LOGIN彼を何年も愛し続けてきた。 一緒にいたくて、結婚したくて、どんな手段も努力も惜しまなかった。 たとえ彼の心に、消えない誰かがいたとしても――愛があれば、すべて乗り越えられると信じていた。 けれど現実は、違った。 この関係にあるのは、たった一人分の愛だけ。 ほんの小さなひびさえ、致命的な痛みへと変わっていく。 だから今日、私は彼を愛することをやめる。 ――離婚まで、あとわずか。
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今日もまた、彼は帰ってきていない。
紗月の顔色は病的なほど赤く、目尻は熱を帯びたようにじんと痛み、そこには気づかれないほどかすかな赤みも滲んでいた。
まるで次の瞬間には涙がこぼれ落ちてしまいそうなのに、それでも必死に強がって堪えているかのようだった。
数歩進んだだけで足元から力が抜け、彼女はそのままソファへと崩れ落ちた。戸籍上の夫がまた家に帰ろうともしない――その事実だけではない。
身体にこもる異様な熱もまた、全身をひどく不快にさせ、理性まで押し流してしまいそうだった。
「……慎一」
紗月は恋い慕う相手の名をかすかに口にし、ハンドバッグの中から苦労してスマートフォンを取り出した。
男に電話をかけようとしたその直前、ネットニュースの通知が、十数分前に届いていたことに気づく。
――新進気鋭の若手女優・
ヴァレンティス・プロダクション。
それは慎一のグループ傘下にある芸能事務所だった。そして綾瀬を獲得した人物など、考えるまでもない。彼女の夫である、あの男しかいない。
込み上げる悔しさと嫉妬に、紗月は一瞬、目の前がくらんだ。それでも感情を押し殺しながら連絡先を開き、彼の番号へ電話をかける。
長い沈黙が続いた。
もうこのまま出ないのではないかと、そう思いかけた頃になって、ようやく通話がつながった。「……何だ」
男の声は冷えきっていて、不機嫌そのものだった。まるで紗月からの電話など、ひどく厄介なものだと言わんばかりに。
「慎一、私……熱があるみたいで……。帰ってきて、そばにいてくれない……?」
慎一の向こう側はひどく騒がしかった。
熱に浮かされた頭でもわかる。煽るような音楽、歓声、そしてすぐ近くから聞こえるいくつもの声。「社長、朝倉社長、一杯どうですか!」
酒場だった。
騒がしい音と人の気配に満ちたその場所で、電話中だと気づいたのか、酒を勧めていた相手がふいに声を潜め、遠慮がちに問いかける。「……奥さまからですか?」
「気にしなくていい」
慎一は鼻で笑うようにそう言った。
奥さま、そんなふうに呼ばれたその一瞬でさえ、彼の声には何の感情も宿っていなかった。紗月は、ずきりと痛みを増していく頭を押さえながら、それでも最後の望みに縋るように、もう一度だけ口を開く。
「慎一、本当に苦しいの……。家には誰もいないし、私、あなたにいてほしくて……」
けれど、そんな必死の助けを求める声に、慎一が同情を示すことはなかった。
ましてや、愛しさなど。結婚して、もうすぐ三年。
結婚記念日を目前にしても、慎一の態度はただ冷え続ける一方で、かつて初めて会った頃に向けられていた、上辺だけの優しさでさえ、今では思い出の中にしか残っていない。紗月がここまで頭を下げ、帰ってきてほしいと願っても、彼は眉をひそめ、ただひどく冷たく言い放つだけだった。
「また何を企んでる?」
たったそれだけの言葉で、紗月の心は容赦なく踏み潰され、そのまま地獄の底へと突き落とされた。
呼吸すらできないほどの痛みだけが胸に残る。ルミエールと正式に契約を結んだその日の午後、それまで検索ランキングを占拠していた源間に関する一連の悪評記事が、突然すべて姿を消した。 まるで初めから何も起きていなかったかのように、跡形もなく消えている。 源間が女優に性的な関係を強要したと最初に報じた記事まで削除され、どれだけ検索しても見つからなかった。 紗月が試しに自分の名前を検索してみると、彼女に関する投稿もほとんど残っていない。 あまりにも迅速な対応に、紗月は呆然とした。 スマートフォンを手にしたまま、紗月はしばらく言葉を失っていた。 少し離れた場所で電話に出ていた千尋が、通話を終えて紗月のもとへ戻ってくる。 そのまま紗月の手元を覗き込み、画面を確認すると、どこか得意げに笑った。「広報部の仕事ですよ。すごいでしょう? うちに所属するタレントの評判や世間の反応は、広報部が常にチェックしているんです」 千尋は声を少し潜め、冗談めかすように続けた。「噂では、社長が莫大なお金をかけて、ものすごく腕の立つ専門家を集めたらしくて……本当かどうかは、私も知りませんけどね。ただ、ネット上で何か問題が起きても、かなり早い段階で対応してくれます。少なくとも、根も葉もない噂を放置して、所属タレントが一方的に傷つけられるようなことはありません」 すでに正式な契約を結んだからだろう。 千尋は契約前よりもずっと気安く、事務所の内部事情まで紗月に話してくれるようになっていた。 ルミエールの広報部は、社内でも謎の多い部署らしい。 独立した専門チームによって運営されており、千尋でさえ、普段は実際に対応を行っている担当者と直接顔を合わせる機会はほとんどないという。 担当するタレントに大きな問題が起きた場合に限り、広報部が臨時の危機管理チームを立ち上げ、千尋をはじめとする関係者を集めて対策を話し合うらしい。「だから、紗月が正式に所属した途端、広報部がすぐに動いてくれたんです。……それと、源間監督についても、今回の件に関係するものは一緒に対応してもらいました」 会社が自分のために、ここまでしてくれるとは思っていなかった。 紗月の胸に、じんわりと温かいものが広がっていく。 同時に、この事務所を選んだのは間違いではなかったのだと、ようやく心から安堵することができた。「ありがとう……千尋さん」「これくらい、何で
あまりにも真っ直ぐに返され、慎一は一瞬、言葉を失った。 ただ、紗月に契約を諦めさせたかった。 その焦りから、確かに言葉を選ぶ余裕を失っていた。 仕事では、どんな交渉でも相手の出方を読み、必要な言葉を選び、最後には必ず自分の望む結果へ持ち込んできた。 それなのに紗月を前にすると、まるで突然考える力を失ってしまったかのように、いつも言葉を誤る。 今回も同じだった。 けれど、紗月の指摘そのものは、完全に的外れというわけではない。 心のどこかで、今の紗月にこれほど破格の条件が提示されることを、慎一自身も不自然だと感じていた。 確かに紗月は美しい。 しかし、芸能界には彼女以上に整った容姿を持つ人間などいくらでもいる。 紗月の演技を実際に見たことがない以上、その実力を正確に評価することもできない。 芸能事務所を経営する立場から、経歴や実績、市場性だけを冷静に見れば、紗月は決して条件のいい新人とは言えなかった。 年齢の面でも、若さそのものを武器にできる新人たちと比べれば有利ではない。 知名度も、代表作も、確かな実績もない。 少なくとも、まだ何の保証もない段階で、ここまでの好条件を提示してまで獲得しようとする理由を、慎一には合理的に説明できなかった。 それでも、紗月が自分の事務所を選ぶのなら話は別だった。 慎一は惜しみなく金を注ぎ込み、必要なものをすべて揃え、彼女のために道を切り開くつもりだった。 そこに採算が合うかどうかなど、最初から関係なかった。「そういう意味じゃない」 紗月の問いに、慎一はひとまず否定の言葉だけを返した。けれど、そのあとに続く言葉は出てこなかった。 紗月はしばらく黙ったまま、慎一を見つめていた。 けれど、待っていても彼の口からそれ以上の説明が出てくることはない。 やがて紗月は視線を落とし、慎一の手から自分のスマートフォンを取り返した。「私が契約するかどうかも、相手に別の思惑があるかどうかも、朝倉社長には関係ないでしょう」「関係ないわけがない。俺たちには、まだ契約があるだろう」 こういう時、慎一が紗月を引き止めるために持ち出せるものは、結局のところ、二人の間に交わされた契約しかなかった。 紗月はその先を聞く前に、冷ややかに言葉を遮る。「朝倉社長。あの契約には、私がほかの事務所と契約してはいけないなんて書か
「え……?」 これほど早く結果が出るとは思っておらず、紗月は驚きのあまり、しばらく言葉を失った。 電車を降り、自宅へ向かって歩いていたところで千尋からの電話を受けた。話しているうちに、いつの間にかマンションの前まで辿り着いている。 電話の向こうで紗月がすぐに返事をしなかったことで、千尋もその迷いを察したらしい。急かすことはせず、すぐに宥めるような口調で続けた。「まだ決めきれていませんか? 大丈夫ですよ。所属する事務所を選ぶのは、もちろんとても大切なことですから。ただ、友枝さん、その点は安心してください。うちは設立してまだ日が浅いですが、スターを育てる力も、広報チームの実力も一流です。所属タレントへの待遇についても、業界最高水準だと胸を張って言えます」 千尋は、紗月に契約を勧める時だけ、いつも妙に必死だった。 普段は落ち着いていて仕事のできる女性に見えるのに、この話になると途端に熱が入り、少しでも紗月が迷う様子を見せれば、すぐに別の言葉を重ねてくる。 まるで、紗月が自分の事務所と契約してくれないことを、本気で恐れているようにさえ見えた。「永長さん、契約のことについては……」「ご不安でしたら、まず契約書を確認してみませんか?専門の弁護士に相談していただいても構いません。条件について少しでも気になる点があれば、すべて相談に応じます」 千尋はそこで少しだけ息を整えた。「……友枝さん、私、少し焦りすぎているように見えるかもしれません。でも、本当にあなたを高く評価しているんです。これから芸能界で歩んでいく友枝さんを、私に支えさせてほしいと思っています」 そこまで言われると、紗月もこれ以上その場で結論を出す必要はないように思えた。「わかりました。まずは契約書を読んでみます」 礼を告げて電話を切る。 それから一分も経たないうちに、千尋から契約書がメールで送られてきた。紗月が足を止め、さっそく添付ファイルを開こうとした、その瞬間だった。 手の中から、突然スマートフォンが抜き取られた。 一瞬、何が起きたのかわからず、紗月は呆然とする。 反射的に隣へ顔を向けると、紗月の許可も得ずにスマートフォンを取り上げた慎一が、何食わぬ顔で画面を見つめていた。 驚きに遅れて、じわじわと怒りが込み上げてくる。「朝倉社長。人のスマートフォンを勝手に取り上げるなんて
紗月のこめかみが、また微かに痛み始めた。 慎一と顔を合わせるたびに起こる、もはや一種の副作用のようだった。「いくら何でも、偶然すぎない? 朝倉社長」「ああ。俺もちょうど出かけようとしていたところだ。まさか、お前が帰ってくるとは思わなかった。夕食はもう済ませたのか?」 何でもない日常の会話でもするように、慎一はごく自然な調子で夕食のことを尋ねてきた。 紗月はすでに鞄から鍵を取り出していた。 慎一へ返事をするつもりはない。ただ一刻も早く部屋へ入り、この不自然な「隣人」との会話を終わらせたかった。 けれど、焦れば焦るほど鍵まで自分に逆らうようだった。 鍵先が何度も鍵穴の縁へ当たり、乾いた音を立てる。苛立ちながら手元へ意識を集中させ、ようやく差し込むことができた。 紗月が黙ったままでも、慎一は特に気にした様子を見せない。「紗月。まだなら、一緒に食べないか」 慎一はまだ夕食を取っていなかった。 紗月がそろそろ帰ってくる頃だろうと見計らい、ほんの少しの下心から、自分の部屋で待っていたのも事実だった。 もっとも、素直に誘いへ応じてもらえるとは、最初から期待していない。「遠慮しておくわ。近所の人とは、あまり親しくしすぎたくないから」 ようやく扉を開けると、紗月は慎一を振り返ることすらなく、そのまま部屋の中へ入った。 ただ、今の言葉が慎一のどこかに触れたのだろうか。 扉を閉める寸前、背後からごく小さな笑い声が聞こえた。 馬鹿にしたような笑いではない。むしろ、何かを面白がっているような、妙に愉しげな響きだった。 その声がなぜか耳に残った。 扉を閉めたあとも、紗月はしばらく玄関に立ち尽くしたまま動けなかった。 一分ほど経って、ようやく我に返る。 慎一のことなど、これ以上考えたくない。 その存在を頭から追い出すように、紗月は逃げるように部屋の奥へ向かった。 気を紛らわせるため、わざわざする必要もない家事まで見つけ出し、もともと大して散らかってもいない部屋を片づけ始める。 手を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。 そう自分へ言い聞かせるように、紗月は黙々と片づけを続けた。* 審査当日は、朝からよく晴れていた。 紗月は予定していた時間よりもかなり早くルミエール・エージェンシーへ到着し、ビルの一階にあるカフェで時間を潰していた。
家。 二度目のアラームが鳴り響いて、玄関でぼんやり立ち尽くしていた紗月は、ようやく我に返った。 目の奥がじんと痛み出し、手の甲で押さえて和らげようとする。だが触れた肌は熱く、熱はまったく引いていなかった。 この体調では休んだほうがいいのではないかと、そう思いかける。 けれど、部下の体調など一切気にも留めず、ただ頭ごなしに怒鳴りつける部長の性格を思い出し、結局は考えるのをやめた。 そのまま部屋へ戻り、出勤の支度を始める。 結婚してから、紗月はようやく契約を結んだばかりだった芸能事務所を辞め、ほぼ話がまとまっていたドラマ出演の契約も断った。 すべては慎一の「妻が外で目立つのは好
距離が近づくにつれ、紗月の纏う香水の匂いと、肌から伝わってくる異様な熱が、慎一の眉を思わずひそめさせた。「……気持ち悪い匂いだな」 彼女が体調を崩しているのか、それとも本当に病気なのか。そんなことは一切気にも留めない。 男の手つきには、微塵の情けもなかった。その触れ方は、欲望によるものですらない。ただ鬱積した感情をぶつけるための、乱暴な接触にすぎない。 紗月は彼の触れた感覚を受け止めながら、ゆっくりと目を開けた。 視線が合った瞬間、胸が締めつけられるように高鳴り、思わず口づけを求めるように身を起こそうとする。 その気配はすぐに見抜かれた。 慎一は露骨に嫌悪を滲ませ、顔を背ける
電話を切ってから四時間後、ようやく慎一は酒席を切り上げ、家へ戻る気になった。 すでに時刻は深夜十二時に近い。 それでも席に残っていた者たちは、立ち上がった慎一を見て、忘れたようにおべっかを並べる。「社長、もうお帰りですか? 奥さまのところへ急いで戻られるんですか?」 その一言をきっかけに、周囲も次々と追従し、慎一の“良き夫”ぶりを持ち上げ始めた。 今がどれほど遅い時間かなど、誰も気にしていない。「さすがは社長ご夫妻、相変わらず仲睦まじいですね。奥さまが羨ましいですよ、こんなに有能で、しかも奥さまを大切にされている男性と結婚できて」「本当ですよ。社長は毎月、奥さまのためにサプラ
朝倉紗月が玄関の扉を開け、部屋の中がこれまで幾度となく迎えてきた夜と同じように、がらんとして冷え切っているのを目にした瞬間、その瞳に濃い失望がよぎった。 今日もまた、彼は帰ってきていない。 紗月の顔色は病的なほど赤く、目尻は熱を帯びたようにじんと痛み、そこには気づかれないほどかすかな赤みも滲んでいた。 まるで次の瞬間には涙がこぼれ落ちてしまいそうなのに、それでも必死に強がって堪えているかのようだった。 数歩進んだだけで足元から力が抜け、彼女はそのままソファへと崩れ落ちた。戸籍上の夫がまた家に帰ろうともしない――その事実だけではない。 身体にこもる異様な熱もまた
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