午前の打ち合わせが終わり、社内は一瞬だけ安堵のような空気に包まれていた。昼休憩前の、わずかな静けさ。キーボードを打つ音も途切れ、電話のベルも鳴らず、書類の束が机に置かれる音だけが、時折耳に入る。そんな時間帯だった。
第三クリエイティブチームの島では、河内と小阪がそれぞれのデスクに戻っていた。隣り合っているわけではないが、間には共有の棚があり、視線を上げれば、ちょうど互いの横顔が見える距離だった。
河内はノートパソコンに視線を落としたまま、右手でマウスを動かしていた。進行表を確認して、昼以降のスケジュールを見直しているふりをしていた。実際、内容はすでに頭に入っていた。だがそれでも、もう一度見直してしまうのは、意識がどこか他所に引っかかっている証拠だった。
小阪は、ディスプレイの奥に沈むようにして椅子に深く腰掛けていた。姿勢はほとんど変わらず、指先がマウスを滑らせる動きだけが生きていた。顔は半分、画面の光に照らされていたが、まばたきのタイミングすら正確すぎて、まるで機械のようだった。
そのときだった。ふたりの島の横を通りかかった葉山が、ふと立ち止まった。手にはiPadと書類が挟まれたバインダー。オフィスカジュアルな服装の中に、いつも通りの淡い香水がわずかに香る。
「なんや、あんたら。雰囲気、ええやん」
軽く言ったその声に、河内は顔を上げた。タイミングを計っていたかのように、笑みが浮かぶ。
「いやあ、俺が無理言うて組ませてもろたんで。これから、こいつと組むんですわ」
冗談めかしたその口調の裏に、ほんのわずかなためらいが混じっていた。笑っている顔の奥で、喉の奥に詰まった何かを押し下げるような感覚。口調は軽い。関西弁もいつものトーン。だが、笑いの形がほんの少しだけ崩れていた。
葉山は「ふうん」とだけ返し、にやりと笑って去っていった。あっさりとした足取り。だが、その背中が見えなくなったあとも、場には小さなざわめきのようなものが残った。
河内はすぐに視線を戻したが、その瞬間、小阪の方に目が向いてしまった。意識していたわけではない。だが、自然と視線が滑る先には、やはりあの男がいた。
小阪は、何も言わなかった。顔を動かすでもな
夜の帳がすっかり落ち、オフィスビルの廊下には人気の気配もなかった。ビルの外壁を照らす街灯の光だけが、細長く伸びてガラス戸をかすめていた。河内は自販機の前に立ち、硬貨を投じる。取り出した缶コーヒーはまだ熱く、手のひらにじわりと熱が染みてきた。アルミの薄膜越しに感じる温度は、なぜか妙に重たかった。深夜一時を少し回った頃だった。自動ドアの前で足を止めると、河内は作業ルームのドアノブに手をかける。だが、その指先が一度、静かに止まる。中からは、かすかなキーボードの音が断続的に響いていた。タイピングというにはあまりに単調で、リズムも早くはない。まるで惰性だけで続けられているような音だった。扉を押し開けると、部屋の中には一部の照明だけが点いていた。全体を照らすには足りない灯りのなか、小阪はデスクに向かっていた。体を深く椅子に預け、画面から顔を離さない。背筋は伸びていたが、集中しているというより、意地でそこに座っているような姿勢だった。「おつかれ」そう声をかける代わりに、河内は黙って近づき、小阪の手の届く場所に缶を置いた。音を立てないよう、そっと。アルミの底がデスクに触れたときのかすかな音に、小阪の指が一瞬だけ止まった。視線は動かない。ディスプレイを見たまま、小阪は小さく頷いた。それは返事だったのか、ただの無意識の反応だったのか。判断はつかなかった。河内は背後の椅子を引いて腰を下ろす。小阪の横顔が正面から見えない角度にいたが、それでも彼の様子は痛いほどよく見えた。頬がわずかに痩け、目元には深い影が落ちている。睫毛の下で目の焦点はぼやけ、時折、瞬きのリズムがずれる。肩の線が前よりも細く見えたのは、気のせいではない。「進んでるん?」何気ない問いかけだった。仕事の話をするには、それくらいが丁度よかった。が、小阪は返事をしなかった。代わりに、手元のキーボードがわずかに速度を上げた。それが答えだと受け取るには、少し足りなかった。河内は自分の持っていたもう一本のコーヒーを開けた。プルタブの音が静寂に割って入る。中身が喉を下る温度も味も、よくわからないままだった。ただ、空気が少しだけ温もった気がした。横目で、小阪を見た。相変わらず、
朝の光は、ビルのガラス越しにゆっくりと室内に染み込んできた。夜を通して張り詰めていた空気は、ほんの少しだけ緩み、静かな疲労と共にプロジェクトルームの隅々へと滲んでいく。河内は椅子に深く腰を下ろしたまま、背もたれに頭を預けて大きく息を吐いた。視線の先では、小阪が無言でファイルを閉じ、整然と資料をまとめている。徹夜明けの疲労は隠しようもないが、彼の仕草にはいつものような乱れがない。さきほどまで、ほんの少し仮眠をとっていたとは思えないほど、表情に起伏はなかった。壁掛けの時計が八時を示した頃、ドアの向こうからノックもなく人の気配が差し込む。森だった。手にしたコンビニ袋を軽く掲げ、にやりとした笑みを浮かべながら、ふたりの前に立つ。「おつかれさん。徹夜組、よう頑張ったな」そう言って、缶コーヒーをふたつ、デスクの上に置く。片方を小阪の近くに、もう片方を河内の正面に。どちらも微糖だ。気遣いを装ったその選び方に、少しだけ棘があるような気がした。「ありがとうな。気ぃ遣わせてもうて」河内はいつもの調子で笑いながら受け取った。だがその声の底に、わずかな掠れが混じっていた。小阪は缶に触れることもなく、視線をそらしたまま黙っている。その無言が、かえって多くを物語っているようにも見えた。森はふたりの様子を、何気ない顔で見渡している。だが、その瞳の奥には、明らかな観察の光があった。仕事相手を眺めるというよりも、人と人の間に流れる“空気”を計測するような目つきだった。伏し目がちで、それでいて一瞬の視線の交差を逃さない。まるで、あえて言葉を挟まずに、空白の中に真実を見ようとするかのようだった。「あんたら、息ぴったりやな。資料、きれいに仕上がってる」葉山の言葉が、昨日の昼にあった。そのときは軽口として受け流したはずなのに、今になって妙に引っかかる。河内の胸の奥に、じわりと薄い不安が滲んでいた。小阪の仮眠姿を見つめていた夜と、この朝が地続きであることを思い知らされる。特別やと思っていた。ふたりだけの距離。誰にも知られない関係。身体を重ねながら、言葉を交わさずに済ませるやり方。仕事で見せる呼吸の合わせ方。
蛍光灯の明かりが仄かに滲むプロジェクトルームの一角で、小阪は椅子を少し倒し、浅い角度で身体を預けていた。隣の河内はパソコンに向かいながら、しばらく画面と対話していたが、ふと手を止める。指の動きが止まるのは、思考が行き詰まったからではない。無意識に、隣から聞こえる呼吸のリズムに引き寄せられていた。小阪は静かに眠っていた。深くではないが、目を閉じてしばらく経ったらしい。きちんと腕を組み、浅く息を吐くたび、シャツの胸元がわずかに上下していた。資料の束を支えるように置いた膝の上で、薄い指が軽く丸まっている。その手の力加減にさえ、どこか儚さを感じさせる。頬にかかる髪が一本、微かに揺れた。ピアスの下にある耳の輪郭が、寝息のたびにわずかに動いている。喉元のラインは静かに、しかし確かに鼓動を伝えていた。生きているという実感がそこにある。けれどその存在感は、触れたらすぐに消えてしまいそうな、薄い硝子のようだった。河内はしばらくのあいだ、キーボードの上に指を置いたまま、打鍵を忘れていた。視線がモニタから外れ、どうしても、小阪の横顔に吸い寄せられる。睫毛が長い。下を向いたそれが、頬に影を落とす。眉間がほんの少し寄っているのは、眠っていても緊張が抜けないせいだろうか。それとも、夢のなかでさえ警戒を解けないままなのか。まるで、眠ることにさえ慣れていない子どものようだった。「……こんなとこ、誰にも見せんなよ」ぽつりと、河内は呟いた。音になった自分の声に、自分で驚いた。誰にも届かないはずの声だった。誰に聞かれるわけでもなく、ただ空気のなかに放っただけの言葉。それなのに、その響きが妙に重たく胸に返ってくる。眠っている小阪に触れたいと思ったわけではなかった。触れて起こしたくも、目覚めてほしくもない。ただ、この姿を、自分以外の誰かに見せるのは嫌だった。小阪の中にある無防備な部分。それが、たとえ一瞬でも顔を覗かせたとき、それを知ってしまった自分が、どうにもやりきれなくなる。仮眠をとる小阪の肩がふと揺れた。呼吸が少し浅くなったのか、あるいは夢の途中に引っかかったのかもしれない。河内は反射的に身体を起こし、そっと視線を逸らした。無防
オフィスの空気が変わったのは、日付が変わってしばらく経った頃だった。昼間の喧騒はとうに消え、フロアに残るのは河内と小阪、そして数人の制作チームだけ。空調の音が不規則に唸り、遠くの複合機が一度だけ小さく唸ったあと、また沈黙が落ちた。蛍光灯は部分的に落とされており、プロジェクトルームには天井の間接照明がぼんやりと灯っている。スクリーンにはクライアントの修正指示が映し出されていた。急な仕様変更で、翌朝までに再提出が必要となった。葉山が「悪いけど、ふたりお願い」と言って去っていったのが、数時間前のことだ。河内はマグカップにインスタントのコーヒーを注ぎながら、小阪の姿を一瞬だけ盗み見る。資料を見ながらパソコンを操作する手が止まらず、まっすぐな背筋と、時おり前髪をかき上げる仕草だけが、妙に静かだった。小阪はジャケットを脱ぎ、椅子の背にかけていた。腕まくりされた白いシャツの袖口から、骨ばった手首と前腕が露出している。照明の加減か、皮膚が薄く見えた。その肌の上に、河内の視線が止まる。本人はまったく気づいていない様子だった。「眠いんか」河内が声をかける。コーヒーの湯気が目の前で揺れる。小阪はモニターを見たまま、指を止めずに答えた。「……別に」その返事に、特別な感情は含まれていなかった。ただ、あえて嘘もつかず、素直でもなく。夜にしか出てこない、どこか削ぎ落とされたような声音だった。「ようやるわ、小阪くん。俺はもう三回くらい魂抜けかけてるで」そう言って、笑うでもなく肩をすくめると、小阪の口角が一瞬だけ動いた気がした。笑ったとは言えない。だが、何かがわずかに弛んだのは確かだった。光の弱い部屋の中で、それはほんの瞬きのように通り過ぎた。「コーヒー、飲む?ちょっと濃いやつやけど」「……ありがとうございます。でも大丈夫です」また沈黙が戻る。けれど、それは重くはなかった。音のない空間に、ふたり分の呼吸だけが微かに重なっている。その重なり方が、どこか心地よかった。昼間のような緊張でもなく、夜色で交わす身体の距離でもない。もっと曖昧で、だが確かに&ld
プロジェクトルームのドアが閉まる音が、わずかに重く響いた。室内には、パソコンのファンの微かな唸りと、エアコンの循環音だけが流れていた。昼過ぎの空気はすこし重く、窓のない部屋の明かりが淡く白い。長机を挟んで、小阪と向かい合う形で、河内はノートパソコンを開いていた。資料のレイアウトを整える作業は、淡々と進んでいた。小阪は、必要なファイルをUSBにまとめ、印刷用に最適化されたデザイン案を並べる。声は抑えめで、必要なことだけを短く口にする。「ここ、余白詰めたほうがいいです」「…このフォント、前のやつに戻します」淡々と、だが滑らかに。それは仕事上では理想的なコミュニケーションのはずだったが、河内の意識は、言葉の内容よりも、そこに宿る「温度」にばかり向かっていた。小阪の指が、A3サイズの資料の端をなぞっていた。紙の手触りを確かめるようなその仕草が、やけに静かで、ゆっくりだった。そこには焦りも雑さもなく、ただ確認するだけの動作。しかしその動きに、河内の視線が吸い寄せられる。細く、色白の指。その関節のわずかな角度まで、なぜか目を離せなかった。「……このレイアウト、他の案も出しといたほうがええかな」気を紛らわせるように、河内は声を出した。わざと少しだけ砕けた調子にする。小阪は一瞬手を止め、ディスプレイを見やる。その横顔の輪郭に、ピアスがかすかに揺れた。その微細な揺れに、河内の喉がすっと詰まる。「一応、あと一案は作ってあります」「おお、さすがやな」「……」返事はなかった。けれど、否定ではなかった。小阪のまぶたがゆるく伏せられ、目の奥に何かをしまい込むような表情を浮かべていた。冷たいわけではない。ただ、遠かった。河内は資料に目を戻しながら、その距離を測ろうとした。机一つ分の距離。けれど、指先が伸びればすぐに触れられそうな距離。息をひそめれば、小阪の呼吸の間隔まで聞き取れそうな静けさが、この部屋にはあった。この“近さ”に、安心する自分がいた。だが、同時に思う。この仕草を、
昼休憩のチャイムが鳴ると、オフィスの空気がわずかに緩んだ。各部署から人がばらばらと席を立ち始め、フロアには椅子の擦れる音と、軽い会話が混じり始める。河内は机の上の資料に付箋を貼り、伸びをしながら立ち上がった。背筋を鳴らしつつ、ポケットから小銭を掴む。たいして空腹ではなかったが、無意識に外の空気を欲していた。自販機のある裏手の通路に出ると、すでに森がそこにいた。壁にもたれながら紙カップを手にしていて、コーヒーの湯気がゆっくりと立ち上っている。河内が近づくと、森は気配に気づいて顔を向けた。「おつかれ」「おつかれっす」軽く交わす挨拶。そこに、少し遅れて葉山もやってきた。手にした缶コーヒーを振りながら、飾らない笑顔で言う。「なにこのメンズ集会。ひと息つくタイミングまで同じって、あんたら相性ええんちゃう?」その言葉に、森がふっと笑った。笑いというには温度の低い、口角の動きだけの反応だった。目は笑っていなかった。河内はその“薄さ”を感じ取り、胸の奥がわずかにざらつく。「小阪くんて、最近ちょっと雰囲気変わったよな」唐突に、森がそう言った。まるで何気ない話題のような、風のような言い方だったが、言葉の選び方は妙に生々しかった。葉山がそれに乗るように笑う。「そうそう、なんか前よりやわらかくなったというか。あ、でも目線はまだ合わせへんな。あれは天然なんかな」「さぁな」森が言葉を濁したまま、紙カップを傾ける。コーヒーの香りが、雨の湿り気を含んだ廊下の空気に溶けていく。河内は無言で自販機に百円玉を入れた。どのボタンを押すか迷うふりをしながら、思考を落ち着かせようとする。小阪の名前がここで出るとは思っていなかった。しかも、それが“変化”として話題に上ることが、なぜだか自分に向けられたような気がしてならなかった。「最近、よくあんたら組んでるやん。仕事でもちょっとしたコンビやろ?」葉山の声が、さらに火をくべる。善意の、なんの悪気もない調子が、逆に河内の耳に刺さる。「まあ、たまたまっすよ。スケジュールの都合が合うだけで