理化学研究所にblunderのレッテルを張られた被験体№28は、幽世の妖狐に餌として売られる。目の前で少年が喰われるのを見て、自分もあんな風に喰われるのだなと思った。紅と名乗った妖狐は№28に蒼という名を与えた。「君たちが喜ぶと魂が美味くなるから」と安心できる生活を与えてくれる紅を優しいと思い始める。今の生活が出来て痛い思いや辛い思いをせずに死ねるなら悪くないと思う蒼。しかし紅は蒼を特別扱いし「自分を愛してほしい」と話す。知らなかった温もりを与えてくれる紅に恋慕を抱き始める。蒼は紅を愛するために、紅への『好き』を探し始める。
View More目の前に男が座っていた。
多分、男なんだろうと思う。只、人間ではない。
白い狐の面を顔の半分に被った男は、長い白髪で、白い着物を纏っていた。
男の後ろに少年が二人、座っている。
少年というには大人びた、かといって青年と呼べるほどの年齢でもなさそうに見えた。
男に抱き付く一人の少年を撫でながら、こっちに視線を向けた。
面のせいで正確な目線は解らないが、こっちを見ている気がする。
「……名前は?」
短い問いかけに、首を捻った。
№28
理化学研究所では、そう呼ばれていた。
それ以外の呼称は、ない。
「二十八、です」
仕方がないので、そう答えた。
男が小さく息を吐いた。
「それは名ではないだろう。理研からくる子供らは皆、名を持たないね。君もか」
知っているなら、聞かないでほしい。
もう何度も理化学研究所から人間を買っている《《御得意様》》らしいから、ある程度の事情なら知っていそうだが。
男が顎を摩りながら、とっくりとこちらを眺める。
観察している感じだ。
「こっちに、おいで」
手招きされて、前に出た。
人、一人分くらい空けて、前に立った。
「もっと近くだよ。俺が触れられるくらい、近くにおいで」
更に手招きされて、移動に悩んだ。
男に抱き付いている少年が足を投げ出している。
そのせいで、これ以上、近づけない。
「紅《くれない》様ぁ、色《いろ》、もう眠いよ」
首に腕を回して抱き付いていた少年が、ウトウトしながら目を擦る。
年の頃、十二、三歳といった程度の少年だ。この子も、只の人間の気配とは違って感じた。
よく見ると頭に大きな耳が付いている。尻には尻尾らしきものもある。
(髪の毛かと思ってたけど、違った。あの子も妖怪かな。てっきり、先に買われた理研の子供かと思ってた)
後ろに控えている少年も、同じくらいの歳頃に見えるが、やはり同じように耳がある。
「紅様と早く一つになりたい。紅様と同じになりたい。いつもみたいに温かいの、欲しい」
少年が、男の胸に顔を押し付ける。
紅と呼ばれた男が、困った顔をした。
「色はもう、溶けてしまう時期だけど、いいの?」
「ぅん、溶けたいの」
嬉しそうに頷く色という少年を、紅が眺める。
その表情が、どこか悲しく映った。
「わかったよ。じゃぁ、沢山流し込んで、温かくしようか」
紅が面を外した。
色白で端正な顔立ちが顕わになる。
何より、瞳の色に目を奪われた。
(紅……、血みたいに、真っ赤な、紅の瞳)
理化学研究所で実験される時、折檻された時、何度も見てきた血の色だと思った。
「ん……」
紅が色の額に自分の額をあてる。
何かが流れ込んで、色の体がビクリと震えた。
色の小さな体がほんのり光を帯びる。全身が喜んでいるように見えた。
「ぁ……、溶けちゃぅ、紅様、大好き……」
恍惚な表情をした色の額に、紅が唇を押し付ける。
色の体が発光して、体の輪郭が歪んだ。
「ありがとう、色」
紅が色の額から何かを強く吸い上げた。
色の体が紅の口の中に吸い込まれて消えた。
(喰われた、んだ。魂が体ごと、あの男の中に、溶けたんだ)
自分が見ていたのは紅という妖怪の食事風景だったのだと、ようやく理解した。
「……美味しかった」
男がぺろりと、舌舐め擦りした。
「さぁ、おいで」
紅が手を差し伸べた。
怖い、という感情が確かに胸の中に膨らんだ。
けれど、体は動いた。
来いと命じられて逆らえば、もっと怖い目に遭う。
それをこの体は、嫌というほど覚えている。
差し伸べられた手に触れた自分の手は、震えてすらいなかった。
怯えを悟られれば、折檻されるか、弄ばれる。
感情は、表に出してはいけない。
それもまた、体に沁み込んだ経験だった。
乗せた手を掴んで、引き寄せられる。
体が紅の目の前に屈んで、抱きつけそうなほどに近付いた。
「綺麗な髪だね。青色だ。現世《うつしよ》の日本では珍しい色だけど、染めたの?」
紅の問いに、首を振った。
実験的に霊元を移植されてから、黒かった髪と目が突然青くなった。
その程度の変化はよくあるらしい。
紅が、今度は目を覗き込んだ。
大きな手が顔を包み込んで、親指が目尻をなぞった。
酷く優しい手つきが、かえって怖かった。
「瞳も綺麗な青だね。君の名前は、蒼《あお》にしようか」
静かに頷いた。
初めてもらった名前らしい名前は、とても安直だけど、思った以上に嬉しかった。
「それじゃ、蒼。蒼も俺のモノになってもらうね。いいかな」
確認なんて、無意味だ。
この男は、金を出して自分を買っているのだから。
一応、頷いて見せる。
紅の顔が近付いて、額に口付けた。
さっき、人間を丸呑みした唇が、自分の額に押し付けられている。
背筋が寒くなるのと同じくらいに、体が熱くなって気持ちが良かった。
生温かい舌が、額を舐める。
押し付けられた唇から、何かが流れ込んでくる。
紅の妖力らしいそれは、やけに温かかった。
「ぁ……、紅、様、熱い、です……」
口が勝手に言葉を発する。
何かが自分の中に入り込んで来たのだと思った。
同時に、何かが出ていったのだと思った。
「蒼の霊力は、美味しいね。酔ってしまいそうだ。高い買い物をした甲斐があったよ」
ちゅっとを額を吸い上げて、紅が唇を離した。
真っ白な顔が、心なしか紅潮して見えた。
「次は、こっち。俺の一部になるために、口付けを交わすんだよ」
紅の指が下唇を押した。
「はぃ、嬉しい、です……」
何の戸惑いも躊躇いもなく、顔を近づける。
唇が重なって、舌が絡まる。気持ちが善くて、力が抜ける。
水音が響くたび、何かが流れ込んでくるのが分かった。
「上手だね、蒼。俺の妖力全部、しっかり飲み込んで」
やんわりと顎を抑えられて、顔を上向かされる。
反射的に口の中の何かを飲み下した。
胸の中に、知らない感情が広がっていく。
「美味しい、です。もっと、ほしい」
きっとこれが、この妖怪の妖術なのだろうと思った。
今の自分は紅に心酔し、愛したいと思っている。
(何度も飲んだら、この気持ちを疑いもしなくなるんだろうな)
こんな風に気持ち善くされて、何もわからない内に喰ってもらえるんだろうか。
さっきの、色という少年のように。
(だったら、いいや。痛いのも辛いのも苦しいのもない内に、何もわからない死が迎えに来るなら、幸せだ)
紅の手が頬をなぞるように撫でる。
さっきと同じように、怖いくらいに優しい。
「これから、毎日あげるよ。蒼は、自分から欲しくなるからね」
返事の代わりに、小さく頷く。
紅の手が、視界を遮って、目の前が真っ暗になった。
途端に強い眠気が襲う。
紅の手の熱さを感じながら、促されるままに、ゆっくりと目を閉じた。
蒼が起きたのは昼だったらしい。 他の子たちは済ませたからと、蒼にだけ別の昼餉が用意された。 広い和室の一角に洋風なテーブルが置かれていた。「最近の現世の子はテーブルの方が楽みたいだから、揃えたんだ。正座とか慣れてないみたいだから。蒼もテーブルの方が楽? 畳の方が良ければ、座って膳でもいいよ」 食事する場所を選ぶなんて経験は、今までにない。 与えられた環境で、何より食えれば何でもよかった。「テーブルで、大丈夫です」 目の前に並んだ豪華な食事に、蒼は唖然とした。 天ぷらや刺身、煮つけなど、食べきれないほどの量だ。「とりあえず和食にしたけど、蒼は好物とかある? 栄養が偏らない程度になら、好きな食べ物を出すから、教えてね」 膳を前に呆然とする蒼を眺めて、紅が笑った。「理研からくる子たちは、大体みんな、最初はそういう反応するんだよね。量が多すぎるとかだったら減らすけど、蒼も育ち盛りだから、それくらいは食べられるよね」 膳を眺め、紅の話を聞いて、ひらめいた。(僕たちは餌だから、肥え太らせた方が美味いのか。魂とか霊元も食った方が育つのかな) 何となく納得して、箸を持ち、手を合わせた。「い、いただきます」「召し上がれ」 紅が蒼を眺めているのが居心地が悪いが、とりあえず天ぷらに箸を伸ばした。 箸で持って重いと感じるようなエビの天ぷらなんか、人生で初めて出会った。 天つゆに浸して、ぱくりと頬張る。 噛むたびにぷりぷりした触感が歯を押し返してきて、驚いた。 蒼の顔を
目が覚めたら、知らない天井が広がっていた。 ふかふかの敷布団の上で、温かすぎて汗をかきそうな羽毛布団がかかっている。(そっか、売られたんだっけ。その割に、やけに良い布団で寝ている) 和風の家屋の畳に敷かれた布団は、厚みがあり過ぎて体が沈む。 慣れない感覚に戸惑いながら、障子戸を開けた。 綺麗に晴れた空の下に、広い庭が広がる。 その中に、昨日の男がいた。(人間を喰っていた、僕を買った妖怪だ。|紅《くれない》、だっけ) 縁側に立つと、男が気付いてこちらを見た。「おはよう、|蒼《あお》。昨日は眠れた?」(蒼……、そういえば、僕の名前だ) 昨日、紅という妖怪がくれた名前。 名前というものを初めてもらった。(自分を喰う妖怪がくれた名前でも、嬉しいものなんだな) それが自分を、自分だけを表す言葉なんだと思ったら、ちょっとだけ嬉しかった。 縁側から庭に降りて、紅に歩み寄った。「立派なお布団、ありがとうございました」 ぺこりと頭を下げる。 その頭を紅の大きな手が撫でた。(大きな手だけど、優しい。温かいな。そういえば昨日も、触れた手は酷く優しかった) あまりの優しさに、かえって驚いてしまった。「お礼は要らないよ。ここはもう、蒼の家だ。好きに過ごしていいんだよ。必要なものは揃えるから、欲しいものがあったら教えてね」 よくわからない話をされて、理解に苦しむ。「あの、僕は、貴方の食料として売られたと聞いてるんですが」「うん、そうだよ」 あまりにも普通に返事をされて、自分の言葉を後悔した。「昨日も見ただろ。俺が|色《いろ》を喰うところ。あれが俺の食事。俺の妖力をちょっとずつ流し込みながら、しばらくは生気だけ吸うの。俺の妖力が体内に増えるとね、人間の方から俺と同化したくなるから、そうなったら喰うんだ」 紅が、シャボン玉を吹きながら説明してくれた。 あまりに普通に話されて、どう返事をしたらいいか、わからない。(けど、色って子は痛そうでも辛そうでも、無かったよな) むしろあの顔は、気持ち良さそうに見えた。 だったら、怖くはないのかもしれない。「そうなるまで、大体、一月くらい。だけど、蒼は、ちょっと違うかな」 紅の手が蒼の顎を撫でた。「俺はね、本当は人の魂より、霊力の方が好きなんだ。霊元を持つ人間は霊力を量産できるし、すぐに喰い
国立理化学研究所。 日本でも最先端の科学実験が行われている、世界にも通用する研究機関だ。 だが、その一部では秘密裏に、非合法な実験が行われている。 少子化対策室と銘打った研究室では、非合法に体をいじられた被験体が日々、産まれている。 生殖能に特化した人間を生み出す傍らで行われているのは、霊元移植や霊能開発だ。 つまりはオカルトな能力を持った人間を作り出そうとしている訳だ。 なんとも馬鹿らしい話だと思うが、実際に霊能を持った人間は生まれている。 その子供たちは|masterpiece《最高傑作》と呼ばれて特別扱いされている。 それ以外の子供は|blunder《失敗作》、|bug《ガラクタ》と分類される。 №28は最初、bugだった。 生殖能と共に霊能開発を進めているせいなのか、子供たちの霊能は性徴とともに変化する。第一次性徴で霊元が現れない子供は、ほとんどがblunderかbugだ。 霊元とは、霊力を生み出す人間の第二の魂のようなものらしい。 それがない時点で、理研にとってその子供はガラクタでしかない。 bugに分類された子供たちの末路は悲惨だ。 呪術の実験体、呪具の材料、|幽世《かくりよ》への売買。 名前どころか戸籍すらもらえない子供の命など、その辺の埃より軽いんだろう。 第二次性徴に合わせて、№28には再び実験が施された。 人工的に霊元を移植する実験だ。 一応、成功したらしい。だが、理研が期待したような成果ではなかったようだ。 霊元は根付いたが、霊力が多いだけで、使いこなせない。 何の術も使えない№28はblunderに分類された。 blunderなら名前と戸籍を貰えて、一般社会に出られる可能性がある。 少しは期待した。 だが、結局は幽世に売られた。『ウチの昔からの御得意様が、霊力の多い人間が欲しいらしい。お前は霊力が多いだけで何もできないんだから、お誂え向きだ。幽世で幸せにでもなるといい』 霊能開発室を奨めている所長の安倍千晴は、幽世との売買の中心人物でもある。 幽世に売られる人間は食料にされる。 そんなのは、理研の子供らにとって共通認識だった。(結局、喰われるのか) しかし、それでもいい気がした。 このまま理研にいても、殺される未来しかない。 足抜けを計った仲間は、ことごとく掴まってどこかに売ら
目の前に男が座っていた。 多分、男なんだろうと思う。只、人間ではない。 白い狐の面を顔の半分に被った男は、長い白髪で、白い着物を纏っていた。 男の後ろに少年が二人、座っている。 少年というには大人びた、かといって青年と呼べるほどの年齢でもなさそうに見えた。 男に抱き付く一人の少年を撫でながら、こっちに視線を向けた。 面のせいで正確な目線は解らないが、こっちを見ている気がする。「……名前は?」 短い問いかけに、首を捻った。 №28 理化学研究所では、そう呼ばれていた。 それ以外の呼称は、ない。「二十八、です」 仕方がないので、そう答えた。 男が小さく息を吐いた。「それは名ではないだろう。理研からくる子供らは皆、名を持たないね。君もか」 知っているなら、聞かないでほしい。 もう何度も理化学研究所から人間を買っている《《御得意様》》らしいから、ある程度の事情なら知っていそうだが。 男が顎を摩りながら、とっくりとこちらを眺める。 観察している感じだ。「こっちに、おいで」 手招きされて、前に出た。 人、一人分くらい空けて、前に立った。「もっと近くだよ。俺が触れられるくらい、近くにおいで」 更に手招きされて、移動に悩んだ。 男に抱き付いている少年が足を投げ出している。 そのせいで、これ以上、近づけない。「紅《くれない》様ぁ、色《いろ》、もう眠いよ」 首に腕を回して抱き付いていた少年が、ウトウトしながら目を擦る。 年の頃、十二、三歳といった程度の少年だ。この子も、只の人間の気配とは違って感じた。 よく見ると頭に大きな耳が付いている。尻には尻尾らしきものもある。(髪の毛かと思ってたけど、違った。あの子も妖怪かな。てっきり、先に買われた理研の子供かと思ってた) 後ろに控えている少年も、同じくらいの歳頃に見えるが、やはり同じように耳がある。「紅様と早く一つになりたい。紅様と同じになりたい。いつもみたいに温かいの、欲しい」 少年が、男の胸に顔を押し付ける。 紅と呼ばれた男が、困った顔をした。「色はもう、溶けてしまう時期だけど、いいの?」「ぅん、溶けたいの」 嬉しそうに頷く色という少年を、紅が眺める。 その表情が、どこか悲しく映った。「わかったよ。じゃぁ、沢山流し込んで、温かくしようか」 紅が面を外した
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