静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー

静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー

last updateHuling Na-update : 2026-02-05
By:  marimoIn-update ngayon lang
Language: Japanese
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医師・渡辺楓は、静かな幸福を手に入れたはずだった。 だがその裏には、愛と引き換えに失ったものが確かに存在していた。 裏切り、執着、選択の代償――。 それぞれの登場人物が、自分の人生と向き合いながら歩き出す中で、 「幸せ」とは何かが静かに問いかけられていく。 これは、誰かを愛したすべての大人たちへ贈る、 静かで残酷、それでも前に進むための物語。

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Kabanata 1

第1話 静かな幸福の影

その頃の私は、幸せだった。

少なくとも、そう信じて疑わなかった。

――あの匂いに、気づくまでは。 

その優しさは、私の人生を奪うためのものだった。

そろそろ冬の気配が近づいてきたと感じさせる秋の終わり。

 空は一日中曇りがちで、雲を通した薄い光が、開業医クリニックの廊下を鈍く照らしていた。

 白一色の壁、やや古さを感じさせる蛍光灯の明かり、遠くで微かに響くカルテカートの車輪の音――。

 忙しさに追われることもなく、かといって完全な静寂でもない、昼下がり特有の落ち着いた時間帯だった。

 渡辺楓は、診察を終えた患者のカルテを机の上に置き、最後の確認をしてから閉じようとした。

 だが、その指がふと止まる。

 ほんの一瞬。理由も分からないまま、胸の奥にかすかな違和感が走った。

 心の中で、ある人物の姿が浮かび上がる。

 思い出すつもりなどなかったのに、まるで呼び水のように、記憶は勝手に形を成していく。

 彼の笑顔。

 少し低めの声。

 何気なく触れた手の温度。

 ――亮。

 名前を心の中で呼ぶだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 二十八歳の頃から、たった二年間。

 それほど長い時間ではないはずなのに、思い出の輪郭は色褪せるどころか、今も柔らかな光を放ちながら、楓の心を包み込んでいた。

 「外科医になるはずだったんだよね、私……」

 ぽつりとこぼれた独り言は、診察室の静かな空気に溶け込み、壁に吸い込まれて消えた。

 外科研修を終えたあの頃、楓の未来はもっと直線的で、迷いのないものだったはずだ。

 進むべき道は明確で、努力すれば必ず辿り着けると信じて疑わなかった。

 決めたはずの方向。

 描いていた将来の図。

 それらすべてが、“ある出会い”によって、音を立てて崩れていった。

 ――二年前。六月。

 湿気を帯びた風が、病院の大きな窓を叩いていた。

 梅雨特有の重たい空気が、建物の中まで入り込んでくるような夕方だった。

 当直明けで、頭の奥に軽い疲労を抱えながら、緊急外来でカルテを整理していた楓の耳に、勢いよく扉が押し開けられる音が響いた。

「すみません! あの、足を……!」

 少し切羽詰まった声とともに現れたのは、白いシャツの胸元まで汗を滲ませた男だった。

 整った顔立ちをしているのに、どこか不器用で、緊張がそのまま表情に出ている。

 それが妙に人懐っこく、強く印象に残った。

 「こちらに座ってください。どこを痛めました?」

 楓は医師としてのいつもの声でそう促す。

 「あ、はい……っ」

 少し狼狽しながらも、素直に従う姿に、思わず口元が緩んだ。

 診察を進めながら、ふと視線を上げると、彼はまっすぐ楓を見ていた。

 逸らすこともなく、探るようでもなく、ただ真正面から。

 まるで、自分自身が映し出されているかのような視線。

 「佐々木亮さん、三十歳。……骨は大丈夫ですね。軽度の捻挫です」

 そう告げると、彼はほっとしたように息を吐き、そして少し首を傾げた。

 「先生、外科の方じゃないんですか?」

 「もともとは外科。でも、今日は内科の外来を担当してます」

 「へぇ……外科の先生って、こんな綺麗な人もいるんだ」

 「……患者さん、軽口言わないの」

 少し強めに言うと、彼は一瞬言葉を失い、そしてゆっくりと笑った。

 「軽口じゃないですよ。ほんとに思ったから言ったんです」

 その、飾り気のない言い方。

 計算も駆け引きも感じさせない、真っ直ぐすぎる言葉に、楓は心の奥を軽く叩かれたような気がした。

 それからの亮の行動は、驚くほど分かりやすく、そして大胆だった。

 怪我がすっかり治っても、なぜか定期的に予約を入れてくる。

 問診のたびに嬉しそうに笑い、名前を呼ぶと、少しだけ照れる。

 けれど、その目だけはいつも真剣だった。

「先生、今日は……特に痛いとこないです」

「痛くないのに予約を入れないで。他の患者さんだって待ってるのよ」

「でも、会いたかったんで」

「……そういうのは診察室で言わない!」

「じゃあ、どこなら言っていい?」

「知りません!!」

「じゃあ、教えてください。今度ご飯でも――」

 その頃の楓は、頭では「ダメ」だと分かっていた。

 医師と患者。

 越えてはいけない線があることくらい、十分すぎるほど理解していた。

 それでも、心のどこかが、どうしようもなく“嬉しい”で満たされていくのを止められなかった。

 外科医になるために、勉強尽くしだった学生時代。

 医大でも、勉強と実習に追われる日々。

 晴れて医師になっても、研修医という過酷なハードルを越え、ようやく独り立ちできた二十九歳。

 気がつけば、もうすぐ三十歳。

 恋愛らしい恋愛をした記憶もほとんどないまま、ここまで来てしまった。

 そんな楓にとって、亮の言葉は甘く、危険なほど魅力的だった。

 もし今、抱きしめられたら――

 そんな想像が頭をよぎるだけで、何でも許してしまいそうな自分が、確かにそこにいた。

(ダメダメ! こういうことを平気で言える男なんて、絶対遊び慣れてるんだから!!)

 心の中で必死にブレーキをかけながら、

 それでも亮からの何度目かのデートの誘いに、結局「OK」を出してしまっている自分。

 楓は、そんな自分自身に呆れながらも、

 同時に、胸の奥で小さく高鳴る鼓動を、どうしても否定できずにいた。

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第1話 静かな幸福の影
その頃の私は、幸せだった。 少なくとも、そう信じて疑わなかった。 ――あの匂いに、気づくまでは。 その優しさは、私の人生を奪うためのものだった。そろそろ冬の気配が近づいてきたと感じさせる秋の終わり。  空は一日中曇りがちで、雲を通した薄い光が、開業医クリニックの廊下を鈍く照らしていた。  白一色の壁、やや古さを感じさせる蛍光灯の明かり、遠くで微かに響くカルテカートの車輪の音――。  忙しさに追われることもなく、かといって完全な静寂でもない、昼下がり特有の落ち着いた時間帯だった。 渡辺楓は、診察を終えた患者のカルテを机の上に置き、最後の確認をしてから閉じようとした。  だが、その指がふと止まる。  ほんの一瞬。理由も分からないまま、胸の奥にかすかな違和感が走った。 心の中で、ある人物の姿が浮かび上がる。  思い出すつもりなどなかったのに、まるで呼び水のように、記憶は勝手に形を成していく。 彼の笑顔。  少し低めの声。  何気なく触れた手の温度。 ――亮。 名前を心の中で呼ぶだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。  二十八歳の頃から、たった二年間。  それほど長い時間ではないはずなのに、思い出の輪郭は色褪せるどころか、今も柔らかな光を放ちながら、楓の心を包み込んでいた。 「外科医になるはずだったんだよね、私……」 ぽつりとこぼれた独り言は、診察室の静かな空気に溶け込み、壁に吸い込まれて消えた。  外科研修を終えたあの頃、楓の未来はもっと直線的で、迷いのないものだったはずだ。  進むべき道は明確で、努力すれば必ず辿り着けると信じて疑わなかった。 決めたはずの方向。  描いていた将来の図。  それらすべてが、“ある出会い”によって、音を立てて崩れていった。 ――二年前。六月。 湿気を帯びた風が、病院の大きな窓を叩いていた。  梅雨特有の重たい空気が、建物の中まで入り込んでくるような夕方だった。 当直明けで、頭の奥に軽い疲労を抱えながら、緊急外来でカルテを整理していた楓の耳に、勢いよく扉が押し開けられる音が響いた。「すみません! あの、足を……!」 少し切羽詰まった声とともに現れたのは、白いシャツの胸元まで汗を滲ませた男だった。  整った顔立ちをしているのに、どこか不器用で
last updateHuling Na-update : 2025-12-18
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第2話 初デート
初デートの場所を決めたのは、亮だった。  楓が当直明けであることを知ると、彼は電話の向こうで一瞬だけ言葉を切り、何かを考えるように黙り込んだ。そして次の瞬間、まるで当然の選択肢であるかのように、穏やかな声で言った。 「重たい料理は、きっと身体に負担になりますよね」 その一言に、楓は少し驚いた。  当直明けの疲労を、こうして真正面から気にかけられた経験は、ほとんどなかったからだ。 その言葉通り、彼が予約していたのは、駅から少し離れた路地裏にある、こじんまりとしたイタリアンレストランだった。  人通りの多い通りを一本外れた場所にあり、知らなければ通り過ぎてしまいそうな控えめな佇まい。それでも、看板の文字は丁寧に磨かれ、入口の扉からは、ほのかにオリーブオイルと焼きたてのパンの香りが漂ってくる。 店内に一歩足を踏み入れると、木の香りと温かな灯りに包まれた空間が広がっていた。  昼下がりの柔らかな光が窓辺から差し込み、テーブルの上で淡く揺れている。  騒がしさとは無縁で、まるで時間が少しだけゆっくり流れているような、不思議な静けさがあった。 (……いいお店) 楓は内心そう思いながら席に着いた。  白衣を脱いだあとも、身体の奥に残っていた当直明け特有の重だるさが、店の空気に溶けていくのを、確かに感じていた。「こういうときはね、重いものより軽いもののほうがいいんですよ」 亮はそう言いながら、自然な動作で椅子を引き、メニューを開いた。  その仕草に無理はなく、まるで何度もこの店を訪れているかのような落ち着きがあった。  楓は、その様子を横目で見ながら、胸の奥がほんのり温かくなるのを感じていた。 しばらくして運ばれてきたのは、湯気の立つミネストローネだった。  亮はそれを受け取ると、まるで当たり前のように、楓の前にそっと置く。 白い湯気がゆらゆらと立ちのぼり、トマトと野菜の優しい香りが、疲れ切った身体にすっと染み込んでくる。  視覚と嗅覚だけで、どこかほっとしてしまうのは、きっと空腹のせいだけではない。「医者相手に栄養管理とか……」 楓は思わず笑いながら言ったが、スプーンを持つ手には、ほんの少し照れが混じっていた。  “気にかけられている”という感覚が、想像以上に心地よく、胸の奥に残っていた緊張をゆっくりと解かせてい
last updateHuling Na-update : 2025-12-18
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第3話 溶けていく境界
 交際が始まってからの時間は、不思議なほど自然に、楓の生活へ入り込んできた。  当直明け、自宅のベッドでぐったりと寝ていると、インターホンが鳴る。「楓、開けて。サンドイッチ買ってきた」 眠気の中、玄関の扉を開けると、亮が紙袋を片手に立っている。  いつもより少し早起きしたという顔で。「当直明けは、これくらい軽い方がいいだろ?」 差し出されたサンドイッチには、楓の好きな具材ばかりが詰まっている。そのまま少しだけベッドで抱き合ってから、亮は自分の仕事に出かけていく。  優しさが過剰に詰め込まれた、小さな幸せの塊だった。 休日は二人でキッチンに立った。  亮は料理が得意ではない。むしろ壊滅的に不器用だ。「いてっ……玉ねぎって、なんでこんなに刺すんだよ……」 涙目になりながら玉ねぎを切る亮を見て、楓は声をあげて笑った。  その笑い声につられ、亮も照れくさそうに笑う。  そんな日常の端々に、「一緒に生きる」という感覚が宿っていた。 気づけば部屋には亮の気配が増えていた。  ソファの端に投げかけられたジャケット。  洗面台には並んだ歯ブラシ。  冷蔵庫には亮の好きなビール。  ベッドの隅には彼が忘れていったスウェット。 それらが、自然で、温かくて、当たり前になっていった。 ――しかし。 そんな幸福に、ほんのわずかな影が落ち始める。 亮には一つだけ、楓を悩ませる性質があった。  嫉妬深さ。「今日の当直、誰と? 男?」「医師の八割は男よ」「……あんまり残ってほしくないんだけど」「無理よ。仕事なんだから仕方ないでしょ」「楓には、無理してほしくない」 その声音は甘く、同時に重かった。  “守りたい”と“独占したい”がないまぜになった、複雑な甘さ。  最初はそれも愛情の一部だと思えた。 だが――その嫉妬は、徐々に熱を帯びていく。 楓が男性医師とペアを組むと知れば、亮は自分が休みの日には病院に来るようになった。  遠くのロビーから、楓が帰るのをじっと見張るように。 最初にそれに気づいたとき、楓は背筋がひやりとした。 仕事を終えてロッカー室から出た瞬間、見覚えのある後ろ姿がエントランス近くに見えた。  亮がスマートフォンをいじるふりをして、医局側をちらちらと覗いている。(どうして……?
last updateHuling Na-update : 2025-12-18
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第4話 揺らぎの中で
 懇親会へ向かう支度をしていた楓の背中に、亮の冷えた声が落ちた。「行かないでほしいんだよ。男ばっかなんだろ?」 振り向くと、亮は腕を組み、テレビもつけずにソファに座っていた。  ただ楓だけを見ている。その視線には焦りにも似た強さがにじんでいた。「仕事よ。行かないほうが逆に変だから」 できるだけ穏やかな声を心がけた。  けれど亮は納得しない。「俺が迎えに行くから。長居はしないで」 そこに隠しきれない苛立ちが混じり、空気は重くなる。  言葉の端に絡む刺のようなものが、楓の胸をきゅっと締めつけた。(こんなことで揉めたくない……) ため息をぐっと飲み込む。  彼が自分を思っていることは痛いほど伝わる。  ただ――その思いが、過度に重くのしかかることもある。 亮の“見守り”は次第に“監視”へと変わっていった。  勤務表を何気なく覗き込み、誰と当直かを確認し、ペアの医師が男性だと知るとその日は必ず病院に現れた。 エントランスの片隅でスマートフォンをいじりながら、  時折、医局のほうをちらりと見る。 その視線に気づくたび、楓の心のどこかがひやりとした。 そしてついに――仕事場にも影響が出始める。 「渡辺。恋愛もほどほどにしろよ」 ある日の夕方。  外科医局の隅で、指導教授が低い声で楓を呼び止めた。  蛍光灯の白い光が影を濃くし、空気が一気に冷える。 教授は腕を組み、厳しい眼差しで楓を見つめた。「お前はまだスタートを切ったところなんだぞ。医者か結婚か、どちらを選んでもお前の人生だが……これまでの苦労を思い返せ」「……はい」 声が震え、楓はゆっくりとうつむいた。  その一言一言が胸に重く沈み込んでいく。「俺はお前の外科医としての腕を見込んでいるからこう言うんだ。  外科医になる道を諦めるな」 静かながら力のある言葉だった。  怒りでも責めでもない――本気で楓を思っているからこその叱咤。 その優しさが、逆に胸を刺す。 亮との日々は温かかった。  当直明けのコーヒーの香り、休日の小さな料理の失敗、  ソファで肩を並べて見た映画、ふいに差し込んでくる手の温度――  その一つひとつが、楓にとって救いだった。 だけど、気づかないふりをしていた。 その温かさに溺れかけていたことに。(私
last updateHuling Na-update : 2025-12-19
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第5話 別れなかった理由
決定的なケンカになったのは、ほんの些細な言葉からだった。「どうして、また男と当直なんだよ」 亮の声は強張り、楓を責めるように響いた。「“また”も何も、病院なんだから当然でしょ。女性医師のほうが少ないんだから」「でも俺は嫌なんだよ」「私だって嫌よ。いつも疑われるの」 その瞬間、部屋の空気が一気に張りつめた。 楓がこんなに怒るのは珍しい。亮もそれをわかっているのか、言葉を飲み込んだまま固まった。  沈黙が長く落ちたあと、亮がぽつりと言った。「……楓が誰かに取られる気がする」「取られないわよ。そんな簡単に誰かに心を向けたりしない」「それでも……怖いんだよ」 弱さを見せられると、楓は強くは言えなかった。  亮の嫉妬深さに辟易していた部分は確かにあるが、それでも――亮を嫌いになることなんて、想像すらできなかった。 だからこそ、楓はある決断を下す。 外科を辞める。  大学病院を辞めて、知り合いの総合病院の内科に移る――その選択。 辞表を提出した日、外科医局の空気がぴんと張りつめた。「渡辺、本当に辞めるのか? もったいない!」 「君の腕なら、将来は教授も狙えるんだぞ!」 「恋愛なんて、あとからでもできるだろう!!」 散々引き止められた。  指導医には何度も呼び出され、「一度落ち着いて考え直せ」と言われた。 だが、楓は昔から決めたことは曲げない猪突猛進型だ。  一度“内科に移る”と決めた以上、迷いはなかった。(後悔なんて、するわけない。亮と一緒にいられるなら、それでいい) そう思い込んでいた。  あるいは、そう思い込もうとしていた。 内科へ移ってから、亮は確かに安心したようだった。「これで当直も無いよな? 呼び出しもほとんどないんだろ?」「うん。外科みたいに緊急オペもないし」「よかった……ほんと、よかったよ」 亮の安堵した笑顔を見て、楓は胸が温かくなるのを感じた。  また以前のような穏やかな二人に戻れた気がした。 楓が内科に移ってからは、平日の夜も外食が増えた。  亮は行きつけの店や接待でよく使う“雰囲気のいい店”へ楓を連れて行ってくれた。「ここ、ワインが最高なんだよ」 「こっちはちょっとおもしろい店。先輩と来てさ」 そしてある夜。「行ったことないだろう?」と自慢げに亮が案内したのは
last updateHuling Na-update : 2025-12-20
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第6話 見なかったふりの夜
 内科へ移ったことで、楓の日常は驚くほど変わった。  呼び出しは減り、急変の緊張で胃が縮むような夜もなくなった。  勤務の重さそのものが外科とはまるで違う。  心身の疲労は軽くなり、体がふっと軽くなったかのようだった。 けれど、その軽さは同時に“何かを置いてきた証”でもあった。 ──外科医としての夢。 白衣の袖を通したときの、あの緊張感。  手術室の無機質な光が肌に落ちる瞬間の高揚。  スコープ越しに見える命の輝き。  それらの感覚が日々薄れていくのを、楓ははっきりと感じていた。 それでも笑えた。  亮といる限り、未来を考えるより“今”の幸福を抱きしめていたかった。 ホストクラブを出た夜。  街に広がるネオンの光が、夜風に揺れて滲んでいる。  酔いの回った亮はご機嫌で、楓の肩に腕を回して歩いた。「な? 面白かっただろ?」「……ええ、まぁ。初めてだったけど」「また行こうぜ。今度はもっと派手な店知ってるから!」 亮の笑顔は無邪気で、少し子どもっぽいほどだった。  その表情を見ていると、楓も笑わずにはいられない。  一緒にいるときの彼は、本当に楽しそうで、愛おしかった。 しかし、心の奥では別の声が囁く。(私の当直の夜、亮は……こんな場所に) 喉の奥がひりつくような、かすかな痛み。  黙り込んだ楓に気づいた亮が顔を覗き込んだ。「どうした? 疲れた?」「ううん。ちょっと考え事してただけ」「また変な心配してんだろ? 俺は楓だけだから」 そう言って、楓の頭を優しく撫でる。  その手つきは温かくて、優しくて、嘘を感じさせなかった。 信じたい。  信じていたい。 だから楓は、その言葉の裏側を深く探らなかった。 翌週も、さらにその翌週も、亮は「接待で」「面白い店がある」と言い、夜の街へ楓を連れ出した。  楓が知らなかった世界を、亮は次々と見せてくる。 ワインバー、クラブ、隠れ家レストラン。  そして、夜の街の入り組んだ路地裏にある小さなラウンジ。(亮……夜の店、やけに詳しい) 胸にひっかかる違和感が、日に日に重さを増す。  亮が仕事だと言うなら、それを疑う理由はないはず。  それでも――  楓が当直で働いていた夜、亮がどこで誰と何をしていたのか。  ふと考えてしまう自分がいた。 責めたくない。  問
last updateHuling Na-update : 2025-12-22
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第7話  甘い香りの正体
 内科へ移ったことで、楓の生活は穏やかになった。  亮も安心したようで、デートが増え、会話も笑顔も戻った。  だが――その均衡が揺らぎ始めたのは、亮が「新しいプロジェクト」に抜擢された少し後だった。『今日は遅くなる。会えない』 ハートも絵文字もない。  ただの通知音が、楓の胸をかすかに冷やす。 忙しいのなら仕方ない。  そう思い込もうとしたが、胸の奥のざわつきは消えなかった。 さらに翌週。  亮が帰宅したとき、ふと風に乗って漂ってきた匂い――(……誰の香り?) 嗅いだこともない甘い香水。楓ももっと若いころはおしゃれが好きで、香水をつけて行って病院で怒られたこともあった。それに似た香り。でも自分のではない。  そう感じたが、楓は問いただすことができなかった。  彼を信じたい気持ちのほうが、まだ強かったから。 しかし、その香りの主が、二人の未来を大きく狂わせる存在になることなど、楓はまだ知らなかった。 帝東物産本社。  朝の光がガラス張りのエントランスを照らし、そのきらめきが眩しいほどに広がっていた。 エスカレーターで上階へ向かう途中、佐々木亮は資料を握りしめたまま深呼吸した。  緊張の汗が手のひらにじっとりと滲む。  しかし胸の奥にあるのは、不安よりも「期待」と呼べる高鳴り。 今日会うのは――  帝東物産にとって今期最大規模となるプロジェクトの中心人物。 大手不動産グループ、宮原ホールディングス。 そしてその会社の社長令嬢が、今回の決裁の鍵を握っているという。(令嬢っていっても、どうせ役職だけの飾りだろ) そんな軽口を心の中で言いながらも、胸はざわつく。  噂程度に“美人だ”“気難しいらしい”と聞いたことはあるが、亮はほとんど気にしていなかった。 だが――  ロビーに足を踏み入れた瞬間、その認識は音を立てて崩れた。 高い天井から吊るされた巨大なシャンデリアが眩い光を落とし、  磨き上げられた大理石の床がその光を反射する。  どこまでも広いロビーには重厚な静けさが漂い、まるで別の世界へ迷い込んだような錯覚を覚えた。 そんな中で、ひとりの女性が軽やかに歩いてきた。 白いワンピースが揺れ、柔らかな栗色の髪が光を受けてきらめく。  微笑んだ唇は温かいのに、その奥に影のようなものを宿した瞳。  人を惹きつけ
last updateHuling Na-update : 2025-12-23
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第8話 落ちていく心
 会議は驚くほど順調に進んだ。 亮の作成した資料は帝東の上司だけでなく、宮原ホールディングス側の役員にも高く評価された。「あなたの資料、とても分かりやすいわ。お父様も褒めてた」 会議が終わり、退出しようとした亮を亜里沙が呼び止めた。「あ……それは光栄です。ありがとうございます」 柔らかい声。 距離の詰め方が上手い。 その自然さが、かえって戸惑いを生む。「ねぇ、佐々木さん。今日のお礼に食事に行かない? 近くにすごく素敵なお店があるの」「いや、でも……社長にもご迷惑になるんじゃ」「私が誘ってるんだもの。問題ないわ」 “当然でしょ?”とでも言うような、自信に満ちた笑み。 その笑みには、拒絶という選択肢をそっと消し去るような力があった。 亮は―― 気づけば、静かに頷いていた。(仕事の延長だ。問題ない)そう自分に言い聞かせながら。 案内された店は高級ホテルの高層階のラウンジの個室だった。 壁一面がガラス張りで、足元にまで広がる夜景が宝石のようにきらめいている。 席につくと、亜里沙がワインを注文し、グラスを揺らしながら亮を見る。「ねぇ、佐々木さん。あなた、彼女いるの?」「……はい。います」 亜里沙は、意外にもふわりと微笑んだ。「そうなんだ。でも……ちょっと寂しそう」「寂し……?」「恋してる人ってね、もっと目が光るの。あなたのは、なんだか曇ってる」 胸が一瞬、ざわついた。 楓との最近の空気、自分の中に生まれた小さな不安―― それを見透かされた気がした。「……仕事、忙しいだけですよ」「そういうことにしとく?」 亜里沙はワイングラスを指でなぞりながら、ゆるく微笑む。 その指先には奇妙な色気があり、亮の鼓動がわずかに早まる。「佐々木さんみたいに、才能あって努力する人。私は好きよ」「……そんな、社交辞令」「社交辞令じゃなかったら?」 亜里沙は一歩も引かない。 視線をそらすことなく、亮をまっすぐに見つめ続けた。 テーブル上のキャンドルが揺れ、彼女の瞳に赤い光を宿す。 その熱に、亮の意識がゆっくりと引き寄せられていく。 亜里沙が身を乗り出し、亮の頬にそっと触れた。「お礼、してあげる」 囁くような声。 唇の距離は、指二本ほど。 そのとき―― スマホが震え、楓からのメッセージが短く光った。『仕事終わった?
last updateHuling Na-update : 2025-12-24
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第9話 裏切りの始まり
 亮が亜里沙と食事をした夜から、ほんの少しだけ彼の態度は変わった。 それは誰も気づかないほどの些細な変化だった。 けれど、楓は敏感に察した。 翌朝。 亮はいつものように楓を抱きしめたが、その腕はどこか緩かった。 キスはしてくれたが、唇が触れている時間が短かった。 そんな小さな違和感が、積み重なるたびに楓の胸の奥で冷たい波紋になって広がっていく。 ある夜、楓が仕事を終えて亮のマンションに向かうと、 玄関に入った瞬間――ふわりと香った。(……また、この匂い) 甘く、どこか官能的で、楓のものでも、市販のものでもない香り。 亮のスーツに微かに残っていた“あの香り”と同じだ。「あ、楓。帰ってきた?」 リビングから亮が顔を出す。 だが楓は、すぐに訊ねることができなかった。(仕事の女性かもしれない。会議室で誰かの香水がついただけかもしれない) 必死に理由を並べる。 信じたい――その気持ちが、疑念をかき消そうとしていた。「遅かったな。疲れただろ?」 亮は優しく笑う。 その笑顔を向けられただけで、楓の心は一度揺らぎ、疑う自分を責めてしまいそうになる。「……うん。ちょっとね」 楓は亮の胸に顔を寄せた。 だが、その胸の奥に染みついた甘い香りが、逆に彼を遠ざけていく気がした。 その数日後。 亮からの連絡が、また短くなった。『打ち合わせ入った。遅くなる』『今日は疲れたから寝る』 文章から温度が消えてゆく。 以前は必ずつけていた絵文字はなく、そっけない短文だけ。(……亮、最近やっぱり変。……ほかに女ができた…?) 夜。 楓は、寝室でひとり、スマホを握りしめたまま横になった。 あの香水の匂いを思い出し、胸の奥がきゅっと痛む。 そして、ふと気づく。(そういえば……最近、亮から触れてくれる回数が減った) 抱きしめる力も、キスの深さも、“会いたい”と言ってくれる頻度も―― まるで、少しずつ削り取られていくように。(私の気のせい……なのかな) 自分を責めるように、楓は目を閉じた。 翌週。 亮がシャワーを浴びている間、楓は洗濯物を分けようとスーツに手を伸ばした。(……え?) スーツのポケットから、小さな紙片が落ちた。 それは―― 高級ラウンジの会員制カードの控え。 そして裏には、見慣れない筆跡で名前が書かれていた。
last updateHuling Na-update : 2025-12-25
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第10話 確信へと変わる夜
 胸のなかで渦巻いていた“違和感”は、もはや曖昧な影ではなかった。 形を持ち、重さを持ち、楓の心の奥にじわりと沈殿していく“疑念”へと変わりつつあった。 けれど――楓は認めることができなかった。 認めてしまえば、その瞬間から、二人の思い出のすべてが崩れてしまいそうだったからだ。 亮と過ごした2年間。 笑い合った食卓。 手を繋いで歩いた帰り道の灯り。 当直明けの朝に、差し入れを持って迎えに来てくれた姿。 寝息を立てる亮の隣で感じた温度。(あの全部が……嘘になるなんて、嫌だ……) だから楓は、自分に言い聞かせた。“気づかないふりをする” 亮の顔を見れば、まだ胸が締めつけられるほど愛しい。 腕に抱かれれば、不安なんてきれいに溶けてしまう。 亮の声は甘く、優しく、楓の心を簡単に緩ませた。(大丈夫。仕事で疲れてるだけ。そうよ、きっとそう……) そう心で繰り返し、楓はソファに身を沈めた。 その瞬間―― テーブルの上で、亮のスマホが淡い光を放った。 ピッ。 短く響いた通知音が、静かな部屋に刺さる。 画面に浮かんだ名前を見た瞬間、楓の呼吸が止まった。《亜里沙》 胸の奥で何かが、静かに砕けたような気がした。 凝視する楓に気づいたのか、亮が慌ててスマホを掴み、 画面を下向きに伏せる。「ち、違うんだ。これは……仕事でさ、ちょっとその……連絡が来ただけ」 明らかに動揺していた。 言葉はどこか上ずり、視線も合わない。(亮が……こんなに慌てるなんて) 楓の手が震える。「仕事? こんな夜中に?」「そ、そうなんだよ。急な呼び出しで……行かなきゃいけないんだ」 亮は上着を乱暴に羽織り、財布と鍵を掴んだ。 その姿は、まるで何かから逃げるようだった。「どこへ行くの……?」 楓は震えた声で問いかける。 亮は一瞬だけ足を止めたが、振り返らずに答えた。「……仕事だって言ってるだろ。詳しくは言えない」「こんな時間に? こんなに急に……?」「悪い、ほんとに急ぎなんだ!」 亮はそれ以上何も言わず、バタッと玄関の扉を閉めた。 残された部屋には、甘い香水の残り香だけが静かに漂っていた。 楓は立ち尽くした。 心臓の音が、耳の中でいやに大きく響く。(亮……嘘ついてる) 気づきたくなかった真実が、静かに楓の胸へ染み込んでいく。 身
last updateHuling Na-update : 2025-12-25
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