LOGIN高校2年が間近に迫った春休み──古塚美月は、幼馴染の如月乃愛からSNSでつぶやけば必ず想い人と結ばれるという「白無垢の恋唄」の噂を耳にする。 全く興味のない美月だったが、不可思議な動画を見つける。それは、真っ暗闇のなかに佇む白無垢の女性の姿だった。 「白無垢の恋唄」を巡り広がる怪異に巻き込まれていく美月。やがてそれは、家族の秘密や自分の呪われた血筋が浮き彫りにしていく。 これは、「白無垢の恋唄」を巡る閉じない呪いの物語──。
View More夜闇と言ってもあまりにも深い暗闇の中だった。行燈《あんどん》の光はおろか、火皿すらない。明滅する星々の明かりも照らす月の光さえも何もかもが一切存在しない常闇が辺り一面を支配していた。
感じられるものと言えば、どこかから漂ってくる生温い風に鼻孔を覆わんとするばかりの強い腐臭、それに混じり時折微かに漂う錆びた鉄の臭いだけだった。──いや、そしてもう一つ間隔を置いて垂れる何かの音。
真の暗闇の中では感覚は狂うばかり。何秒、何分、何時間──どれだけ時間が経ったのか、指の先さえ見えない真っ暗闇の中で時間の感覚はとうに忘れられている。果たして瞼《まぶた》が開いているのか、それとも閉じているのかすらわからない永久の牢獄。外界から切り取られたような異界の中で、女はひたすらに、ただひたすらに没頭していた。
女。確かに女だと言えた。汗と脂に湧いてくる蟲の死骸がこびりついた髪の毛は顔を覆い尽くすほどで、泥と血に塗《まみ》れた肌には隙間がないほどに蟲が群がっていた。ただ唯一、羽織る衣服だけは穢れとは無縁で、生を押し潰そうとするほどの暗闇の中でも眩いほどの白い光沢を纏っていた。
女は、何も発しなかった。言葉だけではなく声すらも。ただひたすらに頭《こうべ》を垂れ正座をし、微動だに一つしなかった。何も発しないその代わりに一念、また一念、と。ひたすらに願う。
どこかから何かが垂れ落ちる音が聞こえる。水溜りに一粒の雨が落ちるようなその音がした瞬間。すかさず女の指が動いた。蟲のように俊敏に、蟲のように異形に。指は暗闇の中をなぞり、何度も何度も擦り付ける。
女の指先はすでに失われていた。爪はそれがあった第一関節ごとごっそりとなくなり、中身が剥き出しのまま。そして、何度も何度も擦り付ける。
やがてまた女は動きを止める。痙攣が止まったかのように再び正座をし、闇の中で頭を垂れる。
女はひたすらに願っていた。願いを認《したた》めていた。言葉すらも声すらも吸収する墨色の籠《かご》のなかで、ひたすらに願っていた。
──永久に先君をば待たん暗闇に花の塵ゆく定めとしても──手を伸ばす。視線の先では母親と兄が手をつないでいて、自分もそこへ加わりたかった。駆けて、走って。どんなに近づこうとしても永遠に届かないそんな気がした。 諦めてうなだれて、地べたに座り込んで横になって。大声で泣く。 慌てて駆けてきた兄は心配そうに手を伸ばしてくれたが、その手をつかむ前に母親がまた兄の手をつないだ。 顔を上げれば母親はどこか何か遠くを見ていた。視線は自分をすり抜けて、ありもしない何かを見ている。 伸ばした手に気がつくことなく、母親は兄を連れて先を行く。もう片方の手は煤《すす》を被ったような真っ黒な手が引っ張っていた。手だけではない気がつけばいつの間にか無数の黒い手が母親の身体を取り囲んでいた。 全身が震える。口が大きく開く、息を吸い、口から──。* 幼い自分の悲鳴が遠くに聞こえた気がして、美月は目を開いた。(……夢……?) スマホのアラームが鳴っていた。少しでも目覚めを良くしようと思って選んだ小鳥の囀りだ。慣れた手付きでアラームを止めると、まだ眠い目を擦った。 指に何かが付着した。(涙……?) 泣いていたことに気がつくと同時に半分まだ夢の中にいた頭がゆっくりと動き始める。 美月の兄、弓弦《ゆずる》は何日か前から母親と一緒に田舎へと帰っていた。理由はわからない。美月の母親は気まぐれで、突然思い立っては有無を言わさず兄と二人でどこかへ行くことが多かった。今回は兄が18歳の誕生日を迎えたその日に、急に田舎に帰ると言い出して身支度を始め、本当に次の日の早朝にはいなくなっていた。 美月は何度か寝返りを打つと、ベッドに潜り込んだままスマホをいじり始めた。寝ている間の通知を確認したあとメッセージアプリを開くと、笑顔の兄のアイコンをタップした。(まだ返事は来てない。既読もついてないし……私が送ったのが3日前だから、兄さんが田舎に帰ったのも3日前か) 額に伸ばした腕を当てる。目を瞑って今見ていた夢の内容を思い出そうとするも、霞《かすみ》のようにほとんど思い出せなかった。 母親から連絡がないのはいつものことだが、兄から3日も連絡がないのはおそらく初めてのことだった。(それに、昨日乃愛に見せられた……なんだっけ? ……「白無垢の恋唄」……あれのせいだ) よくないもの、と直感的に感じてしまったからか妙に頭に引っかかり、昨夜寝る直前も
「あっ、あれ?」 二人して真っ暗闇の空を見上げる。「電気が消えたのか? こんなときに」 老朽化した電灯が消えた。それはよくあることかもしれない。「……ゆ、悠人。ち、違う」「違う? ……えっ、なんで?」 森久保はキョロキョロと周囲を見回す。老朽化した電灯が消えるのはありえる話だが、全ての電灯が同時に消えるのはありえない。 加護はつかまれたままの森久保の手を握った。「なに? どういうこと? 一体何が起こって──」 どこかから足音がした。真暗闇の中に密やかに。ただしはっきりと。普通の足音ではない、と加護は震える耳の奥で感じ取っていた。擦れるような音、地面を擦るような足音が次第次第に近づいてくるような気がする。 震えていた。確かに加護の体は震えていた。 ──ただの足音だ。いくら人気が少ないと言っても全く人が通らないような獣道でもない。普通の公道。駅から住宅街へと繋がるどこの街にもあるような何の変哲もない一本道。 そう意識が働くものの、体は真逆に震えている。初めて弓を射ったときの感覚に似ている気がした。頭では順序通りやればいいとわかっているのに、体が指先がどうしようもなく震えてしまう。 その根源は、恐怖だ。「に、逃げろ! 彩乃!」 森久保の声が弾けた。腕が思い切り引っ張られる。前を向く前に視界の隅に捉えたのは、白い、白い何かだった。 二人は懸命に走る。後ろを振り向くこともせず、立ち止まることもなくひたすらにがむしゃらに足を動かしていた。(おかしい) 暗闇はどこまでも続いている気がした。森久保の肩口から見える先も街灯のあかりはついていない。ここまで真っ暗だとしたら、停電でも起こったと考える方が自然だ、と加護は頭を巡らせた。 だが、それを口に出すことは憚《はばか》れた。わかっている。ただの偶然だ。急に暗闇になったことも、烏《からす》が羽ばたいたことも、不気味な足音も、白い光も全部が偶然か見間違い。その可能性の方が大きい。というよりも、きっとそれが真実のはずだ。 なのに、そうじゃないと体が否定する。森久保の手から離されないようにと全速力で走っているにも関わらず、全く熱くはならず鳥肌が立つほど凍える体が、現実に基づいた事実と真実を否定する。否定というよりも、それはもはや拒絶だった。 初めて見る必死の形相で走る森久保の息が荒くなっている。加護自
確かに目を引く美人だ。スラッと背も高くスタイルもいい。アイドルやモデルと言われても納得してしまうほどの美貌を備えていた。そして、悔しいことに弓の腕前も相当なものだった。 聞けば加護と同じ中学から弓をやっているにも関わらず、その実力の差はもう埋められないほどに開いていた。 これまで平等に注がれていた森久保の視線は、古塚美月一人に注がれるようになった。共同練習のときは顕著で、森久保は古塚美月の指導ばかりをしようとする。 古塚美月に群がる馬鹿な男どもとは違うが、加護にとっては同じことだった。(なのにあの女は、気にも留めない。悠人に見つめられているのに、恥じらいも戸惑いも何もなく平然としている) ──あの女は、悠人から好かれることを当たり前だと思っているんだ。 メッセージアプリを閉じると、次に加護はSNSを開いた。 数日前に上げた自分の投稿を見る。〈永久に先悠人をば待たん暗闇に花の塵ゆく定めとしても〉* 加護と森久保が駅を出たときには辺りはもう夜の闇に包まれていた。 1羽の烏《カラス》が耳障りな声で鳴き、翼を広げてどこかへと飛んでいく。急に目の前を飛び去った烏に加護は声を上げて驚きその場で転んでしまった。「大丈夫!?」「う……うん、大丈夫」 差し出された手をつかむ。がっしりとした、しかし手のひらの温かい感触が伝わり急に恥ずかしくなった。「あっ、ごめん……」 相手も同じだったのか、森久保の声が上擦る。支えられながら立ち上がると、温かい感触が離れていく。
弓道部の部活が終わり、いつものように加護《かご》彩乃《あやの》は仲のいい部員と他愛もない話をしたあと、ファストフードのお店を出た。「お疲れ様でした彩先輩!」「お疲れ様〜」 1年後輩の2年生二人と手を振って別れると、加護は頬を緩めながらそわそわと早足で歩き出す。 時間としては午後5時過ぎ。日はもう傾いてきており、辺りは真っ赤な夕暮れに染まっていた。 後輩たちからだいぶ離れたところで後ろを振り返ると、加護は近くにあった自販機の横に立ち止まり、制服のスカートからスマホを取り出した。 透明感、ガラス感があるオフホワイトのスマホの画面を開き、メッセージアプリを開く。トップに表示されている森《もり》久保《くぼ》悠人《ゆうと》の名前を見るだけで、加護は鼓動が早くなっているのを感じていた。(……本当に、連絡が来るなんて思わなかった……) 森久保悠人は、加護と同じ3年生、そして同じクラスだった。森久保が覚えているかどうかはわからないが、加護と森久保は3年間同じクラスで一緒だった。 柔らかな笑顔に端正な顔立ち、性格もよく優しい。それになにより、森久保は男子弓道部のエースだった。 運動ができる男子高校生は、花形のバスケやサッカー、テニス、野球などを選ぶことが多く、弓道部を選ぶ人は少なかった。加護は中学から続けている流れで弓道部に入部したが、同じ弓道部に森久保が入ることを決めたときは同じクラスから入部者が出たことで素直に嬉しかった。 森久保のフォームは初心者と思えないほど美しく、そして華があった。月に一度ある共同練習でも苦手な子や不得手な子にも丁寧に弓を教えていて、その姿勢と性格から同じ女子部員からも密かに人気があった。 加護が自然と森久保の姿を目で追うようになるまでさほど時間はかからなかった。 何度か告白されたという噂も聞いたことがある。けれど、森久保は誰とも付き合うことはしなかった。一人で優しく誰にでも平等──女子の人気は広がっていく。 どうにかなりたいと思ったわけではない、ただその美しいフォームを遠くで眺めているだけで加護は満たされていた……はずだった。 加護は袴姿の森久保のアイコンをタッチする。画面をスクロールさせて、少ないやり取りの一番上のメッセージを見た。もう何回、何十回と見たメッセージだ。〈急に連絡してごめん、弓袋破けちゃって新しいの買おう