LOGIN1932年、上海国際租界——光と闇が交錯する魔都で、三つの運命が交差する。 リン・シュウメイ、租界一の美貌を持つ歌姫。日本人実業家の愛人として贅沢な暮らしを送るが、心は罪悪感に蝕まれている。 ジョン・ハリソン、理想に燃えるイギリス人警察官。正義と法の支配を信じてこの街に来たが、植民地支配の現実に打ちのめされる。 王福生、娘の未来のために這いつくばる中国人車夫。毎日外国人に頭を下げ、屈辱に耐える日々。 ある日、銀行で銃声が鳴り響いた。三人はそれぞれの立場でこの事件に関わり、やがて巨大な陰謀の真相に辿り着く————歌姫は舞台を捨て、警官は職を失い、車夫は命を賭けた。
View More1932年1月、上海。
黄浦江から立ち上る朝霧が、租界の西洋建築群を白いヴェールで包んでいた。外灘の石畳を踏む靴音、人力車の鈴の音、複数の言語が飛び交う喧騒——この街は、世界中のあらゆるものが混ざり合い、ぶつかり合い、溶け合う坩堝だった。
リン・シュウメイは、南京路のカフェ「パラダイス」の二階の窓際に座り、通りを眺めていた。二十五歳の彼女は、上海でも指折りの美貌を持つ歌手として知られていた。だが、その美しさは夜の舞台でのみ輝き、昼間の彼女は疲労と罪悪感に侵された一人の女に過ぎなかった。
彼女の前には冷めかけた珈琲。フランス製の磁器カップに注がれた黒い液体は、租界での生活の象徴だった——贅沢で、苦く、そして同胞たちには手の届かないもの。
「シュウメイ、また一人で考え込んでいるのか」
声の主は、彼女の愛人である日本人実業家、田中誠一郎だった。四十代半ばの彼は、上海で綿花貿易を営み、莫大な富を築いていた。
「いいえ、ただ街を見ていただけです」
リンは微笑んだ。完璧な微笑み。夜の舞台で何千回も繰り返した、感情を隠すための仮面。
「今夜のショーの準備はできているか? 今晩は重要な客が来る。イギリス租界の警察署長だ」
「ええ、準備万端です」
田中は満足そうに頷き、テーブルに札束を置いた。
「新しいドレスを買いなさい。君には最高のものが似合う」
彼が去った後、リンは窓の外に視線を戻した。通りの向こう側、路地の入り口で、ぼろをまとった中国人の子供たちが物乞いをしていた。彼女と同じ言葉を話し、同じ血を持つ子供たち。だが、彼女は租界の華やかな世界にいて、彼らは泥の中にいる。
リンは珈琲を一口飲んだ。苦味が喉を焼いた。
同じ頃、イギリス租界警察署では、ジョン・ハリソン警部補が朝の報告書に目を通していた。三十二歳の彼は、ケンブリッジ大学で法学を学び、理想に燃えて上海に赴任してきた。正義と法の支配——それが彼の信条だった。
だが、この街で五年間勤務する中で、彼はその信念が揺らぎ始めていることを自覚していた。
「ハリソン、また中国人地区での喧嘩だ。処理を頼む」
同僚のトンプソンが書類を投げてよこした。
「被害者は?」
「中国人同士だ。放っておけばいい」
「それは職務怠慢だ、トンプソン。我々は——」
「法を守る? ハリソン、ここは中国だ。だが我々の法が適用されるのはイギリス人だけだ。中国人は中国人の法で裁かれる。それが租界というものだ」
ハリソンは黙った。トンプソンの言葉は正しかった——法的には。だが道徳的には? 人間として正しいのか?
彼は報告書を手に取り、現場に向かうことにした。少なくとも、自分にできることはする。それが彼の譲れない一線だった。
一方、旧城区の狭い路地では、王福生が人力車の準備をしていた。四十八歳の彼は、二十年以上この仕事を続けていた。背中は曲がり、手には深い皺が刻まれ、顔は風雨に晒されて革のように固くなっていた。
だが、彼の目だけは生きていた。娘のために、妻のために、彼は毎日車を引いた。
「父さん、今日も頑張ってね」
十二歳の娘、王美玲が学校に行く前に声をかけた。彼女は英語の初級教本を抱えていた。王が給料の大半を注ぎ込んで通わせている、キリスト教系の学校で使うものだった。
「美玲、勉強を頑張るんだぞ。お前は父さんみたいになってはいけない」
「父さんは立派よ。私の自慢のお父さん」
娘の言葉に、王の目が潤んだ。だが彼はすぐに視線を逸らし、人力車の車輪を確認した。
「行ってらっしゃい」
娘が去った後、王は深呼吸をした。今日も一日、外国人に頭を下げ、笑顔を作り、チップをもらうために卑屈に振る舞う。それが彼の人生だった。
だが、それでいい。娘が違う人生を歩めるなら、それでいい。
王は人力車を押して、外灘の方角へと向かった。そこには金を持った外国人がいる。彼らを乗せれば、今日の糧が得られる。
午前十時、王は南京路と江西路の交差点で客待ちをしていた。冬の冷たい風が肌を刺す。だが彼は動かなかった。ここは外国人がよく通る場所だ。
その時、銀行の方角から銃声が響いた。
三発。四発。人々の悲鳴。
王は反射的に身を低くした。銃声は珍しくない。上海では、毎日どこかで暴力が起きている。だが、今日の銃声は近かった。あまりにも近かった。
パラダイス・カフェの窓際で、リンは銃声を聞いた。彼女は立ち上がり、窓から通りを見下ろした。人々が走り、叫び、逃げ惑っている。そして、銀行の入り口から、黒いコートを着た男が飛び出してきた。
男は鞄を抱え、周囲を見回し、そして——リンと目が合った。
ほんの一瞬。だが、リンは男の顔を記憶した。四角い顎、鋭い目、左の頬の小さな傷。
男は視線を切り、人混みの中に消えた。
イギリス租界警察署では、無線が騒がしく鳴り響いた。
「南京路の中国銀行で強盗事件! 犯人は逃走中! 全車両、現場に急行せよ!」
ハリソンは書類を放り出し、拳銃を掴んで署を飛び出した。パトカーに飛び乗り、サイレンを鳴らして現場へ向かう。
彼の頭の中では、疑問が渦巻いていた。なぜ中国銀行なのか? 租界には外国系の銀行がいくつもある。なぜ中国人の銀行を狙ったのか?
もしかして、これは政治的な犯行なのか?
現場に到着したハリソンは、銀行の周囲を封鎖し、目撃者から話を聞き始めた。だが、誰もが混乱していて、一貫した証言が得られない。
「黒いコートを着ていた」「いや、灰色だった」「背が高かった」「いや、普通だった」
ハリソンはため息をついた。これは長くなる。
王福生は、混乱の中で人力車を守ろうとしていた。人々が逃げる中で、彼の車が倒されれば、それで終わりだ。修理代を払う余裕はない。
「おい、車夫! すぐに俺を乗せろ!」
声の主は、黒いコートを着た男だった。息を切らせ、鞄を抱えている。
王は一瞬躊躇した。この男は——だが、彼には選択肢がなかった。客は客だ。
「どちらまで?」
「フランス租界だ。急げ! 金は払う!」
王は人力車を引き始めた。男は後ろに座り、周囲を警戒している。王の背中に、何か固いものが当たった。銃だ。
「余計なことを考えるな、車夫。お前の仕事は車を引くことだけだ」
王は黙って走った。足が地面を蹴る。車輪が石畳を転がる。彼の心臓は激しく打っていた。
これは間違いなく、銀行強盗だ。だが、どうすればいい? 警察に知らせれば、自分も共犯者として逮捕されるかもしれない。黙っていれば——だが、それは犯罪に加担することだ。
王の頭の中で、娘の顔が浮かんだ。もし自分が逮捕されたら、美玲はどうなる?
彼は歯を食いしばり、ただ走り続けた。
フランス租界の路地で、男は降りた。札を何枚か王に投げつけ、人混みの中に消えた。
王は震える手で札を拾った。いつもの十倍の金額だった。だが、この金は——血の匂いがした。
彼は人力車を引いて、来た道を戻り始めた。何も見なかった。何も知らない。それが彼の生き残る道だった。
その夜、リンはいつものように「カサブランカ・クラブ」の舞台に立った。金色のドレスを纏い、スポットライトを浴び、ジャズバンドの演奏に合わせて歌う。
客席には、田中誠一郎と、彼が招待したイギリス人の警察署長が座っていた。そして、その隣には——昼間、銀行の前で見た、ハリソンの姿があった。
リンは歌いながら、彼を観察した。若い。真面目そうな顔をしている。だが、目には疲労が浮かんでいる。
曲が終わり、拍手が起こった。リンは微笑み、優雅に頭を下げた。
楽屋に戻ると、田中が待っていた。
「素晴らしかったよ、シュウメイ。ところで、昼間の銀行強盗のことだが——」
リンの心臓が跳ねた。
「——君は何か見なかったか? カフェにいただろう?」
「いいえ、何も。混乱していて、よく分かりませんでした」
田中は彼女の目を見た。長い沈黙。
「そうか。それならいい」
彼は去った。だが、リンは感じた。田中は何かを知っている。そして、彼女が嘘をついていることも。
その夜、リンは眠れなかった。窓の外では、上海の夜が眠らずに脈打っている。ジャズの音楽、自動車のクラクション、遠くの工場の汽笛。
彼女は犯人の顔を思い出した。あの男は、田中の事業仲間の一人に似ていた。名前は——思い出せない。だが、確かに何度か田中の事務所で見たことがある。
もしそうなら、これは単なる強盗ではない。何か裏がある。
リンは窓を開け、冷たい夜気を吸い込んだ。黄浦江の方角から、湿った風が吹いてくる。
彼女は決めた。何も言わない。何も知らないふりをする。それが彼女の生き残る道だ。
だが、その選択が、彼女の心をさらに蝕んでいくことを、彼女はまだ知らなかった。
田中誠一郎の逮捕から一週間後、上海は徐々に日常を取り戻していた。だが、街の空気は以前とは違っていた。人々の間に、小さな希望の光が灯り始めていた。 王福生は、いつものように人力車を引いていた。だが、今日は少し違った。客を乗せながら、彼は背筋を伸ばしていた。 客が降りるとき、いつもより多めのチップをくれた。「あんた、田中に立ち向かった車夫だろう? 新聞で読んだ。勇気があるな」 王は頭を下げた。「いいえ、私は——ただ、家族を守ろうとしただけです」「それが勇気というものだ」 客は去った。王は受け取った金を見た。 これで、美玲の学費がまた少し貯まる。 その夜、王の家では、家族三人で夕食を囲んでいた。「父さん」美玲が言った。「今日、学校の先生が言ってたの。父さんみたいな人が、社会を変えるんだって」 王は苦笑した。「俺は何も変えていない。ただ——」「いいえ」妻が遮った。「あなたは変えたわ。少なくとも、この家族の中では」 王は妻と娘を見た。「どういうことだ?」「美玲も私も、あなたを誇りに思っているわ。あなたは——私たちのヒーローよ」 王の目が潤んだ。「ありがとう」 その頃、リン・シュウメイは新しい人生を始めていた。彼女は香港に戻り、小さな音楽ホールで歌い始めた。 だが、今度は違った。誰かの愛人としてではなく、一人の芸術家として。 ステージに立ち、リンは新しい歌を披露した。「黄浦江の誓い」——上海での経験を歌にしたものだ。 歌詞には、ハリソンのこと、王のこと、そして自分の葛藤が込められていた。 観客は静かに聞き入り、曲が終わると——盛大な拍手が起こった。 楽屋に戻ると、陳独秀が待っていた。「素晴らしい歌でした、リンさん」「ありがとうございます。これも
三日後、貨物船「永安号」は香港に到着した。リンは船倉から出て、香港の港を見た。 ビクトリア・ハーバーが目の前に広がっている。上海とは違う、だが同じように活気のある街。 船長が近づいてきた。「リンさん、ここからは気をつけて。田中の手下が先回りしているかもしれない」「分かっています。ありがとうございました」 リンは船を降りた。だが、桟橋を歩いていると——背後から声がかかった。「リン・シュウメイ!」 振り返ると、見知らぬ男が二人、近づいてくる。田中の手下だ。 リンは走り出した。 港の雑踏の中を駆け抜け、路地に入る。だが、追手は容赦なく追いかけてくる。 リンは人混みの中に紛れ込もうとしたが、腕を掴まれた。「逃げられると思うな」 男がリンを引っ張る。リンは抵抗したが、力では敵わない。 その時——「彼女を放せ!」 声の主は——陳独秀だった。『申報』の編集長が、なぜここに? 陳は数人の仲間を連れていた。「彼女は私の友人だ。手を出すな」 田中の手下は躊躇した。人数では不利だ。「覚えてろ」 男たちは去った。 リンは陳に駆け寄った。「陳さん、なぜここに?」「ハリソンさんから電報を受け取りました。あなたが危険だと。だから、香港の仲間に頼んで、港で待っていたんです」「ハリソンさんが——彼は無事なんですか?」「分かりません。電報は寧波から送られてきましたが、それ以降は音信不通です」 リンの目に涙が浮かんだ。「彼は——私のために——」「リンさん、今は安全な場所に行きましょう。私の友人が、隠れ家を用意してくれています」 陳はリンを連れて、香港の街を歩いた。 その夜、リンは陳の
香港行きの貨物船「永安号」は、東シナ海の波に揺られながら南下していた。船倉の中、ハリソンとリンは貨物の箱に寄りかかり、それぞれの思いに耽っていた。「ハリソンさん」リンが静寂を破った。「あなたは後悔していませんか? 上海での全てを失って」 ハリソンは少し考えてから答えた。「後悔——ですか。正直に言えば、時々考えます。もっと賢く立ち回れば、職も地位も保てたかもしれない、と」「でも?」「でも、鏡の中の自分を見られなくなるよりはましです。あなたが言っていたように」 リンは微笑んだ。「私たちは、似ていますね。愚かなほど正直で」「愚かではありません。人間らしい、というだけです」 船が大きく揺れた。二人は互いに身を寄せ合った。 その時、船倉のドアが開いた。船長が急いで入ってくる。「大変だ! 上海から無線が入った。田中誠一郎の手下が、この船を追っているらしい」「何ですって?」リンが立ち上がった。「高速艇で追跡しているそうだ。このままでは、数時間で追いつかれる」 ハリソンは冷静に考えた。「船長、この船の最高速度では逃げ切れませんね?」「ああ、無理だ。貨物船と高速艇では、スピードが違いすぎる」「では——」ハリソンはリンを見た。「私が囮になります」「え?」「次の港、寧波に寄港する予定でしたね? そこで私が降ります。田中の手下は、私を追うでしょう。その間に、リンさんは香港へ」「そんな! あなたが捕まったら——」「大丈夫です。私は元警察官です。逃げる技術は持っています」 船長は二人を見た。「いい案だが——危険すぎる」「他に方法がありますか?」 船長は黙った。「決まりです」ハリソンが立ち上がった。「寧波まで、あとどれくらいですか?」「三時間だ」「分かり
上海の夕暮れは、いつになく美しかった。黄浦江が夕日を反射し、金色に輝いている。だが、その美しさの下には、暗い潮流が渦巻いていた。 リンは、波止場の倉庫の影に身を潜め、出航時刻を待っていた。今夜十時、香港行きの貨物船が出る。船長には、持っていた金の大半を渡して、密航を手配した。 新しい人生。それがどんなものになるか分からないが、少なくともここよりはましだろう。 リンは母の形見の翡翠の腕輪を撫でた。「お母さん、私は正しいことをしたと思う。でも、なぜこんなに辛いんだろう」 答えは返ってこない。ただ、波の音だけが聞こえる。 その時、足音が近づいてきた。リンは身を縮めた。「シュウメイ、そこにいるのは分かっている。出てきなさい」 田中の声だ。リンの心臓が激しく打った。 どうする? 逃げる? だが、どこへ?「出てこなければ、こちらから行くぞ」 リンは立ち上がった。もう隠れても無駄だ。 倉庫の影から出ると、田中が数人の部下を連れて立っていた。「よく見つけましたね」リンが言った。「君の行動は読めていた。上海を出るなら、船しかない。波止場を見張らせていたのさ」 田中は近づいてきた。「シュウメイ、君は大きな間違いを犯した」「間違い? 真実を明らかにすることが?」「この街では、真実など二束三文だ。大切なのは、誰の味方につくか」「私は——人間の味方につきました」 田中は冷笑した。「人間? この街に人間などいない。いるのは、捕食者と被食者だけだ」 田中は部下に目配せした。二人の男がリンに近づく。「待って!」 リンは後ずさりした。だが、背後には海しかない。「君を殺すつもりはない」田中が言った。「ただ、少し旅をしてもらう。遠く、誰も君を見つけられない場所へ」 男たちがリンの腕を掴んだ。「離して!」 リンは抵抗したが、力では敵わ