Chapter: 第33話 あれほど容赦なく、きつい言葉を浴びせられても、由衣が狼狽えたのはほんの一瞬だけだった。 次の瞬間には、糸の切れた真珠のように、涙が次々と頬を伝い落ちていく。 彼女は泣きの演技を何度も練習してきた。どう泣けばいちばん美しく見えるのか、誰よりもよく分かっている。 さっきまで顔に浮かんでいた熱を帯びた欲の色は、もう跡形もない。 そこにあるのは、ただひたすらに哀れで、心から踏みにじられたような痛々しい悲しみだけだった。「うっ……ごめんなさい、社長……っ。わ、私……ただ、社長ともっと……もっと近づきたくて……。社長がこんなに優しくしてくださるから、私、本当に……ただ、お返ししたかっただけなんです……っ、うぅ……」 泣きじゃくる合間に紡がれる言葉さえ、息の詰まり方も、間の取り方も絶妙だった。 台詞は涙に濡れながらも不思議なほど明瞭で、潤んだ瞳には薄い涙の膜が張りつき、濡れた睫毛は一本一本が艶を帯びて、かすかな光を宿していた。「うぅ……っ、社長……社長、私のこと嫌いにならないで……お願い、許してください……私、間違ってました……」 泣きながら由衣は身体を折るように身を縮めた。 肩は小さく震えている。 それすらも必死に抑え込もうとしているようで、余計に痛々しく、今にも誰かが抱き寄せて慰めたくなるほど悲惨に見えた。 先ほどまで、彼女が慎一を誘惑しようとしていた一部始終を見ていた久我でさえ、その泣き声にわずかな不安を覚え、思わずバックミラー越しに由衣の様子を確かめてしまう。 だが、慎一は相変わらず微動だにしなかった。 やがて由衣の嗚咽が少しずつ小さくなり、車も事務所の前へ差しかかった頃になって、ようやく慎一が口を開く。「由衣。会社が用意するリソースも、お前につけるチームも、お前を望む所まで押し上げることはできる。――余計なことをしなければな」 由衣の頬にはまだ涙の跡が残っていた。 慎一の声に、彼女はそっと顔を上げる。 その瞳には、いじらしいほどの想いと、近づくことを恐れる怯えが同時に滲んでいた。 慎一との距離も、先ほどまでとは打って変わってきちんと空けられている。 まるで、もう二度と踏み越えないと行動で証明してみせるかのように。「……社長、私……ちゃんと言うことを聞きます。だから、嫌いにならないでくれますか……?」 慎一は一度だけ彼女を見
Terakhir Diperbarui: 2026-04-12
Chapter: 第32話 由衣の顔に、いつしか隠しきれない愛欲が露わに滲み出ているのを見て、慎一の胸に冷たい嫌悪が走った。 最初に彼女の元所属事務所へ、業務提携の打ち合わせで招かれた日のことを、慎一はふと思い出していた。 あのときの由衣は、まるで世間を何も知らない無垢な少女のようだった。 瞳には一片の濁りもなく、ビルの片隅に身を潜めながら、電話口の相手に涙混じりで訴えていたのだ。 マネージャーから理不尽な扱いを受けていること。 会社から不公平な仕打ちをされていること。 ひとしきり泣いたあと、立ち上がった拍子に、彼女は偶然を装うように慎一の胸へぶつかった。「す、すみません……」 そう小さく謝ったきり、怯えたように目も合わせず、慌ててその場を走り去っていった。 まるで慎一をひどく恐れていて、決して関わろうとしないかのように。 打ち合わせを終え、エレベーター前で待っていたとき、慎一は再び彼女を目にした。 階段の踊り場の角で、数人の人間に取り囲まれていたのだ。罵声はフロア中に響き渡るほど大きく、自然と視線がそちらへ向いた。 由衣はその中央で俯き、両手で服の裾をきつく握りしめていた。 もともと華奢な体つきだった。 肩など、薄い紙片のように頼りなく、誰かに軽く突き飛ばされただけで、そのまま後ろへよろめき、背中を壁へ打ちつけた。 顔を上げたとき、その目は赤く染まっていた。 それでも負けまいとするように、強い意志を宿した瞳で相手を睨み返し、唇をきゅっと引き結んでいる。 その姿には、か弱さと芯の強さが同居していて、妙に人の目を惹きつけた。 慎一は何も言わず、ただ冷ややかにその様子を見ていた。 ふと、由衣の視線が慎一とぶつかる。 彼女の瞳はさらに赤く潤み、たちまち涙が込み上げた。今にも零れ落ちそうなほどに。 助けを求めようとはしなかった。 弱さを見せたくないとでも言うように、そっと顔を背けた。 ――見事な芝居だ。 慎一がそのとき抱いた感想は、ただそれだけだった。 やがて慎一の存在に気づいた周囲の人間たちは、気まずそうに顔色を変え、そそくさとその場を離れていった。 残されたのは由衣一人。俯いた肩が小さく震え、その姿はひどく哀れに映った。 慎一はゆっくりと彼女に歩み寄り、低く問いかける。「事務所を変える気はあるか?」 由衣ははっと顔を上げた。 泣き腫ら
Terakhir Diperbarui: 2026-04-11
Chapter: 第31話 車内がしばらく静まり返ったあと、由衣はもう我慢できないとでもいうように、そっと身体を動かした。 先ほど慎一に突き放されたにもかかわらず、懲りる様子もなく、柔らかな身体を再び彼のほうへ寄せる。 もっとも、今度は完全にもたれかかることはせず、ほんのわずかに距離を残したまま。「社長〜、このあとどこに行くんですか?」 甘えた声音でそう尋ねながら、由衣は慎一の顔色を窺うように見上げる。その視線の合間にも、少しずつ、少しずつ彼との距離を詰めていく。 そんな小さな仕草など、慎一が見逃すはずもなかった。 彼は咎めることなく、ただ鼻で笑う。「久我に先に事務所まで送らせる」 午後には由衣のオーディションが控えている。 そのあとには雑誌のインタビューも入っていることを、所属事務所の代表である慎一は当然把握していた。 自分と長く一緒にいるつもりがないと知った瞬間、由衣はあからさまに不満そうな顔を見せた。 そっと指先を伸ばし、慎一のスーツの袖口をつまむ。「社長〜……インタビューまで、まだ一時間以上ありますよ? 本当に送って終わりなんですか?」 上目遣いで見上げるその姿は、いかにも庇護欲を誘う愛らしさに満ちている。 慎一は視線だけを落とし、淡々と返した。「何だ。今日、あれだけ与えてやったのに、まだ足りないのか?」 今日だけで、オーディション用の新しい服もアクセサリーも買い与えた。 由衣が欲しいと口にした八十万円の懐中時計も、慎一は一瞬たりとも迷わず支払っている。 今日はもう、十分に面白い見世物を見せてもらった。 あれを褒美とするなら、由衣には十分すぎるほどだ。 それに、車内で紗月を降ろしたいという由衣の思惑も、彼はそのまま叶えてやった。 これ以上を求めるのは、さすがに図々しい。 もっとも、慎一がそれらを惜しみなく与えたのは、紗月の目の前で見せつけるためにすぎない。 彼にとっては、その程度の額など端金にすぎなかった。 由衣の将来的な商業価値を考えれば、いずれいくらでも回収できる投資だ。 だから痛くも痒くもない。 そんな思惑など知らない由衣は、目をくるりと動かした。細い小指が、慎一の手の甲をそっとなぞる。 探るような仕草。 慎一が何の反応も示さないのを見て、彼女は怯むどころか、さらに身体を前へ傾けた。 少しでも彼の視線を自分に留めたい。
Terakhir Diperbarui: 2026-04-11
Chapter: 第30話「ふふ……社長、そんなふうにおっしゃるなんて。奥様、なんだか可哀想ですねぇ」 由衣はわざと驚いたふりをしながらそう言ったものの、その声音には隠しきれない笑みと、あからさまな愉悦が滲んでいた。 人の不幸を楽しんでいることを、隠そうともしない声音だった。 そうして彼女はためらいもなく身を寄せ、さらに紗月との距離を詰める。「奥様。男を誘惑したいなら、それ相応の魅力がないとだめですよ?」 言い終えると、由衣はくすくすと喉を鳴らして笑った。 見せつけるように、次の瞬間、彼女はそのまま慎一の胸元へ上半身を預けるように身を倒し、両腕をそっと彼の肩へ回した。 妖しく潤んだ瞳が、まっすぐ慎一を見上げる。 先ほどまでの棘を含んだ声とは打って変わって、その声音は甘く、とろけるように柔らかい。「社長〜……今夜は私のことも、ちゃんとたくさん構ってほしいなぁ。……ご褒美、いただけます?」 慎一は小さく笑った。 その視線が一度だけ、紗月をかすめるように向けられる。それから、余裕を含んだ口調でゆっくりと言った。「……お前次第だな」 その言葉に、由衣はまた甘ったるい笑い声を漏らす。そして振り返り、まるで教師が生徒に教え諭すような口ぶりで紗月を見た。 わざとらしく首を傾げて、可愛らしく微笑む。「奥様、見ました? 男を惹きつけるって、こういうことなんですよ。……まあ、私みたいな“武器”がないと難しいかもしれませんけど……。でも、教えてあげたんですから、社長を取ったりしないでくださいね? 今夜の社長は、私のものなんですから」 そう言いながら、由衣は完全に慎一の首へ腕を回した。 慎一は何も答えない。 拒みもしない。 拒絶されないという事実だけで、それはもう受け入れられているのと同じだった。 それ以上、その場に居続けることは紗月にはできなかった。 唇をきつく噛みしめ、震える手でバッグを掴むと、そのまま車を降りる。 車から離れようとした、その直前。わざと聞かせるような由衣の大きな声が、背後から追いかけてきた。「もう〜社長。奥様って本当に図々しいですよねぇ。降りてって言われたのに、あんなに長く居座るなんて。おかげで私、社長と早く二人きりになれなかったじゃないですかぁ」* 車のドアが静かに閉まる。 紗月の姿が車外へ消えた、その瞬間だった。 慎一はすっと手を伸ば
Terakhir Diperbarui: 2026-04-10
Chapter: 第29話 紗月はすぐには動けなかった。 血の気を失った顔のまま、自分から視線を逸らす久我を見つめる。 数秒の沈黙のあと、ようやく勇気を振り絞るように慎一へと顔を向け、これまで幾度となくそうしてきたように、卑屈なほど低い声でそっと問いかけた。「……慎一、今夜は……帰ってきてくれる?」 自分をどこまでも低く置けば、彼が少しでも自分を見てくれるのではないかと願うように。 慎一に、ほんの一瞬でもいいから、自分を見てほしかった。 こんな状況で、なおそんな言葉を口にするとは思っていなかったのか、慎一はわずかに眉を上げた。 深く冷えた双眸が、氷の刃のように紗月の顔を射抜く。 この数年、紗月は彼の傍らに幾人もの女が入れ替わり立ち替わり現れては去っていくのを、ただ見てきた。 それでも彼に何かを求めたことは一度もない。 怒りをぶつけたことも、責め立てたこともない。 まるで嫉妬という感情すら持たない、夫の浮ついた振る舞いさえ受け入れる“できた妻”であるかのように。 今この瞬間も同じだった。 慎一が由衣をあからさまに傍に置いていても、紗月はそれを見ないふりをして、ただ彼が家に帰ってきてくれることだけを願っていた。「帰ってきてくれる?」だと? ふいに、慎一の胸の奥で、名状しがたい苛立ちがじわりと燃え上がった。こうして耐え忍ぶような顔をされるたびに思い出す。 表では従順で無垢な顔をしながら、裏では平然と人を陥れる――そんな女の本性を。 かつて彼は、その顔に騙された。 心を許した相手に裏切られ、誰よりも愛していた人を奪われた。「……はっ」 喉の奥で、乾いた嘲笑が漏れる。 過去を思い出すたび、紗月を見る目には自然と冷酷さが宿った。再び向けられた視線には、隠しようのない残酷さが滲んでいた。「紗月。前に言ったよな」 低く、鋭い声が静かな車内に落ちる。「お前が俺に“帰ってきてほしい”なんて言えるのは、抱かれたい時だけだ」 その言葉に、紗月の顔からさっと血の気が引いた。 確かに、彼はそう言った。 そして、ずっとその通りにしてきた。 結婚して間もない頃、慎一が何日も家に戻らず、どうしても会いたくてたまらなくなった紗月は、祖父の前で彼に電話をかけたことがあった。 甘えるように、祖父からも「少しは仕事ばかりに夢中になりすぎるな」と言ってほしくて。
Terakhir Diperbarui: 2026-04-10
Chapter: 第28話 由衣は、慎一が自分をある程度は許容していること、そして紗月に対して露骨な嫌悪を抱いていることを、すでに確信していた。 その言葉の裏に隠した二重の意味も、あからさまな悪意も、もはや隠そうとすらしない。 この車内にいる誰もが、その意図を痛いほど理解していた。 紗月の前に姿を現したのは、これでまだ三度目にすぎない。 それでも由衣はもう見抜いていた。 この女は決して噛みついてこない。どれだけ傷つけられても、ただ俯いて耐えるだけ。 そして、慎一の隣に立つべきなのは、少なくともこんな女ではないと。 慎一に何度か気にかけられ、ほんの数度、彼にとっては気まぐれにも等しい褒美を与えられたこと。 それに加えて、今日のオーディションが予想以上に順調だったこともあって、由衣の欲はすでに次の段階へと膨らんでいた。 もっと欲しい。 本来なら自分が手にすべきものを。 ――たとえば、慎一の隣にいるべき人間の座を。「社長〜……今日は、社長と二人きりでいたいです。関係のない人には、降りてもらえませんか?」 最後の一押しのように、由衣はあえて言葉にした。 大きな瞳を見上げるように瞬かせながら慎一を見つめるその仕草は、どこか小悪魔めいている。 その美貌も相まって、たとえこうして露骨に悪意を向けていても、不思議と人を惹きつける魅力があった。 普通の男なら、容易く心を奪われてしまうだろう。 慎一は微動だにしなかった。値踏みするようにゆっくりと視線を落とし、由衣の顔を見つめる。 この女で唯一価値があるとすれば、その顔だけだ。 由衣は期待を込めて何度か瞬きを繰り返し、彼の答えを待った。慎一はそこで、ゆっくりと視線を横へ流す。 紗月は俯いたままだった。 両側に垂れた髪が横顔のほとんどを隠していて、表情は見えない。 強張った座り方と、膝の上で固く握りしめられた両手を見れば、今どれほど追い詰められているかなど、考えるまでもなかった。 その様子を見て、慎一の喉の奥で低い笑いが漏れる。 由衣は確かに天才だった。 この三年、慎一は紗月を苦しめるためだけに、何人もの女を傍に置いてきた。 ここまで露骨に、本人の目の前で踏みにじるように追い込んできた女は、由衣が初めてだった。 傍に置いてまだ三週間にも満たない。それなのに、ここまで欲望を膨らませるとは。 慎一はむしろ、その
Terakhir Diperbarui: 2026-04-09
Chapter: 第89話 俺と付き合ってみない?「まだ覚えてる? 俺が好きだったあの曲。あの頃、それを聴くたびに、いつもあの人のことを思い出していたんだ。聴けば聴くほど、想えば想うほど――気づけば、その曲そのものまで好きになっていて。今でも時々聴くし、そのたびに、やっぱり思い出してしまう……」 そう口にしながら、一条はじっと陽菜を見つめていた。その心の奥底まで見透かそうとするように。 陽菜は、ただ小さく瞬きをしただけだった。 夜の闇の中では、彼の瞳の奥に押し込められた激しい感情の揺れなど、知る由もなく、ただ無垢に問いかける。「じゃあ……その人に、会いに行かないんですか?」 一条はふっと笑った。「考えなかったわけじゃないよ……。でも、帰国してから知ったんだ。彼女は今でも、ずっと好きだった人を想い続けてる。あれだけ長く想ってきた相手がいるなら、俺の入り込む隙なんてないよ」 どこか胸を締めつけるような話だった。 陽菜は一瞬、どう言葉を返せばいいのか分からなくなる。 そういえば、一緒にバーへ行ったあの夜も、彼は今と変わらず、胸の奥に寂しさを抱えたような表情を浮かべていた。 そして陽菜に尋ねたのだ。 どうしてそんなに長い間、鷹宮を想い続けられるのか、と。 あの時は、その声音に滲んでいたかすかな羨望の色を理解できなかった。 今なら、分かる気がした。 人はいつだって、自分には手の届かないものに執着してしまう。一度その存在を知ってしまったからこそ、なおさら手放せなくなる。 それはきっと、欲なのだ。 陽菜が鷹宮を想いながらも何も求めなかったのは、ただ自分の立場を分かっていたから。 自分は彼のいる場所には届かない――そう思っていたからこそ、奪おうとも、求めようともできなかった。 結局のところ、臆病だった。 鷹宮をずっと好きでいられたのは、彼がそれほどまでに素敵な人だったから。そして何も望まなかったのは、自分は彼にふさわしくないと知っていたから。
Terakhir Diperbarui: 2026-04-13
Chapter: 第88話 気づけば、彼女を見ていた 別れてから、それほど時間を置かずに、一条はまた新しい恋人を作った。 さすがに別れてすぐというわけではなかったが、恋人のいない期間はほとんどなかった。 二度目は前回の失敗から学んでいた。今度彼が選んだのは、自分という人間よりも、自分の金に強く惹かれていることが一目で分かる相手だった。 金だけを求める相手なら、いくらでも満たしてやれる。愛を求める相手となれば、一条にはそれを与えられる自信がなかった。 最初のうちは、それでもうまくいっていた。 金と引き換えに、相手の時間とそばにいる権利を得る。 分かりやすく、割り切った関係。 時間が経つにつれて、一条の中に残ったのは、以前にも増して強い虚しさだけだった。 そもそも、自分はなぜ、好きでもない相手をそばに置き続けているのだろう。 そんな疑問が、ふと胸をよぎるようになる。 しかも、愛を欠いた関係は、驚くほど簡単に裏切られる。 付き合っている相手が、陰で別の男とも関係を持っている――そんな場面を、一度や二度ではなく目にするうちに、一条はまたすべてがひどくつまらなく感じられた。 その後に付き合った何人かの相手も、結局は同じだった。 自分がどんな人間を好きになるのか、一条には分からない。そのたびに、今度こそ相手を好きになろうと努力してみる。 どれも失敗に終わった。 もしかしたら、自分は愛することができない人間なのかもしれないと、そう思った。 生まれつき、人を愛する能力そのものが欠けているのなら、ないものを無理に求めても仕方がない。 そう割り切った時、一条は最後の恋人にも別れを告げた。 もう、誰かと付き合おうとは思わなかった。 恋人を作ることをやめてしばらく経ったある夜、一条はふらりと一軒のバーに足を運んだ。 静かなバーだった。 耳を打つような大音量の音楽はなく、店内にはぽつぽつと、一人で酒を飲む客が数人いるだけ。店の隅に設けられた小さなステージでは、黒いシャツを着た男が、穏
Terakhir Diperbarui: 2026-04-13
Chapter: 第87話 一条の最初の恋人 海外に来たばかりの頃、一条は心の底から解放感を覚えていた。親父の目から遠く離れたことが、何より嬉しかったのだ。 長いあいだ抑え込まれていた反動のように、彼は歯止めもなく遊びに溺れた。 酒を飲み、女と遊び、毎晩のようにバーやパーティーを渡り歩いては、そこで出会った相手と気ままに言葉を交わす。 何にも縛られないような、自由で奔放な日々。 傍から見れば、ひどく洒脱で、享楽的で、満ち足りた生活だった。 父親は少なくとも金銭面で彼を縛ることはしなかった。小遣いを制限されることもなく、一条が金に困ることは一度もない。 試験期間の前後を除けば、彼の時間はほとんどすべて娯楽に費やされていた。 そんな日々にも、ほどなく飽きが訪れた。 もともと、日本にいた頃に父から過度に管理されていた反動で、海外に出てからこそここまで奔放になっていただけだ。 本質的に、一条はただ快楽だけに溺れる人間ではなかった。 毎日のように通っていたバーも、華やかなパーティーも、やがてすべてが色褪せて見えるようになる。 飽きてしまった先に、一条は気づいた。 もう、自分を少しでも満たしてくれるものが何もないことに。 だから彼は、恋人を探そうと思った。 時間を潰すためでもいい。 あるいは、本気で関係を育てていく相手でもいい。 とにかく、自分に何かしらの意味を与えてくれる存在が欲しかった。 日本にいた頃、一条は誰とも付き合ったことがなかった。 恋愛というものに、これといって面白さを感じていなかったし、好きになれる相手にも出会わなかったからだ。 異国でひとりきりの時間が長くなるにつれ、ふと、誰かにそばにいてほしいと思うようになった。 もともと彼は、ただそこにいるだけで人を惹きつけてしまう男だった。恋人を作ることなど、ほとんど苦労にもならないほど簡単だった。 そう思い立った翌日には、彼は自分に話しかけてきた女性と付き合うことになっていた。 相手は同じアジア系の女性だった。 あるパーティーで一条を一目見た瞬間から惹かれていたらしい。 勇気を振り絞って教室の場所を尋ねに来た彼女に、一条は何気ない調子で言った。「試しに、付き合ってみる?」 まるで告白のようなその言葉に、彼女はその場で頬を真っ赤に染めた。 迷いながらも嬉しそうに頷く彼女を見て、一条はそのままスマートフォンを取
Terakhir Diperbarui: 2026-04-12
Chapter: 第86話 初めて打ち明ける一条の秘密 本来なら、陽菜に早く会場へ戻るよう声をかけるつもりだった。 こうして陽菜と並んでバルコニーに立った瞬間、一条自身もまた、不意に宴会場へ戻る気を失ってしまった。 もともと、こうしたパーティーのような社交の場は彼の好むところではない。 周囲で飛び交うのは、株だの投資だの、金の話ばかり。 そんな話題を聞いているだけで、一条はうんざりするほど退屈だった。 おそらく、本当に大金を稼ぐことそのものには、彼はさほど強い情熱を持っていないのだろう。 野心に満ちた企業家たちの中ではひときわ浮いて見え、この空気にもどうしても馴染めない。 鷹宮なら、きっとこういう場にももっと自然に溶け込めるはずだ。 だが、先ほど陽菜の後を追ってここへ来る前、一条は鷹宮の様子がいつもとはどこか違うことにも気づいていた。 その時の彼の意識は別のところにあった。 ひとりで会場を離れた陽菜のことが、何より気がかりだったのだ。 また何かあったのではないか。 ひとりでどこかで、泣いているのではないか。 そんな不安が胸を離れなかった。 幸い、陽菜には何事もなかった。 表情も穏やかで、ただ純粋に鷹宮にひとりになる時間を与えたかっただけらしい。 その健気さに、一条は思わず苦笑した。 自分はここまであれこれと走り回って、陽菜と鷹宮を取り持とうとしてきたというのに、どうやらほとんど意味を成していないらしい。 この二人ときたら……。「藤野……お前は、もう少しくらい欲を持てないのか」「えっ?」 一条の声はあまりにも低く、夜風に溶けるようにかすれて、陽菜の耳にはうまく届かなかった。 聞き返すようにそっと顔を上げ、彼を見上げる。 一条は困ったように小さく息をついた。呆れたようでもあり、どこか諦めにも似た、けれど優しさを含んだ吐息だった。 月明かりに照らされた彼の瞳は、夜の中にあってなお不思議なほど鮮やかで、深い黒の奥に淡い光を宿しているように見えた。 静かな水面に月が映り込んで揺れているように。 いつもはどこか余裕をまとい、人との距離を巧みに測る一条が、今は少しも視線を逸らさない。 むしろ、夜の闇が周囲をやわらかく覆い隠してくれるからこそ、彼はこんなにも無遠慮に、まっすぐ陽菜を見つめていられるのかもしれなかった。 しかし、見つめれば見つめるほど、胸の奥に沈んでいた感情が激し
Terakhir Diperbarui: 2026-04-12
Chapter: 第85話 一条と二人のバルコニー 宴会場へ戻ってからも、鷹宮は表面上こそ普段と変わらぬ落ち着きを装っていた。 その視線だけは、無意識のうちに何かを探し求めるように、幾度となく会場の中を彷徨っていた。 何度も、その視線が陽菜とふと重なる。 そのたびに鷹宮はごく淡く微笑み、けれどどこか不自然なほど素早く目を逸らしてしまう。 同時に陽菜が気づいたのは、彼の酒を飲むペースが明らかに速くなっていることだった。 ほんの数分、別のことに気を取られていただけの間に、鷹宮はすでに給仕のトレイから三杯目のシャンパンを手にしていた。 その纏う空気も、いつものような余裕に満ちたものではない。 どこか理由のわからない焦燥が滲んでいる。 しかし一条のようにそれを露骨に表に出すのではなく、もっと深く胸の内へ押し込めるような、そんな忍ぶような焦りだった。 陽菜がこうして彼の隣に寄り添っているからこそ、かすかな違和感として感じ取れるのかもしれない。「鷹宮さん……どなたか、お探しですか?」 鷹宮が何度目かに会場を見渡したその時、陽菜は思い切って口を開いた。 不意に声をかけられたことに驚いたのか、鷹宮は一瞬だけ目を見開き、短く思考を止めたように見えた。 それからすぐに柔らかく笑い、首を横に振る。「どうして、そう思ったの?」「なんとなく……鷹宮さん、何かを探していらっしゃるように見えて。もしそうなら、私も一緒にお探しできますから」 自分がそばにいるせいで、彼が自由に動けないのではないかと、そんな不安を振り払うように、陽菜はどこか自分に言い聞かせるように言った。 鷹宮はやはり静かに首を振るだけだった。 認めたくないものを否定するように。「違うよ、陽菜さん。誰も探してなんていない」 そう言いながらも、その視線も、その心も、決して完璧に隠しきれてはいなかった。 陽菜と話しているこの瞬間でさえ、彼の意識はまるで会場のどこか別の場所へ引き寄せられているようだった。 でも……鷹宮がそう言うのなら、陽菜は疑うこともなく、その言葉を受け入れた。 無条件に、ただ彼を信じて。 鷹宮が四杯目のシャンパンを手に取り、今度も一気に飲み干したところで、陽菜はそっと口実を作った。「鷹宮さん、すみません……少し、バルコニーで風に当たってきてもいいですか?」 鷹宮は数秒遅れてようやくその言葉を理解したように、ゆっ
Terakhir Diperbarui: 2026-04-11
Chapter: 第84話 鷹宮の心は、まだここにない 鷹宮は、一条にとってこの世で最も大切で、決して失うことのできない友人だった。 だからこそ今この瞬間、彼を案じるあまり理性を失いかけている一条の焦燥を、陽菜には痛いほど理解できた。 陽菜は一条の後を追うようにして、ともに二階へと駆け上がった。休憩室へと続く廊下には、鷹宮の姿はどこにも見当たらない。 一条の苛立ちは目に見えて増していく。 月乃のような女に鷹宮が振り回されることを、彼は本気で恐れていた。 鷹宮の性格を思えば、たとえ相手に嵌められていたとしても、自分が利用されていることにすら気づかないかもしれない。 そう考えれば考えるほど、胸の内に不安が膨らんでいく。 そこでようやく、一条は鷹宮へ電話をかけることを思い出した。 スマートフォンを取り出す手つきは驚くほど素早く、画面を見ずとも迷いなく鷹宮の番号を呼び出していた。 鷹宮はすぐには電話に出なかった。 その事実が一条をさらに焦らせる。 このまま一部屋ずつ扉を開けて探し回るべきかと、そう考えたその時だった。 不意に服の裾が小さく引かれる。振り向くと、そこにいたのは陽菜だった。「一条くん……さっき、鷹宮さんを見かけた気がして」 一条の今の様子があまりにも落ち着きを欠いていたせいか、陽菜の声音にもどこかおずおずとした怯えが滲んでいる。 その言葉に、一条は一瞬だけ目を見開いた。 そして自分ではできるだけ優しく見せようとした微笑を浮かべ、意識して声を和らげる。 陽菜には、その笑みがどこか無理をしているように見えた。「どこで?」「さっき振り返った時に……階段のところで鷹宮さんを見た気がしたんです。でも、はっきりとは……」「大丈夫。行ってみよう」 一条は陽菜の言葉を一切疑っていないかのように頷き、そのまま彼女と並んで階段口へ向かった。 二階は依然として静まり返っていた。 三階の華やかなパーティー会場とはまるで別世界で、床一面に敷かれた厚い絨毯が、二人の足音すら完全に吸い込んでしまっている。 * 階段の先には、確かに鷹宮が立っていた。 三階と二階を繋ぐ踊り場の途中。手にはどこかで見つけたらしい新品のスーツ一式を抱えている。 おそらく月乃のために持ってきたものだろう。 彼は休憩室へ戻ることなく、ただその場に立ち尽くし、何かを考え込むようにぼんやりと虚空を見つめていた。 一
Terakhir Diperbarui: 2026-04-11