LOGIN汝の劈開を示せ! 平安の怪物に嬰喰使クサビがハラワタを捻り込む!! 不死の山、富士山の貞観(じょうがん)大噴火が起こった平安初期。関東では各地に人の心魂に土魄(どはく)が憑いた怪物、嬰嶽(えいがく)が出現していた。 クサビは、地獄判官が指揮する関東検非違使所(けびいしどころ)で嬰嶽狩りに従事する嬰喰使(えばみし)である。嬰喰使とは身中の嬰喰(えばみ)を駆使して嬰嶽を解除(げじょ)=滅殺する者のことだ。 ある日の嬰嶽狩りの途次にクサビは野盗に強殺された旅の一行の中から幼女を救い出す。 ユウヅツと名付けて養女にしたその子はクサビが忘れていた平穏を取り戻すよすがとなるが、その正体は全てを変える運命の子だった。
View More溶岩帯は果てしなく続き、それにつれてクサビは自分の位置がわからなくなっていた。スハエの姿も見失っていまや溶岩の襞の中をはいずりまわる小動物の気分になっていた。両側は高々とそびえる溶岩の壁に迫られ、空は一筋の線のように見える。もうなん時も歩いているのに山へ登る感じがない。平坦な狭い場所をひたすら歩き続けている。世界から断絶してしまったかのようだった。 そんな中、溶岩壁が透けて見える時がある。幾重にもなった襞の中を戸惑いながら歩む衛士たちの姿が右手にも左手にも見える。大声をあげて呼んだが声は届かぬようだった。それに気を取られている間に足元がぬかるんで来ていた。底に溜まった蜜のようなものが絡みついて足を上げるのさえ億劫だ。蜜は溶岩壁の隙間からにじみ出ているようで、だんだんと嵩が増し、腰のあたりまで来て動けなくなった。蜜を手に取ってみる。刺激のある匂いがした。クサビはその時になってようやく気が付いた。関東最強の嬰嶽、琥珀地獄判官に取り込まれたのだと。 蜜はクサビの喉元の高さまで達し、いよいよ息の根を止めに来たかのようだった。泳ごうにも蜜は濃厚で重く、手先すら動かすことがままならない。このまま蜜に埋もれて嬰嶽の中で息絶えるのか。 その時、上方からずっしりとした衝撃音が響いてきた。見上げると一筋の空から強い光が降り注いでいる。そして再び、衝撃音とともに地鳴りのような振動が溶岩壁を伝って、蜜溜りの表面をゆらした。何度となく繰り返されるそれは、まさしくスハエが琥珀地獄判官へ打槌を仕掛けているものだった。その振動は蜜溜りを揺らし、クサビの体を浮き上がらせる。数十回も繰り返したころには、クサビは腰まで蜜溜りの上に出ることができた。そのまま溶岩壁に手を伸ばし、自分の体を引き上げ蜜溜りを脱出すると、クサビは溶岩壁をよじ登り始めた。壁か
クサビは人の背に負ぶわれていた。負ぶっているのは母のようだった。クサビは身を固くした。負ぶった赤子がぐずると後ろ頭でド突いて黙らすような女だからだ。そんなはずはない。母はずっと昔に死んだのだ。押しつぶされるような頭の重さを感じつつ、クサビはそこで目を覚ました。 クサビは衛士に負ぶわれていた。ザワだった。「どうして」「轍を追って来たらお前が道中で倒れていたので連れてきた」「サヨ姫は、いやユウヅツはどうした」「わからぬ。轍は足柄からずっと続いているが、ユウヅツは見当たらない」「ここはどこだ」「横走りの関」 そこから西に不死の山がもうもうと噴煙を上げる姿が遠望できた。「すまぬ。降ろしてくれ」 クサビはすこしよろけたが立てた。「礼を言う。ここからは一人で行く」「人手はいくらあってもよかろう」 相手はユウヅツだけではなく関東最強の嬰嶽、琥珀地獄判官と一緒なのだった。しかし、この任は誰のものでもない。クサビ自身のものだ。それにザワを巻き込むわけにはいかなかった。「ありがたいが一人で行く」 思った通りだという表情でザワは言った。「そう意固地になるな。援軍も直に来る」 すると真上から声が降ってきた。「すでにここに居るぞ」 見上げるまでもなく声でスハエだと分かった。逃げたのではなかったか。「糞のためではない。積年の恨みをはらす」 判官様から一番恩恵を受けたのはスハエだったはず。思いはザワも同じらしく、大げさなあきれ顔をクサビに向けた。 クサビは少し気持ちがほぐれて、ザワたちと同行することにした。「他の者たちは」 とクサビが聞くと、クサビの背後を指
館の西門からユウヅツたちの痕跡は続いていた。それは道幅いっぱいの轍と、真ん中のか弱げな足跡だ。轍も足跡も泥濘るんだ道にはっきりと残っていたので、暗い夜道でもよく分かった。クサビはそれを頼りにユウヅツを追うことにした。 途中、遊行の僧に行き会った。ユウヅツのことを聞くと国分寺の者だというその僧侶が笠の中から言った。「そなたの娘御は、巨大な泥の山を積んだ土車を一人で曳いておった。土車から荒縄が伸びて娘御の首に巻き付けられておった」 さらに続けて、「あまりに不憫であったので、拙僧が書にて『ひと引き引いたば千歳供養、ふた引き引いたば万歳供養』という札を泥の山に立てておいたので、奇特な御仁がおれば助けてくれよう」 クサビは僧侶にお辞儀すると不死山が噴煙を上げる西に向けて先を急いだ。 ユウヅツの曳く土車が速いのか、それともクサビの出立が遅すぎたのか、全力で駆けているはずなのにまったく土車に追いつかなかった。 出立してから夜通しクサビは駆け続け、時に暗闇に轍を見失っては道の上をはいずって探し、見出しては追いかけた。やがて当たる風が冷たくなり、あたりが明るくなってきた。振り返るとすでに東の空が白み始めていた。道の上に目を落とすと足跡とともに血痕が点々と残っている。クサビが遅れれば遅れるほどユウヅツの身が危うくなってゆく。 それからしばらく行くと前方に木々が鬱蒼と生い茂る山塊が迫って来た。足柄山、関東の西端にたどり着いたのだった。山中は昼にもかかわらず暗く静謐に包まれていた。足柄の山道にもこれまで通りユウヅツの足跡と土車の轍は続いていたが、ここに来てクサビにはユウヅツに近づきつつあることが分かっていた。ところが山中に踏み入れてよりクサビは不思議な感覚にとらわれてなかなか歩が進まなくなってしまう。それはこの轍が今できたものなのか、ずっと以前にできたものなのかが分からないというものだった。さらにありえないことだが今よりもずっと先
世話好きな刀自や采女たちが、紅潮した頬をクサビに向けて話しかけてくる。「またとない話じゃないか。なにを拒む理由があるのかい」 無論だ。関東最強の判官様がユウヅツの裳着の後見をしてくださると仰せになられたのだから。たかが走り隷の養女ごときを、この関東でおそらくもっとも権勢のある、これ以上望みようもない御方が介添えを申し出てくださるなど、僥倖以外のなにものでもない。だから拒んでいるわけではない。クサビは不安なのだ。ユウヅツの後見人になるということは、親になるのも同じこと。判官様のおわします御簾の向こうにユウヅツをやるということ、それは二度と会うことができなくなるということだった。ユウヅツのことを思えばその方がよいに決まっているが、同時にユウヅツと離れて暮らすなど今となっては考えられない、ユウヅツとの出会いは運命だとも思う。クサビはそれでずっと逡巡しているのだった。 ある日、大きな地震があった。ユウヅツが早朝より外出して不在だったためクサビは無事を案じた。大きな揺れがおさまり隷長屋から中庭へ出ると、人々が慌てふためいて行き来していて、全ての視線が不死の頂に向けられていた。西の空では噴煙の勢いが増し、黒々とした叢雲が広がり出していた。 クサビが局室にもどり倒れた調度を片付けているとエツナが訪れて言った。「地獄様が御馬を曳けと仰せだ」 以前は天災、人災に関わらず事が起きた時は、御前に馬を曳く習わしとなっていたが最近では珍しいことだった。それでも、それは御厩の役まわりだ。走り隷の任ではない。判官様の御馬を自分のような下郎に曳かせて良いものではあるまいとクサビは思ったが、それが仰せとあらば否応するべきことではないのだった。 判官様の御馬は鬼鹿毛という名で、庁の南に広がる牧のさらに奥、茅の生い茂る野原の中で飼われている。噂では相当な気性の荒さだと聞いていた