LOGIN財閥同士の思惑が渦巻く世界で、「不仲な夫婦」と噂される九条夫妻。冷静沈着な夫と、気品ある妻は、公の場では距離を保ちながらも、互いに言葉にできない想いを胸に秘めていた。過去の誤解、交錯する噂、周囲の視線――それでも二人は、夫婦として並び立つ道を選ぶ。愛は信じるものなのか、守り抜くものなのか。表では語られない真実と、静かに深まっていく絆を描く、財閥ロマンス。
View More「仕方ないから、結婚して“あげる”わ」
そう口にした瞬間、部屋の空気がわずかに張りつめた。
九条玲司は一瞬だけ視線を上げ、ほんのわずかに眉を動かす。 だが、それも束の間だった。すぐに口元を歪め、鼻で笑う。「随分と偉そうだな。
まぁいい。君が“財閥令嬢”であることに価値があるのは事実だ」その言葉は、淡々としているのに、妙に冷たかった。
綾乃の胸の奥で、氷の欠片が落ちるような感覚がする。(この人は……人を、条件でしか見ないのね)
感情を表に出すことはできなかった。
ここには祖母がいる。相手の祖父もいる。 鷹宮家と九条家、二つの家の歴史と体面が、この場を縛っていた。祖母の澄江が、そっと綾乃の手を握る。
しわの刻まれた手は、小さく震えていた。「綾乃、お願い。おばあちゃんの、最後のわがままだと思って……」
“最後”という言葉が、静かに胸に刺さる。
綾乃は目を伏せ、短く息を吐いた。逆らえなかった。
逆らう選択肢を、最初から持たされていなかった。結婚は、驚くほど事務的に決まった。
感情の入り込む余地など、最初からなかったかのように。顔合わせから三か月後。
式は身内だけで簡素に済まされ、披露宴は企業合同のパーティー扱い。 祝福の言葉よりも、名刺交換の音の方が耳に残った。結婚後、九条邸で最初に交わされた言葉も、やはり事務的だった。
「夫婦としての時間は、基本的に必要ない」
淡々と告げられ、綾乃は思わず視線を上げる。
「君は東亜リンクス商事での仕事を続けろ。
こちらも、君の父との関係維持には君が必要だ」「……私を、“駒”として使うのね」
思わず漏れた言葉に、玲司は初めて真正面から綾乃を見た。
「お互い様だろう。君も、この結婚で立場を守っている」
正論だった。
否定できないからこそ、腹の奥が熱くなる。しかし――
結婚から半年が過ぎた頃、その均衡は静かに崩れ始めた。東亜リンクス商事の大型案件。
海外エネルギー開発プロジェクトに、不正の噂が立った。資料を追ううち、綾乃の顔色は失われていく。
その中心にいたのは、彼女の直属の上司であり、 九条ホールディングスとも深く関わる人物だった。「……これ、表に出たら、会社が潰れる」
深夜の書斎で、震える指先を押さえながら呟いたその時。
背後で、扉の開く音がした。
「気づいたか」
振り向くと、九条玲司が立っていた。
「……あなた、知ってたの?」
「最初からな」
静かな声だった。
「君がこの件にどう動くか、見たかった」
「最低……」
吐き捨てると、玲司は低く言い返す。
「それでも、君は黙らないだろう。――そこが、気に入っている」
その一言に、綾乃は息を呑んだ。
(この人は、ただの傲慢な男じゃないの?)
初めて、
夫としてではなく、敵でも味方でもない―― “同格の人間”として、九条玲司を意識した瞬間だった。心春が眠ってしまったため、櫻羅は起こさないよう細心の注意を払いながら、静かに部屋を抜け出していた。座布団の上で穏やかな寝息を立てる心春の姿を見ていると、先ほどまで涙を流しながら胸の内を打ち明けていたことが嘘のようだった。櫻羅は布団代わりにもう一枚座布団を肩口へ寄せ、エアコンの風が直接当たらないよう向きを少し変えてやる。「ゆっくり休んでね……」誰に聞かせるでもなく小さく呟くと、起こさないよう音を立てず襖を閉めた。せっかく日本の温泉旅館に来たのだ。少し景色を楽しみながらホテルの中庭を歩いてみたかった。廊下へ出ると、館内は昼間とは違う静かな空気に包まれていた。遠くから聞こえてくるのは、大浴場の方から響く微かな話し声と、どこかで流れている琴の音色だけ。木造の廊下を歩くたびに、床板がわずかに軋み、その音さえも風情の一部のように感じられる。櫻羅はゆっくりと歩きながら窓の外へ目を向けた。昼間は多くの観光客で賑わっていた庭園も、夜になるとまるで別世界だった。中庭へ出ると、夜闇に照らされた幻想的な照明の光が、この巨大なホテルを美しく照らしている。石灯籠には柔らかな灯りがともり、小川には月明かりが映り込んで静かに揺れていた。庭に植えられた松や紅葉はライトアップされ、日本庭園特有の静寂さをより一層引き立てている。風が吹くたびに木々の葉がわずかに揺れ、竹垣の向こうから虫の鳴き声が聞こえてきた。櫻羅は思わず深呼吸した。温泉の湯気を含んだ夜風は少し湿っていて、とても心地よい。「きれい……」自然とそんな言葉が口から漏れる。櫻羅の育った街にも、こういった歴史のある建物は多かったが、それはすべて西洋のものであり、櫻羅にとっては子供の頃からなじみのあるものしかなかった。石造りの教会。古い城。大理石の広場。噴水や時計塔。そういった景色には見慣れていたが、日本庭園のように自然と建物が一体となった美しさは初めてだった。人工的に派手な装飾を施すのではなく、静けさそのものを楽しむ文化。その奥深さに、櫻羅はすっかり魅了されていた。「叶翔にも見せてあげたいな……」そう呟くと、浴衣の袖からスマホを取り出した。何枚も角度を変えながら写真を撮る。石灯籠。池。橋。旅館の建物。そして夜空。どれも美しく写っているように思えた。撮ったばかりの写真を見てみ
夜の帳がすっかり下りた頃。山あいに建つ高級温泉ホテルには柔らかな灯りがともり、玄関先には次々と宿泊客を乗せた車が到着していた。玄関へ横付けされた一台の高級セダンから降り立ったのは、玲司と綾乃だった。仲居たちが丁寧に頭を下げる中、二人はチェックインを済ませ、部屋のキーカードを受け取る。館内は落ち着いた和の雰囲気に包まれ、廊下には畳の香りがほのかに漂っていた。窓の外にはライトアップされた日本庭園が広がり、水面に映る灯りが静かに揺れている。綾乃はその景色を眺めながら微笑んだ。「やっぱり温泉旅館って落ち着くわね。」玲司も短く「ああ」と返事をする。二人はゆっくりと廊下を歩き始めた。部屋番号を確認しながら歩いていると、前方の廊下の向こうから二人の男性が歩いてくる。見慣れた姿だった。「叶翔!!」綾乃が嬉しそうに声を掛ける。その声に気付いた叶翔と瑛士も足早に近寄ってきた。「母さんたち、今着いたのか?」叶翔がそう尋ねると、綾乃は笑顔で頷いた。「あなたたちの方が早く着くとは思わなかったわ」研究所から直接向かった二人より、自分たちの方が先に着くと思っていたらしい。叶翔は苦笑する。「高速が空いてたからな。」そんな親子のやり取りを見ながら、瑛士も軽く会釈した。玲司は短く頷くだけだったが、その表情はどこか穏やかだった。綾乃は玲司を見上げる。「先に部屋に入りましょう」そう言うと、玲司を促し、自分たちが取った部屋の前まで歩いていく。カードキーをかざすと電子音が鳴り、静かにドアが開いた。「どうぞ。」綾乃が先に入り、玲司も後に続く。叶翔と瑛士も招かれるまま部屋へ足を踏み入れた。広々とした和室。大きな窓の向こうには夜景が広がり、温泉街の灯りが宝石のように瞬いている。テーブルにはすでに湯呑みと茶菓子が用意されていた。四人が腰を下ろして間もなく、部屋のドアが静かにノックされた。「失礼いたします。」襖が開き、仲居の女性が丁寧に頭を下げる。「皆さま、ようこそ起こしくださいました。ご夕食ですが、まだご用意できますが、どちらで召し上がりますか?」綾乃は玲司へ視線を向けた。「大広間に用意してもらいましょうか」玲司もすぐに頷く。「ああ。食事の前に風呂に入る時間はあるか?」その問いに、仲居の女性は柔らかな笑みを浮かべた。「はい、今からお
食事が進み、次々と並べられた料理も少しずつ減っていった。湯気の立っていた鍋料理は食べ頃を迎え、焼き魚もほぐされ、小鉢も空になり始めている。部屋の中には温かな灯りがともり、窓の外にはすっかり夜の温泉街が広がっていた。石畳の道には浴衣姿の宿泊客がゆっくり歩き、遠くからは下駄の心地よい音が聞こえてくる。時折吹く夜風が木々を揺らし、その葉擦れの音までが旅館の静けさを引き立てていた。そんな穏やかな空間の中、二人のグラスのビールも少しずつ減っていく。心春はもともと酒には強い方ではない。温泉で体が温まり、空腹の状態で飲み始めたこともあり、頬はほんのり赤く染まり、目元も少し潤んでいた。一方の櫻羅は違う。日本へ来る前から、家族や親族との食事ではワインやシャンパンを口にする機会も多く、酒にはめっぽう強かった。顔色一つ変わらず、料理を楽しんでいる。その中でも特に気に入ったのが茶碗蒸しだった。スプーンですくって口へ運るたびに目を輝かせる。「これ、本当においしい……」何度もそう呟きながら味わっていた。心春は笑いながら自分の茶碗蒸しを櫻羅の前へ寄せる。「そんなに好きなら、私の分も食べる?」櫻羅は驚いたように顔を上げた。「いいの?」「うん。私は他にも食べたいものがあるし。」「ありがとう!」嬉しそうに頭を下げると、櫻羅は心春の分まで大切そうに食べ始めた。その姿をぼんやり眺めていた心春は、グラスを手にしたまま、少し虚ろな瞳で誰にともなく話し始めた。「私だってわかってるのよ、和真はホントに素敵な男性で、私が子供の頃だって、いろんな女の人と交際していたのも知ってるの。でもね………でも、あんなにはっきり『和真さんとの子供です』って目の前に突き付けられたら……さすがの心春ちゃんも、ショックだったのよね……『和真の昔の女です』って言われた方がマシっていうか……子供って……」最後の言葉は小さく消えていった。心春自身も、自分の気持ちをうまく整理できていなかった。頭では理解している。和真には昔、多くの女性と付き合っていた時期があったことも知っている。だから、昔の恋人が現れるくらいなら驚かなかっただろう。けれど、「子供」が現れた。しかも、自分の目の前で。その衝撃だけは、どうしても心が受け止め切れなかった。櫻羅はスプーンを置き、心春の話を黙って聞いていた
心春と櫻羅が部屋に戻る際、廊下には静かな空気が流れていた。温泉でゆっくり体を温めたせいか、二人とも頬がほんのり赤く染まり、浴衣姿のまま廊下を歩いているだけで心地よい疲れを感じている。部屋へ入ると、畳の香りがふわりと鼻をくすぐった。窓の外には夕暮れが広がり、山々は少しずつ藍色へと姿を変え始めている。遠くには温泉街の灯りが一つ、また一つとともり始め、どこか幻想的な景色になっていた。櫻羅は窓辺へ歩いて行き、景色を眺めながら嬉しそうに呟く。「きれい……」日本へ来てから初めて見る温泉街の夕景。石畳の道を浴衣姿の人々がゆっくり歩き、小さな提灯が風に揺れている。まるで映画の中へ入り込んだような景色だった。その余韻に浸っていると、不意に部屋のドアが「コン、コン」と上品に叩かれた。心春が「どうぞ」と声を掛ける。襖が静かに開き、仲居の女性が笑顔で頭を下げた。「お客様、お食事のご用意をさせていただきますね」「お願いします。」心春が微笑み返すと、仲居の女性は大きなお盆を両手で抱え、慣れた手つきで部屋の中央のテーブルへ料理を並べ始めた。一品一品、丁寧に置かれていく料理。色鮮やかな前菜。湯気を立てる茶碗蒸し。氷の上に美しく盛り付けられた刺身。小さな鍋にはこれから火を入れる牛肉。煮物、焼き魚、天ぷら、小鉢……。まるで芸術作品のように並んでいく料理に、櫻羅の瞳は再びキラキラと輝き始めていた。「すごい……」思わず漏れたその声に、仲居の女性も微笑む。櫻羅は料理が置かれるたびに少しずつ身を乗り出し、興味津々な様子で眺めている。その姿を見た心春は思わず笑ってしまった。「櫻羅ちゃん、そっち側に座って待ってたらいいわよ」そう言うと、櫻羅はハッとしたように仲居の女性を見た。(私、邪魔してるかも……)そう思ったのだろう。「ごめんなさい」小さく頭を下げると、部屋の隅へ移動した。そして、先ほど売店で買った紙袋を大事そうに取り出す。「そうだ。」櫻羅は袋の中から包装紙に包まれた招き猫を取り出し、丁寧に包みをほどき始めた。紙が破れないよう慎重に折り目をたどりながら開いていく。その様子を料理を眺めながら見ていた心春が、不思議そうに声を掛けた。「どうしたの?」櫻羅は笑顔で顔を上げた。「心春ちゃんのも出してあげていいかな?」「うん。」心春が頷く