不仲と噂された財閥夫婦ですが、今夜も愛されています

不仲と噂された財閥夫婦ですが、今夜も愛されています

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財閥同士の思惑が渦巻く世界で、「不仲な夫婦」と噂される九条夫妻。冷静沈着な夫と、気品ある妻は、公の場では距離を保ちながらも、互いに言葉にできない想いを胸に秘めていた。過去の誤解、交錯する噂、周囲の視線――それでも二人は、夫婦として並び立つ道を選ぶ。愛は信じるものなのか、守り抜くものなのか。表では語られない真実と、静かに深まっていく絆を描く、財閥ロマンス。

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الفصل الأول

プロローグ

「仕方ないから、結婚して“あげる”わ」

そう口にした瞬間、部屋の空気がわずかに張りつめた。

九条玲司は一瞬だけ視線を上げ、ほんのわずかに眉を動かす。

だが、それも束の間だった。すぐに口元を歪め、鼻で笑う。

「随分と偉そうだな。

 まぁいい。君が“財閥令嬢”であることに価値があるのは事実だ」

その言葉は、淡々としているのに、妙に冷たかった。

綾乃の胸の奥で、氷の欠片が落ちるような感覚がする。

(この人は……人を、条件でしか見ないのね)

感情を表に出すことはできなかった。

ここには祖母がいる。相手の祖父もいる。

鷹宮家と九条家、二つの家の歴史と体面が、この場を縛っていた。

祖母の澄江が、そっと綾乃の手を握る。

しわの刻まれた手は、小さく震えていた。

「綾乃、お願い。おばあちゃんの、最後のわがままだと思って……」

“最後”という言葉が、静かに胸に刺さる。

綾乃は目を伏せ、短く息を吐いた。

逆らえなかった。

逆らう選択肢を、最初から持たされていなかった。

結婚は、驚くほど事務的に決まった。

感情の入り込む余地など、最初からなかったかのように。

顔合わせから三か月後。

式は身内だけで簡素に済まされ、披露宴は企業合同のパーティー扱い。

祝福の言葉よりも、名刺交換の音の方が耳に残った。

結婚後、九条邸で最初に交わされた言葉も、やはり事務的だった。

「夫婦としての時間は、基本的に必要ない」

淡々と告げられ、綾乃は思わず視線を上げる。

「君は東亜リンクス商事での仕事を続けろ。

 こちらも、君の父との関係維持には君が必要だ」

「……私を、“駒”として使うのね」

思わず漏れた言葉に、玲司は初めて真正面から綾乃を見た。

「お互い様だろう。君も、この結婚で立場を守っている」

正論だった。

否定できないからこそ、腹の奥が熱くなる。

しかし――

結婚から半年が過ぎた頃、その均衡は静かに崩れ始めた。

東亜リンクス商事の大型案件。

海外エネルギー開発プロジェクトに、不正の噂が立った。

資料を追ううち、綾乃の顔色は失われていく。

その中心にいたのは、彼女の直属の上司であり、

九条ホールディングスとも深く関わる人物だった。

「……これ、表に出たら、会社が潰れる」

深夜の書斎で、震える指先を押さえながら呟いたその時。

背後で、扉の開く音がした。

「気づいたか」

振り向くと、九条玲司が立っていた。

「……あなた、知ってたの?」

「最初からな」

静かな声だった。

「君がこの件にどう動くか、見たかった」

「最低……」

吐き捨てると、玲司は低く言い返す。

「それでも、君は黙らないだろう。――そこが、気に入っている」

その一言に、綾乃は息を呑んだ。

(この人は、ただの傲慢な男じゃないの?)

初めて、

夫としてではなく、敵でも味方でもない――

“同格の人間”として、九条玲司を意識した瞬間だった。

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プロローグ
「仕方ないから、結婚して“あげる”わ」そう口にした瞬間、部屋の空気がわずかに張りつめた。九条玲司は一瞬だけ視線を上げ、ほんのわずかに眉を動かす。だが、それも束の間だった。すぐに口元を歪め、鼻で笑う。「随分と偉そうだな。 まぁいい。君が“財閥令嬢”であることに価値があるのは事実だ」その言葉は、淡々としているのに、妙に冷たかった。綾乃の胸の奥で、氷の欠片が落ちるような感覚がする。(この人は……人を、条件でしか見ないのね)感情を表に出すことはできなかった。ここには祖母がいる。相手の祖父もいる。鷹宮家と九条家、二つの家の歴史と体面が、この場を縛っていた。祖母の澄江が、そっと綾乃の手を握る。しわの刻まれた手は、小さく震えていた。「綾乃、お願い。おばあちゃんの、最後のわがままだと思って……」“最後”という言葉が、静かに胸に刺さる。綾乃は目を伏せ、短く息を吐いた。逆らえなかった。逆らう選択肢を、最初から持たされていなかった。結婚は、驚くほど事務的に決まった。感情の入り込む余地など、最初からなかったかのように。顔合わせから三か月後。式は身内だけで簡素に済まされ、披露宴は企業合同のパーティー扱い。祝福の言葉よりも、名刺交換の音の方が耳に残った。結婚後、九条邸で最初に交わされた言葉も、やはり事務的だった。「夫婦としての時間は、基本的に必要ない」淡々と告げられ、綾乃は思わず視線を上げる。「君は東亜リンクス商事での仕事を続けろ。 こちらも、君の父との関係維持には君が必要だ」「……私を、“駒”として使うのね」思わず漏れた言葉に、玲司は初めて真正面から綾乃を見た。「お互い様だろう。君も、この結婚で立場を守っている」正論だった。否定できないからこそ、腹の奥が熱くなる。しかし――結婚から半年が過ぎた頃、その均衡は静かに崩れ始めた。東亜リンクス商事の大型案件。海外エネルギー開発プロジェクトに、不正の噂が立った。資料を追ううち、綾乃の顔色は失われていく。その中心にいたのは、彼女の直属の上司であり、九条ホールディングスとも深く関わる人物だった。「……これ、表に出たら、会社が潰れる」深夜の書斎で、震える指先を押さえながら呟いたその時。背後で、扉の開く音がした。「気づいたか」振り向くと、九条玲司が立っていた。「……
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第2話 形だけの夫婦
九条邸での朝は、いつも静かだった。広すぎるダイニングに、人の気配はほとんどない。綾乃が席につくと、すでに玲司の姿はない。食事はきちんと用意されているが、向かいの椅子は空いたままだ。「本日、旦那様は六時にお出かけになりました」使用人の淡々とした報告に、綾乃は小さく頷く。同じ屋根の下に暮らしていても、生活の時間が交わることはほとんどなかった。夜、帰宅すると、家は静まり返っている。寝室は別。会話は必要最低限。連絡事項は、秘書を通じて。それでも世間には、“理想的な政略結婚”として映っているのだろう。(……笑える)夫婦という形だけを与えられた生活。その中で、綾乃は自分の居場所を、仕事の中に見出すしかなかった。だが――この冷え切った関係が、やがて互いの弱さと本音を暴き出すことになるとは、まだ、誰も知らなかった。綾乃自身も、なぜこうなったのかを、時折考える。恋をして結婚したわけではない。むしろ、選択肢のないまま、流れに乗せられただけだ。すべての始まりは、祖母・澄江の一言だった。「九条家のご長男が、まだ独身なの」それは、何気ない世間話のように聞こえた。だが、澄江の視線はどこか遠く、過去を見つめていた。九条玄雅(苦情げんが)――澄江が若い頃、唯一、結婚を考えた相手。だが家柄と事情に引き裂かれ、別れを選ばざるを得なかった男。「もう一度、あの家と縁が結ばれたら……」その言葉の続きを、澄江は口にしなかった。だが綾乃には、十分すぎるほど伝わっていた。同じ頃、父・鷹宮正隆の元にも話は持ち込まれていた。九条ホールディングス。国内インフラを支える巨大企業。その現社長・九条玲司は、辣腕で知られながらも独身を貫いている。「向こうも、結婚相手を探しているらしい」政略として、条件は申し分なかった。そして何より、綾乃自身が――東亜リンクス商事のエネルギー事業部課長として、九条ホールディングスと深く関わる立場にあった。「お前なら、釣り合う」父のその一言が、決定打だった。初めて顔を合わせたのは、九条家の応接間。重厚な調度品に囲まれた空間で、祖母の澄江と、九条の祖父・玄雅が並んで座っていた。互いに視線を交わす二人の表情は、穏やかで、どこか切なかった。紹介を受け、九条玲司が立ち上がる。背が高く、整った顔立ち。だが
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第3話 玄雅という男
鷹宮澄江が、初めて九条玄雅と出会ったのは、まだ二十歳そこそこの頃だった。戦後の混乱がようやく落ち着き始めた時代。九条家は、すでにインフラ事業で頭角を現し、鷹宮家もまた、金融と物流で存在感を放っていた。両家の集まりは、社交という名の“品定め”の場でもあった。澄江は、その席で玄雅を見た瞬間、不思議な静けさを覚えた。派手な物言いをする男たちの中で、彼だけが、必要以上に前へ出ない。だが、誰もが無意識のうちに、彼の一言を待っている。「……九条家のご長男です」そう紹介され、玄雅は静かに一礼した。「九条玄雅と申します」低く、落ち着いた声だった。威圧感はない。だが、揺るぎのない芯があった。後日、二人は偶然を装って、何度か言葉を交わすようになった。庭園で、廊下で、時には書庫で。「あなたは、不思議な方ですね」澄江がそう言うと、玄雅は小さく微笑った。「そうでしょうか。私はただ、急ぐ必要がないだけです」その言葉通り、玄雅は何事にも焦らなかった。事業も、人間関係も、感情さえも。それが、澄江には心地よかった。恋は、静かに始まった。誰にも気づかれないように。けれど確かに、互いの存在が日常に溶け込んでいく。「もし、家のことがなければ――」ある日、澄江がそう口にすると、玄雅は視線を逸らし、答えなかった。沈黙が、すべてだった。やがて、現実が二人を引き裂く。九条家は、さらなる事業拡大のため、より強固な政略結婚を必要としていた。鷹宮家も同じだった。「家を背負う人間は、選べない」最後に会った日、玄雅はそう言った。「それでも……」澄江の言葉を、玄雅は静かに遮った。「忘れません。ただ、この想いを、持っていくことはできない」それが、別れだった。澄江は、別の家に嫁いだ。玄雅もまた、九条家の嫁を迎え、九条ホールディングスの礎を固めていく。だが、二人は決して、互いを悪く言わなかった。年月が流れ、玄雅は孫――九条玲司の成長を、静かに見守っていた。幼い玲司は、よく玄雅の書斎に入り浸った。多くを語らぬ祖父の背中を、ただ見つめていた。「感情で動くな。だが、感情を捨てるな」ある日、玄雅はそう言った。「判断は冷静に。覚悟は、熱く持て」玲司は、その言葉を、深く胸に刻んだ。玄雅は、孫に甘い祖父ではなかった。だが、厳しさの奥に、常に一
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第4話 彼女を選んだ理由
九条玲司が結婚を決めた理由を、正確に知る者は少ない。世間にはこう語られている。鷹宮財閥との結束強化。エネルギー事業における盤石な連携。三十代後半を迎えた独身社長の体裁。どれも間違いではない。だが――それだけではなかった。玲司は、結婚式の翌朝も、いつもと変わらず六時に家を出た。広すぎる邸宅を振り返ることもなく、車に乗り込む。(感情で判断したわけじゃない)そう、何度も自分に言い聞かせる。彼は、祖父・玄雅の背中を見て育った。感情を抑え、選べないものを選ばず、その代わりに“守るべきもの”を決して手放さなかった男。「選ばなかったからこそ、守れたものがある」それが、玄雅の哲学だった。玲司は、その生き方を理解している。理解しているからこそ、同じ道を歩む覚悟もできていた。鷹宮綾乃と初めて向き合った日、彼女の目は、はっきりと怒りを湛えていた。だが、声は荒げない。姿勢は崩さない。感情を制御する術を、幼い頃から叩き込まれてきた人間の目だ。(……逃げない女だ)その瞬間、玲司は確信した。この女は、自分の横に立っても、壊れない。利用されるだけの存在で終わらない。だからこそ、あの言葉が出た。「俺が連れて歩いても、見劣りしない程度の容姿だ」試したのだ。怒るか、黙るか、あるいは、笑ってやり過ごすか。綾乃は、黙って自分を睨み返した。その沈黙に、玲司は懐かしさすら覚えた。祖父・玄雅が、かつて見せていた目と、よく似ていたからだ。結婚後、意図的に距離を取ったのも、理由がある。近づけば、情が生まれる。情は判断を鈍らせる。そして何より――自分が“選べなかった側の人間”だと、綾乃に知られるのが怖かった。だから、夫婦としての時間を拒んだ。だから、生活を交わさなかった。それでも、仕事の場では、否応なく彼女の名を目にする。東亜リンクス商事。エネルギー事業部課長・鷹宮綾乃。彼女の決裁は正確で、判断は速い。忖度しない。逃げもしない。(……祖父なら、気に入っただろうな)そう思った瞬間、玲司はわずかに眉をひそめた。不正案件の資料を、最初に掴んだのは玲司だった。握り潰すこともできた。むしろ、その方が簡単だった。だが、彼はそれをしなかった。(鷹宮の娘が、どう動くか)試したのだ。そして、結果は予想通りだった。綾乃は、震
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第5話 信用しない理由
九条玲司を、綾乃は信用していなかった。それは感情的な拒絶ではない。むしろ、冷静に積み上げた判断の結果だった。結婚して半年。同じ九条邸に暮らしていながら、玲司がどんな一日を過ごし、誰と会い、何を考えているのか――綾乃はほとんど知らない。知ろうとしなかった、という方が正しいかもしれない。最初から、彼は一線を引いていた。「夫婦としての時間は、基本的に必要ない」そう言い切った男だ。距離を詰める気など、最初からなかったのだろう。朝はすれ違い。夜は不在。言葉は必要最低限。感情は、徹底して見せない。それでも、九条玲司は綾乃を“見ている”。それが、綾乃には不気味だった。――不正案件を知った夜。書斎で資料を読み込み、ページをめくる指が震え始めた頃、まるで待っていたかのように、玲司は現れた。「気づいたか」あの一言。今も、はっきりと耳に残っている。最初から知っていた。知ったうえで黙っていた。そして、綾乃がどう動くかを見ていた。試されたのだ。妻としてではない。会社の人間として。あるいは、駒として。「君がこの件にどう動くか、見たかった」その言葉を、どうすれば信頼に置き換えられるというのか。九条玲司という男は、常に一段高い場所に立っている。安全圏から状況を見下ろし、判断し、必要とあらば切り捨てる。そういう人間だと、綾乃は思っている。父も、祖母も、「九条家の人間は、感情よりも責任を取る」そう語っていた。称賛のように聞こえるその言葉は、綾乃には、別の意味に聞こえていた。――感情は、切り捨てるもの。そんな価値観の男を、どうして信用できるだろう。仕事の場で、綾乃は幾度も判断を下してきた。部下を守るために、上司と衝突したこともある。失敗すれば、自分の立場が危うくなる場面もあった。だからわかる。九条玲司は、「切る決断」ができる男だ。迷わず。躊躇なく。もし、綾乃が鷹宮の娘でなかったら。もし、この結婚が政略でなかったら。そう考えた瞬間、背筋を冷たいものが走る。だが――あの夜、綾乃が資料から目を逸らさなかったとき。「それでも、君は黙らないだろう」そう言った玲司の声は、記憶の中で、なぜか冷たく響かなかった。評価だったのか。期待だったのか。それとも――確認だったのか。綾乃は、はっきりと心の中で
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第6話 同じ側に立つ
東亜リンクス商事の会議室は、朝から張り詰めていた。「海外エネルギー開発プロジェクトの件ですが――」上司の声を聞きながら、鷹宮綾乃は、静かに資料に目を落としていた。表向きは、順調。だが裏では、数字が合わない。説明のつかない送金。曖昧に処理された外注契約。綾乃の胸の奥で、警鐘が鳴り続けていた。(このまま進めば……必ず問題になる)そして、その影に、九条ホールディングスの名前があることも、綾乃はすでに把握していた。会議終了後、綾乃は直属の上司に呼び止められる。「鷹宮君、この件はこれ以上深入りしなくていい」柔らかな口調。だが、有無を言わせない圧があった。「確認は、課長としての職責です」綾乃がそう返すと、上司の表情が一瞬、硬くなる。「……君は、立場をわかっているはずだ」その言葉で、すべてを悟った。――これは、内部の問題ではない。――すでに、引き返せないところまで、来ている。その夜。九条邸に戻った綾乃を待っていたのは、書斎の灯りだった。珍しいことだった。「座れ」九条玲司は、立ったままそう言った。机の上には、綾乃が集めていたものと、“同じ内容”の資料が並んでいた。「……どこまで知っているの?」「君と、ほぼ同じだ」玲司は、淡々と答える。「この案件は、誰かを切れば済む話じゃない。切れば、必ず裏が暴れる」綾乃は、拳を握りしめた。「だから、黙っていた?」「だから、君を見ていた」はっきりとした答えだった。「この件を正面から処理するには、 東亜リンクス側に“中から切り込める人間”が必要だ」「……それが、私?」「他にいるか?」その問いに、綾乃は答えられなかった。「安心しろ。君一人に背負わせるつもりはない」玲司は、初めて一歩近づいた。「九条ホールディングス側の責任は、俺が引き受ける」その言葉は、命令ではなかった。宣言だった。綾乃は、ゆっくりと息を吐く。(逃げ場が、なくなった)だが同時に、一人ではないという事実が、わずかに胸を軽くした。「……条件があるわ」「言え」「情報は、すべて共有すること。隠し事は、しない」玲司は、少しだけ目を細めた。「それは、難しい要求だ」「できないなら、この話は降りる」数秒の沈黙。やがて、玲司は静かに頷いた。「わかった。だが覚悟しろ」「何の?」「知れば、
last updateآخر تحديث : 2026-02-18
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第7話 圧力と気配
異変は、予告もなく現れた。東亜リンクス商事のフロアに足を踏み入れた瞬間、綾乃は、空気がわずかに変わったのを感じた。挨拶が、短い。視線が、合わない。昨日まで普通に声をかけてきた部下が、妙によそよそしい。(……何かが始まった)会議室で配られた追加資料は、昨夜まで存在しなかったはずのものだった。数字は整っている。整いすぎている。「この修正、誰の指示ですか?」綾乃がそう問うと、部長は一拍だけ間を置いてから答えた。「上からだ。触るな」“上”。その言葉が、すべてを物語っていた。昼過ぎ。社外の取引先から、立て続けに連絡が入る。――九条ホールディングスとの関係を、どう考えているのか。――夫婦である以上、利益誘導ではないのか。まだ何も表に出ていない。それなのに、話は“出来上がって”いた。(情報が、漏れている)しかも、内部事情を知っている者の手口だ。その夜、九条邸。綾乃が書斎に入ると、玲司はすでに電話を切ったところだった。「東亜リンクス側にも、圧が来ているな」「……あなたのところも?」「ああ。金融機関が一斉に動いた」互いに視線を交わす。――外部からの圧力。だが、その動きは統制が取れすぎている。「内部に、いるわね」綾乃の言葉に、玲司は否定しなかった。「問題は、どこまで知っているかだ」机の上に置かれた一通の封筒。差出人不明。中には、写真が入っていた。綾乃と玲司が、並んで歩く後ろ姿。仕事用の資料を受け渡している場面。――完全に、“共闘”の証拠。「……撮られてる」「見せるために、な」脅し。同時に、誘導。“夫婦であること”を、武器にするか、それとも、弱点として突くか。相手は、こちらの関係性を試している。「もし、私が降りれば?」綾乃がそう言うと、玲司は、即答しなかった。「君が降りれば、疑惑は俺一人に集中する」「あなたが切られれば、私は“裏切った妻”になる」どちらも、致命的だ。夫婦という関係は、盾にもなる。だが同時に、一撃で貫かれる標的でもある。「……綾乃」玲司が、低く言った。「君を疑っていないと言えば、嘘になる」綾乃の胸が、わずかに痛む。「私もよ」静かな声だった。「あなたが、全部を握っている可能性を、捨てきれない」沈黙が落ちる。だが、その沈黙は、決裂ではなかった。互いに“
last updateآخر تحديث : 2026-02-19
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第8話 切り離せない関係
それは、私しか知らないはずの情報だった。だから、その名前を見た瞬間、指先から血の気が引いた。――鷹宮綾乃内部調査対象候補画面に表示された文書は、正式な社内フォーマットを装っているが、東亜リンクス商事のものではない。それでも、並べられた経歴、担当案件、交友関係は、あまりに正確だった。(ここまで把握されている……)調査対象候補、という言葉以上に、その下に添えられた一文が、胸を刺す。『九条ホールディングス代表取締役社長・九条玲司の配偶者』――そこだった。仕事ではない。能力でもない。夫婦であることが、私をここに引きずり出している。翌日。社内の空気は、さらに露骨に変わっていた。会議室で交わされる視線。名指しされない、だが確実に向けられる警戒。そして、私の隣に座った人物が、わざとらしいほど穏やかに言った。「鷹宮さん、この案件ですが……ご主人の会社との関係性、 誤解を招きかねませんよね」――裏切り者の“第一候補”。それは、今回のプロジェクトで、私を最初から支えていた人物だった。(この人が……?)確信はない。だが、偶然にしては出来すぎている。その夜。九条邸の書斎で、私は資料を机に置いた。「これ、あなたのところでも出回ってる?」玲司は、一瞬だけ視線を落とした。「……一部はな」その“間”が、すべてを物語っていた。「知ってたのね。私が、切られる側に回る可能性」責める声ではなかった。ただ、確認だった。「最悪の場合を想定していただけだ」「それを、私に言わなかった理由は?」玲司は、答えなかった。否定もしない。弁解もしない。その沈黙が、何より残酷だった。(信じたい。でも――)その瞬間、綾乃ははっきりと理解した。この人は、私を守ろうとしているかもしれない。同時に、切り捨てる覚悟も、持っている。数日後。外部監査チームの導入が正式に決まった。名目は「健全性の確認」。だが、誰もが分かっている。――狙われているのは、私たちだ。担当者の一人が、意味ありげに微笑んで言った。「ご夫婦で同じ案件に関わるのは、やはり問題ですね」その言葉は、確認ではなかった。脅しだった。会議室を出たあと、私は小さく息を吐く。(夫婦であることが、こんなにも重いなんて)守ってくれるはずの関係が、今は、首にかけられた鎖の
last updateآخر تحديث : 2026-02-20
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第9話 血筋という名の影
九条玲司という男は、感情を表に出さない。それは生まれつきの性格だと、綾乃はどこかで思い込んでいた。だが、それが“選んだ姿勢”なのだと知ったのは、 ある一通の古い資料を目にしたときだった。九条ホールディングス創業期の内部記録。 監査資料の付録として、偶然紛れ込んでいたものだ。(……祖父の代?)そこに記されていた名前。――九条 玄雅。玲司の祖父。 澄江が、決して多くを語らなかった相手。資料は、淡々と事実だけを並べていた。創業直後の急成長。 政界との距離。 ある年を境に、突然切られた共同事業。そして、その余白に、短く書き添えられた一文。『私情が、経営判断に影を落とした可能性あり』私情。たったそれだけの言葉が、 異様に重く感じられた。その夜、 綾乃は意を決して、玲司にその資料を差し出した。「……これ、知ってる?」玲司は、一瞥しただけで視線を伏せた。「知っている」即答だった。「じゃあ、これは?」綾乃は、指で一文をなぞる。『私情』「それが、何を指しているかも?」沈黙。書斎の空気が、静かに張り詰める。やがて玲司は、低く息を吐いた。「祖父は、恋をした」それは、あまりに率直な言い方だった。「相手は……私の祖母よね」否定はなかった。「玄雅は、あの時代の人間だ。家と会社が、人生そのものだった」淡々とした口調。 だが、その奥に、わずかな棘が滲む。「私情を優先すれば、会社が揺らぐ。会社を守れば、人を失う」玲司は、資料から視線を上げた。「祖父は、後者を選んだ」(だから、お婆さまは……)綾乃の胸が、きゅっと締めつけられる。「祖父は、その選択を正しいと思っていた。でも――」玲司は、そこで言葉を切った。「でも?」「……祖父は、最後まで笑わなかった」その一言が、過去を一気に近づけた。「父も、同じだった」今度は、父の話。「九条家では、“感情は判断を鈍らせるもの”だと教えられる」綾乃は、はっとする。(だから、この人は……)「結婚も、信頼も、情も。すべて、管理できる範囲に置けと」それは、教えであり、呪いだった。「……じゃあ、私との結婚も?」問いは、自然に口をついて出た。玲司は、綾乃を見た。まっすぐに。 逃げも隠れもしない目で。「最初は、そうだ」胸が、少し痛む。「だが今は違う」綾
last updateآخر تحديث : 2026-02-21
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第10話 決断前夜
夜の九条邸は、相変わらず静かだった。広すぎる廊下を歩きながら、 綾乃は、自分の足音がやけに大きく響くのを感じていた。(決断前夜……か)そんな言葉が、ふと頭をよぎる。明日、 外部監査チームによる本格的なヒアリングが始まる。名目は形式的な確認。 だが実態は、誰を切るかを決めるための場だ。その対象に、自分の名前が含まれていることを、綾乃は知っている。そして―― 九条玲司が、その事実を知っていることも。書斎の灯りが、ついていた。ノックをする前に、中から声がした。「入れ」扉を開けると、玲司は机に向かったまま、書類に目を落としていた。その背中は、いつもより少しだけ、重く見える。「……こんな遅くまで?」「習慣だ」そっけない返事。 だが、それでいい。今夜は、言葉の装飾はいらなかった。綾乃は、机の向かいに座る。「明日から、始まるわね」「ああ」短い応答。「私、呼ばれると思う」「呼ばれるだろうな」否定しない。 その事実が、胸に刺さる。「もし――」言いかけて、綾乃は一度言葉を切った。「もし、私が“切られる側”に回ったら」玲司の手が、止まった。「どうするつもり?」視線が合う。反らさない瞳。 だが、決意を測りかねている目。「あなたは、会社を守る?」問いは、静かだった。責めてもいない。 試してもいない。ただ、知ろうとしているだけだった。玲司は、すぐには答えなかった。代わりに、机の引き出しから一つのファイルを取り出す。「これは、最悪の場合のシナリオだ」差し出された資料。そこには、九条ホールディングスが被る損失、切り捨てるべき事業、 そして――「……私の名前」「そうだ」玲司は、淡々と頷いた。「君を切れば、被害は最小で済む」その言葉は、残酷なほど正確だった。「夫婦関係を解消し、案件から完全に外す。そうすれば、説明はつく」綾乃は、資料を閉じた。(やっぱり……)覚悟はしていた。 それでも、胸の奥が、少しだけ痛む。「でも、それは――」玲司が続ける。「祖父と同じ選択だ」その一言で、部屋の空気が変わった。「人を切って、会社を守る」静かな声。「正しい判断だ。経営者としては」綾乃は、息を吸う。「……あなたは?」問い返す。「あなた自身は、どうしたいの?」一瞬の沈黙。その沈黙は
last updateآخر تحديث : 2026-02-22
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