Chapter: #47.第十二話「反撃の一手」③ 錠前が引っかかっているだけの戸を静かに開き、二人は息を殺して、そろそろと資料室の中へ入った。 扉を閉めきる前に、アリスの耳が小さな声を拾う。 壁の向こうから、人の話し声が聞こえていた。 片方は低く、威圧的で押さえつけるような声音。もう片方は、それに負けまいとするように、慎重に言葉を選んでいるような、それでいて意志の強い声。──トーマスとアーサーが話しているんだ。「何喋ってるんだろう……」 アリスが思わず呟くと、ウルフは廊下側の人の気配を確かめながら短く答えた。「さあな。しかしあいつ、司祭をやってるだけあって、代官相手に話を持たせるくらいはできてるみたいだな」 まるでからかうような言い方をするウルフだが、彼なりにアーサーを心配していたのだと思うと、アリスは少し嬉しい気持ちになった。(私も、できることをしなくちゃ……!) 帳簿探しは慎重に。少しでも物音を立てれば、壁の向こうへ届きかねない。 ウルフはすぐに部屋の中へ視線を走らせた。 壁際にはいくつもの棚が並び、紐で束ねられたロールや、書きつけの束、木箱が置かれている。中央の作業台には、まだ片づけられていない書類が広げられたままだった。 その上に置かれている羊皮紙を見て、アリスの息が止まりかける。 そこには、父の名が署名された誓約書があった。【ウィンドル川及び水車用水路の保全に関する誓約】我、サイモン・ミルナーは、ペンストレイト領内において粉挽き業を営む者として、領主及び代官の命に従い、左の事項を誓約する。一、ウィンドル川、水車用水路、堰及びこれに付随する施設を汚損せず、その清浄を保つこと。一、灰、獣脂、腐敗物、薬品その他、水質を損なうおそれある物を故意に川及び用水へ流さぬこと。一、水車、倉庫、作業場及び排水路を常に適切な状態に保ち、不浄又は異変を認めた際は速やかに代官へ報告すること。一、代官又はその任を受けた役人が、水質及び施設の保全状況を確認するため検査を行う場合、これを拒まず協力すること。一、村内において水質汚濁その他公衆の安全に関わる疑いが生じた際は、必要な調査及び改善命令に従うこと。一、本誓約に違反したと認められた場合は、領主裁判所の裁定に服し、罰金、営業停止その他相当の処分を受けることに異議を唱えない。右、領民の安全及び村の秩序維持のため、偽りなく誓約し、ここに
Huling Na-update: 2026-08-23
Chapter: #46.第十二話「反撃の一手」② アーサーがトーマスと向かい合っている頃、代官邸を少し離れた物陰から、その様子を見つめている二つの視線があった。ウルフとアリスだ。 二人の目的はひとつ。 アーサー、ウルフ、アリス、ルーシー。四人の命運をかけて、トーマスとの交渉に使う不正の証拠となる帳簿を、屋敷の中から盗み出すことだった。 はじめに二人は、屋敷の表側から警備の状況を確認した。 正面入口のあたりには、アーサーの馬車を迎えるためか、召使いや下男が複数立っている。門の前では人が出入りし、普段よりも落ち着かない空気が漂っていた。 それを見て、アリスは眉間にしわを寄せた。「案の定、人がいっぱいいるわね」 きっとトーマスは、ミルナー家の署名やアーサーとの対話に横槍が入らないよう、警戒しているのだろう。「こりゃ、お前の親父さんもたまらないな……署名しないならしないで、すぐにでもお前んちを改めて、粉挽きが不埒なことを考えていたとか言う気でいたんだろうよ」「そんなことになったら、私たちはこの村で生きていけないわ。粉挽きをよく思ってない人は少なくないもの……こっち来て」 アリスは小声でそう言うと、ウルフを促し、正面入口から外れた塀沿いへ回った。 そこは屋敷の通用口へ続く道だった。普段なら、下働きや出入りの者が使う場所である。正面から入るよりは、まだ人目を避けられるはずだった。 だが、ウルフはすぐに足を止める。 そして塀の先、通用口のあたり、屋敷の窓へと順に視線を走らせ、低く言った。「駄目だ。ここも人の目が切れない」「でも、正面よりはましでしょ」 一見ひと気の少ないその場所を前に首を横に振るウルフに、アリスはむっとした。「そんなの、人払いしてるからに決まってる。その代わり、見えないところに監視が隠れているんだ。そんな場所を安易にうろつくのは命取りだろ。仮に中に入れても、こんな高い塀じゃ戻る時に逃げ道が悪い。俺一人ならまだしも、お前連れじゃな」「じゃあ、どうするの?」「こっちだ」 言うが早いか、ウルフは屋敷から離れてずれた方面へ歩き出した。「え、どこへ行くの、ウルフ……待って!」 慌てて追いかけるアリスを連れ、ウルフはウィンドル川沿いの茂みへ向かう。 その光景を見て、アリスはすぐに察した。 川の方から屋敷の裏手に忍び込む気なのだと。 途端に、アリスの顔が露骨に曇る。 彼女
Huling Na-update: 2026-08-23
Chapter: #40.5.十話の補足:川が村を養い、毒を運ぶまで■村を一本につなぐ生活インフラ十四世紀のイングランドでは、井戸や泉、川や小川など、土地にある水源を組み合わせて生活していました。飲み水には泉や井戸が好まれましたが、すべての家が良質な水源を持っていたわけではありません。川の水も、炊事、洗濯、道具の洗浄、家畜への給水など、さまざまな用途に使われました。川は水源であると同時に、仕事場でもありました。水車を回して穀物を挽き、魚を獲り、羊毛や獣皮を洗い、家畜の手入れをする。中世の川は、現代でいう水道、動力設備、作業場の役割を一度に担っていたのです。便利である一方、そこには大きな弱点がありました。上流で使われた水が、処理されないまま下流へ流れていくことです。■目の前から消えても、汚れは消えない流れる水の中で動物を洗えば、毛や泥、脂、薬剤はすぐにその場から見えなくなります。しかし、汚れが消滅したわけではありません。下流へ移動しただけです。汚染の広がり方は、川の状態によって変わります。水量が多く流れが速ければ薄まりやすく、渇水時や流れの緩い場所では高い濃度のまま残りやすくなります。脂やタールのように水へ均一に溶けない物質は、水面や岸辺へ寄り、泥、水草、石などへ付着することもあります。そのため、同じ川を利用していても、村人全員が同時に倒れるとは限りません。水を汲んだ場所や時間、飲用・調理・食器洗いといった用途によって、口に入る量が異なるからです。ある家では何人も体調を崩し、隣家では被害が出ないという、原因を見つけにくい状況も生まれます。中世の人々も、水の濁りや悪臭を気にしなかったわけではありません。都市では水路への廃棄を規制し、給水設備を管理した記録が残っています。ただし、目に見えない成分を検査する手段はなく、異変の原因を突き止めるには、臭い、色、残留物、病人の分布などから推測するしかありませんでした。■タールと獣脂は動物用の軟膏だった作中で犬の洗浄に使われているタールと獣脂は、当時の生活から完全にかけ離れた材料ではありません。羊の皮膚病や寄生虫対策では、タールにバターやラードなどの脂を混ぜた軟膏が使われました。羊飼いがこうした軟膏を入れた「タール箱」を
Huling Na-update: 2026-08-20
Chapter: #40.第十話「窓を開けた先には」③ アーサー必死に話し合おうとトーマスに提案する横で、村人たちは状況が呑み込めずに立ち尽くしているウルフをその場に残したまま、天幕を囲むように杭を打ち、縄を張り始めている。木槌の音が夜気に重く響いた。「一体、何の騒ぎだ」 低い声に、何人かの村人がびくりと肩を揺らした。トーマスは一歩前へ進み出る。「初めまして、かな。貴様と直接喋るのは初めてだと思うが、私はこのアッシュワース村で領主ジェフリー・オーランド・ペンストレイト男爵様より代官を任ぜられている、トーマス・ベネディクトゥス・ゴードンである」 わざとらしく名乗りを済ませ、口元だけで笑う。ウルフは答えず、黙って見下ろしていた。「アーサー司祭殿から貴様の事は多少聞いてはいる。単刀直入に言おう……流浪人殿を村人たちが怖がっている。今すぐ立ち退いてはくれないか。もしそれを拒否するなら、この結界の中から出る事はまかりならん。貴様には村に呪いを持ち込んだ疑いがあるのだ」 「だからトーマスさんっ、彼は誰かを呪ったりはしてません!」 アーサーが前へ出る。だがトーマスは視線だけでそれを制した。「では、それを今すぐ証明したまえ。今すぐだ。出来ないなら我々に従って頂く他無い」 「今すぐって……」 喉がひりつく。アーサーは不安げにウルフを見た。呪いの原因はまだ調査中だ。今この場で潔白を示すのは難しい。「では時間をください。一日……いや、数時間あれば彼が呪いと無関係であることを証明いたします!」 縋るように言うと、群衆の後ろで小さなざわめきが起きた。「無駄な時間稼ぎだ」 トーマスの声は冷え切っていた。「騒ぎが起こってから何日経っていると思っている。数時間でどうにかなるなら、とっくにどうにかしていてもおかしくないだろう、司祭殿。村人たちはもう我慢の限界を迎えている。今すぐ説明出来ないなら、下がっていていただこう」 言葉のたび、村人たちの視線がアーサーへ突き刺さる。「それは現在……」 調査中です、と口を滑らせかけたアーサーを遮るように、ウル
Huling Na-update: 2026-08-20
Chapter: #39.第十話「窓を開けた先には」② 上流から順に調べていたウルフは、日が暮れる頃にポイントC――バートン邸付近の川辺にたどり着き、調査を始めた。 バートン邸の裏手を流れる川には、最初に調べたような流れの早い深みは無く、比較的浅く穏やかな流れのそばに、砂と石の多い河原が点在していた。これなら村人にとっても使い勝手がよさそうなのに、不自然なほど人気が無かった。 しかも、ガマほどの丈高い草は生えていないものの、人目を遮る茂みは多い。身を隠すには都合がよく、あの群生地とはまた別の厄介さがあった。 そこでウルフは付近を細かく調べてゆくと、やがて明らかに踏み荒らされた跡のある川岸を見つけた。 足跡の周辺には大量の獣毛が散らばり、油じみた悪臭も色濃く残っている。「この臭い、タールか……他は獣の脂と灰汁ってとこだな……」 ウルフは詳しい仕組みを知らないが、タールは松脂などから採る黒い油で、防水、防腐、獣皮の駆虫、家畜の洗浄にも用いられる。ただし刺激が強く、皮膚を荒らし、口に入れば激しい腹痛や嘔吐を招き、大量なら命にも関わる。獣脂も腐れば吐き気や下痢のもととなり、灰汁は灰から取る強アルカリ性の液で、肌に触れれば炎症や火傷を起こし、飲めば喉や胃を焼く危険な代物だ。 つまり、石鹸じみた洗浄剤の残滓が、この川辺一帯を広く汚していたのである。 ウルフは地面に散った毛を摘み上げ、指先で確かめた。「この毛は……あの犬どもか。こんなところで薬品を使って獣なんか洗ったら、下流の人間に被害が出るに決まってるだろ、あのデブ!」 残留物の量から見て、一度や二度ではない。何度もここで犬を洗っていたと考えてよかった。 ウルフは採取用の水筒へ慎重に川水を詰め、周囲に散らばった犬の毛や薬品の残り滓を布切れへ包んで集めていた。すると、不意に人の気配がこちらへ近づいてくるのを感じ、即座に身を低くする。 気取られぬよう茂みの奥へ身を伏せ、葉の隙間から様子を窺うと、一人の羊飼いが数匹の犬を連れて川辺へ現れた。男は何のためらいもなく犬を浅瀬へ追い込み、桶からどろりとした薬品を掬って毛並み
Huling Na-update: 2026-08-19
Chapter: #38.第十話「窓を開けた先には」① ウィンドル川。アッシュワース村西側の丘陵地から流れ出し、村の中心を東へ横切って、東の湿地帯へ注ぐ川で、村の主要な生活用水場となっている。 粉挽き施設を抱えるアリスの家、ミルナー家は川の最上流に位置し、少し下れば代官のバートン邸、さらにアーサーの住む司祭館のある聖ヒュー教会、最下流の湿地帯付近にルーシーの家があると聞いた。 ウィンドル――『曲がりくねった』という名の通り、この川はカーブが多く、流れの速さも水深も場所によってまちまちで安定しない。 特に水気を帯びやすく乾きにくい粘土質の湿地帯は、夏になると背の高い草やガマが生い茂って視界が悪く、人も近寄らない。何かを仕掛けるにはもってこいの場所だろう。 ウルフは胸元まである水の中から、川べりに繁茂したガマの群生地を見上げ、周囲へ視線を巡らせた。「ここも何も無しか……毒を仕掛けるなら、水の汚れが溜まりやすいこういう場所に置いてるかと思ったが、そうでもないのか……おっと」 不意に苔むした石を踏み、流れの速い水に体を持っていかれそうになりながら浅瀬へ向かった。 川から上がり、服の水気を絞りながら上流を眺める。 (あれだけの体調不良者を出すような毒を、証拠も残さず大量に流す方法……いや、どこかに何らかの証拠はあるはずだ) しばらくその場に腰を下ろし、ウルフが考え込んでいると、背後から声が掛かった。「流浪人の旦那!」 振り向くと、森番のホッジがこちらへ歩いて来るところだった。「あんたか。今日は別にウナギは獲っていないぞ」 「そうかい。また獲ったら頼むよ。あれからも、あんたの味付けをまた食べたいって妻がうるさくてよ」 「そうか。それなら何よりだ。用はそれだけか?」 「まあ、森の様子を見て回ってたら見かけたから、声を掛けただけさ。じゃあな」 そう言ってホッジはさっさと立ち去ってしまった。森番の仕事として、この辺り一帯の様子を見て回るとなれば、暇でもないのだろう。 ところで、ウルフは知らないことだが――代官のトーマスから賄賂を渡されていたホッジが、こうして気安く話し
Huling Na-update: 2026-08-18
Chapter: #16 第8話 資料に残る名前「近づくなと言われると、余計に気になる」② 退勤後、玲は駅へ向かう人の流れから外れ、ビルの外にあるベンチへ腰を下ろした。 会社の入館証はバッグへしまってある。玲は自分の端末を取り出し、久世リストラクチャリング・パートナーズの社名を検索した。 厎の資料を撮影した画像も、持ち出したメモもない。確認するのは、会社の公式サイトや報道記事など、誰でも見られる情報だけだった。 久世社は、経営が悪化した企業の再建や、企業買収の支援を行う会社だった。公式サイトには、財務状況の調査、再建計画の立案、事業の売却や分離を支援するとある。過去に関わった案件も複数紹介されていた。 価値のある事業を切り離し、不採算部門の影響から守る。それも企業再生の手法の一つとして、ごく普通に説明されている。 犯罪や不正を疑わせる記事が見つかるわけではない。社名とともに検索候補に並ぶのも、企業再生や事業再編といった言葉ばかりだった。 とりあえず公開情報から分かるのは、久世社が表向きに掲げている仕事だけである。啼石商事の買収案件で久世社は何を求め、厎とどのような関係にあるのかまでは分からない。 それでも、厎の方針と久世社の資料を見比べたあとでは、数ある外部協力会社の一つとして片づけることができなかった。 玲は検索画面を閉じ、章とのメッセージ画面を開いた。 普通に働く中で、気になったことを教えればいい。 数日前の夜、章は確かにそう言った。今回は、自分から権限のない場所へ入ったわけでも、資料を盗み見たわけでもない。仕事として渡された資料を分類し、その中で何度も同じ社名を見つけた。 玲は文章を打ち始めた。資料の画像や方針の文言は送らない。会社名と、久世社が参加していた過去の会議日程を並べ、公開情報で確認できたことだけを添えた。『啼石商事の案件に、久世リストラクチャリング・パートナーズという会社が何度も参加してる。過去の会議日程はこれ。会社について調べたけど、公開情報では企業再生や買収案件を扱ってることしか分からなかった』 送信してから、一分も経たないうちに既読がついた。 章がどんな反応をするのか考える間もなく、返事が届く。『その会社には近づくな』 玲はその短い一文を読み直した。 関係のない会社なら、章は「知らない」と返すだろう。企業再生の専門会社なら珍しくないと、軽口を交えて片づけるかもしれない。玲を企業スパイとして送り込
Huling Na-update: 2026-08-20
Chapter: #15 第8話 資料に残る名前「近づくなと言われると、余計に気になる」① 前日に整理した共有フォルダは、出勤した玲が見ても、どこに何があるのかすぐ分かる状態を保っていた。 作成元と保存先を確認できた資料だけを分け、判断できないものは小宮に確認した。勝手に中身を変えず、相違点があれば報告する。そのやり方を認められたからか、午前の作業を終えたところで、小宮が玲の席へ来た。「蓮見さん、今日はこのフォルダの整理をお願いできますか。会議日と案件名を確認して、同じ案件ごとにまとめてください」 小宮が画面に示したのは、補助チームで保管している過去の会議資料だった。現在使われている資料ではなく、既に終了した会議ごとの記録である。閲覧できるのは派遣スタッフにも取り扱いが認められた範囲に限られており、玲が開けない資料は最初から表示されない。「分かりました。作成元と版番号も確認した方がいいですか」「お願いします。外部から届いた資料は、社内で作成したものと分けておいてください。同じ会議の古い版が残っていても、削除はしないでくださいね」「承知しました」 玲は分類用の一覧と作業記録を開いた。確認するのは会議名、開催日、参加会社、作成元、版番号である。表紙だけでは作成元が分からないものは目次と参加者一覧を見て、更新日時も照らし合わせる。同じ案件名でも開催日が違えば別の会議として残し、同じ会議に複数の版があれば、作成された順番が分かるように並べた。 一つの案件を終えるたび、一覧へ保存先を記録する。買収候補の会社名は違っても、資料の構成はよく似ていた。厎社内の部署だけで作成されたものもあれば、銀行や法律事務所、外部の専門会社が加わっているものもある。買収に厎と相手企業だけが関わるわけではないことくらいは、専門知識のない玲にも分かった。 いくつ目かのフォルダを開いたとき、見慣れた社名が画面に現れた。──『啼石商事』 カーソルを動かしていた手が止まる。 厎で働き始めてから、父の会社の名を目にする機会は増えた。会議予定にも資料の表紙にも記されている。それでも、自宅では章の不満を通してしか知らなかった買収について、職場ではいくつもの会議が開かれ、日付と版番号の異なる資料が積み重なっている。その光景には、まだ慣れなかった。 玲は周囲へ目を向けかけ、すぐに画面へ戻した。自分から探し出した資料ではない。小宮から任されたフォルダを、決められた手順で整理してい
Huling Na-update: 2026-08-20
Chapter: #14 第7話 小さな仕事「見えない仕事ほど、誰かが見ている」② 玲は自席へ戻り、次の会議資料を印刷した。最初に一部だけ出し、表紙の案件名、作成部署、版番号、ページ順、両面印刷の向きを確かめる。問題がないことを見届けてから必要部数を揃え、出席者用、説明者用、予備を混同しないよう付箋をつけた。最後に、使ったファイル名と更新日時を作業記録へ残す。「蓮見さん、十一時の会議資料はできていますか」 これまで水野や小宮へ声をかけていた社員が、今日はまっすぐ玲のところへ来た。「はい。出席者七名と説明者一名、予備一部で、九部用意しています。今朝差し替えられた第四版で確認済みです」「ありがとうございます。受け取っても大丈夫ですか」「はい。こちらの記録へ、受領時刻の入力をお願いします」 社員は記録へ時刻を入力し、資料を抱えて会議室へ向かった。その後、午後の会議について尋ねられたときも、正式版はまだ届いていないことと、届き次第印刷を始めれば受け渡し予定には間に合うことを伝えた。分からないことを曖昧に請け合わず、分かっている範囲と確認が必要な範囲を分けて答える。小宮に代わってもらわなくても、自分で答えられた。 配属されたばかりの頃は、新しい派遣スタッフとして、水野を通して仕事を教えられていた。今は「蓮見さん」と名前を呼ばれ、準備状況を直接尋ねられている。 女性の格好をしているからでも、派遣元と同じ名字だからでもない。頼まれた仕事を間違えずに用意する人間として覚えられたのだと思うと、玲は素直に嬉しかった。 父に送り込まれたときは、女性姿で通用するかばかりを気にしていた。だが職場で必要とされるのは、頼まれた仕事を予定どおりに進められるかどうかだ。服も化粧も自分で選んだものだが、任された仕事を着実にこなした事実は、誰でもない玲自身のものだった。 直接内容を確認された短いやり取りにも、ここで自分の居場所を少しずつ作れている証拠であり、玲にとって実感ある経験となりつつあった。 午前の会議が終わると、玲は小宮と、先ほど開かずに残した第五版を確認した。同じ案件名がついた四つの関連ファイルは、一覧ではすべて第六版になっている。だが、実際に版番号と更新日時が一致するのは三つだけで、一つだけ第五版のままだった。「こちらだけ更新日時が前のままです。版番号も一つ古いですね」「やっぱり混ざっていましたか。水野さんにも確認してもらいましょう」 玲は古
Huling Na-update: 2026-08-19
Chapter: #13 第7話 小さな仕事「見えない仕事ほど、誰かが見ている」① 翌朝、玲は自席へ着くと、補助チームの共有予定表と、その日に準備する会議の一覧を並べて開いた。 午前中だけで会議は四件ある。開始時刻、会議室、出席予定者、必要な資料を照合し、印刷に時間のかかるものを先に出す。会議の時刻は動かせない。自分が遅れれば、資料を取りに来る社員を待たせ、部屋を整える小宮たちの作業まで遅らせてしまう。玲は水野に教わった確認項目を追いながら、それぞれの作業を何時までに終えるか、メモに書き加えた。 もう一度予定表へ目を戻すと、十時からの欄に同じ会議室名が二つ並んでいた。 片方は営業部を含む十二名の会議で、もう片方は四名の打ち合わせだ。どちらにも出席者と配布資料が登録されているため、一方の消し忘れではない。このままなら、十時に二組が同じ扉の前へ集まることになる。 玲は空室を検索した。隣の小会議室なら同じ時刻に空いており、四名で使える。そこまで確かめてから、小宮へ予定表の画面を見せた。「小宮さん、十時からの会議室予約が重複しています。四名の打ち合わせを隣の小会議室へ移せそうですが、主催者側へ確認してもよろしいですか」「お願いします。四名の方は厎さんが連絡担当になっています。もう一方は私が確認するので、蓮見さんは厎さんへ連絡してもらえますか」「分かりました」 配属されたばかりの玲が勝手に会議室を変えることはできない。玲は耀司へ変更案を送り、元の会議室を使う側にも小宮が確認を取るまで、予定表には手を加えずに待った。 間もなく、耀司が補助チームへやって来た。 名前を呼ばれて顔を上げる。大学なら見慣れている相手なのに、仕事中の耀司がまっすぐ自分の席へ来るだけで、玲は背筋を伸ばしてしまった。「蓮見さん、会議室の件、ありがとうございます。四名の打ち合わせを移して問題ありません。出席者への案内は僕から入れます」 玲が小宮へ目を向けると、向こうも十二名の会議の主催者との通話を終え、問題ないというように頷いた。「承知しました。予定表と室前表示を変更します」「小会議室のモニターを使う予定なので、設備も一緒に確認していただけますか」「はい。ご案内します」 水野は別の会議資料を準備しており、小宮も十二名の会議について確認結果を記録している。予約の重複を見つけ、空室まで調べた玲が、そのまま耀司と部屋を確認するのが最も早かった。 二人は小会議室
Huling Na-update: 2026-08-19
Chapter: #12 第6話 離婚した家族「三人で暮らしているのに、誰も本当のことを話さない」②「それで、仕事の方はどうだ? 何か気になることはあったか?」 先ほどまでの父親らしい軽い会話の続きを装っているが、聞きたいのが仕事内容でも玲の体調でもないことは分かっている。 志保に就職準備だと説明した直後に、厎の内部について報告を求める。玲は章へ冷たい視線を返した。「何かって、具体的に何を聞きたいんだよ」「社内の様子とか、啼石の案件がどう扱われているかとか、いろいろあるだろ」「だから、その『いろいろ』が何なのか聞いてるんだけど」「見聞きしたことを、最初から話してくれればいいよ」 章はタブレットのメモ画面を開いたが、玲が探すべき対象を示す気はないらしい。「初日は入館手続きと研修が中心だった。入れる区画は社員証の権限で決まってるし、社内端末も自分のアカウントでしか使えない。僕が見られる共有フォルダには、業務マニュアルと会議室の予定、作業用に渡された資料しかないよ」「それで?」「担当してるのも、会議資料の印刷やPDF化、備品補充、予定表の更新、配布先の確認。内容を読む必要がない資料は、必要な部数と版番号を確かめるだけだ」 玲は研修で教えられた情報管理の決まりを思い返した。印刷物を一般のごみ箱へ捨てない。他人のアカウントを使わない。許可された範囲を越えて会議室や書庫へ入らない。厎の管理は、章が期待するほど緩くない。「僕が見られるのは、仕事に必要な範囲だけだよ。社員の共有フォルダへ勝手に入れるわけでもないし、会議の中身を全部読めるわけでもない」「最初から重要な資料を見られるとは思ってないよ。普通に働いていれば、そのうち周りの話も聞こえてくるだろ」 少々投げやりな玲の物言いに章は動じる様子はない。この不遜な父が何を考えているのか、玲にはさっぱり分からない。「それを待つだけなら、僕を送り込む前に言っておけよ」「焦る必要はない。三か月あるんだから、最初から無理をして怪しまれる方が困る」 章はただ、のらりくらりと話を流し続けた。会社がすぐに買収されると困る。少しでいいから時間が欲しい。そう言って玲を脅したときとは、話が噛み合わない。 玲が厎へ入りさえすれば、章にとって有利に場をひっくり返せる、何か決定的な情報を見つけてくると考えていたのではないか。だが実際の管理体制を聞き、今になって待てばいいと言い換えたようにも見える。「父さん、自分でも何を
Huling Na-update: 2026-08-19
Chapter: #11 第6話 離婚した家族「三人で暮らしているのに、誰も本当のことを話さない」① 玄関の扉を開けた途端、温め直した夕食の匂いがした。「ただいま」 靴を脱ぎながら声をかけると、ダイニングから母の志保が顔を出した。「おかえり。遅かったわね」「大学の講義が夕方まであったんだ」「そう。手を洗ってきなさい。今、温めるから」 志保はそれ以上、どこから大学へ向かったのかも、朝から何をしていたのかも尋ねなかった。 会社を出て、駅で化粧を落としてウィッグを外し、男性用の服に着替えてから大学へ向かった。講義を終えて帰宅する頃には、玲は朝から二人分の生活を送ったように疲れていた。 ダイニングへ入ると、父の章はすでに食卓についていた。玲が帰るまで待っていたというより、食後もタブレットを眺めながら居座っていたらしい。空になった茶碗の横に麦茶のグラスを置き、画面を指で流していた。「おかえり、孝行息子」「その呼び方やめろ」 玲が睨むと、章は楽しそうに口元を緩めた。志保は二人のやり取りに何も言わず、温めた皿と茶碗を玲の前へ並べる。「先に食べていてもよかったのに」「私はさっき帰ったところ。章は勝手に先に食べただけよ」「ちゃんと一緒に食べようと思って、ここで待ってたんだけどなあ」「タブレットを見ていただけでしょう」 志保は章の言葉を簡単に退け、自分の席へ戻った。章も反論はせず、タブレットを伏せて玲の向かいに座り直す。 三人で食卓を囲むこと自体は、珍しくない。 章と志保は離婚してからも、玲と同じ家で暮らしている。ただし、もう夫婦ではなかった。食事の時間が重なれば同じものを食べ、家の用事があれば話す。それでも、帰宅が遅い理由や休日の予定を互いに詳しく聞くことはない。 玲が幼い頃に見ていた夫婦の近さだけが、同じ家の中からきれいに抜け落ちている。 章が食器の置き場所を間違えれば、志保は今も迷わず正しい棚を指す。志保が重い荷物を玄関に置けば、章は頼まれる前に運ぶ。長く家族だったために身についた動きは残っているのに、そこから相手の一日へ踏み込むことはない。その境目を、二人とも口に出さず守っていた。 志保は蓮見テキスタイルの商品企画部で長く働き、今は社内資料や過去の商品を保存する仕事を非常勤で続けている。蓮見家の会社や系列企業には詳しいが、経営には加わっていない。啼石商事の買収についても、報道で分かる以上のことを章から聞かされてはいないはずだった。
Huling Na-update: 2026-08-19