ログイン14世紀イングランド。人質として過ごしている村の教会で司祭として過ごす【アーサー・クロムウェル】は、聖職者としての自分と伯爵の私生児としての素性、無力な現実のはざまで苦悩していた。ある嵐の夜、白い獣と呼ばれる異形の流浪人【ウルフ】と出会うまでは──。 二人の結託を知った村の代官【トーマス・バートン】は、二人を引き離すべく、ウルフが彼が呪われた存在だという噂を流して排除しようとする。 伯爵令息と異形の流浪人の立場を超えたデコボココンビと仲間たちは、この苦難をどうやって乗り切るのか。アーサーとウルフの関係はどうなるのか!?
もっと見る「大丈夫。ウルフがいるから」
少しだけ不安そうなルーシーにアーサーが優しく笑いかけると、彼女はハッと目を瞬かせた。「お前はいつも、それを当たり前みたいに言うな」 それを聞いたウルフは呆れたように言ったが、アーサーの信頼を拒みはしなかった。***
三人はカンタベリー巡礼のため、ロンドン方面へ向かって旅をしていた。
けれど、テムズ川にかかるメイデンヘッド橋へ着いて、三人は目の前の光景に顔を見合わせた。 古い木橋の前には、長い列ができていた。荷車は一台ずつ、橋を壊さないようにゆっくりと進んでいる。馬の鼻先は前の荷台に届きそうで、行商人も巡礼者も、諦めたように足を止めていた。 ウルフは橋の上と列の先を見比べ、低く息を吐いた。「今日はもう昼をとっくに過ぎている。この調子では、今日中に向こうへ渡れても、宿場に入る頃には日が落ちているだろう」
「そうなると、日のあるうちに宿を取るのは厳しいかもね」
アーサーも同じように橋を眺めては、うーんと唸って腕組してから、思いついたように提案する。
「じゃあ、今日はこの手前で野営にしよう。朝早くから並べば、明るいうちに向こうへ行けるよ」
「野宿、するの……?」
まだ旅慣れないルーシーは、森の闇夜を思い出して、少しだけ声を落とした。
アーサーはウルフの背について行く足を止めると、振り返って優しく笑いかける。「さっきも言っただろ。ウルフがいるから大丈夫だよ」
「だから、俺を理由にするな」
ウルフは肩越しにそう返した。
「取り敢えず、俺は野営場所を整えておく。お前たちは薪と、食えそうなものでも探してこい。あまり遠くへ行くなよ」
「分かってるよ」
アーサーが明るく答えると、ウルフはもう一度橋の方を見やり、それから街道を外れて川辺の方へ歩いていった。
日が傾き始めた頃、アーサーとルーシーが野営地へ戻ると、焚火の支度だけはすでに整っていた。乾いた枝が組まれ、鍋をかける場所も作られている。 けれど、そこにウルフの姿はなかった。「あれ。居ない……ねえルーシー。火を見ていてくれる?」
アーサーは集めてきた薪を下ろしながら言った。
「どこ行くの、アーサー?」
「僕、ウルフを探してくる。そんな遠くにはいないと思うんだけど……」
「わかった。私はご飯作ってるから気を付けて行ってきてね」
「うん、ありがとう」
ルーシーの声を背に、アーサーは川の音を頼りに木立の奥へ入った。
橋や街道のざわめきは、少し離れるだけで薄れていく。「ウルフ、魚、獲ってるの? 水、冷たくない?」
アーサーが声をかけると、ウルフは振り返りもせずに言った。
「夕飯、羊の餌みたいな草と木の実だけでいいのか?」
「それは淋しいな。だったら、僕も魚
「はっ……どうせお前には獲れまい」
「決めつけが早いなあ」
相変わらず子ども扱いのウルフの皮肉にアーサーは肩を竦めると、続けて声が掛かる。
「と言うか、川まで来て泥だらけの足で戻る気か。水が温かいうちに体を洗っておけ」
「そう言えば、そうだね……そうするよ」
アーサーは素直に靴を脱ぎ、裾をたくし上げた。そして身に着けていた濡れて困るものを岸へ置いてしまうと、思い切って上着まで全部脱いでしまった。
ウルフの真似をしてほぼ全裸になったアーサーが、そろそろと川へ足を入れた瞬間、思ったより冷たい水に声が出た。「冷たっ」
「大げさだ」
膝まで水に浸かって体をビリビリと戦慄かせているアーサーを、ウルフは呆れたように鼻で笑った。
「ウ、ウルフは平気なの?」
「騒ぐほどではない」
そう言いながら、ウルフは素早く手を沈めた。水が跳ね、次の瞬間には銀色の魚が彼の手の中で暴れていた。
魚を掴む、その鮮やかな手さばきにアーサーは思わず笑った。「すごい。本当に手で獲れるんだ」
「見てないで手を動かせ。コツを掴めばすぐ出来るぞ」
「じゃあ、僕はこっち」
アーサーは水をすくい、ウルフの背中へ軽くかけた。
ウルフがゆっくり振り返る。「おい。魚を取りに来たんじゃなかったのか?」
「ごめん。ちょっとやってみたくなって」
「子どもか。少し前までお偉い司祭殿をやっていたとは思えないな」
皮肉と共に低い声で睨まれたが、その目は本気で怒ってはいなかった。
アーサーは笑いながら、今度は自分の腕についた泥を洗い落とした。 自分とは違う、ウルフの白い髪。白い肌。傷の残る背中。 初めて見た者なら、そこに恐れを覚えるのかもしれない。村の人々がそうだったように。 けれどアーサーは、彼のその類を見ないほどの肌の白さを不吉なものとして見たことは一度もない。 大きく頼もしい背中が隣にいれば、アーサーは夜の森でも眠れる。 水音の中で背を向けられても、置き去りにされたとは思わない。 それが、少し不思議だった。「アーサー、ウルフ……」
木立の向こうからルーシーの声がした。
「お鍋、できた……わ!?」
草を分けて現れたルーシーは、浅瀬の二人を見た途端、言葉を詰まらせた。頬が見る間に赤くなる。
「ちょっと、裸じゃない! 早く川から出ないと体冷やしちゃうわ!」
「すぐ戻るよ」
アーサーが平然と答える横で、ウルフは獲った魚を片手に岸へ上がった。
「何を慌てている。飯にするぞ」
「う、うん」
濡れた腰布や肌を気にする様子もなく岸へ上がる二人の姿に、ルーシーは目を伏せたまま頷いた。
野営地へ戻ると、焚火は赤く育っていた。 魚が串に刺され、火のそばでゆっくりと焼けていく。川の匂いと煙の匂いが混ざり、夕闇の中でウルフの白い髪だけが淡く浮かんで見えた。 アーサーは自分の濡れた髪を拭きながら、その横顔を眺めた。 この旅が始まる前、自分たちはまだ、こんなふうに同じ火を囲んではいなかった。 彼の白い姿に誰もが怯えていたし、まるで歩く厄災のように噂をし、アーサーも近づくことを許されなかった。 それでも、あの嵐の夜、アーサーは運命的にウルフと出会ったのだ。 雨から逃れようと教会のひさしの下でずぶ濡れで蹲っていた、ウルフという、一人の流浪人に──。錠前が引っかかっているだけの戸を静かに開き、二人は息を殺して、そろそろと資料室の中へ入った。 扉を閉めきる前に、アリスの耳が小さな声を拾う。 壁の向こうから、人の話し声が聞こえていた。 片方は低く、威圧的で押さえつけるような声音。もう片方は、それに負けまいとするように、慎重に言葉を選んでいるような、それでいて意志の強い声。──トーマスとアーサーが話しているんだ。「何喋ってるんだろう……」 アリスが思わず呟くと、ウルフは廊下側の人の気配を確かめながら短く答えた。「さあな。しかしあいつ、司祭をやってるだけあって、代官相手に話を持たせるくらいはできてるみたいだな」 まるでからかうような言い方をするウルフだが、彼なりにアーサーを心配していたのだと思うと、アリスは少し嬉しい気持ちになった。(私も、できることをしなくちゃ……!) 帳簿探しは慎重に。少しでも物音を立てれば、壁の向こうへ届きかねない。 ウルフはすぐに部屋の中へ視線を走らせた。 壁際にはいくつもの棚が並び、紐で束ねられたロールや、書きつけの束、木箱が置かれている。中央の作業台には、まだ片づけられていない書類が広げられたままだった。 その上に置かれている羊皮紙を見て、アリスの息が止まりかける。 そこには、父の名が署名された誓約書があった。【ウィンドル川及び水車用水路の保全に関する誓約】我、サイモン・ミルナーは、ペンストレイト領内において粉挽き業を営む者として、領主及び代官の命に従い、左の事項を誓約する。一、ウィンドル川、水車用水路、堰及びこれに付随する施設を汚損せず、その清浄を保つこと。一、灰、獣脂、腐敗物、薬品その他、水質を損なうおそれある物を故意に川及び用水へ流さぬこと。一、水車、倉庫、作業場及び排水路を常に適切な状態に保ち、不浄又は異変を認めた際は速やかに代官へ報告すること。一、代官又はその任を受けた役人が、水質及び施設の保全状況を確認するため検査を行う場合、これを拒まず協力すること。一、村内において水質汚濁その他公衆の安全に関わる疑いが生じた際は、必要な調査及び改善命令に従うこと。一、本誓約に違反したと認められた場合は、領主裁判所の裁定に服し、罰金、営業停止その他相当の処分を受けることに異議を唱えない。右、領民の安全及び村の秩序維持のため、偽りなく誓約し、ここに
アーサーがトーマスと向かい合っている頃、代官邸を少し離れた物陰から、その様子を見つめている二つの視線があった。ウルフとアリスだ。 二人の目的はひとつ。 アーサー、ウルフ、アリス、ルーシー。四人の命運をかけて、トーマスとの交渉に使う不正の証拠となる帳簿を、屋敷の中から盗み出すことだった。 はじめに二人は、屋敷の表側から警備の状況を確認した。 正面入口のあたりには、アーサーの馬車を迎えるためか、召使いや下男が複数立っている。門の前では人が出入りし、普段よりも落ち着かない空気が漂っていた。 それを見て、アリスは眉間にしわを寄せた。「案の定、人がいっぱいいるわね」 きっとトーマスは、ミルナー家の署名やアーサーとの対話に横槍が入らないよう、警戒しているのだろう。「こりゃ、お前の親父さんもたまらないな……署名しないならしないで、すぐにでもお前んちを改めて、粉挽きが不埒なことを考えていたとか言う気でいたんだろうよ」「そんなことになったら、私たちはこの村で生きていけないわ。粉挽きをよく思ってない人は少なくないもの……こっち来て」 アリスは小声でそう言うと、ウルフを促し、正面入口から外れた塀沿いへ回った。 そこは屋敷の通用口へ続く道だった。普段なら、下働きや出入りの者が使う場所である。正面から入るよりは、まだ人目を避けられるはずだった。 だが、ウルフはすぐに足を止める。 そして塀の先、通用口のあたり、屋敷の窓へと順に視線を走らせ、低く言った。「駄目だ。ここも人の目が切れない」「でも、正面よりはましでしょ」 一見ひと気の少ないその場所を前に首を横に振るウルフに、アリスはむっとした。「そんなの、人払いしてるからに決まってる。その代わり、見えないところに監視が隠れているんだ。そんな場所を安易にうろつくのは命取りだろ。仮に中に入れても、こんな高い塀じゃ戻る時に逃げ道が悪い。俺一人ならまだしも、お前連れじゃな」「じゃあ、どうするの?」「こっちだ」 言うが早いか、ウルフは屋敷から離れてずれた方面へ歩き出した。「え、どこへ行くの、ウルフ……待って!」 慌てて追いかけるアリスを連れ、ウルフはウィンドル川沿いの茂みへ向かう。 その光景を見て、アリスはすぐに察した。 川の方から屋敷の裏手に忍び込む気なのだと。 途端に、アリスの顔が露骨に曇る。 彼女
■村を一本につなぐ生活インフラ十四世紀のイングランドでは、井戸や泉、川や小川など、土地にある水源を組み合わせて生活していました。飲み水には泉や井戸が好まれましたが、すべての家が良質な水源を持っていたわけではありません。川の水も、炊事、洗濯、道具の洗浄、家畜への給水など、さまざまな用途に使われました。川は水源であると同時に、仕事場でもありました。水車を回して穀物を挽き、魚を獲り、羊毛や獣皮を洗い、家畜の手入れをする。中世の川は、現代でいう水道、動力設備、作業場の役割を一度に担っていたのです。便利である一方、そこには大きな弱点がありました。上流で使われた水が、処理されないまま下流へ流れていくことです。■目の前から消えても、汚れは消えない流れる水の中で動物を洗えば、毛や泥、脂、薬剤はすぐにその場から見えなくなります。しかし、汚れが消滅したわけではありません。下流へ移動しただけです。汚染の広がり方は、川の状態によって変わります。水量が多く流れが速ければ薄まりやすく、渇水時や流れの緩い場所では高い濃度のまま残りやすくなります。脂やタールのように水へ均一に溶けない物質は、水面や岸辺へ寄り、泥、水草、石などへ付着することもあります。そのため、同じ川を利用していても、村人全員が同時に倒れるとは限りません。水を汲んだ場所や時間、飲用・調理・食器洗いといった用途によって、口に入る量が異なるからです。ある家では何人も体調を崩し、隣家では被害が出ないという、原因を見つけにくい状況も生まれます。中世の人々も、水の濁りや悪臭を気にしなかったわけではありません。都市では水路への廃棄を規制し、給水設備を管理した記録が残っています。ただし、目に見えない成分を検査する手段はなく、異変の原因を突き止めるには、臭い、色、残留物、病人の分布などから推測するしかありませんでした。■タールと獣脂は動物用の軟膏だった作中で犬の洗浄に使われているタールと獣脂は、当時の生活から完全にかけ離れた材料ではありません。羊の皮膚病や寄生虫対策では、タールにバターやラードなどの脂を混ぜた軟膏が使われました。羊飼いがこうした軟膏を入れた「タール箱」を
アーサー必死に話し合おうとトーマスに提案する横で、村人たちは状況が呑み込めずに立ち尽くしているウルフをその場に残したまま、天幕を囲むように杭を打ち、縄を張り始めている。木槌の音が夜気に重く響いた。「一体、何の騒ぎだ」 低い声に、何人かの村人がびくりと肩を揺らした。トーマスは一歩前へ進み出る。「初めまして、かな。貴様と直接喋るのは初めてだと思うが、私はこのアッシュワース村で領主ジェフリー・オーランド・ペンストレイト男爵様より代官を任ぜられている、トーマス・ベネディクトゥス・ゴードンである」 わざとらしく名乗りを済ませ、口元だけで笑う。ウルフは答えず、黙って見下ろしていた。「アーサー司祭殿から貴様の事は多少聞いてはいる。単刀直入に言おう……流浪人殿を村人たちが怖がっている。今すぐ立ち退いてはくれないか。もしそれを拒否するなら、この結界の中から出る事はまかりならん。貴様には村に呪いを持ち込んだ疑いがあるのだ」 「だからトーマスさんっ、彼は誰かを呪ったりはしてません!」 アーサーが前へ出る。だがトーマスは視線だけでそれを制した。「では、それを今すぐ証明したまえ。今すぐだ。出来ないなら我々に従って頂く他無い」 「今すぐって……」 喉がひりつく。アーサーは不安げにウルフを見た。呪いの原因はまだ調査中だ。今この場で潔白を示すのは難しい。「では時間をください。一日……いや、数時間あれば彼が呪いと無関係であることを証明いたします!」 縋るように言うと、群衆の後ろで小さなざわめきが起きた。「無駄な時間稼ぎだ」 トーマスの声は冷え切っていた。「騒ぎが起こってから何日経っていると思っている。数時間でどうにかなるなら、とっくにどうにかしていてもおかしくないだろう、司祭殿。村人たちはもう我慢の限界を迎えている。今すぐ説明出来ないなら、下がっていていただこう」 言葉のたび、村人たちの視線がアーサーへ突き刺さる。「それは現在……」 調査中です、と口を滑らせかけたアーサーを遮るように、ウル