Chapter: 第三十六話 準備を終えたあと、私は屋敷の外へ出た。 黒い車の運転席側に立った玲司が、無言でキーを開ける。 ——今日、すべてを教えてやる。 そう告げてきた玲司の言葉が頭から離れず、心臓が嫌な音を立てている。 私は助手席に乗り込み、震える手でシートベルトを掴んだ。 けれど、金具がうまく差し込めない。 カチリ、と鳴るはずの音が鳴らず、何度も手元が滑る。「……」 焦れば焦るほど、指先に力が入らなくなった。 シートベルトは私を嘲笑うように何度も外れた。 その時、玲司が無言で身を乗り出してきた。「え……」 低い体温を纏ったような彼の気配が、一気に近づく。 玲司の腕が、私の身体の前を横切る。 彼の袖口から、ほのかに香水の匂いがした。 心臓が、嫌になるほど大きく跳ねる。 彼の指先が、私の手元に触れそうな距離を通り過ぎる。 包帯を巻いた前腕が視界に入った。 三日前、私を庇って傷を負った腕。 その白い包帯が、胸の奥に生々しい痛みを残す。 玲司の横顔はすぐそこにあった。 少しでも顔を動かせば、頬が触れてしまいそうな距離。 息をすることさえ、許されないような気がした。 ——カチリ。 シートベルトが締まる音が、やけに大きく響いた。 玲司は何事もなかったように身を離す。 ただそれだけだった。 なのに、私の鼓動は先ほどまでの嫌な音ではなくなっていた。「……ありがとう」 かろうじてそう呟くと、玲司は何も答えずに車を発進させた。 車は静かに屋敷の門を抜け、窓の外の景色が流れていく。 車内に会話はなく玲司は前を見たまま、淡々とハンドルを握っている。 その横顔は冷たく整っていて、何を考えているのかまるで読めない。 沈黙に耐えかねたわけではないだろう。 不意に、玲司がカーラジオのスイッチを入れた。 流れてきたのは、明るい音楽ではなかった。 淡々としたニュースの報道音声だった。『三日前、紫苑医科大学附属病院で発生した傷害事件について、逮捕されていた元看護師長の黒崎真知子容疑者が、昨夜、留置施設内で死亡していたことが分かりました。警察は自殺とみて詳しい経緯を調べています』 息が止まった。 黒崎看護師長。 あの人が、死んだ。 頭の中で言葉の意味がうまく繋がらない。 けれど、
Last Updated: 2026-07-15
Chapter: 第三十五話「飯だ」 寝室のドアが開き、低い声が落ちてきた。 顔を上げると、そこには玲司が立っていた。 長身に仕立てのいいシャツ。 そこまではいつも通りだった。 けれど、その上に巻かれているエプロンだけが、どうしようもなく彼に似合っていなかった。 思わず、胸の奥が小さく揺れる。 昔も、こんな姿を見たことがあった。 付き合い始めたばかりの頃。 朝寝坊が好きな私を起こすために、玲司は不機嫌そうな顔で寝室へやって来た。『いつまで寝ているつもりだ』 そう言いながら、初めて作ったというスクランブルエッグを差し出してくれた。 少し焦げていて、味も薄かった。 それでも私が笑って「おいしい」と言うと、玲司はそっぽを向きながら、耳だけ赤くしていた。『……次は、もっと上手く作る』 あの頃の彼は、優しかった。 不器用で、言葉足らずで、それでも私のことを見てくれていた。 私が好きなものを覚えようとしてくれていた。 私が笑うだけで、ほんの少しだけ表情を和らげてくれた。 パタン、とドアが閉まる音で、私は現実に引き戻された。 胸に浮かんだ甘い記憶が、途端にひどく残酷なものへと変わる。 今さら、過去の思い出に浸ったところで何の意味もない。 あの頃の玲司は、もうどこにもいない。 今、彼がこうして甲斐甲斐しく動いているのは、きっと負い目があるからだ。 三日前、病院で黒崎元看護師長がナイフを突き出した時、私は何も考えず玲司の前に飛び出した。 刺されたのは自分だと思った。 けれど、次に感じたのは痛みではなく、玲司の腕に強く引き寄せられる感覚だった。 彼はあの一瞬で、すべてを察知していた。 護身術に長けている玲司は、私の身体を庇いながら黒崎の手首を弾き、ナイフを叩き落とした。 それでも完全には避けきれず、刃は彼の前腕を裂いた。 白い床に落ちていた血は、私のものではなかった。 玲司のものだった。 幸い、動脈は外れていた。 命に関わる怪我ではない。 けれど、包帯の巻かれた彼の腕を見るたびに、胸の奥が妙な痛み方をした。 あの時、私はたしかに玲司を庇おうとした。 自分でも理由は分からない。 もう愛していないはずなのに。 何度も傷つけられて、期待することすらやめたはずなのに。 それで
Last Updated: 2026-07-13
Chapter: 第三十四話 床に散らばった小物を拾い、倒れかけていた点滴スタンドを看護師に直してもらい、乱れたシーツを整える。 ただそれだけのことなのに、身体はひどく重かった。 一人で考えていても答えは出ない。奏人先輩に相談しよう。 そう思い、私は母の眠る顔をもう一度確認してから、病室を出た。 廊下は先ほどの騒ぎが嘘のように静まり返っていた。 けれど、すれ違う看護師たちの視線はまだ落ち着かない。私を見ると、すぐに目を逸らす人もいれば、何か言いたげにこちらを見つめる人もいた。 私はその視線から逃げるように俯き、足早に廊下を進んだ。 心ここにあらずのまま角を曲がった瞬間――。「っ……」 誰かの胸に、強くぶつかった。 咄嗟に謝ろうとして顔を上げかけるけれど、その必要はなかった。 見上げるより先に、分かってしまったからだ。 冷たい空気を纏うような、独特なメンズ香水の香り。 昔は、その香りが近づくだけで胸が高鳴ったけど今はその逆で息が詰まる。「……玲司」 目の前に立っていたのは、玲司だった。 彼は私を見下ろしたまま、何も言わない。 その沈黙が、ひどく重かった。 二人きりになるのは避けたかった。 今の私は、玲司はいったい何を考えてるのかますます分からなくなってしまっていたからだ。 私の母を恨んでいる。私の母親が地獄へ落ちるところを見たい。 そんなことを言っておきながら、さっきの言動はそれとは真逆に思えた。 それでもどんな理由があったにせよ、母が追い出されるのを止め窮地を救ってくれたことは事実だ。 それだけは、認めなければならない。「……さっきは、ありがとう。お母さんのこと助けてくれたこと感謝してる」 そう告げて、私は玲司の横を通り過ぎようとした。 けれど次の瞬間、腕を掴まれた。「どこへ行く」 低い声が、耳元に落ちる。 振りほどく間もなく、背中が壁へ押しつけられた。「っ……!」 鈍い痛みに息が詰まる。 玲司は私の逃げ道を塞ぐように、片手を壁についた。 廊下の白い照明の下で、その瞳だけが凍りつくように冷たかった。「奏人のところか」「……離してください」「二度と近づくなと警告したはずだ」 その言葉に、胸の奥で何かが燃え上がった。 怖い。苦しい。 それでも、ここで黙っていたくなかった。
Last Updated: 2026-07-11
Chapter: 第三十三話 私を見下ろす玲司の冷たい瞳。 それを見た瞬間、胸の奥に嫌な確信が生まれた。 黒崎看護師長が、急に母を追い出そうとしたこと。 警備員まで呼んで、強引に荷物をまとめさせようとしたこと。 その裏に、この人がいるのではないか。 私と母を追い詰めるために、玲司が病院側へ圧力をかけたのではないか。 そう思った瞬間、喉の奥が熱くなった。 こんな人の前で、もう涙なんて見せたくない。 私は必死に込み上げるものを堪え、玲司の前へ進み出た。「……あなたの指示?」 病室の空気が凍りついた。 玲司は不快そうに眉をひそめる。「何?」「母を追い出すように、病院側へ指示したんですか」 自分でも驚くほど、声は震えていた。 怒りなのか。恐怖なのか。 それとも、まだどこかで信じたくないと思っているせいなのか、自分でもわからなかった。 玲司が口を開くより早く、背後に控えていた男が鋭い声を上げた。「何者だ、貴様。久我様に対して無礼極まりない!」 白衣ではなく、高そうなスーツを着た中年の男だった。 胸元の名札には、専務理事の肩書きが見えた。 彼は玲司の機嫌を窺うように一瞬だけ視線を向けてから、今度は私を睨みつけた。「久我様がどなたか分かっているのか。部外者が軽々しく口を利いていい相手ではないぞ!」「私は――」 妻です。 そう言いかけて、言葉が喉で止まった。 妻——その言葉が、あまりにも空々しく思えた。 戸籍上は、まだそうなのかもしれない。 けれど、この人は私を妻として扱ったことがあっただろうか。 苦しんでいる時も、助けを求めた時も、母のために頭を下げた時でさえ、玲司は私を見ようとしなかった。 それなのに、今さら妻だと名乗ることが、ひどく滑稽に思えた。 私は小さく笑った。 自分でも嫌になるほど、乾いた笑みだった。「久我さんにとっては……おそらく、仇のような存在でしょう」 専務理事が怪訝そうに眉を寄せる。 玲司は私の言葉には答えなかった。 その代わりに玲司はゆっくりと視線を外し、黒崎看護師長へ向き直った。「ここにいる患者を追い出そうとしたのは、お前か」 黒崎看護師長の顔から血の気が引いていく。「そ、それは……その、病棟の安全を考慮して……」「誰が理由を聞いた?」 玲司は感情のない目
Last Updated: 2026-07-09
Chapter: 第三十二話 冷たい声に私は咄嗟に立ち上がる。「申し訳ありません。母はまだ混乱していて……」「混乱で済まされても困るんです」 黒崎看護師長は、私の言葉を遮るように言った。「点滴は抜きかける、備品は壊す、スタッフにも危険がある。こちらも他の患者様を抱えています。こんな状態が続くようなら、うちでは見られません」「そんな……」 母はようやく目を覚ましたばかりだ。 身体だって、まだ安定していない。 それなのに、まるで厄介者のように扱われている。「今すぐというわけにはいきません。せめて、状態が落ち着くまで待ってください」「待てません」 黒崎看護師長は即座に言い切った。「このままでは病棟の安全が確保できません。ご家族であるあなたに責任を持って対応していただきます」「責任って……母を退院させろということですか?」「そうです」 あまりにも平然とした返答に、喉が詰まった。「無理です。母はまだ治療が必要な状態です。さっきだって意識が戻ったばかりで、薬も使ったって……そんな状態で退院なんてできるわけありません」「では転院先をご自分で探してください」「今すぐにですか?」「こちらも限界です」「限界って……患者をそんなふうに追い出すんですか?」 思わず声が震えた。 黒崎看護師長の目が、冷たく細められる。「言葉を選んでください。こちらは病院として当然の対応をしているだけです」「当然……?」 胸の奥で、何かが切れそうになった。 母はずっとこの病院で働いてきた。 患者のために身を削って、誰よりもこの病院を支えてきた人だった。 その母が弱った途端に、こんなふうに切り捨てられる。 悔しさで目の奥が熱くなった。「お願いします。せめて、医師ともう一度話をさせてください。母の状態を確認してからでも遅くないはずです」「医師にはこちらから伝えます」「それなら、先生の判断を待ってください」「待っている間に、また暴れられては困るんです」「母は暴れたんじゃありません! 混乱していただけです!」 声を荒げた瞬間、黒崎看護師長の表情が一段と冷えた。「……ご家族まで感情的になられるなら、警備を呼びます」「警備って……」 まさか、と思う間もなく、彼女は近くの看護師に視線を送った。 数分もしないうちに、病室の前に警備員が二人現れた。 その光
Last Updated: 2026-07-08
Chapter: 第三十一話 紫苑医科大学附属病院へ着くと、私は息を整える暇もないまま、病棟の看護師に案内された。 いつもなら最低限の説明をしてくれるはずの看護師が、今日は妙に口数が少ない。足早に廊下を進む横顔は硬く、こちらを気遣う余裕すらないように見えた。「あの、母に何かあったんですか?」 問いかけても、看護師は一瞬だけ私を振り返るだけだった。「まずは病室へお願いします」「でも……」「行けばすぐに分かります」 その言い方に、胸の奥がざわついた。 嫌な予感が、足元から這い上がってくる。 病室に近づくにつれて、廊下の奥から騒がしい声が聞こえてきた。 何かが倒れるような音や看護師たちの切迫した声。「離して! あの子は無事なの!? あの子はどこなの!」 そして――聞き間違えるはずのない、母の叫び声。 その声を聞いた瞬間、息が止まった。「お母さん……?」 私は看護師の制止も聞かず、病室へ駆け込むと室内はひどく荒れていた。 ベッド脇に置かれていた小物は床に散らばり、点滴スタンドは斜めに倒れかけている。シーツは乱れ、母は半身を起こしたまま、二人がかりの看護師に押さえられていた。「離して! あの子のところに行かないと……! あの子を守ってあげないと!」「美玲さん、落ち着いてください!」「危ないです、動かないで!」 母の目は大きく見開かれていた。 つい先日まで、意識すら戻らなかった母が、必死の形相で声を荒げている。 本来なら、目を覚ましてくれたことを喜ぶべきだった。 けれど、その姿はあまりにも痛々しくて、嬉しさよりも先に恐怖が込み上げた。「お母さん……!」 震える声で呼びかけると、母の動きがぴたりと止まった。 大きく見開かれた瞳が、ゆっくりと私を捉える。「……千景?」「うん。私だよ。ここにいる。大丈夫、私は無事だから」 足が震えていた。 それでも私は、母を怖がらせないように、できるだけゆっくり近づいた。 看護師たちが警戒する中、ベッドのそばに膝をつき、母の手をそっと握る。 その瞬間、張り詰めていた母の表情が、くしゃりと崩れた。「ああ……よかった……無事でよかった……」 母は力が抜けたように、私の手に縋りついた。「お母さん、大丈夫。私はここにいるよ」「だって……あんな連絡があったから……気が気じゃなくて……早く、
Last Updated: 2026-07-07
Chapter: エピローグ 明日へ「ふぅーっ……」 エリカに想いを伝えた、あの夜から一夜明けた朝。 俺は彼女の部屋の前で深く息を吐き、胸の奥に渦巻く気持ちをなんとか落ち着けようとしていた。 告白したこと。 彼女の言葉を受け取ったこと。 ぐるぐると頭の中を巡って、ほとんど眠れなかった。 ――たぶん、人生で一番、大きな出来事だったと思う。 だからこそ、期待してしまう自分がいた。 昨日のあれがきっかけで、少しでも何かが変わるんじゃないかって。 覚悟を決めて、ドアノブを握り、ゆっくりと扉を開ける。 「……」 部屋の中では、エリカがいつも通りぐっすりと眠っていた。 だけど、よく見ると……目元には、昨日流した涙の痕がうっすらと残っている。 「エリカ、起きて」 「ん……直央くん? おはよ〜……」 ぼさぼさの髪のまま、眠たげな目をこすりながら、彼女はそっと顔を上げた。 「おはよう……エリカ。今日は何月かわかるか?」 「え、なに急に? 三月でしょ」 その答えに、俺はそっと目を伏せた。 やっぱり……まだ変わっていなかった。 今は七月も後半。季節は、もうとっくに夏だ。 「……日記、読んでみろ」 「ん~? 日記? ……うん、わかったぁ~」 まだ頭がぼんやりしているのか、エリカは小さく首をかしげながらも、素直に机の上にある日記を手
Last Updated: 2026-02-06
Chapter: 日記61 希望 ――エリカが、死ぬ? “いま目の前にいる、この大好きな女の子が、あと数分でいなくなる”。 その意味を理解した瞬間、俺の足元から力が抜けた。 よろけながら近くの机に手をつくも、うまく支えきれず、そのまま膝をついて崩れ落ちる。 その拍子に、机の上にあった一冊のノートが床へ滑り落ちた。 エリカの――人物図鑑。 ぱらり、と開かれたページには、真司と茉莉花のことが丁寧にまとめられていた。 幼なじみで、毎日一緒にいるような二人でさえ……記録していないと、その存在すら曖昧になってしまうという現実。 ――俺たちは、当たり前のように“昨日”を背負って“今日”を生きているのに。 エリカだけが、時間に取り残されている。 そして―― 俺の目の前にいる“今日のエリカ”は、昨日までの彼女とは違う、別の“新しい存在”なのだという事実が、胸を容赦なく締めつける。 震える手で、無意識にページをめくる。 そして、辿り着いたのは―― 《エリカの人物図鑑ファイル No.000-A》■名前:雨宮直央(あまみや・なお)■学年:高校一年生 → 高校二年生■年齢:16歳 → 17歳直央くんは特別な存在!大切な幼なじみで、私の大好きな人! ――たった、それだけ。 けれど、その“たったそれだけ”を書いたエリカは、もうどこにもいない。 そう思っただけで、視界が滲んで、頭が真っ白になりかけた。 でも。 ふと、胸の奥に、かすかな“引っかかり”が残る。 ――それは、ほんの些細な違和感だった。 頭が真っ白になるのを必死に抑え、思考を巡らせる。(考えろ、なにか……なにか引っ掛かる……!) そのとき。「あのすごくかっこよかった直くんも忘れちゃってるんだよ。前の日は寝癖のついた頭だったのに、灯籠流しのお祭りの日には髪もちゃんとセットして、浴衣まで着て……」 涙交じ
Last Updated: 2026-01-28
Chapter: 日記60 スワンプウーマンエリカが日記を書いている間、俺はずっと黙っていた。 家に帰るまでの間、エリカが話しかけてきてもほとんど上の空だった。 「……直央くん。どうしたの?」 そっと問いかけられて顔を上げる。 心配そうに俺を見つめてくるエリカの顔を正面から見て、最近見た夢が蘇る。一年前の、あのときのエリカが――。 俺の胸が痛む、またあの壊れそうなエリカを見るのは耐えられない、君には笑顔でいてほしいだけなんだ。 気づけば、俺は口を開いていた。先週母さんと話したことなど完全に頭から抜けてしまって―― 「……思い出さなくても、いいんじゃないか」 「……え?」 思わずこぼれた言葉に、自分でも焦る。だが、もう止められなかった。 「……今はなんとか生活できてる。あんなつらい記憶を無理に思い出すより、今のままの方が――」 「どうして?」 俺の言葉を遮るように、俯いていたエリカがぽつりとつぶやいた。 「え……?」 顔を上げた彼女の目は、涙に濡れていた。 その頬を伝う雫が、言葉より先に俺の胸を締めつける。 「どうしてそんなこと言うの……? “今のままでいい”だなんて……!」 急に叫ぶように声を荒らげるエリカに俺は狼狽える。 「急にどうしたんだエリカ……!?」 けれど、エリカは止まらなかった。 「ねぇ、直央くんにわかる!? 朝起きるたびに、周りの景色が“知らないもの”になってる怖さ。 どれだけ日記を読んでも、“知らない今日”が始まることの不安が、どれだけ苦しいか……!」 「だけど……ちゃんと日記を見れば、わかるようになってるんだろ?」 「“わかる”だけで、“覚えてる”わけじゃないの! そこに“気持ち”がないの。“つながり”もない。ただの、知識なの」 日記を指差して、彼女は叫ぶ。 「ここにあるのは、昨日のエリカが残した“ただの記録”なの! 感情も、記憶も、何も――“今の私”には残ってない!」 言葉が詰まる。 エリカの声が、胸の奥をえぐるようだった。 「イルカさんたちの謎を解いたときも、日向くんに千紘ちゃんの想いが届いたことも、琴音ちゃんのおじいちゃんが記憶を思い出した瞬間も……」 彼女は、自分の胸に手を当てる。 「そのときの私が感じたこと、喜びも悲しみも、全部――“今の私”には届いてな
Last Updated: 2026-01-30
Chapter: 日記59 空き教室の謎⑥ 榊原先生には、「猫が教室に忍び込んでたんです! よく見たら窓の鍵、開いてたんです! きっと器用に開けちゃったんですよ!」という、どこまでも無理がある言い訳を、エリカの勢いと笑顔で押し切った。 当然ながら先生の目は明らかに怪しんでいたが──深く追及はせず、「約束は約束だから」と言って、教室の使用を許してくれた。 「ふ~んふふんふ~ん♪」 エリカは鼻歌まじりに、ご機嫌で俺の隣を歩いている。 「よかったな。教室、使えるようになって」 「うんっ!念願の探偵事務所だよ! これからいっぱい依頼が来ちゃうかも~!」 エリカは小さな拳をきゅっと握って、高く掲げる。目がきらきらと輝いていて、テンションは完全に最高潮だ。 「明日から、さっそくお片づけだね!使えるように整えなきゃ!」 と、そこでふと、彼女の表情が変わった。 横顔から俺の方へ視線を向け、まっすぐに真剣な眼差しを向けてくる。 「ねぇ、直央くん。……いつも私の思いつきに付き合ってくれるのは知ってるけど、今回のことは、なんだか直央くんの方が気合い入ってる気がするんだよね。やっぱり、私のため?」 無邪気なようでいて、鋭い。 何も考えていないようでいて、周囲の空気も、人の気持ちも、ちゃんと見ている。 そして、本当に必要なことを、ちゃんとわかってる。 「うん。エリカがやりたい“謎解き”を通して、なにか……新しい刺激が見つかるんじゃないかって思ったんだ。きっかけって、案外そういうところに転がってるから」 俺がそう答えると、エリカはぱっと笑って、そして優しく言った。 「ありがとう、直央くん。私も、頑張るね」 前を向こうとしている。その瞳に、少しだけ決意が宿っていた。 ふいに、過去の記憶の残像が、脳裏に淡くよみがえる。 ――棺の蓋は、最初から閉じられていた。 白い布に包まれた棺の前で、誰も言葉を発しなかった。まるで、そこに触れてはいけない何かがあるように。 “お顔は……お見せできない状態です” そう告げた葬儀社の人の声だけが、妙に鮮明に耳に残っている。 エリカは、無言だった。 制服姿のまま、ただまっすぐに棺を見つめていた。涙ひとつこぼさず、唇ひとつ動かさず。 まるで、壊れかけの人形のように無表情だった。 遺影に映る笑顔だけが、そこにあった。 だ
Last Updated: 2026-01-19
Chapter: 日記58 空き教室の謎⑥「でも、どうやって教室に入ったの? あそこ、密室だったよね?」「うーんとね、窓の鍵が開いてたからだよっ!」 ……って言われても、全然ピンとこない。だって、さっき見たときは、どう見ても鍵はちゃんと閉まってたように見えたし。「あ、それはですね。こういう仕掛けなんです」 花守さんに連れられて、俺たちは窓の前へ。「このテープを、鍵のツメとレバーの間に貼ってから鍵を閉めると──ほら、見た目はちゃんと閉まってるように見えるんです」 言いながら、花守さんはぺたりとテープを貼って、カチリと鍵を回す。「あっ、爪が届いてない!」 なるほど。テープが間に挟まってるせいで、見かけだけはロックされてるけど、実は引っかかってない。つまり――「だから、外から押せば、簡単に窓が開いちゃうんですよ」「すごいね、花守さん………こんなこと、よく思いついたね?」「えへへ……ミステリー小説が大好きでして。それをちょっと思い出しちゃって!」 俺がそういうと、花守さんはちょっと照れたようにはにかんだ。 さっき鍵のところにリストバンドの繊維がついていたのも、テープを貼っていたからなんだと気づいた。「でもさ~、やってることはダメなやつだよ? 茉莉花ちゃんとか先生が知ったら、怒られちゃうよ~?」 エリカがいたずらっぽく言うと、「ひぃ~っ、それだけはご勘弁を~!」 花守さんは勢いよく頭を下げて、さらにその頭の上で手を合わせた。「部活がちょっとキツくてですね……。5月に先生とここに備品を取りに来たとき、だれも使ってないって聞いて、つい、魔が差しちゃいました」 要するに、バスケ部がめっちゃ厳しくなって、こっそりサボるためにこの教室を“避難場所”にしちゃったらしい。「うちのバスケ部、去年から外部コーチ雇ってて、急にガチ化したらしいんですよ。私、もっとゆるいとこだと思って入ったのに……あれ? 話がちがう!って」 それでも、仲良くなった先輩や友達がいるから辞められなかったんだって。「でも、やっぱりダメだよ?こんなことしたら、まわりに迷惑かけちゃう」「……ですよね。バスケ自体は好きだし、ちゃんと頑張ってみます」 しっかり反省はしてるみたいだけど、名残惜しそうな表情も浮かべる花守さん。「だったらさ、どうしても無理なときだけ、この部屋使っていいよ。私たち、これからここを“ひらめき探偵
Last Updated: 2026-01-16
Chapter: 日記57 空き教室の謎⑤「直央くん、しっ。しゃがんで、耳を澄ませて!」 エリカは素早くドアに耳をぴたりと当てる。俺もつられて同じようにすると―― カラカラ…… ……窓の開く、小さな音が聞こえた。 ――誰かが、教室の中に戻ってきた。 その瞬間。 「そこまでだよ、琴音ちゃん!」 バンッ! エリカが勢いよくドアを開けた。 「ひぃっ!?」 中にいたのは、驚いたように目を見開き、机の下に隠れようとしてそのまま固まって、こちらを見つめる── 花守さんだった。 花守さんは、ドアの向こうにいた僕たちを見て、ぴたりと動きを止めた。まるで時間が止まったみたいに、固まったまま。 そんな彼女を見て、エリカはゆっくりと一歩前に出ると── 「この教室に、不法侵入して……隣の手芸部の子たちを怖がらせた犯人は……」 一度、目を閉じて深呼吸。溜めを作る。その動きがやたらサマになっている。 「あなたよ、琴音ちゃん!」 ビシィッ! キリッとしたバッチリ決まった表情で、エリカが花守さんを指差した。 「ひぃぃ、ごめんなさいぃぃ……っ。つい出来心で……!」 うん、ノリが良いなこの子。 「……花守さん、どうしてここに?」 俺が聞くと、花守さんは目を泳がせながら答えを探す。 「え、えーと……その……」 「部活、サボるためだよね~?」 エリカがジト目でにやにやしながら追い打ちをかける。 「……は、はいぃ……」 罰が悪そうに視線をそらし、しょんぼりうなだれる花守さん。リスか小動物みたいでちょっとだけ罪悪感。 でも、気になってたことを聞いてみた。 「……エリカ、どうして花守さんが中にいるって、分かったの? 姿も見てなかったよね?」 そう、エリカは教室に入る前から、名前までバッチリ呼んでた。あの確信、どこから来た? 「それはね~。さっき琴音ちゃん、校庭走ってくるって言ってたでしょ? それとね、窓の鍵に青っぽい繊維がついてたの!」 そう言って、ドヤ顔エリカが「どうだ!」と胸を張る。 うん、やっぱりこうなるよね。と思いながら、 俺はもう一度、教室の中を見渡す。そして、花守さんの手首に目をやった。 ──ネイビーに白いラインが入ったリストバンド。茉莉花がよく着けてる、女子バスケ部のやつだ。 さらに思い出す
Last Updated: 2026-01-12
Chapter: エピローグ──こうして、俺たち推理部が受けた初めての本格的な依頼は、幕を下ろした。 すべてが明らかになったわけじゃない。 事件の裏には、まだ解けていない謎がいくつも残されている。 あの日、なぜ屋上の鍵が職員室から盗まれていたのか。 事件当日、校舎内の防犯カメラには、なぜ誰の姿も映っていなかったのか。 朝早く、誰が職員室の鍵を開けていたのか。 ──佐倉美月先輩が、どうしてあの時、職員室に入れたのか。 点と点は繋がったようで、まだ線にはなっていない。 そして綾野奏斗。 彼は、真相が明るみに出た後も、何ひとつ語ろうとはしなかった。 まるで終わった役割を果たした人形のように、口を閉ざしたままだ。 けれど、その後の報せはあまりにも突然だった。 事件から数日後。 綾野は、両親と共に乗っていた車で、交通事故に遭い──死亡した。 雨の日の夜、ブレーキ痕すら残らない奇妙な事故だったという。 原因は不明。詳細な報道もないまま、ただ一行の訃報だけが新聞の隅に載った。 偶然なのか、それとも……。 真実は、まだ深い闇の中に沈んだままだ。 それでも。 あの日、あの屋上で見届けたものは、確かな救いのひとつだった。 佐倉──いや、優衣は事件のあと、推理部に入った。 最初は戸惑いもあっただろう。けれど今では、俺たちと一緒に、校内のあちこちを駆け回っている。 ときには真剣に、ときには口喧嘩しながら。 それでも確かに、彼女は前を向こうとしている。 佐倉美月先輩のことは、まだ乗り越えたとは言えない。 けれど、家族に支えられ、友人に守られ、 そして、自らの居場所を取り戻しながら、少しずつ――歩き始めている。 そうだ。 この物語に、はっきりとした勝者なんていない。 でも……少なくとも、光を見つけた者は、いたのだと思う。 そして俺たちは、この事件がまだ始まりに過ぎないことをまだ知らなかった。事件を解決するたびに、何者かの影が潜んでおり、その影は俺たち家族の死にかかわっていた……。 長きにわたる謎、因縁解決へ今歩み始めた。
Last Updated: 2026-07-06
Chapter: 終章:沈黙を破る声⑤ それから数分後、屋上には、なお沈黙の余韻が漂っていた。 綾野はその場に座り込み、もはや立ち上がる気力さえ残っていなかった。俯いたまま微動だにせず、顔の影に感情は読み取れない。そのそばで、片桐先生と仁科校長がそっと寄り添っていた。 「ここは任せろ」 短く、それでいて深い信頼を込めた片桐の声に、悠真たちはうなずいた。 推理部の三人――悠真、陸、澪。そして如月、小池、佐倉。六人は無言のまま屋上の扉へと向かい、ゆっくりとその重い扉を押し開ける。その瞬間――。 「優衣!」 甲高くも震えた声が響き、次の瞬間、ふたりの女子生徒が駆け寄ってきた。 一人はそのまま優衣に飛びつくように抱きつき、もう一人は彼女を庇うようにその前に立った。 「大丈夫!? ……ほんとに大丈夫なの!?」 「ずっとここで見てたの、あんたが屋上に行くのを……でも、何もできなくて……」 その声は涙で詰まっていた。彼女たちの表情には、ただただ心配と後悔が滲んでいた。 「……あんたが辛いのに、気づいてやれなくてごめん。でも、でもね、これからは私たちが――あんたを守るから」 「そうよ。さっきの話……全部聞こえてたけど、悪いのは綾野先輩じゃない! 優衣は……優衣は何も悪くない!」 「中学の時は両親を亡くして、今度はお姉さんが亡くなっても、毎日学校に来て、誰にも当たらないで、私たちにだってずっと気丈に接してくれて……」 「そんな優しい優衣を、責めるなんて……絶対に許さない!」 言葉が、涙とともに次々と溢れていく。優衣は、その場に立ち尽くしたまま、目を見開いていた。その視線は驚きに揺れ、そして、何かが溶けていくようだった。 そのとき、陸が一歩前に出て、口を開いた。 「……俺も、兄貴を亡くしてる。だから、わかるよ。大切な人を失ったときの気持ち、簡単には癒えないし……周りに何を言われても納得なんてできるもんじゃない。でもな、優衣ちゃん。君は――二度も、大切な人を失ったかもしれない。けど……失われていない絆も、確かに残ってるんだ」 陸は、泣きながら優衣の肩を支えるふたりの女子生徒を見た。 その視線は真っ直ぐで、どこまでも真剣だった。 「どうか、それを大事にしてほしい。俺が、こいつらを大事にしてるみたいに――」 その瞬間だった。佐倉の目から、大粒の涙がひとしずく、頬を
Last Updated: 2026-07-04
Chapter: 終章:沈黙を破る声④「勝手に死んで、勝手に人を責めて……少し言葉をかけただけで、人を殺しただなんて。バカげてる」 「……は?」 陸が呟いた。目を見開き、信じられないというように一歩前へ出る。 「お前、今……なつった?」 仁科校長は沈黙のまま綾野を見据えていた。その瞳には、鋭い光が宿っていた。 小池は口元に手を当て、震える指先を抑えるように立ち尽くしている。 「……何言ってんの、あんた……?」 如月先輩は、はっきりと声に出した。 「だってそうだろ? あれくらいで死ぬような奴なら、最初から死にたがってたんだよ!むしろ感謝されたいくらいだ。僕のおかげで、あいつは死ねたんだからな!それで僕を恨むなんて、筋違いもいいところだ!そもそも――」 綾野はゆっくりと歩を進め、佐倉の真正面に立った。 「僕が犯罪者だというなら、この女だって同じだ。証拠を捏造して、僕を殺人犯に仕立て上げた。とんでもない嘘つき女だよ。それに、殺人罪偽造の、証拠だってあるんだからな!」 佐倉は綾野を睨み返した。沈黙のなか、怒りと恐怖、そしてもう一つ、名づけがたい感情が彼女の瞳に交錯していた。 「犯罪者は、お前だけだ。綾野」 俺はそう言いながら、佐倉を庇うように綾野との間に立った。少し遅れて、陸と澪も前に出て、俺の隣に並ぶ。 「人をもてあそび、心を壊したお前と、たとえ過ちがあったとしても誰かを想って動いた優衣ちゃんを、同じ土俵に並べるな!」 「あなたは、間接的に人を殺した……その事実から、目を背けないで。……証拠もある。罪は、償うべき」 陸と澪がそう言葉を投げかけたあと、二人の言葉を引き継ぎ俺も続いた。 「確かに、お前が殺人犯だという構図は、作られた嘘——虚構だった。だが――お前は佐倉先輩を追い詰め、壊し、自らの手を汚すことなく死へと導いた。その現実は、佐倉が作り出した虚構よりも、ずっと冷たい」 言葉を区切り、口調をさらに冷たくして続けた。 「本当に恐ろしいのは、虚構が現実を超えることじゃない。現実が、それすら飲み込んでしまうほどに、邪悪だったという事実だ。お前の行いで、周囲の人間は絶望に突き落とされた、それを自覚しろ」 そして、俺はわざと不敵に笑って、軽い調子で言った。 「それに証拠?──そんなもの、どこにあるんだ?」 「……は?」 その直後、乾いた音が場を裂
Last Updated: 2026-07-03
Chapter: 終章:沈黙を破る声③「ええ、そうよ。途中までの——殺人罪を立証させる推理は、私が思った通りに推理してくれて、計画どおりになると思ったのに……」 その答えには悔しさが滲んでいた。だが、なぜかその答えを何度も繰り返し胸の内で練習してきたかのように、迷いは一切なかった。 「こんなの……直接手を下してないだけで、殺人と何が違うの?」 声がわずかに揺れた。 「支配して、追い詰めて、逃げ場を奪って……それでも自殺だからって軽く済まされるなんて、私はどうしても許せなかった」 その言葉には怒りだけでなく、長い葛藤の末に形になった痛みがにじんでいた。 如月先輩と陸が顔を見合わせる。だが、そこに浮かぶのは怒りでも非難でもなく、ただ困惑だった。 「……どういうことなんだ?」 陸が小さくつぶやき、それに応えるために俺は息を整える。 「今、説明する」 今この場を預かる者としての責任を果たそう。 「綾野は十八歳、つまり特定少年に該当します。殺人罪が適用された場合は、成人と同等の刑罰――極刑こそないが、重い罪を科される可能性がある。実際には慎重な判断が求められますが、少なくとも佐倉の思惑どおりなら、重い罪に問われていたでしょう」 澪が補足するように言葉を重ねる。 「自殺幇助も刑法上は処罰対象だけど、特定少年が対象となると、実際には大幅な減刑がなされることが多い。執行猶予付きの判決が出ることもある……つまり、殺人と比べて罪の重さがまるで違う」 「だからこそ、佐倉は殺人罪として裁かせようとした……そういうことだ」 澪から引き継いだ、俺の言葉が響いたそのとき、口を開いたのは小池だった。 彼はうつむきがちに口を開く。声は小さかったが、はっきりと響いていた。 「……僕は、佐倉先輩に……恋をしていました。ずっと伝えられなかったけど……それでも、ずっと、ずっと想ってたんです」 一瞬、彼の視線が綾野へと向く。 「でも、綾野と佐倉先輩が親しげに話しているのを見て……僕は勝手に、二人は付き合っているんだって思い込んでしまって……悔しくて、嫉妬して、どうしようもなくて……それで、生徒会室に隠しカメラを仕掛けたんです。スキャンダルでも撮れたら、って……最低な動機でした」 その顔には自己嫌悪の色が濃く滲んでいた。 「でも……そこに映っていたのは――あの動画だった」 声がわ
Last Updated: 2026-07-02
Chapter: 終章:沈黙を破る声②俺の言葉に皆が息を呑む、明かされただ真相の重さに、言葉を失っていた。それを最初に破ったのは、綾野自身だった。 「……それがどうした……結局、自分で勝手に死んだだけだろ? 自殺なんて、本人の意思だ。僕がどうこう言っても関係ないだろ!?」 「ふざけるなっ!」 怒声とともに、佐倉が綾野を睨みつける。その表情は怒りに満ちていたが、その目だけは冷たく綾野を捉えていた。 「お前がお姉ちゃんを殺したんだ! お前がいなければ……お姉ちゃんは自殺なんてしなかった!」 その姿、その静かで冷たい目を見て、俺の記憶が呼び起こされる。……あのときの、中学二年冬の全国中学推理選手権であった少女の姿を——。 「……君は、三年前の冬に全国中学推理選手権決勝で会った……あのときの……」 俺が目を細めながら口にした瞬間、佐倉は小さく、皮肉めいた笑みを浮かべた。 「ようやく気づいたのね。あの大会の決勝であなたと戦ったのは、私よ」 その声はとても凍てつくように冷たかった。 「……あの大会の帰り道、私はひどく落ち込んでいた。応援してくれた父と母の顔を見るのが辛くて、車の中でずっと黙りこんでたの。でも、父は私を励まそうとして何度もこちらを見た……そして――そのとき……」 言葉を切った佐倉の視線が、遠く過去を見つめるように揺れる。 「運転していた父は、対向車に気づくのが遅れた。正面衝突だった。助手席にいた母と、ハンドルを握っていた父……二人とも、その場で亡くなったわ」 「……それは……」澪が、絞り出すように声を上げかけた。 佐倉はわずかにうなずき、遮るように言葉を継ぐ。 「ええ。もちろん、彼に責任はない。事故は事故よ。わかってる……頭では。でも――簡単に割り切れるものじゃない」 声がかすれた。だが次の瞬間には、その表情がまた冷たい仮面を取り戻していた。 「だから、精々あなたの推理力を利用させてもらおうと思ったのよ。あの男を殺人犯に仕立てあげるために」 彼女の目が再び綾野に向く。 「お姉ちゃんの遺体からあの鍵を拾ったのも私。すべては計画の一部。あなたたちが真相にたどり着くように、導いてきたの……最後の最後で、台無しにしてくれたけどね」 その吐き捨てるような言葉に、一瞬、場の空気が凍りついた。 「優衣ちゃん……それって……」 如月先輩が、顔をこわばら
Last Updated: 2026-07-01
Chapter: 終章:沈黙を破る声① 異変に気づいたのは、お風呂から上がって自室に戻ろうとしたときだった。 その日、お姉ちゃんは朝早く登校したのになぜか帰宅して、学校の授業を休んで家にいるはずだった。なのに、部屋の前に立っても、扉の向こうからは何の気配も感じられない。トイレかもしれない一瞬、そんな考えがよぎった。 でも、胸の奥に小さなざわつきが広がり、理由のない不安が膨らんでいった。 嫌な予感がして私は、居間、洗面所、台所、玄関……家中を駆け回るように探した。 けれど、どこにもいなかった。 不安は、じわじわと恐怖へと変わっていった。 まさか──その言葉が脳裏をよぎると同時に、私はパジャマのまま外へ飛び出していた。夜の町を走った。冷たい風が肌を刺した。でも、それすら感じなかった。向かったのは、旧校舎。なぜそこなのかはわからない。ただ、直感が告げていた。 そして──屋上のフェンスの先に、身を乗り出すお姉ちゃんの姿を見た。 「なにをしてるの──」 その言葉が口を出るより早く、お姉ちゃんの身体はふわりと宙に浮き、闇へと消えていった。叫ぶ間も、考える間もなかった。私はただ、足が千切れるほど走っていた。そして、地面に叩きつけられたお姉ちゃんのもとへ駆け寄った。血の色が、夜の光に鈍く滲んでいた。声をかけるまでもなく、その姿を見た瞬間、すべてが終わったとわかった。 そのとき、気づいた。お姉ちゃんの右手が、何かをしっかりと握りしめていた。 震える指でそっと開いてみると、そこにあったのは一つの鍵。 タグには「屋上」と書かれていた。 ……次に意識をはっきり取り戻したとき、私は自宅の自室にいた。 どれだけの時間が経っていたのかはわからない。ただ、手の中にはひとつの鍵が握られ、そのタグには『屋上』の二文字があった。 それを見た瞬間、初めて感情が溢れ出した。涙ではない。嗚咽でもない。もっと、得体の知れない、深く黒いものが胸の奥から込み上げてきた。怒りとも違う。悲しみとも違う。 ——その数日後、真相を知った時、その深く黒いものは『復讐心』という明確な形を成した——。*** 動画は、淡々と終わった。だがその余韻は、屋上に集まる全員の胸に重く沈殿した。 明かされた真実は、衝撃的だった。 それは、綾野奏斗による佐倉美月への――自殺幇助。 ただの自殺ではない
Last Updated: 2026-06-30