Chapter: 内見車の後部座席には、若いカップルが乗っている。彼氏は物件サイトを見ながら「この辺、家賃安いっすね」と無邪気で、彼女は窓の外を見たまま静かだ。榊くんは運転しながら、完璧な営業の声を出す。「駅距離は徒歩九分。夜道は明るいです。スーパーも近い」私は助手席で、資料を開いて相槌を打つ。仕事。仕事。仕事。──後ろにお客さんがいる。だから私は安全だ。そう思った。信号で止まった瞬間、榊くんが小さく笑って言う。「朝比奈さん、ちょっと固くないです?」声だけが近い。私は窓の外を見たまま返す。「そう?いつもこんなもんでしょ。仕事中なんだから」「じゃあ、僕も仕事中なんで、効率よくいきましょう」榊くんの左手が、またセンターコンソールに置かれた。私の太もものすぐ横。触れてない。でもあと1ミリ。それが一番、言い訳に便利な距離だ。肺が一瞬、空打ちする。ぞわっとしたのは気のせいだ。触れてないのに、触れられてるみたいに息が止まる。後ろの彼女が、視界の隅でバッグの紐を握り直した。彼氏は、まだ物件サイトをスクロールしている。気づいた?……いや、気づかないで。──目を合わせないのに、距離だけ詰めてくる。これが、榊くんの手法だ。客がいる。だから私は、逃げられない。
Last Updated: 2026-09-02
Chapter: 内見車のドアが閉まった瞬間、空気が変わる。「助手席、どうぞ。いつも通り」榊くんはハンドルに手を置いたまま、当たり前みたいに言った。私は反射で「ありがとう」と返してしまう。断る理由がない。理由がないことが、いちばん厄介だ。シートベルトの金具を差し込む音が、やけに大きい。私の胸の内側だけが、先に騒いでいる。「さっき、所長と何話してたんです?」信号待ち。榊くんは前を見たまま、声だけ落とす。雑談の皮をかぶった確認。私は窓の外を見て答える。「昨日のお礼、チョコ渡したから。その話」「へえ」短い返事。次の瞬間、榊くんは笑った。笑ったのに、目は笑っていない。運転中の横顔って、逃げ場がない。「朝比奈さん、所長には素でいきますよね」“素”って言葉が、肌を撫でるみたいに刺さる。私は笑顔の筋肉だけ動かす。「素じゃないよ。仕事だよ」「じゃあ、僕には?」アクセルが少し踏まれる。車が滑るみたいに前へ出る。私は喉の奥で息を止めた。「……榊くんにも、仕事」言い切ったつもりだった。けれど榊くんは、そこで黙らない。「そっか。じゃ、距離も仕事の距離にしよ──守るために」……何を?“仕事”の名目で、榊くんの左手がセンターコンソールに置かれる。そこは私の太もものすぐ横。触れてない。触れてないのに、触れられてるみたいに体が固まる。待って。息、吸ったら吐くの。忘れないで。私は窓の外の看板を読むふりをして、指先だけ膝の上で握った。──目を合わせないのに、距離だけ詰めてくる。“仕事”って言葉は、便利だ。拒否を悪にできる。
Last Updated: 2026-09-02
Chapter: 翌朝。開店準備。新着物件の図面を出して、内見用の鍵をまとめる。申込書を補充していると、背後からまた低音が降ってきた。「朝比奈」振り向くと、所長がカウンター越しではなく、ちゃんと仕事の距離で立っている。目は鋭いまま。手には鍵束。「昨日のLINE、既読だけだったな」……そこ拾うんすか?「すみません、夜遅くて……」「問題でもあったか?」真顔。氷みたいな目で、聞いてくる内容が小学生。(いや、問題って……何!?)「問題は……ないです。ただ……」「ただ?」「……意外すぎて、びっくりしました」所長は一拍置いて、首を少しだけ傾けた。「意外か?」「意外です」「そうか」そこで終わる。終わるんかい!私は耐えきれずに言ってしまった。「所長、電車で食べるんですね」「うん」「……家まで我慢とか」「しない」「……子どもみたい」言った瞬間、やばいと思った。こういうの、地雷だ。氷結されるやつ。でも所長は怒らなかった。ほんの少しだけ、口元の影が揺れた。笑うのを堪える時の、あの感じ。「チョコは、食べるだろ」(だろ、じゃない)「そういうこと言うの、反則です」「何が?」「自覚ないんですか?」「ない」鈍感暴力。私はここで、心臓を撃ち抜かれた。そして追い打ちみたいに、所長が鍵束を差し出して言う。「このあと内見二件。朝比奈、案内できる?」──仕事に戻すのも暴力。私は笑顔を作り、鍵を受け取った。「……はい。行けます」(行けるけど、今の私の心拍数も確認してください)この鍵束を受け取った瞬間、視線を感じていた。振り向かなくても分かる、あの“近い気配”。──榊くんが、笑っていない。
Last Updated: 2026-09-02
Chapter: 呼吸の仕方「朝比奈」背後から落ちた低音で、背筋が勝手に伸びる。氷室所長だ。笑わない。褒めない。雑談しない。スーツの選び方が皇帝で、店の空気を静かに支配している。「この申込、保証会社の承認待ち? 連帯保証人の収入証明、揃ってない」「はい、今お母様にお願いしてて——」「電話。いま。『今日中に』って言え」「……はい」所長は、それ以上言わない。怒ってるのか、淡々としてるだけなのか、分からない目。私生活は全く見えない。指示がいつも最短で、結果だけ出るのが悔しい。プロだ。閉店後。ようやく電話が切れた瞬間、私は小さいチョコの箱を所長に渡した。今日、契約が一件決まったのは所長の一言が効いたから。「お疲れさまでした。今日、助けていただいたので」所長は一瞬だけ箱を見て、いつもの無表情で言う。「気を遣うな」そう言いながら、受け取る。受け取るんかーい。っていう混乱を残して。その夜。スマホが震えた。『チョコありがとうございます!いま電車の中で食べてます!めっちゃ美味しいです!』……え?今、電車?電車の中だって?あの“氷の皇帝”が?人の内見ルートと鍵の在庫には鬼みたいに厳しいのに、チョコは待てないの?私はそのまま固まって、既読だけ付けた。
Last Updated: 2026-09-02
Chapter: コピー機じゃない。オフィスでもない。物件資料のファイルを覗き込む角度。PC画面の横に立つ時間。その全部が、“距離”になっていく。「この条件、いけます?」と聞く声が、背後から落ちる距離。一歩、半歩、気づけば私のテリトリーの内側に、当たり前みたいに入ってくる。「朝比奈さん、ここ、僕が入力しときますよ」手伝いの言葉の形をした、侵入。私は笑顔の筋肉だけ動かした。「うん、大丈夫。自分でやるから」柔らかく、でも線を引く。すると榊くんは、ほんの一瞬だけ黙る。傷ついた顔をする。──そういう顔が、上手い。「あの……嫌だったわけじゃ、ないの。私ね、勢いでやっちゃいたいの」嫌だったわけじゃない、じゃない。近いのが嫌だ。境界線を踏まれるのが怖い。私は言えない代わりに、魔法の言葉を使う。「でもありがとう。助かります」言った瞬間、自分の喉が苦くなった。助かるのは私じゃない。彼が“良い人”のままでいられるだけだ。榊くんが、小さく息を吸う気配がした。見ないまま、“気づいた”だけ。(気づかなくていいのに)私の胸の奥が、きゅっと縮む。平常運転の仮面の下で、肺だけが先に逃げようとする。──そして私は、まだ知らない。この人が欲しいのは「私の笑顔」じゃない。私の“境界線を越えた先”にある安心だ。
Last Updated: 2026-08-30
Chapter: 彼の画面に映っていたのは、物件じゃなくて──彼の私生活だった。休憩中、ふと開いたSNS。ストーリー。夜景。ワイングラス。指先だけ写ったツーショット。タグも名前もないのに、“恋人がいる人”の空気だけは、あまりにも明確だった。(……いたんだ)冷水を浴びた心臓が、きゅっと締まった。反射的にスクショを撮って画面を閉じた。スクショは消さなかった。消す理由が、私にはまだ見つからなかった。気づいた瞬間、頭の中で何かが静かに閉まった。扉というより引き戸。音も立てずに、すっと。私は何も言わない。言えないんじゃない。言う必要がない。だってここは職場で、私は社会人で、彼の私生活は彼のもので。そうやって、今まで何度も自分を守ってきた。だから私は、その後、いつもどおりに振る舞った。いつもどおりに微笑んで、いつもどおりに「助かりました」と言って、いつもどおりに仕事を回した。──“いつもどおり”は、距離を取るための仮面だ。“いつもどおり”を完遂した私、偉い。全人類、今の私を、ベッタベタに褒めて。なのに。次の日から、榊くんが近くなった。前はこんなこと無かった。多少近くても、本当に身体と身体があと1ミリで触れそうなところになんて、榊くんは来なかった。榊くんは、私を混乱させる天才だ。そして混乱した人間から、境界線は剥がれる。
Last Updated: 2026-08-30
Chapter: 「黒瀬専務の隣にいる人って……環、わかる?」はる兄ぃ──黒瀬専務のことだ。はる兄ぃは、年の離れた従妹である私の世話を、昔からよく焼いてくれていた。社内では絶対!言えないけどね。その、はる兄ぃの隣で、長身の見慣れない男性がはる兄ぃに笑いかけていた。私の知らない人。「ああ、久世さんね」「久世さん?」「外部の方らしいですよ。何だっけ。何か難しい役職名の方」「bizdevっていうらしいよ」「ビズ……何?」「ビズデブ」「ビズ、デブ?」「ちょ、深月! そこで区切らない!」久世さんがこっちを見た、気がした。心臓が冷える。「まずい!環、さっさとさっきの音声を」「そうだね。じゃあ日菜ちゃん、イヤホン右と左、一個ずつ同時に聴こうか」動画の映像を通りすがりの人達に見られたら、それこそ事件。私は膝の上で、画面はハンカチで隠して再生ボタンを押した。「……うわ、これ……深月、よく撮ったね」「うわー……知ってる人のこんな声、初めて聴きました」「何、聴いてるんですかあ?」環と日菜ちゃんの背後に、大原理紗。声の主、御登場。やば。「大原さんと私の元彼の喘ぎ声を鑑賞してたんだよ?」って爽やかに言うわけにはいかない。──言ってみたいけど。
Last Updated: 2026-09-02
Chapter: 「……イヤホン、あるよ?」「持ち歩いてんの?さすが深月」「私も聴きたいです!」アダルトビデオみたいな音声を聴きながらA定食の冷やし中華を食べようとする環と日菜ちゃん。女傑って言葉があるけど、このふたりにだいぶ相応しいよね。Bluetoothをスマホと繋いでいた、そのときだった。「……ね、あれ。黒瀬専務じゃない?」声を潜める環の視線の先には、食堂の入り口に立つ黒瀬《くろせ》悠《はるか》専務。現社長の弟、という血筋は社内で知られている。ちょっと訳ありの血筋であることは公開されていない。言う必要も無い。そう、言う必要が無いから誰にも言ってないけど。黒瀬悠専務は、年離れた私の従兄だ。私の母、時國真紀は、現会長の年離れた妹。現社長と黒瀬悠専務は、私の年離れた従兄達ということになる。私にダイヤをくれた祖母、黒瀬栄子は現会長と私の母の母親にあたる。特別扱いされたくないから、黒瀬の家の人たちには、私の出自について社内では伏せてもらっている。……まあ、結局縁故採用だったのだけど。それでも、私は、私の腕だけで頑張りたい。黒瀬一族だからって言われるの、本当に嫌。名字が時國で良かった。今のところ、誰にもバレていない。目の前の、最も信頼できる、環と日菜ちゃんでさえも。
Last Updated: 2026-09-02
Chapter: 「ほんと……深月、本気出せばできる子だよね」昼休み。大原理紗もいるかもしれない会社の食堂で、司の部屋に乗り込んだ話と債権回収の話を環と日菜ちゃんにした。「深月先輩……そういうところですよ。だから後輩女子達からのバレンタインチョコが山のように」「すごかったよね。紙袋3つ分だったっけ?」「4つだよ。持ち帰るの大変だった」今年の2月、バレンタイン。どういうわけか私のデスクには、私が席を離れる度にラッピング済みのチョコレートが積まれていた。おじさん達から向けられる視線には、苦笑いと冷たいものが入り混じっていた。「しっかし。一括とは思い切ったよね」「深月先輩にはその権利ありますよ。手持ちが無いならサラ金行くなり、大原さ……っと」環が慌てて日菜ちゃんに向けて人差し指を唇に立てる。「日菜ちゃん。私達、悪いこと何ひとつしてないけど、一応気をつけて」「はあい」日菜ちゃん真っ直ぐだからな。素直で良い子なんだけど、たまに危なっかしい。「……で。深月さん」「どした環」「その、証拠の動画ってさ……」「このスマホの中にございましてよ。クラウド上にもね」「食事中だから動画はちょっと……音声だけ、さ」環の悪い顔。嫌いじゃない。むしろめっちゃ好き。
Last Updated: 2026-09-02
Chapter: そうだいけない、忘れてた。司にLINE、送ってあげないとね。『あなたに貸していた、総額15万円についての件です。今月末までにこの口座に一括で振り込んでください。』銀行口座まで入力してあげる私、なんて親切。あれ?もう返信来た。司、ちゃんと仕事してる?『金なんて借りた証拠ねえだろ』しょうがないなあ。司が書いた借用書、昨日のうちに写真撮ってて良かった。画像、送信っと。借用書には“20万円借りました。藤崎司”と司の字で油性ボールペンで書かれていた。司は20万のうち、6万を返していた。本来14万だけど、こないだ財布から抜かれた1万をまだ取り返していないから、合わせて15万にした。相手に手間をかけさせない、私、いい女。えへ。『金なら返しただろ』『数字、読めないの?いいよ、その返事でも。内容証明送るか、司のお父さんに連絡するだけだから』返信が止まった。30分後、司から返信。『わかった』よし。大人しく返す気になったか。司と付き合っていた当時。裁判所事務官をやっている大学の友人、|梓《あずさ》に知恵を借りたことがあった。当時大学4年だった司がバイト先で給料が振り込まれない、というトラブルがあったからだ。新卒1年目だった私は、うまく調べることができなくて、梓に感謝した。もちろん、給料が振り込まれた司も。だから司は、私が法律用語を持ち出すと大人しくなる。
Last Updated: 2026-09-02
Chapter: 「おはようございまあす」「おはよう。今日も理紗ちゃん、可愛いねえ」「ええ、そんな。合ってますけどお?うふふ」始業時間は9時。現在8時58分。大原理紗はいつも遅刻ぎりぎりの出勤。裏で《《重役出勤》》とも言われている。裏で語る皆さん、感覚は私と同じようで安心する。「おはようございまあす」「おはようございます」聞きたくもない、この甘ったるい声。おじさん達のウケMAXの声の持ち主、大原理紗。昨日司の部屋で全裸でいるところを私に証拠動画を撮られているこの人。きっとこの人、クロセ製薬で五本の指に入る図太さの持ち主。図々しい人ともいう。 始業時間になった。私は30分前から整えていた企画書の続きをプリントアウトしようと立ち上がった。大原理紗のデスクが視界に入る。パソコンに、電源すら入れていない。ランプが赤にも緑にもなっていない。当の本人は、デスクに置いてある鏡でメイクの最終チェックでもしているのだろうか。さっきから、髪と肌しか触っていない。──うん、この色にしてよかった。フォントもバランスがいい。今月に入って、3つ目の企画書。今度こそ、採用されるといいな。課長に提出して自席に戻る。大原理紗は記憶喪失にでもなったのだろうか。気まずそうなそぶりが全くと言っていいほど、無い。ええ……それでは聞いてください。大原理紗は、私の隣の席なんです。
Last Updated: 2026-08-29
Chapter: 「司。鍵」「へ?」変わらず全裸の司が間の抜けた顔をする。「私の部屋の合鍵。返して」「な、何でだよ!」「いやあなた全裸。挿入してたところまで私ばっちり見ちゃったんですけど?」「か、勝手に入ってくるからだろ!不法侵入だ!」「合鍵で入るのって不法侵入になるのかしらね?まあいいや。さっきのはちゃんと証拠としてクラウドに上げたし」股間のそれを揺らしながら私に掴み掛かろうとした司は、証拠と聞いて動きが止まった。司のキーケース。いつもと同じ、カレンダーの下のトレイに入っていた。キーケースから私の鍵を外して、私のキーケースへ。私のキーケースから司の、この部屋の合鍵を外してベッドの上に鍵とキーケースを投げた。そのキーケースは、私が誕生日にあげたものだ。「これで、私と司は他人。もう、彼氏でも彼女でも何でもない。大原さん、欲しいならあげる。ただこの人、浮気する上に財布の中身まで手をつけるから気をつけて」「お、俺は別れるなんて」「往生際が悪過ぎ。そのぷらぷらしたもの、そろそろ隠してよ気持ち悪い」「……っ!」「さようなら。もう二度と、私に声掛けないでね」玄関の床に置いたトートバッグにキーケースを投げ入れる。落ち着いてパンプスを履いて外に出た。うん、終わった。司とは。問題は。大原理紗が明日も同じ職場にいることだ。
Last Updated: 2026-08-29