごいわ。けど、紋章の力にごり押しされたら必ずあんたは負ける」 フリーダの赤い瞳が観察するように私を見る。今までと違ってごまかしはきかないかもしれない。「アーダンのおっさんみたいに魔法が使えなくても、紋章でカバーしようとする人は多い。でも、私の見立てでは、あんたはそもそも紋章が宿せない。違う?」 確信めいた質問だ。実際、それは事実だった。私は剣を選んでここまできたわけじゃない。剣しか使えないからこの道を選ぶしかなかった。「死に戻りのことと言い。あんたは普通の人間とどこか違う。まだ隠していることはない?」 ある。私が紋章を宿せない理由。それは神に祝福されていないから。 フリーダは足を組むと、その上で頬杖をついた。「あんたも知っている通り、すべての紋章は【9つの神の紋章】から成り立つ。王子が宿す太陽の紋章もその一つ。本来なら、程度の差はあれど人
Last Updated: 2026-03-17
Chapter: 第26話 紅茶の思い出 そうだろう。失われたはずのものはもう夢の世界にしか存在しない。 ふと、幼子の声がして顔を向ければ見知った顔が2人歩いていた。咄嗟に牛と牛の間に隠れる。 いや、何をやってる。夢なのだから隠れる必要はないはずだ。『この牛のミルクが僕たちの宮殿にも届くの?』『うん、そうだって。お父さんとお母さんが言ってた。うちのミルクとうちの茶葉で作ったミルクティーが一番美味しいんだって。私もいつか大きくなったら、ミルクと茶葉を持っていってマリクに紅茶淹れてあげるね』 これは、私とマリクだ。幼い頃の王子と私が一緒に散歩している。しかも手をつないで。 あのとき、私が王子と過ごした期間はほんの数日だった。辺境の視察に同行していた王子が、私に話しかけてくれたことがきっかけで始まったやり取りだった。 この数日間は今でも覚えている。 王子と私は日が暮れるまで外で過ごし、他愛もないことを話していた。 私は悟られまいとしていたが、この後あることを告白しようとしていたから内心は穏やかじゃなかった。 このときに王子と出会って──私の運命は変わったんだ。 場面は変わり、私は一人自分の部屋の中にいた。強い風が壁を打ちつける中、微笑みながら王子からもらった絵本を読んでいる。……この先は、ダメだ。見たくない。『あれ?』 階下から物音がする。私は、もしかして王子が戻ってきたのかと思い、扉を開けていた。ゆっくりとした足取りで居間へと降りていく。やめろ、ダメだ。やめろやめろやめろやめろ!『ヒッ……!』 幼い私は見た。 ランプの灯りが照らすのは葡萄《ぶどう》酒のような血溜まり。 見知らぬ男がお父さんの胸にナイフを突き立てていた。耳をつんざくような悲鳴が上がる。私の悲鳴──。 助けられなかった。何もできなかった。あのときも、そして今も……。 王子、マリク王子。私は──。*「……ティナ」 誰かが私を呼ぶ声で、意識が急速に浮かび上がる。「ティナ、目を開けてくれ」 重いまぶたを持ち上げると、最初に目に飛び込んできたのは青い瞳だった。「王子……?」 ぼやけた視界の向こう、マリク王子が心配そうに私を覗き込んでいた。 額にかかる髪が少し乱れている。あんなに整っていた人が、こんな顔をするなんて。「よかった。目が覚めた」「どうして、ここに……」「どうしてって、君が訓練場で倒れ
Last Updated: 2026-03-14
Chapter: 第25話 アーダンとの戦闘 午後、私は懐かしの王宮の訓練場にいた。 中庭の静けさとは違い、そこでは金属音や兵士たちの掛け声が絶えず響いている。 乾いた土の匂い、汗の匂い、剣を振るうたびに巻き上がる砂。壁際では若い兵が木剣で打ち込みの練習をし、奥では近衛たちが本格的な組み手をしていた。「おっ、秘書官殿が訓練場とは珍しいな」 低い声に振り向くと、予想通りアーダンが腕を組んで立っていた。王の近衛兵長になったとはいえ、アーダンがよくここにいるという噂は本当だったようだ。「兵たちが心配なのか?」 私の質問にアーダンは、大声で笑う。「ああ、心配だな。いつまで経ってもこいつらは世話を焼かせる」「ふふっ、ならお願いがある。私と一戦交えてくれ」 アーダンの目が細まる。「……本気か?」「ああ」 迷いなく答えると、アーダンは私の顔をじっと見つめた。「事情があるように見えるが」「聞かないでくれ」「そうか」 アーダンはそれ以上追及しなかった。新兵に鉄槍を二本持ってくるよう指示を出す。「構えろ。ティナの得物は腰のそれでいいのか?」「もちろん。私の剣は、これしかない」 アーダンが二本の鉄槍を手にし、距離を取る。アーダンの宿す<重槍の紋章>が目に入る。 私は剣を抜き、深く息を吸った。 強くなる。王子を守るために。──今度こそ、失わないために。「行くぞ」 最初に踏み込んだのはアーダンだった。速い。
Last Updated: 2026-03-12
Chapter: 第24話 嘘と秘密 医務室へ向かう途中、人気のない回廊に入ったところでフリーダは足を止めた。 そして、私の腕をぐいと引っ張って壁際に寄せる。「医務室なんて行かないわよ」「……わかってる。助けてくれてありがとう」「別にいいけど、あんた対策とか考えてなかったの? 王子に勘づかれたらどうする、とか」 私は小さく息を吐いた。胸の奥がずっと重い。「考えてなかった。死に戻りなんてわからないだろ。でも、私王
Last Updated: 2026-03-10
Chapter: 第23話 特訓と嘘と 翌朝、早朝も早朝の王宮の中庭。王宮全体がまだ動き出す前のまだ朝露の残る芝の上に、私はマリク王子とともに向かった。「気が乗ってなさそうですね、王子」 私が声をかけると、王子は振り向いて苦笑した。「太陽の紋章を受け継いだとはいえ、争いは苦手だよ。使いこなせるかどうか……」「王子……」 いつになく弱気な王子。共感するべきか激励すべきか悩んでいたところへ、背後から朝にしてはうるさい声が響く。「おはようございます! 王子!」 振り向かなくてもわかる、フリーダだ。 そっと息を吐いていると、気楽な足取りで歩いてきたフリーダは王子の前に立った。「王子、今日は付きっきりで、手取り足取り紋章の使い方を教えてさしあげます」 む……。「フリーダ。頼むよ。君になら安心して任せられる」 私は王子の前に立った。「待ってください。紋章を教えるのに手取り足取り使う必要はありません。王子……気を付けてください」 王子は不思議そうに私を見る。フリーダがふふっとおかしそうに笑った。「秘書官さん。比喩よ比喩。……気を付けてって何を想像したのかしら?」 頬が熱くなる。「そ、それは!! な、なんでもない」「大丈夫だよ。ティナ。ケガをしたりはしないから」 王子の手が私の肩に触れて、私はなにも言えなくなってしまった。
Last Updated: 2026-03-07