LOGIN大手企業・如月グループの社長、如月結衣は、夫で副社長の悠真に裏切られ、秘書・美咲との不倫で名誉と信頼を失う。孤立した彼女を救ったのは、かつて競合だった東条玲央。記者会見で「守りたい人がいるのは悪いことですか」と公言した彼の一言が、結衣の運命を変える。 一方、陰で動く美咲と櫻井の陰謀を暴くのはホテル王・芹沢晃。やがて三者が手を取り、新たなリゾート計画《LUMIÈRE RESORT》が始動する。 裏切りと赦し、愛と再生――闇の中で“光”を選ぶ、女の復活の物語。
View More秋の夕暮れ。
東京湾岸にそびえる如月グループ本社ビル。 その最上階――社長室のガラス越しに、沈みゆく陽光が斜めに差し込んでいた。 オレンジに染まる街並みが遠くまで続き、群青に沈み始めた空との境界線が、まるで世界の呼吸を止めたかのように静寂を支配している。その静けさの中、デスクに座る一人の女性がいた。
如月結衣――如月グループ代表取締役社長。 三十歳を過ぎたばかりの若きトップ。 切りそろえられた黒髪が肩にかかり、凛とした横顔には一分の隙もない。 光沢を抑えたシルバーグレーのネイルが、資料をめくるたびに淡い反射を放ち、その手元に知性と冷徹を宿していた。対して、革張りのソファには結衣の夫であり、副社長の如月悠真が座っていた。 紺のスーツに身を包み、足を組みながらスマートフォンをいじるその姿には、どこか所在なさと退屈が滲んでいる。
時折、画面から顔を上げ、結衣の横顔を盗み見る。 しかし彼女は一切視線を返さず、ただ淡々と資料に目を通すだけだった。この部屋の空気には、言葉にできない「温度の差」があった。
夫婦でありながら、交わることのない二つの時間。 愛が冷えたというよりも―― もはや互いの心が、別々の惑星に漂っているような距離感。結衣がふと、ペンを置いた。
静寂を破るように、彼女の声が落ちる。「……ねえ、悠真。」
柔らかい呼びかけだったが、そこには見えない刃が潜んでいる。
悠真は一瞬、身構えたように顔を上げた。「ん?」
結衣は、ゆっくりと彼を見た。
切れ長の瞳が、わずかに細められる。「来週の出張の件。ちゃんと確認してあるのよね?」
その声に、悠真の喉が小さく鳴った。
出張――その言葉を聞いた瞬間、心臓の奥がわずかに跳ねる。 彼の頭に浮かんだのは、会社の業務出張ではなく、 “もうひとつの旅”――美咲との約束だった。「も、もちろんだよ。ホテルも、交通も、全部手配済みだ。」
言葉を繕うように笑いながら答える。
だがその笑顔の奥では、別の鼓動が脈打っていた。結衣は短くうなずき、再び資料に視線を落とす。
その動作は、まるで「追及する価値もない」と言っているように見えた。 悠真はホッと息をついた――が、同時に、妙な胸の痛みが生まれた。 彼女が疑っていないことが、逆に怖かったのだ。結衣は、彼を信じているのか。
それとも、信じる価値さえ失ったのか。――どちらにせよ、今の彼にはもう関係のないことだった。
悠真のポケットには、会社の出張用とは別の航空券が入っている。
目的地:那覇。 同行者:佐伯美咲。 社内でも一際明るく、男たちの視線を集める事務員。 22歳。 柔らかな髪と大きな瞳。無邪気な笑顔で甘えてくるが、 その裏には確かな計算がある――そんな女だ。最初はほんの軽い気の迷いだった。
残業の夜、資料室でふたりきりになったとき、 彼女が小声で言った。 「副社長って、意外と優しいんですね。」その言葉に、胸がくすぐられた。
家庭でも職場でも「結衣の夫」としか見られない日々。 プライドは満たされず、存在価値を見失っていた。 美咲は、その隙間に入り込むように笑ってみせた。――「二人で、どこか遠くに行きたいな。」
その囁きが現実になったのは、一週間前だった。
社の出張を装い、こっそり手配した南の島へのフライト。 「仕事の疲れを癒す小旅行」――そう言い訳しながら、 悠真は自分の行為を正当化していた。社長室の時計が19時を回る。
結衣がようやく資料を閉じた。「……今日は、もう帰りましょう。」
短い一言で、彼女は立ち上がった。
カツ、カツ、とヒールの音が床を打つ。 悠真も立ち上がり、形式的に言う。「そうだね。疲れただろ?」
結衣は笑わなかった。
ただ静かにバッグを持ち、ドアへ向かう。 その背中には、何かを決意した人間の強さがあった。――彼女の背中を見て、悠真は一瞬だけ罪悪感を覚えた。
だが、その思いもすぐにスマホの通知音にかき消される。
「佐伯美咲」からのメッセージ。《あと一週間ですね。楽しみです♡》
帰りのエレベーターで、結衣が無言のまま横に立っている。
その沈黙がやけに重く、息苦しい。 悠真は気まずさをごまかすようにスマホをポケットに戻した。 だが頭の中では、すでに南国の海辺が広がっていた。――一週間後、美咲と過ごす青い時間。
結衣のいない世界。 誰にも縛られない、自由な男としての自分。それを思うだけで、口元が緩む。
その頃、東京の外れ――。 古びたアパートの一室。 カーテンの隙間から差し込む春の光が、埃をきらめかせていた。 かつて華やかなファッションで自分を飾り、男たちに追われた女。 芹沢美咲は、今、その部屋で静かに暮らしていた。 鏡の前で髪をとかす手が、少しだけ震えている。 指先に残るのは、かつての感覚――拍手、フラッシュ、そして愛されていた記憶。 けれど、鏡に映るのは、疲れた一人の女の顔。 SNSの画面には、もう更新されないアカウント。 フォロワーは減り、コメント欄は静まり返っていた。 ――もう誰も、自分の名前を呼ばない。 孤独だけが、部屋の中に残っていた。 そんな時、チャイムが鳴った。小さな電子音が、静寂を破る。 美咲は驚いたように顔を上げ、ゆっくりと玄関へ向かった。 ドアを開けると、そこに立っていたのは――悠真だった。 「……悠真……あなたが、来るなんて。」 美咲の声は震えていた。 悠真は何も言わず、手に持っていたコンビニの袋を差し出した。 中には、温かいコーヒーと、小さなチョコレートケーキ。 「甘いもの、好きだったろ。」 懐かしい声。 その優しさが、胸を締めつける。 美咲は俯いたまま、微かに笑った。 「ずるいわね。そういう優しさが、いちばん人を壊すのよ。」 「……壊したのは、俺だ。」 悠真の声は、低く、かすかに震えていた。 「俺は、結衣も、お前も、どちらも傷つけた。でも今は、どちらにも“嘘をつきたくない”。」 その言葉に、美咲は静かに目を伏せた。 沈黙が二人を包む。 やがて、美咲は小さく息を吐いた。 「私ね、もう夢を追うのはやめたの。誰かの愛にすがるより、自分を取り戻したい。」 「それでいい。」 悠真は穏やかに笑った。 「お前が前を向くなら、それで十分だ。」 二人は窓際に腰を下ろした。 コーヒーの湯気が、静かに立ちのぼる。 外では桜が舞っていた。 花びらが風に乗り、窓の隙間から一枚、部屋に舞い込む。 しばらくして、美咲が小さく呟いた。 「ねえ悠真。いつか、私たち……笑って話せる日が来るかな。」 悠真は少しの間、空を見上げてから答えた。 「きっと来るさ。」 「そう……なら、少しだ
季節が変わっていた。 風の匂いも、空の色も、まるで違う国のもののようだった。 海の向こう、南仏・コート・ダジュール。 白い砂浜の向こうには、群青の地中海が果てしなく広がっている。 太陽の光が波の粒を跳ね返し、テラスの白いテーブルクロスを淡く照らしていた。 潮風が結衣の髪を揺らし、遠くに浮かぶヨットの帆がゆったりと風を受けて進んでいく。 喧噪も、疑念も、報道もない。 ここにはただ、波と風の音しか存在しなかった。 東条玲央と結衣は、リゾートホテルのテラスで向かい合って座っていた。 グラスの中では氷が小さく鳴り、白いワインの香りがほんのりと漂う。 政財界の渦を抜け、数々の裏切りと報復をくぐり抜け、ようやく辿り着いた“静寂”。 長い戦いのあとに残ったのは、名誉でも財産でもなく、ただ一人――互いの存在だった。 結衣は潮風に髪をなびかせながら、海の方を見つめていた。 「ここ、好きだわ。」 穏やかな声だった。 「波の音が、心を空っぽにしてくれる。」 その言葉に、玲央は小さく笑った。 「経営者に“空っぽ”なんて言葉、似合わないな。」 そう言って、彼はジャケットのポケットに手を入れた。 「……玲央?」 結衣が首をかしげる。 玲央はゆっくりと立ち上がり、彼女の前に膝をついた。 潮の香りとともに、風がふたりの間を抜けていく。 ポケットから取り出したのは、小さなベルベットの箱。 それを開くと、プラチナの指輪が柔らかな光を放った。 まるでこの海の光を閉じ込めたかのように、静かに、確かに輝いている。 玲央の声は、風よりも静かで、しかし揺るぎなかった。 「結衣。あの日、君を守ると決めた。けれど本当は――君に、守られていたんだ。」 波音が、ふたりの言葉をそっと包む。 遠くでカモメが鳴き、風が一瞬、止まった。 「過去も痛みも全部、君となら受け入れられる。だから、もう一度、俺に未来をくれないか。」 玲央の目は、まっすぐに結衣を見ていた。 その瞳の奥には、長い年月をかけて辿り着いた“安らぎ”と“覚悟”があった。 結衣の瞳に、静かに涙が溢れた。 「……私なんか、もうすでに壊れてるのよ。」 絞り出すように言ったその声は、かすかに震えていた。 玲央は微笑んで、そっと彼女の手を取った。
――そして数週間後。 都内の超高級ホテル「オーロラ・グランド」。 天井まで届くクリスタルシャンデリアが光を放ち、 壁一面の大型スクリーンには、《三社合同プロジェクト発表会》のロゴが浮かび上がっていた。 【芹沢グループ × 東条コンツェルン × 如月グループ】 ――新ブランド《LUMIÈRE RESORT(ルミエール・リゾート)》始動。 その言葉が照明とともにスクリーンに映し出されると、 会場に集まった報道陣と業界関係者たちからどよめきが起こった。 各グループの首脳陣が一堂に会するのは、創業以来初めてのことだった。 壇上中央には、ホストを務める芹沢晃の姿。 漆黒のタキシードに身を包み、マイクを手に静かに微笑む。 「本日はお忙しい中、お越しいただきありがとうございます。 我々三社は、それぞれ異なる分野で長年信頼を築いてまいりました。 ――そして今日、ひとつの“夢”を共有します。」 背後のスクリーンに映し出されたのは、青く輝く海と、 白砂の上に建つ壮麗な建物――南仏とアジアの融合をテーマにした新たなリゾートの完成予想図だった。 「テーマは、“光と再生”。それは、どんな夜のあとにも、必ず朝が訪れるという希望の象徴です。」 晃の言葉に合わせて、照明がゆっくりと明るくなり、 舞台袖からは二つのシルエットが現れた。 ――東条玲央、そして如月結衣。 玲央はダークネイビーのスーツに、結衣は純白のドレスを纏っていた。 ふたりが並んで歩くと、まるで光と影が一つになるように見えた。 カメラのフラッシュが一斉に弾け、会場がざわめく。 「お二人は今回の共同プロジェクトの中核を担う、“パートナー・ディレクター”です。」 晃が紹介すると、玲央が軽くマイクを取り、低く落ち着いた声で話し始めた。 「リゾートは、ただの“贅沢”ではなく、人が自分自身を取り戻す場所。 仕事に追われる者も、過去に囚われる者も―― ここではもう一度、“生きる意味”を見つけられるようにしたい。」 会場の空気が一変した。 次に、結衣がマイクを受け取る。 「このプロジェクトは、単なる経済連携ではありません。 人と人が再び信頼で結ばれるための、新しいかたちを作る挑戦です。 たとえ痛みを知っていても、もう一度“誰かを信じる勇
春の陽射しが穏やかに差し込む午後、 都内のチャペルに、柔らかな鐘の音が響いた。 白いバージンロードを、純白のドレスに身を包んだ綾香がゆっくりと歩く。 その先で待つのは――かつて如月グループ経理部にいた、俊介。俊介は、綾香との婚約を機に、父親の会社を譲り受け、正式に宮原商事の社長へと就任した。 そして幾多の嵐を乗り越えた二人が、ようやく掴んだ静かな幸福の瞬間だった。 結衣は最前列の席で微笑んでいた。 玲央はその隣に座り、胸元のポケットに白いバラを挿している。 チャペルの天窓から射す光が、まるで祝福のように二人を包んでいた。 「俊、思いっきり泣いてるじゃない。」 結衣がそっと笑うと、玲央が肩をすくめた。 「彼は本当に真面目だ。愛する人を守ることに全力だから。」 「……あなたも、そうよね。」 その言葉に玲央は、目だけで彼女を見た。 ただそれだけで、結衣の心臓は静かに跳ねた。 式の終わり、俊介が花束を掲げて言う。 「――どんな闇も、誰かを想う光には敵わない。僕は、そう信じて生きます。」 その言葉に、参列者の拍手が湧き起こった。 その数日後。 銀座の高層ホテルで開かれた“ビジネス交流会”という名のお見合いパーティー。 主催は、松菱商事の女帝――村瀬恵子。 「晃、また一人で来たの?」 グラスを手にした恵子が、妖艶な笑みを浮かべる。 芹沢晃は白いスーツのまま、静かに微笑んだ。 「ええ。仕事以外で呼ばれるのは、どうにも慣れなくて。」 「相変わらず硬いのね。でも今日はビジネスじゃないわ。 “人生の再建プロジェクト”よ。」 恵子が軽口を叩くと、晃は苦笑した。 「社交辞令も板についてきたようだ。……けど、あなたは変わらない。」 「誉め言葉として受け取っておくわ。」 場内ではシャンパンの泡が弾け、若手経営者たちの笑い声が響いている。 晃は窓際に立ち、夜景を見下ろした。 ――誰かと肩を並べて笑う。そんなことを、もう長いことしていない。 恵子がそっと近づき、彼の横顔を覗いた。 「ねえ晃。あなた、まだ“過去の女”を想ってるの?」 「……どうだろうな。」 晃はグラスを回しながら、静かに答えた。 「守ると決めた人が、ちゃんと幸せを掴んだなら――俺の役目は、終わりだ。」