Masuk
内見車の後部座席には、若いカップルが乗っている。彼氏は物件サイトを見ながら「この辺、家賃安いっすね」と無邪気で、彼女は窓の外を見たまま静かだ。榊くんは運転しながら、完璧な営業の声を出す。「駅距離は徒歩九分。夜道は明るいです。スーパーも近い」私は助手席で、資料を開いて相槌を打つ。仕事。仕事。仕事。──後ろにお客さんがいる。だから私は安全だ。そう思った。信号で止まった瞬間、榊くんが小さく笑って言う。「朝比奈さん、ちょっと固くないです?」声だけが近い。私は窓の外を見たまま返す。「そう?いつもこんなもんでしょ。仕事中なんだから」「じゃあ、僕も仕事中なんで、効率よくいきましょう」榊くんの左手が、またセンターコンソールに置かれた。私の太もものすぐ横。触れてない。でもあと1ミリ。それが一番、言い訳に便利な距離だ。肺が一瞬、空打ちする。ぞわっとしたのは気のせいだ。触れてないのに、触れられてるみたいに息が止まる。後ろの彼女が、視界の隅でバッグの紐を握り直した。彼氏は、まだ物件サイトをスクロールしている。気づいた?……いや、気づかないで。──目を合わせないのに、距離だけ詰めてくる。これが、榊くんの手法だ。客がいる。だから私は、逃げられない。
内見車のドアが閉まった瞬間、空気が変わる。「助手席、どうぞ。いつも通り」榊くんはハンドルに手を置いたまま、当たり前みたいに言った。私は反射で「ありがとう」と返してしまう。断る理由がない。理由がないことが、いちばん厄介だ。シートベルトの金具を差し込む音が、やけに大きい。私の胸の内側だけが、先に騒いでいる。「さっき、所長と何話してたんです?」信号待ち。榊くんは前を見たまま、声だけ落とす。雑談の皮をかぶった確認。私は窓の外を見て答える。「昨日のお礼、チョコ渡したから。その話」「へえ」短い返事。次の瞬間、榊くんは笑った。笑ったのに、目は笑っていない。運転中の横顔って、逃げ場がない。「朝比奈さん、所長には素でいきますよね」“素”って言葉が、肌を撫でるみたいに刺さる。私は笑顔の筋肉だけ動かす。「素じゃないよ。仕事だよ」「じゃあ、僕には?」アクセルが少し踏まれる。車が滑るみたいに前へ出る。私は喉の奥で息を止めた。「……榊くんにも、仕事」言い切ったつもりだった。けれど榊くんは、そこで黙らない。「そっか。じゃ、距離も仕事の距離にしよ──守るために」……何を?“仕事”の名目で、榊くんの左手がセンターコンソールに置かれる。そこは私の太もものすぐ横。触れてない。触れてないのに、触れられてるみたいに体が固まる。待って。息、吸ったら吐くの。忘れないで。私は窓の外の看板を読むふりをして、指先だけ膝の上で握った。──目を合わせないのに、距離だけ詰めてくる。“仕事”って言葉は、便利だ。拒否を悪にできる。
翌朝。開店準備。新着物件の図面を出して、内見用の鍵をまとめる。申込書を補充していると、背後からまた低音が降ってきた。「朝比奈」振り向くと、所長がカウンター越しではなく、ちゃんと仕事の距離で立っている。目は鋭いまま。手には鍵束。「昨日のLINE、既読だけだったな」……そこ拾うんすか?「すみません、夜遅くて……」「問題でもあったか?」真顔。氷みたいな目で、聞いてくる内容が小学生。(いや、問題って……何!?)「問題は……ないです。ただ……」「ただ?」「……意外すぎて、びっくりしました」所長は一拍置いて、首を少しだけ傾けた。「意外か?」「意外です」「そうか」そこで終わる。終わるんかい!私は耐えきれずに言ってしまった。「所長、電車で食べるんですね」「うん」「……家まで我慢とか」「しない」「……子どもみたい」言った瞬間、やばいと思った。こういうの、地雷だ。氷結されるやつ。でも所長は怒らなかった。ほんの少しだけ、口元の影が揺れた。笑うのを堪える時の、あの感じ。「チョコは、食べるだろ」(だろ、じゃない)「そういうこと言うの、反則です」「何が?」「自覚ないんですか?」「ない」鈍感暴力。私はここで、心臓を撃ち抜かれた。そして追い打ちみたいに、所長が鍵束を差し出して言う。「このあと内見二件。朝比奈、案内できる?」──仕事に戻すのも暴力。私は笑顔を作り、鍵を受け取った。「……はい。行けます」(行けるけど、今の私の心拍数も確認してください)この鍵束を受け取った瞬間、視線を感じていた。振り向かなくても分かる、あの“近い気配”。──榊くんが、笑っていない。
「朝比奈」背後から落ちた低音で、背筋が勝手に伸びる。氷室所長だ。笑わない。褒めない。雑談しない。スーツの選び方が皇帝で、店の空気を静かに支配している。「この申込、保証会社の承認待ち? 連帯保証人の収入証明、揃ってない」「はい、今お母様にお願いしてて——」「電話。いま。『今日中に』って言え」「……はい」所長は、それ以上言わない。怒ってるのか、淡々としてるだけなのか、分からない目。私生活は全く見えない。指示がいつも最短で、結果だけ出るのが悔しい。プロだ。閉店後。ようやく電話が切れた瞬間、私は小さいチョコの箱を所長に渡した。今日、契約が一件決まったのは所長の一言が効いたから。「お疲れさまでした。今日、助けていただいたので」所長は一瞬だけ箱を見て、いつもの無表情で言う。「気を遣うな」そう言いながら、受け取る。受け取るんかーい。っていう混乱を残して。その夜。スマホが震えた。『チョコありがとうございます!いま電車の中で食べてます!めっちゃ美味しいです!』……え?今、電車?電車の中だって?あの“氷の皇帝”が?人の内見ルートと鍵の在庫には鬼みたいに厳しいのに、チョコは待てないの?私はそのまま固まって、既読だけ付けた。
コピー機じゃない。オフィスでもない。物件資料のファイルを覗き込む角度。PC画面の横に立つ時間。その全部が、“距離”になっていく。「この条件、いけます?」と聞く声が、背後から落ちる距離。一歩、半歩、気づけば私のテリトリーの内側に、当たり前みたいに入ってくる。「朝比奈さん、ここ、僕が入力しときますよ」手伝いの言葉の形をした、侵入。私は笑顔の筋肉だけ動かした。「うん、大丈夫。自分でやるから」柔らかく、でも線を引く。すると榊くんは、ほんの一瞬だけ黙る。傷ついた顔をする。──そういう顔が、上手い。「あの……嫌だったわけじゃ、ないの。私ね、勢いでやっちゃいたいの」嫌だったわけじゃない、じゃない。近いのが嫌だ。境界線を踏まれるのが怖い。私は言えない代わりに、魔法の言葉を使う。「でもありがとう。助かります」言った瞬間、自分の喉が苦くなった。助かるのは私じゃない。彼が“良い人”のままでいられるだけだ。榊くんが、小さく息を吸う気配がした。見ないまま、“気づいた”だけ。(気づかなくていいのに)私の胸の奥が、きゅっと縮む。平常運転の仮面の下で、肺だけが先に逃げようとする。──そして私は、まだ知らない。この人が欲しいのは「私の笑顔」じゃない。私の“境界線を越えた先”にある安心だ。
彼の画面に映っていたのは、物件じゃなくて──彼の私生活だった。休憩中、ふと開いたSNS。ストーリー。夜景。ワイングラス。指先だけ写ったツーショット。タグも名前もないのに、“恋人がいる人”の空気だけは、あまりにも明確だった。(……いたんだ)冷水を浴びた心臓が、きゅっと締まった。反射的にスクショを撮って画面を閉じた。スクショは消さなかった。消す理由が、私にはまだ見つからなかった。気づいた瞬間、頭の中で何かが静かに閉まった。扉というより引き戸。音も立てずに、すっと。私は何も言わない。言えないんじゃない。言う必要がない。だってここは職場で、私は社会人で、彼の私生活は彼のもので。そうやって、今まで何度も自分を守ってきた。だから私は、その後、いつもどおりに振る舞った。いつもどおりに微笑んで、いつもどおりに「助かりました」と言って、いつもどおりに仕事を回した。──“いつもどおり”は、距離を取るための仮面だ。“いつもどおり”を完遂した私、偉い。全人類、今の私を、ベッタベタに褒めて。なのに。次の日から、榊くんが近くなった。前はこんなこと無かった。多少近くても、本当に身体と身体があと1ミリで触れそうなところになんて、榊くんは来なかった。榊くんは、私を混乱させる天才だ。そして混乱した人間から、境界線は剥がれる。







