ルミエールー光の記憶ー

ルミエールー光の記憶ー

last updateLast Updated : 2025-11-10
By:  marimoUpdated just now
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 大手企業・如月グループの社長、如月結衣は、夫で副社長の悠真に裏切られ、秘書・美咲との不倫で名誉と信頼を失う。孤立した彼女を救ったのは、かつて競合だった東条玲央。記者会見で「守りたい人がいるのは悪いことですか」と公言した彼の一言が、結衣の運命を変える。 一方、陰で動く美咲と櫻井の陰謀を暴くのはホテル王・芹沢晃。やがて三者が手を取り、新たなリゾート計画《LUMIÈRE RESORT》が始動する。 裏切りと赦し、愛と再生――闇の中で“光”を選ぶ、女の復活の物語。

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Chapter 1

第1話 『ルミエール ― 光の記憶 ―』 静寂の黄昏

周防院徹(すおう いんてつ)の行方不明だった初恋の相手が見つかった。

警察からの電話を受けた院徹は血相を変え、上着も手に取らずにオフィスを飛び出した。

新しい提携について商談中だった取引先は呆気に取られ、思わず安濃静月(あんのう しずき)に視線を向けた。

「大丈夫です。続けましょう」静月は院徹を追っていた視線を戻し、上品な笑みを浮かべ、院徹が言いかけた言葉を淀みなく引き継いだ。

「新しいプロジェクトへの投資の件について……」

一時間後、静月は自ら取引先を見送った。

オフィスに戻り、スマホを手に取って確認するが、院徹からのメッセージは一件もなかった。

静月が院徹に電話をかけると、数回の呼び出し音の後、繋がった電話から聞こえてきたのは若い女性の声だった。

「もしもし?」

「院徹、いる?」静月は一瞬の間を置いて尋ねた。

「キッチンで料理をしてる」向こうの少女は少し戸惑っているようだった。

スマホを握る静月の手に無意識に力がこもる。胸に一つの推測が浮かんだ次の瞬間、院徹の冷たい声が聞こえてきた。

「何の用だ?」

静月は目の奥が熱くなるのを感じ、必死に感情を抑えながら尋ねた。「説明してくれるべきじゃない?」

結婚して三年、院徹が彼女のために料理を作ったことは一度もなかった。

料理をできることはずっと前から知っていた。藤咲雅乃(ふじさき みやの)と一緒にいた頃、雅乃のためにわざわざ覚えたのだ。

静月が何について聞いているのか分かっているはずなのに、院徹は冷たく言い放った。「取引先の件なら、俺から直接説明する」

静月は何度か口を開きかけたが、言葉は一つも出てこなかった。空が暗くなるにつれて、窓の前に立つと、ガラスに映る自分の目元が赤くなっているのが見えた。

午後の取引先たちの、彼女に向ける憐れみや、面白い見世物を見るような視線を思い出した。

それでも静月は何かよほど大事な用事があるのかもしれないと庇ったのに、その「大事な用事」が雅乃に会いに行くことだったとは。

長い沈黙が流れた後、電話の向こうで雅乃が小さな声で尋ねた。「院徹、誰なの?」

「社員だ」

その答えを聞いて、静月の涙腺はついに決壊した。

電話の向こうで二人が小声で囁き合っているのが聞こえる。受話器は手で覆われているのか、声がくぐもってよく聞き取れない。

静月が電話を切ろうとしたその時、院徹が再び口を開いた。その声は少しだけ和らいでいた。

「静月、雅乃は記憶喪失なんだ。医者には刺激を与えるなと言われてるんだ」

院徹はそこで言葉を止め、雅乃が彼との別れを認識しておらず、まだ恋人同士だと思い込んでいる事実をどう静月に切り出すべきかためらった。

振り返ると、雅乃はソファに座り、抱き枕をきつく抱きしめ、指先がめり込んでいる。その黒目がちな瞳はかつてのように輝く笑みを浮かべてはおらず、代わりに怯えの色を宿していた。

院徹の胸がちくりと痛む。再び向き直り、冷静に静月に告げた。

「彼女は失踪していた三年間、何があったか覚えていない。そのことを少しでも思い出そうとすると、激しい頭痛に襲われるんだ。今の彼女は俺に依存している。だから、俺が結婚したことはまだ伝えていない」

院徹は一気に言い終えると、胸のつかえがやっと下りた気がした。

三年前、もし雅乃が失踪していなければ、静月が妻になることはなかっただろう。

すでに静月に周防家の嫁という立場は与えた。今、雅乃が見つかった以上、記憶が戻るまで面倒を見る義務があった。

静月は騒ぎもせず静かに話を聞いていた。だが、心の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。

「いつ彼女に話すつもり?」静月は穏やかな声で問い詰めた。

「ということは、私は自分の家にさえ帰れないってこと?」

院徹は静月が騒ぎ立てることを覚悟していた。幼い頃から一緒に育った彼には静月の性格はよく知っている。

小さい頃のおままごとで、他の女の子と遊ぼうものなら、静月は院徹の髪を引っ張って裏切り者と罵った。

幼稚園から高校まで、十数年を共に過ごした。あの頃、院徹は自分の未来の妻は静月に違いないと思っていた。

しかし、大学入試を終えた後、二人は喧嘩別れした。

大学で、院徹は雅乃と出会った。初対面で告白してきた雅乃はか弱そうに見えるのに、追い払っても追い払ってもめげなかった。バスケの試合のたびに、必ず応援に駆けつけ、水を差し入れた。

ある時、院徹はわざと雅乃をからかい、他の人からの水を受け取った。すると、輝くような瞳はみるみるうちに赤くなり、ひどくいじめられたかのように見えた。

それでも、雅乃は頑なに院徹の手からその水を奪い取り、自分が買ってきた水を押し付けた。

季節が巡り、雅乃が追いかけて一年が経った。雪が降りしきる寒い冬の日、院徹が空腹を口にすると、雅乃は懐からまだ温かい焼き芋を取り出して差し出し、微笑んだ。

「よかった、まだ温かい」

その瞬間、院徹の心は抗いようもなく掴まれてしまった。雅乃を抱きしめ、「付き合おう」と言った。

院徹がSNSで交際を公表した時、静月からの「いいね」はなかった。

その日、静月は半年がかりの実験に失敗していた。SNSの投稿を見なかったわけではない。

むしろ、何十回も見返し、最後には無理やりSNSからログアウトし、お酒を二本空けてようやく眠りについた。

共通の友人たちは皆、二人のことを残念がった。

常に誇り高かった静月が唯一つまずいたのが院徹だった。しかも、二度も。

しかし、雅乃の再登場は、静月に気づかせた。一部のこだわりは決して実を結ぶことはないのだと。
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第1話 『ルミエール ― 光の記憶 ―』 静寂の黄昏
秋の夕暮れ。  東京湾岸にそびえる如月グループ本社ビル。  その最上階――社長室のガラス越しに、沈みゆく陽光が斜めに差し込んでいた。  オレンジに染まる街並みが遠くまで続き、群青に沈み始めた空との境界線が、まるで世界の呼吸を止めたかのように静寂を支配している。 その静けさの中、デスクに座る一人の女性がいた。  如月結衣――如月グループ代表取締役社長。  三十歳を過ぎたばかりの若きトップ。  切りそろえられた黒髪が肩にかかり、凛とした横顔には一分の隙もない。  光沢を抑えたシルバーグレーのネイルが、資料をめくるたびに淡い反射を放ち、その手元に知性と冷徹を宿していた。 対して、革張りのソファには結衣の夫であり、副社長の如月悠真が座っていた。 紺のスーツに身を包み、足を組みながらスマートフォンをいじるその姿には、どこか所在なさと退屈が滲んでいる。  時折、画面から顔を上げ、結衣の横顔を盗み見る。  しかし彼女は一切視線を返さず、ただ淡々と資料に目を通すだけだった。 この部屋の空気には、言葉にできない「温度の差」があった。  夫婦でありながら、交わることのない二つの時間。  愛が冷えたというよりも――  もはや互いの心が、別々の惑星に漂っているような距離感。 結衣がふと、ペンを置いた。  静寂を破るように、彼女の声が落ちる。「……ねえ、悠真。」 柔らかい呼びかけだったが、そこには見えない刃が潜んでいる。  悠真は一瞬、身構えたように顔を上げた。「ん?」 結衣は、ゆっくりと彼を見た。  切れ長の瞳が、わずかに細められる。「来週の出張の件。ちゃんと確認してあるのよね?」 その声に、悠真の喉が小さく鳴った。  出張――その言葉を聞いた瞬間、心臓の奥がわずかに跳ねる。  彼の頭に浮かんだのは、会社の業務出張ではなく、  “もうひとつの旅”――美咲との約束だった。「も、もちろんだよ。ホテルも、交通も、全部手配済みだ。」 言葉を繕うように笑いながら答える。  だがその笑顔の奥では、別の鼓動が脈打っていた。 結衣は短くうなずき、再び資料に視線を落とす。  その動作は、まるで「追及する価値もない」と言っているように見えた。  悠真はホッと息をついた――が、同時に、妙な胸の痛みが生まれた。  彼女が疑っていないことが、逆
last updateLast Updated : 2025-11-03
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その夜。
 高層マンションの寝室。  白いシーツの上に、結衣は静かに眠っていた。  寝息は浅く、眉間にはわずかな皺が寄っている。  昼間の冷徹な社長の顔からは想像できないほど、その横顔は繊細で、どこか寂しげだった。 悠真はベッドの端に腰を下ろし、スマホを手にそっと画面を開いた。 メッセージの履歴には、美咲とのやりとりが並んでいる。  「ホテル、取れました!」  「水着、どんなのが好きですか?」  「結衣社長には絶対ナイショですよ?」 彼は思わず笑ってしまう。  罪悪感よりも、若い恋のような高揚感が勝っていた。 ふと、横を見る。  結衣が微かに寝返りを打ち、彼に背を向けた。  月明かりが彼女の髪に淡く落ちる。 「……結衣。」 小さく呼んでみたが、返事はない。  その沈黙に、彼は安心したように笑う。  そして、再びスマホの画面に視線を戻す。 《俺も楽しみだよ♡》 短く打ち込み、送信ボタンを押した。  小さな電子音が鳴り、通知が“送信済み”に変わる。  その瞬間、彼の胸の奥で、何かが確実に“終わった”。 ――結衣との夫婦関係か。  それとも、自分という人間の誇りか。 けれど悠真は、そのどちらにも気づかなかった。  彼の目に映るのは、ただ、美咲の笑顔と青い海。 ベッドの傍らで、結衣は薄く目を開けた。  眠っていると思われた彼女の瞳に、わずかに光が宿る。  その視線は、スマホの光を反射させる悠真の横顔を捉えていた。 ――彼女は、気づいていた。 音を立てず、ゆっくりとまぶたを閉じる。  その心の奥で、氷のような決意が静かに形を成していく。 “裏切り”という言葉は、まだ声にならない。  だが、確かにそこに火が灯った。 外では秋の風が、海から吹き抜けていた。  それは、これから訪れる嵐の前触れのように冷たかった。
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第2話 ― 朝の光と仮面の微笑 ―
翌朝。  東京湾の向こうから昇る朝日が、ガラス張りのエントランスを黄金色に染めていた。  如月グループ本社のホールには、革靴の音と挨拶の声が絶え間なく響く。  磨き抜かれた大理石の床は朝の光を反射し、観葉植物の葉がそよいでいる。  清潔な香りのディフューザーが空気に漂い、この空間全体が一種の“格式”を物語っていた。 「おはようございます、副社長!」  「おはよう。今日も頑張ってくれ。」 副社長・如月悠真は、柔らかい笑みを浮かべて応じた。  黒いスーツに淡いグレーのネクタイ。派手さはないが、清潔感と品を兼ね備えた装いだ。  その穏やかさは、多くの社員に安心感を与える。  威圧するようなカリスマではなく、親しみやすさ――それが彼の武器だった。 32歳。  如月グループの副社長であり、社長・如月結衣の夫。  二人は大学時代の同級生で、学生の頃から有名なカップルだった。 大学のキャンパスで初めて出会ったとき、結衣はすでに学内でも一目置かれる存在。  凛とした知性、誰も寄せつけないほどの冷静さ。  そんな彼女が見せた、ふとした笑顔――  それに悠真は、一瞬で心を奪われた。 だが、当時から彼女の父である如月会長は、悠真に懸念を抱いていた。  「温厚なのは悪くない。だが、芯が弱い男だ。」  それが会長の評価だった。 結衣が父に結婚の許しを求めたとき、会長は頑として首を縦に振らなかった。  しかし娘が泣きながら「悠真さんでなければ、結婚しない」と言い張ったため、ついに根負けし、28歳のときに二人は結ばれた。 結婚後、二人は社内で経験を積み、30歳の年に  結衣が社長、悠真が副社長に就任。  社内では“理想の夫婦経営”と称され、  メディアでも「次世代の経営モデル夫婦」と紹介された。 だが、その表面の華やかさの裏に、見えない亀裂があった。 結婚の際、会長は二人にひとつの条件を課していた。  ――「35歳までは子を持とうと思うな」  事業拡大の大切な時期に、後継を急ぐ必要はない。  それが経営判断としての冷静な命令だったが、  結衣の心には、どこか“母になれない空虚”が残っていた。 さらに、結衣は真面目で潔癖な性格。  仕事に一切の妥協を許さず、ミスにも厳しい。  それは完璧主義というより、弱みを見せることへの恐れ
last updateLast Updated : 2025-11-03
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社長室にて。
社長室のドアを開けると、そこに結衣がいた。  朝の光を背に受け、黒のタイトスカートと白のブラウスに身を包んだ姿は、  まるで氷の彫刻のように美しかった。 「悠真、今日もよろしくね。」 穏やかな声色に、しかしどこか命令の響きがある。  悠真は「はい」と小さくうなずき、笑顔を取り繕った。 結衣は32歳。  父の後を継いで社長に就任してから、わずか2年でグループを急成長させた。  的確な判断、冷静なリーダーシップ。  社員からの信頼も厚く、社内でのカリスマ性は絶対的だった。 だが、その完璧さの裏には、人知れぬ孤独があった。  社長になって以来、悠真と二人で過ごす時間は減り、  会話も仕事の報告と指示にすり替わっていった。 「もっと、かわいい妻になりたいのに……」  そんな心の声は、誰にも届かない。  唯一、幼馴染の俊介だけが、結衣の本音を知っていた。  俊介にだけは、自分の弱さをさらけ出せる。  ――それが、かえって悠真との距離を遠ざけていた。 この日もまた、結衣は淡々と今日の予定を指示した。  悠真はその一つひとつに「了解です」「承知しました」と返すだけ。  会話というより、上司と部下のやり取りに近い。 ふと、結衣が書類を閉じたとき、  「私……どうして、こうなっちゃったんだろう。」  と、小さく呟いた。  その声は誰にも届かないほどの微音だった。 悠真はその言葉に気づかず、ポケットの中のチケットを思い出していた。  “別の未来”を示す、一枚の航空券。  彼にとってそれは、現実から逃げるための鍵だった。 「……結衣。じゃなくて、社長。今日もよろしくお願いします!」 明るく言って、笑顔を作る。  結衣も一瞬だけ驚いたように彼を見つめ、「ええ、行きましょう。」と答えた。 それは、二人の間に広がる深い溝を、  互いに気づかぬふりをして踏み越える――そんな朝の儀式だった。 そして、二人は並んで会議室へと歩き出した。  陽光が彼らの背に差し、長い影を床に落としていく。  その影は、まるでこれから訪れる運命の前触れのように、  ゆっくりと絡み合いながら、遠くへ伸びていった。
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第3話 ― 甘い罠と静かな影 ―
午後のオフィスは、昼休みの喧騒が去り、再び静けさを取り戻していた。  会議を終えた社員たちの声が遠くに響き、どこかのデスクではプリンターの音が短く鳴る。  それ以外には、冷房の微かな風が書類の端を揺らす音しか聞こえなかった。 副社長室の中。  悠真は椅子にもたれ、視線を窓の外にやっていた。  秋の光がビル群に反射し、銀色のきらめきが東京湾まで延びている。  その美しい眺めさえ、いまの彼には虚ろに見えた。 ――胸ポケットの中で、スマホが小さく震える。 視線がそこに吸い寄せられる。  仕事中だとわかっていながら、指が勝手に動いてしまう。  画面に浮かぶ名前は、佐伯美咲。 《副社長、お疲れさまです。来週の件、大丈夫でしょうか? もし迷惑なら……》 その一文。  「迷惑」という言葉に、悠真の胸が一瞬ざらりと波立つ。  ――そう、これは“迷惑”なのかもしれない。  妻を欺き、会社の名を背負ったまま、部下と旅行に行くなど、本来許されるはずもない。 だが、理性よりも先に動くのは、心と――指だった。 《大丈夫だよ。俺も楽しみにしてるんだから、絶対一緒に行こうね。》 送信のボタンを押した瞬間、  胸の奥で小さな罪悪感が泡のように弾け、  それと同時に、何かを踏み越えた快感が静かに広がった。 そのとき、扉をノックする音。  「失礼します、副社長。」  振り向くと、そこには――まさにそのメッセージの送り主、美咲の姿があった。 淡いピンクのブラウスに、黒のタイトスカート。  オフィス仕様ながらも、柔らかく香る甘い香水。  「こちら、明日の会議資料です。」  差し出された書類。  手が触れる。ほんの一瞬。  だが、その一瞬に、彼女の指がわずかに彼の手の甲を撫でた。 「ありがとう。」  努めて平静に返す。  しかし美咲の瞳が、ほんの少しだけ上目遣いで笑った。  周囲には、何も知らない社員たち。  ――ふたりだけの秘密。 彼女が出ていくと、悠真は深く息を吐いた。  机の上には資料が積まれているが、文字はまるで頭に入ってこない。  代わりに浮かぶのは、美咲の笑顔と、肌の温もりの記憶。 日が傾き始める頃、再びスマホが震えた。  《どこに行くか、決めましたか?》 ――まるで恋人同士のメッセージ。  彼は一瞬迷い、画面の
last updateLast Updated : 2025-11-03
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夕方、社長室。
窓の外は群青色に染まり、オフィス街の灯が一つ、また一つと灯っていく。  デスクの上には書類の山。  その向こうで、結衣は冷めたコーヒーを見つめていた。 「社長、今夜の松菱商事のパーティーですが、どなたとご一緒されますか?」  淡々とした声で問うのは、秘書の北条圭一だった。  スーツの襟元まで完璧に整え、表情はいつも無機質。 「悠真……副社長は同行しないの?」  結衣は書類から目を上げた。 「はい。副社長には今夜のパーティーの話はしておりません。」 「……話していない?」  意外そうに眉をひそめる結衣に、北条は微動だにせず答える。 「お誘いしても、いつも“他の者を行かせろ”と仰いますので。」 その口調には、皮肉のような冷たさがあった。  北条は如月会長の命で、結衣の社長就任と同時に秘書に就いた男だ。  忠実で有能だが、悠真のことは“社長の夫というだけの飾り”としか見ていない。 結衣はため息をつき、デスクに指先をトントンと叩いた。  「……そう。じゃあ、宮原くんを連れて行くわ。」  「承知しました。」 宮原俊介――幼馴染であり、社内でも信頼できる存在。  松菱商事は如月グループにとっての重要顧客であり、俊介の父が経営する宮原総業にとっても取引先だ。俊介を同行させれば、双方にとって利がある。 結衣は手早くスケジュール帳を閉じると、  「北条さん、俊介に支度をさせてくれる?」と指示した。  「かしこまりました。」 北条が手帳を閉じて立ち上がるとき、  結衣はふと問いかけた。 「それで……副社長の今夜の予定は?」 「私は把握しておりませんが、社長がお知りになりたいのでしたら、副社長秘書に確認いたしましょうか。」 「いえ、いいわ。」  言葉を遮るように立ち上がり、結衣はコートを手に取った。 「私も一度自宅に戻るわ。あなたは後で宮原くんを連れて迎えに来て。」 「18時頃、お迎えに伺います。」 北条が一礼して出ていく。  扉が閉まると、室内に静寂が戻った。 結衣はふと、窓の外に目をやった。  沈みゆく陽が街を赤く染め、ビルの影が長く伸びている。  ――その中に、ひとつのビルが目に留まる。  副社長室のあるフロア。 「……悠真。」  声に出したその名は、どこか遠い響きだった。  結衣は机の上に置かれた結婚
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第4話 ― 二つの夜 ―
 煌びやかな照明がシャンデリアから降り注ぎ、会場の空気には香水とワインの香りが混ざり合っていた。  松菱商事のパーティー会場――都心の五つ星ホテル最上階。  音楽と笑い声が絶え間なく響き、壁一面に飾られた花々が艶やかに光を反射している。 「ずいぶん砕けたパーティーなんだな……」  場に圧倒され、俊介は目を見開いた。  黒のスーツ姿で背筋を伸ばしてはいるが、肩の力が抜けない。  グラスを持つ手も、わずかに震えている。 結衣はふっと笑みをこぼした。  「いろんな会社の社長の息子や娘のお披露目みたいなものよ。結婚相手探し――名目は何でもいいの。」  軽やかにそう言って、俊介の腕を取った。  その仕草が自然すぎて、俊介の心臓が小さく跳ねる。 会場の中央には、松菱商事社長・村瀬恵子の姿があった。  シルバーグレーのドレスに身を包み、年齢を感じさせないほど洗練された美しさを放っている。  彼女は結衣が社長に就任してからのよき相談相手であり、時には夫婦の問題まで打ち明け合う友人でもあった。 結衣が俊介と腕を組んで歩み寄ると、村瀬は軽く手を上げて微笑んだ。  「如月社長、来てくれたのね。」  「ええ、ご招待いただいたので。――今日は宮原総業の次期社長、宮原俊介さんをご紹介します。」 俊介は一歩前に出て、「はじめまして、村瀬社長。」と礼儀正しく頭を下げた。  差し出された右手を、村瀬がしなやかに取る。  「こちらこそ。お父様はお元気?」  「はい。おかげさまで元気にしております。いつもお世話になり、ありがとうございます。」  その緊張ぶりが可笑しかったのか、結衣は小さく吹き出した。 「俊、そんなにかしこまらなくていいのよ。」  村瀬も笑いながら、「そうそう。あなた、子どもの頃に何度もお父様と一緒にうちに来ていたじゃない。まさか忘れたの?」  「そ、そうでしたね……」俊介は苦笑しながら頭を掻いた。 その様子を見て、村瀬はグラスを掲げる。  「まぁ、今日は堅苦しい話は抜き。楽しんでいってね。」 ウェイターがやってきて、トレイには色とりどりのカクテル。  村瀬の勧めで、結衣と俊介もグラスを手に取った。  三人で軽く乾杯を交わすと、村瀬は会場の中央へと向かい、他の社長たちと談笑を始めた。 残された二人は、グラスを片手に人混みを見渡
last updateLast Updated : 2025-11-03
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一方、その頃…
静まり返った如月邸。  リビングの時計が午後十時を指していた。 悠真はソファに寝転び、スマホを片手にしていた。  画面には、次々と届くメッセージ。 《便は何時がいいですか?》  《ホテルの部屋、海側がいいですか? 山側ですか?》 送信者は、もちろん美咲だ。  結衣がパーティーで外出している夜、悠真の時間は自由だった。  とはいえ、外に出かけるわけでもなく、ただソファの上でだらだらとスマホを眺めている。 「……せっかくなら、今夜誘えばよかったな。」  小さくつぶやき、頭の後ろに手を組む。  だがすぐに、「いや、楽しみは来週まで取っておこう」と思い直した。  焦らず、もっと“甘い夜”を味わうために。 メッセージを開き、指先で画面をなぞる。  《ところで、有給は取ったのか?》と打ち込むと、すぐに返ってくる。 《上司の承認がいるんだけど、悠真、サインしてくれる?》 “副社長”ではなく、“悠真”。  たったそれだけの違いなのに、胸の奥がくすぐったくなる。 《俺は副社長なんだから、俺のサインがあれば何日でも有給取れるな!》  調子に乗って送ると、すぐに返信が来た。 《さすが副社長!! 悠真、大好き!》 その言葉を見て、悠真は得意げに笑い、  ソファの上でバタリと仰向けになった。  「よっしゃ!」とガッツポーズをした拍子に、足がテーブルの角にぶつかる。  「痛ってぇぇ!」  情けない声がリビングに響き、自分でも笑ってしまう。 気を取り直し、クローゼットからスーツケースを引っ張り出した。  「……今のうちに準備しておくか。」  衣服、洗面具、香水、サングラス。  どれも“出張”に見せかけた“裏の旅支度”だ。 スーツケースの底に、旅程表と航空チケットを忍ばせる。  名義は如月グループ。だが、実態は完全に私用。  「これで完璧だ。」 クローゼットを閉めると、鏡越しに自分の笑顔が映る。  ――少年のように浮かれた、愚かで危うい笑顔。 その頃、遠いホテルの窓の外では、結衣と俊介の笑い声が静かに響いていた。  知らぬ間に、二人の距離も、少しだけ近づいていた。 そして、誰も気づかないまま――  愛と裏切りの夜は、静かに幕を開けようとしていた。
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第5話 ― 羽田の朝 ―
羽田空港第2ターミナル。  朝の陽光がガラス張りの天井から差し込み、磨き上げられた床を黄金色に染めていた。  スーツケースを転がす音、アナウンス、コーヒーの香り――  ビジネスマンと観光客が行き交うロビーには、出発の緊張と高揚が入り混じっている。 悠真はスーツの上着を直し、腕時計をちらりと見た。  「……よし、予定通りだな。」  朝いちばんで会社に顔を出し、形だけの出発報告を終えてから、タクシーで空港へ向かった。  目的は「沖縄リゾートの視察」。  だが、その実態は――誰にも知られてはならない“二人きりの旅行”だった。 チェックインカウンターへ向かう途中、胸ポケットのスマホが震えた。  画面に映る名前を見た瞬間、悠真の心臓が跳ね上がる。  《結衣》。 「……まさか。」  喉が乾く。慌てて通話ボタンを押すと、聞き慣れた落ち着いた声が響いた。 「悠真? 今どこ?」  「え、あ、今……その、空港のロビーだよ。」  声が裏返る。周囲のざわめきがやけに大きく聞こえた。 「今回の出張、視察だけの予定だけど、先方の社長に会えたら挨拶だけでもお願いね。」  淡々とした口調。だが、どこか探るような響きも混ざっていた。 ――視察。  そう、これは本来、如月グループの新事業「リゾート開発プロジェクト」の一環だった。  会社として沖縄の大型施設を調査し、今後の都市型リゾート計画に活かす――そのはずだった。  結衣も当初は同行を検討していたが、別件の取引が重なり、代わりに副社長である悠真が現地視察を担当することになった。 北条秘書は猛反対した。  「社長、あの方を一人で沖縄に? 遊びに行かせるだけになりますよ。」  それでも結衣は、「彼の感性が新しいヒントをくれるかもしれない」と、やんわりと押し切ったのだ。  ――信じていた。少なくとも、その時までは。 「わかってるよ。任せて。」  悠真は何とか平静を装って答えた。  だがその瞬間。 「副社長、お待たせしました!」  明るく弾む声が、横から飛び込んできた。 悠真の動きが止まった。  振り返ると、そこには笑顔の美咲――  白いブラウスに薄いベージュのパンツ、旅行用のキャリーを引いて立っている。  彼女の笑顔が空港の光に反射して、眩しく見えた。 電話の向こうの結衣が、静かに
last updateLast Updated : 2025-11-03
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飛び立つ飛行機と結衣の心の葛藤
搭乗ゲートを通り抜け、飛行機に乗り込む。  窓際の席に並んで座ると、機内には穏やかなBGMが流れていた。  エンジン音と乗客の話し声。  いつもより時間がゆっくりと流れる気がした。 「副社長、見てください! 青い空がもう海みたい!」  離陸前からはしゃぐ美咲に、悠真は笑顔を作って頷く。  だが、心の奥では別の声が響いていた。  ――さっきの電話、美咲の声、聞こえてたんじゃないか? 結衣の沈黙。  あの一瞬の間。  あれは、完全に“気づいた時の声”だった。 「……あんまり浮かれてるとヤバイかな。」  自分に言い聞かせるように呟く。  美咲は隣でシートベルトを直しながら、無邪気に笑った。  「だいじょうぶですよ。私たち、ちゃんと仕事で来てるんですから。」  「……そうだな。仕事、仕事だ。」  悠真は小さく笑いながらも、指先が落ち着かない。 機体が滑走路を走り出す。  大地を蹴る振動が体に伝わる。  窓の外で、東京の街がみるみる小さくなっていった。 ――もう誰にも会わない。  そう自分に言い聞かせた。  結衣の顔を思い浮かべながら、心の奥でそっと扉を閉める。 「さあ、行こうか。」  悠真が呟くと、美咲は嬉しそうに手を握った。  その瞬間、飛行機はゆるやかに宙へ浮かび上がった。 地上の光が、点となって遠ざかる。  東京でのすべてが、まるで別の世界のことのように見えた。 だがその頃―― 如月本社では、秘書の北条圭一が結衣の執務室をノックしていた。  「社長、先ほどの出張報告書に一点、不審な箇所がございます。」  「不審?」  「ええ。副社長が利用している航空便のチケット、名義が……」  北条が書類を差し出す。結衣はそれを静かに受け取り、目を通した。  そして、わずかに目を細める。 「なるほど。……ありがとう、北条さん。」  声は穏やかだったが、胸の奥では何かが音を立てて崩れ始めていた。 結衣は窓の外を見た。  秋晴れの東京湾。  陽光がビルのガラスに反射してまぶしい。  ――沖縄。青い海。あの人の笑顔。  胸の奥に、言葉にならないざわめきが広がっていく。 「悠真……あなた、いまどこを見ているの?」 その呟きは、誰にも聞こえなかった。 飛行機は雲の上を進み、南へ。  そして東京では、別の
last updateLast Updated : 2025-11-03
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