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ロミオ×ロミオ ~女装して潜入した会社で、親友の御曹司に愛され、二重生活が崩壊しそう~

ロミオ×ロミオ ~女装して潜入した会社で、親友の御曹司に愛され、二重生活が崩壊しそう~

大学生の啼石玲は、経営難の父の会社【啼石(なかいし)商事】を守るため、女装姿と母方の姓で、買収を進める厎(いたす)ホールディングスへ潜入する。そこで出会ったのは、密かに想いを寄せる親友で、厎社長の息子・耀司。玲の正体に気づかない耀司は、臨時スタッフ「蓮見玲」を女性だと思い惹かれていくが、彼もまた男性である親友への恋を隠していた。会社では女性の同僚、大学では男性の親友。一人二役で耀司に近づくほど、恋と嘘は深まっていく。買収の裏で謎の思惑も動き始める、女装潜入オフィスBL。 
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Chapter: #16 第8話 資料に残る名前「近づくなと言われると、余計に気になる」②
 退勤後、玲は駅へ向かう人の流れから外れ、ビルの外にあるベンチへ腰を下ろした。 会社の入館証はバッグへしまってある。玲は自分の端末を取り出し、久世リストラクチャリング・パートナーズの社名を検索した。 厎の資料を撮影した画像も、持ち出したメモもない。確認するのは、会社の公式サイトや報道記事など、誰でも見られる情報だけだった。 久世社は、経営が悪化した企業の再建や、企業買収の支援を行う会社だった。公式サイトには、財務状況の調査、再建計画の立案、事業の売却や分離を支援するとある。過去に関わった案件も複数紹介されていた。 価値のある事業を切り離し、不採算部門の影響から守る。それも企業再生の手法の一つとして、ごく普通に説明されている。 犯罪や不正を疑わせる記事が見つかるわけではない。社名とともに検索候補に並ぶのも、企業再生や事業再編といった言葉ばかりだった。 とりあえず公開情報から分かるのは、久世社が表向きに掲げている仕事だけである。啼石商事の買収案件で久世社は何を求め、厎とどのような関係にあるのかまでは分からない。 それでも、厎の方針と久世社の資料を見比べたあとでは、数ある外部協力会社の一つとして片づけることができなかった。 玲は検索画面を閉じ、章とのメッセージ画面を開いた。 普通に働く中で、気になったことを教えればいい。 数日前の夜、章は確かにそう言った。今回は、自分から権限のない場所へ入ったわけでも、資料を盗み見たわけでもない。仕事として渡された資料を分類し、その中で何度も同じ社名を見つけた。 玲は文章を打ち始めた。資料の画像や方針の文言は送らない。会社名と、久世社が参加していた過去の会議日程を並べ、公開情報で確認できたことだけを添えた。『啼石商事の案件に、久世リストラクチャリング・パートナーズという会社が何度も参加してる。過去の会議日程はこれ。会社について調べたけど、公開情報では企業再生や買収案件を扱ってることしか分からなかった』 送信してから、一分も経たないうちに既読がついた。 章がどんな反応をするのか考える間もなく、返事が届く。『その会社には近づくな』 玲はその短い一文を読み直した。 関係のない会社なら、章は「知らない」と返すだろう。企業再生の専門会社なら珍しくないと、軽口を交えて片づけるかもしれない。玲を企業スパイとして送り込
Last Updated: 2026-08-20
Chapter: #15 第8話 資料に残る名前「近づくなと言われると、余計に気になる」①
 前日に整理した共有フォルダは、出勤した玲が見ても、どこに何があるのかすぐ分かる状態を保っていた。 作成元と保存先を確認できた資料だけを分け、判断できないものは小宮に確認した。勝手に中身を変えず、相違点があれば報告する。そのやり方を認められたからか、午前の作業を終えたところで、小宮が玲の席へ来た。「蓮見さん、今日はこのフォルダの整理をお願いできますか。会議日と案件名を確認して、同じ案件ごとにまとめてください」 小宮が画面に示したのは、補助チームで保管している過去の会議資料だった。現在使われている資料ではなく、既に終了した会議ごとの記録である。閲覧できるのは派遣スタッフにも取り扱いが認められた範囲に限られており、玲が開けない資料は最初から表示されない。「分かりました。作成元と版番号も確認した方がいいですか」「お願いします。外部から届いた資料は、社内で作成したものと分けておいてください。同じ会議の古い版が残っていても、削除はしないでくださいね」「承知しました」 玲は分類用の一覧と作業記録を開いた。確認するのは会議名、開催日、参加会社、作成元、版番号である。表紙だけでは作成元が分からないものは目次と参加者一覧を見て、更新日時も照らし合わせる。同じ案件名でも開催日が違えば別の会議として残し、同じ会議に複数の版があれば、作成された順番が分かるように並べた。 一つの案件を終えるたび、一覧へ保存先を記録する。買収候補の会社名は違っても、資料の構成はよく似ていた。厎社内の部署だけで作成されたものもあれば、銀行や法律事務所、外部の専門会社が加わっているものもある。買収に厎と相手企業だけが関わるわけではないことくらいは、専門知識のない玲にも分かった。 いくつ目かのフォルダを開いたとき、見慣れた社名が画面に現れた。──『啼石商事』 カーソルを動かしていた手が止まる。 厎で働き始めてから、父の会社の名を目にする機会は増えた。会議予定にも資料の表紙にも記されている。それでも、自宅では章の不満を通してしか知らなかった買収について、職場ではいくつもの会議が開かれ、日付と版番号の異なる資料が積み重なっている。その光景には、まだ慣れなかった。 玲は周囲へ目を向けかけ、すぐに画面へ戻した。自分から探し出した資料ではない。小宮から任されたフォルダを、決められた手順で整理してい
Last Updated: 2026-08-20
Chapter: #14 第7話 小さな仕事「見えない仕事ほど、誰かが見ている」②
 玲は自席へ戻り、次の会議資料を印刷した。最初に一部だけ出し、表紙の案件名、作成部署、版番号、ページ順、両面印刷の向きを確かめる。問題がないことを見届けてから必要部数を揃え、出席者用、説明者用、予備を混同しないよう付箋をつけた。最後に、使ったファイル名と更新日時を作業記録へ残す。「蓮見さん、十一時の会議資料はできていますか」 これまで水野や小宮へ声をかけていた社員が、今日はまっすぐ玲のところへ来た。「はい。出席者七名と説明者一名、予備一部で、九部用意しています。今朝差し替えられた第四版で確認済みです」「ありがとうございます。受け取っても大丈夫ですか」「はい。こちらの記録へ、受領時刻の入力をお願いします」 社員は記録へ時刻を入力し、資料を抱えて会議室へ向かった。その後、午後の会議について尋ねられたときも、正式版はまだ届いていないことと、届き次第印刷を始めれば受け渡し予定には間に合うことを伝えた。分からないことを曖昧に請け合わず、分かっている範囲と確認が必要な範囲を分けて答える。小宮に代わってもらわなくても、自分で答えられた。 配属されたばかりの頃は、新しい派遣スタッフとして、水野を通して仕事を教えられていた。今は「蓮見さん」と名前を呼ばれ、準備状況を直接尋ねられている。 女性の格好をしているからでも、派遣元と同じ名字だからでもない。頼まれた仕事を間違えずに用意する人間として覚えられたのだと思うと、玲は素直に嬉しかった。 父に送り込まれたときは、女性姿で通用するかばかりを気にしていた。だが職場で必要とされるのは、頼まれた仕事を予定どおりに進められるかどうかだ。服も化粧も自分で選んだものだが、任された仕事を着実にこなした事実は、誰でもない玲自身のものだった。 直接内容を確認された短いやり取りにも、ここで自分の居場所を少しずつ作れている証拠であり、玲にとって実感ある経験となりつつあった。 午前の会議が終わると、玲は小宮と、先ほど開かずに残した第五版を確認した。同じ案件名がついた四つの関連ファイルは、一覧ではすべて第六版になっている。だが、実際に版番号と更新日時が一致するのは三つだけで、一つだけ第五版のままだった。「こちらだけ更新日時が前のままです。版番号も一つ古いですね」「やっぱり混ざっていましたか。水野さんにも確認してもらいましょう」 玲は古
Last Updated: 2026-08-19
Chapter: #13 第7話 小さな仕事「見えない仕事ほど、誰かが見ている」①
 翌朝、玲は自席へ着くと、補助チームの共有予定表と、その日に準備する会議の一覧を並べて開いた。 午前中だけで会議は四件ある。開始時刻、会議室、出席予定者、必要な資料を照合し、印刷に時間のかかるものを先に出す。会議の時刻は動かせない。自分が遅れれば、資料を取りに来る社員を待たせ、部屋を整える小宮たちの作業まで遅らせてしまう。玲は水野に教わった確認項目を追いながら、それぞれの作業を何時までに終えるか、メモに書き加えた。 もう一度予定表へ目を戻すと、十時からの欄に同じ会議室名が二つ並んでいた。 片方は営業部を含む十二名の会議で、もう片方は四名の打ち合わせだ。どちらにも出席者と配布資料が登録されているため、一方の消し忘れではない。このままなら、十時に二組が同じ扉の前へ集まることになる。 玲は空室を検索した。隣の小会議室なら同じ時刻に空いており、四名で使える。そこまで確かめてから、小宮へ予定表の画面を見せた。「小宮さん、十時からの会議室予約が重複しています。四名の打ち合わせを隣の小会議室へ移せそうですが、主催者側へ確認してもよろしいですか」「お願いします。四名の方は厎さんが連絡担当になっています。もう一方は私が確認するので、蓮見さんは厎さんへ連絡してもらえますか」「分かりました」 配属されたばかりの玲が勝手に会議室を変えることはできない。玲は耀司へ変更案を送り、元の会議室を使う側にも小宮が確認を取るまで、予定表には手を加えずに待った。 間もなく、耀司が補助チームへやって来た。 名前を呼ばれて顔を上げる。大学なら見慣れている相手なのに、仕事中の耀司がまっすぐ自分の席へ来るだけで、玲は背筋を伸ばしてしまった。「蓮見さん、会議室の件、ありがとうございます。四名の打ち合わせを移して問題ありません。出席者への案内は僕から入れます」 玲が小宮へ目を向けると、向こうも十二名の会議の主催者との通話を終え、問題ないというように頷いた。「承知しました。予定表と室前表示を変更します」「小会議室のモニターを使う予定なので、設備も一緒に確認していただけますか」「はい。ご案内します」 水野は別の会議資料を準備しており、小宮も十二名の会議について確認結果を記録している。予約の重複を見つけ、空室まで調べた玲が、そのまま耀司と部屋を確認するのが最も早かった。 二人は小会議室
Last Updated: 2026-08-19
Chapter: #12 第6話 離婚した家族「三人で暮らしているのに、誰も本当のことを話さない」②
「それで、仕事の方はどうだ? 何か気になることはあったか?」 先ほどまでの父親らしい軽い会話の続きを装っているが、聞きたいのが仕事内容でも玲の体調でもないことは分かっている。 志保に就職準備だと説明した直後に、厎の内部について報告を求める。玲は章へ冷たい視線を返した。「何かって、具体的に何を聞きたいんだよ」「社内の様子とか、啼石の案件がどう扱われているかとか、いろいろあるだろ」「だから、その『いろいろ』が何なのか聞いてるんだけど」「見聞きしたことを、最初から話してくれればいいよ」 章はタブレットのメモ画面を開いたが、玲が探すべき対象を示す気はないらしい。「初日は入館手続きと研修が中心だった。入れる区画は社員証の権限で決まってるし、社内端末も自分のアカウントでしか使えない。僕が見られる共有フォルダには、業務マニュアルと会議室の予定、作業用に渡された資料しかないよ」「それで?」「担当してるのも、会議資料の印刷やPDF化、備品補充、予定表の更新、配布先の確認。内容を読む必要がない資料は、必要な部数と版番号を確かめるだけだ」 玲は研修で教えられた情報管理の決まりを思い返した。印刷物を一般のごみ箱へ捨てない。他人のアカウントを使わない。許可された範囲を越えて会議室や書庫へ入らない。厎の管理は、章が期待するほど緩くない。「僕が見られるのは、仕事に必要な範囲だけだよ。社員の共有フォルダへ勝手に入れるわけでもないし、会議の中身を全部読めるわけでもない」「最初から重要な資料を見られるとは思ってないよ。普通に働いていれば、そのうち周りの話も聞こえてくるだろ」 少々投げやりな玲の物言いに章は動じる様子はない。この不遜な父が何を考えているのか、玲にはさっぱり分からない。「それを待つだけなら、僕を送り込む前に言っておけよ」「焦る必要はない。三か月あるんだから、最初から無理をして怪しまれる方が困る」 章はただ、のらりくらりと話を流し続けた。会社がすぐに買収されると困る。少しでいいから時間が欲しい。そう言って玲を脅したときとは、話が噛み合わない。 玲が厎へ入りさえすれば、章にとって有利に場をひっくり返せる、何か決定的な情報を見つけてくると考えていたのではないか。だが実際の管理体制を聞き、今になって待てばいいと言い換えたようにも見える。「父さん、自分でも何を
Last Updated: 2026-08-19
Chapter: #11 第6話 離婚した家族「三人で暮らしているのに、誰も本当のことを話さない」①
 玄関の扉を開けた途端、温め直した夕食の匂いがした。「ただいま」 靴を脱ぎながら声をかけると、ダイニングから母の志保が顔を出した。「おかえり。遅かったわね」「大学の講義が夕方まであったんだ」「そう。手を洗ってきなさい。今、温めるから」 志保はそれ以上、どこから大学へ向かったのかも、朝から何をしていたのかも尋ねなかった。 会社を出て、駅で化粧を落としてウィッグを外し、男性用の服に着替えてから大学へ向かった。講義を終えて帰宅する頃には、玲は朝から二人分の生活を送ったように疲れていた。 ダイニングへ入ると、父の章はすでに食卓についていた。玲が帰るまで待っていたというより、食後もタブレットを眺めながら居座っていたらしい。空になった茶碗の横に麦茶のグラスを置き、画面を指で流していた。「おかえり、孝行息子」「その呼び方やめろ」 玲が睨むと、章は楽しそうに口元を緩めた。志保は二人のやり取りに何も言わず、温めた皿と茶碗を玲の前へ並べる。「先に食べていてもよかったのに」「私はさっき帰ったところ。章は勝手に先に食べただけよ」「ちゃんと一緒に食べようと思って、ここで待ってたんだけどなあ」「タブレットを見ていただけでしょう」 志保は章の言葉を簡単に退け、自分の席へ戻った。章も反論はせず、タブレットを伏せて玲の向かいに座り直す。 三人で食卓を囲むこと自体は、珍しくない。 章と志保は離婚してからも、玲と同じ家で暮らしている。ただし、もう夫婦ではなかった。食事の時間が重なれば同じものを食べ、家の用事があれば話す。それでも、帰宅が遅い理由や休日の予定を互いに詳しく聞くことはない。 玲が幼い頃に見ていた夫婦の近さだけが、同じ家の中からきれいに抜け落ちている。 章が食器の置き場所を間違えれば、志保は今も迷わず正しい棚を指す。志保が重い荷物を玄関に置けば、章は頼まれる前に運ぶ。長く家族だったために身についた動きは残っているのに、そこから相手の一日へ踏み込むことはない。その境目を、二人とも口に出さず守っていた。 志保は蓮見テキスタイルの商品企画部で長く働き、今は社内資料や過去の商品を保存する仕事を非常勤で続けている。蓮見家の会社や系列企業には詳しいが、経営には加わっていない。啼石商事の買収についても、報道で分かる以上のことを章から聞かされてはいないはずだった。
Last Updated: 2026-08-19
神父と白い野獣

神父と白い野獣

14世紀イングランド。人質として過ごしている村の教会で司祭として過ごす【アーサー・クロムウェル】は、聖職者としての自分と伯爵の私生児としての素性、無力な現実のはざまで苦悩していた。ある嵐の夜、白い獣と呼ばれる異形の流浪人【ウルフ】と出会うまでは──。 二人の結託を知った村の代官【トーマス・バートン】は、二人を引き離すべく、ウルフが彼が呪われた存在だという噂を流して排除しようとする。 伯爵令息と異形の流浪人の立場を超えたデコボココンビと仲間たちは、この苦難をどうやって乗り切るのか。アーサーとウルフの関係はどうなるのか!?
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Chapter: #42.第十四話「焚火から始まる新しい日常」③
 夕方の空が、森の端からゆっくりと茜色に染まり始めていた。 ウルフの寝床になっている納屋の近くでは、小さな焚火がぱちぱちと音を立てている。 焚火の上では、魚や肉を刺した串がじゅうじゅうと美味しそうな音を立てていた。脂が火に落ちるたび、香ばしい匂いがふわりと広がる。「はい、アーサー。これは熱いから気をつけて」「ありがとう、母さん」 エレインが久々に明るい顔で食事を配っていた。 アーサーは受け取った皿を両手で持ちながら、その穏やかな表情をしばらく見つめてしまう。「どうしたの?」「ううん。何でもない」 アーサーは小さく笑って、焚火のそばへ腰を下ろした。 隣ではルーシーが串の魚を大事そうに持ち、アリスは肉の焼け具合を見ながら、火の向きを少し整えている。「これ、もう食べていい?」「まだ。外だけ焦げて中が生だったら嫌でしょ」「アリスって、食べ物のことになるとすごく真剣だよね」「そりゃ、食べ物のことだからね。でも食べ物に一番うるさいのはアーサーでしょ!」「確かにそうね!」 そう言ってアリスはアーサーに悪戯っぽい笑みを向けた。 そんなやり取りに、アーサーは「え!? そうかな??」と頭を掻きつつ楽しそうに笑った。(何か、変な感じだ……) アーサーは焚火を囲む顔ぶれを見渡して不思議な気持ちになる。 少し前まで、こんなふうに皆で火を囲んで食事ができる日が来るとは思っていなかったからだ。 ルーシーは疑いを晴らし、村の空気も少しずつ落ち着きを取り戻している。ウルフも、まだ仏頂面ではあるが、教会の敷地内にいることを拒まなくなった。 もっとも、そのウルフだけは焚火の輪の中で一人、ひどく疲れた顔をしていたが。 連日のようにアーサーに構われ、ルーシーに礼を言われ、アリスに面白がられ、エレインには食事の心配までされている。森で一人静かに過ごしていた時とは、まるで違う騒がしさだった。「ウルフさん、お肉もう一本食べる?」「……いらん」「でも、さっきから魚しか食べてないよ?」「寝る前に肉を食べ過ぎると体がちゃんと休まらないし、もう十分食っている」 ウルフは低く答え、串焼きのローチにかぶりついた。 その横顔は、戦場帰りの兵士というより、群がる子犬に追い回された狼のようだった。 アーサーはその様子を見て、しみじみと息を吐く。「これが平和ってやつかな
Last Updated: 2026-09-01
Chapter: #41.第十四話「焚火から始まる新しい日常」②
 また、別の日。 司祭館にある書類の作業場には、蜜蝋と乾いた羊皮紙、そしてインクの匂いが混じっていた。 午後の光が高い窓から斜めに差し込み、木机の上に積まれた帳簿や紙束を淡く照らしている。 その中央で、アーサーはひどく真剣な顔をして羽根ペンを走らせていた。 ミサの説教を書いている時よりも、聖務日課を確認している時よりも、あるいは告解の内容を思い返している時よりも、よほど深刻そうな顔である。 傍らに置かれた紙束の表紙には、几帳面な文字でこう記されていた。『養蜂箱増設の覚え』「……養蜂箱増設の覚え?」 横からそれを覗き込んだアリスが、何とも言えない顔をした。「村での販売分を増やしたのも、その一環?」 アーサーは羽根ペンを止めず、真顔のまま答えた。「三十%も収穫報告が減らされたんだよ? だったら、その分を僕がどう使ったっていいだろ。蜂蜜で救える命は多いんだし」 その声には、静かな怒りがこもっていた。 だが、内容は蜂蜜である。 真剣なのは分かる。分かるのだが、作業場の空気はどこか妙に締まらなかった。 そばで椅子に腰かけていたルーシーが、ぱちぱちと瞬きをしてから、無邪気に口を挟む。「でも、アーサー、趣味って言われたのが一番怒ってたよね」「…………」 アーサーは無言でペンを置いた。 そして、次の瞬間、力尽きたように机へ突っ伏した。「趣味じゃない……これは教会の慈善事業で、診療所の薬材確保で、村の栄養改善で、蝋燭の原料調達で……」 机に額を押しつけたまま、くぐもった声でぶつぶつと言う。 アリスは苦笑しながら、彼の肩を軽く叩いた。「で、でも、高価な蜂蜜が安価で手に入って嬉しいって、みんな喜んでたから。ね?」「……それは、よかった」 アーサーは机に突っ伏したまま、少しだけ声を和らげた。 その様子を、作業場の隅に腰を下ろして眺めていたウルフが、深々と呆れたように息を吐く。「よく分からん」 蜂蜜の収穫量を増やしただけで、なぜここまで人が沈み、慰められ、計画書まで作るのか。 武人の彼にはまるで理解できなかった。 ウィンドル川の浅瀬では、今日も村人たちが思い思いに手を動かしていた。 女たちは桶を並べて衣類を洗い、若い男たちは道具についた泥を落とし、子どもたちは大人たちの邪魔にならない範囲で水際を行ったり来たりしている。 夏の陽
Last Updated: 2026-09-01
Chapter: #40.第十四話「焚火から始まる新しい日常」①
 早朝、薄明るい空へ教会の鐘が鳴り響く。 代官トーマスへ呪いの真実を突き付け、理不尽な振る舞いを改めるよう話し合った、あの清めの夜から数日。 村は静かに変化していた。 朝のミサを終え、アーサーが村人たちを見送っていると、以前より明らかに人々の態度が柔らかい。 老人は帽子を取って挨拶し、主婦は蜂蜜を買いたいと声を掛け、子供たちはルーシーへ笑顔を向けている。 そんな様子に、アーサーは戸惑いながらも、ぎこちなく応じた。 呪いの件は、表向きには森に溜まった瘴気が水へ溶け出したもので、流浪人とは無関係とされた。さらに、その瘴気もアーサーの清めの儀式によって霧散したことになっている。 そのため村人たちは、前にも増して若き司祭へ尊敬の眼差しを向けていた――アーサーには、それが何だか居心地悪かった。(だって今回真相解明で一番頑張ったのはウルフやアリスだったのに、ただ祈ってただけの僕が聖人みたいな扱い受けるのは、何か違うだろー……) そんなアーサーの内心を察してか、隣に立つピーターが周囲へ聞こえぬよう小声で語りかけた。「どんな形であれ、あなたが居たから事件が解決したのは確かなので、もっと自信を持ちなさい」 アーサーは村人たちの背を見送りながら、落ち着かなげに視線を揺らす。「そう、かな……?」 ピーターはわずかに肩をすくめ、諭すように言葉を継いだ。「どれほど証拠があっても、間違っていると代官殿へ言える者がいなければ届きませんでした」 その言葉に、アーサーは小さく息を呑む。「……確かに」「ルーシーの件も、あの夜も同じです。あなたがいたから押し切れなかった。それが、あなたの持つ高貴な血の力です」 アーサーは思わず胸元へ手を当て、複雑そうに眉を寄せた。「血……僕の持つ、クロムウェルの──貴族の血……ウルフのような賢さや、アリスの持つ勇気、ルーシーの優しさ、もちろんピーターさんのその聡明さも、血のあるなしで霞んでしまうなんて、おかしいよ……」 ピーターはそんな若き主人を見つめ、珍しくやわらかな笑みを浮かべる。「逆です。あなたが正しく使えば、埋もれた力を生かせるのですよ」 二人でしんみりとそんな会話を交わしていると、ふと澄んだ声が掛かった。「アーサー兄さま」 会話に集中していて周囲のことを忘れていたアーサーは、びくりと肩を跳ねさせる。「ルーシー
Last Updated: 2026-09-01
Chapter: #50.第十三話「崩れた威光」③
 村人たちをすべて家へ帰した後――。 期待に胸を膨らませたトーマスが司祭館へ足を踏み入れると、そこにはウルフ、アリス、ミルナー夫妻、ピーター、そしてアーサーの母エレインがずらりと並んで待ち構えていた。さらに床には、顔へ袋を被せられ、縄で縛り上げられた羊飼いたちまで転がされている。 その異様な光景に、トーマスの思考は一瞬止まった。 呆然としたまま視線を巡らせる。すると部屋の奥には、本来なら資料室にあるはずの税務や経理関係のロール紙、帳簿の束が積み上げられていた。 次の瞬間、トーマスは激昂して叫ぶ。「これはどういうことだ、泥棒どもが!!」 ひと目で、それが代官邸から持ち出された機密資料だと分かった。同時に、自分がまんまと嵌められたことも悟る。「アーサー、貴様! 私を騙したのか! 誠実であるべき神の子が! 日中、私に語った言葉は偽りだったのか!?」 怒声を浴びせられても、アーサーは驚くほど冷静に首を横へ振った。やがて一本のロールを手に取り、静かに前へ進み出る。「いいえ、トーマスさん。あの時、あの瞬間に貴方へ吐露した気持ちに嘘はございません。貴方が私へ長くご指導くださったことは、まごうことなき一つの真実です。師の教えに背いた自分を恥じ、心から謝罪もいたしました」 その落ち着き払った返答に、トーマスはますます顔を紅潮させる。「ではこれは一体なんだ! どうして我が家に置いてあるものがここにあり、いなくなったはずの流浪人の野蛮人が居て、羊飼いが居て、それにミルナーまでここにいるのか!?」 唾を飛ばさんばかりに怒鳴るトーマスへ、アーサーは一歩も退かず、真っ直ぐ視線を返した。「私が自分の間違いを認めたことと、皆が貴方へ確かめたいことがあるのとは、別の話です。ゆえに、こうして集まっていただきました。代官殿」 その言葉に、周囲の面々も黙したままトーマスを見据える。「確かめたいことだと!?」 声を荒らげるトーマスへ、アーサーは今度こそはっきりと言い切った。「そうです。一つは森の警備犬のこと。警備犬を管理する羊飼いたちが、私たちの生活の要であるウィンドル川で、犬を危険な薬品で洗っていたこと。そして何より、ペンストレイト様へ納めている領民の税についてです!」「それは……」 そこまで聞いた瞬間、トーマスの顔から血の気が引いた。 ついにアーサーは、もはや看
Last Updated: 2026-08-27
Chapter: #49.第十三話「崩れた威光」②
 その晩、夜のミサを終えて数時間後の夜半。ウルフの粗末な天幕(テント)が残された結界の前には、日曜ミサ用の最も豪華な祭礼服を纏ったアーサーと、上等な礼服の上から教会より渡された儀礼用の白い豪華なローブを肩に掛けたトーマスが並んで立っていた。 周囲には、儀式の知らせを聞きつけて集まった村人たちが幾重にも取り巻き、二人の様子を固唾を呑んで見守っている。夜気の中、無数の松明だけが赤々と揺れていた。 アーサーは静かに息を整えると、周囲の村人たちをゆっくりと見渡した。集まった人々の顔には、不安と期待と好奇の色が入り混じっている。やがて松明の明かりに白いローブを輝かせ、ひときわ目立つトーマス代官へ視線を向け、短く敬意を示すように頷いた。「集いし兄弟姉妹、そしてトーマス代官殿。この夜半、恐れと不安の中、ここに集まってくださった皆様に、主の平和がありますように。 我らが代官殿は、疫病の蔓延を防ぐため、公衆の安全を第一に考える賢明な措置として、この隔離の縄を張られました。この縄は、病が広がるのを防ぐ物理的な境界として、その役目を果たしました。これには感謝せねばなりません」 厳かな声が夜の広場へ響き渡る。 その言葉に、トーマスが一瞬満足げに頷くのを、アーサーは見逃さなかった。 だが、そ知らぬふりで説法を続ける。「しかし、皆さんの顔を見てください。そして、ご自身の胸の内へ耳を澄ませてください。縄が張られてもなお、病への恐怖と、隣人への疑念は消えてはいません。 これは、病とは別の、魂の病です。人が張った縄は、肉体の病の広がりを止められても、魂に巣食った呪い――すなわち、神への信頼を失った我らの『疑念』を断ち切ることはできないのです。 神は、私たちに『見知らぬ者を恐れるな』と命じておられます。この縄が今や、我らの心を縛る『不信と恐怖の鎖』となってしまっている。これこそ、真に清められるべき穢れなのです」 松明の火が揺れるたび、集まった村人たちの顔にも明暗が走った。誰も口を開かず、ただアーサーの声に耳を傾けている。「故に、本日、私はこの場に立っています。人が張った縄の効力を、神の絶対的な慈悲と力をもって完成させるために。 この儀式は、縄を破るものではありません。代官殿の賢明な隔離の措置の上に、神の永遠の権威を重ね、この結界を『恐怖の象徴』から『神の慈悲による解放の記念
Last Updated: 2026-08-27
Chapter: #48.第十三話「崩れた威光」①
 一行が代官邸へ着くと、従者に導かれて行き着いた先は、謁見室ではなく応接間だった。 トーマス・バートンは、暖炉の前に置かれた背の高いアームチェアへ深く腰掛け、両手を革張りの肘掛けに置いていた。室内の空気は重く、温かい。謁見室から続く通路の先に位置するこの応接間には、昼間であっても外の騒々しさがほとんど届かない。 窓際の光が差す場所では、妻が白い布地へ針を進めている。刺繍糸が細かく、規則正しく布を擦るたび、トーマスは満足感を覚えた。この静謐な空間こそ、自分がこの屋敷で享受する権力と秩序の象徴だった。彼は妻の存在を、意識的に、そして無言の道具として用いている。(この静けさの中で、あの若造はどれほどの苦痛を感じるだろうか?) トーマスは、数分後に会う予定のアーサー・クロムウェルのことを考えていた。司祭代理という聖職にある若者が、自ら「謝罪と相談」のために訪れる。これは、ウルフの件で仕掛けた小さな揺さぶりの勝利であり、自らの支配が教会の権威にまで及んだという、公然たる証明に等しかった。 短くノックが響いた後、従者が重い扉を開け、声を上げた。「旦那様、クロムウェル司祭代理様がお見えになりました」 トーマスは微動だにしない。許可を待たず、従者は一歩下がって扉を開け放つ。 入室したアーサーの視線は、まず窓際の妻へ向けられ、次いで部屋の奥、暖炉の前に座るトーマスへ移った。外光を背にした妻の姿は影となり、顔の表情までは読み取れない。一方、暖炉の光に照らされたトーマスの顔は、冷たい岩のように明確だった。 トーマスの目に映るアーサーは、完璧な司祭服を身につけているにもかかわらず、顔色は昼の空のように青白い。手に持った帽子を握る指先には、汗まで滲んでいるように見えた。(さて、この羊は、いかにして私を欺こうとするだろうか?) 内心で笑みを噛み殺しながら、トーマスは最も権威ある主人のように、厳かに口を開いた。「よく来たな、アーサー。座りなさい。妻もいる。遠慮はいらないよ」 そう言って視線だけをアーサーの背後へ流す。そこに立つピーターと目が合うと、相手は軽く会釈し、何も言わず応接間の外へ姿を消した。 完全に一人残されたアーサーは、不安を隠しきれない面持ちで立ち尽くしている。その様子に、トーマスの胸の内はひどく高揚していった。 アーサーはひどく憔悴した様子で、暖炉を
Last Updated: 2026-08-27
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