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Novels by marimo

黎明の風と永遠の指輪ー夜の世界で出会った二人、危険で甘い約束ー

黎明の風と永遠の指輪ー夜の世界で出会った二人、危険で甘い約束ー

夜のクラブで出会ったのは、 若くして巨大企業を率いる男――柊 蓮。 そして、夜の世界で生きる女――成瀬 玲。 決して交わるはずのなかった二人は、 一夜の出会いをきっかけに、抗えないほど強く惹かれ合っていく。 溺れるような愛。 未来を誓う指輪。 「一生守る」という甘い約束。 だが、蓮の背負う世界はあまりにも危険だった。 政財界と裏社会を結ぶ巨大組織《十八会》。 父の影、抗争、命を賭けた“断れない任務”。 愛する人を守るため、 男は嘘を選び、女は信じることを選ぶ。 これは、 闇の世界に生きる男と、 光になろうとした女の―― 危険で、甘く、切ない愛の物語。
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Chapter: 第百三十話 黎明の風
 夕方、蓮と玲がホテルを出て麻美に合流した。  レストランは港沿いの老舗。  照明に照らされたテーブルには、**ランプキ(マルタ風魚のグリル)**とワインが並ぶ。 「二人とも遅いじゃない」  麻美が笑うと、蓮が頭を下げた。  「ごめん、寝坊して」  「まぁ、想像はつくけどね」 玲が恥ずかしそうに笑うと、場の空気が和らぐ。  涼真は手際よくワインを注ぎ、控えめに口を開いた。  「蓮さん、会社のほうはどうされるんです?」  「日本に戻ったら、もう一度やり直す。桐嶋会長にも頭を下げる」  「なるほど……地獄の特訓コースですね」  全員が笑った。 食事は賑やかに進み、店内には地元の音楽が流れていた。  麻美がふと涼真の方を見やる。  彼もまた穏やかに微笑んでいた。  その視線が重なり、二人はそっと目を逸らす。 翌日。  蓮と玲は朝から海辺を散歩していた。  透き通る波間に、太陽の光が踊っている。  「こんなに穏やかな時間、初めてかもしれない」  玲が呟くと、蓮は微笑んだ。  「俺もだ。……ありがとう、玲」  「私こそ。会いにきてくれてありがとう」 遠くで鐘が鳴る。  小鳥が飛び立ち、二人の足跡を波がさらっていく。 一方、麻美と涼真は首都ヴァレッタのカフェでランチを取っていた。  「ねぇ、涼真くん。日本に戻ったらどうするの?」  「蓮さんの会社に戻ります。でも……いつか自分の事業をやりたい」  「へぇ、何の?」  「夜に働く人たちの支援を。母親がそうだったから。」 麻美は目を見張った。  「……私、それ、手伝いたいかも」  「本当ですか?」  「本気よ。蓮たちが会社で戦うなら、私たちは別の場所で人を救いたい」 麻美が笑顔でそう言うと、涼真がハートの貝殻のネックレスを取り出して、麻美の手に握らせた。麻美は驚いてそのネックレスを見た。「これ、昨日の…」涼真を見ると「昨日、気に入ってるみたいだったから。」そう言って照れ笑いをする。「わざわざ買いに行ってくれたの?」「毎朝ジョギングをするんで、そのついでに…」涼真は照れ隠しに急いでコーヒーを飲んでむせた。麻美は少女のような顔で微笑み、涼真にナプキンを渡した。二人は見つめ合い、笑った。マルタの風が、白いカーテンを揺らす。  遠くで鐘が鳴り、海鳥
Last Updated: 2026-01-11
Chapter: 第百二十九話 地中海の光
その夜、二人はホテルの同じ部屋に戻った。  部屋の窓からは、青く光る夜の海が見えた。  窓辺に立つ玲の背中を、蓮は静かに見つめる。 「玲……俺たちは、何度でもやり直せると思うんだ」  「うん……私もそう思う」 互いの想いを確かめ合うように、二人はそっと寄り添った。  言葉は少なかった。  ただ、長い年月のすれ違いを埋めるように、心と心がひとつになっていった。  夜がゆっくりと更けていく。 遠くで波の音がかすかに響いた。  それはまるで、二人の新しい物語の幕開けを祝福しているかのようだった。 翌日――。  カーテンの隙間から、眩しい日差しが差し込んでいた。  時計の針は午後四時を指している。 「……もう夕方?」  玲が目をこすりながら笑う。  「完全に寝すぎたな」  蓮は髪をかき上げながらベッドから起き上がる。 「麻美、待たせてるかも」  「そういえば……」 慌ててスマートフォンを手に取ると、麻美からメッセージが届いていた。  《こっちはこっちで楽しくやってるから心配無用! 夕食は全員でね♪》 蓮は安堵の息をついた。  「さすが麻美。しっかりしてる。」 麻美は蓮が借りた別の部屋に泊まり、その日は蓮の部下・篠原涼真(しのはら りょうま)と観光をしていた。 蓮と玲がやっと起きだしてきたころ、麻美と涼真は、ヴァレッタの旧市街を歩いていた。  古い石造りの街並みを抜け、坂道を下ると、青い海が見える。  「ねぇ、涼真くん。ここ、まるで絵の中みたいね」  「ええ。だけど、道が全部坂なのがきついです」  「体力ないわねぇ。若いのに」 二人は顔を見合わせて笑った。篠原涼真は、蓮の部下の中でも隼人の次に蓮が信用している黎明コーポレーションの部下である。体力が無いわけがない。しかし涼真は麻美に合わせ、観光を楽しんでいた。  風が頬を撫で、教会の鐘がどこかで鳴る。 昼食は港のレストランで取ることにした。  テラス席からは、海とヨットが一望できた。  「おすすめは……マルタ名物のブラジオリ(牛肉の赤ワイン煮)ですね」  「よく知ってるじゃない!」  「社長に言われました。“仕事の前に胃袋を掴め”って」  「ふふ、さすが」 料理が運ばれ、湯気が立ち上る。  柔らかな肉と濃厚なソースの香りが、海風に混じって漂う。
Last Updated: 2026-01-11
Chapter: 第百二十八話 永遠を誓う
 蓮は瞳の奥にある迷いを、ひとつずつ消していくように息を吸い、言葉を紡ぎ出した。「俺は……玲を失って、ようやく気づいたんだ。どれほど玲を大切に思っていたかって。どれほど玲なしでは生きられなかったかって。」 玲華の胸がつまる。「蓮……。」「俺は弱くて、間違ってばかりだった。玲を苦しめて……傷つけた。」 風が吹き、玲華の髪が揺れる。  蓮はそっと手を伸ばして髪をすくい上げた。「もう二度と、あんな別れを繰り返したくない。もう二度と、玲を手放したくない。」 蓮は一歩近づき、玲華と向かい合う。  その距離は、呼吸が触れ合うほど近い。「玲……俺と生きてほしい。」 玲華の瞳が揺れた。 蓮はゆっくりと膝をついた。 海から吹き込む風が、二人の間を静かに満たす。 ポケットから、小さな黒い箱を取り出す。  その箱を開いた瞬間、中で光ったのは、海の色を映したような透明な指輪だった。「桐島玲華さん。俺と……結婚してください。」 玲華はその場で息を飲んだ。 時間が止まったように、波の音すら聞こえなくなる。 蓮の目は真剣で、揺らぎがなかった。  ただ玲華の幸せを願う気持ちだけが滲んでいた。「……蓮……」 玲華の目から涙がこぼれた。  頬に伝うその涙は、驚きでも悲しみでもない。 溢れるほどの幸福の涙だった。「はい……。……お願いします……。」 玲華が頷いた瞬間。 蓮の表情が、これまでで一番やわらかく崩れた。 蓮は立ち上がり、そっと玲華の左手を取り指輪をはめた。  それは、まるで最初から玲華の指のために作られていたかのようにぴたりと馴染んだ。 玲華は蓮の胸に飛び込むように抱きついた。「蓮……好き……大好き……っ」 蓮も強く抱きしめ返す。  どれほどこの瞬間を願ったことだろう。  どれほど夢に見たことだろう。「玲……ありがとう。俺を選んでくれて……ありがとう。」 二人の頬を優しい風が撫で、地中海がきらめいていた。 世界は祝福していた。 蓮と玲華の、新しい人生の門出を。 海辺のプロポーズから戻ると、ホテルのテラスに麻美が座って待っていた。  蓮と玲華の手が繋がれているのを見て、麻美は思わず身を乗り出した。「ちょっと……! ちょっと、もしかして……!」 玲華が恥ずかしそうに笑い、左手を掲げる。 陽光を受けて輝く指輪。
Last Updated: 2026-01-11
Chapter:  第百二十七話  海の色に……
マルタ島の朝は、どこか優しい。  海から吹く風が少しひんやりしていて、街全体がゆっくり目を覚ましていく。 玲華は窓際の椅子に座り、淡い青色の空を眺めていた。  夜のあいだに考えていたのは、蓮のことばかり。(昨日の……あの言い方。何か言いかけて、やめたみたいだった。) 胸がかすかに波立つ。  不安ではない。  むしろ、言葉にできないほどの期待が胸の奥でゆっくり膨らんでいくようだった。 ドアがノックされる。「玲? 起きてる?」「麻美……どうぞ。」 入ってきた麻美は、すでに海に行く準備を整えていた。  白いワンピースに、麦わら帽子。「ねえ、今日……何かありそうね?」  にやっと笑う。「……え?」 「蓮の顔を見ればわかるのよ。あれはね、何かを決めてる男の顔。」 玲華は一瞬、言葉を失った。「……そんな風に見えた?」「うん。あんた、今日は綺麗にしておきなさい。絶対よ。」 麻美の確信に満ちた口調が、玲華の心をさらにざわつかせた。 蓮が今日、何かを言おうとしている。  それを考えただけで、胸の鼓動が速くなる。(蓮……。) 午前中、三人は海沿いのカフェで軽めの朝食をとった。  澄んだ空気、白い街並み、水平線に光る青い海。 だが、蓮はどこかそわそわしていた。  コーヒーを飲む手が少し落ち着かない。 そんな蓮の横顔を見ながら、麻美は玲華の足をそっと小突いた。(ほら……やっぱり。) 玲華は顔を赤らめ、海の方へ視線をそらした。「今日は……少し散歩しないか?」 蓮が不意にそう言った。  声は自然だが、どこか落ち着かない響き。「いいわ。行きましょう。」 麻美はにっこり笑い、さっさと席を立った。「じゃあ私は街をぶらぶらしてくるから。二人はゆっくりしてきなよ〜。」 玲華は「えっ」と声を出したが、麻美は手を振ってカフェを出て行った。 残された蓮と玲華は、しばらく向かい合って黙った。  蓮が照れくさそうに笑った。「……行こうか?」「うん。」 ふたりは並んで歩き始める。 蓮が一歩近づくたびに、玲華の心が大きく揺れた。 太陽が高くなり、海辺の道は明るい光に溢れていた。  どこかの家から焼き菓子の甘い香りが漂い、海風が石畳の街を心地よく撫でる。 蓮と玲華は、崖沿いに続く遊歩道へ向かった。  昨日よりも少し先まで歩く
Last Updated: 2026-01-11
Chapter: 第百二十六話
潮の香りが濃くなり、波の音が近づく。  岩場に沿った遊歩道は、月明かりだけが頼りだった。  海は黒く輝き、波が押し寄せるたびに白い泡が浮かぶ。 玲は海に視線を向けたまま言った。 「ここに来てから……自分の気持ちと、ずっと向き合ってたの。」  蓮は横を歩きながら、彼女の言葉を静かに受け止める。  「蓮と、ちゃんと向き合わなきゃって思ったの。怖かったけど……もう逃げたくない。」 蓮は足を止めた。  玲も止まる。  二人の間に、波の音だけが響いた。 「俺も同じだ。」  蓮は玲華の肩に手を置いた。  「玲を失って……初めて気づいた。俺は、自分が思っていた以上に、玲に依存してたんだって。」 玲が驚いて顔を上げる。  蓮は続けた。 「誰からも頼られたくて、大きな存在でいなきゃいけない気がしてた。   でも……玲に弱音を見せるのが怖かった。嫌われる気がして……情けないよな。」 玲の胸が痛む。 「蓮……そんなことない……。私は蓮の弱いところも、強いところも全部好きなの。」 蓮の瞳が揺れた。 「玲……」 夜の海風がふたりの間を吹き抜ける。  蓮は胸に溜めていた言葉を吐き出すように言った。 「もう、一度でも玲を失いたくない。何があっても守る。傍にいたい。   ……だから——」 言葉が喉で止まった。 まだ言ってはいけない。  まだ“その瞬間”じゃない。 蓮は深く息を吸い、言葉を飲み込んだ。 「……今日は、もう少しだけ歩こう。」  「うん。」 ふたりは再び歩き出す。  ただその手を離さないように。 ホテルの部屋に戻ると、麻美はバルコニーに出て星空を眺めていた。  玲華が帰ってきたのを見て、振り向いてにっこり笑う。 「どうだった? いい夜になった?」  玲は恥ずかしそうに頷いた。  「うん……すごく。」 麻美は満足そうに肩をすくめた。 「じゃあ、私はもう寝るから。明日も海に行くでしょ?」  「ええ、たぶん……」  「玲、幸せそうね。」  その言葉に、玲華は胸が熱くなる。 「……うん。」 その夜、玲華は眠りつくまで、蓮の温もりを思い出し続けた。 ——蓮の声。  ——蓮の表情。  ——蓮の手の強さ。 胸の奥で、何かがゆっくり形をつくり始めていた。  一方、蓮は自室でひとり、海を眺めていた。 窓
Last Updated: 2026-01-10
Chapter: 第百二十五話 想いが満ちていく
 再会を果たした直後、蓮と玲華は手をつないだまま、マルタの石畳をゆっくりと歩いていた。 街路は夕陽に染まり始め、クリーム色の建物がやさしい橙色に包まれていく。  遠くから波の音が聞こえる。乾いた風が通り抜け、そのたびに玲華の髪が揺れた。 蓮は、玲華の指の細さを確かめるように手を握る。  その温度は、夢ではないと教えてくれる。 「まだ、信じられない……」  玲は歩きながら小さくつぶやいた。  「蓮がここに……本当に来てくれたなんて。」 蓮は歩みを止め、玲華の方を向いた。 「俺が行かないわけないだろ。玲が『会いたい』って思ってくれてるなら……」 言いかけて、照れくさそうに視線をそらす。  「いや……たとえそうじゃなくても、俺が勝手に探しに来てた。」 玲華の頬がほんのり赤くなった。 「……蓮って、不器用なのに……たまにずるいくらいストレート。」 蓮は苦笑した。  「玲がいなくて、ずっと後悔してたんだ。あの日……俺がもっと強かったら……」 玲は首を振る。 「違うの。あれは私のせいでもあるから……蓮を信じきれなかった私の弱さでもあるから。」 言葉が熱を帯び、頬にすっと涙が伝う。  蓮はそっと玲の涙を指でぬぐった。 「もう、いいんだ。もう……過去のことは全部、ここに置いていこう。」  「……うん。」 ふたりは再び歩き出した。 海辺に近づくと、視界がぱっと開け、地中海が広がった。  水面は金色に光り、波が岩に砕けては白い飛沫を上げている。 玲は足を止め、海を見つめた。 「……こんなきれいなところ……初めて。」  「俺もだ。」  蓮は言いながら、玲華の横顔を見つめた。 ――こんなにも美しい人を、俺はどれほど傷つけたんだろう。 胸の奥に微かな痛みが走る。  それでも、今この瞬間があることが、彼の救いだった。  日がすっかり暮れ、ホテルへ戻るころには、石畳の通りに灯りがともり始めていた。  街路灯は控えめで、闇に浮かぶ黄色の光がどこか温かい。 「蓮、お腹すいた?」  「まあ……それなりに。」  「じゃあ、テラスで軽く食べて、あとは海見ながらゆっくりしない?」  玲が言うと、蓮は嬉しそうに頷いた。 テラス席に案内されると、キャンドルがひとつ灯されていた。  その灯りが玲の瞳に映り、夜を溶かすように輝いている
Last Updated: 2026-01-10
ブロックした恋が、抱きしめてきたー冬空の告白、秋山真琴の選択ー

ブロックした恋が、抱きしめてきたー冬空の告白、秋山真琴の選択ー

恋と裏切り、運命の再会を描くドラマチックロマンス。広告会社チーフの秋山真琴は巨大イベント成功の中心で走り続けるが、信頼していた仲間との関係に亀裂が入る。さらに誕生日の夜の“ある誤解”をきっかけに、特別な存在になりかけた後藤慎一とも距離が生まれてしまう。「逃げるなよ!」雪舞う夜に慎一が初めて見せた感情の真意とは。ブロックされた想いは消えたのか、それとも。真琴が扉を開くとき、物語が動き出す。
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Chapter: 第106話 青いタンザナイト
慎一は黒いコートの襟をわずかに震わせながら、肩で息をしていた。フェス会場の外は驚くほど静かで、さっきまでの熱狂が嘘のように遠い。吐息は白く、吸うたびに冬の空気が肺を刺すのに、慎一の目は熱を帯びたまま真琴だけを捉えている。真琴もまた、慎一から視線を外せなかった。会場のライトが背後で滲み、周囲の音は消え、残っているのは慎一の呼吸のリズムだけ。すでに心を閉じたはずだったのに――感情は意志と関係なく溢れるものらしい。真琴の目尻から、涙が一粒こぼれ落ち、頬を伝って夜気に溶けた。真琴は涙を拭おうともしないまま口を開いた。「あたしだって……ずっと好きだった……あんなに幸せな気分で、待ち合わせ場所に向かったのも、初めてだった。それなのに………」言葉は途中で折れた。折れたというより、掴まれた。 慎一が彼女の腕を引き寄せ、言葉の続きを奪うように、いや遮るように、抱き寄せたのだ。力強く、迷いなく、逃がさない腕で彼女を抱きしめる。「ごめん、真琴。本当にごめん。」声は低く震えていたが、その腕の力は一切揺らがなかった。 慎一はさらに腕に力を込めた。謝罪を言葉だけで終わらせない意志。真琴はその腕から抜け出すことができなかった。いや、抜け出すという選択肢そのものがもう存在しなかった。しばらくして慎一は彼女の身体を優しく離した。今度は壊さない距離。 ポケットから、青い包装紙に赤いリボンのかかった包みを取り出し、そっと真琴の手に載せる。「遅くなったけど、誕生日おめでとう」真琴は箱を見つめ、重さを確かめるように指先で触れた。「ずっと持っててくれたの?」慎一は照れ笑いを浮かべる。夜風がその笑顔だけ少し温度を持って揺らす。「当たり前だろ。俺だって、あの日、覚悟を決めて、あの店まで行ったんだ」慎一はプレゼントを持つ真琴の手を両手で包み込んだ。 手袋越しじゃない、生身の体温。逃げない証拠。「真琴。もう一度、俺にチャンスをくれないか? 」そう言って真琴の顔を覗き込む。逃げ場ゼロの距離じゃなく、未来の距離。「もう一度、あの日からやり直したい」真琴はプレゼントを見てから目を上げ、慎一と見つめ合った。 そして――「うん」小さく、そして確かに頷いた。翌日。オーロラ社のイベント2日目。 会場に真琴の姿はなかった。誰も驚かなかった。皆うすうす理解していたから
Last Updated: 2026-02-13
Chapter: 第105話
「真琴!」久しぶりに慎一に名前を呼ばれた瞬間、真琴の全身がびりりと震えた。 耳に届いたその声は、かつて何度も聞いてきたはずの温度と響きを持っているのに、今日はまるで別の意味を帯びていた。懐かしさと痛み、安堵と恐怖、怒りと未練――そのすべてが同時に喉元までせり上がり、胸の奥を強くかき乱す。身体が縮こまるように冷え込んでいるのに、心臓だけが焼けるように熱く脈打っていた。駆け寄って、慎一と抱き合って……そんな光景が一瞬だけ頭をよぎった。 だが、現実の真琴の足は地面に縫いつけられたように動かない。 逃げ出したいわけじゃない。飛び込みたいわけでもない。 ただ、「どう反応すれば正解なのか」が分からなかった。慎一は数メートル先から、ゆっくりと確実な歩幅で真琴の前まで歩いてきた。 息は少し白く揺れているのに、表情は穏やかだ。彼は立ち止まると、懐かしい癖のように目を細め、柔らかく微笑んだ。「真琴、やっと会えた」その笑顔は昔と同じなのに、真琴は笑い返すことができなかった。 口角は微動だにしない。代わりに視線だけが彼を凝視する。 慎一の瞳の奥に、何か変わらない光と、変わってしまった焦燥が混ざっている。「真琴、どうしても聞いて欲しい話があるんだ」慎一はそう言い、もう一歩前へ出た。 コートの裾が冬風に揺れる。 その距離は逃げ場を奪うためじゃない。…だが真琴には逃げ場が無いと思わせるほど近かった。真琴は反射的に言葉を返した。「片付けが残ってるから…」声は弱い。だが震えはない。心が折れているのに、逃げるための理由だけは冷静に組み立ててしまう自分に、真琴はさらに絶望した。彼に背を向け、会場の方へ身体をひねる。歩き出そうとしたその瞬間――「逃げるなよ!!」空気が裂けた。慎一の怒鳴り声だった。 低く荒げた声が夜空に跳ね返り、遠くのイルミネーションすら一瞬くすんだ気がした。 真琴は反射的に振り返った。肩が跳ね、指先が凍る。今まで――大学生の頃からずっと一緒にいた慎一が、声を荒げたことなど一度もなかった。温厚で理性的で、感情をぶつけるより言葉で整える男。それが慎一だった。 その彼が、怒鳴った。 真琴は目を見開き、信じられないものを見るような顔で彼を見つめた。慎一はその視線すら逃がさず、真琴の腕を取った。 指の力は強い。だが握りつぶす強さではない。
Last Updated: 2026-02-13
Chapter: 第104話
身体が痺れるような熱気から逃れるように会場の外へ出ると、真琴は冬の夜風を肺いっぱいに吸い込み、大きくため息をついた。冷たい空気が、まだ火照った身体の内側をそっと撫でていく。「やっと終わった……」その声は安堵というより、糸が切れたような脱力に近かった。 年末から今日まで、オーロラ社の一大イベント『AURORA FES 2026 -冬空に響く光の歌声-』開催に向けて、彼女はほとんど眠れない日々を送っていた。企画、協賛、会場設計、リハーサルの調整、役員対応、スポンサーからの懸念払拭、そして現場スタッフのフォローまで――オーロラ社からの、今後の契約をとの考えのもと、会社全体の期待を背負い、真琴は常に中心で走り続けた。それだけでも過酷だったのに、彼女はさらに大きなものを失っていた。 親友と呼べると思っていた友、”茜”。 信じていた、積み重ねてきた時間、何でも話せると思っていた関係。その全てが、茜の妨害と裏切りで一瞬にして崩れた。人を信じることは簡単だが、その信頼を壊すのは驚くほど容易いのだと、真琴は身をもって知った。慎一とも、うまくいきそうだった。 真琴は、いつの間にか彼の前では自然体でいられる自分に気づいていた。無理をしなくていい。話さなくても伝わる間がある。ふとした優しさに触れるたび、胸の奥で何かが温かく灯る。自分も、楓や冬真のように、心の底から愛すことができそうな人ができたと思った……思ったのに。結局、32歳の誕生日の夜から、彼との連絡は途絶えたまま。 ブロックしたのは自分。解除しなかったのも自分。理由を作って逃げたのも自分。 気づけば、仕事の鬼になることで心を誤魔化す毎日だった。真琴はコートのポケットからスマホを取り出した。 指先がかじかんでいるのに、画面に触れる指はわずかに震えていた。連絡先の”後藤慎一”の場所を開く。 そこには名前だけが変わらず存在していた。通知も、メッセージも、履歴も、全て自分で消してしまったはずなのに、名前だけはまだ消えずにここにいる。まるで彼自身のようだ、と真琴は思った。そしてフッと笑う。 自嘲と諦めと、ほんの少しの未練が混ざった笑いだった。「今さらどうしようっていうのよ」あの日の光景が、瞼の裏で鮮明に蘇る。 慎一に「話したいことがある」と言われたときの高揚。駅から走るように向かった”Night In
Last Updated: 2026-02-13
Chapter: 第103話
2月14日、バレンタインデー当日。 オーロラ・エンタテインメント・ホールディングスが主催した『AURORA FES 2026 -冬空に響く光の歌声-』は、まるでこの日のために世界のすべての光と音を集めたかのような規模で開催されていた。年末から続いた準備期間。社内の誰もがこの案件に人生の一部を注ぎ込み、現場は常に熱を帯びていた。関係企業の役員たちは、フェスの成功を願うだけでなく――このイベントを足掛かりにオーロラ社との強固な協力関係を取り付けたいという打算と期待を胸に秘めていた。結果は、期待以上。 フェスティバル自体は大成功と言って差し支えなく、会場の至るところから興奮と安堵の入り混じったため息が聞こえてくる。スポンサー企業のロゴが輝く巨大LED、各広告会社の技術とセンスがぶつかり合って生まれた演出の数々、アーティストの歌声が雪をも溶かしそうな熱量で冬空に響く。アークライト・コミュニケーションズのチーフ・秋山真琴とチームも、朝から会場入りしていた。 クライアントとしてではなく、関係企業の一員として、ただ成功の瞬間を見届けるために。真琴は腕を組みながらステージ全体を視界に収め、ゆっくりと息を吸った。「…すごい」フェスは、企業同士の競技場のようでもあり、同時に共創の結晶でもあった。複数の広告会社が同時に携わったことで、会場の空気はいつものオーロラ案件とは違う。プライドの衝突、技術の競り合い、そして互いを認めざるを得ないほどのクオリティ――すべてが巨大なうねりとなり、観客席もスタッフエリアも同じ熱で包まれていた。そんな時だった。「真琴さん」低く落ち着いた声が背後から飛んできて、真琴はハッと目を開いた。 振り向くと、そこに立っていたのは天ヶ瀬昴。オーロラ社の社長でありながら、いつも驕らず、穏やかに人と向き合う男。「天ヶ瀬社長!!」周囲のスタッフが一斉に姿勢を正し、頭を下げる。まるで波が割れるように人の道が開いた。 天ヶ瀬昴はその敬意の道を当然のように受け止めるでもなく、誰かを威圧するでもなく、ただ静かに、ゆっくりと真琴のもとへ歩いてくる。その歩幅は大きくないのに、なぜか視線を奪う。 黒いロングコートの裾がわずかに揺れ、会場のライトが反射して肩のラインを縁取った。「天ヶ瀬社長、今日の満足度はいかほどですか?」すれ違う関係企業の社員たちから
Last Updated: 2026-02-12
Chapter: 第102話  解雇辞令
 スポンサー側からの「アークライト社に不安材料がある」という声は、想像以上の速度で広がっていた。フェス運営の信頼に関わる噂は、関係企業の会議や電話の端々に混ざり込み、ついに天ヶ瀬昴の耳にも届いた。年始特有のゆるんだ空気は、いつの間にかピリついた危機管理の空気へと変わっている。 昴は動いた。即座に、迷いなく、躊躇なく。 アークライト社の役員の一人を、オーロラ社ビルへ呼び出し、応接会議室の中央席に座らせた。座らせたというより、招かれた側が“尋問席”に案内されたような構図だった。「その、城里茜という社員は、どういった仕事を担当しているのですか?」 昴の声は冷静だった。感情ではなく論理で切り込む声。だがその静けさの奥に、会社を守る男の剣のような鋭さが潜んでいる。 オーロラ社の役員はハンカチを取り出し、額とこめかみの汗を拭った。スーツの襟元もわずかに湿っている。暖房のせいではない。精神の圧力だ。「御社の仕事には関わっておりません。城里は主に、『黒川アルアセットグループ』の担当をしております」「なるほど」 昴は腕を組んだ。指先を軽くトントンと叩きながら、目線を落とさず役員を射抜く。「ではなぜ、弊社の妨害行為を行っているのですか?」 その問いに、役員の喉がわずかに鳴った。答えられない。昴はその沈黙すら“確認済みの証言”として扱い、さらに踏み込む。「今回のフェスは、社の娯楽案件ではない。業界全体の信頼で動くプロジェクトです。社員一人の暴走で揺らいでいい規模じゃない」 役員が口を開く前に、昴は言葉を重ねた。「機密草稿のリーク、クレーム誘発、匿名メモでの疑念拡散――すべてこちらは把握しています。しかもあなた方の社内から発信された形に偽装されている。証拠の残し方が巧妙すぎる。個人の犯行で片付けるには、社内管理の穴が大きすぎる」 役員はさらに汗を拭く。拭っても拭っても出る。 昴は敢えて断定した。「弊社への妨害行為です」 空気が凍る。「断定されると…その…困りますが」「困るのは我々です!」 昴は声量を上げた。机に両手をつき、立ち上がるでも怒鳴るでもなく、“相手の退路を奪う低い強さ”で押し込む。「あなた方が困るかどうかではない。プロジェクトが困っている。スポンサー企業が困惑し始めている。現場スタッフの秋山チーフが誹謗中傷の標的になっている。あなたの会
Last Updated: 2026-02-12
Chapter: 第101話  噂の再燃
仕事始めから数日。真琴のデスクには付箋も消え、上書きされたファイルも新しい進行表として蘇りつつあった。だが、茜の仕掛けは終わっていなかった。むしろ“本番直前に効く形”へと姿を変えて、静かに真琴の足元を揺らし始めていた。  朝のオフィス。真琴が出社すると、空気の匂いがいつもと違った。社員たちがコソコソと話しながら真琴の方を横目で見る。視線は刺さらない。だがざわめきは肌に触れる。 コピー機の横、休憩ブース、給湯室――人が集まる場所には必ず一枚、フェスのロゴが印刷されたメモ用紙が無造作に置かれていた。そこには同じ言葉が、筆跡を変えながら繰り返されている。「本当にこのフェス、黒じゃないの?」「天ヶ瀬昴と秋山真琴の件って結局どうなった?」「スポンサー側も不安がってるらしいよ」 すべて匿名。すべて断定を避けている。だが疑念だけは強烈に残る書き方。これが茜のやり口だった。直接言わず、証拠も残さず、真琴が犯人扱いされる余地だけを残して“人の心理”を増幅させる。 真琴はゴミ箱に捨てるでも、怒るでも、聞き返すでもなく、ただ通り過ぎた。心は乱れない――そう決めたはずだった。 だが。 人は噂そのものでは崩れない。“噂を向けられていると自覚した時の孤立感”で崩れる。 真琴は席に座ると、ビルの窓ガラスに映った自分の顔を一度だけ見た。 泣きそうな顔ではない。怒りで歪んだ顔でもない。ただ、強くいようとして表情を固めすぎた顔だった。「……仕事で結果出せば、雑音は消える」 そう呟いてPCを開く。キーボードを叩く。確認リストを作る。スポンサー対応表を開く。誰よりも段取りを把握し、誰よりもフェスの成功だけを考えている自分を、数字と作業で証明するしかない。 昼過ぎ。 フェス協賛企業の一社――黒川アルアセットグループの広報部から、オーロラ社へ正式な問い合わせが入った。「機密管理の体制について確認したい」 担当マネージャーの声は硬い。理由はこうだった。 未公開の進行資料、ステージ構成案、スポンサー調整前の金額一覧が“外部アドレスから送信された形”で企業側に届いていたのだ。しかもメールの最後にはこう添えられていた。「関係者の一部が個人的スキャンダルの渦中にあり、プロジェクト管理に支障が出ています」 名指しはない。だが文脈は真琴を示している。 企業側は困惑し、アークライ
Last Updated: 2026-02-12
静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー

静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー

医師・渡辺楓は、静かな幸福を手に入れたはずだった。 だがその裏には、愛と引き換えに失ったものが確かに存在していた。 裏切り、執着、選択の代償――。 それぞれの登場人物が、自分の人生と向き合いながら歩き出す中で、 「幸せ」とは何かが静かに問いかけられていく。 これは、誰かを愛したすべての大人たちへ贈る、 静かで残酷、それでも前に進むための物語。
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Chapter: 最終話 エピローグ
 真琴は、カフェの窓際の席でノートパソコンを開いていた。  午後の光がガラス越しに差し込み、テーブルの上に淡い影を落としている。  周囲では、同じようにパソコンに向かう人や、静かに会話を楽しむ客たちが、それぞれの時間を過ごしていた。 楓の病院で働き始めて、しばらく経つ。  診療報酬請求事務としての仕事にも慣れ、業務は滞りなく回っていた。  スタッフとの関係も良好で、評価も悪くない。 それでも、真琴の胸の奥には、いつも小さな違和感が残っていた。 理由ははっきりしているようで、はっきりしない。  忙しさのせいでも、環境の変化のせいでもない。  日々は穏やかで、安定しているはずなのに、どこか自分だけが場違いな場所に立っているような感覚が消えなかった。 診察室の前を通るたび、楓と冬真の姿が目に入る。  視線を交わし、短い言葉を交わし、自然に笑い合う二人。  派手な愛情表現はない。  けれど、そこには確かな信頼と温度があった。 ――いいな。 そう思う自分を、真琴は否定しなかった。  羨ましいと思うのは、自然なことだ。 同時に、胸の奥で別の問いが静かに浮かび上がる。 ――じゃあ、自分は? 一緒にいて、心から幸せだと思える相手。  無理をせず、背伸びもせず、ただ隣にいられる誰か。 そんな存在が、自分にも現れるのだろうか。 ふと、年齢のことを考える。  楓も、真琴も、三十歳を迎えた。  数字が変わっただけなのに、世間の見え方が少し違ってくる。 結婚は?  将来は?  一人で大丈夫なの? 誰かに直接聞かれたわけではない。  それでも、空気のように漂う問いが、真琴の周囲を取り囲んでいた。 以前なら、楓に何でも話せた。  不安も、迷いも、弱音も。 でも今は、できない。 幸せそうな楓を前にして、  自分の焦りや違和感を打ち明けることが、どこか躊躇われた。 それは楓への遠慮でもあり、自分自身への言い訳でもあった。 真琴はノートパソコンの画面に視線を落とす。  白い画面が、静かに待っている。「私は、一人で生きていく。楓みたいにはならない。……本当に?」 小さく呟き、カップのコーヒーに手を伸ばす。  苦味が、舌に残った。 答えは、まだ出ない。  けれど、問いを抱えたままで
Last Updated: 2026-02-16
Chapter: 第165話 静かな終章
楓は手術を終え、手術室を出た。  手袋を外し、軽く指を動かす。長時間集中していた身体に、ようやく現実の感覚が戻ってくる。  廊下を歩き、窓際で立ち止まった。 ガラス越しに見える空は、淡い青だった。  雲がゆっくりと流れ、遠くで街が静かに息づいている。  命と向き合う時間を終えた直後に見る景色は、いつも少し違って見えた。 ふと気づくと、冬真が横に立っていた。  声をかけるでもなく、ただ同じ方向を見ている。 楓は何も言わなかった。  冬真も何も言わない。 それでいいと思えた。  言葉にしなくても、同じ時間を共有できること。  それが、今の二人の関係だった。 一方で、真琴は密かに、新しい街へ引っ越す準備をしていた。  誰にも大きくは話していない。  段ボールに少しずつ荷物を詰めながら、生活を整理していく。 逃げるためではない。  何かを始めるためでもない。  ただ、今の場所から一歩離れてみたかった。 自分の違和感が、環境のせいなのか、心の問題なのか。  それを確かめるための、静かな選択だった。 亮は、一人の生活に慣れ始めていた。  孤独に慣れるというよりも、  孤独を受け入れることに、ようやく抵抗しなくなった。 誰かと食卓を囲むことはないが、  一人で過ごす夜にも、過度な寂しさは感じなくなっている。  それが前進なのか、停滞なのか、亮自身にも分からない。  それでも、時間は確実に流れていた。 慎一は、過去を振り返らなくなった。  思い出が消えたわけではない。  ただ、立ち止まって確認する必要がなくなっただけだ。 選んだ道を歩き続けること。  それが、彼なりの責任の取り方だった。 幸福の形は、人それぞれだ。 誰かと寄り添うこと。  一人で立つこと。  迷いながら進むこと。  すべてが、同じ価値を持っている。 桜と後藤は、同じ家で朝を迎えるようになった。  キッチンに並ぶマグカップ。  新聞を広げる音。  何気ない朝の光景が、二人の間に静かに根を下ろしていく。 楓は、その背中を遠くから見て、少し驚いた。  そして、安心した。 人生の先輩たちが、穏やかに並んで歩いている姿は、  これからの自分にとって、ひとつの答えのように思えた。 人生は、失敗しても終わらない。  むしろ、そこから始
Last Updated: 2026-02-16
Chapter: 第164話 後藤教授の孤独 桜の決心
後藤教授は、長い間、感情を研究の棚にしまい込んできた。  必要のないものとして、あるいは、邪魔になるものとして。 研究者としての人生は順調だった。  論文は評価され、学会では名前を知られ、後進からも一目置かれる存在になった。  成功も名声もある。  それでも、それらが彼の心を満たすことはなかった。 夕暮れ時の研究室。  窓の外がゆっくりと橙色に染まっていく時間になると、決まって胸に隙間風が吹いた。  誰かと語り合う声もなく、コーヒーの湯気だけが静かに立ち上る。 そんなとき、思い浮かぶのは渡辺桜だった。 理知的で、厳しく、それでいて優しい女性。  感情に流されることなく、しかし冷たくもない。  議論の中で見せる鋭さと、ふとした瞬間に滲む思いやり。その両方を、後藤は知っていた。 彼女の存在を意識し始めたのが、いつからなのかは分からない。  だが、研究の合間にふと桜の声を思い出し、彼女ならこの問題をどう考えるだろうか、と考えている自分に気づいたとき、後藤は静かに驚いた。 ――私は、孤独だったのだ。 そう認めるまでに、時間がかかった。  だが認めてしまえば、心は不思議なほど軽くなった。 彼は初めて、誰かと人生を分かち合いたいと思った。 一方で、桜は自分の感情に慎重だった。  弁護士として、母として、常に理性を優先してきた人生。  感情に身を委ねることは、どこか危ういものだと知っている。 後藤教授と並んで歩く帰り道。  街灯に照らされた歩道を、肩を並べて歩く時間は、特別だった。 沈黙が、心地よい。 無理に言葉を探さなくてもいい。  仕事の話をしなくてもいい。  ただ、同じ速度で歩いているだけで、満たされていく感覚があった。 信号待ちのとき、後藤はさりげなく桜の歩調に合わせる。  人混みでは、自然と彼女の進む側に立ち、道を譲る。  大げさではない。  だが、確かに「気遣い」がそこにあった。 桜はそのことに気づいていた。  そして、気づいている自分自身に、少し戸惑っていた。「私たち、遅すぎるかしら」 足を止め、そう問う。  冗談めかしているようで、実はずっと胸にあった言葉だった。 後藤は立ち止まり、ゆっくりと桜の方を向いた。  しばらく彼女の目を見つめ、それから首を振る。「ちょうどいい」 その言葉
Last Updated: 2026-02-16
Chapter: 第163話  慎一の選択
慎一は、いつもの日常を送っていた。  朝は決まった時間に起き、簡単な朝食を済ませ、仕事へ向かう。  特別な出来事はないが、滞りもない。  周囲から見れば、何も変わっていないように映るだろう。 過去を断ち切るように、慎一は仕事に没頭していた。  余計なことを考えないためでもあり、自分を保つためでもある。  集中している時間だけが、頭を空にしてくれた。 楓のことは、忘れようとしていた。  意識的に思い出さないようにするのではなく、  「思い出してはいけない」と自分に言い聞かせることを、やめようとしていた。 忘れる、という言葉が正しいのかは分からない。  ただ、過去に縛られ続けるのとは違う。  それだけは、はっきりしていた。 日が暮れ、仕事を終えた慎一は、馴染みのバーに立ち寄る。  特別な理由はない。  ただ、家に直帰するには、少しだけ気持ちがざわついていた。 カウンターに腰を下ろし、グラスを受け取る。  氷が触れ合う音が、やけに大きく響いた。 一口、喉に流し込む。  アルコールの刺激が、張りつめていた感情をわずかに緩める。 そのとき、不意に楓の顔が浮かんだ。 笑ったときの目元。  真剣な表情。  黙って考え込む癖。 忘れようとしているはずなのに、何かの拍子に、こうして思い出してしまう。「もう忘れよう」 誰に聞かせるでもなく、慎一は小さく呟いた。  その言葉に、強さはなかった。  ただ、自分に言い聞かせるための、静かな決意だった。 グラスを傾け、残っていた酒を一気に飲み干す。  喉を通る感覚とともに、感情も一度、胸の奥へ沈める。 後悔がないと言えば、嘘になる。  違う選択肢があったのではないか、と考える夜もある。  だが、戻ることはできない。 慎一は、自分が選んだ道を知っている。あの日、自分が守れなかったものがあったことも。 それらすべてを含めて、自分の人生なのだと、今は思える。 グラスを置き、慎一は席を立った。  外に出ると、夜風が頬を撫でる。 彼もまた、自分の選択の責任を生きている。  それは、誇れる生き方ではないかもしれない。  だが、投げ出してはいない。 慎一はポケットに手を入れ、静かな夜の街を歩き出した。  足取りは、決して軽くはない。  それでも、確かに前へと向いていた。
Last Updated: 2026-02-16
Chapter: 第162話  亮のその後
佐々木亮は、静かな街で暮らしていた。  駅から少し離れた、商店街もない住宅地。夜になると、人の気配はほとんど消える。  以前なら選ばなかった場所だ。  便利さも、華やかさも、ここにはない。 仕事も、生活も、以前よりずっと質素だった。  派手なスーツは処分し、クローゼットには無難な色の服だけが並んでいる。  外食は減り、決まったスーパーで、決まった時間に買い物をする。  料理と呼べるほどのものではないが、最低限の食事は自分で用意するようになった。 それが贖罪なのかどうか、亮自身にも分からなかった。  ただ、贅沢をする気にはなれなかった。 楓の名前を思い出さない日はない。 朝、目が覚めた瞬間。  湯気の立つコーヒーを口にしたとき。  どこかの病院の前を通りかかったとき。 思い出そうとしているわけではない。  それでも、ふとした拍子に、楓の声や表情が浮かぶ。  あのとき、何を考えていたのか。  なぜ、あんな言葉を選んだのか。 考え始めると、答えのない問いがいくつも頭を埋め尽くす。 だが、連絡を取る資格はもうないと、亮は自分で分かっていた。  許されたいわけではない。  理解してほしいわけでもない。  ただ――自分が、取り返しのつかない選択をしたという事実から、目を逸らすことはできなかった。 亜里沙のことも、忘れてはいない。 彼女が刑務所に入ってしまったと聞いたとき、亮は言葉を失った。  自分が関わったことで、彼女の人生が決定的に歪んでしまったのではないか。  そう思わずにはいられなかった。 だが、亮は面会すらできなかった。  連絡を取る術もなく、裁判で遠くから姿を見たのが最後だった。 法廷で見た亜里沙は、以前とは別人のようだった。  化粧を落とした顔は、年齢以上に疲れて見えた。  一瞬、視線が合ったような気がしたが、それが錯覚だったのかどうかも分からない。 声をかけることはできなかった。 帰り道、亮はひどく疲れていた。  身体ではなく、心が。 このまま、亜里沙が社会へ戻ってくるまで待っているのか。  それとも、すべてを忘れて生きていくのか。 答えは出ない。 待つと言うには、彼女に対して誠実すぎる気がした。  忘れると言うには、自分の責任から逃げているように思えた。 どちらを選んでも、正解では
Last Updated: 2026-02-15
Chapter: 第161話 真琴という女
真琴は、強い女だと思われている。  それは自分でも、否定できない評価だった。 広告代理店で働いていた頃から、彼女は「できる人間」として扱われてきた。  企画をまとめ、クライアントの無茶を現実的なラインに引き戻し、最後は必ず形にする。  仕事も恋愛も、感情に溺れない。割り切れる。  周囲はそう思っているし、真琴自身も、そう振る舞ってきた。 だから、楓が冬真と共に病院経営を始めると聞いたときも、迷いはなかった。  広告代理店を辞め、診療報酬請求事務の資格を取り、医療事務として転職する。  無謀だと言われることは覚悟していた。  けれど、真琴にとってそれは「挑戦」ではなく、「合理的な選択」だった。 医療の現場は、広告とはまるで違う世界だ。  だが、数字を読み、流れを整理し、仕組みを回すことは、これまでの仕事と変わらない。  楓の病院は順調に回り、真琴自身の評価も高かった。 ――やっぱり、私は大丈夫。 そう思える理由は、いくらでもあった。 だが、夜になると違う。 一日の業務を終え、シャワーを浴び、照明を落とした部屋でベッドに横になると、昼間の確信は、静かに形を失っていく。  天井を見つめながら、真琴はふと、楓の部屋で飲んだワインの味を思い出していた。 少し渋くて、後味が長く残る赤ワイン。  「大人になったね」と笑い合いながらグラスを重ねた夜。  あのとき、楓の横顔は、以前よりずっと穏やかだった。 幸せそうだった。 その事実が、胸の奥に、説明のつかない感情を残した。「私は、大丈夫」 独り言のように呟く。  この言葉を口にする癖が、いつからついたのかは分からない。  不安なとき。  誰かと比べてしまったとき。  何かを選ばなかった自分を、正当化したいとき。 仕事は順調だ。  周囲から見れば、今もバリバリのキャリアウーマンに見えるだろう。  服装も、話し方も、立ち居振る舞いも、隙がない。 恋愛だけが、ぽっかりと空白だった。 紹介された相手は何人もいる。  悪くない人もいた。  けれど、関係が深まりそうになると、どこかで距離を取ってしまう。 面倒だから。  忙しいから。  今は仕事が楽しいから。 そう理由を並べてきた。  けれど、本当は違う。  誰かと深く関わることに、慎重になっているだけだ。 親
Last Updated: 2026-02-15
ルミエールー光の記憶ー

ルミエールー光の記憶ー

 大手企業・如月グループの社長、如月結衣は、夫で副社長の悠真に裏切られ、秘書・美咲との不倫で名誉と信頼を失う。孤立した彼女を救ったのは、かつて競合だった東条玲央。記者会見で「守りたい人がいるのは悪いことですか」と公言した彼の一言が、結衣の運命を変える。 一方、陰で動く美咲と櫻井の陰謀を暴くのはホテル王・芹沢晃。やがて三者が手を取り、新たなリゾート計画《LUMIÈRE RESORT》が始動する。 裏切りと赦し、愛と再生――闇の中で“光”を選ぶ、女の復活の物語。
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Chapter: 第91話
その頃、東京の外れ――。  古びたアパートの一室。  カーテンの隙間から差し込む春の光が、埃をきらめかせていた。 かつて華やかなファッションで自分を飾り、男たちに追われた女。  芹沢美咲は、今、その部屋で静かに暮らしていた。 鏡の前で髪をとかす手が、少しだけ震えている。  指先に残るのは、かつての感覚――拍手、フラッシュ、そして愛されていた記憶。  けれど、鏡に映るのは、疲れた一人の女の顔。  SNSの画面には、もう更新されないアカウント。  フォロワーは減り、コメント欄は静まり返っていた。  ――もう誰も、自分の名前を呼ばない。 孤独だけが、部屋の中に残っていた。 そんな時、チャイムが鳴った。小さな電子音が、静寂を破る。  美咲は驚いたように顔を上げ、ゆっくりと玄関へ向かった。 ドアを開けると、そこに立っていたのは――悠真だった。 「……悠真……あなたが、来るなんて。」  美咲の声は震えていた。  悠真は何も言わず、手に持っていたコンビニの袋を差し出した。  中には、温かいコーヒーと、小さなチョコレートケーキ。 「甘いもの、好きだったろ。」  懐かしい声。  その優しさが、胸を締めつける。 美咲は俯いたまま、微かに笑った。  「ずるいわね。そういう優しさが、いちばん人を壊すのよ。」  「……壊したのは、俺だ。」  悠真の声は、低く、かすかに震えていた。 「俺は、結衣も、お前も、どちらも傷つけた。でも今は、どちらにも“嘘をつきたくない”。」 その言葉に、美咲は静かに目を伏せた。  沈黙が二人を包む。  やがて、美咲は小さく息を吐いた。 「私ね、もう夢を追うのはやめたの。誰かの愛にすがるより、自分を取り戻したい。」  「それでいい。」  悠真は穏やかに笑った。  「お前が前を向くなら、それで十分だ。」 二人は窓際に腰を下ろした。  コーヒーの湯気が、静かに立ちのぼる。  外では桜が舞っていた。  花びらが風に乗り、窓の隙間から一枚、部屋に舞い込む。 しばらくして、美咲が小さく呟いた。  「ねえ悠真。いつか、私たち……笑って話せる日が来るかな。」  悠真は少しの間、空を見上げてから答えた。  「きっと来るさ。」 「そう……なら、少しだ
Last Updated: 2025-12-07
Chapter: 第90話 ― 光の彼方 ―
季節が変わっていた。  風の匂いも、空の色も、まるで違う国のもののようだった。 海の向こう、南仏・コート・ダジュール。  白い砂浜の向こうには、群青の地中海が果てしなく広がっている。  太陽の光が波の粒を跳ね返し、テラスの白いテーブルクロスを淡く照らしていた。  潮風が結衣の髪を揺らし、遠くに浮かぶヨットの帆がゆったりと風を受けて進んでいく。  喧噪も、疑念も、報道もない。  ここにはただ、波と風の音しか存在しなかった。 東条玲央と結衣は、リゾートホテルのテラスで向かい合って座っていた。  グラスの中では氷が小さく鳴り、白いワインの香りがほんのりと漂う。  政財界の渦を抜け、数々の裏切りと報復をくぐり抜け、ようやく辿り着いた“静寂”。  長い戦いのあとに残ったのは、名誉でも財産でもなく、ただ一人――互いの存在だった。 結衣は潮風に髪をなびかせながら、海の方を見つめていた。  「ここ、好きだわ。」  穏やかな声だった。  「波の音が、心を空っぽにしてくれる。」  その言葉に、玲央は小さく笑った。  「経営者に“空っぽ”なんて言葉、似合わないな。」  そう言って、彼はジャケットのポケットに手を入れた。 「……玲央?」  結衣が首をかしげる。  玲央はゆっくりと立ち上がり、彼女の前に膝をついた。  潮の香りとともに、風がふたりの間を抜けていく。 ポケットから取り出したのは、小さなベルベットの箱。  それを開くと、プラチナの指輪が柔らかな光を放った。  まるでこの海の光を閉じ込めたかのように、静かに、確かに輝いている。 玲央の声は、風よりも静かで、しかし揺るぎなかった。  「結衣。あの日、君を守ると決めた。けれど本当は――君に、守られていたんだ。」 波音が、ふたりの言葉をそっと包む。  遠くでカモメが鳴き、風が一瞬、止まった。 「過去も痛みも全部、君となら受け入れられる。だから、もう一度、俺に未来をくれないか。」  玲央の目は、まっすぐに結衣を見ていた。  その瞳の奥には、長い年月をかけて辿り着いた“安らぎ”と“覚悟”があった。 結衣の瞳に、静かに涙が溢れた。  「……私なんか、もうすでに壊れてるのよ。」  絞り出すように言ったその声は、かすかに震えていた。 玲央は微笑んで、そっと彼女の手を取った。
Last Updated: 2025-12-07
Chapter: 第89話
――そして数週間後。 都内の超高級ホテル「オーロラ・グランド」。  天井まで届くクリスタルシャンデリアが光を放ち、  壁一面の大型スクリーンには、《三社合同プロジェクト発表会》のロゴが浮かび上がっていた。 【芹沢グループ × 東条コンツェルン × 如月グループ】  ――新ブランド《LUMIÈRE RESORT(ルミエール・リゾート)》始動。 その言葉が照明とともにスクリーンに映し出されると、  会場に集まった報道陣と業界関係者たちからどよめきが起こった。  各グループの首脳陣が一堂に会するのは、創業以来初めてのことだった。 壇上中央には、ホストを務める芹沢晃の姿。  漆黒のタキシードに身を包み、マイクを手に静かに微笑む。 「本日はお忙しい中、お越しいただきありがとうございます。   我々三社は、それぞれ異なる分野で長年信頼を築いてまいりました。   ――そして今日、ひとつの“夢”を共有します。」 背後のスクリーンに映し出されたのは、青く輝く海と、  白砂の上に建つ壮麗な建物――南仏とアジアの融合をテーマにした新たなリゾートの完成予想図だった。 「テーマは、“光と再生”。それは、どんな夜のあとにも、必ず朝が訪れるという希望の象徴です。」 晃の言葉に合わせて、照明がゆっくりと明るくなり、  舞台袖からは二つのシルエットが現れた。 ――東条玲央、そして如月結衣。 玲央はダークネイビーのスーツに、結衣は純白のドレスを纏っていた。  ふたりが並んで歩くと、まるで光と影が一つになるように見えた。  カメラのフラッシュが一斉に弾け、会場がざわめく。 「お二人は今回の共同プロジェクトの中核を担う、“パートナー・ディレクター”です。」  晃が紹介すると、玲央が軽くマイクを取り、低く落ち着いた声で話し始めた。 「リゾートは、ただの“贅沢”ではなく、人が自分自身を取り戻す場所。   仕事に追われる者も、過去に囚われる者も――   ここではもう一度、“生きる意味”を見つけられるようにしたい。」 会場の空気が一変した。  次に、結衣がマイクを受け取る。 「このプロジェクトは、単なる経済連携ではありません。   人と人が再び信頼で結ばれるための、新しいかたちを作る挑戦です。   たとえ痛みを知っていても、もう一度“誰かを信じる勇
Last Updated: 2025-12-06
Chapter: 第88話
春の陽射しが穏やかに差し込む午後、  都内のチャペルに、柔らかな鐘の音が響いた。 白いバージンロードを、純白のドレスに身を包んだ綾香がゆっくりと歩く。  その先で待つのは――かつて如月グループ経理部にいた、俊介。俊介は、綾香との婚約を機に、父親の会社を譲り受け、正式に宮原商事の社長へと就任した。  そして幾多の嵐を乗り越えた二人が、ようやく掴んだ静かな幸福の瞬間だった。 結衣は最前列の席で微笑んでいた。  玲央はその隣に座り、胸元のポケットに白いバラを挿している。  チャペルの天窓から射す光が、まるで祝福のように二人を包んでいた。 「俊、思いっきり泣いてるじゃない。」  結衣がそっと笑うと、玲央が肩をすくめた。  「彼は本当に真面目だ。愛する人を守ることに全力だから。」  「……あなたも、そうよね。」  その言葉に玲央は、目だけで彼女を見た。  ただそれだけで、結衣の心臓は静かに跳ねた。 式の終わり、俊介が花束を掲げて言う。  「――どんな闇も、誰かを想う光には敵わない。僕は、そう信じて生きます。」  その言葉に、参列者の拍手が湧き起こった。 その数日後。  銀座の高層ホテルで開かれた“ビジネス交流会”という名のお見合いパーティー。  主催は、松菱商事の女帝――村瀬恵子。 「晃、また一人で来たの?」  グラスを手にした恵子が、妖艶な笑みを浮かべる。  芹沢晃は白いスーツのまま、静かに微笑んだ。  「ええ。仕事以外で呼ばれるのは、どうにも慣れなくて。」 「相変わらず硬いのね。でも今日はビジネスじゃないわ。   “人生の再建プロジェクト”よ。」  恵子が軽口を叩くと、晃は苦笑した。  「社交辞令も板についてきたようだ。……けど、あなたは変わらない。」  「誉め言葉として受け取っておくわ。」 場内ではシャンパンの泡が弾け、若手経営者たちの笑い声が響いている。  晃は窓際に立ち、夜景を見下ろした。  ――誰かと肩を並べて笑う。そんなことを、もう長いことしていない。 恵子がそっと近づき、彼の横顔を覗いた。  「ねえ晃。あなた、まだ“過去の女”を想ってるの?」  「……どうだろうな。」  晃はグラスを回しながら、静かに答えた。  「守ると決めた人が、ちゃんと幸せを掴んだなら――俺の役目は、終わりだ。」
Last Updated: 2025-12-06
Chapter: 第87話 ― 約束の海 ―
翌日。  薄曇りの空の下、結衣は静かに役所の窓口に立っていた。  白い紙に記された二人の名前。その間に引かれた一本の線が、すべての終わりを告げていた。  ペンを置いた瞬間、胸の奥で小さく何かが崩れた気がした。  ――終わったのだ。 学生の頃から、悠真だけを愛していた。  誰よりも信じ、誰よりもそばにいた。  笑い合った日々も、手を取り合って夢を語った夜も、確かに存在した。  それが、こんな形で幕を下ろすなんて――誰が想像しただろう。 書類を提出し、印鑑を押す音が響く。  受付の職員が淡々と手続きを進める間、結衣はふと窓の外に目をやった。  灰色の雲の切れ間から、一筋の光が差している。  まるで「よく頑張ったね」と誰かが囁くようだった。 「これで……本当に終わりね。」  小さく息を吐き、微笑む。  泣くこともできなかった。ただ、静かにすべてを受け入れるしかなかった。 役所を出て歩道に出た瞬間、スマホが震えた。  画面に表示された名前――東条玲央。  胸の奥がわずかに温かくなる。その夜、港の桟橋。  海風が頬を撫で、遠くで船の汽笛が鳴った。  月が水面に滲み、波が静かに光を揺らしている。 その桟橋の先で、玲央はひとり、手すりにもたれて夜風に吹かれていた。  黒いコートの裾が風に揺れ、彼の端正な顔を月明かりが照らしている。 「玲央さん」  背後から静かな声。  振り返ると、そこに結衣が立っていた。  コートの裾を押さえながら、彼女は柔らかく微笑んでいる。「終わったんですか?」 玲央は端正な顔を少し和らげ、彼女を見つめた。  「ええ。今日、提出してきました。」  結衣はそう言って、海の向こうを見つめた。  「ありがとう。あなたがいてくれたから、勇気が持てました。」 玲央はわずかに目を細め、笑った。  「それなら、僕の存在価値もあったということですね。」 その穏やかな言葉に、結衣の瞳が少し揺れた。  彼の前に歩み寄り、胸にそっと手を置く。  「……ねえ、玲央さん。落ち着いたら、どこか遠くへ行きたいの。」 玲央は問い返すように、穏やかな声で尋ねた。  「どこへ?」 「海が見えるところ。誰も私を知らない場所で、また笑えるように。」  その言葉には、哀しみよりも希望があった。  過去を置き去りにし
Last Updated: 2025-12-06
Chapter: 第86話
夜更け。  静まり返った高層マンションの一室には、外の街灯の光だけが淡く差し込み、壁に長い影を落としていた。かつては二人の帰宅時間に合わせて照明が温かく灯り、キッチンからは味噌汁の匂いが漂っていたはずの空間。今はそのどれもが失われ、まるでここが“誰の家でもない場所”になってしまったかのようだった。 リビングのテーブル。その中央に置かれた一枚の紙が、静寂の中で圧倒的な存在感を放っている。  ――離婚届。  白い紙の上に、結衣の整った署名がすでに記されている。対照的に、隣の欄だけがぽっかりと空白のまま残され、その空白がこの部屋の空虚さをさらに強調していた。 長い沈黙が続いたあと、悠真はゆっくりと顔を上げた。  視線の先には、真正面から彼を見つめる結衣の姿があった。  その目は決意に満ち、しかしどこか遠く、もう夫である自分を映していないようにも見えた。 「……本気、なのか。」 絞り出すような声だった。胸の奥にひっかかった未練をどうにか形にしたものの、言葉の弱さがそのまま彼の迷いと後悔を表していた。 「ええ。」 結衣の返事は短い。だがその短さの裏に、どれほど長い時間悩み続け、葛藤し、張り裂けそうな夜をいくつ越えてきたのかが滲んでいた。 「あなたを責めるつもりはないの。でも、これ以上、私の隣に“形だけの夫”を置くことはできない。」 その言葉は鋭く、しかし優しさを含んでいた。責めていないと言いながら、事実として突きつけられる“形だけの夫”という表現が残酷なくらい現実的だった。 悠真は俯き、唇を強く噛む。  喉がひどく乾いているのに、言葉だけがうまく出てこない。 「慰謝料は……」 「いらないわ。」 結衣はすぐに首を振った。ためらいのない仕草だった。 「代わりに、このマンションをあなたに残す。家具もそのまま。あなたの新しい人生の場所にすればいい。」 彼女にとっては、ここは思い出が深すぎるのだろう。幸せも、痛みも、全部詰まっている。それを置いていくという選択の重さを、悠真はその瞬間に理解した。 「……会社は?」 彼の問いに、結衣はほんの一瞬だけ表情を曇らせる。しかしすぐに元の静かな顔に戻った。 「明日、辞表を出して。正式に受理したら、あなたの退職金もすぐに振り込むわ。ただし――二度と如月の名を使わないで。」 その言葉が落ちた瞬間、悠真
Last Updated: 2025-12-05
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