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Novels by るるね

愛し続けた彼を、私は手放すことにした

愛し続けた彼を、私は手放すことにした

彼を何年も愛し続けてきた。 一緒にいたくて、結婚したくて、どんな手段も努力も惜しまなかった。 たとえ彼の心に、消えない誰かがいたとしても――愛があれば、すべて乗り越えられると信じていた。 けれど現実は、違った。 この関係にあるのは、たった一人分の愛だけ。 ほんの小さなひびさえ、致命的な痛みへと変わっていく。 だから今日、私は彼を愛することをやめる。 ――離婚まで、あとわずか。
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Chapter: 第93話
 紗月自身も、ここまで強く拒絶反応を示すとは思っていなかった。 まだ意識はぼんやりしていて、身体もまともに力が入らない。頭も上手く働かないまま、慎一を前にした瞬間――ただ反射的に、本音が出てしまったのだ。 拒絶してしまったあとになって、紗月は少しだけ後悔した。さすがに今の態度は、悪かったかもしれない。 けれど、自分を責めるより先に、慎一の冷たい笑い声が落ちてくる。 その目には、いつものように軽蔑が滲んでいた。「まるで俺がお前に触りたがってるみたいな反応だな」 吐き捨てるように言ってから、慎一は鼻で笑う。「わざわざ俺の前で倒れたくせに。……相変わらず大した手だな、紗月」「……」 紗月は何も言えなかった。 慎一に誤解されることなんて、今まで何度もあった。 忘れたつもりでいた。 気にしないようにしていた。 本当は、そのひとつひとつが、心の奥にずっと積み重なっていたのだ。 昔は必死に弁解していた。 少しでも自分を理解してほしくて、嫌われたくなくて、何度も言葉を尽くした。 でも今は、もうそんな気力も残っていない。 胸の奥だけは、相変わらず慎一の言葉ひとつで痛むのに。反論も、言い訳も、何ひとつ口にできなかった。 ――慎一がそう思いたいなら、それでいい。 どれだけ頑張っても、この人の考えは変わらない。 少し前までは、どれだけ遠くても、想い続けていればいつか届くのだと思っていた。 いつか振り向いてもらえると。 いつか、自分を見てくれる日が来るのだと。 今となっては――そんなふうに信じていた自分が、ひどく滑稽に思えた。「どうした。図星か?」 紗月が俯いたまま何も言わないのを見て、慎一は彼女が言い返せないのだと勝手に解釈した。 視線に宿る軽蔑がさらに濃くなる。 その一方で、胸の奥には妙な安堵もあった。 こんな真似をするということは、紗月はまだ自分の気を引こうとしている。 まだ自分へ執着している。 そう思った瞬間、胸の内に張りついていた得体の知れない焦燥が、わずかに薄れていく。 (やはり紗月は、自分から離れられない。) その確信が、不思議なほど慎一を落ち着かせた。 ただ、自分の身体を壊してまで気を引こうとするやり方は、気に入らなかった。 慎一は不機嫌そうに眉を寄せたまま、低く硬い声で続ける。「医者に点滴は打たせた。
Last Updated: 2026-05-28
Chapter: 第92話
 紗月は、自分が深い海の底へ沈んでいくような感覚に包まれていた。 どこを見渡しても、果てのない闇しかない。 息苦しいのに、不思議と冷たくはなかった。 むしろ、ぬるい水に全身をゆっくり侵されていくような、淡い温度だけがあった。 足元にも何もない。 地面を踏みしめる感覚はなく、底の見えない闇へ引きずり込まれていくような恐怖だけが、じわじわと身体にまとわりついてくる。 紗月は前へ進もうとした。 けれど、どれだけ歩いても景色は変わらない。闇から抜け出すこともできなかった。 行く当てもないまま、それでも彼女は歩き続けた。疲れすら感じない。ただ意味もなく、ひたすら前へ。 やがて立ち止まり、気づいてしまう。 ――どれだけ足掻いても、結局は無駄なのだと。 そして、ふと理解した。 現実でも、この奇妙な暗闇の中でも、きっと同じなのだ。 水面に浮かぶ月のように。どれほど焦がれても、求め続けても。それは決して、自分のものにはならない。 目を開けるより先に、誰かが自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。 ひどく切羽詰まった声音だった。意識の霞んだ紗月には、それが誰なのか分からない。 次の瞬間、強い光が瞼越しに差し込み、紗月は眉を寄せて再び目を閉じた。 すると不意に、手へ重みが落ちる。 誰かに強く握られている。 痛みを感じ、紗月は小さく呻いた。「……っ」 その声を聞いた途端、手を掴んでいた力はすぐに離れていった。* 紗月が倒れてからの数時間、慎一は自分でも理解できない焦燥感に苛まれていた。 落ち着かない。 妙に胸がざわつく。 そんな自分自身に、慎一は苛立っていた。 相手は紗月だ。 ただ気を失っただけかもしれない。あるいは、自分の前でまた芝居をしている可能性だってある。 それなのに、なぜここまで神経を乱されなければならないのか。 だが結局、社長室へ紗月を運び込むと、慎一はすぐ朝倉家専属の家庭医へ連絡を入れていた。 医師は十五分ほどで到着した。 呼吸や脈拍、瞳孔反応を手際よく確認し終えると、医師は慎重に慎一の顔色を窺いながら口を開いた。「朝倉様。奥様ですが……おそらく過労かと」「過労?」「かなり体温が低いですね。脈も弱いですし、低血糖を起こしている可能性もあります。ひとまず点滴を入れますが……目を覚まされた後、一度きちんと病院で精密検
Last Updated: 2026-05-27
Chapter: 第91話
 ここ数日、逃げるように仕事へ没頭し続けたせいで、身体はとっくに限界を迎えていた。 それなのに、紗月は目を閉じても眠れなかった。 終わりの見えない、ひどい不眠だった。 眠れないだけではない。 食欲もほとんど失われていた。数日間、まともに口にできたのはほんの少しだけ。顔色も明らかに悪く、普段そこまで親しくない同僚ですら「大丈夫ですか」と声を掛けてくるほどだった。 けれど紗月自身は、自分が壊れているとは思っていなかった。 まだ働ける。 数字や資料で頭を埋め尽くしている間だけは、余計なことを考えずに済む。それがここ最近、唯一息をつける時間だった。 幸い、プロジェクト自体は順調に進んでいた。 第二フェーズの定例報告会も目前に迫っている。 徹夜で仕上げた資料とプレゼン用のPPTを蒼空へ渡した瞬間、彼は大げさなほど目を輝かせ、五分近くずっと紗月を褒め続けた。「紗月さん、すごすぎます! これ、めちゃくちゃ時間かけましたよね? ……というか、顔色かなり悪くないですか? 報告会、本当に大丈夫です?」 紗月は小さく笑って首を振った。 疲労のせいで、その笑みはどこか弱々しい。「大丈夫。ちゃんとできると思う」 この報告会を、彼女はずっと楽しみにしていた。ほとんど、自分のすべてを注ぎ込んできたと言ってもいい。 ようやく自力で掴み取った案件だった。 だからこそ、何より大切だった。 前回は慎一のせいで、報告の場を逃した。だから今回は、絶対に失いたくなかった。 欲しいものは、いつだって手に入らない。 せめて仕事だけでも。 自分が努力した分だけ返ってくる成果くらいは、ちゃんと掴みたかった。 紗月の言葉を聞いた蒼空は、一瞬だけ複雑そうな顔をした。 同情にも似ているのに、それだけではない何かが混ざったような表情。 けれど、それもほんの一瞬だった。 今の紗月には、そんな違和感に気づく余裕すらなかった。 蒼空によれば、報告会は来週月曜。 そんな重要な日程ですら、紗月は最後になって知らされた。正式な通知メールも来ていない。 関連書類やデータを一通り引き継ぎ終える頃には、蒼空が本社へ戻る時間になっていた。 エレベーターへ向かう途中、紗月はめくれ上がっていた廊下のカーペットに足を取られた。「っ……」 身体が大きく傾く。 その瞬間、蒼空が咄嗟に紗月の
Last Updated: 2026-05-25
Chapter: 第90話
 紗月にとって、家へ帰らなかった夜は、これが初めてだった。 彼女はそのまま会社に残り、正田から渡された資料を確認し続けていた。 読み進めるほどに、フォルダの中には他部署の案件資料まで大量に混ざっていることに気づく。しかも、どこに問題があるのか明記されているわけでもない。 紗月はひとつひとつファイルを開き、全文を読み込み、さらに社内オンラインストレージから関連するプロジェクト資料を探し出して照合していった。 ひどく非効率な作業だった。 それでも彼女は手を止めなかった。 何か別のことに集中していなければ、頭の中に浮かんでくる慎一のことを、どうしても振り払えなかったからだ。 愛していた人が、こんなにも醜く見えてしまう。 その事実が、紗月には苦しかった。 その夜、紗月は会社の仮眠室で過ごした。 照明を落としても、室内は完全な暗闇にはならない。 カーテンのない窓からは、向かいに立ち並ぶオフィスビル群の灯りが絶え間なく差し込み、白く滲んだ光が静かな仮眠室をぼんやりと照らしていた。 紗月は眠れなかった。 ソファに横になったまま、紗月はただ窓の外の夜景を眺めていた。 仕事の手を止めた途端、脳裏ではまた慎一との記憶が勝手に流れ始める。まるで停止ボタンの壊れた映写機みたいに、次から次へと映像が再生されていった。 逃げられない。 振り払えない。 慎一を思い浮かべるだけで、涙が勝手に溢れてしまう。 不思議だった。 慎一に酷い扱いを受けるのは、今さら始まったことじゃない。 結婚したあの日から、紗月の日々はずっと、光のない夜の中にいた。 先に希望なんて見えない。 それでも彼女はひとりで歩き続けてきた。 苦しくても。 辛くても。 絶望しても。 それでも慎一を愛していたから、全部を抱えたまま耐え続けてきた。 だから今まで、こんなふうに泣いたことなんてなかった。 諦めようと思ったことも、一度だってない。 もしかしたら、三年分の涙が限界を迎えただけなのかもしれない。 蓋をしていただけで、痛みも、報われない想いも、ずっと胸の奥に残っていた。 開ける前に激しく振られた炭酸みたいだった。 蓋を開けなければ平気だったのに、一度溢れ出してしまえば、もう止められない。 最初は静かに涙を流していただけだった。 気づけば紗月は、小さく身体を丸めたま
Last Updated: 2026-05-24
Chapter: 第89話
 慎一が朝目を覚ましたとき、隣はすでに空だった。今度は、紗月のほうが先に出ていったらしい。 時計を見る。まだ六時にもなっていなかった。 紗月が何時に起きたのかは分からない。以前なら、先に出ていくのはいつも慎一のほうだった。 それを今朝は紗月に先を越されたのだと思うと、慎一は妙に面白くなかった。 別に気にしているわけじゃない。 紗月がいないほうが、むしろ都合がいい。ようやく身の程をわきまえたというだけだ。 そう思っているはずなのに、ベッドを下りる前、慎一はまるで何かに取り憑かれたように、隣のシーツへ手を伸ばしていた。  そこに残る体温を確かめる。もう冷えきっているのかどうか。それさえ分かれば、紗月がいつ出ていったのかも分かるとでもいうように。 自分が何をしているのかに気づいた途端、慎一自身もさすがに馬鹿げていると思った。 苛立たしげに、低く鼻を鳴らす。 いったい何に腹を立てているのか、自分でも分からなかった。 朝の五時台、空はまだ薄暗い。雨のせいで外気は冷え込み、室内にも湿った冷たさが入り込んでいる。 慎一は部屋を出ると、何気ないふりをして家の中を一巡した。そして最後に、紗月の閉ざされた部屋の扉の前で視線を止める。 これまでの慎一なら、この家に一秒でも長くいるだけで不快だったはずだ。 それなのに今は、わざわざキッチンへ行き、豆から挽いてコーヒーを淹れる余裕まであった。 ゆっくりと時間をかけて、それを飲み干す。 そのあいだも、意識はずっと散漫だった。 扉の向こうで、紗月はまだ眠っているのだろうか。 気づけばカップは空になっていた。 それでも家の中は静まり返ったままで、自分以外の気配はどこにもない。 結局、慎一は無意識のうちにひどく時間をかけてから、ようやく家を出た。 玄関で初めて気づく。 紗月がいつも通勤に履いている靴は、とうに消えていた。* その日、紗月は会社に一番乗りした。 夜中に目を覚ましてから、ずっと眠れなかった。 慎一のそばにいたせいかもしれない。 けれど自分の部屋に戻ってからも、眠気は少しも訪れなかった。 理由もなく気持ちは沈んでいるのに、心臓だけは昂ぶったまま、どくどくと音を立てている。苦しかった。 目を閉じるだけで、慎一との記憶が次々と押し寄せてくる。 いい思い出も、悪い思い出も、入り混じって
Last Updated: 2026-05-23
Chapter: 第88話
 今回は、これまでで一番長かった。 そのうえ、終わりの見えない苦しさだった。 ただ欲を発散するだけなら、慎一はもっと早く終わらせる。 今夜の彼は違った。紗月を壊したいかのように、じわじわと逃げ道を塞いでくる。 慎一の指先は、少しも容赦をくれなかった。紗月の知らない触れ方を、彼はいくつも知っていた。 途中から紗月は泣きすぎて声が掠れ、まともに言葉も出せなくなっていた。 身体は震え続け、息も上手くできない。 それなのに慎一だけは、最後まで乱れない。 シャツもきっちり閉じられたまま。ネクタイこそ外れているものの、それ以外は普段の彼と何も変わらない。 ただ一か所だけ、隠しきれない熱を帯びている以外は。 まるで、愛し合っているとは思えなかった。汗と涙で乱れているのは紗月だけで、シーツにまで湿り気が残っている。「や……もう、やだ……」 こんな強い快感、もう耐えられない。 波のように押し寄せる感覚が、慎一のせいで何度も終わってくれない。身体を激しく揺さぶられるたび、頭の奥まで白く痺れていく。 もう、これ以上は続けたくなかった。 涙で滲む視界の向こう、慎一を見上げながら、紗月はかすれた声で懇願した。 慎一はぴたりと手を止めた。 降ってきた声は、変わらずひどく冷たかった。「紗月。入れてほしいなら、自分から頼め」 そんなこと、言いたくなかった。 悔しくて。 惨めで。 それでも慎一の思い通りになるのが嫌で、紗月は唇を噛み締める。 黙ったままの紗月を見て、慎一はまた指を動かし始める。 許してくれるつもりなんて、最初からない。 結局、耐え切れるはずもなかった。 紗月は涙でぐちゃぐちゃになりながら、途切れ途切れに彼の望む言葉を口にする。 その瞬間、また新しい熱に呑み込まれた。* どれくらい時間が経ったのか、もう分からなかった。 途中から記憶は途切れ途切れで、紗月はいつの間にか意識を手放していた。限界まで体力を使い果たし、そのまま眠りに落ちたのだろう。 再び目を開けた時、部屋は薄暗い夜に包まれていた。 閉め切られていないカーテンの隙間から、夜の気配だけが淡く差し込んでいた。 喉が痛い。 身体は鉛みたいに重く、指先ひとつ動かすのも億劫だった。 しばらくぼんやりと天井を見つめていた紗月は、ようやく違和感に気づいた。 いつの
Last Updated: 2026-05-21
二度目の人生、捨てたはずの彼が今さら愛を乞う

二度目の人生、捨てたはずの彼が今さら愛を乞う

結婚して三年。 紗那はようやく、夫・裕司がずっと“理想の夫”を演じていただけだったと知る。 彼が本当に愛していたのは、紗那ではなく妹の千織だった。 すべてを奪われ、最後は二人に仕組まれた事故で命を落とした――はずが、次に目を覚ますと結婚式当日に戻っていた。 二度目の人生で彼女が決めたことはただ一つ。 裕司と千織、そして自分を地獄へ突き落としたすべてを捨てること。 だが離れようとするほど、裕司は以前とは違う執着を見せ始める。 外面完璧な夫。 誰も信じてくれない真実。 それでも紗那は、もう二度と彼に人生を奪わせない。
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Chapter: 第5話
 痛みに顔を歪め、必死に裕司の手から逃れようとする紗那の姿も、両親の目には、子どもを失ったことによる取り乱し方にしか映っていなかった。 泣くことも、叫ぶこともできる。 なのに、自分が受けた仕打ちだけは、どうしても言葉にならない。 大きな事故や強い精神的衝撃を受けた人間が、一時的に言葉を失うことがある――そんな話を、紗那はどこかで聞いたことがあった。 けれど、自分がまさにその状態なのだとは理解できない。 伝えたいのに伝わらない。 焦れば焦るほど、紗那は錯乱した狂人のように見えていった。 裕司が沈痛な顔を作る。「紗那、大丈夫だ。落ち着け。子どものことは……君のせいじゃない。俺たち、きっとまた子どもを授かれる。だから、まずはちゃんと元気になろう」「ぁああああっ……!! ああっ……!」 涙を流しながら、紗那は腕を振り回して裕司を叩こうとした。 だが、弱り切った体ではほとんど力が入らない。指先がかすかに触れる程度だった。 裕司は傷ついたように目を伏せ、そのまま背を向ける。 正則から見えない位置で、彼の口元がわずかに吊り上がった。 同時に、紗那の手を握る力がさらに強くなる。 針の刺さった箇所を押し潰すように圧迫され、滲んだ血がじわりと広がっていく。その赤さは、裕司の掌の中へ巧妙に隠されていた。 紗那は声にならない。 だから叫ぶしかない。 怒りも、苦しみも、絶望も。 すべてを、獣のような悲鳴に変えるしかなかった。 何より耐え難かったのは、子どもを殺した張本人――その父親である裕司が、平然と父の前に立ち、“子どもを失った可哀想な夫”を演じていることだった。 正則でさえ、裕司へ向ける目には歉意と同情を滲ませている。 やがて千代子が看護師を連れて戻ってきた。 紗那の絶叫と取り乱した様子を見た看護師は顔色を変え、すぐに病室を出て医師を呼びに行く。 ほどなくして白衣の医師が二人の看護師を伴って現れた。 医師は紗那の状態を確認すると、看護師に片腕を押さえさせ、そのまま素早く上腕へ鎮静剤を打ち込む。 薬液が体内へ流れ込んでいく。 しばらくすると、全身が深い水の底へ沈んでいくようだった。 手足が重い。 持ち上がらない。 頭の中には濃い霧がかかったように意識がぼやけ、ベッドに横たわっているだけなのに激しい眩暈がした。 世界がぐるぐると
Last Updated: 2026-05-14
Chapter: 第4話
 痛みがあまりにも激しく、紗那は何が起きたのか理解する前に、意識が突然電源を落とされたテレビのようにぷつりと途切れた。 次に目を覚ましたとき、そこは病院だった。 全身が殴られた後のように重く、少しも動かせない。 右手は固定され、点滴の針が刺さっている。透明な薬液が一滴、また一滴と規則正しく落ちて、彼女の体内へ流れ込んでいた。 紗那は真っ先に、自分の腹へ手を伸ばした。 言葉にできない痛み。 空虚。 絶望。 すべてが一瞬で押し寄せてくる。確かめなくても、体の中で何が変わってしまったのか、紗那にははっきりとわかった。 口を大きく開けた。 泣きたいのに、なぜか声が出ない。 結局、彼女はただ真っ白な病院の天井を見つめたまま、涙だけをぼろぼろとこぼし続けた。涙はこめかみを伝い、髪の中へ、枕へと落ちていく。 一生分の涙を、ここで流し尽くしてしまうかのようだった。 それでも涙は、少しも枯れなかった。 どれほど時間が経ったのか。 病室の外から物音がした。涙に濡れた視界の中で、紗那は両親が慌ただしく入ってくるのを見た。 知らせを受けてすぐ駆けつけたのだろう。涙を流す紗那と目が合った瞬間、母の|千代子《ちよこ》の目にも悲しみが移ったように涙が浮かび、彼女はベッドのそばへ駆け寄るなり、点滴の刺さっていないほうの手を握った。「ああ……かわいそうな子……。裕司さんから聞いたわ。階段から落ちたんですって? どうしてそんなに不注意だったの……」 千代子は涙ぐみながら、紗那の手を痛いほど強く握りしめた。「かわいそうに……赤ちゃんまで……。裕司さんも、子どもは駄目だったって……あなたが思い詰めないよう、ちゃんと支えてあげてほしいって言っていたのよ」 千代子は、昔から裕司の言葉ばかりを信じていた。 裕司が、紗那は自分で階段から落ちたのだと言えば、疑いもしない。 紗那を見る目には深い痛ましさがあった。けれど同時に、どうしてそんなに不注意だったのかという責める色も混じっていた。「まだ小さな命だったのにね……私たちは、その子がいたことさえ知らないまま、お別れすることになってしまったなんて……」 紗那が流産した子どものことを、千代子はひどく惜しんでいた。 紗那が結婚して三年になる。千代子はずっと、娘が母親になる日を待ち続けていた。 ようやく授かった最初の子が
Last Updated: 2026-05-11
Chapter: 第3話
 妊娠がわかったのは、ほんの数日前のことだった。 ここ最近ずっと体調に違和感があった。生理もなかなか来ず、もしかして……と、うっすら予感はしていた。 そして検査薬を使った結果、本当に妊娠していると知った。 あの瞬間、紗那は心から嬉しかった。 結婚後も、裕司は彼女に仕事を辞めろと言ったことはない。自由を制限したこともなかった。 結婚式の日、彼は紗那にこう誓ったのだ。 ――結婚しても、君の人生を縛ったりはしない。 紗那には、紗那自身の人生と自由がある。 その言葉に、紗那は感動して泣いた。 裕司は、紗那が仕事を好きなことも、キャリアを手放すつもりがないことも理解していたのだと思う。 だから三年間、夫婦として身体を重ねることは少なくなかったが、彼は徹底して避妊をしていた。 避妊薬は身体に負担がかかるからと、紗那には飲ませなかった。いつも自分で避妊具を使い、万が一を避けるよう慎重にしていた。 それでも紗那は、もし子どもができたとしても構わないと思っていた。 愛する人との子どもなら、産みたいと願っていた。 妊娠を知ってから、紗那は一人で何度もお腹に触れた。 嬉しくて、幸せでたまらなかった。 すぐには裕司へ伝えなかったのは、もっと特別なタイミングで驚かせたかったからだ。 まさかその前に、こんな地獄を見せられるとは思わなかった。「子ども……っ、う……痛……っ……」 床の上で苦しそうに身を縮める紗那を見ても、裕司はまるで動じなかった。 同情も、憐れみも、欠片すら浮かばない。 まるで彼女が、三年間連れ添った妻ではなく、赤の他人であるかのように。「子ども?……何を馬鹿なこと言ってる」 下半身から血を流している紗那を見ても、男は眉ひとつ動かさない。 千織が不安そうに裕司の袖を引いた。「裕司……紗那お姉さん、すごく血が……もしかして……」「見るな。目が汚れる」 吐き捨てるように言ってから、裕司は冷たく嗤った。「……それに、仮にこの女が妊娠してたとしても、俺の子なわけがないだろ。俺の子を産みたい? こいつが? 笑わせるな。身の程を知れ」 紗那の呼吸が止まる。 あまりにも非情な言葉だった。 全身の血が凍りつくような感覚に襲われ、紗那は目を見開いたまま動けなくなる。 目の前にいるのは、本当に自分の夫なのか。 それとも、人の皮を被っ
Last Updated: 2026-05-10
Chapter: 第2話
 紗那が裕司を愛していた分だけ、今の彼女は壊れそうなほど泣いていた。 結婚してからの三年間、裕司は一度たりとも、彼女をこんな絶望に突き落としたことはなかった。 彼の演技が上手すぎたと言うべきなのだろうか。この三年間、紗那は彼を愛し、そして心の底から、裕司もまた自分を愛しているのだと信じていた。 たとえ裕司が口数の少ない人でも。 あまり笑わない人でも。 それでも、自分を見る彼の眼差しには確かに愛情が宿っていた。 今朝だってそうだ。 出勤前、まだ寝ぼけていた紗那に、裕司はベッドの上で軽くキスをしてくれた。あの口づけはあまりにも優しくて、今でもはっきり思い出せる。 なのに、どうして。 ほんの数時間で、こんなことになってしまったのだろう。 どうして裕司は、まるで別人のようになってしまったのだろう。 紗那にはわからなかった。「裕司……!どうして……どうして他の女と……!しかも、妹同然の女と……!あなた、自分の妹と寝てるの!?気持ち悪くないの!?」 涙で声を震わせながらも、紗那は必死に問い詰める。 その取り乱した叫びに、裕司は不快そうに眉を寄せた。 顔色は険しく、向けられた声音は、紗那がこれまで一度も聞いたことのないほど冷たい。「紗那。言葉には気をつけろ」「裕司……紗那お姉さん、そんなふうに私たちのこと言うなんて……ひどい……」 千織もまた、絶妙なタイミングで裕司へ甘えるように身を寄せる。 その声を聞いた瞬間、紗那は吐き気を覚えた。 以前の彼女は、千織を本当に妹のように思っていた。可愛くて、才能もあって、どこか放っておけない子だと。 まさかその女が、自分の夫にまで手を伸ばしていたなんて。「最低……っ、この女……!」 煮えたぎる憎悪のまま、紗那は千織へ向かって駆け出した。 だが、その手が千織に届くことはなかった。「きゃっ……!」 千織の悲鳴が響いた直後、腹部に強烈な衝撃が叩き込まれる。 次の瞬間、紗那の身体は軽々と吹き飛ばされ、そのまま床へ激しく叩きつけられた。 下腹部から全身へ、焼けるような激痛が駆け巡る。 声も出せないまま、紗那は呆然と目の前の男を見上げた。 ――今、自分を蹴ったのは裕司だった。 愛する女を庇うために。 その腕の中の女を守るために。 彼は、自分の妻へ向かって一切の躊躇なく蹴りを入れたのだ。 
Last Updated: 2026-05-10
Chapter: 第1話
 三年前、|紗那《さな》は最も愛する人と結婚した。 表向きは家同士の政略結婚。 少なくとも彼女自身は、それが愛による結婚だと信じていた。家の利益のためではなく、自分は愛されているのだと。 |白府裕司《しらふゆうじ》。 彼は結婚式で、彼女に永遠の幸福を約束した。 生涯を共にすると誓った。 あのときの誓いの言葉は、あまりにも誠実で、愛に満ちていた。だからこそ三年後、裕司が別の女性とホテルにいると知った今でも、紗那はあの日彼が口にした一言一句を思い出してしまう。 ホテルの柔らかな絨毯の上を歩きながら、紗那の心もまた足元と同じようにふわふわと沈み、どこにも着地できずにいた。 裕司が浮気をしている兆しは、今日に限ったことではない。それでも、こうして現実として突きつけられたのは、今日が初めてだった。 見知らぬ相手から送られてきた写真――裕司のベッドでの姿を目にした、その瞬間から。 写真の中で、裕司は優しく微笑んでいた。まるで春風のような穏やかな笑み。それが、紗那には吐き気を催すほどに嫌悪感を抱かせた。 これまでずっと、紗那は裕司のことを、無口で感情を表に出さない、どこか冷たい人間だと思っていた。 結婚式でもあまり笑わず、ただ誓いの言葉を読むときだけ、目元を潤ませ、声をわずかに震わせていた。 あのとき、彼も感動しているのだと、紗那は信じていた。 だが今になって思う。 あの誓いは、本当に自分に向けられたものだったのだろうか。 紗那の中で、その確信が崩れていく。「あなたの夫、本当にあなたのことを想っていたと思う?」 今朝、突然そんなメールが届いた。 画像が表示された瞬間、紗那は眠りから叩き起こされたかのように目を見開いた。 写真は何枚もあった。場所も服装も違う。つまり、異なる時期に撮られたものだ。 ただ一つ共通しているのは、そこに映っている女性が常に同じ人物であること。 そして、裕司が彼女に向ける視線も、笑みも、紗那が一度も向けられたことのないものだった。 その女性の顔に、紗那は見覚えがあった。 |白府千織《しらふちおり》――裕司の名目上の妹。白府家の養女であり、血の繋がりはない。 祖父の旧友が亡くなり、その遺された子どもを不憫に思って引き取った――そんな話を聞いたことがある。 千織が白府家に来たのはすでに小学生の頃だったため、養
Last Updated: 2026-05-03
一夜の再会から始まる、雇われない恋

一夜の再会から始まる、雇われない恋

居場所を失った藤野陽菜は、住み込みの家政婦として、ある屋敷で働くことになる。 雇い主は若くして事業を成功させた実業家・鷹宮凌。穏やかで礼儀正しい彼との距離は、最初こそよそよそしかったが、共に暮らすうちに少しずつ心が通い始める。 けれど、陽菜は気づいてしまった。 彼の視線の奥に、もういない「誰か」の影があることを。
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Chapter: 第138話
 月乃に指定された場所へ着いた頃には、時刻はすでに夜七時を回っていた。 地下駐車場の入口付近には、人の姿はない。陽菜は少し迷った末、その場で月乃へ電話をかける。 呼び出し音は、数秒もしないうちに途切れた。 まるで最初から、陽菜からの電話を待ち構えていたみたいに。「月乃ちゃん? もう着いてる?」『陽菜ちゃん、今どこ? ずっと待ってるの……』 月乃の声は妙に焦っていた。 切羽詰まったように、何度も陽菜の場所を確認してくる。「地下駐車場の入口にいるよ。来ればすぐ分かると思うけど……」 地下駐車場の出入口は一つしかない。 陽菜自身、かなり分かりやすい場所に立っているつもりだった。 けれど月乃は、なぜか一瞬言葉に詰まったあと、小さな声で言った。『ごめん陽菜ちゃん……今、車の中にいて……ちょっと上に行けなくて』 そして遠慮がちに続ける。『下まで来てもらえないかな……?』 断られるのを恐れるように、月乃はすぐ涙声を混ぜた。『お腹、すごく痛くて……赤ちゃん、何かおかしいのかな……。さっき薬飲んじゃって……どうしよう……』「え……?」 薬という言葉に、陽菜の胸が強くざわついた。「月乃ちゃん、今どこにいるの?」 位置を聞き出すと、陽菜は急いで地下駐車場へ向かう。 途中、どこか妙な違和感はあった。 けれど、心配が先に立ってしまったのだ。 それに陽菜は元々、人を悪意で疑うことが苦手だった。 だから。 自分が騙されているなんて、最後まで考えもしなかった。* 気づいた時には、もう遅かった。 陽菜はワンボックスカーの中へ押し込まれていた。両脇には黒服の男が二人。逃げようとしても、すぐ腕を掴まれる。 そこでようやく、陽菜は理解する。 月乃に騙されたのだと。 妊娠して苦しんでいるという話も。 泣きながら助けを求めてきたことも。 全部、嘘だった。 実際の月乃は、むしろ最近かなり満たされているように見えた。 顔色もよく、以前より少しふっくらしている。 身につけているアクセサリーはどれも高級ブランド品で、目立つロゴがこれでもかと主張していた。 まるで、自分は選ばれた側なのだと誇示するみたいに。 陽菜の視線に含まれた失望と戸惑いを感じ取ったのか、月乃は先に苛立ったように口を開く。「何、その顔。別に私が好きでこんなことしてるわけじ
Last Updated: 2026-05-28
Chapter: 第137話
 陽菜は結局、月乃と会うことを了承した。待ち合わせ場所は、月乃が指定してきた場所だった。 送られてきた住所を確認した瞬間、陽菜はわずかに眉を寄せた。 指定されていたのは、とある商業ビルの地下駐車場。 検索してみると、そこは東和グループ傘下の関連会社が入っているビルだった。 少しだけ胸がざわつく。 けれど、月乃は電話口でずっと切羽詰まった様子だった。 妊娠なんて、人生を左右する大きな問題だ。突然そんな状況になれば、冷静でいられなくなるのも無理はない。 本当は、月乃からは何度も「今すぐ会いたい」と頼まれていた。 切羽詰まった声だったし、妊娠という状況を考えれば、陽菜も放っておけなかった。 けれど、平日に急に時間を空けるのは難しい。結局、二人が会う約束をしたのは、その週の金曜の夜だった。 月乃の妊娠相手が東和だったこと。 それは偶然にしては出来すぎているほど、陽菜自身が抱えている問題と繋がっていた。 陽菜は、その二つを結びつけて考えようとはしなかった。月乃はただ、不安定な状況の中で助けを求めているだけ。 そう思っていた。 そのあとも、月乃からは何度か電話がかかってきた。 どの声もどこか張り詰めていて、今にも泣き出しそうだった。 断片的に聞こえてきた話によると、あの日のパーティーで月乃は東和と関係を持ち、それ以降も曖昧な関係が続いていたらしい。「結婚も考えてくれるって言ってたの……陽菜ちゃん。私、騙されたのかな……」 月乃は涙混じりの声で呟く。「私が男の人を信じすぎたのかな。それとも、欲張りだったのかな……。でも私、ただ安心して頼れる人が欲しかっただけなのに……」 その声はあまりにも弱々しく、陽菜の胸にも罪悪感のようなものが滲んだ。 東和の人間性について、陽菜はすでに悪い印象を持っている。だから無意識のうちに、月乃を傷つけられた側として見てしまっていた。「月乃ちゃん……会ってから、ゆっくり話そう? 子どものことも、一緒に考えればいいから」 陽菜がそう言うと、月乃は安堵したように泣き笑いの声を漏らした。 けれど次の瞬間、月乃は何かを怖がるように声を潜め、念を押すように続けた。「陽菜ちゃん、このこと……誰にも言わないでほしいの。お願い……」「え……?」「陽菜ちゃんの周りの人にも……。未婚で妊娠したなんて、やっぱり恥ずかしい
Last Updated: 2026-05-25
Chapter: 第136話
 先に我に返ったのは一条だった。 陽菜の肩を抱いたまま、人通りの邪魔にならない場所まで連れていくと、低い声で問いかける。「藤野、大丈夫か? ……かなり驚いただろ」「あ……ご、ごめんなさい、一条君……」 陽菜は数拍遅れて現実へ戻ってきたように、小さく息を呑んだ。 顔色は白い。 驚きで心臓が激しく脈打っているせいか、自分がまだ一条の腕の中にいることにも気づいていなかった。 一条はそのことに気づいていた。気づいていて、すぐには離せなかった。 ようやく陽菜の呼吸が落ち着き、耳が理由もなくうっすら赤く染まり始めた頃、一条は名残惜しさを押し隠すように、ようやく腕を離した。 まるで、自分はただ心配しただけだと言い聞かせるみたいに。「藤野、今日なんか様子おかしくないか。……体調悪い?」 そう言いながら、一条はごく自然な仕草で陽菜の額へ手を伸ばした。 陽菜は一瞬、呼吸を忘れたように動きを止める。 触れた掌は思ったよりずっと温かくて、その熱がじわりと肌へ伝わってきた。 心臓が大きく跳ねる。 一条はすぐに手を離したものの、そのまま今度は自分の額へ同じ手の甲を当て、温度を確かめるように比べ始めた。 次の瞬間、彼の眉がわずかに寄る。 軽い調子ばかりだった表情から笑みが薄れ、声音にも少しだけ緊張が混じった。「……やっぱり、ちょっと熱ある気がする」「ち、違うんです。一条君。少し考え事してて、ぼーっとしてただけで……」「……念のため、帰ったら熱測れよ」 一条は珍しく真面目な口調で言った。「家に体温計あるよな?」 陽菜が困ったように首を横へ振る。 すると一条は呆れたように笑いながら、家に置かれている救急箱の場所を説明した。 それから、ふっと口元を緩める。「今度ちゃんと家の中も把握させないとな。……藤野、そういうの全然知らなさそうだし」* 家へ戻ったあと、陽菜は一条に言われた通り、素直に救急箱から体温計を探し出した。 測ってみると、結果は平熱。 どうやら一条が心配しすぎただけらしい。 陽菜は苦笑しながら、その写真を撮って一条へ送った。 すぐに返ってきたのは、『ならよかった』という短い返信。それだけなのに、胸の奥が少し温かくなる。 ここまで真っ直ぐに気にかけられることに、陽菜はまだ慣れていなかった。 申し訳なさもある。 けれど同時に
Last Updated: 2026-05-21
Chapter: 第135話
 ビニール袋の中に大事そうに入れられたままのいちご飴を見つめていると、陽菜の胸の奥に、またあの妙な感覚がじわりと浮かび上がってきた。 言葉にできない違和感。 ざわざわと、心臓のあたりを落ち着かなくさせる感覚。 陽菜は無意識に胸元へ手を添える。 顔を上げると、一条が余裕たっぷりにこちらを眺めながら笑っていた。 その表情を見た瞬間、違和感はさらに強くなる。「あ、ありがとうございます……一条君……」「工場見に行く途中でショッピングモール通ったんだよ。もしかしてあるかもと思って寄ってみたら、ほんとに売っててさ。ラッキーだった」「工場……そういえば、一条君、朝から新しい工場を見に行ってたんですよね。どうでしたか?」「ああ。凌に紹介してもらったところな。全体的にはかなりいい感じだった。あとはサンプルの品質次第かな。問題なければ、できれば早めに決めたい」 鷹宮の名前が出た瞬間、陽菜の胸が小さく揺れた。 表情に出ないよう気をつけながら、できるだけ自然を装って尋ねる。「……鷹宮さんが紹介してくださったんですか?」「そうそう。朝いきなり連絡来てさ。工場だけじゃなくて、見学の予約まで勝手に取ってくれてた。ほんと、他人の仕事にまで全力なんだよな、あいつ。だから仕事人間って言われるんだよ」 一条はまったく悪気なく笑っていた。 鷹宮が陽菜へ返事をしていないことなど、知らないのだ。 だからこそ、隠し事のない声音で、朝に鷹宮から電話があったことをそのまま口にする。 陽菜は自分でも説明できない感情を胸の奥に押し込みながら、表面上は小さく笑った。けれど、それ以上その場にいるのが苦しくなってしまう。 適当に理由をつけ、一条のオフィスをあとにした。 そのまま、いちご飴を持って休憩室へ向かう。 幸い、中には誰もいなかった。 本当は、食欲なんてほとんどなかった。 けれど、一条に「早めに食べろ」と何度も念を押されたことを思い出し、陽菜は袋の中からいちご飴をそっと取り出す。いちご飴の表面を覆う透明な飴が、照明を受けてきらりと光る。近づけるだけで、砂糖の甘い香りがふわりと漂う。 そっと一口かじる。 外側の飴は驚くほど薄く、ぱりん、と小気味いい音を立てて砕けた。 中のいちごも甘い。 酸味はほとんどなく、果汁がじゅわりと広がる。 なのに。 テーブルに置いたスマ
Last Updated: 2026-05-20
Chapter: 第134話
 この日の夜、一条は自分でもおかしいと思っていた。 これまでずっと上手く隠してきたはずの言葉が、今夜に限って次々と零れてしまう。 もう抑えきれなくなってしまったみたいに。心の奥に隠していた本音を、一句ずつ陽菜へ曝け出してしまっていた。 こんなふうに気持ちをぶつけても、陽菜を困らせるだけだ。 そんなこと、一条自身が誰より分かっている。 分かっているのに……止められなかった。「……俺なら、絶対にお前をあんなふうに言わせたりしないし、嫌な思いだって、絶対させない」 胸の奥では、何度も「やめろ」と自分に言い聞かせていた。 鷹宮は、自分にとって世界で一番大切な友人だ。 失いたくない存在で、誰よりも大事にしてきた相手。 そんな男から、奪いたいと思ってしまうなんて。 ――最低だ。 一条は、自嘲するように唇を歪めた。「ご、ごめんなさい……一条君……」 陽菜は怯えたように肩を小さく震わせ、視線を落とした。困ったように自分の足元を見つめたまま、一条の顔を見ようとしない。 触れれば壊れてしまいそうな、甘く張り詰めた空気。 けれど、その空気はそこで途切れた。 一条は小さく息をつき、諦めたように笑う。 これ以上、陽菜を困らせたくなかった。 ――いや。 本当は、自分自身が耐えられなくなりそうだったのかもしれない。だから彼は、わざと何でもないような顔を作ると、意図的に話題を変えた。「藤野。いちご串、食べたくない?」「えっ? いちご……串?」 あまりに急な話題転換に、陽菜はすぐ反応できない。「最近流行ってるらしいぞ。結構みんな買ってる」 一条の視線の先を辿ると、少し離れた場所にいる女子高生二人組が、いちご飴を手に笑っていた。 陽菜は思わずくすっと笑う。「一条君。それ、いちご串じゃなくて、いちご飴ですよ」 一条は数度ぱちりと瞬きをして、それからおかしそうに笑った。「へえ。ちゃんとそんな名前だったんだな」 本当に知らなかったのか。 それとも、わざと知らないふりをして、陽菜を笑わせようとしたのか。 その答えは、きっと本人にしか分からない。 一条にとっては、理由なんてどうでもよかった。陽菜が少しでも笑ってくれるなら。 それだけで、十分だった。* その日の夜、結局鷹宮から連絡は来なかった。 陽菜が寝る前に何度も迷った末に送った「おや
Last Updated: 2026-05-18
Chapter: 第133話
 柔らかな風がまた二人の間を通り抜ける。 今度は、陽菜はすぐに両手を閉じた。宝物を守るみたいに、花びらを逃がさないよう大事に握り込む。 そんな様子を見て、一条は小さく笑った。 彼はそれ以上、さっきの話題には触れなかった。代わりに視線を公園の奥へ向ける。「藤野。あっち、池があるみたいだな。行ってみる?」「はい」 二人は公園の石畳の道を並んで歩きながら、ゆっくり奥へ進んでいく。 途中、楽しそうに笑い合う高校生たちのグループとすれ違った。 一条はその制服へ何気なく視線を向ける。そして、どこか懐かしむように目を細め、不意に口を開いた。「うちの高校の制服も、あれに近い色だったよな。……俺、結構好きだった。凌は『目立ちすぎる』って言ってたけど。あいつ、もっと暗い色のほうが好きだから」 青みがかったブレザーに、深い赤のチェック柄。 確かに少し似ている。 陽菜は目を細めて微笑んだ。「私も……結構好きでした」「だろ?一年の自己紹介の時、制服が可愛かったから選びました”て言ってるやつ、結構いたし」「一年生の時……一条君は、家が近いからって言ってましたよね」 その言葉に、一条は少し驚いたように目を見開いた。「……覚えてたのか?」「えっ……だって、一条君が一番最初に立ったので。だから印象に残ってて……」 そう言いながら、陽菜自身も少し驚いていた。 まさか、自分がそんな細かいことまで覚えているなんて思わなかったから。 高校時代の記憶には、不思議なくらい、こういう小さな場面がたくさん残っている。 一条だけじゃない。 他のクラスメイトの自己紹介だって、いくつかまだ覚えていた。 その話題が楽しかったのか、一条は興味深そうに笑う。「藤野。他には?俺のこと、何覚えてる?」「一条君のこと……」 いつの間にか、二人の歩く速度はゆっくりになっていた。 笑いながら駆けていく高校生たちが、二人を追い越して前へ行く。その制服姿を眺めながら、陽菜は静かに口を開いた。「一条君は、いつも鷹宮さんと一緒にいて……それから、よく……」「よく?」 本人を前に高校時代の話をすると、どうしても思い出してしまう。 あの頃、自分が抱えていた片想い。 そして、一条にそれを見抜かれていたことも。 昔から胸の奥にあった疑問が、不意に口をついた。「一条君は……いつ、私が
Last Updated: 2026-05-15
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