Se connecter余命宣告を受けた日、久我千景は夫・玲司が初恋の女、鷹宮香澄と家族のように笑い合う姿を見た。結婚五年、玲司は千景を妻として扱わず、土砂崩れの事故でも真っ先に香澄を助け、千景は瓦礫の下でお腹の子を失った。かつて彼は、千景の演奏を誰より優しく聴いてくれた人だった。なのに今は、親の仇を見るような目で彼女を憎む。それでも時折、玲司の瞳は苦しげに揺れていた。なぜ優しかった夫は変わったのか。残された時間が僅かだと知った千景は、愛されることを諦め、せめて憎まれる理由だけを知ろうと決意する。夫の支配という檻の中で、彼女は隠された過去と真実を追い始める。
Voir plus「申し上げにくいのですが……久我さんに残された時間は、このままだともうあまり多くありません」
「え……?」 真っ白な診察室で、私は医師の言葉を聞き返すことしかできなかった。 久我千景(くが ちかげ)。 それが、私の名前だ。 数年前の事故で負った怪我の経過を見るため、いつものように病院へ来ただけだった。 今日も、形式ばかりの説明を受けて終わる。 そう思っていた。 けれど、医師の口から告げられたのは、あまりにも予想外の言葉だった。 「先日の血液検査と追加検査の結果、久我さんは血液を作る骨髄そのものが壊れていく病気だと分かりました」 「血液を作る骨髄が壊れる病気……?」 自分の口からこぼれた声が、ひどく遠くに聞こえた。 「はい、簡単に言えば白血病に進行する危険のある血液の病気です」 頭の中が、真っ白になった。 医師はその後も何かを話していた。 治療方針。入院。今後の生活。痛みを和らげるための処置。 けれど、そのどれもが水の中で聞く声のようにぼやけて、意味を持たなかった。 なぜ、私が。 何か悪いことをしたのだろうか。 少なくとも、こんな目に遭わなければならないほどのことをした覚えはない。 悲しみも、恐怖も、怒りも、全部が一度に押し寄せてくる。 息の仕方さえ分からなくなった。 「久我さん。聞こえていますか?」 肩を軽く叩かれ、はっと顔を上げる。 医師が心配そうにこちらを覗き込んでいた。 「あ……はい」 「入院して、今後の治療方針を相談していくことをお勧めします。ご家族の方には、こちらからも説明を……」 ご家族。 その言葉に、私は自嘲気味に笑うことしかできなかった。 「……相談してみます」 それだけ告げて、私は病院を後にした。 外の空気は、いつもと変わらなかった。 行き交う人の声も、車の音も、空の色さえも。 世界は何ひとつ変わっていない。 変わったのは、私の人生だけだった。 震える手でスマートフォンを取り出す。 夫の久我玲司(くがれいじ)に連絡しようとした、その時だった。 通知音が鳴った。 画面に表示されていたのは、インスタグラムの通知。 普段、SNSなどほとんど投稿しないはずの玲司が、写真を更新していた。 嫌な予感がした。 見てはいけない。 開いてはいけない。 頭ではそう分かっていたのに、憔悴しきった私の指先は、勝手に画面をなぞっていた。 表示されたのは、一枚の写真。 大人の男女の手が、小さな子どもの手を包み込んでいる。 幸せを切り取ったような、温かい写真だった。 コメント欄には、私の親友である鷹宮香澄(たかみやかすみ)の名前があった。 『いつもありがとう。これからもよろしくね』 心臓が嫌な音を立てた。 私は震える指で、香澄の投稿へ飛ぶ。 そこにあったのは、まるで幸せな一家三人を写したような家族写真だった。 『1st Birthday。健やかに、幸せに育ってね。』 「……なんで」 声が震えた。 「なんで、よりによって……こんな日に……」 スマホを持つ手が震える。 落とさないように両手で握りしめても、指先の震えは止まらなかった。 私はスマホを額に押し当てる。 その瞬間、脳裏に二年前の光景が蘇った。 台風が通り過ぎた翌日のことだった。 あの日の空は、不気味なほど晴れていた。 私のお腹の中には、玲司との子どもがいた。 安定期に入ったとはいえ、まだ油断できない時期。できることなら、家で安静に過ごしていたかった。 けれど、その日は香澄の誕生日だった。 『せっかくだし、三人でお祝いでもしよう』 そう言ったのは、玲司だった。 親友の誕生日を嫌がるなんて、心の狭い女みたいだったから。 それに、玲司に嫌な顔をされたくなかったから。 だから私は、無理をしてでも外へ出た。 正直に言えば、最悪だった。 妊娠中の私には避けたい食材も多く、食べられないものを告げるたび、玲司は露骨に不機嫌な顔をした。 そのせいで私は終始、彼の顔色ばかり窺うことになり、料理の味なんてほとんど覚えていなかった。 「今日は本当にありがとう」 「だから、もう何回目だよ」 運転席の玲司が苦笑する。 「そんなに言わなくても、ちゃんと伝わってるって」 「だって嬉しかったんだもん」 助手席の香澄は、甘えるように笑いながら玲司の腕に触れた。 その距離の近さに、胸の奥から吐き気が込み上げる。 香澄は昔から距離感が近い。 玲司も、それを嫌がる素振りを見せたことは一度もなかった。 まるで、それが当たり前みたいに。 後部座席には、妻である私がいる。 それなのに二人が並ぶ姿は、傍から見れば恋人同士のようだった。 以前、それとなく指摘したことがあった。 その時、玲司は露骨に顔をしかめた。 『お前の親友だから、無下にできないだけだろ』 そして、苛立ったように吐き捨てた。 『なんだよ。自分の夫と親友が、そんなに信用ならないのか?』 その言葉に、私は何も言い返せなかった。 私がおかしいのだろうか。 嫉妬深いだけなのだろうか。 そう思うようにして、ずっと飲み込んできた。 だから今日も、私は黙って後部座席に座っている。 フロントガラスの向こうには、昨日の台風の爪痕が残っていた。 川の水は濁り、道路脇には折れた枝や土砂が流れ込んでいる。 「昨日の台風、すごかったもんねぇ」 香澄が呑気にそう言った。 「ニュースでも、山道の通行止めとか結構やってたし」 「ああ。この辺も危ない場所あるらしいからな。早めに帰るぞ」 玲司がそう答えた、その時だった。 ――ゴゴゴゴゴッ!! 地鳴りのような轟音が響いた。 「え……?」 車体が激しく揺れる。 次の瞬間、視界の端で茶色い何かが崩れ落ちるのが見えた。 「玲司っ――!」 叫ぶより早く、凄まじい衝撃が車を襲った。 何かに横から叩きつけられ、車体が大きく回転する。 ガラスの割れる音。 潰れる鉄の音。 香澄の悲鳴。 世界がぐしゃぐしゃに混ざっていく。 お腹を庇おうとして、身体を丸めた瞬間、激痛が走った。 何か重たいものが、下腹部へ食い込む。 「あっ……ぁ……!」そう告げた瞬間、電話口の向こうが静まり返った。 ほんの数秒。けれど私には、その沈黙が何分にも感じられた。『……千景?』 その声を聞いたのは、何年ぶりだろう。『今さら、何の用だ』 続く言葉に、カッと頭に血が上りそうなる。 懐かしさなんてなかった。あるのは、冷たい壁に触れたような感覚だけだった。 母を私を捨て、勤めるべき責任も果たさなかった男が何年も聞かなかった娘の声を聞いて最初にかける言葉がそれなのか? 私は電話口に聞こえないようにふーと息を吐き、頭にのぼりかけた血を必死に沈める。「……お願いがあります」『お願い?』「母が……倒れました。集中治療が必要で、高額な治療費が必要なんです」 母を捨てた男に、母を助けてほしいと頼む。それがどれほど屈辱的なのか、分かっている。 それでも、他に縋る相手がいなかった。「一度だけでいいんです。会ってください」 父――朝霧宗一郎は、しばらく何も言わなかった。 電話越しに聞こえる微かな呼吸音が聞こえるたびに、私の心臓が痛いくらい脈打つ。 やがて、短く息を吐く音がした。『……今どこにいる』「病院を出たところです」『会社に来い』 それだけ言って、通話は切れた。 私はしばらく、暗くなった画面を見つめていた。 謝罪も、心配もない。 母が倒れたと聞いても、娘が泣きそうな声で頼んでも、この人の声は少しも揺れなかった。「……朝霧ファーマトレード本社まで、お願いします」 掠れた声で行き先を告げると、運転手は短く返事をして車を走らせた。 朝霧ファーマトレード――父が会長を務める、製薬商社。 母の実家の資金援助と人脈を使って大きくなった会社だ。 かつて母は、父の夢を信じ、自分の家柄も、資産も、人脈も、惜しみなく父に差し出した。 夫婦だから支え合うことは当たり前なのだと母は言っていた。 けれど父は、成功を掴んだあと、母ではない女を選んだ。 母と私を捨て、そしてすべてをなかったことのようにして、今も社会的な成功者として生きている。 タクシーがガラス張りの外壁に空が映り込んでいる高層ビルの前に停まった。 立派なエントランスに磨き上げられた床。行き交う社員たちの洗練された服装。 そのすべてが、私には別世界のものに見えた。 ここは、母の人生を踏み台にして築かれた場所だと思うと、
「朝霧……なぜ?」 奏人先輩からの言葉は、私が玲司にどれだけ縋っても、返ってこなかった言葉だった。 ずっと、誰かに言ってほしかった言葉。 その手を取れば、きっと救われる。 母も、私も。 少なくとも今よりは、ずっと楽になれる。 それでも私は、それを拒んだ。 申し訳なさから、奏人先輩か目を逸らす。「私は……久我玲司の妻なので……」 ぽつりと、口からこぼれ落ちた言葉。 そうだ、どれだけ虚しい肩書きでも。外の世界で存在を消されていたとしても。 玲司の妻だというその事実だけは、まだ手放せなかった。 奏人先輩の優しさに縋り、その手を取ってしまったら、その事実が本当になくなってしまうのではないか。 そんな馬鹿げたことを、私は本気で思ってしまった。 奏人先輩の顔を見ることができず、私は顔を伏せ、そして自嘲気味に笑った。 くだらない。本当に、くだらない理由だ。 分かっている自分がどれほど非合理的なことをしているのか。どれほど支離滅裂なことを言っているのかも。 優しさに甘えて。縋りかけて。それでも最後の一線だけは踏み込ませない。 他人の善意を都合よく利用する、愚かな女だと思う。 それでも、譲れないものがあった。 理屈ではどうにもならない。感情が、それを拒んでしまうからだからどうしようもなかった。 何も言わなくなった私から、奏人先輩はゆっくりと離れ、倒れた椅子を起こし静かに座り直す。 短く息を吐いたあと、彼はゆっくりと口を開いた。「いろんなことが一度に起きたのに、追い討ちをかけるようなことを話してしまったな。すまない」 違う、悪いのは私だ。奏人先輩は、何も悪くない。「少し落ち着いてから考えてみるんだ。今がどういう状況なのか。今は混乱して、冷静に物事を考えられていないだけだと思う」 どこまでも私を気遣い、寄り添おうとしてくれる優しい言葉にまた縋りたくなる。 けれど同時に、強く思ってしまった。 やっぱり、これ以上この人に重荷を背負わせてはいけない。 私のために、負担になるようなことをさせてはいけない。 壁の時計を見ると、時刻は十二時になろうとしていた。「……何か、食べるものを買ってこようと思います」「それなら、俺が買ってくる」「いえ……少し、頭を冷やしたいので」「そうか……」 奏人先輩は迷うように私を見つめたあと、小
――結婚。 その言葉が、胸に刺さったままの見えない刃を、さらに深く捻るようだった。 私が、先に結婚したのに。 私が、玲司の妻なのに。 どうして、私ではなく香澄が。 どうして、外の世界では、私だけがいないことになっているの。 全身に鳥肌が立った。 視界の端が暗く滲み、目の前にいるはずの奏人先輩の顔が、少しずつ遠ざかっていく。 私は掛け布団の下でシーツを強く握りしめた。 爪が布に食い込む。 そうしていなければ、自分の体がどこかへ崩れ落ちてしまいそうだった。「……あ」 ぽたり、と。 何かが落ちた。 白い掛け布団の上に、赤い点が滲む。 鼻血だった。 次の瞬間、ぽた、ぽた、と赤い雫が続けて落ちていく。「朝霧!」 奏人先輩が椅子を倒すほどの勢いで立ち上がった。 慌てて私のそばに寄り、手近にあったティッシュを取る。「大丈夫か!? 看護師を呼ぶ」「いえ……大丈夫、です」「大丈夫なわけないだろう」 奏人先輩の声が、わずかに荒くなる。 けれど、その怒りが私に向けられたものではないことは分かった。 彼はティッシュを私に渡しながら、もう片方の手でナースコールへ伸ばしかけた。 私は咄嗟に、その袖を掴む。「本当に……大丈夫です。少し、驚いただけなので」「驚いただけで鼻血が出るか」「……原因は、なんとなく分かってますから」 そう答えた瞬間、奏人先輩の顔色が変わった。 しまった、と思ったけれど、もう遅かった。「……どういう意味だよ」「……」「朝霧」 奏人先輩の顔が、今にも泣き出しそうに歪んだ。 その表情を見た瞬間、ひどい自己嫌悪に襲われる。 関係のない奏人先輩の優しさに甘えて言わなければ背負わずに済んだ重みを、彼に背負わせようとしている。 踏み込まなければ気づかずに済んだことに触れさせて、彼を苦しめている。 そう自覚した途端、自分がひどく醜い存在に思えた。 私は顔を伏せた。 鼻を押さえながら、荒くなった呼吸を必死に整えようとするけれど、うまくいかなかった。 胸が苦しい。喉の奥が震える。泣きたいのか、笑いたいのか、それすら分からなかった。 そんな私の背中に、奏人先輩の温かい手がそっと添えられた。 無理に問い詰めるわけでもなく、慰めの言葉を並べるわけでもなく。 ただ、そこにいてくれる手。 その温もりが、
「え……?」 奏人先輩の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。「いったい、どういうことですか?」 玲司と結婚しているのかなんて、そんなの当然だ。 彼から結婚を申し込まれて、婚姻届にも二人でサインした。 名字だって変わって、私はもう朝霧千景ではなく、久我千景なのだ。 それなのに、どうして奏人先輩はそんなことを聞くのだろう。 呆然と見つめる私から、奏人先輩は言いづらそうに視線を落とした。「……久我玲司については、仕事の関係で何度か名前を聞いたことがある」「仕事の、関係で……?」「ああ。直接深く関わったわけじゃない。だけど、久我家の人間となれば、良くも悪くも名前は耳に入ってくるんだ」 奏人先輩はそこで一度言葉を切った。 次に続く言葉を選んでいるようだったけれど、その沈黙が怖かった。 私は掛け布団の下で、そっとシーツを握りしめる。「……俺が聞いた範囲では、久我玲司に妻がいるなんて話は、一度も出てこなかったよ」「……え?」 声が、掠れた。「そんな……はず、ありません」 私はあの家で、彼の妻として暮らしてきた。 毎朝、食事を用意して。 帰らない彼を待って。 香澄のところへ向かう背中を見送りながら、それでも自分は妻なのだと、そう言い聞かせてきた。 たとえ愛されなくても。 たとえ必要とされなくても。 私は玲司の妻なのだと、その事実だけに縋ってきた。「何かの、間違いでは……」「嬉しそうに結婚の報告をしてきた君の顔を思い出して、俺もそう思いたかった」 奏人先輩の声は低かった。 それは怒っているようにも、苦しんでいるようにも聞こえた。「だけど、少なくとも周囲では、久我玲司は独身という扱いになっているらしい」 独身。 その二文字が、鋭利な刃物のように胸へ沈んだ。 息の仕方が、分からなくなる。 私の知っている現実が、足元から音もなく崩れていくようだった。「それだけじゃない」「……まだ、何かあるんですか」 それは声というより、喉の奥からこぼれ落ちた呻きに近かった。 本当は、もう何も聞きたくなかった。 これ以上知ったところで、私の心が耐えられるとは思えない。 それでも、聞かずにはいられなかった。 知らないままでいるには、もう遅すぎた。 奏人先輩は私の顔色を見て、ためらうように口を閉ざした。「朝霧、無理に聞かな