Chapter: 第138話 紗月は、自分がとても長い眠りについていたような気がしていた。 夢の中の自分は、あらゆる苦しみや悩みから解き放たれたように、身体が驚くほど軽かった。このままどこへでも行ける気がしたし、もう何かや誰かのために立ち止まることもない。 二十年以上、自分で自分へ掛け続けてきた枷が、ようやく鍵で解かれたような、そんな感覚だった。 あまりにも心地よくて、紗月は目を覚ましたくなかった。 そんな夢の中で、一筋の白い光がずっと紗月のそばに寄り添っていた。 その光は、優しい温もりを纏いながら、いつも紗月の手元を離れない。 時折、いたずら好きな子どものように急に前へ飛び出しては、あちこちを跳ね回る。 そのたびに紗月は足を止め、微笑みながらその姿を見守った。 遊び疲れると、白い光はまた紗月のそばへ戻ってくる。 そして再び、紗月と並んで歩き出した。 どれほど歩いただろう。 夢の中の道は果てが見えず、どれだけ歩いても景色は少しも変わらなかった。 それでも紗月は、このままここへ残りたいと思った。 夢の温もりも、その穏やかな時間も、あまりにも愛おしかったからだ。 けれど、白い光は少しずつ輝きを失い始める。まるで、避けることのできない別れを静かに告げるように。 紗月は最後の最後まで、その白い光とともに歩き続けた。 白い光が完全に消えた瞬間――紗月の意識もまた、自分の身体へと引き戻された。 ゆっくりと瞼を開いた途端、夢の中では感じることのなかった痛みが、一気に全身へ押し寄せてくる。 紗月は身じろぎひとつできないまま、真っ白な天井を見つめた。気づけば涙が目尻から絶え間なく零れ落ち、髪も枕も濡らしていく。 夢の中では分からなかった。 目を覚ました今なら分かる。 あの白い光は――自分の子どもだった。 その子は、もういない。 音もなく流れていた涙は、やがて小さな嗚咽へと変わる。 悲しみは次第に胸いっぱいに広がり、身体では抱えきれなくなって、ついには堪え切れず、紗月は声を上げて泣き出した。 幼い頃から朝倉の祖父の家へ預けられて育った紗月は、いつも自分を抑え、身の程をわきまえて生きてきた。 自分の欲しいものも、本当の気持ちも、感情のままに表へ出したことはほとんどない。 唯一、自分を抑えきれなかったのは、祖父へ慎一が好きだと打ち明けた、あの時だけだった。 け
Last Updated: 2026-07-12
Chapter: 第137話 慎一は救急車へ乗り込み、そのまま紗月とともに病院へ向かった。 車内では医療スタッフが慌ただしく応急処置を続けている。 紗月はすでに意識を失っており、慎一はただ、その冷え始めた手を強く握ることしかできなかった。 出血量はあまりにも多い。 敷かれていたシートは瞬く間に赤く染まり、その光景は目を逸らしたくなるほど痛々しかった。 救急救命士は緊張した面持ちで紗月の血圧や脈拍を確認しながら、慎一へ鋭く問いかける。「ご主人ですか?」「……はい」 慎一は低く答えた。 救急救命士は頷くと、紗月の腹部へ視線を落としながら、さらに質問を重ねる。「現在の出血量から見て、流産の可能性があります。奥様は妊娠何週目ですか?」「……」 慎一は答えられなかった。 沈黙が流れる。 救急救命士は慎一の返事を待ちながらもう一度確認する。「病院は受診されていますか? 母子手帳は? 妊娠経過について何か分かることはありませんか?」 それでも慎一は何一つ答えられない。 唇を強く結んだまま、握り締めた紗月の手だけを見つめていた。 昨日初めて、紗月の口から妊娠のことを聞いた。 だが、あの時の自分は怒りに支配され、紗月の言葉を最後まで聞こうともしなかった。 ――いや。 昨日だけではない。 たとえ普段の自分だったとしても、紗月から「妊娠した」と告げられれば、きっと簡単には信じなかっただろう。 どうせまた、自分を引き留めるための嘘だ。そう決めつけ、紗月の言葉に耳を貸そうともしなかった。 それほどまでに、自分は紗月を信じていなかったのだ。 その事実を、慎一は今になって初めて突きつけられる。 青白い顔で横たわる紗月を見つめながら、自分がどれほど愚かだったのかを思い知らされた。 もし昨夜、あの時。 自分が手を止めていたら。 紗月の話を最後まで聞いていたら。 今さらになって押し寄せる後悔が、初めて慎一の心を、思考を、感情を少しずつ蝕んでいく。 強く握り締めた紗月の手はあまりにも軽く、その温もりさえ今にも消えてしまいそうで、まるで何も掴めていない空気だけを握っているようだった。 慎一が答えられないまま黙り込むと、救急救命士は小さく眉を寄せる。「……妊娠初期で、ご本人もまだ気づいていなかったのかもしれませんし、ご主人へ伝える前だった可能性もあります」 今は、慎
Last Updated: 2026-07-12
Chapter: 第136話 混乱していたのは撮影エリアの中だけではなかった。 現場の周囲にいたスタッフたちも一斉に駆け出し、必死に声を張り上げながら人の流れを止めようとする。 だが、一人が倒れた瞬間、それはまるでドミノ倒しのようだった。 一度崩れた流れはもう止められない。 次々と足を取られ、連鎖するように人が倒れていく。「な、何だこれは……!」 助監督は頭を抱えそうな勢いで叫ぶと、慌ただしくスタッフたちへ指示を飛ばした。「全員引き離せ! 早く! 急げ!」 折り重なるように倒れていた人たちは、ようやく少しずつ引き離されていく。 後方で転倒した者たちは比較的軽傷で、自力で立ち上がると、そのまま撮影エリアの外へ避難し、不安そうな表情で現場を見守っていた。 一方、先頭を走っていた由衣だけは、かすり傷一つ負っていない。 人波に飲み込まれた紗月へ視線を向けると、誰にも気づかれないよう口元だけで小さく笑う。 そして次の瞬間には怯えた表情へ切り替え、そのまま慎一のもとへ駆け寄った。 慎一の表情は険しかった。 助監督のすぐそばで一部始終を見ていたため、混乱が起きたのはほんの一瞬の出来事だったにもかかわらず、由衣がわざと紗月を躓かせた瞬間まで、はっきりと目にしていた。 駆け寄ってきた由衣へ向ける眼差しは、氷のように冷え切っている。「由衣。今回はやりすぎだ」 その一言で、由衣の顔からさっと血の気が引いた。 それでも次の瞬間には、今にも泣き出しそうな表情を浮かべ、縋るように慎一を見上げる。「社長ぉ……ごめんなさい。本当にわざとじゃないんです。私も転びそうになっちゃって……こんなことになるなんて思わなくて。でも奥様だって大丈夫ですよ! ほら、皆さんもそんなに大きな怪我はしてないじゃないですか」 由衣が指差した先では、何人かのエキストラがすでに立ち上がり、自力で撮影エリアの外へ歩いていく姿が見えた。 その様子を見て、慎一は張り詰めていた息をわずかに吐き出す。 胸の奥の焦りは消えなかったものの、これくらいなら紗月にもいい教訓になっただろう、とどこかで考えていた。 あれだけ派手に転んだのだ。足首の怪我も、きっとさらに悪化しているはずだ。 これで少しは、自分の前で意地を張ることもやめるだろう――。 少なくとも、この時の慎一はそう信じていた。 現場の混乱は少しずつ収まり始め
Last Updated: 2026-07-11
Chapter: 第135話 十分という準備時間は、ひどく長く感じられたかと思えば、振り返ればあっ という間に過ぎ去ってしまったようでもあった。 慎一は最後まで、紗月が折れる瞬間を待っていた。 けれど、助監督が「全員、スタンバイお願いします!」と声を張り上げた瞬間、紗月はもう迷わなかった。 準備を終えたエキストラたちとともに歩き出し、腫れ上がった足を引きずりながらも歩調を緩めることなく、監督が彼女のために用意した立ち位置へ向かう。 由衣の斜め後ろ。 その位置に立った紗月を、由衣はわずかに振り返って見た。 その目に浮かぶ嫌悪と嘲りは隠そうともせず、紗月の足へ視線を落とすと、小さく喉を鳴らすように笑い、それ以上は興味を失ったように前を向く。 ――本番まで、あとわずか。 助監督が「本番いきます!」と声を上げる直前、紗月は真っ直ぐ自分へ注がれる視線を感じていた。その視線の主は、撮影エリアの脇からこちらを見つめる慎一だった。紗月は気づかないふりをして、ただ前だけを見つめ続ける。慎一が何を考えているのかくらい、薄々分かっていた。それでも決して振り返ろうとはしなかった。 こうして自分を傷つけ、耐えきれなくなったところで助けを求めさせたいのだろう。 それでも負けたくはなかった。 足が痛むくらいなら、まだ耐えられる。 絶え間なく押し寄せる痛みを押し殺しながら、紗月は決められた位置で静かにスタンバイする。 助監督の飛ばす指示を聞いているうち、不意に胸の奥で懐かしい感覚が蘇った。 まるで、夢だけを追いかけていたあの頃へ戻ったような気がした。 女優を目指そうと思ったきっかけは、本当に些細な偶然だった。 高校時代、文化祭の舞台で欠員が出たことから、人数合わせのために急きょ舞台へ立つことになった。 その時初めて、自分には演技の才能があるのかもしれないと思った。 台本を読めば、自分の台詞だけでなく、相手役の台詞までするすると頭に入ってくる。 登場人物の感情も自然と理解でき、思い描いた人物像を、そのまま舞台の上で表現することができた。 何より、舞台へ立ち、熱い照明を全身に浴びた瞬間――胸の奥から、抑えきれない高揚感が込み上げてきた。 それまで一度も味わったことのない、心が震えるような熱だった。 文化祭で演じたのは、ほんの小さな役だった。 真剣な眼差しで舞台を見つめていた慎一
Last Updated: 2026-07-11
Chapter: 第134話 大道具会社のスタッフの中には、慎一の顔を知っている者もいた。 その立場も理解していたのだろう。 紗月を助けようと駆け寄り、状況を確かめようとしていた先輩たちも、慎一のその一言を耳にした途端、思わず動きを止めた。 互いに顔を見合わせると、篤司が何か言おうとするより早く、その腕を掴んで半ば強引にその場から引き離してしまう。 連れて行かれる直前、紗月の耳に先輩が篤司を諭す声だけが届いた。「……夫婦のことなんだから、お前は首を突っ込むな」 先輩の声はよく通り、少し離れても途切れ途切れに聞こえてくる。「……まったく……結婚してるって分かってたら……お前らをくっつけようなんてしなかったのに……」 それ以上は距離が離れてしまい、篤司が何か答えたのか、それとも最後まで何も言わなかったのか――もう紗月には分からなかった。 慎一は苛立ちを押し殺したまま、まるで「払った金の分は働いてもらう」とでも言うように紗月の腕を掴み、そのまま強引に撮影エリアまで連れて行く。 紗月は抵抗することもできず、痛む足を引きずりながら慎一の後を追った。 ようやく足を止めた頃には、息を整える余裕すらない。 それでも休む間もなく背中を押され、メイク直しをしていた由衣の前へ突き出された。 慎一と並んで現れた紗月を見た瞬間、由衣の顔に嫌悪がよぎる。 だが慎一がいることに気づくと、その表情はすぐにいつもの愛らしい笑顔へと塗り替えられた。「社長~。さっき探してたんですよ。今の撮影、すごく上手くできたんです。助監督にも褒めてもらえたんですよ?」 慎一の意識は終始紗月へ向けられたままで、由衣の話などほとんど耳に入っていない。「そうか」「次は追いかけられるシーンなんです。犯人に襲われそうになる場面で、昨日も遅くまで練習したんですよ。社長も――」「追いかけられるシーン?」 何か思いついたように、美咲が手にしていた台本を取り上げると、慎一は素早くページをめくった。 内容を確認したあと、今度は紗月の腫れた足首へ視線を落とし、そのまま少し離れた場所にいる助監督を見る。 立花は午前中ほかの予定が入っており、この時間帯はエキストラ中心のカットを撮影していた。 重要なシーンではないため、現場は助監督へ任されている。 慎一の視線に気づいた助監督は、慌てて駆け寄ってきた。 揉み手でもしそうな
Last Updated: 2026-07-09
Chapter: 第133話 こんなにも真っ直ぐな言葉で褒められたのは、祖父や凛子、優介くらいだった。 まして相手は、自分と歳の近い、まだほとんど知り合ったばかりと言っていい男性だ。 篤司の言葉に、紗月は思わず目を瞬かせた。 何度か口を開きかけるものの、何と返せばいいのか分からない。 篤司は励まそうとしているわけでも、優しい言葉を掛けようとしているわけでもなかった。 ただ、自分がそう思ったから口にした。 それだけなのだと、その変わらない表情が物語っている。 だからこそ、その一言には嘘も飾りもなかった。 紗月は小さく笑みをこぼし、少し照れくさそうに呟いた。「……ありがとうございます」 それだけ言うのが精一杯だった。 一瞬だけ、結婚していることを伝えた方がいいのではないかと思う。 左手の薬指にあった指輪は、とっくに外していた。そもそもあの指輪は、最初から紗月だけが身につけていたものだ。 慎一は一度たりとも指にはめてくれなかった。 あの結婚において、あの指輪は最初から何の意味も持っていなかった。 それに、篤司の態度からは恋愛感情などまったく感じられない。 ここで自分から「結婚しています」と切り出したら、かえって自意識過剰な人間だと思われてしまいそうだった。 喉元まで込み上げた言葉は、結局そのまま飲み込む。 足を痛めていることもあり、この日も紗月は大道具の確認や簡単な事務作業を任されていた。 どれも篤司が、座ったままでもできるよう気を遣って残してくれた仕事だった。 前の会社でも事務や資料作成を担当していたため、こうした作業は紗月の得意分野だ。 篤司が細かく教えなくても、説明を聞くだけですぐに要領をつかみ、手を動かすことができた。 午前中も、篤司は何度か足場から降りてきては、紗月の様子を見に来た。 困っていることがないと分かれば、それ以上は何も言わず、また自分の持ち場へ戻っていく。 任された仕事量も無理のない程度で、紗月はほどなくして一通り終えた。 ふと顔を上げると、目の前ではセットが少しずつ形になっていく。 朝、篤司が話していた通り、組まれているのはマンションの共用廊下だった。 台本では高層マンションという設定だが、実際に作られるのは二階部分まで。その先の景色はグリーンバックで撮影し、後から映像で合成するらしい。 最初は出来上がっていくセットを
Last Updated: 2026-07-09
Chapter: 第13話 あの頃の光晴には、もう声を出す力すら残っていなかった。 舌は潰され、何を叫ぼうとしても言葉にならない。 血で滲んだ視界はぼやけ、最愛の妹の姿さえ、はっきりとは見えなかった。 それでも、裕司の笑い声だけは嫌というほど耳に焼きついていた。『見ろ。お前の大事な妹だ』 そう嘲るように笑いながら、紗那の亡骸を映し続ける。自分が作り上げた最高傑作でも鑑賞しているかのように。 あの瞬間、光晴の中に残っていたものは、憎しみだけだった。 全身の血が煮えたぎり、骨の髄まで憎悪に焼き尽くされる。 声にならない咆哮を最後の力で絞り出した瞬間、光晴の意識は深い闇へ沈んでいった。 紗那と同じだった。 最後の最後まで残っていたのは、消えることのない憎しみと、どうしようもない悔しさだけ。 そして――。 次に目を覚ましたとき、光晴は自分の車の運転席に座っていた。 窓の外に見えたのは、見慣れた教会。身にまとっていたのは、妹の結婚式のために誂えたスーツ。 一瞬だった。 光晴はすべてを悟った。 自分はもう一度、この日へ戻ってきたのだと。 今日が妹の結婚式だと気づいた瞬間、光晴は車のドアを乱暴に開け、そのまま教会へ駆け出した。 焦りで足はもつれ、何度も転びそうになりながら、それでも構わず走り続ける。 何としてでも、妹を止めなければならない。 そう思っていた。 だが、教会で目にした光景は、前世とはまるで違っていた。 紗那が燭台を高々と振り上げ、光晴自身も骨の髄まで憎み抜いたあの男――裕司の頭へ、容赦なく振り下ろしていたのだ。 光晴の口元から、思わず笑みがこぼれた。 一か月以上に及ぶ地獄のような拷問を受けて以来、光晴が心の底から笑ったのは、あれが初めてだった。 ――よかった。紗那も、戻ってきてくれた。 けれど、その喜びと安堵はすぐに胸を締めつけるような痛みへと変わっていく。 紗那も戻ってきたということは――。 あの地獄で味わった苦しみも、絶望も、恐怖も。そのすべてを、紗那も鮮明に覚えているということだった。 自分と同じように。 いや、自分以上に。 最愛の人に裏切られ、愛した子どもまで奪われ、最後には誰にも救われることなく命を落とした。 そんな地獄を、紗那はたった一人で耐え抜いたのだ。 そう思った瞬間、光晴は込み上げる感情を抑えきれず、もう一度
Last Updated: 2026-07-12
Chapter: 第12話 紗那は、自分がどうやって教会を出たのか覚えていなかった。 あまりにも場は混乱していた。 あちこちから悲鳴が上がり、その一つひとつが耳を打ち、冷静に物事を考えることさえできなかった。 最後に目に映ったのは、気を失った裕司を庇うように駆け寄った千代子と正則の姿。 二人は裕司の容体を気遣いながら、紗那の暴挙を責め続けていた。 そのとき、光晴は迷うことなく紗那を抱き寄せる。「大丈夫だ」 そう囁くように告げると、人混みを押しのけるように教会を飛び出し、誰にも紗那を触れさせないよう、そのまま彼女を連れてその場を離れた。 光晴が紗那を連れて帰ったのは、新婚生活のために用意された新居ではなかった。 光晴が一人暮らしのために借りているマンションだった。 柔らかなソファへ腰を下ろしても、紗那はまだ呆然としたまま、身じろぎ一つできずにいた。 人を殴ったのは、あれが生まれて初めてだった。 千代子の言葉にも、一つだけ間違っていないことがある。紗那は幼い頃から家族に大切に育てられ、惜しみない愛情を注がれてきた。 裕福で、温かな家庭。 少しくらいお嬢様気質になってしまうのも無理はないほど、何不自由のない人生だった。 欲しいものは望めば手に入り、好きになった相手とさえ、家同士の縁談という形で結ばれることができた。 人生はあまりにも順風満帆だった。 だからこそ、人の心があれほど醜く、恐ろしく、底知れない悪意を隠せるものだとは、一度も考えたことがなかった。 裕司を殴っている最中は、怒りしか感じなかった。 だが時間が経つにつれ、人を傷つけたという恐怖と、その現実が、遅れて波のように押し寄せてくる。 紗那は震える手を、そっと自分の平らな腹へ重ねた。まだ、一度も新しい命を宿したことのないお腹。 前世で妊娠を知ったあの日、自分がどれほど嬉しく、どれほど幸せだったのかを、今でも鮮明に覚えている。 だからこそ、その小さな命を失った絶望も、耐え難いほど深かった。「……っ」 喉の奥から、小さな嗚咽が漏れる。 憎い。 悔しい。 苦しい。 悲しい。 胸の奥には、憎しみも、悔しさも、悲しみも、抱えきれないほど渦巻いていた。「紗那。もう大丈夫だ」 温めたミルクを持ってきた光晴が、静かに隣へ腰を下ろす。泣き続ける紗那をそっと抱き寄せ、その頭を優しく撫でた。 世
Last Updated: 2026-07-12
Chapter: 第11話 前世、裕司が紗那に「愛している」と告げたことがあったのか、紗那にはもう思い出せなかった。 肌を重ね、互いの熱に溺れるような夜でさえ、裕司は一度として「愛している」と口にすることはなかった。 あの結婚生活で積極的に想いを伝え、よく話しかけていたのは、いつも紗那だった。 裕司は仕事に追われ、複雑な家庭の問題を抱えながらも、余計な付き合いをせず、交友関係も乱れてはいなかった。 酒場へ通うことも、夜の街へ繰り出すこともない。 どれほど帰りが遅くなっても、最後には必ず家へ戻ってくる。 そんな裕司を見て、紗那はずっと信じていた。 愛とは、言葉ではなく、行動で示すものなのだと。 あの頃の彼女は、愚かなほど純粋だった。 だからこそ、現実はあまりにも残酷だった。 言葉も。 行動も。 人は、そのすべてを偽ることができる。 愛でさえも。 裕司が口にした「愛している」という一言を、紗那はもう信じない。光晴もまた、その言葉に惑わされることはなかった。 しかし、その場にいる誰もがそうだったわけではない。 裕司の演技に心を動かされ、その言葉を本物だと受け止める者は、確かに存在していた。「紗那! もういい加減にしなさい。結婚は子どもの遊びじゃないのよ。結婚したいから結婚する、離婚したいから離婚するなんて、そんな勝手が通ると思っているの? これは二つの家の問題なの。これ以上わがままを言うんじゃありません」「そうだぞ、紗那。お前は昔から少しわがままなところがあった。たとえ裕司君が何かしたとしても……悪気があったわけじゃないだろう。もう夫婦なんだから、一番大切なのは互いに理解し、支え合うことだ。いきなり手を上げるなんて、許されることじゃない」 正則も千代子も、まるで裕司こそが実の息子であるかのように、彼ばかりをかばっていた。 その言葉の一つひとつが、鋭い刃となって紗那の胸へ突き刺さる。 気づけば、再び瞳には涙が滲んでいた。 裕司を指差す紗那の手は、小刻みに震えていた。力を入れすぎたからではない。 骨の髄まで、この男を憎んでいたからだ。「お父さん! お母さん! この最低な男が、私たちに何をしたのか……何も知らないくせに……!」 あの日々を思い出しただけで、息がうまくできなくなる。 激しく込み上げる感情に全身が震え、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
Last Updated: 2026-07-11
Chapter: 第10話 裕司は、紗那が何も言えないと確信していた。そして実際、紗那には裕司の罪を証明する術などなかった。 紗那の胸に刻まれた憎しみのすべては、まだ訪れていない未来で起きた出来事なのだから。 三年前の裕司は、誰の目にも非の打ちどころのない好青年であり、理想的な夫そのものだった。 紗那は唇を強く噛み締める。 何も言えない。 言ったところで、誰も信じてはくれない。 そんな紗那を見て、裕司の口元には「やはり」と言わんばかりの笑みがゆっくりと浮かんだ。 紗那がなぜ突然こんな真似をしたのかは分からない。 だが、少なくとも今の自分には、紗那に責められるような覚えは何一つなかった。 ましてや、人前で責め立てられるような証拠を残すはずもない。 裕司はそう確信していた。 口を開こうとした、そのときだった。 光晴が一歩前へ踏み出し、紗那を自分の背中へとかばう。 その背中は、誰が相手であろうと妹だけは絶対に守り抜くという強い意志を物語っていた。「白府裕司。貴様がどんな卑劣なことを企み、どんな卑劣なことをしたのか、一番よく分かっているのは貴様自身だろう。紗那はもう十分傷ついている。それなのに、まだその傷をえぐり、皆の前で話せと言うのか」 光晴の口調はあまりにも断定的だった。 まるで裕司が何かをしたことを最初から知っているかのようなその言葉に、周囲の招待客たちも次第にざわめき始める。「本当に裕司さんが何かしたのか……?」「だからあんなに取り乱したのかもしれない……」 そんな疑念が、少しずつ周囲へと広がっていく。 光晴の背中を見つめながら、紗那は驚きを隠せなかった。 三年前の光晴は、裕司に対して決して悪い印象を抱いてはいなかった。 特別親しい間柄ではなかったものの、妹の夫となる相手として認めていたはずだ。 それどころか、新婚祝いとして子会社の株式まで贈ったほどだった。 それなのに今は――。 紗那が何も説明していないにもかかわらず、事情を尋ねることも、理由を問いただすこともなく、ただ無条件に彼女を守ってくれている。 そこでようやく、紗那の脳裏に、先ほど光晴が抱きしめながら囁いた言葉がよみがえった。 ――今度こそ、兄ちゃんが紗那を守る。もう二度と、誰にも紗那を傷つけさせない。 まさか……。 お兄ちゃんも、戻ってきたの……? その考えが胸をよぎっ
Last Updated: 2026-07-11
Chapter: 第9話 光晴の優しい慰めの声に包まれながら、紗那はようやく少しずつ落ち着きを取り戻していった。 光晴の胸にしがみついて泣きじゃくった紗那の涙で、彼の胸元はぐっしょりと濡れ、アイメイクまで白いシャツに付いてしまっていた。 ひとしきり泣き終え、その白いシャツがすっかり汚れてしまっていることに気づいた紗那は、申し訳なさそうに俯く。「お兄ちゃん……服、汚しちゃった」「そんなこと気にするな。服なんかより、紗那のほうが大事なんだから」 光晴は優しく紗那の頭を撫でた。 幼い頃から変わらない、その温かな手つきだった。 紗那は何度見ても見飽きることのない兄の顔を見つめ、口を開こうとした、そのとき――。「紗那。説明してもらえるか」 背後から聞こえた声に、胸の奥から嫌悪感が込み上げた。 裕司だった。 珍しく怒りを滲ませてはいたが、その口調はいつも通り冷静だった。 先ほどは頭を何度も殴られ、頭の中が真っ白になっていたが、このときようやく我に返ったのだ。 千代子は痛ましそうにハンカチを取り出し、裕司の額から流れる血をそっと押さえる。 そして紗那へ向ける視線には、責める色が浮かんでいた。「紗那。女の子なんだから、あんな乱暴なことをしちゃだめでしょう。それに、相手はあなたの夫になる裕司さんなのよ」 千代子は紗那のしたことを到底受け入れられなかった。 裕司という婿に、不満は何一つない。 千代子たちの前では、いつだって物腰が柔らかく、礼儀正しい青年だったからだ。 それに対して紗那は、小さい頃から家族に大切に育てられ、少しお嬢様気質なところがある。 その裕司が今では顔中を血で染めるほどの怪我を負っている。千代子には、どう考えても悪いのは紗那だとしか思えなかった。 紗那の表情は一瞬にして冷え切る。 目の前にいる千代子と、黙ったまま何も言わない正則を見つめても、胸に込み上げるのは無力感ばかりだった。 正則は何も口にしない。 それでも、紗那へ向ける視線には、はっきりと不満の色が浮かんでいた。 この結婚は、表向きこそ政略結婚だった。 けれど、その縁談を望んだのは紗那自身だった。 裕司のことが好きだと父へ打ち明け、正則は長い間悩んだ末、自ら裕司との縁談をまとめてくれたのだ。 それなのに、結婚式はこんなことになってしまった。 父が不満を抱くのも無理はない。「
Last Updated: 2026-07-11
Chapter: 第8話 想像していたような痛みは訪れなかった。 あまりにも憎しみが強すぎたせいだろうか。 紗那は天地がひっくり返るような感覚に襲われた。 目の前を眩い白い閃光が駆け抜け、次の瞬間には、どこまでも深い闇へ真っ逆さまに落ちていくような感覚に呑み込まれる。 けれど、想像していた痛みは訪れなかった。 代わりに全身を支配したのは、立っていることすらできないほどの激しい眩暈だった。 ゆっくりと目を開けた紗那の視界に飛び込んできたのは、見覚えのある――教会だった。 目の前には、聖書を手にした神父が心配そうに彼女を見つめている。 耳には神父の穏やかな声が響いていた。「裕司さん。あなたは紗那さんを妻とし、健やかなるときも病めるときも、貧しいときも富めるときも、これを愛し、敬い、慰め、命ある限り真心を尽くすことを誓いますか」「誓います」 その声を聞いた瞬間、紗那の胸の奥から込み上げたのは、憎しみに染まりきった感情だった。 ――裕司の声だ。 そっと手を取られる。 まだぐらぐらと揺れる視界の中、紗那は自分が純白のウェディングドレスを身にまとっていることに気づいた。 自ら細部までこだわり、仕立ててもらった特別な一着。 あまりにも美しく、このドレスを初めて身にまとった日の幸福も喜びも、今なお鮮やかに胸に残っている。 神父は再び穏やかな声で問いかけた。「紗那さん。あなたは裕司さんを夫とし、健やかなるときも病めるときも、貧しいときも富めるときも、これを愛し、敬い、慰め、命ある限り真心を尽くすことを誓いますか」 問いが終わった瞬間、教会は静まり返った。 その場にいた全員が、どこか様子のおかしい紗那へと視線を向けている。 誰もが微笑みながら、彼女の口から「誓います」という言葉が返ってくるのを待っていた。 紗那はそっと指先を動かした。 ようやく激しい眩暈が少しずつ収まり、目の前の景色が鮮明になっていく。 そこに広がっていたのは、三年前の結婚式と寸分違わぬ光景だった。 隣に立つ裕司は、口元にかすかな笑みを浮かべている。 幸せそうには見えない。ただ、紗那が必ず頷くと信じて疑わないような、絶対の自信だけがその瞳に宿っていた。 紗那は咄嗟に手を振り払い、怯えたように一歩後ずさる。 裕司の顔を目にした瞬間、心臓が激しく脈打った。 恐怖、憎悪、悔しさ――。 さ
Last Updated: 2026-07-11
Chapter: 第158話 会場が割れんばかりの拍手に包まれ、ようやく陽菜は我に返った。 気づけば、さっきからずっと一条だけを見つめていて、一度も目を逸らしていなかった。 慌てて周囲に合わせるように拍手を送り、視線を逸らそうとしたその瞬間、一条と目が合った。 かなり離れた場所にいるはずなのに、一条は真っ直ぐ陽菜を見つけ出し、視線が重なった瞬間、嬉しそうにふっと笑った。 陽菜は思わず息を呑み、慌てて俯く。 おそるおそるもう一度顔を上げると、一条はまだこちらを見ていた。 遠く離れているはずなのに、その瞳はまるで光を宿しているようにきらきらと輝いて見える。 発表会は最後まで滞りなく進み、ライブ配信の反応も上々だった。 画面越しのコメントも好意的なものばかりで、データを集計しているスタッフも終始笑顔を浮かべている。 終了が近づいた頃、陽菜は会場の端で最後の確認をしていた。 ふいに背後へ人の気配を感じる。 振り返るより先に、一条が隣へ並んだ。 先ほどまで取引先の関係者と話していたはずなのに、陽菜を見つけると、さりげなくこちらへ歩いてきたらしい。 周囲にはまだ大勢の人がいたため、一条もあからさまな素振りは見せなかった。 ただ、陽菜の横を通り過ぎる瞬間、そっと彼女の手のひらへ何かを握らせる。 陽菜は驚いて顔を上げた。 すると一条は、そのまま歩き続けながら、こちらを振り返ってにっと笑う。 陽菜は一条の姿が遠ざかってから、そっと手のひらを開いた。 そこには、金色の包み紙に包まれた有名メーカーのチョコレートが一粒。 まだ口にしてもいないのに、そのチョコレートを握りしめただけで、胸の奥がほんのり甘く満たされていくような気がした。 その夜は、新ブランドの成功を祝う祝賀パーティーが予定されていた。 パーティーが始まる前、一条はどこか嬉しそうに陽菜をVIP用の更衣室へ案内する。 そこには、一条があらかじめ用意していた一着のドレスが掛けられていた。 祝賀パーティーとはいえ、商談や交流も兼ねた席だ。 業界関係者や名家の人々も数多く招かれているため、普段着で参加するわけにはいかない。「俺からのプレゼント。……気に入ってくれるといいんだけど」 ドレスを見せ終えたあと、一条は照れ隠しのように小さく咳払いをする。 派手すぎないデザインで、どこか陽菜らしい雰囲気があり、好み
Last Updated: 2026-06-30
Chapter: 第157話 一条は、本当はこれらの言葉を発表会で伝えるつもりだった。 香水を陽菜に手渡した瞬間、どうしても堪えきれなくなって、思わず先に口を滑らせてしまった。 言い終えてから我に返ったのか、一条は「ああ……」と小さく声を漏らし、額をハンドルへ預ける。「本当は……明日、ちゃんと告白するつもりだったのに……」 陽菜の頬もほんのりと赤く染まる。 さっきまでただの香水だったその一本が、その意味を知った途端、急にずっしりと重みを持ったように感じられた。 こんな言葉を誰かに向けられたことなんて、一度もない。 昔から自分は存在感の薄い人間だと思っていたし、高校時代も人付き合いが少なく、誰かに告白されるようなこともなかった。 これから先も、きっと鷹宮だけを想い続ける人生なのだと、ずっと思っていた。 だから、自分にとって、鷹宮さん以外の誰かがこんなにも大きな意味を持つようになるなんて、考えたこともなかった。 けれど今は、一条という存在も、一条がくれた言葉も、そのすべてが陽菜の胸を激しく高鳴らせていた。 ――これは、好きという気持ちなのだろうか。 胸が苦しいほど高鳴っている。 その高鳴りは、鷹宮を見つめていた頃とはどこか違っていた。あの時のような、胸を締めつけられる苦しさはない。 だからこそ、自分でも答えが分からず、陽菜は戸惑ってしまう。 一条もまた、陽菜の口から断りの言葉が返ってくることを怖がっていた。一つ深く息を吸うと、陽菜が口を開くより先に慌てて言葉を重ねる。「藤野、今は返事しなくていい。……お願いだから、まだ答えないで」 少しだけ拗ねたような、甘えるような声だった。 その響きに、陽菜の胸はまた小さく痛む。「一条君……私なんかに、そんなふうに言ってもらえるなんて……もったいないです」「何言ってるんだよ。俺は……俺は藤野が素敵な人だって思ってる。それだけで十分なんだから」 本当なら、もっと甘い言葉を伝えて、少しでも陽菜に振り向いてほしかった。 けれど、あまり言い過ぎれば逆効果になってしまう気もして、なかなか言葉が続かない。 こんなにもあれこれ悩む自分は、自分らしくないと、一条自身も苦笑してしまう。「藤野、その……とにかく、あんまり負担に思わなくていいから。明日、また会おう。今日はゆっくり休んで、な?」 陽菜がそっと一条を見ると、耳まで真っ赤
Last Updated: 2026-06-29
Chapter: 第156話 一条と立花は、その後の訴訟の進め方や今後のスケジュールについて話し合っていた。 最初のうちは陽菜も真剣に耳を傾けていたものの、やがて話題は一条の会社のことへ移り、自分には関係のない内容ばかりになる。 このまま聞いていていいものか分からなくなり、陽菜はいつの間にか思考を漂わせていた。 ふと我に返ると、一条がこちらを見ていた。「藤野、来月の新商品発表会、一緒に来てくれないか。俺の隣にいてほしいんだ」「私ですか?」 工場の件も無事に決着し、一条は入院中もリモートで新ブランドの準備を進めていた。 発表会の日程はすでに決まっていて変更はできない。 そのため、一条にはゆっくり静養している時間もなく、限られた期間の中で準備を整えなければならなかった。「発表会の後に祝賀パーティーがあるんだ。その時も一緒にいてほしい。それに……」 そこまで言いかけたところで、一条はふっと言葉を飲み込む。 何かを隠しているように、意味ありげな笑みを浮かべるだけだった。 今回の新ブランドには、陽菜も入社してからずっと関わってきた。一条にそう言われ、断る理由は何もない。「はい、一条君」 発表会までは、あと一か月。 準備期間としては決して余裕があるとは言えなかった。一条も発表会に間に合わせるため予定より早く退院した。 怪我はまだ完治していなかったが、順調には回復していて、もともとの身体の丈夫さもあってか、服を着てしまえば身体中に残る傷跡もほとんど分からないほどになっていた。 会社へ復帰した日も、一条は普段と変わらない様子だった。 社内で事故のことを知っている社員は実はそれほど多くない。 会社が動揺することを避けるため、一条自身が「海外出張へ調査に行っている」と説明していたからだ。 新商品の発表会は、全体を通して順調に準備が進んでいた。 工場の問題が解決してからは、すべてが予定通りに進み、開催が近づく頃には、会場設営も当日の機材チェックも進行確認も滞りなく終わっていた。 一条もようやく胸を撫で下ろす。 そして、発表会前日の夜――。 一条は陽菜を家まで送る車の中で、一本の香水を取り出した。 明日の発表会で披露される、新ブランドの目玉商品だった。「実はこのボトル、何度もデザインを作り直したんだ。どれもしっくりこなくてさ……今のデザインが浮かんだのは、藤野
Last Updated: 2026-06-29
Chapter: 第155話 二週間ほど入院生活を送った頃には、一条もようやく何とかベッドから降りて歩けるようになっていた。 もっとも、今回は腕と脚の骨折が重かったため、長時間歩くことはまだできない。少し歩いただけでも、耐え難い痛みが襲ってくる。 それでも一条は、陽菜を誘って病院の中庭へ日向ぼっこに行こうとせがんだ。 二人は庭園のベンチに並んで腰を下ろす。 柔らかな陽射しが全身を優しく包み込み、隣に座る一条からは、ほのかに消毒薬の匂いが漂ってきた。 陽の光を浴びて、少し茶色がかった髪がきらきらと輝いている。 それを見つめながら、陽菜はそっと手を伸ばし、一条の前髪に触れた。「一条君、髪、少し伸びましたね。目にかかって邪魔じゃないですか?」一条はわざと陽菜の方へ頭を傾けた。その拍子に、陽菜の手は自然と一条の頭へ触れる。 まるで、自分から撫でてもらいにきたようだった。 陽菜は少し驚き、慌てて手を引こうとした。 けれど、一条はその手をそっと掴み、自分の髪の上へ戻してしまう。「このままでいい」 照れる様子もなく俯いて笑う一条を見て、陽菜も自然とその髪を優しく撫でた。 指先に伝わる髪は、とても柔らかい。 しばらくしてようやく、一条は名残惜しそうに陽菜の手を離した。 顔の痣もだいぶ薄くなり、表情も以前よりずっと明るい。 そんな一条が嬉しそうに笑っている姿を見るだけで、陽菜まで嬉しくなってしまう。 傷の具合が気になり、陽菜は一条の顔をじっと見つめていた。 傷がちゃんと治っているか確かめたかっただけなのに、あまりにも長く見つめすぎたのだろう。 一条の耳がみるみる赤く染まっていく。 照れ隠しをするように、小さく咳払いを一つした。「藤野……俺って、結構かっこいい方だよな?」「えっ?」 あまりに突然の質問に、陽菜はきょとんと目を瞬かせる。 その反応を見て、一条はますます恥ずかしくなったらしい。 これまで、自分の見た目をこんなふうに気にしたことはほとんどなかった。 昔から格好いいと言われることは多かったし、自分でも悪くない方だとは思っている。 けれど、陽菜にこんなにもじっと見つめられると、自分の顔は本当に陽菜の好みに合っているのだろうかと、急に自信がなくなってしまった。「その……俺って別に不細工じゃないよな? 藤野はどう思う? 俺のこと、かっこいいって思ったこ
Last Updated: 2026-06-28
Chapter: 第154話 一条の母親の言葉はとても温かく、陽菜は思わず目頭が熱くなった。 母親を見つめる瞳には、感動と感謝の色が滲んでいる。「私……」「藤野さん、勘違いしないでくださいね。別に何かを急かしたいわけじゃないんです。修司はいい子なんですけど、これまでちゃんとした恋人ができたことがなくて……親としては少し心配で、つい余計なことまで話してしまいました」「一条君は……本当に素敵な方です」「そう思っていただけているなら、私はそれだけで十分です」 家に着くまでの間、一条の母親は修司が幼い頃の失敗談や微笑ましい思い出をいくつも聞かせてくれた。 車内には終始穏やかな空気が流れ、陽菜もいつの間にか緊張がほぐれ、気づけば最近の一条の様子を楽しそうに話していた。 もっとも、話題は仕事中の出来事ばかりだったが、一条の母親はそれでも嬉しそうに耳を傾けてくれる。 マンションへ着く頃には、今度一緒に買い物へ行きましょうとまで誘ってくれた。「藤野さんとは、きっと気が合うと思うんです。お時間がある時は、私にも付き合ってくださいね」「ありがとうございます、お母様」 家へ帰ると、入れ違うように一条から電話がかかってきた。 どこか声を潜めながらも、その口調には隠しきれない得意げな響きが混じっている。「藤野、もう家着いた?」「はい。今ちょうど帰ったところです」「当たった。ちゃんと時間計算して電話したんだ」 入院中の一条にはできることがほとんどない。 だから陽菜が帰る時間をずっと計算しながら待っていて、ちょうどその頃を見計らって電話をかけてきたのだった。「ふふ、本当にぴったりですね、一条君」「藤野、少し離れただけでも、もう会いたくなっちゃった。どうしよう」 以前の一条なら、こんなふうに真っ直ぐ気持ちを口にすることはなかった。 一度想いを伝えてくれたあとも、鷹宮の存在を気遣って、それ以上踏み込んでくることはなかったのに。 それがこの二日間は、まるで遠慮がなくなったかのように真っ直ぐ想いを伝えてくるものだから、陽菜はすっかり振り回されてしまった。 受話器を当てた耳まで熱くなり、声まで少し上ずってしまう。「い、一条君……急にどうしたんですか」「俺、本気で藤野を口説いてもいい? もう藤野と凌は……。事故に遭った時さ、真っ先に思ったんだ。もっと藤野と一緒にいたかったって。
Last Updated: 2026-06-26
Chapter: 第153話 一条の言葉に陽菜は思わず目を丸くした。 次の瞬間には頬がみるみる赤く染まり、しどろもどろになってしまって、うまく言葉が出てこない。 しばらくしてようやく、小さな声で口を開いた。「お、お母様……初めまして」 それだけ言うのが精一杯だった。 もっとも、一条がわざわざそんな説明をしなくても、一条の母親はとても穏やかで優しそうな女性だった。「こんにちは。いつも修司がお世話になっています。この子、小さい頃から落ち着きがなくて、あまりしっかりした性格でもないんです。藤野さんにはご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが、何か気になることがあったら、遠慮なく叱ってあげてくださいね」 その言葉に、一条はすぐさま不満そうな声を上げた。「母さん、俺そんなに頼りない? 藤野の前なんだから、少しくらい褒めてくれてもいいじゃん」「そのぐるぐる巻きの姿を見て、どこを褒めろっていうの? まるでちまきみたいじゃない」「母さん、俺こんな大怪我してるのに笑う?」 二人のやり取りを見ているだけで、普段からとても仲のいい親子なのだと伝わってくる。 その温かな空気につられて、陽菜も思わず吹き出してしまった。 陽菜が笑ったのを見ると、一条も嬉しそうに笑う。 そんな息子の様子を見て、一条の母親は呆れたように小さく首を振りながらも、優しく口元を緩めた。 面会時間が終わると、一条は名残惜しそうに陽菜へ別れを告げた。 その表情はまるで捨てられた子犬のようにしょんぼりとしていて、陽菜が「明日もまた来ます」と何度も約束してようやく諦めたように口を尖らせる。「……しょうがない。じゃあ、また明日」 病室を出て下へ降りる途中、まだ帰っていなかった一条の母親と鉢合わせた。 手には何枚かの書類を持っていて、おそらく医師から受け取ったものなのだろう。 陽菜に気づくと、一条の母親はにこやかに声をかけてきた。「藤野さん、お帰りですか? よかったら、お送りしましょうか」「いえ……そんな、ご迷惑になりますので」「気にしなくて大丈夫。それに、私も藤野さんともう少しお話ししたいなと思っていたんです」 そう言われてしまい、陽菜は断り切れず、一条の母親と一緒に病院の駐車場へ向かった。 歩きながら、頭の中には鷹宮の母親から向けられた冷たい言葉や、刃物のように鋭かった視線が何度も蘇る。 そのたび
Last Updated: 2026-06-26