LOGIN居場所を失った藤野陽菜は、住み込みの家政婦として、ある屋敷で働くことになる。 雇い主は若くして事業を成功させた実業家・鷹宮凌。穏やかで礼儀正しい彼との距離は、最初こそよそよそしかったが、共に暮らすうちに少しずつ心が通い始める。 けれど、陽菜は気づいてしまった。 彼の視線の奥に、もういない「誰か」の影があることを。
View More冬に入ってからというもの、夜の時間はいつもあっという間に過ぎていく。
「陽菜さん、迎えに来てもらえますか」
電話越しの男性の声は、実際の声とはどこか違って、まるで劣化した古いレコードの音のように歪んで聞こえた。
陽菜は一瞬意識がふわりと浮き、相手の男性が返事を待って電話を切らずにいることに気づいて、慌てて口を開いた。
「鷹宮さん、今どちらにいらっしゃいますか?」
「わかりました、すぐに向かいます」
陽菜は頭の中で住所を繰り返しながら、玄関の鏡で自分の服装をもう一度確認する。鷹宮に恥をかかせるような格好ではないと確認してから、
「鷹宮さん、ついでにお聞きしますが、お酒を飲まれたんですか?」
と尋ねた。
「うん、少しだけね」
受話器の向こうで、鷹宮はかすかに笑った。
「タクシーで来て。費用は僕が出すよ。今日は車で来たから、君が来たら僕の車で帰っていいよ」
「ありがとうございます、鷹宮さん」
電話を切った後、陽菜は厚手のコートを羽織って慌ただしく外へ出た。
階段を降りたところで、先に配車アプリで車を呼んでおけばよかったと少し後悔した。
夜の住宅街はひっそりとしていて、車が入ってくることも少ない。陽菜は大通りへと歩きながら、アプリを開いて現在地を確認しつつタクシーを呼んだ。
このアプリの操作には慣れている。鷹宮の家に住み込みで働くようになってからというもの、何度も彼の代わりに手配してきたからだ。
今日のように自分が迎えに出るのは珍しい。
鷹宮は基本的に人に手間をかけさせるのを好まない性格で、陽菜の日常の生活費や給料を負担しているにもかかわらず、態度は常に丁寧だ。
よほど酒を飲んだ時でなければ、彼のほうから陽菜を呼び出すことはまずない。
酔っている時の鷹宮は、普段よりも少し甘えたような、誰かに寄りかかりたくなる雰囲気になる。
だから電話がかかってくると、陽菜は大体察しがついた。
この時すでに23時近く、大通りに出ると街はまだ賑やかだった。
タクシーに乗ってからホテルに着くまでにかかった時間は約二十分。車を降りるとすぐに、ホテルの正面口で待っている鷹宮の姿を見つけた。
彼もちょうど接待を終えたところだったのか、周囲には数人の人たちがいて、鷹宮と軽く言葉を交わしていた。一人の若くて華やかな服装の女性が最も近くに立っており、左手が今にも鷹宮の肩に触れそうな距離にあった。
そんな中、鷹宮はいち早くタクシーから降りてくる陽菜を見つけ、周囲の人たちに別れの挨拶をし始めた。
「え〜鷹宮さん、もう帰っちゃうんですか?この後みんなで次のお店行こうって話してたんですよ、一緒に行きましょうよ」
「いや、僕はいいよ。家族が迎えに来てくれたから」
陽菜が近づくと、その女性の名残惜しそうな声と鷹宮の返事が聞こえてきた。
以前も何度か、鷹宮が酔って陽菜が迎えに行ったことがあり、その時に彼の友人や会社の同僚と軽く顔を合わせたことがある。その際も、鷹宮は彼女のことをこう紹介していた。
家族——
もしかしたら、陽菜の年齢を気遣って、家政婦という肩書きを与えたくなかったのかもしれない。あるいは単に、自分が若い家政婦を雇っていることを他人に知られたくなかっただけかもしれない。
理由がどちらであれ、鷹宮の口から「家族」と呼ばれるたびに、陽菜の胸は無意識に高鳴ってしまうのだった。
まるで恋をしてしまったかのように——
月乃に指定された場所へ着いた頃には、時刻はすでに夜七時を回っていた。 地下駐車場の入口付近には、人の姿はない。陽菜は少し迷った末、その場で月乃へ電話をかける。 呼び出し音は、数秒もしないうちに途切れた。 まるで最初から、陽菜からの電話を待ち構えていたみたいに。「月乃ちゃん? もう着いてる?」『陽菜ちゃん、今どこ? ずっと待ってるの……』 月乃の声は妙に焦っていた。 切羽詰まったように、何度も陽菜の場所を確認してくる。「地下駐車場の入口にいるよ。来ればすぐ分かると思うけど……」 地下駐車場の出入口は一つしかない。 陽菜自身、かなり分かりやすい場所に立っているつもりだった。 けれど月乃は、なぜか一瞬言葉に詰まったあと、小さな声で言った。『ごめん陽菜ちゃん……今、車の中にいて……ちょっと上に行けなくて』 そして遠慮がちに続ける。『下まで来てもらえないかな……?』 断られるのを恐れるように、月乃はすぐ涙声を混ぜた。『お腹、すごく痛くて……赤ちゃん、何かおかしいのかな……。さっき薬飲んじゃって……どうしよう……』「え……?」 薬という言葉に、陽菜の胸が強くざわついた。「月乃ちゃん、今どこにいるの?」 位置を聞き出すと、陽菜は急いで地下駐車場へ向かう。 途中、どこか妙な違和感はあった。 けれど、心配が先に立ってしまったのだ。 それに陽菜は元々、人を悪意で疑うことが苦手だった。 だから。 自分が騙されているなんて、最後まで考えもしなかった。* 気づいた時には、もう遅かった。 陽菜はワンボックスカーの中へ押し込まれていた。両脇には黒服の男が二人。逃げようとしても、すぐ腕を掴まれる。 そこでようやく、陽菜は理解する。 月乃に騙されたのだと。 妊娠して苦しんでいるという話も。 泣きながら助けを求めてきたことも。 全部、嘘だった。 実際の月乃は、むしろ最近かなり満たされているように見えた。 顔色もよく、以前より少しふっくらしている。 身につけているアクセサリーはどれも高級ブランド品で、目立つロゴがこれでもかと主張していた。 まるで、自分は選ばれた側なのだと誇示するみたいに。 陽菜の視線に含まれた失望と戸惑いを感じ取ったのか、月乃は先に苛立ったように口を開く。「何、その顔。別に私が好きでこんなことしてるわけじ
陽菜は結局、月乃と会うことを了承した。待ち合わせ場所は、月乃が指定してきた場所だった。 送られてきた住所を確認した瞬間、陽菜はわずかに眉を寄せた。 指定されていたのは、とある商業ビルの地下駐車場。 検索してみると、そこは東和グループ傘下の関連会社が入っているビルだった。 少しだけ胸がざわつく。 けれど、月乃は電話口でずっと切羽詰まった様子だった。 妊娠なんて、人生を左右する大きな問題だ。突然そんな状況になれば、冷静でいられなくなるのも無理はない。 本当は、月乃からは何度も「今すぐ会いたい」と頼まれていた。 切羽詰まった声だったし、妊娠という状況を考えれば、陽菜も放っておけなかった。 けれど、平日に急に時間を空けるのは難しい。結局、二人が会う約束をしたのは、その週の金曜の夜だった。 月乃の妊娠相手が東和だったこと。 それは偶然にしては出来すぎているほど、陽菜自身が抱えている問題と繋がっていた。 陽菜は、その二つを結びつけて考えようとはしなかった。月乃はただ、不安定な状況の中で助けを求めているだけ。 そう思っていた。 そのあとも、月乃からは何度か電話がかかってきた。 どの声もどこか張り詰めていて、今にも泣き出しそうだった。 断片的に聞こえてきた話によると、あの日のパーティーで月乃は東和と関係を持ち、それ以降も曖昧な関係が続いていたらしい。「結婚も考えてくれるって言ってたの……陽菜ちゃん。私、騙されたのかな……」 月乃は涙混じりの声で呟く。「私が男の人を信じすぎたのかな。それとも、欲張りだったのかな……。でも私、ただ安心して頼れる人が欲しかっただけなのに……」 その声はあまりにも弱々しく、陽菜の胸にも罪悪感のようなものが滲んだ。 東和の人間性について、陽菜はすでに悪い印象を持っている。だから無意識のうちに、月乃を傷つけられた側として見てしまっていた。「月乃ちゃん……会ってから、ゆっくり話そう? 子どものことも、一緒に考えればいいから」 陽菜がそう言うと、月乃は安堵したように泣き笑いの声を漏らした。 けれど次の瞬間、月乃は何かを怖がるように声を潜め、念を押すように続けた。「陽菜ちゃん、このこと……誰にも言わないでほしいの。お願い……」「え……?」「陽菜ちゃんの周りの人にも……。未婚で妊娠したなんて、やっぱり恥ずかしい
先に我に返ったのは一条だった。 陽菜の肩を抱いたまま、人通りの邪魔にならない場所まで連れていくと、低い声で問いかける。「藤野、大丈夫か? ……かなり驚いただろ」「あ……ご、ごめんなさい、一条君……」 陽菜は数拍遅れて現実へ戻ってきたように、小さく息を呑んだ。 顔色は白い。 驚きで心臓が激しく脈打っているせいか、自分がまだ一条の腕の中にいることにも気づいていなかった。 一条はそのことに気づいていた。気づいていて、すぐには離せなかった。 ようやく陽菜の呼吸が落ち着き、耳が理由もなくうっすら赤く染まり始めた頃、一条は名残惜しさを押し隠すように、ようやく腕を離した。 まるで、自分はただ心配しただけだと言い聞かせるみたいに。「藤野、今日なんか様子おかしくないか。……体調悪い?」 そう言いながら、一条はごく自然な仕草で陽菜の額へ手を伸ばした。 陽菜は一瞬、呼吸を忘れたように動きを止める。 触れた掌は思ったよりずっと温かくて、その熱がじわりと肌へ伝わってきた。 心臓が大きく跳ねる。 一条はすぐに手を離したものの、そのまま今度は自分の額へ同じ手の甲を当て、温度を確かめるように比べ始めた。 次の瞬間、彼の眉がわずかに寄る。 軽い調子ばかりだった表情から笑みが薄れ、声音にも少しだけ緊張が混じった。「……やっぱり、ちょっと熱ある気がする」「ち、違うんです。一条君。少し考え事してて、ぼーっとしてただけで……」「……念のため、帰ったら熱測れよ」 一条は珍しく真面目な口調で言った。「家に体温計あるよな?」 陽菜が困ったように首を横へ振る。 すると一条は呆れたように笑いながら、家に置かれている救急箱の場所を説明した。 それから、ふっと口元を緩める。「今度ちゃんと家の中も把握させないとな。……藤野、そういうの全然知らなさそうだし」* 家へ戻ったあと、陽菜は一条に言われた通り、素直に救急箱から体温計を探し出した。 測ってみると、結果は平熱。 どうやら一条が心配しすぎただけらしい。 陽菜は苦笑しながら、その写真を撮って一条へ送った。 すぐに返ってきたのは、『ならよかった』という短い返信。それだけなのに、胸の奥が少し温かくなる。 ここまで真っ直ぐに気にかけられることに、陽菜はまだ慣れていなかった。 申し訳なさもある。 けれど同時に
ビニール袋の中に大事そうに入れられたままのいちご飴を見つめていると、陽菜の胸の奥に、またあの妙な感覚がじわりと浮かび上がってきた。 言葉にできない違和感。 ざわざわと、心臓のあたりを落ち着かなくさせる感覚。 陽菜は無意識に胸元へ手を添える。 顔を上げると、一条が余裕たっぷりにこちらを眺めながら笑っていた。 その表情を見た瞬間、違和感はさらに強くなる。「あ、ありがとうございます……一条君……」「工場見に行く途中でショッピングモール通ったんだよ。もしかしてあるかもと思って寄ってみたら、ほんとに売っててさ。ラッキーだった」「工場……そういえば、一条君、朝から新しい工場を見に行ってたんですよね。どうでしたか?」「ああ。凌に紹介してもらったところな。全体的にはかなりいい感じだった。あとはサンプルの品質次第かな。問題なければ、できれば早めに決めたい」 鷹宮の名前が出た瞬間、陽菜の胸が小さく揺れた。 表情に出ないよう気をつけながら、できるだけ自然を装って尋ねる。「……鷹宮さんが紹介してくださったんですか?」「そうそう。朝いきなり連絡来てさ。工場だけじゃなくて、見学の予約まで勝手に取ってくれてた。ほんと、他人の仕事にまで全力なんだよな、あいつ。だから仕事人間って言われるんだよ」 一条はまったく悪気なく笑っていた。 鷹宮が陽菜へ返事をしていないことなど、知らないのだ。 だからこそ、隠し事のない声音で、朝に鷹宮から電話があったことをそのまま口にする。 陽菜は自分でも説明できない感情を胸の奥に押し込みながら、表面上は小さく笑った。けれど、それ以上その場にいるのが苦しくなってしまう。 適当に理由をつけ、一条のオフィスをあとにした。 そのまま、いちご飴を持って休憩室へ向かう。 幸い、中には誰もいなかった。 本当は、食欲なんてほとんどなかった。 けれど、一条に「早めに食べろ」と何度も念を押されたことを思い出し、陽菜は袋の中からいちご飴をそっと取り出す。いちご飴の表面を覆う透明な飴が、照明を受けてきらりと光る。近づけるだけで、砂糖の甘い香りがふわりと漂う。 そっと一口かじる。 外側の飴は驚くほど薄く、ぱりん、と小気味いい音を立てて砕けた。 中のいちごも甘い。 酸味はほとんどなく、果汁がじゅわりと広がる。 なのに。 テーブルに置いたスマ
陽菜が答えを迷っているわずかな沈黙のあいだ、一条はベッドに横たわる鷹宮へと視線を落とした。 そして、今夜の出来事を短く思い返す。 今日の夜、彼らは一緒にいた。 いや、夜だけではない。 昼間も、その半分ほどは一条が仕事を口実にして鷹宮を付き合わせていた。 業務上の往来があることを理由に、帰国してからというもの、一条はほとんど毎日のように鷹宮のそばにいる。 もっとも、それが完全に仕事のためかと言えば、そうとも言い切れない。 今回の新ブランド開発は、一条の父親が言い出したものだった。 一条自身には大して興味はない。ただ、父親は昔から鷹宮を格別に信頼している。だから一条が鷹宮と行動
あとから思い返し、断片的な記憶をつなぎ合わせてようやく気づいたことがある。 鷹宮は倒れる瞬間、反射的に陽菜を抱き寄せていたのだ。 だからこそ、彼女は床に直接叩きつけられずに済んだ。 額がぶつかった硬い感触は、おそらく床ではなく、鷹宮の胸だったのだろう。 ほんの一瞬。 ほんの、どうしようもなく短い一瞬だけ。 このまま自分も意識を失ってしまえたら、と陽菜は思った。 そうすれば、こうして彼と触れ合ったまま、あと少しだけ時間を引き延ばせるのではないかと。 けれど、酒に酔っている鷹宮とは違い、陽菜の意識はやけに冴えていた。 胸が高鳴っても、心が揺れても、弱みに乗じるような真似はでき
「修司、どうした……?」 鷹宮は一瞬、言葉を失った。記憶をたどっても、一条がここまで特定の女性に気を配る姿は初めてだった。鈍い自覚のある彼でさえ、どこか違和感を覚えずにはいられない。 訝しげに見つめる鷹宮に対し、一条は再びソファへ身を沈め、先ほどと同じく気だるく寛いだ姿勢に戻った。「なんだよ?」「……なんだか、陽菜さんのこと、やけに気にかけてるように見える」「昔の同級生だからな。俺ってさ、性格いいだろ? 久しぶりに会った相手を放っておく趣味はないんだよ」「放っておくって……」 鷹宮は呆れたように肩をすくめ、小さく笑った。 けれど、言われてみれば間違ってはいないとも思う。鷹宮の
陽菜はスマートフォンを持つ手を、ふいに止めた。 画面に表示された『お前の好きな香りだろ?』という一条のメッセージを見つめたまま、ほんの短いあいだ、思考が止まったように固まってしまう。 どう返せばいいのか、すぐには思いつかなかった。 陽菜は箱の中からアロマとハンドクリームを取り出す。 パッケージも、箱と同じく白を基調としていて、どこか清潔で上品な印象を与えるものだった。 余計な装飾はなく、やわらかな光を受けて、品のよさを感じさせる。 白茶の香りに合わせているのか、ハンドクリームの表面には、シンプルな線で描かれた白茶の花のイラストが添えられていた。 細く繊細な線で描かれたその花は
reviews