ログイン玲司の眉が僅かに動いた。「三年前に知っていたんでしょう?」「ああ」「そのときに話してくれればよかったじゃない」 声が震える。 それでも、目だけは逸らさなかった。「あなたが話したことが事実なら、お母さんのしたことは、謝って許されるようなことじゃないと思う」 自分の口から母を責める言葉を発するたび、胸の奥を刃物で切り裂かれているようだった。 母は私を救うために、紗良さんを見捨てたのかもしれない。 それでも、その可能性から目を背けるつもりはなかった。「私が何も知らなかったからって、紗良さんの死と関係がないなんて言うつもりもない。お母さんが本当にあの人を見捨てたのなら、私はその事実と向き合わなきゃいけないと思ってる」「今さら何を言ったところで、紗良は戻らない」「分かってるわよ!」 思わず声を張り上げると、墓園の静寂に私の声が響いた。 冷たい風が木々を揺らし、葉の擦れる音が耳に届く。「だから聞いてるの。どうして、三年間も何も話してくれなかったの?」 玲司は黙ったまま、紗良さんの墓石を見つめていた。「私がお母さんに確かめることもできた。二人で記録を調べて、何があったのか突き止めることだってできたかもしれない」「お前に話したところで、何が変わる」 吐き捨てるような声だった。「少なくとも、何も知らない私を三年間も憎み続けることにはならなかった!」 玲司の表情が険しくなるけれど、もう止まれなかった。「私はずっと、あなたの気持ちが変わった理由を考えてた。何か悪いことをしたのかもしれない。私が気づかないうちに、あなたを傷つけたのかもしれないって……何度も何度も、自分を責めた」「お前が苦しむのは当然だ」「本当にそう思っているの?」 玲司の言葉を遮る。「私が苦しめば、紗良さんは戻ってくるの?」「黙れ」「私を傷つけ続ければ、あなたは救われるの?」「黙れ!」 怒声に、肩が跳ねた。 胸の奥が竦み、逃げ出したい衝動に襲われる。 それでも、ここで怯んではいけなかった。「あなたは私を罰していたんじゃない」 震える声を押し出す。「自分自身を罰するために、私を傷つけていたのよ」 玲司の顔から、感情が消えた。 否定も、怒りもしない。 その沈黙が、何より雄弁に答えを語っていた。「私は紗良さんに申し訳ないと思う。お
玲司の言葉が、胸の奥深くへ突き刺さった。 息ができず、目の前にいる玲司の顔も、墓石に刻まれた名前も、すべてが滲んでいく。「私が……紗良さんを……?」 ようやく絞り出した声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。 事故に遭ったことは覚えている。激しい衝撃と、全身を焼くような痛み。 目を開けたときには、真っ白な病室の天井があった。 けれど、その裏側で一人の少女が命を落としていたなんて、知るはずもなかった。「三年前、俺は紫苑医科大学附属病院に残されていた内部資料を調べた。正式な手術記録だけじゃない。変更前の予定表や看護記録、当直医が残した報告書までだ」 玲司が私へ視線を戻す。「朝霧美玲は、娘であるお前の命を救うことを選んだ。紗良の命と引き換えにな」 視界がぐらりと揺れる。 倒れそうになり、私は墓石へ手をついた。 冷たい石の感触が、掌から身体の奥まで伝わってくる。「突然、執刀医が変更されたことで現場は混乱する。手術の手順も人員も組み直さなければならなかっただろうから引き継ぎにも時間がかる」 玲司は吐き捨てるように言う。「そこまでのことは記録なんてされたないが、容易に想像がつく。それで紗良の手術は遅くなった」 玲司は、手のひらから血でも出るんじゃないかと思うほど拳を握りしめた。「ようやく手術を始めたときには、紗良の容体はさらに悪化していた。大量出血を止めることができず、手術中に死んだ」「そんな……」 お母さんが私の命を救おうとしたことを、責めることなどできなかった。 けれど、その結果として紗良さんが死んだのだとすれば、私は何を思えばいいのだろう。「病院は、紗良の死を事故による損傷が激しく、救命が困難だったためだと処理した」「それは、嘘だったの?」「紗良の怪我が重かったことは事実だ。美玲が執刀していれば、必ず助かったとも言い切れない」 玲司の言葉に、わずかに息を吐く。 けれど、安堵することなど許されなかった。「だが、助かる可能性はあった」 玲司は低く言い切った。「その可能性を奪ったのは、突然の担当変更と、それによって生じた手術の遅れだ」 胸が締めつけられる。「正式な記録には、美玲が紗良の手術に関わる予定だったことは残されていない。執刀医の欄には、実際に手術を担当した医師の名前しかなかった」「
【玲司side】 紗良と初めて言葉を交わした日のことは、今でも覚えている。 星見の丘へ預けられて間もない頃、俺は施設の裏庭にある古びたベンチに、一人で座っていた。 ここでは誰も信用するつもりはなかった。 そんなふうに思っていた俺の隣へ、紗良は何の断りもなく腰を下ろした。「これ、半分あげる」 差し出されたのは、小さな袋に入ったビスケットだった。「いらない」「でも、お腹鳴ってるよ」「鳴ってない」「鳴ったよ。ぐうって」 紗良はそう言って笑うと、ビスケットを二つに割った。 力加減を間違えたのか、片方は大きく、もう片方は随分と小さかった。 紗良はそれが当然だと言うように、大きい方を俺へ差し出した。「こっち、お兄ちゃんの分」「俺はお前の兄貴じゃない」「私より大きいから、お兄ちゃんでいいの」 勝手なことを言う奴だと思った。 それなのに、差し出されたビスケットを拒むことはできなかった。 口に入れると、ひどく甘かった。 それから紗良は、何かにつけて俺の後をついて回るようになった。 眠れない夜には、職員に見つからないよう廊下を抜け出し、俺の布団へ潜り込んできた。「また怖い夢を見たのか」「見てないよ」「なら戻れ」「お兄ちゃんが怖い夢を見そうだったから来たの」 紗良はそう言い張り、布団の中で俺の手を握った。 その温もりがある間だけは、母を失った夜のことを思い出さずに眠ることができた。 紗良が年上の子供たちに囲まれていたこともあった。 大人しくて言い返せない紗良は、配られたばかりの菓子を奪われそうになっていた。 気づけば俺は、相手の胸倉を掴んでいた。 殴られ、地面に倒されても、紗良の前から退かなかった。 騒ぎを聞きつけた職員が来る頃には、俺の頬は腫れ、手のひらから血が滲んでいた。「お兄ちゃんの馬鹿」 医務室から包帯を持ち出してきた紗良は、泣きながら俺の手に巻きつけた。 包帯は緩く、結び目も不格好で、少し指を動かしただけで解けそうだった。「下手くそだな」「うるさい。お兄ちゃんが怪我するから悪いんだよ」「お前が何も言い返さないからだろ」「だって、お兄ちゃんが助けてくれると思ったから」 あまりにも真っ直ぐに言われて、俺は何も返せなかった。 血の繋がりなんて関係なく。紗良にとって俺は
「一体……どういうこと?」 玲司の言葉をうまく理解できず、私はかすれた声で問い返した。 久我家に妹などいなかったはずだ。 玲司はすぐには答えず、墓石に刻まれた名前を見つめた。「白峰紗良。血の繋がりはない。だが、俺にとっては本当の妹のような存在だった」「紗良……」 玲司がそう呼んだ少女の写真へ、もう一度視線を落とす。 何度見ても、そこに写っているのは幼い頃の私にしか見えなかった。 丸みを帯びた頬も、大きな瞳も、笑ったときにわずかに下がる眉尻も。 他人の空似というには、あまりにも似すぎている。 玲司の話を聞かなければならない。そう思うのに、私は写真から目を離せなかった。「俺は久我家の会長――あのクソ親父が、外の女に産ませた子供だ」 吐き捨てるような声に、私は顔を上げる。「母親が死んだ後、星見の丘へ預けられた。その頃の俺は、久我ではなく水瀬を名乗っていた」「水瀬……玲司」 施設で見つけた絵。 その裏に記されていた、少年の名前。 彼なのではと感じていたそれを、玲司本人の口から突きつけられる。 胸の奥で、散らばっていた欠片が音を立てて繋がった。「やっぱり、あの絵を描いたのは……」「お前……星の丘に行ったのか? そうだ、あの絵を描いてのは俺だ」 玲司は短く答えると、目を伏せた。「紗良とは、星見の丘で出会った。あいつも俺も、大切なものを失っていた。だからなのかもしれない。気づけばいつも一緒にいた」 硬かった玲司の声が、ほんの少しだけ和らぐ。「泣きたいときも、腹が立ったときも、紗良の前でだけは取り繕わずにいられた。あいつは俺を兄と呼び、俺も……本当の妹だと思っていた」 その横顔は、私の知らない玲司のものだった。 冷たくも、傲慢でもなく失ったものを今も大切に抱えている、一人の少年のように見えた。 けれど、その穏やかさは長くは続かなかった。 玲司の口元が歪む。「それなのに、あの男は突然俺を久我家へ引き取った。何年も存在を認めず放置していたくせに、跡取りが必要になった途端にな」 玲司は鼻で笑った。 だけど、その声音に滲んでいたのは嘲りではなく、消えきらない憎悪だった。「久我の人間として生きるなら、それまでの自分はすべて捨てろと言われた。名前も、暮らしも、星見の丘での記憶も。そして、紗良との関係も
準備を終えたあと、私は屋敷の外へ出た。 黒い車の運転席側に立った玲司が、無言でキーを開ける。 ——今日、すべてを教えてやる。 そう告げてきた玲司の言葉が頭から離れず、心臓が嫌な音を立てている。 私は助手席に乗り込み、震える手でシートベルトを掴んだ。 けれど、金具がうまく差し込めない。 カチリ、と鳴るはずの音が鳴らず、何度も手元が滑る。「……」 焦れば焦るほど、指先に力が入らなくなった。 シートベルトは私を嘲笑うように何度も外れた。 その時、玲司が無言で身を乗り出してきた。「え……」 低い体温を纏ったような彼の気配が、一気に近づく。 玲司の腕が、私の身体の前を横切る。 彼の袖口から、ほのかに香水の匂いがした。 心臓が、嫌になるほど大きく跳ねる。 彼の指先が、私の手元に触れそうな距離を通り過ぎる。 包帯を巻いた前腕が視界に入った。 三日前、私を庇って傷を負った腕。 その白い包帯が、胸の奥に生々しい痛みを残す。 玲司の横顔はすぐそこにあった。 少しでも顔を動かせば、頬が触れてしまいそうな距離。 息をすることさえ、許されないような気がした。 ——カチリ。 シートベルトが締まる音が、やけに大きく響いた。 玲司は何事もなかったように身を離す。 ただそれだけだった。 なのに、私の鼓動は先ほどまでの嫌な音ではなくなっていた。「……ありがとう」 かろうじてそう呟くと、玲司は何も答えずに車を発進させた。 車は静かに屋敷の門を抜け、窓の外の景色が流れていく。 車内に会話はなく玲司は前を見たまま、淡々とハンドルを握っている。 その横顔は冷たく整っていて、何を考えているのかまるで読めない。 沈黙に耐えかねたわけではないだろう。 不意に、玲司がカーラジオのスイッチを入れた。 流れてきたのは、明るい音楽ではなかった。 淡々としたニュースの報道音声だった。『三日前、紫苑医科大学附属病院で発生した傷害事件について、逮捕されていた元看護師長の黒崎真知子容疑者が、昨夜、留置施設内で死亡していたことが分かりました。警察は自殺とみて詳しい経緯を調べています』 息が止まった。 黒崎看護師長。 あの人が、死んだ。 頭の中で言葉の意味がうまく繋がらない。 けれど、
「飯だ」 寝室のドアが開き、低い声が落ちてきた。 顔を上げると、そこには玲司が立っていた。 長身に仕立てのいいシャツ。 そこまではいつも通りだった。 けれど、その上に巻かれているエプロンだけが、どうしようもなく彼に似合っていなかった。 思わず、胸の奥が小さく揺れる。 昔も、こんな姿を見たことがあった。 付き合い始めたばかりの頃。 朝寝坊が好きな私を起こすために、玲司は不機嫌そうな顔で寝室へやって来た。『いつまで寝ているつもりだ』 そう言いながら、初めて作ったというスクランブルエッグを差し出してくれた。 少し焦げていて、味も薄かった。 それでも私が笑って「おいしい」と言うと、玲司はそっぽを向きながら、耳だけ赤くしていた。『……次は、もっと上手く作る』 あの頃の彼は、優しかった。 不器用で、言葉足らずで、それでも私のことを見てくれていた。 私が好きなものを覚えようとしてくれていた。 私が笑うだけで、ほんの少しだけ表情を和らげてくれた。 パタン、とドアが閉まる音で、私は現実に引き戻された。 胸に浮かんだ甘い記憶が、途端にひどく残酷なものへと変わる。 今さら、過去の思い出に浸ったところで何の意味もない。 あの頃の玲司は、もうどこにもいない。 今、彼がこうして甲斐甲斐しく動いているのは、きっと負い目があるからだ。 三日前、病院で黒崎元看護師長がナイフを突き出した時、私は何も考えず玲司の前に飛び出した。 刺されたのは自分だと思った。 けれど、次に感じたのは痛みではなく、玲司の腕に強く引き寄せられる感覚だった。 彼はあの一瞬で、すべてを察知していた。 護身術に長けている玲司は、私の身体を庇いながら黒崎の手首を弾き、ナイフを叩き落とした。 それでも完全には避けきれず、刃は彼の前腕を裂いた。 白い床に落ちていた血は、私のものではなかった。 玲司のものだった。 幸い、動脈は外れていた。 命に関わる怪我ではない。 けれど、包帯の巻かれた彼の腕を見るたびに、胸の奥が妙な痛み方をした。 あの時、私はたしかに玲司を庇おうとした。 自分でも理由は分からない。 もう愛していないはずなのに。 何度も傷つけられて、期待することすらやめたはずなのに。 それで
シェルネージュのワンピースに身を包んだ香澄は、当然のような顔で店員へバッグを預けた。「こちら、本日入ったばかりの商品でございます」 店員は先ほどまでとは打って変わって、へりくだった笑みを浮かべている。 そして次の瞬間。「奥様、こちらのネックレスなどいかがでしょう?」 その呼び方に、私の思考が止まった。 ――奥様? 香澄は独身のはずなのに、一体誰の妻だというのだろう。 いや、分かっている。 私の中では、もう答えが出ているけどそれを認めたくないだけだ。 胸の奥が、じわりと冷えていく。 店員が、私ではなく香澄を玲司の妻だと思い込むほどに、玲司と香澄は二人でこの店に頻繁に来てい
面会を終えてICUの外へ出ると、今度は事務員が私を待っていた。「久我様、入院手続きと費用についてご説明があります」「……費用?」「集中治療室での管理になりますので、通常の入院より費用が高額になる可能性があります。また、今後の治療内容によっては、保険適用外の費用や差額室料、保証金なども発生いたします」 事務員はそう言って、差し出してき書類を受けとる。 私はそこに記載された金額を見て、息が止まった。「……こんなに?」 私の貯金をすべて使っても、到底足りない額だ。「まずは入院保証金として、こちらの金額をお願いしております」「今日中に、ですか?」「原則としては二十四時間以内です
聞き間違えるはずがない、香澄の声だ。 頭が真っ白になりかけながらも、必死に言葉を絞り出した。「お願い……少しだけでも来て……!」『千景』 低く、面倒くさそうな声だった。『自分の母親のことだろ? それぐらい自分で対応しろ』「……え?」『病院なら医者がいる。俺が行ったところで何ができる』「でも……」『明日の朝には家に帰る。その時なら話を聞いてやる』 プツッ、と一方的に通話が切れた。 耳元で鳴り続ける無機質な電子音だけが聞こえるスマホを握ったまま動けなかった。 微かに感じた希望は、そもそも私の気のせいだった。 窓の外では、イルミネーションが流れていく。今日はクリスマス
息ができない。 視界が滲む。 潰れた車体と瓦礫の隙間から、かろうじて外の光だけが見えていた。 遠くで、誰かの声がする。「香澄! 大丈夫か!?」 切迫した玲司の声で、意識が引き戻された。 私は必死に顔を上げる。 けれど、玲司が真っ先に駆け寄ったのは、私ではなかった。 助手席側にいた香澄だった。「やだ……っ、痛い……!」「大丈夫だ。今助けるからな!」 香澄は泣いていた。 腕から血を流していたけれど、意識ははっきりしている。身体も動いている。 それなのに玲司は、瓦礫に押し潰された私ではなく、真っ先に彼女の方へ駆け寄った。 私は……? 声を出そうとしても、喉が震える







