午前九時十二分、心斎橋の雑居ビル群の中でも一際目立つ高層オフィスビルの自動ドアが音もなく開いた。ガラス張りのエントランスには、雨上がりの湿り気を残した空気がわずかに漂い、床に映る照明の光がどこか濁って見えた。「おはようさんでーす…て、また俺だけ遅い? ほんますんません、葉山さん睨まんといてぇな」エレベーターが開いた瞬間、軽やかな関西弁が響いた。河内拓真は、グレーのジャケットを肩に引っかけたまま、ゆったりとした足取りでフロアに現れた。ネイビーのシャツは第一ボタンが外され、わずかに鎖骨が覗く。ネクタイは手に持ったまま、まだ結ぶ気配はない。濡れていない髪と、整った無精ひげ。そのラフさが、かえって洗練されて見えるのは、本人の確信によるものだった。受付の女性が苦笑いで「またですか」と言うと、河内は右手をひらひらと振って受け流した。「今日ちょっと、電車混んどってん。信じてや」「信じられません」「うわ、そこまで言う? 泣くで、俺」冗談めかしたやりとりに、横を通りかかった女性社員たちが笑いながら「タクちゃん、おはよー」と声をかけていく。河内はその一人ひとりに名前を添えて軽く手を振った。「おはよう、美紀ちゃん。あ、メイク変えた? 似合ってるわ」と、どこまでも自然に。けれど、笑っているその口元とは裏腹に、目の奥には温度がなかった。鏡のようにきれいに整えられた笑顔。仕事におけるそれは、武器であり、鎧だった。相手の懐に入りやすくするための愛想と、近づかせないための境界線。その二つを器用に使い分けることは、もはや彼にとって日常の一部だった。挨拶を終え、社内ゲートを通り抜けるとき、河内はほんの一瞬だけ、無意識に深く息を吐いた。表情は崩さず、声の調子も変えず、それでも身体の内側に微かな重さが沈んでいる。今朝もまた、何かを演じながら一日が始まるのだという自覚が、胸の奥にじわりと広がっていた。
Terakhir Diperbarui : 2025-06-25 Baca selengkapnya