Chapter: 第五章 甚太の犠牲 あとから聞いた話だが、俺が学校を休んだ日、昼休みのざわめきが薄くなるタイミングで、小夜は教室の真ん中で甚太に声をかけたという。「甚太くん、少し相談があるの。……ここじゃなくて、図書室で」 声は落ち着いていて、でも背中に風を孕んだみたいに軽かったらしい。クラスの視線が集まる。男子の何人かはわざと聞こえる声で笑って、女子の何人かはノートを閉じる手を止めた。「おう、わかった。すぐ行く」 甚太は、あくまで普段通りに返したという。 けれど、「みんなの手前」彼は了承した。みんなの前で了承する、ということがどういう意味を持つのか、あいつは薄々察していたのだろう。 後に本人がぼそりと言った。「あの時点で、俺はどこに風が吹くかだいたい分かった。……でも、風上に立つことと、誰かの風除けになることは、たまに同じ意味なんだ」と。 俺はその頃、部屋のベッドと天井の境界をぼんやり眺めながら、一日に何度も浅い眠りに落ちては浅い現実に戻ってくる、を繰り返していた。スマホの震えだけが、乾いたところに落ちる雨みたいに、現実を連れてくる。 蓮花からのメッセージは、相変わらず具体的で、やさしい。蓮花《鉄、生きてる? プリント、ドアノブにかけといたから。ごはん食べた? 無理ならゼリーでも摂ってね》 甚太は短く、命令形が多い。甚太《とりあえず寝てろ。ちゃんと飯食えよ。既読したら寝る!》 小夜からは、夜になると必ず一通は届いた。小夜《今日の月、雲に隠れたり、出てきたりしてるよ》 俺は『見たい』と返し、『見よう』と続ける。 返事より先に眠気が来る日は、スマホを胸に置いたまま眠ってしまう。目覚めると、朝の白い光のなか、画面に「おやすみ」が煌めいている。 数日そうして過ぎ、体の芯の重りが少しだけ軽くなった頃、俺は登校した。 玄関の靴箱の鉄の匂い。廊下の風の塩。教室に入ると、いつもより視線の針が数本だけ増えた気がした。俺が戻ってきたこと、小夜のとなりに俺が座ること、その二つが同じ文脈で見られている視線。「鉄」 最初に声をかけてきたのは蓮花だった。眉の角度が普段の元気印より二度くらい下がっている。「顔色、よくないよ。帰れって言われたらすぐ帰るんだよ。いい?」「大丈夫。今日は、来たかったんだ」「“大丈夫”に“ほんと?”って重ねる役、私もう飽きてきたから、ほんとに大丈夫なやつだ
Last Updated: 2026-08-06
Chapter: 第四章 甘い日々と衰弱付き合いはじめてから、小夜は校門の少し手前のほうで待ってくれていた。 朝の光はまだ白く、海風は少し冷たい。けれど俺の胸の中だけは、季節がふたつ先を走っているみたいにあたたかかった。 「おはよう、鉄」 「おはよう、小夜」 名前を呼ばれるたび、耳の裏がくすぐったい。小夜は手を差し出して、俺が握ると、その手はやっぱり少し冷たかった。冷たさはすぐに俺の手の中で馴染み、ふっと息を吐くように体温をわけ合う。 「今日ね、窓際の席、光が柔らかいんだぁ」 「じゃあ一限目は眠気との戦いだな」 「私が起こしてあげる」 「頼んだ」 たぶん、そのやり取りを何度繰り返しても、嬉しくてしょうがないんだと思う。校舎に入ると、廊下の空気が塩のにおいを薄め、かわりにチョークの粉っぽさが鼻先にくっつく。登校してくる生徒の視線がふっとこちらへ揺れ、すぐに戻る。近すぎず遠すぎず、俺たちの輪郭をなぞって通り過ぎていく。 席につき、ホームルーム。連絡事項はいつも通り。俺がうっかりため息を漏らすと、小夜が横からメモ用紙を滑らせてきた。 『今日の月、十日目。帰りに見えるよ』 小さな字。きれいなクロッキーのような月のスケッチまで付いている。俺は親指を立て、メモの端に『見よう』と書き足した。紙一枚のやり取りが、胸の中の何かを静かに整える。甘いというより、落ち着くようなそんな感じ。 昼休みの屋上は風が強く、空は高い。 レジャーシート代わりに敷いたタオルの上に並ぶ弁当。俺は購買のパンを二つ。小夜は小さな二段弁当――上段は白いおにぎりが二つと漬物、下段は柑橘の切れ端がきれいに並ぶ。飲み物はやっぱり水だ。 「それ、足りるのか?」 「うん。このくらいがちょうどいいんだ」 「ちょうどいい」を見つけるのが、彼女はうまい。 俺が袋からメロンパンを出すと、小夜が少し身を乗り出した。 「それ、好きなの?」 「うん。子どもの頃からずっと好きだった」 「そうなんだ。……匂い、かわいいね」 「かわいい匂いってなんだよ」 「鉄に合うよ」 直球で言われるとなんだか照れる。パンが急に“特別なパン”になって、噛むたびに笑いそうになる。俺が水を飲むと、小夜がペットボトルの口元をのぞいてくる。 「炭酸じゃないの?」 「今日はやめた。……小夜に合わせた」
Last Updated: 2026-08-01
Chapter: 第三章 夏、海、花火「なー今度の連休に四人でどっか遊びに行こうぜ!」 甚太の声は、昼休みの喧噪に負けない。教室の窓が半分だけ開いていて、海からの風が白いカーテンをふわりと押し上げた。 俺は机に肘をつき、すぐさま頷く。「おー! いいな、行こうぜ!」 こういうときの返事は早いほうが勝ちだ。迷っているあいだにチャンスの波は岸に砕ける。俺の信条である。「アンタらねぇ、来週には期末テストがあるのに、遊んでられないでしょ!」 蓮花がすかさず縦ロール(脳内演出)みたいな勢いで突っ込みを入れる。実際の髪はポニテだが、言葉の圧で三割増しに見える。「テストなんて一夜漬けすりゃなんとかなるだろ。なー鉄!」「おうよ! 人間追い込まれてからが勝負だからな!」 俺と甚太は肩を組み、拳を合わせる。ぱしん、と乾いた音がして、カーテンの白が一瞬だけ眩しく跳ねた。「ほんとしょうがない奴らね。小夜からも何か言ってやってよ」 蓮花に水を向けられた小夜は、ノートの角に指を添えたまま、少しだけ目を細める。「うーん、私も最近テスト勉強ばっかで疲れてたからな~。たまにはリフレッシュしたいな!」「さすが小夜! いいこと言う! やっぱりリフレッシュは必要だよな!」「アンタは勉強してないでしょ!」 蓮花の鉄壁ディフェンスが飛んでくる。だが、ここは攻め切る。「まま、あんまり固いこと言わずに。あとは、蓮花お嬢様だけだぜ!」「お嬢様、お願い!」 小夜が両手を胸の前で合わせ、少し首を傾げる。潤んだ瞳――というより、光の反射でそう見えただけかもしれないが、その角度は反則だ。「お嬢たま、お願い!」 俺も真似る。甚太は横で合掌して「南無」とか言っている。カオス。「ああ! もう、わかった、わかった! 私も行くわよ!」 甚太と小夜の圧に折れる形で蓮花は両手を上げ、俺は歓喜のガッツポーズ。直後、黙って脇腹に小さな拳骨をもらった。痛い。黙っていないのに黙って殴られた。理不尽だが、勝訴だ。「でも、どこか行くっていっても、どこにする?」「そうだなー。海なんてどうだ?」「海っていうと、あそこか?」「そっ! お前のお気に入りのところ!」 甚太が親指で海の方向を示す。俺の脳裏には、いつもの浜辺の光景が即座に浮かんだ。風で砂紋がうっすら変わる、あの緩い湾曲。防波堤の向こうで波が砕けて白い霧を上げる。満月の夜、海面に道
Last Updated: 2026-07-28
Chapter: 第二章 日常と絆 そんなこんなで、彼女が転校して来てから一か月が過ぎた。 最初の一週間こそ祭りみたいな人だかりだったのに、二週、三週と経つにつれて、あの渦は嘘みたいに萎んでいった。昼休み、窓際の席に人垣ができていたのは遠い昔。今では、授業の合間も放課後も、椿小夜は一人で静かに本を閉じ、水を一口含む。人気が去ったんじゃない。人気はある。けれど、その熱が彼女の半歩手前で立ちすくむようになったのだ。理由は、誰も言わない。ただ、教室の空気が「言わない」を選んでいる。「なんか急に椿さんの周りに人がいなくなったけど、どうしたんだ? 蓮花は何か知ってるか?」 朝の小テストが終わって、鉛筆をくるくる回しながら俺は訊いた。蓮花は消しゴムのカスをまとめ、少しだけ視線を泳がせる。「えっ? うーん……ちょっと、わかんないかな……」 蓮花にしては歯切れの悪い返答だ。いつもなら「はいはい、文化祭の時の“盛り上がりだけで近づいてくる勢”は三週間で自然淘汰されるの」みたいに軽口で流すはずなのに。妙に慎重な間。 そのことも気になったが、せっかく近づくチャンスだと、俺の足は勝手に「前へ」を選んでいた。「椿さん。次の移動授業、俺らと一緒に行きませんか?」 チャイムが鳴る直前、思い切って声をかける。理科棟への移動。いつもなら彼女は一人で席を立つ時間だ。いきなり話しかけられたからか、小夜は一瞬だけ不思議そうに目を丸くした。けれど、次の瞬間には、いつものように柔らかく笑って、頷いてくれた。「いいですよ。よろしくお願いします!」 その笑顔は、教壇での挨拶でも、廊下の遠目でも見ている。でも、こうして至近距離で受け止めると、胸の真ん中温度の急上昇が起きる。頬が、耳が、熱い。――落ち着け俺。落ち着け、落ち着け。「よっしゃ、四人で行こうぜ。エスコートは俺が請け負う!」 すかさず甚太が乗ってきた。こういう時の機動力はさすがだ。蓮花はふぅ、と息を吐いて肩をすくめる。「はいはい。じゃ、あたしは“後ろから見張る係”ね。鉄、変なこと言ったら足引っかけるから」「厳重すぎないか、その警備」「必要なセキュリティーよ」 先生の「移動授業だぞー、忘れもんないかー」といういつもの声を背に、俺たちは一斉に席を立つ。四人で廊下へ。教室のドアが開くと、風が入り込んでプリントの端がめくれた。海からの匂い。白銀海聖学院の建物は海に向
Last Updated: 2026-07-25
Chapter: 序章 満月の涙 その夜、浜辺には誰もいなかった。 潮騒と、静かに寄せては返す波音だけが、月明かりに照らされる砂浜を支配している。 俺はそこに立ち、夜空に浮かぶ満月を見上げていた。 真珠のように白く、冷たく、けれど凛とした輝きを放つ月。その光は海面に映り込み、揺れるたびに形を変え、まるで手を伸ばせば掴めそうに思えるほど近くに見えた。「……きれいだな」 小さく呟いた声は、夜風にさらわれて消えていく。 急に胸が締めつれられるように苦しくなる。何かは分からないけど、大切なものが無くってしまうような。そんな、胸にぽっかりと穴が空いた気持ちになった。 どうしてか分からない。俺はただ、月を見ているだけなのに――頬を伝う涙に気づいた。 何に泣いているのか、自分でも分からなかった。 ただ、この光に触れたとき、心の奥で誰かを待っているような、取り戻せないものを探しているような、そんな感覚に押し流されていた。 この涙は、これから始まる長いようで短い青春の一幕を予感していたのかもしれない。 やがて俺は、袖で涙を拭いながら振り返り、月を背に歩き出した。これから始まる物語は、俺にとって忘れられない――いや、忘れちゃいけない出来事だということを、この時はまだ知らなかった。
Last Updated: 2026-07-23
Chapter: 第一章 転校生、椿小夜「今日は一段と眠そうだな、鉄」「どうせ夜遅くまでゲームしてたんでしょ」 朝の教室。賑やかな声に肩を叩かれ、俺は顔を上げた。 声の主は、幼馴染の|戌亥 甚太《いぬい じんた》と|柊 蓮花《ひいらぎ れんか》。小さいころからずっと一緒にいて、高校に入っても相変わらずの付き合いだ。 ちなみに俺の名前は|虎牙 鉄弥《こが てつや》。白銀海聖学院の二年生。海沿いに建つ中高一貫の進学校で、制服からはどこか上品さが漂っている……らしい。少なくとも俺はそう思ったことはないが。「そんなんじゃねーよ。ただ、昨日は月がきれいだったから」「ああ、満月だったな。……お前、また浜辺でぼーっとしてたのか?」甚太が呆れ混じりに笑う。「ほんと好きねぇ、ロマンチストっていうか。今度ポエムでも書いて読み上げなさいよ!」蓮花はくすっと笑って俺をからかう。「そんなの書けるかっての!」 俺が抗議する声をかき消すように、チャイムが鳴った。すでにホームルームの時間だというのに、担任はまだ来ない。「なんでも今日来る転校生が遅れてるみたいだぞ」甚太が小声で教えてくれる。 なるほど、それでみんな騒いでいたのか。耳を澄ませば、クラスのあちこちで「男かな?」「女かな?」「可愛い?」「カッコイイ?」と盛り上がっている。まったく、高校生にもなって転校生でこんなに浮かれるとは……。 ……いや、可愛い女の子だったら俺も浮かれる。できれば、アイドル級に可愛い子が来てほしい。「鉄、お前はどっちだと思う?」「もちろん女の子だな。可愛いならなお良し!」「はは、即答かよ!」「まったく……。目の前にこんなに可愛い女の子がいるのに」蓮花が拗ねたように唇を尖らせる。「いやお前はもう見慣れてるし」「だな」「二人揃ってハモるなーっ!」 俺たちの笑い声に混じって、教室のドアがガラリと開いた。担任が入ってきて、教壇に立つ。「はいはい、席につけー。今日から転校生が来るぞ。みんな仲良くしてやれよ。……じゃあ、入ってきてくれ」 次の瞬間、教室の空気が凍りついた。 月の光を閉じ込めたような黒髪が背中まで流れる絹のような艶めいて、透き通る白い肌に、わずかに陰を宿した大きな瞳。 ――完璧な美貌の少女が、そこに立っていた。「|椿 小夜《つばき さよ》と申します。家の事情でこちらに転入することになりました。……どうぞ、
Last Updated: 2026-07-21