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第12話

Auteur: るるね
last update Date de publication: 2026-07-12 02:23:27

 紗那は、自分がどうやって教会を出たのか覚えていなかった。

 あまりにも場は混乱していた。

 あちこちから悲鳴が上がり、その一つひとつが耳を打ち、冷静に物事を考えることさえできなかった。

 最後に目に映ったのは、気を失った裕司を庇うように駆け寄った千代子と正則の姿。

 二人は裕司の容体を気遣いながら、紗那の暴挙を責め続けていた。

 そのとき、光晴は迷うことなく紗那を抱き寄せる。

「大丈夫だ」

 そう囁くように告げると、人混みを押しのけるように教会を飛び出し、誰にも紗那を触れさせないよう、そのまま彼女を連れてその場を離れた。

 光晴が紗那を連れて帰ったのは、新婚生活のために用意された新居ではなかった。

 光晴が一人暮らしのために借りているマンションだった。

 柔らかなソファへ腰を下ろしても、紗那はまだ呆然としたまま、身じろぎ一つできずにいた。

 人を殴ったのは、あれが生まれて初めてだった。

 千代子の言葉にも、一つだけ間違っていないことがある。紗那は幼い頃から家族に大切に育てられ、惜しみない愛情を注がれてきた。

 裕福で、温かな家庭。

 少しくらいお嬢様気質になってしまうのも無理はない
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     紗那も自分と同じような出来事を経験していたのかもしれない――そう思った瞬間、光晴は再び堪えきれず、紗那を強く抱きしめた。 腕の中の紗那は、あまりにも小さく、あまりにも細い。 ウェディングドレスを少しでも綺麗に着こなきたいと、何か月もかけてダイエットを続けていたことを光晴は覚えている。 もともとふっくらとしていた頬はさらに痩せ細り、その華奢な体には、骨しか残っていないのではないかと思うほど肉がついていなかった。 紗那は、今日という日を誰よりも大切に思っていた。 この結婚式を、誰よりも心待ちにしていた。 頬を伝う温かな感触に気づき、光晴はようやく自分も泣いていることを知る。 涙は次から次へと溢れ出し、その様子に紗那も気づいた。 それでも紗那は何も言わなかった。 ただ同じように光晴を強く抱きしめ返す。 この瞬間、二人の隣にいられるのは、お互いだけだった。 互いが味わった苦しみを誰よりも深く理解し、傷ついた魂を寄せ合いながら、そのぬくもりだけを支えに生きていた。 それから丸二日間。 紗那と光晴は携帯電話の電源を切り、何もせず、眠っては食事をするだけの日々を過ごした。 二人には、すべてを一度忘れ、心を休める時間が必要だった。 しかし、眠りさえ安らぎにはならない。 あの日々の悪夢は、今世に戻ってきても二人を追いかけてきた。 眠るたびに悪夢にうなされ、飛び起きては涙を流す。 そして何度も何度も、お互いが生きていること、自分自身も生きていることを確かめ合った。 互いの記憶だけが、前世と今世が確かに存在したことを証明できる、唯一の証だった。 三日目。 悪夢に耐え切れなくなった紗那は、光晴の手を握り、真剣な表情で口を開いた。「お兄ちゃん。逃げることも大事。でも、私たちにはもっと大事なことがある」 光晴は何も言わず、小さく頷いた。 まだたった二日しか経っていない。それなのに、光晴は別人のように痩せていた。 頬はこけ、目元には隠しきれない疲労が滲み、赤く腫れた瞳だけが、この二日間どれほど涙を流してきたのかを物語っている。 そんな兄の姿を見ているだけで、紗那の胸は締めつけられるように痛んだ。「紗那。どうしたい? 兄ちゃんは、何があっても紗那の味方だ」「……あの人たちに死んでほしい、お兄ちゃん。白府裕司と、白府千織に」 紗那は歯を食

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     あの頃の光晴には、もう声を出す力すら残っていなかった。 舌は潰され、何を叫ぼうとしても言葉にならない。 血で滲んだ視界はぼやけ、最愛の妹の姿さえ、はっきりとは見えなかった。 それでも、裕司の笑い声だけは嫌というほど耳に焼きついていた。『見ろ。お前の大事な妹だ』 そう嘲るように笑いながら、紗那の亡骸を映し続ける。自分が作り上げた最高傑作でも鑑賞しているかのように。 あの瞬間、光晴の中に残っていたものは、憎しみだけだった。 全身の血が煮えたぎり、骨の髄まで憎悪に焼き尽くされる。 声にならない咆哮を最後の力で絞り出した瞬間、光晴の意識は深い闇へ沈んでいった。 紗那と同じだった。 最後の最後まで残っていたのは、消えることのない憎しみと、どうしようもない悔しさだけ。 そして――。 次に目を覚ましたとき、光晴は自分の車の運転席に座っていた。 窓の外に見えたのは、見慣れた教会。身にまとっていたのは、妹の結婚式のために誂えたスーツ。 一瞬だった。 光晴はすべてを悟った。 自分はもう一度、この日へ戻ってきたのだと。 今日が妹の結婚式だと気づいた瞬間、光晴は車のドアを乱暴に開け、そのまま教会へ駆け出した。 焦りで足はもつれ、何度も転びそうになりながら、それでも構わず走り続ける。 何としてでも、妹を止めなければならない。 そう思っていた。 だが、教会で目にした光景は、前世とはまるで違っていた。 紗那が燭台を高々と振り上げ、光晴自身も骨の髄まで憎み抜いたあの男――裕司の頭へ、容赦なく振り下ろしていたのだ。 光晴の口元から、思わず笑みがこぼれた。 一か月以上に及ぶ地獄のような拷問を受けて以来、光晴が心の底から笑ったのは、あれが初めてだった。 ――よかった。紗那も、戻ってきてくれた。 けれど、その喜びと安堵はすぐに胸を締めつけるような痛みへと変わっていく。 紗那も戻ってきたということは――。 あの地獄で味わった苦しみも、絶望も、恐怖も。そのすべてを、紗那も鮮明に覚えているということだった。 自分と同じように。 いや、自分以上に。 最愛の人に裏切られ、愛した子どもまで奪われ、最後には誰にも救われることなく命を落とした。 そんな地獄を、紗那はたった一人で耐え抜いたのだ。 そう思った瞬間、光晴は込み上げる感情を抑えきれず、もう一度

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     紗那は、自分がどうやって教会を出たのか覚えていなかった。 あまりにも場は混乱していた。 あちこちから悲鳴が上がり、その一つひとつが耳を打ち、冷静に物事を考えることさえできなかった。 最後に目に映ったのは、気を失った裕司を庇うように駆け寄った千代子と正則の姿。 二人は裕司の容体を気遣いながら、紗那の暴挙を責め続けていた。 そのとき、光晴は迷うことなく紗那を抱き寄せる。「大丈夫だ」 そう囁くように告げると、人混みを押しのけるように教会を飛び出し、誰にも紗那を触れさせないよう、そのまま彼女を連れてその場を離れた。 光晴が紗那を連れて帰ったのは、新婚生活のために用意された新居ではなかった。 光晴が一人暮らしのために借りているマンションだった。 柔らかなソファへ腰を下ろしても、紗那はまだ呆然としたまま、身じろぎ一つできずにいた。 人を殴ったのは、あれが生まれて初めてだった。 千代子の言葉にも、一つだけ間違っていないことがある。紗那は幼い頃から家族に大切に育てられ、惜しみない愛情を注がれてきた。 裕福で、温かな家庭。 少しくらいお嬢様気質になってしまうのも無理はないほど、何不自由のない人生だった。 欲しいものは望めば手に入り、好きになった相手とさえ、家同士の縁談という形で結ばれることができた。 人生はあまりにも順風満帆だった。 だからこそ、人の心があれほど醜く、恐ろしく、底知れない悪意を隠せるものだとは、一度も考えたことがなかった。 裕司を殴っている最中は、怒りしか感じなかった。 だが時間が経つにつれ、人を傷つけたという恐怖と、その現実が、遅れて波のように押し寄せてくる。 紗那は震える手を、そっと自分の平らな腹へ重ねた。まだ、一度も新しい命を宿したことのないお腹。 前世で妊娠を知ったあの日、自分がどれほど嬉しく、どれほど幸せだったのかを、今でも鮮明に覚えている。 だからこそ、その小さな命を失った絶望も、耐え難いほど深かった。「……っ」 喉の奥から、小さな嗚咽が漏れる。 憎い。 悔しい。 苦しい。 悲しい。 胸の奥には、憎しみも、悔しさも、悲しみも、抱えきれないほど渦巻いていた。「紗那。もう大丈夫だ」 温めたミルクを持ってきた光晴が、静かに隣へ腰を下ろす。泣き続ける紗那をそっと抱き寄せ、その頭を優しく撫でた。 世

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     光晴の優しい慰めの声に包まれながら、紗那はようやく少しずつ落ち着きを取り戻していった。 光晴の胸にしがみついて泣きじゃくった紗那の涙で、彼の胸元はぐっしょりと濡れ、アイメイクまで白いシャツに付いてしまっていた。 ひとしきり泣き終え、その白いシャツがすっかり汚れてしまっていることに気づいた紗那は、申し訳なさそうに俯く。「お兄ちゃん……服、汚しちゃった」「そんなこと気にするな。服なんかより、紗那のほうが大事なんだから」 光晴は優しく紗那の頭を撫でた。 幼い頃から変わらない、その温かな手つきだった。 紗那は何度見ても見飽きることのない兄の顔を見つめ、口を開こうとした、そのとき――。「紗那。説明してもらえるか」 背後から聞こえた声に、胸の奥から嫌悪感が込み上げた。 裕司だった。 珍しく怒りを滲ませてはいたが、その口調はいつも通り冷静だった。 先ほどは頭を何度も殴られ、頭の中が真っ白になっていたが、このときようやく我に返ったのだ。 千代子は痛ましそうにハンカチを取り出し、裕司の額から流れる血をそっと押さえる。 そして紗那へ向ける視線には、責める色が浮かんでいた。「紗那。女の子なんだから、あんな乱暴なことをしちゃだめでしょう。それに、相手はあなたの夫になる裕司さんなのよ」 千代子は紗那のしたことを到底受け入れられなかった。 裕司という婿に、不満は何一つない。 千代子たちの前では、いつだって物腰が柔らかく、礼儀正しい青年だったからだ。 それに対して紗那は、小さい頃から家族に大切に育てられ、少しお嬢様気質なところがある。 その裕司が今では顔中を血で染めるほどの怪我を負っている。千代子には、どう考えても悪いのは紗那だとしか思えなかった。 紗那の表情は一瞬にして冷え切る。 目の前にいる千代子と、黙ったまま何も言わない正則を見つめても、胸に込み上げるのは無力感ばかりだった。 正則は何も口にしない。 それでも、紗那へ向ける視線には、はっきりと不満の色が浮かんでいた。 この結婚は、表向きこそ政略結婚だった。 けれど、その縁談を望んだのは紗那自身だった。 裕司のことが好きだと父へ打ち明け、正則は長い間悩んだ末、自ら裕司との縁談をまとめてくれたのだ。 それなのに、結婚式はこんなことになってしまった。 父が不満を抱くのも無理はない。「

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  • 二度目の人生、捨てたはずの彼が今さら愛を乞う   第3話

     妊娠がわかったのは、ほんの数日前のことだった。 ここ最近ずっと体調に違和感があった。生理もなかなか来ず、もしかして……と、うっすら予感はしていた。 そして検査薬を使った結果、本当に妊娠していると知った。 あの瞬間、紗那は心から嬉しかった。 結婚後も、裕司は彼女に仕事を辞めろと言ったことはない。自由を制限したこともなかった。 結婚式の日、彼は紗那にこう誓ったのだ。 ――結婚しても、君の人生を縛ったりはしない。 紗那には、紗那自身の人生と自由がある。 その言葉に、紗那は感動して泣いた。 裕司は、紗那が仕事を好きなことも、キャリアを手放すつもりがないことも理解していたのだと思う

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