Chapter: 第七十九話「……まさか、医師から何も聞いていなかったのか?」 「それは……」 「それとも、説明を聞いても頭に入っていなかったのか。自分の命に関わることだというのに……ほとほと呆れるな」 その言葉を聞いた瞬間、頭にかっと血が上った。 ……呆れる? 今、呆れるって言ったの? ふざけないでよ。 あなたに、何がわかるというの? 突然、自分の命があと一年もないかもしれないと告げられた私の気持ちが。 これからどうすればいいのかわからず、ただ恐ろしくて、何も考えられなくなった私の気持ちが。 あなたにわかるはずがないでしょう。 だって、あのとき。 私が一人で医師の説明を受け、絶望のどん底に突き落とされていたとき。 あなたは私の傍になんていなかった。 私がどんな思いで病院をあとにしたのかも知らず、香澄と、子どもの誕生日をいわっていたでしょう? 私がどれほど苦しんでいたかなんて、知ろうともしなかったくせに。 それなのに、今さら夫のような顔をして。 どうして、そんなことを言われなければならないの? 「あなたに……!」 抑え込んでいた感情が、堰を切ったように溢れ出そうとする。 あなたに何がわかるの。 今まで私をどんなふうに扱ってきたと思っているの。 そう叫ぼうとしたそのとき、玲司が不意に手を伸ばしてきた。 そして、ベッドの上に置いていた私の左手に、そっと自分の手を重ねた。 「……っ!」 ぞわり、と全身に鳥肌が立つ。 何をするの。触らないで。 反射的に、そんな言葉が喉元までせり上がってきた。 私の身体に触れる、その手。 私以外の女を抱きしめ、私以外の女に愛を囁いてきた手。 香澄と過ごすために私を蔑ろにし、傷つけ続けてきた男の手。 そんな汚らわしい手で、今さら私に触れないでよ。 ましてや、そこはまだ火傷の傷が癒えきっていない左手だった。 玲司の指先が触れるだけで、香澄に熱湯をかけられたあの日の痛みと屈辱が蘇ってくる。 まるで、塞がりかけた傷口に塩を塗り込まれているようだった。 ……嫌。もう、これ以上傷つけないで。 私は重ねられた手を振りほどこうと、左腕に力を込めた。 けれど、その直後。 「……千影」 玲司が、私の名前を呼んだ。 いつもと違う、その声に。
Last Updated: 2026-10-17
Chapter: 第七十八話 鼻をつく薬品の匂い。 ここ数週間で何度嗅いだかわからないその匂いに、私はゆっくりと意識を取り戻した。 「……ん……」 重たい瞼を持ち上げる。 ぼんやりとした視界に映ったのは薄暗い室内。規則正しく響く医療機器の電子音。そして、腕には点滴の管が繋がれている。 顔を横に向けると、ベッドのすぐ脇に玲司が椅子に腰掛け、腕を組んだまま目を閉じている。 いつも隙のない姿ばかり見せる彼にしては珍しく、その顔には疲労の色が滲んでいた。 ……ずっと、ここにいたのだろうか? 「玲司……?」 「……目が覚めたか」 小さく名前を呼ぶと、玲司はすぐに目を開けた。 眠っていたわけではなかったのだろうか。 こちらを見つめる眼差しは、いつもと変わらず鋭い。 「ここは……?」 「紫苑医科大学附属病院だ。ちょうど近くを走っていたからな。直接運び込んだ」 「そう……」 短く答え、視線を天井へと戻す。 どうして玲司がまだここに残っているのかもわからない。 病院まで運んでくれたのなら、それで十分だったはずだ。 私のことなど放って、香澄のもとへ向かえばよかったのに。 そんなことを考えながら、何を口にすべきか迷っていると、玲司が不意に口を開いた。 「……高リスクの骨髄異形成症候群」 「…………っ!」 心臓が、どくりと大きく脈打った。 思わず玲司へと顔を向ける。 彼はそんな私の反応を確かめるように、わずかに目を細めた。 「急性白血病へ移行する危険性も高い病気らしいな」 「どうして、それを……」 「お前を診察した医師から聞いた」 ずっと隠してきた、私の病気。 それだけは、この男に知られたくなかったのに。 胸の奥から、冷たいものがじわじわと広がっていく。 病気のことを知られたからといって、今さら何が変わるというのだろう。 余命を告げられたとき、私は確かに絶望した。 どうして私ばかりが、こんな目に遭わなければならないのだろうと、何度も運命を呪った。 けれど、そんな惨めな姿を、この男にだけは知られたくなかった。 どうせ、同情を引くための嘘だと疑われる。 たとえ信じてもらえたとしても、今度は哀れな女だと見下されるだけかもしれない。 私の苦しみも、残された命も、この男にとっては嘲笑うための材料で
Last Updated: 2026-10-15
Chapter: 第七十七話 墓地からの帰り道。 玲司が運転する車の窓から見える景色は、すっかり夜の闇に包まれていた。 街灯の明かりが流れるように過ぎ去っていく。 私は助手席に身を預けたまま、窓ガラスにうっすらと映る玲司の横顔を盗み見た。 墓地をあとにしてから、玲司はほとんど口を開いていない。 その表情からも、何を考えているのかはまるで読み取れなかった。 紗良さんが私に臓器を提供したこと。 その事実を告げたときの玲司の反応は、私が想像していたものとはあまりにも違っていた。 もっと激しく怒ると思っていた。 私を責め立てるか、あるいは、母への憎しみを募らせるのではないかと。 けれど、玲司は驚くほど冷静だった。 もしかすると、あの報告書を見た時点で、すでに何かを察していたのかもしれない。 臓器提供の事実が記された報告書。 その中にあった、不自然に黒く塗り潰された部分。 あれを見た瞬間、玲司は私が気づかなかった何かに気づいていたのだろうか。 だとしても、あまりにも静かすぎる。 仮に事前に予想していたとしても、紗良さん自身に臓器提供の意思があったとしても、それですべてが許されるわけではないはずだ。 助けられたかもしれない紗良さんの命を救わず、玲司に知らせることさえしないまま、私への移植が行われたのだとしたら。 そんなこと、簡単に受け入れられるはずがない。 血の繋がりがなくても、法的な家族ではなくても、玲司にとって紗良さんはかけがえのない家族だったのだから。 ましてや、玲司はこれまでずっと、紗良さんを失った悲しみと憎しみを抱えて生きてきた。 それなのに、どうして……。 私はもう一度、玲司の横顔を窺った。 相変わらず前方を見据えたまま、黙々とハンドルを握っている。 それに、もうひとつ気になることがあった。 玲司が妙だと口にしたこと。 榊原さんに話を聞けばわかると言っていたけれど、一体何を確かめるつもりなのだろう。 私が何かを見落としている? それとも、根本的なところで何かを勘違いしているのだろうか。 考えれば考えるほど、疑問ばかりが膨らんでいく。 けれど、どれほど考えても答えは見つからなかった。 「ねえ、玲司……」 意を決して問いかけようとした、その瞬間だった。 「……っ!」
Last Updated: 2026-10-12
Chapter: 第七十六話 病院をあとにした私は、そのまま墓地へと足を運んでいた。 夜の墓地には人の姿もなく、風が木々の葉を揺らす音だけが静かに響いている。 いくつもの墓石が並ぶ中、私は一つの名前を見つめていた。 ――白峰紗良。 少し前まで私はその名前も存在すら知らなかった。 最初にその名を知ったのは、玲司からだった。 自分には、かつて妹のように大切にしていた少女がいた。 その少女を私の母が死なせたのだと。 玲司が私を憎む理由。 私たちがこんな関係になった原因。 白峰紗良という少女は、私と玲司の今へと繋がる過去に存在していた人だった。 それだけだと思っていたけれど違った。 今度は、私の双子の姉妹だと知った。 玲司だけではなく、私自身の過去にも深く関わっていた。 そして今日さらにもう一つ私は知らされた。 「…………」 そっと自分の腹部へ手を当てる。 私はずっと紗良さんは死んだのだと思っていた。 もう、この世界のどこにも存在しない人なのだと。 なのに違った意味で彼女はずっと私の中にいた。 私が今こうして今日まで生きてこられたのは、紗良さんが自分の身体の一部を、私に与えてくれたからだった。 「……どうしたらいいのよ」 頭の中で何度整理しようとしても。 考えれば考えるほど、ぐちゃぐちゃになっていく。 「私……あなたに何て言えばいいの?」 墓石から答えが返ってくるはずもない。 私が生きていることに罪悪感を抱くこと自体が、紗良さんに失礼なのかもわからなかった。 その時背後から足音が聞こえた。 私はゆっくりと振り返ると、暗い墓地の通路からこちらへ歩いてくる人物の姿を見た瞬間、胸の奥が僅かにざわついた。 母に聞かれた。 ――あなたには今、頼れる人がいる? ――何かあった時に、あなたを守ってくれる人はいる? その時頭へ浮かんだ人物。 私は病院を出てから、ずっと迷っていた。 本当にこの人でいいのだろうか、と。 だけど、心のどこかが訴えていた。 ——この人でなければ駄目だ—— 「玲司」 名前を呼ぶと、玲司は数歩離れたところで立ち止まった。 いつものように何を考えているのかわかりにくい、冷たい目で私を見ていた。 「……待ってたわ」 「こんな時間に呼び出しておいて、
Last Updated: 2026-10-11
Chapter: 第七十五話「……ええ」 「どうして?」 自然と声が強くなった。 「玲司にとって、紗良さんは妹だったんでしょう?」 「わかっているわ」 「だったら、一言くらい……!」 玲司は紗良さんを殺されたと思い込み。 母を憎みそして私まで憎んだ。 その原因が今、目の前にある。 「玲司君には、手続き上の決定権がなかったの」 佐伯さんが静かに口を開いた。 「決定権?」 「その頃には玲司君はすでに星見の丘を出て、久我家の人間になっていた」 「……うん」 「玲司君と紗良ちゃんは、本当の兄妹でもなければ、戸籍上の家族でもない」 私は唇を噛む。 わかっている。 でも、それと気持ちは別だった。 「当時、紗良ちゃんの立場について責任を負っていたのは星見の丘だった」 そこで私は手元の資料へ視線を落とす。 「……榊原慧一郎」 「ええ」 佐伯さんが頷いた。 「当時の施設長よ」 臓器提供の承諾書。 そこに記されていた名前。 「だから、榊原さんが承諾した……」 「そういうことよ」 少なくとも。 そこまでは理解できた。 私は深く息を吐く。 「わかった」 二人を見る。 「玲司に法的な決定権がなかったことも。榊原さんが関わっていたことも」 でも。 「それなら余計にわからない」 母の顔が強張る。 「玲司が調べたんだけど」 私は資料を手に取った。 「当時の手術記録、おかしいところがあるんでしょう?」 「…………」 佐伯さんの表情も変わった。 「記録された時間が合わない。関わった医師の名前にも不自然なところがある。それに……あとから手を加えたような箇所もあるって」 「千影……」 「どうして?」 母の言葉を遮る。 「紗良さんは自分からドナーになるって言ってた」 「…………」 「榊原さんもそれを知っていた」 「…………」 「私は実際に移植を受けて助かった」 資料を強く握る。 「だったら、どうして記録を改竄する必要があったの?」 返事はない。 「ねえ」 胸の奥に嫌なものが広がっていく。 「移植の時、本当は何があったの?」 「…………」 「紗良さんに、何があったの?」 佐伯さんは目を伏せた。 母も唇を固く結んでいる。 「お母さん」 「…………」 「教えて」
Last Updated: 2026-10-09
Chapter: 第七十四話 何も聞こえなくなった。 目の前にいる母の姿も佐伯さんの姿も全てが遠く感じる。 ――紗良ちゃんの臓器は、あなたに移植された。 ただその言葉だけが何度も頭の中で繰り返されていた。 私は紗良さんから臓器の提供を受けて生きていた。 「…………」 自分が重い病気だったことは知っている。 幼い頃から肝臓を患い、一時は命すら危ぶまれていたことも。 そして移植を受けたからこそ、今こうして生きていられることも。 母から何度も聞かされてきた。 だからずっと私はどこかの誰かに命を救ってもらったのだと思っていた。 名前も知らない顔も知らない。 ただ、その人の善意によって私は生きているのだと。 それがまさか—— 「紗良さん……だったの?」 もう一度確かめる。 母は涙を滲ませながら頷いた。 「……ええ」 「私に臓器を提供してくれたのが……本当に?」 「そうよ」 「…………」 胸元を押さえる。 苦しい呼吸が浅くなっていく。 玲司が妹のように愛していた少女。 そしてつい最近になって知った、私の双子の姉妹。 その紗良さんの身体の一部が。 今も私の中にある。 「どうして……」 掠れた声が零れる。 「どうして紗良さんが、私に……?」 母はしばらく何も答えなかった。 やがて。 「私はね」 小さな声で話し始める。 「事故が起きる前から、紗良ちゃんと何度か会っていたの」 「……お母さんが?」 「ええ」 驚いて母を見る。 「あなたには黙っていたけれど」 「どうして……?」 「最初は私のほうから会いに行った。でも、そのうち紗良ちゃんのほうからも、あなたのことを聞いてくるようになったわ」 「私の?」 「どんなふうに暮らしているのか。どんな性格なのか。元気にしているのか」 母が寂しそうに笑う。 「それで、あなたが病気だということも知った」 「…………」 私は自分の腹部へ手を添えた。 そこにある傷も。 何のための手術だったのかも。 私はずっと知っている。 「紗良ちゃんは、あなたが移植を必要としていると知って自分がドナーになれないかと言ったの」 「……え?」 思わず母を見た。 「紗良さんが……自分から?」 「ええ」 「私に?」 「そうよ」
Last Updated: 2026-10-07
Chapter: エピローグ 明日へ「ふぅーっ……」 エリカに想いを伝えた、あの夜から一夜明けた朝。 俺は彼女の部屋の前で深く息を吐き、胸の奥に渦巻く気持ちをなんとか落ち着けようとしていた。 告白したこと。 彼女の言葉を受け取ったこと。 ぐるぐると頭の中を巡って、ほとんど眠れなかった。 ――たぶん、人生で一番、大きな出来事だったと思う。 だからこそ、期待してしまう自分がいた。 昨日のあれがきっかけで、少しでも何かが変わるんじゃないかって。 覚悟を決めて、ドアノブを握り、ゆっくりと扉を開ける。 「……」 部屋の中では、エリカがいつも通りぐっすりと眠っていた。 だけど、よく見ると……目元には、昨日流した涙の痕がうっすらと残っている。 「エリカ、起きて」 「ん……直央くん? おはよ〜……」 ぼさぼさの髪のまま、眠たげな目をこすりながら、彼女はそっと顔を上げた。 「おはよう……エリカ。今日は何月かわかるか?」 「え、なに急に? 三月でしょ」 その答えに、俺はそっと目を伏せた。 やっぱり……まだ変わっていなかった。 今は七月も後半。季節は、もうとっくに夏だ。 「……日記、読んでみろ」 「ん~? 日記? ……うん、わかったぁ~」 まだ頭がぼんやりしているのか、エリカは小さく首をかしげながらも、素直に机の上にある日記を手
Last Updated: 2026-02-06
Chapter: 日記61 希望 ――エリカが、死ぬ? “いま目の前にいる、この大好きな女の子が、あと数分でいなくなる”。 その意味を理解した瞬間、俺の足元から力が抜けた。 よろけながら近くの机に手をつくも、うまく支えきれず、そのまま膝をついて崩れ落ちる。 その拍子に、机の上にあった一冊のノートが床へ滑り落ちた。 エリカの――人物図鑑。 ぱらり、と開かれたページには、真司と茉莉花のことが丁寧にまとめられていた。 幼なじみで、毎日一緒にいるような二人でさえ……記録していないと、その存在すら曖昧になってしまうという現実。 ――俺たちは、当たり前のように“昨日”を背負って“今日”を生きているのに。 エリカだけが、時間に取り残されている。 そして―― 俺の目の前にいる“今日のエリカ”は、昨日までの彼女とは違う、別の“新しい存在”なのだという事実が、胸を容赦なく締めつける。 震える手で、無意識にページをめくる。 そして、辿り着いたのは―― 《エリカの人物図鑑ファイル No.000-A》■名前:雨宮直央(あまみや・なお)■学年:高校一年生 → 高校二年生■年齢:16歳 → 17歳直央くんは特別な存在!大切な幼なじみで、私の大好きな人! ――たった、それだけ。 けれど、その“たったそれだけ”を書いたエリカは、もうどこにもいない。 そう思っただけで、視界が滲んで、頭が真っ白になりかけた。 でも。 ふと、胸の奥に、かすかな“引っかかり”が残る。 ――それは、ほんの些細な違和感だった。 頭が真っ白になるのを必死に抑え、思考を巡らせる。(考えろ、なにか……なにか引っ掛かる……!) そのとき。「あのすごくかっこよかった直くんも忘れちゃってるんだよ。前の日は寝癖のついた頭だったのに、灯籠流しのお祭りの日には髪もちゃんとセットして、浴衣まで着て……」 涙交じ
Last Updated: 2026-01-28
Chapter: 日記60 スワンプウーマンエリカが日記を書いている間、俺はずっと黙っていた。 家に帰るまでの間、エリカが話しかけてきてもほとんど上の空だった。 「……直央くん。どうしたの?」 そっと問いかけられて顔を上げる。 心配そうに俺を見つめてくるエリカの顔を正面から見て、最近見た夢が蘇る。一年前の、あのときのエリカが――。 俺の胸が痛む、またあの壊れそうなエリカを見るのは耐えられない、君には笑顔でいてほしいだけなんだ。 気づけば、俺は口を開いていた。先週母さんと話したことなど完全に頭から抜けてしまって―― 「……思い出さなくても、いいんじゃないか」 「……え?」 思わずこぼれた言葉に、自分でも焦る。だが、もう止められなかった。 「……今はなんとか生活できてる。あんなつらい記憶を無理に思い出すより、今のままの方が――」 「どうして?」 俺の言葉を遮るように、俯いていたエリカがぽつりとつぶやいた。 「え……?」 顔を上げた彼女の目は、涙に濡れていた。 その頬を伝う雫が、言葉より先に俺の胸を締めつける。 「どうしてそんなこと言うの……? “今のままでいい”だなんて……!」 急に叫ぶように声を荒らげるエリカに俺は狼狽える。 「急にどうしたんだエリカ……!?」 けれど、エリカは止まらなかった。 「ねぇ、直央くんにわかる!? 朝起きるたびに、周りの景色が“知らないもの”になってる怖さ。 どれだけ日記を読んでも、“知らない今日”が始まることの不安が、どれだけ苦しいか……!」 「だけど……ちゃんと日記を見れば、わかるようになってるんだろ?」 「“わかる”だけで、“覚えてる”わけじゃないの! そこに“気持ち”がないの。“つながり”もない。ただの、知識なの」 日記を指差して、彼女は叫ぶ。 「ここにあるのは、昨日のエリカが残した“ただの記録”なの! 感情も、記憶も、何も――“今の私”には残ってない!」 言葉が詰まる。 エリカの声が、胸の奥をえぐるようだった。 「イルカさんたちの謎を解いたときも、日向くんに千紘ちゃんの想いが届いたことも、琴音ちゃんのおじいちゃんが記憶を思い出した瞬間も……」 彼女は、自分の胸に手を当てる。 「そのときの私が感じたこと、喜びも悲しみも、全部――“今の私”には届いてな
Last Updated: 2026-01-30
Chapter: 日記59 空き教室の謎⑥ 榊原先生には、「猫が教室に忍び込んでたんです! よく見たら窓の鍵、開いてたんです! きっと器用に開けちゃったんですよ!」という、どこまでも無理がある言い訳を、エリカの勢いと笑顔で押し切った。 当然ながら先生の目は明らかに怪しんでいたが──深く追及はせず、「約束は約束だから」と言って、教室の使用を許してくれた。 「ふ~んふふんふ~ん♪」 エリカは鼻歌まじりに、ご機嫌で俺の隣を歩いている。 「よかったな。教室、使えるようになって」 「うんっ!念願の探偵事務所だよ! これからいっぱい依頼が来ちゃうかも~!」 エリカは小さな拳をきゅっと握って、高く掲げる。目がきらきらと輝いていて、テンションは完全に最高潮だ。 「明日から、さっそくお片づけだね!使えるように整えなきゃ!」 と、そこでふと、彼女の表情が変わった。 横顔から俺の方へ視線を向け、まっすぐに真剣な眼差しを向けてくる。 「ねぇ、直央くん。……いつも私の思いつきに付き合ってくれるのは知ってるけど、今回のことは、なんだか直央くんの方が気合い入ってる気がするんだよね。やっぱり、私のため?」 無邪気なようでいて、鋭い。 何も考えていないようでいて、周囲の空気も、人の気持ちも、ちゃんと見ている。 そして、本当に必要なことを、ちゃんとわかってる。 「うん。エリカがやりたい“謎解き”を通して、なにか……新しい刺激が見つかるんじゃないかって思ったんだ。きっかけって、案外そういうところに転がってるから」 俺がそう答えると、エリカはぱっと笑って、そして優しく言った。 「ありがとう、直央くん。私も、頑張るね」 前を向こうとしている。その瞳に、少しだけ決意が宿っていた。 ふいに、過去の記憶の残像が、脳裏に淡くよみがえる。 ――棺の蓋は、最初から閉じられていた。 白い布に包まれた棺の前で、誰も言葉を発しなかった。まるで、そこに触れてはいけない何かがあるように。 “お顔は……お見せできない状態です” そう告げた葬儀社の人の声だけが、妙に鮮明に耳に残っている。 エリカは、無言だった。 制服姿のまま、ただまっすぐに棺を見つめていた。涙ひとつこぼさず、唇ひとつ動かさず。 まるで、壊れかけの人形のように無表情だった。 遺影に映る笑顔だけが、そこにあった。 だ
Last Updated: 2026-01-19
Chapter: 日記58 空き教室の謎⑥「でも、どうやって教室に入ったの? あそこ、密室だったよね?」「うーんとね、窓の鍵が開いてたからだよっ!」 ……って言われても、全然ピンとこない。だって、さっき見たときは、どう見ても鍵はちゃんと閉まってたように見えたし。「あ、それはですね。こういう仕掛けなんです」 花守さんに連れられて、俺たちは窓の前へ。「このテープを、鍵のツメとレバーの間に貼ってから鍵を閉めると──ほら、見た目はちゃんと閉まってるように見えるんです」 言いながら、花守さんはぺたりとテープを貼って、カチリと鍵を回す。「あっ、爪が届いてない!」 なるほど。テープが間に挟まってるせいで、見かけだけはロックされてるけど、実は引っかかってない。つまり――「だから、外から押せば、簡単に窓が開いちゃうんですよ」「すごいね、花守さん………こんなこと、よく思いついたね?」「えへへ……ミステリー小説が大好きでして。それをちょっと思い出しちゃって!」 俺がそういうと、花守さんはちょっと照れたようにはにかんだ。 さっき鍵のところにリストバンドの繊維がついていたのも、テープを貼っていたからなんだと気づいた。「でもさ~、やってることはダメなやつだよ? 茉莉花ちゃんとか先生が知ったら、怒られちゃうよ~?」 エリカがいたずらっぽく言うと、「ひぃ~っ、それだけはご勘弁を~!」 花守さんは勢いよく頭を下げて、さらにその頭の上で手を合わせた。「部活がちょっとキツくてですね……。5月に先生とここに備品を取りに来たとき、だれも使ってないって聞いて、つい、魔が差しちゃいました」 要するに、バスケ部がめっちゃ厳しくなって、こっそりサボるためにこの教室を“避難場所”にしちゃったらしい。「うちのバスケ部、去年から外部コーチ雇ってて、急にガチ化したらしいんですよ。私、もっとゆるいとこだと思って入ったのに……あれ? 話がちがう!って」 それでも、仲良くなった先輩や友達がいるから辞められなかったんだって。「でも、やっぱりダメだよ?こんなことしたら、まわりに迷惑かけちゃう」「……ですよね。バスケ自体は好きだし、ちゃんと頑張ってみます」 しっかり反省はしてるみたいだけど、名残惜しそうな表情も浮かべる花守さん。「だったらさ、どうしても無理なときだけ、この部屋使っていいよ。私たち、これからここを“ひらめき探偵
Last Updated: 2026-01-16
Chapter: 日記57 空き教室の謎⑤「直央くん、しっ。しゃがんで、耳を澄ませて!」 エリカは素早くドアに耳をぴたりと当てる。俺もつられて同じようにすると―― カラカラ…… ……窓の開く、小さな音が聞こえた。 ――誰かが、教室の中に戻ってきた。 その瞬間。 「そこまでだよ、琴音ちゃん!」 バンッ! エリカが勢いよくドアを開けた。 「ひぃっ!?」 中にいたのは、驚いたように目を見開き、机の下に隠れようとしてそのまま固まって、こちらを見つめる── 花守さんだった。 花守さんは、ドアの向こうにいた僕たちを見て、ぴたりと動きを止めた。まるで時間が止まったみたいに、固まったまま。 そんな彼女を見て、エリカはゆっくりと一歩前に出ると── 「この教室に、不法侵入して……隣の手芸部の子たちを怖がらせた犯人は……」 一度、目を閉じて深呼吸。溜めを作る。その動きがやたらサマになっている。 「あなたよ、琴音ちゃん!」 ビシィッ! キリッとしたバッチリ決まった表情で、エリカが花守さんを指差した。 「ひぃぃ、ごめんなさいぃぃ……っ。つい出来心で……!」 うん、ノリが良いなこの子。 「……花守さん、どうしてここに?」 俺が聞くと、花守さんは目を泳がせながら答えを探す。 「え、えーと……その……」 「部活、サボるためだよね~?」 エリカがジト目でにやにやしながら追い打ちをかける。 「……は、はいぃ……」 罰が悪そうに視線をそらし、しょんぼりうなだれる花守さん。リスか小動物みたいでちょっとだけ罪悪感。 でも、気になってたことを聞いてみた。 「……エリカ、どうして花守さんが中にいるって、分かったの? 姿も見てなかったよね?」 そう、エリカは教室に入る前から、名前までバッチリ呼んでた。あの確信、どこから来た? 「それはね~。さっき琴音ちゃん、校庭走ってくるって言ってたでしょ? それとね、窓の鍵に青っぽい繊維がついてたの!」 そう言って、ドヤ顔エリカが「どうだ!」と胸を張る。 うん、やっぱりこうなるよね。と思いながら、 俺はもう一度、教室の中を見渡す。そして、花守さんの手首に目をやった。 ──ネイビーに白いラインが入ったリストバンド。茉莉花がよく着けてる、女子バスケ部のやつだ。 さらに思い出す
Last Updated: 2026-01-12
Chapter: エピローグ──こうして、俺たち推理部が受けた初めての本格的な依頼は、幕を下ろした。 すべてが明らかになったわけじゃない。 事件の裏には、まだ解けていない謎がいくつも残されている。 あの日、なぜ屋上の鍵が職員室から盗まれていたのか。 事件当日、校舎内の防犯カメラには、なぜ誰の姿も映っていなかったのか。 朝早く、誰が職員室の鍵を開けていたのか。 ──佐倉美月先輩が、どうしてあの時、職員室に入れたのか。 点と点は繋がったようで、まだ線にはなっていない。 そして綾野奏斗。 彼は、真相が明るみに出た後も、何ひとつ語ろうとはしなかった。 まるで終わった役割を果たした人形のように、口を閉ざしたままだ。 けれど、その後の報せはあまりにも突然だった。 事件から数日後。 綾野は、両親と共に乗っていた車で、交通事故に遭い──死亡した。 雨の日の夜、ブレーキ痕すら残らない奇妙な事故だったという。 原因は不明。詳細な報道もないまま、ただ一行の訃報だけが新聞の隅に載った。 偶然なのか、それとも……。 真実は、まだ深い闇の中に沈んだままだ。 それでも。 あの日、あの屋上で見届けたものは、確かな救いのひとつだった。 佐倉──いや、優衣は事件のあと、推理部に入った。 最初は戸惑いもあっただろう。けれど今では、俺たちと一緒に、校内のあちこちを駆け回っている。 ときには真剣に、ときには口喧嘩しながら。 それでも確かに、彼女は前を向こうとしている。 佐倉美月先輩のことは、まだ乗り越えたとは言えない。 けれど、家族に支えられ、友人に守られ、 そして、自らの居場所を取り戻しながら、少しずつ――歩き始めている。 そうだ。 この物語に、はっきりとした勝者なんていない。 でも……少なくとも、光を見つけた者は、いたのだと思う。 そして俺たちは、この事件がまだ始まりに過ぎないことをまだ知らなかった。事件を解決するたびに、何者かの影が潜んでおり、その影は俺たち家族の死にかかわっていた……。 長きにわたる謎、因縁解決へ今歩み始めた。
Last Updated: 2026-07-06
Chapter: 終章:沈黙を破る声⑤ それから数分後、屋上には、なお沈黙の余韻が漂っていた。 綾野はその場に座り込み、もはや立ち上がる気力さえ残っていなかった。俯いたまま微動だにせず、顔の影に感情は読み取れない。そのそばで、片桐先生と仁科校長がそっと寄り添っていた。 「ここは任せろ」 短く、それでいて深い信頼を込めた片桐の声に、悠真たちはうなずいた。 推理部の三人――悠真、陸、澪。そして如月、小池、佐倉。六人は無言のまま屋上の扉へと向かい、ゆっくりとその重い扉を押し開ける。その瞬間――。 「優衣!」 甲高くも震えた声が響き、次の瞬間、ふたりの女子生徒が駆け寄ってきた。 一人はそのまま優衣に飛びつくように抱きつき、もう一人は彼女を庇うようにその前に立った。 「大丈夫!? ……ほんとに大丈夫なの!?」 「ずっとここで見てたの、あんたが屋上に行くのを……でも、何もできなくて……」 その声は涙で詰まっていた。彼女たちの表情には、ただただ心配と後悔が滲んでいた。 「……あんたが辛いのに、気づいてやれなくてごめん。でも、でもね、これからは私たちが――あんたを守るから」 「そうよ。さっきの話……全部聞こえてたけど、悪いのは綾野先輩じゃない! 優衣は……優衣は何も悪くない!」 「中学の時は両親を亡くして、今度はお姉さんが亡くなっても、毎日学校に来て、誰にも当たらないで、私たちにだってずっと気丈に接してくれて……」 「そんな優しい優衣を、責めるなんて……絶対に許さない!」 言葉が、涙とともに次々と溢れていく。優衣は、その場に立ち尽くしたまま、目を見開いていた。その視線は驚きに揺れ、そして、何かが溶けていくようだった。 そのとき、陸が一歩前に出て、口を開いた。 「……俺も、兄貴を亡くしてる。だから、わかるよ。大切な人を失ったときの気持ち、簡単には癒えないし……周りに何を言われても納得なんてできるもんじゃない。でもな、優衣ちゃん。君は――二度も、大切な人を失ったかもしれない。けど……失われていない絆も、確かに残ってるんだ」 陸は、泣きながら優衣の肩を支えるふたりの女子生徒を見た。 その視線は真っ直ぐで、どこまでも真剣だった。 「どうか、それを大事にしてほしい。俺が、こいつらを大事にしてるみたいに――」 その瞬間だった。佐倉の目から、大粒の涙がひとしずく、頬を
Last Updated: 2026-07-04
Chapter: 終章:沈黙を破る声④「勝手に死んで、勝手に人を責めて……少し言葉をかけただけで、人を殺しただなんて。バカげてる」 「……は?」 陸が呟いた。目を見開き、信じられないというように一歩前へ出る。 「お前、今……なつった?」 仁科校長は沈黙のまま綾野を見据えていた。その瞳には、鋭い光が宿っていた。 小池は口元に手を当て、震える指先を抑えるように立ち尽くしている。 「……何言ってんの、あんた……?」 如月先輩は、はっきりと声に出した。 「だってそうだろ? あれくらいで死ぬような奴なら、最初から死にたがってたんだよ!むしろ感謝されたいくらいだ。僕のおかげで、あいつは死ねたんだからな!それで僕を恨むなんて、筋違いもいいところだ!そもそも――」 綾野はゆっくりと歩を進め、佐倉の真正面に立った。 「僕が犯罪者だというなら、この女だって同じだ。証拠を捏造して、僕を殺人犯に仕立て上げた。とんでもない嘘つき女だよ。それに、殺人罪偽造の、証拠だってあるんだからな!」 佐倉は綾野を睨み返した。沈黙のなか、怒りと恐怖、そしてもう一つ、名づけがたい感情が彼女の瞳に交錯していた。 「犯罪者は、お前だけだ。綾野」 俺はそう言いながら、佐倉を庇うように綾野との間に立った。少し遅れて、陸と澪も前に出て、俺の隣に並ぶ。 「人をもてあそび、心を壊したお前と、たとえ過ちがあったとしても誰かを想って動いた優衣ちゃんを、同じ土俵に並べるな!」 「あなたは、間接的に人を殺した……その事実から、目を背けないで。……証拠もある。罪は、償うべき」 陸と澪がそう言葉を投げかけたあと、二人の言葉を引き継ぎ俺も続いた。 「確かに、お前が殺人犯だという構図は、作られた嘘——虚構だった。だが――お前は佐倉先輩を追い詰め、壊し、自らの手を汚すことなく死へと導いた。その現実は、佐倉が作り出した虚構よりも、ずっと冷たい」 言葉を区切り、口調をさらに冷たくして続けた。 「本当に恐ろしいのは、虚構が現実を超えることじゃない。現実が、それすら飲み込んでしまうほどに、邪悪だったという事実だ。お前の行いで、周囲の人間は絶望に突き落とされた、それを自覚しろ」 そして、俺はわざと不敵に笑って、軽い調子で言った。 「それに証拠?──そんなもの、どこにあるんだ?」 「……は?」 その直後、乾いた音が場を裂
Last Updated: 2026-07-03
Chapter: 終章:沈黙を破る声③「ええ、そうよ。途中までの——殺人罪を立証させる推理は、私が思った通りに推理してくれて、計画どおりになると思ったのに……」 その答えには悔しさが滲んでいた。だが、なぜかその答えを何度も繰り返し胸の内で練習してきたかのように、迷いは一切なかった。 「こんなの……直接手を下してないだけで、殺人と何が違うの?」 声がわずかに揺れた。 「支配して、追い詰めて、逃げ場を奪って……それでも自殺だからって軽く済まされるなんて、私はどうしても許せなかった」 その言葉には怒りだけでなく、長い葛藤の末に形になった痛みがにじんでいた。 如月先輩と陸が顔を見合わせる。だが、そこに浮かぶのは怒りでも非難でもなく、ただ困惑だった。 「……どういうことなんだ?」 陸が小さくつぶやき、それに応えるために俺は息を整える。 「今、説明する」 今この場を預かる者としての責任を果たそう。 「綾野は十八歳、つまり特定少年に該当します。殺人罪が適用された場合は、成人と同等の刑罰――極刑こそないが、重い罪を科される可能性がある。実際には慎重な判断が求められますが、少なくとも佐倉の思惑どおりなら、重い罪に問われていたでしょう」 澪が補足するように言葉を重ねる。 「自殺幇助も刑法上は処罰対象だけど、特定少年が対象となると、実際には大幅な減刑がなされることが多い。執行猶予付きの判決が出ることもある……つまり、殺人と比べて罪の重さがまるで違う」 「だからこそ、佐倉は殺人罪として裁かせようとした……そういうことだ」 澪から引き継いだ、俺の言葉が響いたそのとき、口を開いたのは小池だった。 彼はうつむきがちに口を開く。声は小さかったが、はっきりと響いていた。 「……僕は、佐倉先輩に……恋をしていました。ずっと伝えられなかったけど……それでも、ずっと、ずっと想ってたんです」 一瞬、彼の視線が綾野へと向く。 「でも、綾野と佐倉先輩が親しげに話しているのを見て……僕は勝手に、二人は付き合っているんだって思い込んでしまって……悔しくて、嫉妬して、どうしようもなくて……それで、生徒会室に隠しカメラを仕掛けたんです。スキャンダルでも撮れたら、って……最低な動機でした」 その顔には自己嫌悪の色が濃く滲んでいた。 「でも……そこに映っていたのは――あの動画だった」 声がわ
Last Updated: 2026-07-02
Chapter: 終章:沈黙を破る声②俺の言葉に皆が息を呑む、明かされただ真相の重さに、言葉を失っていた。それを最初に破ったのは、綾野自身だった。 「……それがどうした……結局、自分で勝手に死んだだけだろ? 自殺なんて、本人の意思だ。僕がどうこう言っても関係ないだろ!?」 「ふざけるなっ!」 怒声とともに、佐倉が綾野を睨みつける。その表情は怒りに満ちていたが、その目だけは冷たく綾野を捉えていた。 「お前がお姉ちゃんを殺したんだ! お前がいなければ……お姉ちゃんは自殺なんてしなかった!」 その姿、その静かで冷たい目を見て、俺の記憶が呼び起こされる。……あのときの、中学二年冬の全国中学推理選手権であった少女の姿を——。 「……君は、三年前の冬に全国中学推理選手権決勝で会った……あのときの……」 俺が目を細めながら口にした瞬間、佐倉は小さく、皮肉めいた笑みを浮かべた。 「ようやく気づいたのね。あの大会の決勝であなたと戦ったのは、私よ」 その声はとても凍てつくように冷たかった。 「……あの大会の帰り道、私はひどく落ち込んでいた。応援してくれた父と母の顔を見るのが辛くて、車の中でずっと黙りこんでたの。でも、父は私を励まそうとして何度もこちらを見た……そして――そのとき……」 言葉を切った佐倉の視線が、遠く過去を見つめるように揺れる。 「運転していた父は、対向車に気づくのが遅れた。正面衝突だった。助手席にいた母と、ハンドルを握っていた父……二人とも、その場で亡くなったわ」 「……それは……」澪が、絞り出すように声を上げかけた。 佐倉はわずかにうなずき、遮るように言葉を継ぐ。 「ええ。もちろん、彼に責任はない。事故は事故よ。わかってる……頭では。でも――簡単に割り切れるものじゃない」 声がかすれた。だが次の瞬間には、その表情がまた冷たい仮面を取り戻していた。 「だから、精々あなたの推理力を利用させてもらおうと思ったのよ。あの男を殺人犯に仕立てあげるために」 彼女の目が再び綾野に向く。 「お姉ちゃんの遺体からあの鍵を拾ったのも私。すべては計画の一部。あなたたちが真相にたどり着くように、導いてきたの……最後の最後で、台無しにしてくれたけどね」 その吐き捨てるような言葉に、一瞬、場の空気が凍りついた。 「優衣ちゃん……それって……」 如月先輩が、顔をこわばら
Last Updated: 2026-07-01
Chapter: 終章:沈黙を破る声① 異変に気づいたのは、お風呂から上がって自室に戻ろうとしたときだった。 その日、お姉ちゃんは朝早く登校したのになぜか帰宅して、学校の授業を休んで家にいるはずだった。なのに、部屋の前に立っても、扉の向こうからは何の気配も感じられない。トイレかもしれない一瞬、そんな考えがよぎった。 でも、胸の奥に小さなざわつきが広がり、理由のない不安が膨らんでいった。 嫌な予感がして私は、居間、洗面所、台所、玄関……家中を駆け回るように探した。 けれど、どこにもいなかった。 不安は、じわじわと恐怖へと変わっていった。 まさか──その言葉が脳裏をよぎると同時に、私はパジャマのまま外へ飛び出していた。夜の町を走った。冷たい風が肌を刺した。でも、それすら感じなかった。向かったのは、旧校舎。なぜそこなのかはわからない。ただ、直感が告げていた。 そして──屋上のフェンスの先に、身を乗り出すお姉ちゃんの姿を見た。 「なにをしてるの──」 その言葉が口を出るより早く、お姉ちゃんの身体はふわりと宙に浮き、闇へと消えていった。叫ぶ間も、考える間もなかった。私はただ、足が千切れるほど走っていた。そして、地面に叩きつけられたお姉ちゃんのもとへ駆け寄った。血の色が、夜の光に鈍く滲んでいた。声をかけるまでもなく、その姿を見た瞬間、すべてが終わったとわかった。 そのとき、気づいた。お姉ちゃんの右手が、何かをしっかりと握りしめていた。 震える指でそっと開いてみると、そこにあったのは一つの鍵。 タグには「屋上」と書かれていた。 ……次に意識をはっきり取り戻したとき、私は自宅の自室にいた。 どれだけの時間が経っていたのかはわからない。ただ、手の中にはひとつの鍵が握られ、そのタグには『屋上』の二文字があった。 それを見た瞬間、初めて感情が溢れ出した。涙ではない。嗚咽でもない。もっと、得体の知れない、深く黒いものが胸の奥から込み上げてきた。怒りとも違う。悲しみとも違う。 ——その数日後、真相を知った時、その深く黒いものは『復讐心』という明確な形を成した——。*** 動画は、淡々と終わった。だがその余韻は、屋上に集まる全員の胸に重く沈殿した。 明かされた真実は、衝撃的だった。 それは、綾野奏斗による佐倉美月への――自殺幇助。 ただの自殺ではない
Last Updated: 2026-06-30