LOGIN彼を何年も愛し続けてきた。 一緒にいたくて、結婚したくて、どんな手段も努力も惜しまなかった。 たとえ彼の心に、消えない誰かがいたとしても――愛があれば、すべて乗り越えられると信じていた。 けれど現実は、違った。 この関係にあるのは、たった一人分の愛だけ。 ほんの小さなひびさえ、致命的な痛みへと変わっていく。 だから今日、私は彼を愛することをやめる。 ――離婚まで、あとわずか。
View More慎一が来るなど、紗月にはまったくの予想外だった。 蒼空の顔にも明らかな驚きが浮かんでいる。どうやら彼も聞かされていなかったらしい。 もともと彼らに貸し与えられていたのは、物置の隣にある、閉鎖的な小部屋だった。設備らしい設備はなく、せいぜい移動式のホワイトボードが一枚置かれている程度だ。 蒼空が本社の人間であろうと、彼らの進めている共同プロジェクトが重要な案件であろうと、正田にとってはどうでもよかった。 ただ、本社の人間相手にあからさまな嫌がらせをするわけにもいかない。だからこそ、こういう陰湿なやり方で遠回しに恥をかかせていた。 正田がわざわざ陰湿な手を回したところで、蒼空はまるで気づいていなかった。 初めてこの部屋へ案内されたときも、彼は正田の前でにこにこと笑っていた。不満も文句もなさそうな顔で、むしろその能天気さが、かえって正田を苛立たせた。 今回は、本社の社長が来ると知らされた途端、上層部はすぐに一番いい会議室を用意した。 それがまた、正田の神経を逆撫でした。 どうして、美味しい話ばかり紗月に転がり込むのか。 このプロジェクトが本社からこちらへ回されて、もう三年になる。正田も時折口を挟みながら、ずっと見てきた案件だった。 本来なら、自分が目をかけていた、コネも将来性もある若手に任せて恩を売るつもりだった。 多少トラブルはあった。 だが結果的に立て直せたのなら、プロジェクトは自分の手元へ戻るべきだ。 正田はそう考えていた。 だから最近の彼にとって、紗月は目に刺さった針のような存在だった。 憎くて、目に刺さったまつ毛のように鬱陶しく、見ているだけで腹の底がざわつく。 背後から突き刺さるような正田の視線を感じながら、紗月は黙ってノートパソコンを抱え、蒼空とともに五階の多目的会議室へ向かった。 会議室でしばらく待っていると、下河が愛想笑いを貼りつけたまま、慎一を守るようにして入ってきた。 慎一は会議室へ足を踏み入れた瞬間、真っ先に紗月の顔を見た。 数時間ぶりに見る彼女の目元は、もうそれほど目立つほどではない。それでもよく見れば、泣いた痕跡はまだ残っていた。 顔色も白い。 会議室の蛍光灯が明るすぎるせいかもしれない。だが慎一には、朝より少しも良くなっていないように見えた。「ごほん。君たち、こちらは朝倉社長だ。朝倉グループ
慎一はデスクの向こうに立ったまま、左手の人差し指の先で軽く机を叩いていた。勝ち誇ったような顔をしている悠臣を見つめ、ふっと笑う。「御堂。利益が重要なのは確かだ。だがその前に、交渉の席につきたいなら、まずはそれに見合うカードを持ってこい」「カード? だからさっき言っただろ――」「四十五パーセントと引き換えに紗月を欲しいって? 別に俺は構わない。で、御堂。お前に本当にそれだけのものが出せるのか?」 慎一は一語一句、はっきりと言い切った。 先ほどまでの怒気など最初から存在しなかったかのように、視線にはいつもの軽蔑が戻っていた。 悠臣はそんな態度も意に介さず、ソファへ深く腰を沈めたままスマートフォンを取り出す。 慣れた手つきで画面を操作してから、挑発するように言い返した。「何が出せないって?」 慎一は小馬鹿にするように鼻で笑った。 代表理事という肩書きを与えられた程度で、自分も御堂グループの意思決定を握っているつもりらしい。 まともな実権を持ったこともない男ほど、大口だけはよく回る。 その滑稽さに、慎一は呆れるしかなかった。 そもそも、どうして先ほどこんな男相手に感情を乱されたのか――それ自体が馬鹿馬鹿しかった。 おかげで今は、完全に冷静さを取り戻している。「だったら契約書を持ってこい、御堂。白紙にサインもない口約束なんて、商売じゃないだろ」「へえ。ってことは、俺が本当に契約書を持ってきたら、慎一は紗月ちゃんを俺に譲るんだ?」 悠臣はその隙を逃さなかった。 通話中の画面が表示されたままのスマートフォンを手に、悠臣は立ち上がる。 そして慎一の声が電話越しの紗月へより鮮明に届くよう、わざと彼のすぐ近くまで歩み寄った。 慎一は低く笑い、挑発的な悠臣の目を真正面から見返す。 迷いはなかった。「もちろんだ」「それは助かる。じゃあ急いで会社戻って契約書の準備しないとな。ああ、そうだ慎一。あとでそんな話してないって言われても困るから、一応先に紗月ちゃんにも聞かせておいた」 悠臣はそう言って、スマートフォンの画面を慎一へ向ける。 表示されている通話時間は、すでに三分を超えていた。 慎一の表情が、ほんのわずかに陰る。 それでも表面上はほとんど反応を見せなかった。 むしろ悠臣が、そのまま電話越しの紗月へ話しかけ続けることすら、静かに許
慎一と悠臣の父――御堂哲郎の関係は、決して良好とは言えない。かといって、完全に決裂しているわけでもなかった。 ただ、御堂哲郎と慎一の父親は長年の友人同士だった。 慎一は、御堂哲郎という男を信用していない。 悠臣のように、腹に何かを抱えていても頭が追いついていない男とは違う。 御堂グループをここまで巨大にした時点で、その手腕が並ではないことは明白だった。 慎一が朝倉を継いでから、朝倉と御堂の間に大きな取引はほとんどなくなっていた。 自分でも狭量だとは思う。 悠臣とは昔から反りが合わず、その上、父親がかつて御堂に頼るように仕事をしていたことも、慎一はひどく嫌っていた。 だから慎一は、少しずつ両家の案件を切り離していった。 そんな中で、まさか御堂側からこれほど大きな海外案件を持ち込んでくるとは。 慎一はUSBをノートPCから引き抜くと、無造作に悠臣へ投げ返した。 背もたれへ軽く身体を預け、座り方も再び気怠げなものへ戻る。「海外側の利益を四十五パーセント譲るなら、考えてやってもいい」 もし悠臣が、この案件や契約内容について少しでも理解していたなら、こんな暴利同然の条件を、簡単に呑めるはずがなかった。 だが――悠臣は何も理解していなかった。「四十五パーセント?」 彼は単純に、半分以上取られるわけじゃないと思っただけだった。 つまり主導権は依然として御堂側にあり、朝倉ではない。 そんな程度の認識しかない。 慎一が欲しているのは、利益だけなのだと。 悠臣は、生まれてこの方、金に困ったことなど一度もない。 御堂家の莫大な資産と家族基金だけで、働かず遊んで生きていたとしても、一生かけて使い切れるかどうかも怪しいほどの金がある。 彼には「利益を譲る」という感覚自体が薄かった。多少削ろうが、自分の懐が痛むわけでもない。 札束の重みを、本当の意味で理解したことがない男だった。「四十五パーセントでいいなら、慎一。別にそれくらい構わないぜ」 案の定の無知さに、慎一は口元へ嘲るような笑みを浮かべる。 これで確信した。 悠臣は、この案件について何も知らない。 御堂会長は、馬鹿な息子を使って朝倉の出方を探っているだけだ。「ずいぶん気前がいいな、御堂。そこだけは少し見直してやるよ」 慎一の露骨な皮肉も、悠臣には褒め言葉
悠臣からの気遣うような言葉に、紗月は礼儀正しく応じた。返事はやはり少し遅れてから、控えめに返ってくる。「……ありがとうございます」「でもさ、紗月ちゃん。さっき言ったこと、本気だから。ちゃんと考えてから返事してくれよ? せっかくこうして再会できたんだし、俺は昔みたいに、またお紗月ちゃんと仲良くしたいって本気で思ってる。……どうせ慎一、紗月ちゃんのことなんて大して気にしてないんだろ?」 慎一の前だからこそ、悠臣はわざと最後まで言葉を濁した。 妙に含みを持たせた声音が、余計な想像を掻き立てる。 どう返せばいいかわからなかったのか、しばらく間を置いてから、紗月は困ったように小さく笑った。 電話越しの声からは、悠臣に対する特別な感情など感じ取れない。ただ突然再会した昔の知人へ向ける、ごく普通の社交辞令だった。「ありがとうございます、御堂くん。まさか今日会うなんて思っていなかったので……少し驚きました。ご提案については……嬉しいです。でも――」 紗月が続きを口にする前に、彼女が何を言おうとしているのか察した悠臣は、すぐにスマートフォンを手に取り、スピーカーを切った。 そして、ますます険しく沈んでいく慎一の表情を眺めながら、電話の向こうへ親しげな声を落とす。「紗月ちゃん、この話はまた今度ゆっくりしようぜ。……どうせ俺たち、これから長い付き合いになるんだからさ」 通話が切れる。 その直後、慎一はしばらく無言だった。 やがてようやく手にしていた資料を閉じると、裏返しのままソファ脇へ放り投げる。 悠臣を見据える眼差しは鋭い。静かに抑え込まれた怒気が、その奥に滲んでいた。「御堂。俺の妻の話をしたいだけなら、悪いが俺はお前ほど暇じゃない」 悠臣は肩を揺らして笑った。「おお、怖えな慎一。そんな顔するなよ、“友達”として心配してやってるだけだろ? ……で、お前が仕事の話をしたいっていうなら、今日はちゃんといい物を持ってきてる。むしろ感謝してほしいくらいだ」「感謝? 御堂、お前は大口を叩く腕まで磨いたらしいな」 そう皮肉られても、悠臣は珍しく気分を害した様子を見せなかった。 ポケットからUSBメモリを取り出し、軽く慎一へ放る。「中身見てから言えば?」 昨夜、悠臣は父親からそのUSBを渡された。慎一へ持ってくるまで、中身には一切目を通していない。
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